はてなキーワード: 差し支えとは
選ぶということは差をつけて別けることなので本質的には差別である。
問題視される差別は社会的、公的な差別であって個人単位での差別をことさらにあげつらうべきではない。
人と交際するのってそういう風にスクリーニングして決まるものではなくて遍歴を後から眺めたときに背の高い人が好きなんだなあと気づくものではないか。
など言いたいことはいくつかあるが、せっかくなので何を差別と感じて何を差別を感じないか、あるいは許容される差別であるか。を考えていきたい。
結論から言うと、その属性そのものを見ているか、に尽きると思う。
単純に見た目の好みとして「背が高い人」を好む何者かに対して悪い意味での差別性を私は感じない。
しかし「背が高い人が良い」の理由として「身長が低い人は性格もひねくれているから」と言われたら、差別的だな、と思う。
同様に「背が高い人は知能も高いから」も十分に差別的だと私は感じる。
まとめると、「背が高い・低い」ということを「背が高い・低い」という事象そのもので受け取らず、知能や性格に関連付けてしまうような論理の飛躍、偏見に対して差別を感じるのだ。
これは相関関係のあるなしは問題ではない。仮に身長と知能、性格に相関関係があったとして、目の前の人物がどうであるかには一切関係がないからだ。
男性のほうが、黒人のほうが犯罪率が高いとしても、目の前の黒人男性が犯罪者かどうかはその人自身を見なければわからない。
そもそもある集団の犯罪率が他の集団より高かったとしてもその集団内での犯罪者の割合は些少なんだけどまあそれは別の話。
出自が人物に影響を与えることは当然あるだろう。しかし判断は結果としての現在の人物を見れば良いだけのことである。
出自を問うことに意味はないし、書類の出身地を書き換えたからと言って能力や性格が変わるわけではない。
つまり、出自を元に人物を判断するということは、出自に結びついた何らかの論理の飛躍や偏見が必ず存在することになる。
当人の言を聞くまでもなく、差別的であると判断することができる。
最後に微妙なラインについて考える。「運動部出身の人はなんか怖いから苦手」これは差別だろうか。
部活動の種類と危険度には何の関係もないので、運動部出身を恐れる客観的な理由はない。ではこれは偏見から来る差別なのか。
これについては、差別的には感じるが問題のないレベルだと私は思う。何が違うかと言うと、判断の責を誰が負っているのか、である。
ここで言われているのは「なんか怖い」という主観である。運動部出身の人が悪いわけではなく、「なんか怖い」と思ってしまう自分に責がある。とはいえどう繕おうが「なんか怖い」ものは仕方がないのだ。
なので個人レベルでは問題ないと判断する。行政や企業にそういう情緒で動かれたら批判せざるを得ないが。
ちなみに「運動部出身は粗暴だから苦手」という主張だったらどうだろう。「粗暴」という相手の責になっている。
これは容易に「粗暴な人間を生み出す運動部を廃止しよう」という社会的な流れへのモチベーションになる。ここまでくれば直球の差別と言っても差し支えないだろう。
特に着地点も決めないままダラダラと書いたが、とりあえず2つの考えに達した。
偏見、論理の飛躍から来る特定の属性への決めつけ、及びそれを元にした判断、について差別的だと私は感じる。
元増田です。うまく言葉がまとまらず時間がたってしまい申し訳ありません。増田さんのねこさんにお悔やみを申し上げます。もうご覧になられてないかもしれませんが、いま思うところを書き残したいと思います。
拾ったねこなので誕生日とかもわからないのだけど、ボロボロのこねこを9月に拾った時に多分生後3ヶ月くらいだった。ということで毎年6月をお誕生月にしているのでこないだ22歳になったばかりなのですが、ねこの要介護状態の段階が上がるにつれ、彼女と向き合う時間、彼女を気にかける時間も増し、我々が過ごす時間の密度がいやがおうにも高まっていることを感じています。これはもう逆ウラシマ効果と言っても差し支えないですし、そもそもねこは一年間でひとの4歳分の年をとるとされているので3ヶ月過ぎた9月はもはやお誕生月と言っても過言ではないでしょう。
最近はほぼ一日中タオルを敷いた箱の中で横になられていて、もはや一人で立ち上がることもままならないご様子ですが、あふれる食欲は相変わらずで食事の勢いに体がついて行かずひっくり返ることが多くなってきました。そこで前回ご紹介したリラクッションをとうとう購入してしまいました。おかげで安定した体勢を維持したままもりもりとお食事ができることは増田としてもとても喜ばしい限りですが、その勢いも日に日に薄れているように見えること、そして一時期は部屋中に敷き詰めていたペットシーツが、今はねこ箱とお食事場の周辺にしか必要でなくなったことに心細さを感じたりもしています。
先日「ポッケの旅支度」という漫画を読み、まさに現在進行系で老猫との日々を過ごす増田も大変感銘を受けたのですが、作者の方が「読者の方から飼い猫を看取る覚悟ができました。と感想をいただくのですが、絶対悲しいし覚悟の意味がわからない」といったことをコメントされているのを聴き、じゃあ増田にとっての覚悟とは何であるのかぐるぐる考えています。
特に答えがでる話ではないのですが、結局のところ「いまできていることが増田ができる最善のことである」ことを認めること。つまり自分ができること以上のことは決してできないことを認めることが増田にとって必要な覚悟であり、彼女が20歳を過ぎて徐々に衰えて行く過程でなんとか固めようとしてきた覚悟なのだと、なんとなく理解できたように思います。22年前にこねこを拾った当時は目やにでぐちゃぐちゃのこねこに見捨てたらお前を呪い殺すぞと脅された……としか感じなかったのですが、ほんとうは彼女は増田に共に時を過ごす権利を与え、増田はその対価として増田が出来得る限り良好な生活の場を提供する。といった契約がなされていた気がします。そして増田はその契約を覚悟を持って履行していくのです。
前回のご報告(https://anond.hatelabo.jp/20220816152832)に寄せていただいたブックマークコメントで、大島弓子さんに触れられていた方がいらっしゃいました。増田はグーグーのお話の中で回想されている大島さんとサバとの距離感がとても好きで、ヒトの姿をとったサバのそっけなさも大好きなのですが、それも特別な契約で結ばれてるからこそなのだと思うのです。須藤真澄さんとゆづの間の愛は眩しいけど、契約の強さなら増田のうちも負けないかも。と言えるようになれればよいなと思っています。こちらからは以上です。
p.s. イシデ電さんについては「私という猫」という漫画が大好きなのですが、なかなかにえぐられるので何度も読めていません。でも斎藤惇夫氏が児童文学の枠を外したらこんな雰囲気になるんじゃないかとかちょっと思ったりしています。
突然ですが、タイトルの通りです。
ただいま、職場のお局(37)から私は(32)露骨なパワハラ・モラハラを受けています。
◾️経緯
私が入社したばかりの時に、社内のチャットツールで、お局の部署の人間にDM。
社内規定でDMは禁止されているが、リモート勤務でありシステムに関する内容のため、(遅れたが私はエンジニアである)話が込み入るためDM。
これに関しては、禁止されているため私が悪い。
その後、お局より別の公開チャンネルでお叱りの連絡。
よせば良いのですが、あまりにもケンカ腰のチャットだったため私も強めに反論。
それから出社時に「私、そういうことしたやつを絶対に許さない」などの発言を大声で職場で吐くなど、露骨に私に対しての威圧を開始。
その後、謝罪を重ねるも(5回は謝ったかな?)、お局の態度は変わらず。(元々の原因は私なので、本当に反省している)
◾️されたこと
・社内スポーツの開催時(強制ではない)に、先輩が私を誘う時に露骨に嫌な顔をして参加させない。
・お局が私に仕事を依頼して来たことがあるが、その時も威圧的な態度だった
・お局が連れてきた新入社のパート(お局の友人)が私に対して挨拶しない。(入社したばかりの人がです。他の人へは初めましてのご挨拶済みです)
・私の席の近くで2人で会話。
イヤホンをしていて会話の内容は聞いていないが、上記の経緯もあり威圧的な印象を受ける。(まぁ、何かしら悪口やら吹き込んでいるのだろうな)
録音を図るもの、ヒソヒソ話しているため録音は失敗。
ヒソヒソ話している時点で、非常に陰湿なやり方をしていることがよくわかる。多分、若い頃から敵と認識した人に同じことをしてきたのだろうなと推察。
◾️証拠
今のところ、パンを配られなかった事実はカメラで撮影し、上述した私がされたことの日付などは記録しています。
◾️考察
つらつらと書いてみて、些細なことだし元々は私が悪いし、私が基本リモート勤務であまり関わらないから、ということでこれまでスルーして来ました。
ですが、お局が友人を連れて来て数の暴力に走ったことで私は決意しました。
仕事にも差し支えるし、謝罪を重ねているにもかかわらずパワハラ・モラハラを続けており、出社時に仕事に集中できません。
話はそれますが、お局の強めの対応や性格の悪さは職場でもたまに問題提起されております。
ですが、改善の傾向は見られていません。
◾️今後の予定
私は基本リモートで、そのお局に会うのも出社時の週1なのでスルーするつもりでした。ですが、これまでの経緯やお局が数の暴力に走ったこと、これからも同様のことが続くことを考えた際に相談を決意。
今後は淡々と証拠を積み重ね、会社の対応如何では環境配慮義務違反で会社に賠償請求や、そのお局にパワハラ・モラハラに対する訴訟を提起するつもりでいます。
私はどうせこの会社に長くいるつもりはないので、
やれるところまでやるつもりです。
でも、できればこんなことはしたくないのです。
俺は在日朝鮮人(戦前移民)だが戦前移民もしくはカムバック組の集団である総連系在日と統一教会はマジで無関係です
普通の日本人と抱いている感想は全く同じと考えて差し支えないです
民団系在日のことは知らんがそもそもがクソ少ないし在日と言えばこっちなので基本的に完全無関係でいいんじゃないすかね
そもそも朝鮮民主主義人民共和国も大韓民国もないころにこっちに来てますしそれらの国と我々は本質的な結びつきはないです
最近の在日朝鮮人は日本にいる移民集団としての自覚が強く帰化人も多いくらいですしそれらの国の話を我々に絡めるのはやめてほしいというのが正直なところです
特に40代以下の若い在日朝鮮人はすでに混血化も日本人化も進み若手にとって移民コミュニティは全く機能していないので集約化された意見もなんてありません
絵文字抜いてみた
【友人】
増田久しぶり!!元気??
【自分】
久しぶり〜!どうしたの?
【友人】
本当に久しぶりだ
電話じゃなくてごめんよ
結婚することになったので報告をと思って
【自分】
LINE来た時結婚かなってちょっと思ってた!!おめでとう!! 報告してくれてありがとう
【友人】
ありがとう!!
【自分】
5分後くらいからでよければ!
【友人】
【自分】
いいよ〜!
【友人】
〈不在着信〉
ごめん!気づくのが少し遅れてしまった
【自分】
私も5分とか言って遅れたしごめんね!今大丈夫です
【友人】
ありがと!
〈不在着信〉
掛けたんだけど繋がらない?
【自分】
【友人】
【自分】
どっちでも大丈夫です!
【友人】
〈不在着信〉
【自分】
あれ〜〜?! なぜ.....
【友人】
しょうがない
【自分】
私から掛けてみる?
【友人】
お、うん!
【自分】
〈キャンセル〉
〈キャンセル〉
【友人】
あれ、取り損ねた
【自分】
なんかキャンセルになる
【友人】
もう一回鳴らしてみて?
【私】
ちょっと待ってね
【友人】
全く印象変わら無くね?
「あ〜なんかひまちゃん(本間ひまわり、にじさんじライバー)との匂わせがどうこうとかいう荒らしがいろんな配信に来てたししょうがないか、大変だな」
そう思って動画を開くと、アクシアは怒っていた。「かわいい」という言葉に対して。
アクシア・クローネの怒りについて、みんな意味わかったのか? 俺はわかってないと思った。なぜなら感情的だし、誰も言ってこなかったことを言っていたから。わからなくて当然だろう。
結局「アクシアが彼女(本間ひまわりのこと、彼女なんかではなくよくゲームを一緒にしているだけの関係)と配信してるぞ!」みたいな荒らしが各配信に無限に来ていたということは活動休止に至ったトリガー/キッカケでしかなかった感じがした。
アクシアは、にじさんじに入ってからずっと苦しんでいた。俺は知らなかったからびっくりした。
リスナーやファンの一部が過剰にアクシア・クローネをひたすらに「かわいい」と消費していること。俺はそれはなにも悪くないし、アクシアのなかでも実際嫌悪の延長線上にそういうリスナーがいるだけで嫌悪の根源ではないだろう。過剰に「かわいい」と消費するリスナーがさらにエスカレートして、どうなるか。ナメるようになる。「自分はアクシアよりも上位の存在だ」と自己認識し、それを発するようになる。そうなったリスナーこそアクシアの抱える嫌悪のど真ん中にあって、配信上で触れていた「母親ヅラしたリスナー」「うちのアクシアをよろしくお願いします」の発言者がそれに当たっている。要はなんなのかと俺が考えた結果は、「自分のことを明らかにナメて上から来てる視聴者が自分のファンには居て当然みたいな雰囲気になったら、そりゃあすごいストレスだな」ということだった。
活動者と視聴者は当然対等な関係であるべき。これは決して否定できないことだと思っている。多くの人は対等であろうとし、できるだけそうなるように活動し、視聴をしている。視聴者が特にその活動者を応援しているのであれば、それはなおさらだ。だからこそアクシアは明らかに上位からモノを言ってくるリスナーをストレスに感じるようになった。そしてその悪質なリスナーが頻繁に使う言葉が「かわいい」だったのだ。ストレスが溜まれば溜まるほどに、「かわいい」と言われること自体が嫌になっていく。これはアクシアが弱いからそうなったのか? 他の活動者はそんなこと負担になってないし。俺はそうは思わない。人間としてそうなるのは当然だと思う。もちろんアクシアの言う通り「活動当初から違和感があった」という価値観も助けてのことではある。
そうして活動を続けて1年。溜まりに溜まったストレスは謂れもない荒らしによってアクシアの限界を超えてしまった。その末に発されたのが、活動休止を報せる動画での感情だ。活動者は感情をあらわにするべきではないと、賢い者たちは言う。それは間違いのない理想であって、みんなそう目指していくべきだ。それはそう。でも、その理想に殉じて去っていった人がどれだけいるだろう。俺は、正しさに殉ずるよりも、間違ったことをしてでも俺の見られるところにいて欲しいと思う。しかも、感情の発露によって活動者の気持ちに少しでも整理がつくなら、なおさら。
荒らしや誹謗中傷は問題だけど、それは幸い現代において法的対処が日々有効になっていってくれているのでこの際憂慮しなくても良い気がしている。そもそも俺自身、アクシアとひまちゃんが仲良くてなんの問題があるのかわからんし。言いがかりでしかない。どちらかにガチ恋している人はまあ、お察しします、って感じだけど。そもそもガチ恋ファン活動にはリスクがつきものなんだから、初めからリスクがある行為でリスクを考慮してない人なんているのかよ。ガチでガチ恋している人が今回の荒らしや誹謗中傷に関わっているのかどうかさえ俺は疑問だわ。ひまちゃんに昔から付きまとう熱心なアンチ、アクシアの活動パートナーでもあるローレン(ローレン・イロアス、にじさんじライバー)にまつわる問題のアレコレによって生まれたアンチがこんがらがって大きな荒らし・誹謗中傷がうねって大きくなっちゃったのかな、と思ってる。
だから、トリガーとなった誹謗中傷よりも、ストレスとして大部分となった「かわいい」扱いについての方が考えるべきだろう。
当たり前の前提を話すと、活動者に対して「かわいい」と声をかけることが間違ったことには絶対になり得ない。そんなの、この世界が間違いだらけになってしまう。そう思ってる人も多いだろうし、俺自身世界は間違いだらけとは思うけども。
でも全く問題がないのか問われれば俺は「NO」と言う。そして多くの人は「全く問題がない」と考えて日々生活している。そこのギャップ/認識のズレが今回の問題として表出してきたように感じた。
では、どんな問題があるのか。
にじさんじEN男性Vtuberは約束された成功を見事にモノにし、大躍進を遂げた。当時、俺はその様子を見て嬉しく、晴れ晴れとした気持ちになっていた。
それと同時に、少しの杞憂が俺の中でもたげていた。「日本語をうまく話せない男性に対して『かわいい』と言うのはちょっとひどくないか?」という杞憂だ。これは本当に杞憂にしかならず、実際みんなリスナーの応援を正当に受け取って日本語が上手くなっていった。
日本語がうまくない男性に対して「かわいい」と言うことにどのような問題を俺は感じていたのか。
まず、世界中の男性全員が「かわいい」を褒め言葉として受け取ることができるだろうか。絶対に100%にはなり得ない。この事実がある。これは生まれ育った環境や個人の価値観によって醸成されてしまうものだ。これについての正誤を論じる気はない。個々の価値観による差異、個性と言っても差し支えない範囲であり、それゆえに正されるようなことでもないと考えているからだ。それに、「かわいいと言われることを嫌がるのは自らを女性扱いされていることを嫌がるということに繋がり、それは男性が女性を下に見ているからではないか」という批判も予想され、それは正しい批判として論理は適っている。しかし、「かわいい」と言われることを嫌がるのは性差のような根本的な問題ではなく、もっと表面的な問題だと俺は思う。語感やニュアンス、言葉の持つ雰囲気としての好みの問題ということだ。それは無意識下表層における感覚であり、自覚することが難しく、それゆえに訂正することも難しいことにように捉えている。例えるなら、ハエトリグモをかわいいと思う人もいれば、気持ち悪いと思う人もいるというようなことに近い。ハエトリグモが人間に無害であり、益をもたらすことさえもあると頭の中でわかっていても、どうしても気持ち悪さが拭えない人を責めることはできない。気持ち悪いと感じる人も、ハエトリグモのその機能を嫌悪しているわけではない。それと同じように「かわいいと感じる感情」を気持ち悪いと思っている人は少ない。「かわいい」という言葉として表に出てきていることが嫌なだけなのだ。
「かわいい」という言葉に内包されているニュアンスとして、「かっこいい」「上手くやっている」ことの否定ということがある。「かわいい」=「ダサい」ではなく、「かわいい」という言葉の一部分に「ダサい」というニュアンスがあることを否定できない、というレベルのことだ。問題は、その部分の割合が男性個々によって違うということだ。だから、ある男性は嬉しく感じ、ある男性は「ダサい」というようなことを暗に言われたと感じるということになる。
にじさんじENの男性メンバーの完全ではない日本語に対して、「かわいい」と評することへ戻る。日本語話者が他言語話者の不完全な日本語に100%ポジティブとは言えない言葉をかけることは、ほんのわずかではあるがレイシズムの傲慢さを俺は感じた。だからこそ杞憂をするに至った。「頑張ってて偉い」「(日本語話者の)自分より上手い!」から皮肉を感じるのは完全に受け取り方や文脈の問題であり、「頑張ってて偉い」「自分より上手い」という表現自体は100%ポジティブだからそう伝えればなんの問題はないはずだ。それを男性が100%ポジティブに受け取ることができない表現「かわいい」と言うことには違和感を感じてしまう。何より、「かわいい」と言っている側はなんの悪意がないことがより恐ろしく思う。女性にとって「『かわいい」と言われることは良いことだ」というステレオタイプ的な考え方が未だ社会では通用しやすいことは、女性側を苦しめていることが多いが、男性側が今回のように不快に感じることも起こり得る。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということわざが頭から離れなくて嫌だ。
明らかにアクシアを侮って「かわいい」と発する少数の人間のせいで、「かわいい」と今まで言っていた人たちがきっと傷ついたろうと思うからだ。坊主憎けりゃ〜は明らかな皮肉なので、今回のような悲劇にまで皮肉のような通底を見出している自分が嫌だからだ。
先述したように、俺はアクシアの感情の発露は間違っていないと考えている。彼が限界だったこと、そして感情を発露して表明することで気持ちの整理がついた部分がきっとあるだろうと思えること。なにより、黙って去るのではなく、アクシア自身が「アクシア・クローネ」として活動を続けるための動画であることがわかるから。
彼は動画の中で妄想やそれに端を発する創作活動についての嫌悪感を語った。でも、それはほかの活動者みんなが言っていることだ。「自分の目の届かないところで配慮を忘れずに隠れてやってね」もはや活動者視聴者みんなに知れ渡った暗黙の了解を再度言っただけにすぎない。それなのに、肯定的な自分の目から見ても感情が乗ってしまったせいで、妄想や創作活動を否定するように聞こえてしまう。賢い者たちが感情を見せるべきではない、という理由がよくわかる悲しい現象が起こってしまっている。
でも、この現象もまた、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、のシステムが適用されている。妄想のなかで「『かわいい』とひたすら消費することができるアクシア・クローネ」を肯定するような創作活動を、明らかにアクシアを侮った発言をする視聴者が好んでいるからこそそういう感情が乗ってしまったのだろう。
つまり、アクシアはきっと「かわいい」と発している者、ガチ恋や夢と言われる創作をする者を心から嫌悪しているわけではないと俺は思う。ということが言いたい。これは俺個人の解釈だし、もはや祈りに近いものでもある。きっとそうだ、というような。
「かわいい」と感じる感情や、ガチ恋や夢とカテゴライズされる想念自体をアクシアは否定し嫌悪しているわけではなく、「かわいい」と表現されること、「ガチ恋や夢を押し付けてくる行為」を否定し嫌悪しているだけで、それは誰しもが持っていておかしくない考え方だ。
「かわいい」と感じる感情は、言葉として表に出るまでは「かわいい」ではない。もっと大きな「良い」という思いとも言えるだろう。決して「かわいい」と表現しなければならないものではない。APEXでミスプレイをして面白けば、「草」と言えばいいし、仲間想いでやさしい一面を見せれば「尊い」と言えばいい。顔が良すぎて最高な気持ちになれば恥ずかしくても「顔良すぎ、好き」と言えばいいだろう。
そして、「かわいい」という言葉は決して罪のある言葉ではない。ただ、人を傷つけるリスクがわずかにでもある言葉とわかってその言葉を使うのと、何も考えずに使うのとでは全くちがうはずだ。少しだけ頭の片隅にその棘を意識するだけ良い、それだけのことで難しいことではないはずだ。
それだけで、アクシアはきっと楽しく活動をしてくれると俺は思う。
そして、今までちゃんとしたファンとしての想いを持ってガチ恋や夢などの妄想を営んできた者たちは、今まで通り配慮を怠らず、隠れてやっていけばいいのではないだろうか。難しいことかもしれないけど、俺はそう考えている。ちゃんとした考えを持っているファンは、今まで通りちゃんとしてれば良いと、アクシアの動画を見て俺は思った。
アクシア・クローネは、正しいファンを否定し嫌悪するような人間性を絶対に持っていないと、確信を持って言うことができるから。
正式タイトル「国税庁に『300万円稼げないヤツは作家じゃない』と言われたが、諸事情で異世界転生も試せません」
【その所得に係る収入金額が300万円を超えない場合には、特に反証のない限り、業務に係る雑所得と取り扱って差し支えない】
( 「所得税基本通達の制定について」(法令解釈通達)の一部改正(案)(雑所得の例示等)
あまり話題になっていないようだが、このような税制の改正が行われる予定だ。(正確には改正案に対するパブリックコメントを募集中の段階。締め切りは8/31)
詳しい内容は、このブログが詳しい。
https://www.wada-taxconsul.com/fukugyou-jigyoushotoku-zatushotoku/
兼業作家(小説とシナリオ)の自分は、正直、驚いたし慌てているし、絶望し始めている。
300万円? そんなに稼げたのはほんの数年間だけだ。そうか、国税庁から見ると自分が「作家」だったのはあの頃だけか。
思い返すたびに自分を嫌いになる、守銭奴どもにケツを貸したも同然の数年だけなのか。
そう思った瞬間につい乾いた笑い声を上げてしまった。なんだかここ数年、自嘲のあまり声を立てて笑うことが増えた。まぁいいか、笑う門には福が来るだろう。
この改正案が成立すると300万円以下の執筆業、すなわち自分の物書きとしての収入は「雑所得」として分類される。そうなると、給与(という名の日雇い賃金)との赤字相殺ができなくなり、ささやかな還付金がゼロになる。さらに計算上は収入が増えたことになるので市民税が跳ね上がる。
そして、この法改正で、統計上は、何割かの日本国民の所得が増えたことになる。政府と与党は所得が増えたのは自分達の政策のおかげ、景気が上向きになったと喧伝するのだろう。
どのくらい実収入が減ることになるのかさっき軽く計算してみたら、ちょうど給与(という名の日雇い賃金)一ヶ月分くらいだった。インボイス制度と同じ効果で、またもやゲタゲタ笑ってしまった。
もしかして改正案を作る側は「貧乏人を活かさず殺さず搾り取る限度はどれくらいか」などと考えて、そこから逆算したのだろうか。なんといっても税制のプロなのだし。
限界ギリギリの、どこかが崩れてしまえばドミノ倒しのようにすべてダメになる生活をもう何年も続けてきた。
使っている一太郎は8年前から変えていない。時々おかしな動作になるのでいい加減新しいのに変えないと毎年思い続けてきた。けどもう無理だ。ごめんなジャストシステム。大好きだ! 今まで本当にありがとう。
なお、食えていける金額とはほど遠いが、執筆業での収入が途切れたことはない。特にコロナ以降はあらゆる出版社が電子書籍に積極的になったおかげで、印税系がじんわり増えつつある。
300万円にはほど遠い金額だが。
さて、この法案が通ったら、どうしよっか?
自分の脳内神様にお伺いを立ててみると、「天空の城ラピュタ」の影響かCV永井一郎で「たっぷり縄をくれてやるわ」と言われた。
せっかくの神託だが、自分はメディアミックスに関わったこともあるので、うっかり事件の被害者や加害者になると、卒業アルバムの代わりにそれらの作品がマスコミで晒しものになる。うかつに死ねないんだよ。
と、いう訳で国税庁から作家ではないと烙印を押されてしまった自分は、このとてつもなくて美しい国のどこかで、忘れ去られて干からびて消えてゆくことになる……まであと数年あるので、もう少しあがいてみることにする。ハッピーエンド厨なもんで。
なお、パブリックコメントの送り先はこちら、同じように首を絞められる兼業業界の人は意見を送ろう
https://public-comment.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=410040064&Mode=0
私は今、政府系機関で働いている。小さな頃から大して努力はしなかったが地頭はよかったらしく、世間的には一流の中高大と進んできて現在に至っている。そんな訳で現時点では比較的挫折もなく、恵まれた人生を辿っていると言っても差し支えないだろうか。
しかしながら私には、「幸せ」というものがよく分からない。と言ってもこれは日常生活に楽しみが一切ないという訳ではない。知人と食事をしたり、好きな音楽を聴いている時間はそれなりに楽しいものだとは思っている。ただそれらは"刹那的"な楽しさでしかないと感じてしまう。
私の考える「幸せ」とは、"永劫的"なものである。知人と食事をしても、その僅かな時間では楽しいと思えるが、ふと我に帰って自己のことを考えるとどうしても憂鬱な気分になってしまう。私の身に覆いかぶさっているものの大半がこの憂鬱である。
この憂鬱の原因としては、主にこの先に横たわっているどうしようもなく長い人生と、その中で自分は何も為せずただただ衰亡していくということを考えてしまっていることによる。 (前文で"自分は何も為せず"と書いたが、『じゃあ何かに挑戦すればいいのでは』という話ではなく、その成果物とやらを偉そうに語れるような人間ではないというだけのことである。)
お金とやらもあまり興味がなく、それに大して残忍琥珀に振る舞う人とあまりかかわり合いになりたくないことから、一応自身がすり減らないようにそのようなところで働いてはいる、それが正解かは分からないが。
結婚して子供を生んだりすればそれなりの楽しみにはなるかもしれないが、同時に第二の私を世に放つことになるのは言うまでもないことである。もちろん、環境が変わることでこの厭世感が簡単に晴れると思い込んではいけないことも忘れてはいけない。高校、大学、そして社会と段々期待すべきものではないと頭では分かりつつも何処かで期待をして、打ち砕かれてきた。
そして、どうしようもない日々を浪費していくと、どうしても"ー"が”+”を上回ってしまう。人生はその積み重ねであり、本当に日々がしんどいものでしかない。不安を酒でかき消す生活を送り続けていたら少しづつ身体にも異変が出てきたが、他の人間はどうやってまともに日々をこなしているのだろうか。
脳内空っぽ偏差値30田舎ヤンキー的思想(100%偏見)があれば、余計なことも考えられずに済んで「幸せ」に感じられるのかもしれない。ただ、あいにく私にはそのようなものは持ち合わせていなさそうで悲しいものである。
人生が幸福に向かって進んでいくとはとても思えない私には、ただただ彼ら彼女らの精神性の素晴らしさに感服する他ないのだろうか。
9600bpsのモデムが100万円をきって、購入の稟議書が常務決裁で良くなったころから。 https://t.co/JtHatCYbrn— 河野太郎 (@konotarogomame) October 7, 2019
いや別に「政治家という公人がSNSアカウントから情報発信するなら国民をブロックするな」という主張には一定の理があるとは評価している。
もちろん国民には代議士を評価する権利があるわけだし、どのような言葉で評価しても良いとは思う。
代議士としての資質、大臣としての資質を問うのも良いと思う。国民の権利であり当然だ。
でも流石に河野太郎へブロック担当相という揶揄は一定以上のITリテラシーがあれば出来ない揶揄だ。
何故ならブロック担当相という揶揄はどう評価しても揶揄した本人のITリテラシーは低いですと宣言しているようなものだからである。
恥ずかしすぎて普通はできない。
往年のインターネットには「パソコンの大先生」というミームがあったけれど、河野太郎へブロック担当相という揶揄する連中のITリテラシーを表現するなら「Twitterの大先生」だろう。
スマホが使えて、ググって調べものが出来、Youtubeを楽しみ、タッチ決済して、SNSを炎上しないように運用し、COCOAでコロナ対策していますみたいなITリテラシーレベルの連中が、河野太郎へブロック担当相と揶揄しているわけだから、そんな連中には「Twitterの大先生」という称号を贈呈したくなる。
河野太郎は勘ではなく正しい知識でこれへ対して回答してくるという信用があるけれど、Twitterの大先生たちは2が何かわかるだろうか?なんなら3や4や5も河野太郎は答えてくるだろう。
河野太郎へはネットワークという言葉も、プロトコルという言葉も、キャラクターという言葉も、入出力という言葉も、様々なITの基礎的な言葉も説明しなくたって伝わる人である。
もちろんITであっても触れてこなかった言葉や新語は知らないだろう。しかし近似した知識や概念、理論を既に知っているので「○○みたいな感じかな?」と直ぐに理解してくれるだろうなという安心感がある。
やっと日本国のデジタル担当相にそんな安心感がある人が就いたのである。
ちなみにこの問題は本当に初歩的なものであり、一定以上のITリテラシーがある人であれば「は?バカにしてんのか?」とか怒り始めたり「いや可能性としては・・・」などと曲解をはじめたくなるような初歩中の初歩の問題である。答えはシンプルで良い。
この問題を即答できなければお前のITリテラシーは河野太郎以下だ。
多くのIT有識者は「そんなことはわかっている」と言うだろうが待って欲しい。極ひと握りの河野太郎以下のITリテラシーしか持っていない連中へ説明してあげないといけないだろう。我慢してくれ。
まずIT分野には3種の人材が居る。それは「実務者」「研究者」「利用者」だ。
実務者とはいわゆるプログラマーのことだと思っておけば良い。
プログラミングを通してシステムなどを開発する人である。
オードリー・タンはここに属する人材。実績から言ってもオードリー・タンはハッカーだと評価しても差し支えない。
研究者とは新しいシステムや開発手法などを考え提唱する人。
わかりやすい例を挙げればビットコインなどのブロックチェーンを提唱した謎の人物サトシ・ナカモトもこの枠組みで良いだろう。
URLやHTTP、HTMLを開発したティム・バーナーズ=リーもここの枠組み。
そして最後の利用者は上記の2つを利用する人だ。
消費者もここの枠組みへ入れても間違いはないが、IT分野で何かを駆動させようとするときの利用者とは消費者というよりも、わかりやすく例を出せばスティーブ・ジョブズのように実務者や研究者と共に何かを始めたり維持したりする人のことだ。
そして河野太郎はここの枠組みの人なのである。
流石に河野太郎とスティーブ・ジョブズを比較するのはアレだが、枠組みとしては同種のポジションであり、実務者のオードリー・タンと比較するよりかはかなりマシな比較だと多くのIT有識者は賛同してくれることだろう。
まったく別分野で例えると変な誤解が生まれるかも知れないのでしたくはないが、理解が追いつかない人に例え話をするとオードリー・タンと河野太郎は寿司職人と寿司を食いに来た客くらい違う。
そもそものポジション、役割がまったく違う。
ITリテラシーの低いTwitterの大先生からするとIT分野に居る人材はITに関することなら何でも出来る知っていると誤解しやすい。
そして、そう誤解するのも無理はないなと個人的にも思う。
何故ならIT分野に居る人材は一定レベルを超えると3種の能力を相互に持ちがちだからである。
つまり、実務者であっても理論を提唱し、研究者であってもシステムを構築し、利用者であってもプログラミングしたり理論を知っていたりするからだ。
例えばイーロン・マスクなどは良い例だろう。彼は実務者から利用者へ転向した代表例と言って良い。
そして河野太郎もまた一定レベルを超えたITリテラシーを持った人物であり、河野太郎を利用者として評価するならば昔懐かしい「パワーユーザー」と表現するのが最も実像的であると考えている。
河野太郎はパワーユーザーだ。そしてパワーユーザーが日本のデジタル担当相になったのだ。
ブロック担当相などという揶揄はITリテラシーの低いTwitterの大先生が、自身の理解が及ぶ、自身が得意分野だと考えるSNSの使い方という枠組みまで矮小化してやっと出てくる言葉なんだよ。
「ITは小難しくてわかんないけどぉTwitterならわかるからTwitterで批判しよwww」と批判対象の能力を考慮しないバカとしか言いようがない思考を伴わないとできない発想。
真っ当に河野太郎デジタル担当相を批判するなら「河野太郎は利用者であるからオードリー・タンのような実務者的言動を取ったときに批判する」べきなんだよ。
オードリー・タンは凄い人だよハッカーだよ、だからこそ河野太郎も真似したくなるだろう。
それを防げ!河野太郎がオードリー・タンのモノマネを始めた時に必死で止めろ!!!!!
河野太郎がオードリー・タンのモノマネを始めた行く末は間違いなくメテオフォール型開発であり日本の将来へ最悪の禍根を残すことになる。
パワーユーザーたる河野太郎デジタル担当相だけが今のところできることは旗振り役だろう。
「旗振り役なんて誰でも出来るじゃん?」なんて思うかも知れないが、やはり時代が進んでいく方向という概念はあり、せめてマシな方向へ進んで行って欲しいというのが人情であり、IT分野であればITを知る人がマシな方向を選んで欲しいではないか。
ITのことを全く知らんのであれば置き物であって欲しいが、大臣が何も言わないのもそれはそれで問題であり、だからこそ何か言わなきゃならないのだがITのことを全く知らんヤツが口走ったことに付き合わされる省庁やIT業界のことを考えてみろ、可哀想だろうが。
最後にオマケとして河野太郎およびデジタル庁の動きへ対して取るべきリアクション一覧を置いておくので参考にして欲しい。
オードリー・タンのモノマネをした | 徹底的に非難する |
非IT系人材を登用した | 非難気味に注視する |
IT系人材からレクチャーを受けた | 肯定気味に注視する |
金融系のWeb3を推進し始めた | 徹底的に非難する |
学術系のWeb 3.0を検討し始めた | 注視する |
マイナンバーの改良を検討した | 注視する |
マイナンバーと金融情報の紐付けを検討した | 非難気味に注視する |
マイナンバーに分散型ID(DIDs)の応用を検討した | 肯定気味に注視する |
国家行政発行資格証の統合を検討した | 肯定気味に注視する |
中央・地方の行政システムの統合を検討した | 非難気味に注視する |
オープンデータを拡大した | 肯定する |
議会システムの更新を検討し始めた | 肯定気味に注視する |
必要だけどだいぶ緩い
日本企業に在籍しながら日本企業の海外拠点へ派遣(駐在)なら、
エンジニア職(専門知識を有する者)なら職歴がちゃんとエンジニアなら学歴関係無いし、
それ以外の職でもシニアマネージャーとか統括マネージャー(重役・管理職)ということにしておけば中卒でも問題ない
なので海外に飛ばす求人とかたまに学歴不問で出てるぞ。もちろん、みんなが行きたがる欧米以外のエリアへ派遣な
ただ、英語すらもまさかの不問にしてる求人もあるけど流石に英語は出来ないと困るとは思う
現地のマネージャー以上のスタッフはいちおうビジネスレベルの日本語能力があることが採用条件になってるけど