はてなキーワード: 情動とは
学問以外への業務拡張は、部活から始まったように思います。授業についてこられない生徒に活躍の場を、と言って中堅校以下でブラック部活的(スクール・ウォーズ的)に始まり、その有り様が全国化していったような。
1960年代に校内暴力が頻発したのは、様々な理由はあろうかと思いますが、一つの理由としては、戦争PTSDを抱えた養育者(が作った社会)によって育てられた次世代が愛着障害に近い状態になっていたのではないかと思っています。
ブラック部活は、愛着障害の治療の集団療法という側面があったのだろうと思います。愛着障害が存在している状態での授業は困難を極めます。授業を成立させ、生徒に学問を修めさせるために、教員は意図せず心理療法を施していたのだろうと思います。各種行事もそうですね。
そのあたりから、学校に福祉的機能が入ってきて、今は学校によっては福祉機能のほうが学問機能よりも大きくなっているかもしれません。障害を持つ生徒への合理的配慮、個別の支援計画、外部機関との連携。部活動。
教員は、授業を成立させるために、福祉的業務をやむなくやっていたのですが、文部科学省がこれを正式に業務にしてしまうのです。
ただし、それに対する予算措置もなければ、人員の補充もない。専門家集団を校内に組織することもない。外部機関との連携とか、非常勤カウンセラーやスクールソーシャルワーカーの配置はしますが、外部機関だったり非常勤なのでお客さんです。彼らは責任は取れません。
以下は、『身体はトラウマを記録する』という本の抜粋群なのですが、
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太古の昔から、人間は自分の中の非常に強く恐ろしい感情に対処するのに、集団で行なう儀式を用いてきた。古代ギリシアの演劇の内、文字による記憶が残っている最古の物は、踊り、歌、神話の再現を含む宗教的儀式から発達したと思われる。ギリシア演劇は、戦争帰還兵にとっては再統合の儀式だったのかもしれない。
演劇を通してトラウマを治療する。愛と憎しみ、攻撃と幸福、忠誠と裏切りは演劇の本質であると同時に、トラウマの本質でもある。トラウマを負った人は深く感じることを心底恐れている。一方、演劇は情動を身体化し、それに声を与え、リズミカルに場面に関わり、それを体現する。
学校からは、能力と集団の絆をはぐくむために、昔から大事に受け継がれてきた、音楽、演劇、美術、スポーツがどんどん姿を消している。
見捨てられる経験をすると、人を信頼できなくなります。そして、里子は見捨てられるというのがどういうことなのか身をもって知っています。彼らに信頼されるまでは、何一つ影響を与えることはできません。
筋肉を動かすこと、意識の集中が必要な作業をしたりすることは、喪失体験に対抗する大いなる助けである。
教師達は最初、「もしソーシャルワーカーになりたかったら、ソーシャルワークの学校に行っていたでしょう。でも私は、教師になるためにここに来たのです。」といった類いの反応を示すことが良くある。とはいえ彼らの多くは、頭の中で警報ベルがひっきりなしになっている生徒で教室が埋まっていたら教えようがないことを、すでに身にしみて知っている。どれほど熱心な教師や学校システムでさえも、子ども達のあまりに多くが深刻なトラウマを負っていて学習できないために、しばしば苛立ち、無力感を味わう。試験の得点を上げることだけを主眼としていても、教師達がそれらの生徒の行動面での問題に効果的に取り組めなければ、成果は上がらない。
規則を平然と無視する生徒は、アメリカの学校で広く行なわれているように、譴責しても、停学処分にしてさえも、考えを改める可能性は低い。
他者の言葉をしっかり聞き、自分の言葉もしっかり他者に聞いてもらう。他者に本当に目を向け、他者にも本当に目を向けてもらう。
教師が怒鳴ったりする代わりに、子どもが経験していることを言葉で表したり、選択肢を与えたり、自分の感情を説明する言葉を見つけさせ、思いを表現し始めさせたりするようにするべきだ。安全の経験を学ばせるのだ。
(しかし)学校はトラウマを誘発する更なるトリガーとなってしまいがちだ。
トラウマに敏感な教師なら、手に負えない生徒の親に電話をして状況を説明すれば、子どもが殴打され、さらに深いトラウマを負う可能性が高いことに、程なく気づく。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 べッセル・ヴァン・デア・コーク https://www.amazon.co.jp/dp/4314011408/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_mpGTEb5V1TPY4 @amazonJPさんから
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いわゆる教育困難校と呼ばれる学校はこうした子どもたちが非常に多いです。進学校であればこうした子どもは少ないかもしれません。少ないですが確かにいます。教員は守秘義務があるので、他の生徒に知られないようにこれに対応しています。個人情報なのでメディアにも明かされません。
日本の福祉政策の不備を、教員が無償労働で払っているように思えてなりません。でも、そうした子どもを学校が福祉的にケアすることを国民は望みます。学校の教育機関としてのリソースがそちらに持っていかれてしまっているように思います。まあ、そういうことを言うと、福祉的ケアを導入した教育の方が教育効果が高いと言われて、口を封じられるのですが。十分なリソースがあれば効果は高いでしょう。しかし、リソース不足でこれをやれと言われれば機能不全に陥りますね。実際、陥っているように思われます。
指摘されている問題は、製品をリリースしている対象(この場合はバンダイスピリッツ)に向けるべきか、
もしくは、模型のレビューを性的な事を主眼に行っているブログに向けるべきでしょう。
筆者のブログは、模型のモデル(キャラクター)が高校生である事を必然としていませんし、可笑しく書くために情動的に書いてはいますが、その論点は「高校生の表象が性的に扱われること」ではありません。
しかも、ブ米に書いたように筆者は「ここで、「破廉恥だ!」「変態だ!」なんて感想を述べた瞬間に、そういう考え方をする機会は失われてしまう。」と、論点が異なる事を明言し、それと同類になり論ずる機会を失われる事を望んでいません。
しかし、読み手がどう受け取るかは自由と(私は)考えますので「主張されてる事は理解しますし」と私は書きました。
「退場して下さい」そして「一部、同意します」と同意は一部に限ったのは、著者のブログのブ米に書くべきではないからです。
トラックバックで貴方のブログで批判するのであれば、私は「退場して下さい」というブ米は書きません。
筆者個人のブログのソーシャルブックマークで、かつ筆者が望んでない議論、批判を書いたので、この場からは立ち去ってくださいと書いたのです。
ソーシャルブックマークのコメントも個人の場とする考え方もあるかと思いますが、
個人ブログのブ米で書いたことは、個人の家前の道路で叫んでいる事と同じと。
著者の他のエントリを見て頂ければ分りますが、造形に関してとても深い観察を考察を行われています。
今回のエントリも写真を見れば分りますが、明確に下着を撮影しているのは(いわゆるパンツを撮影している物ですね)2点で、
どちらも性的に撮影しているのではなく、そのつなぎの部分の自然らしさを注視しています。
性的に撮影するのであれば、フィギュアのレビューサイトなどの様に、顔が見える全体像や、下着をあおる様なローアングルの拙者になるでしょう。
著者の個人ブログである点(exciteの公式ブログは編集部の選定であって本人の申請では無い)
著者が高校生を性的に扱うのが目的でなく、模型の発展のアプローチを論じている点
なので、私はブ米で
本文読めばわかるが、トランスルーセントが主題になっている模型で、肌の質感や眼球の光彩を物理的に構成するだけではなく、衣服の下着をデザインするというのが論点。変態性を論じる貴方は退場して下さい。
まぁ、ブ米を書くお気持ちも分りますが、それによって(ブ米に書く事によって)不必要な論点が外れた批判で埋もれるのも問題だと思うんですよね。
※補足ですが、高校生の下着を記事の対象に挙げている時点で、のような事を言い始めてしまいますと、子供をモチーフとしたデッサンも、骨格、そして肉付け(いわゆる裸ですね)を主題とします。チャイルドポルノの問題があるので論ずるのは慎重に行うべきですが、主題に上げる事をNGにしてしまうと、多くの物が失われてしまいます。
なにか自分に都合が悪いこと、直面するのがとても恐ろしいことが起こった時。私たちはそれに対峙するか、逃げるという選択肢を採ることができる。
たとえば自分が不祥事の当事者になった時に、周囲からの追及を逃れようとして、雲隠れしてしまうことも逃避の一種だ。
だが、どこにも逃げ場がなくなった時にはどうすればよいか。
自分自身を消せばいい。
自分自身の力で世界を変えることができないのなら、怖れの苦しみを逃れる手っ取り早い方法は、それを感じる意識を消すことだ。
どこにも逃げ場がなくなって、服毒自殺を図ったり、睡眠薬等のオーバードーズを起こすということは、自分自身の情動をやりくりするための戦略だ。それは魔術じみた子供だましに周囲からは見えるかもしれないが、本人にしてみれば、立派な戦略なのだ。
そんなことを言ってた哲学者がいなかったけか。サルトルだったと思うんだが。
La multiplicité des conduites émotionnelles
Suivant les formes prises par l'émotion, la transformation revêt des formes différentes : l’anéantissement des objets (et parfois de la conscience) pour la peur, l’uniformisation de la structure du monde pour la tristesse passive. Le moteur de l’évasion est l’impossibilité de confronter un objet dans le premier cas ou d’adapter les moyens face à la disparition d’une des conditions de l’action dans le second.
情動が採る形態によって、変容は異なる形態をおびる。怖れにたいして、対象の無化(時には意識の無化である)、受動的な悲観にたいして、世界の構造の画一化といったように。逃避を動機づけているのは、まず、対象に対峙できないこと。さらには、行動するための条件が無くなってしまった状況に適応する術を失ってしまうこと。
http://www.cnam.fr/servlet/com.univ.collaboratif.utils.LectureFichiergw?ID_FICHIER=1295877018192
マクロな考え、社会全体、経済的にはそれが正しいよね。経済を豊かにするのは人なんだから人数で押すのは正攻法だと思うよ。
ただ、経済的に豊かであれば、幸せであるとは言えないと思うんだよね。それは幸せの形が人それぞれによって違うし、自分が幸せであると認識するのは自分であり社会でないからだと思うんだ。(自分が「お前は幸せだ!」なんて言われたらカチンとくるよ)
難しい言い方が好みなのであれば、こっちの方が伝わるかもだけど、社会と個人の関係は「社会がXXだ」と与えるような情動主義ではなく、「個人がXXだ」と受け取る認知主義であるべきと考えてるんだ。更に言えば、自分はペシミストや悲観主義者、反出生主義者というわけでもないから、自殺や他殺、中絶をしてほしいとも思ってないんだ。
正確には軽度のアスペにADHDが混入しており、いわば心のなかで「自閉の弟を多動の兄が連れ回している」状態。
診断受けたときにやった知能テストでは、アスペが強いとされる部分は天才的に凄いと言われた反面、弱い部分は境界知能クラスと言われた。
今までの人生を振り返ると、結局の所、自分の一番弱い部分が事あるごとに足を引っ張ってきたと言っていい。
だから、「長所を伸ばすことが生存戦略として適っている」という、よくある言説は一切信用していない。
むしろ弱い部分を底上げするほうが確実にQOLは上がるだろうと思っている。まあ言うは易く…ってやつなんだが。
あと、障害特性が「軽度」で「混ざっている」というコウモリ野郎なため、普通の人からのみならずガチアスペっぽい人からもADHDっぽい人からも「変人キャラ」扱いされるのが地味に辛い。
さて、長い前置きはこれくらいにして、今まで使っていなかったストラテラを使うことになった。
薬については自分の場合、二次障害に対処するリスパダールとかリボトリールとかは使ったことあるけど、障害の根本部分にコミットする薬は使ってこなかった。
今まで比較的自分に向いていた部署にいたのが、配置転換により、全く向いていないどころか事故多発→クビ路線が確実視される現場に行くことになったから。
正社員につきものの話なのか、はたまた会社が自分を追い出したいからなのかは知らないが。
それで、とにかくなりふりかまっていられない。薬でもなんでも、合法的に使えるものは何でも試してやれと決心。
とはいえアスペに効く薬はないから諦めるとして、せめてADHDの特性だけでも軽減させないと…ということで主治医に相談したところ
「増田さんにどこまで効くかはわからないけど、最小量の25mgから試してみようか」
ということになった。
これが10日くらい前。
その効果だけど、「おお!こういう効き方するのか」と結構納得できる手応えだった。
初日から、仕掛中のタスクもさっくり切り上げて他のタスクに切り替われるようになり、更に集中と俯瞰の切り替えがベストタイミングで発動する感覚を味わった。
翌日には、相手の話を最後まで聞いて話すのがデフォルトになった。
翌々日には、話す前に一呼吸置いて話すようになった。
一週間後には、怒りも悲しみも不安も全て「冷静さを失わず」感じられるようになり、逆に今まで自分の心がいかにざわついていたかを実感した。
そしてここが重要なのだが、薬が効いているときに経験した言動は知らず知らずのうちに脳に記憶されるようで、効き目が切れ始めても、前述の記憶で言動が自然矯正されるのだ。
即ち一度薬を摂取したが最後、摂る前の自分には二度と戻れなくなると。
しかもたった25mgで、前頭葉にしか作用しない、精神系のお薬としては「見劣りする切れ味」と言われているものでも、この効果である。
こりゃ、麻薬や覚醒剤を売るなんて人殺しと一緒だよなと、心の底から思わされた。
というわけで、本格的に新しい部署に赴任するのは来年度で、今は移行期間なのだが、今の所大事故は起きていない。
それでもつまらないミスや必要以上にビビるケースは無くなっていないので、薬の増量を試すのもありかと思っている。
ただそれで治るのは多動のみであり、自身の問題のもうひとつの根幹である、自閉の部分は未だ手つかずである。
よって、話を端的にまとめるとか、相手に合わせて話す内容やアプローチを変えるとか、そういう他者への強い興味とそれに伴う情動がなければ身につかない部分は、多分今後も生きる上の厄介事でありつづけるだろう。
てかMDMAみたいな、情動を喚起する系の薬が早く実用化されて欲しいんだよね。
そんな感じ。
気持ちばかりが急いて指や表現が追いつかないような感じになる。
逆に一つの気持ちを表現しようとして言葉を何度も考えているうちにもともと何を描きたかったのか忘れてしまうことがある。
ものを書いていると、何かを書いた気になってあとで何も書けていなかったり、何かを書いた気でいる自己陶酔が透けて見えてとても嫌になったりする。
物書きという職業は本当にすごいと思う。過不足ない表現で、読むときは滑らかに流れるように読めて、それでいて心の中に色々な情景や情動を残していく。
素敵な本に出会うたびに、自分に才能があれば、物書きになりたいなと思う。
その人に触発されて広がっただけなのにそれを自分にもこんな綺麗な世界が描けるんだと勘違いしてしまう。
何か思いついたり、感じたりした時にこの感情を言葉にして表現したい。それで自分が感じているこの素晴らしさとか、楽しさ、嬉しさ、辛さ、悲しさ、些細な違和感が少しでも人に受け入れてもらえたらきっとそんな幸せなことはないんだろうなと思う。
まあそんなんだからきっと物書きとしての才能はないんだろうな。誰かに受け入れてもらいたいって文章なんてそもそもたかが知れている。受け入れてもらいたくて書いた文章じゃなくてもそんなことでいちいち心が揺れるようだったら、すぐに浮世に魅せられて続かないだろう。
こういう自分の気質からくるようなものって根本的な解決はないから、自分で固定のルールを持って少しでも自分が良い状態でいれるように文明人的に決め事を守るしかないんだよな。。
まあでもそういう生来持っているよわさから文学とかがまた生まれたりもするわけで、そういうのも嫌いじゃないけど、破滅でものかけるほど肝据わってないから、小心者なりにやるしかない。
破滅で自己陶酔に浸ってられたら天才か救いのないやばいやつかどっちかだしどっちにしてもそんなの短命だ。短命ゆえの美しさはこの人生では諦めよう。
長生きしよう。
サポートがひどいのは同意だけど、半笑い、夜中の電話、というあたりで統合失調、過大な被害妄想の可能性ってないのかな。
そんな病気でも増田文学にエントリできる長文は投稿できるよ(自分の体験)
書いてあることが事実なら、担当者が絶対に謝れない糞ってことになるけど、
引っ越しとか考えずに一つのサービスに固執しつつ書き連ねる愚痴をみると...なんか嘘松って嫌いだったけど
こんな文脈で自分もそういう指摘をわざわざ言わざるを得ない情動に、なんか微妙な気持ちになってる。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/qiita.com/unico/items/76499d1e20042d929aa1
俺たちの脳みそだって山のような情報を抱えているが、それを検索しただけではダメで、総括できる「人格」がないと何の役にもたたない。
その「数万」のコンピュータを連携接続したくらいハイパーな能力がある「大脳」をもちながら、猿同然の判断・行動しかできない人間なんて山ほどいるだろ。いくら大脳を拡張しても、それが我々を画期的に賢くしてくれるわけではない。
ただし、大脳皮質のせいで猿と人間が「文化」という異なるコミュニケーションレベルと手段を生み出したように、あらたな外在の脳は、これまでとは全くことなる人間の在り方、行動やその規範を生み出していく可能性はあるだろな。それが「すごくいい」ものになるかどうかは、猿に較べた人間様の世界を「すごくいい」と感じるか否かによる。
「いやいや、その『人格』もひっくるめてダウンロードして利用できるんすよ!」って言われたとしたら、眉に唾つけて聞かなきゃいけない。だってさ、それって「俺らの人格を上書きする」ってことだぜ? どこかの誰か様の「賢い」人格によって! それはもう「俺」じゃないだろ。 俺は、俺の中に俺という「猿」がいることをもちろん俺は認識してるが、それは一種の「情動」みたいなもんであって「猿としての俺(という自我)」ではないね。今居る「俺」は「新俺」にとって、それ以下の存在になるんだろう。何せ「外からインストールされ、上書きしちゃう」わけだからね。もちろん、そういう手術を赤ん坊のうちにしちゃえば文句は出ないだろうさ。だけど、原理的に誰も文句が言えないってこととしていいってこととはまた別のことだろ? たとえば、生まれながらにハイル・総統ってやるように脳手術受けることを義務化すれば、世界は統一されて平和になるんじゃね?って提案されても、そんなんOKされるわけねえだろ。
世間的に人生のモチベーションとなるとされてることが全然モチベーションにならねえ
目の前にニンジンを吊るされた馬が食おうと頑張って走る、って言うじゃん 俺はニンジンがたいして好きじゃない馬ですよ
いくらバカにされてもダメージが入らないの 説教されても心が動かんし 例えば切手収集が趣味の人に集めた切手の数でマウント取られても別にどうでもいいじゃん へー以上の情動はない そんな感じ
地位も名誉も愛も見た目も金も学歴も教養もファッションもどうでもいい 何も得られなくていい ただ寝てたい
さっきパック98円のエリンギを素焼きにして塩かけて食ったらまあうまかった そういうことだけやって生きていきてえよ 正確に言うと、基本的には生きていきたくねえが強いて言うならそういうことだけやって生きたい
小学生の頃に不登校になって以来、ずっとひきこもりだから同級生と猥談した経験なんてない。だから「ヘルス」と「ピンサロ」と「ソープ」の違いがわからなくて、必死になってググった。
数少ない性知識から、「ソープって、FC2動画で見た『泡姫天使 高井桃』のやつだよな……」とあたりをつけ、長時間のプレイを懸念して排除。だって疲れそうじゃん。
残るはヘルスとピンサロ。デリヘル? 実家暮らしだから無理無理。ホテルを利用するつもりもない(けど、ラブホには一度入ってみたいかな……)。
電車を降りるまでは平気だったけど、入店する頃には身体中がガチガチ。割引料金を適用する合言葉すら忘れて、お相手選びへ。
「あー、指名のための顔見せがあるのね」と思うじゃん。違うの。
出勤している女性たちが、変わりばんこに僕の足を跨いで、膝の上に座ってくれるの。
そんなこと言われても、異性への接触はセクハラだと教えられて育ち、看護師のボディタッチ一つでときめいてしまう自分には何もできません……。
そしたら「こういうお店、初めてですか?」と跨ってきた女性が指南してくれるの。
お相手は自称大学生。実際のところ、化粧のノリの悪い20代OLって感じ。普通に美人。
吐息の当たる距離だし、恥ずかしいから抱きしめて視線を逸らしたら、「恥ずかしいよね」と抱きしめ返してくれる。「これが有償の愛ってやつなのか」と感動したよね。諸君、金で感動は買えます。
いかにもって感じの看板娘がいてさ、ドラマ「キッズウォー」で主演を務めた「井上真央」みたいな風貌なの。しかも一人は巨乳で、もう一人は巨尻(女の子の傾向を通して、店長の年齢が透けて見えるよね)。
正直びっくりした。なんで風俗で働いているの?アイドル目指さない?
場末のピンサロでこのレベルなら、飛田新地とかどうなってるの?AKBより容姿では上回っていたりすんの?デレステの声優より可愛かったりすんの?
熟考したうえで指名したのは、看板娘ではなく、一番愛想の良かったひと。ニコニコしながら、がんがん腰を押し付けてくるし、胸を押し付けてくる。もうこれ満員電車の比じゃないよ。ところてんの天突きだよ。
その後間仕切りされた小スペースにセガールみたいな仏教ズラで寝そべっていたら、お嬢の登場よ。
服を脱げってさ。
上も?下もですか?あ、ぱんつまで?僕がですか。洗う?ちんちんを?入院した時にされた陰部洗浄じゃないですか……勃起したら尿管に入っているカテーテルが動いて痛かったなぁ。
触ってもいいと言われて胸を揉んでも、なんの情動も湧いてこない。
「チェンソーマン 」のデンジ君がパワーの胸を揉んだ時も、きっとこんな感じだったんだろう。
dmmで買ったピジャ先生の新作を読みながら、自分磨きに勤しむ方が興奮したよね。ナイスバディのガングロギャルのやつ。
かたや面前にあるのは、風呂上りのお袋が見せ付けているシロモノよりも一回り小ぶりなおっぱい(推定20代柔肌ぷるるん)。乳首にいたっては、小型犬のほうが大きいよ……。なんか現実って辛くない?
全然勃起しない僕に、「お金払って、疲れて、辛いよね?」と心配してくれるのは嬉しかったけど……。
男として生まれてきたことへの疑問と、それと同時に、愛に飢えていたのは勘違いなんだ、という気づき。
ただの無い物ねだりに過ぎなくて、おもちゃを買ってもらった次の瞬間には興味を失っている子供のようだった。
「ところで吸っていいの」
「いいですよ」
「え、よかったの?」
おっぱい吸ったよね。キスもした。おふくろと弟以外とした、初めてのキス。ファーストキスなのか?
ということで、してもらった。
AVのフェラじゃ「Real Street Angels わかば」が大好きで、いまでも時々見返す。この時ばかりは期待で胸が弾んだ。だがしかし、これが全然気持ちよくないの。
腰がぬける感覚がない。イラマチオをしたくなる感情の昂りもない。むしろ裏筋が痛い。なにこれ。
結局本番35分コースでは達せず……。30分追加して、キスしながら、おっぱいすいながら、お喋りしながら、フェラしてもらいながら胸を揉んだりと、ノルマを消化するような試行錯誤が続く。隣席の女性があんあん喘ぎ出したおかげで興奮して、最終的には達せたんだけど、帰宅後は白昼夢でも見たかのような感覚に襲われた。
賢者タイム?そんなものはなかった。あったのは虚無感と、喪失感、女性を弄んだことに対する懺悔、そしてこんな体験に26000円(14000+9000+指名料2000+コスプレ1000)も払うのか、という後悔の念。
やったことのない事柄に対して、過剰な価値を見出す。ひきこもりにとっては、あるあるな失敗だった。
https://bunshun.jp/articles/-/15590
こういうニュースを見て思うのは、規制を求める側がそれを必要としてる人間に対してどういう「解決」を想像してるかっていうことなんだよね。
おそらくは、「適切な社会活動によって他者と適切な信頼関係を築き、同意の上で性行為を行う」というのが正当な理想的ケースであると考えているのでは、と想像するんだけど(あくまで想像なので、「違うよ!」って思う人は「違うよ!」って言ってほしい)、世の中にはルックスだったりコミュニケーションだったりあるいは身体的・精神的障害及び疾患などの問題で、どうしても他者とその理想的な関係を結ぶことが難しい人というのもいるわけじゃない?
そういう人に対してどういう「解決」というのを想像してるのかなっていうのが、いつも気になるんだよね。
もちろん他人と良好な性的関係を結べるなら、それはいいことだとは思うけど、「そうではない」「そこから漏れてしまう」人間について、その性欲や人恋しさをどうした方法で解決することを望んでるんだろう?
もしそれを、「普通の人間」のラインに達するまで努力しろとか、それができないなら我慢しろ、っていうふうに思っているなら、それはなんていうかものすごくむごい発想なんじゃないかって思ってる。
それっていうのも、10代のときの自分がわりとそういう考え方だった。「他人と良好な性的関係を結べる」状態にない人間が、性的なことに興味持ったり、エロ漫画やエロメディアで、「自分勝手な欲望」を満たすことが気持ち悪い、そういうふうに思ってたのよ。
自分は女性なんだけど、10代の頃はセックスがあまり好きではなかったし、「求められる」からやる、「求められる」ことは嬉しい、みたいな感じで、セックスというのが「他人から求められるだけの価値がある人間の特権」みたいに思ってた節があった。だから、オタクの人とかがエロ漫画とかエロゲーとかに興奮してるのを、「他人から求められてもいないくせに、物言わぬ相手に性欲求めて気持ち悪い」そういうふうに軽蔑してたんだと思う。
年齢や経験を重ねて、自分の中で「性欲の自我」みたいなものが芽生えてきて、それはかなりガラッと変わった。今では当時の幼稚な…というより他者に対する排他的かつ支配的な考え方をとても恥じてるよ。
男性だろうが女性だろうが、性欲のある人間にとっては、自分が性的対象としてるものへの客体的魅力というのはあって当然だし、それを何らかの媒体によって消費することは、たぶん無意識のうちにみんなやってると思うんだよね。その表現が「性」や「セックス」に結びつきやすいかどうかでわかりにくかったりするだけで。
あとやっぱ女性も男性も、セックスする気になれる・なれないラインって個人の中でどうしてもあるだろうな…って思う。もっと言えば、セックスしたい・別にしなくていいラインも。それが、それぞれの人ごとにバラバラなら平和だけど、やっぱり偏りがある。「セックスしたい」は結構割れるところあるけど、「セックスする気になれない」は、わりと似たようなところに固まる印象がある。
「理想的な性的関係の結び方」というのが、双方の同意と感情によるものな以上、どうしたって他人と性的関係に至ることが難しい人というのがいて、そういう人がお金という方法でラブドールなどの平和的な解決が図れるなら、それはそれでいいことだし、他人から批判されるようなものではないと今は思うんだよね。
他人の性生活や性のあり方に口を出すことは、非倫理的で不躾なことだと認識している人の中にでさえ、エロ娯楽に厳しい人もいるので、なぜなのだ…という感じはするけど。
自分は料理があんまり得意じゃなくて、美味しいものを食べたいときは奮発して外食するんだけど、もしそれを「料理のできない人間には美味い食事を食べる資格はない!自分で作れるだけの身の丈にあった飯だけ食ってろ!」って言われたら、そんなの味気なくて死んじゃいそう。お金を出して合法的に美味しいご飯を食べられる、そういう市場が社会に育ってることをとてもありがたいと思うよ。
まぁ、もちろん「女のくせに」「社会人にもなって」料理ができないとか、怠けているんじゃないか?何か問題があるんじゃないか?人として欠陥品では?みたいなことを言ってくる人は、まあまあそこそこいて、「ハイハイさよですね〜うるせー死ね」って思ってる。
>「リアルドールは女性の身体を男性の性欲・支配欲解消の手段として消費する性搾取文化」と批判。
ってあるけど、性欲だの支配欲だのの「人の業としてどうしても持ってしまうが、無差別に行使すると大変なもの」を、シリコンの塊で解消できるなら、よっぽど平和じゃない? 性欲も支配欲も持ってて自然な情動だし、それを「道徳的でない」として持たないことを強制するよりも、どう平和的に処理・解決するかのほうが現実的だし抑圧を生まないと思う。
女性の立場からすると、ラブドールという「女性の形をした人形」が性のために製造され、意志もなく性的な玩具にされている、というのが、「女性を性的客体として貶めてる」と嫌悪感を持っても仕方がないだろうな…とはなんとなく想像する。ただ、女性の性が人形や漫画などアンリアルな形態で客体的に消費されることと、現実の女性が貶められるような価値観が社会で醸成されることに、本当に相関があるのか?というのは個人的にとても疑問に感じている。
住宅や経済的な事情、あるいはアレルギーなどで猫を飼えない人間が、だけど猫が好きだからと本物そっくりの猫のぬいぐるみを買って家で撫でていたところで、おそらく批判はされない。ペットという生育に責任もお金も必要な存在を、ぬいぐるみという安価な手段によって「かわいい」だけを抽出して一方的に楽しんでいても、たぶん誰からも怒られない。猫にもそれぞれ思考と感情があり、生命を持った生き物なのになあ。
別に猫の尊厳を問いたいわけではないが、猫のぬいぐるみによって生きている猫の尊厳は毀損されるのか、ということを考えるとラブドールについても、もっと考える余地があるのではないかと思う。
もし、現実で「女である」ということを理由に誰かが傷つけられるようなことがあれば、それは許されるものではないし声を上げるべきだと思うよ。
その上で本当に健全な、近代的な社会というのは、女性あるいは男性の客体としての性的魅力が肯定され、「他人と良好な性的関係を結べない」人間にもその性欲を慰め満たす媒体を持ちつつも、現実の女性あるいは男性が性による差別や被害を受けない社会、他者に対する人権意識が娯楽メディア程度では曲がらない強靭な精神を育てる社会なのではないかな、と思う。もちろん、その理想が遠いというのはわかるんだけど、「究極的な理想」はそこなんじゃないかと思うんだよね。