はてなキーワード: サトシ・ナカモトとは
分散バージョン管理システムGitの開発者でもあるトーバルズ氏は、暗号通貨をサンタクロースやイースター・バニーと同じ神話的カテゴリーに位置づけているとユーモアを交えて付け加えた。
彼のコメントは、ビットコインの曖昧な創設者であるサトシ・ナカモトではないかという間違った憶測を含む、技術コミュニティでの議論の中で生まれた。
トーバルズ氏はこのような噂を否定し、Linuxカーネルの編集で自分の名前がユーモラスにビットコインと結びつけられたことを明らかにした。トーバルズ氏は、自分はビットコインの多額の財産を所有していないと断言し、そのような主張の信憑性については否定的であるとの立場を繰り返した。
ソース: https://www.realworldtech.com/forum/?threadid=217627&curpostid=217694
9600bpsのモデムが100万円をきって、購入の稟議書が常務決裁で良くなったころから。 https://t.co/JtHatCYbrn— 河野太郎 (@konotarogomame) October 7, 2019
いや別に「政治家という公人がSNSアカウントから情報発信するなら国民をブロックするな」という主張には一定の理があるとは評価している。
もちろん国民には代議士を評価する権利があるわけだし、どのような言葉で評価しても良いとは思う。
代議士としての資質、大臣としての資質を問うのも良いと思う。国民の権利であり当然だ。
でも流石に河野太郎へブロック担当相という揶揄は一定以上のITリテラシーがあれば出来ない揶揄だ。
何故ならブロック担当相という揶揄はどう評価しても揶揄した本人のITリテラシーは低いですと宣言しているようなものだからである。
恥ずかしすぎて普通はできない。
往年のインターネットには「パソコンの大先生」というミームがあったけれど、河野太郎へブロック担当相という揶揄する連中のITリテラシーを表現するなら「Twitterの大先生」だろう。
スマホが使えて、ググって調べものが出来、Youtubeを楽しみ、タッチ決済して、SNSを炎上しないように運用し、COCOAでコロナ対策していますみたいなITリテラシーレベルの連中が、河野太郎へブロック担当相と揶揄しているわけだから、そんな連中には「Twitterの大先生」という称号を贈呈したくなる。
河野太郎は勘ではなく正しい知識でこれへ対して回答してくるという信用があるけれど、Twitterの大先生たちは2が何かわかるだろうか?なんなら3や4や5も河野太郎は答えてくるだろう。
河野太郎へはネットワークという言葉も、プロトコルという言葉も、キャラクターという言葉も、入出力という言葉も、様々なITの基礎的な言葉も説明しなくたって伝わる人である。
もちろんITであっても触れてこなかった言葉や新語は知らないだろう。しかし近似した知識や概念、理論を既に知っているので「○○みたいな感じかな?」と直ぐに理解してくれるだろうなという安心感がある。
やっと日本国のデジタル担当相にそんな安心感がある人が就いたのである。
ちなみにこの問題は本当に初歩的なものであり、一定以上のITリテラシーがある人であれば「は?バカにしてんのか?」とか怒り始めたり「いや可能性としては・・・」などと曲解をはじめたくなるような初歩中の初歩の問題である。答えはシンプルで良い。
この問題を即答できなければお前のITリテラシーは河野太郎以下だ。
多くのIT有識者は「そんなことはわかっている」と言うだろうが待って欲しい。極ひと握りの河野太郎以下のITリテラシーしか持っていない連中へ説明してあげないといけないだろう。我慢してくれ。
まずIT分野には3種の人材が居る。それは「実務者」「研究者」「利用者」だ。
実務者とはいわゆるプログラマーのことだと思っておけば良い。
プログラミングを通してシステムなどを開発する人である。
オードリー・タンはここに属する人材。実績から言ってもオードリー・タンはハッカーだと評価しても差し支えない。
研究者とは新しいシステムや開発手法などを考え提唱する人。
わかりやすい例を挙げればビットコインなどのブロックチェーンを提唱した謎の人物サトシ・ナカモトもこの枠組みで良いだろう。
URLやHTTP、HTMLを開発したティム・バーナーズ=リーもここの枠組み。
そして最後の利用者は上記の2つを利用する人だ。
消費者もここの枠組みへ入れても間違いはないが、IT分野で何かを駆動させようとするときの利用者とは消費者というよりも、わかりやすく例を出せばスティーブ・ジョブズのように実務者や研究者と共に何かを始めたり維持したりする人のことだ。
そして河野太郎はここの枠組みの人なのである。
流石に河野太郎とスティーブ・ジョブズを比較するのはアレだが、枠組みとしては同種のポジションであり、実務者のオードリー・タンと比較するよりかはかなりマシな比較だと多くのIT有識者は賛同してくれることだろう。
まったく別分野で例えると変な誤解が生まれるかも知れないのでしたくはないが、理解が追いつかない人に例え話をするとオードリー・タンと河野太郎は寿司職人と寿司を食いに来た客くらい違う。
そもそものポジション、役割がまったく違う。
ITリテラシーの低いTwitterの大先生からするとIT分野に居る人材はITに関することなら何でも出来る知っていると誤解しやすい。
そして、そう誤解するのも無理はないなと個人的にも思う。
何故ならIT分野に居る人材は一定レベルを超えると3種の能力を相互に持ちがちだからである。
つまり、実務者であっても理論を提唱し、研究者であってもシステムを構築し、利用者であってもプログラミングしたり理論を知っていたりするからだ。
例えばイーロン・マスクなどは良い例だろう。彼は実務者から利用者へ転向した代表例と言って良い。
そして河野太郎もまた一定レベルを超えたITリテラシーを持った人物であり、河野太郎を利用者として評価するならば昔懐かしい「パワーユーザー」と表現するのが最も実像的であると考えている。
河野太郎はパワーユーザーだ。そしてパワーユーザーが日本のデジタル担当相になったのだ。
ブロック担当相などという揶揄はITリテラシーの低いTwitterの大先生が、自身の理解が及ぶ、自身が得意分野だと考えるSNSの使い方という枠組みまで矮小化してやっと出てくる言葉なんだよ。
「ITは小難しくてわかんないけどぉTwitterならわかるからTwitterで批判しよwww」と批判対象の能力を考慮しないバカとしか言いようがない思考を伴わないとできない発想。
真っ当に河野太郎デジタル担当相を批判するなら「河野太郎は利用者であるからオードリー・タンのような実務者的言動を取ったときに批判する」べきなんだよ。
オードリー・タンは凄い人だよハッカーだよ、だからこそ河野太郎も真似したくなるだろう。
それを防げ!河野太郎がオードリー・タンのモノマネを始めた時に必死で止めろ!!!!!
河野太郎がオードリー・タンのモノマネを始めた行く末は間違いなくメテオフォール型開発であり日本の将来へ最悪の禍根を残すことになる。
パワーユーザーたる河野太郎デジタル担当相だけが今のところできることは旗振り役だろう。
「旗振り役なんて誰でも出来るじゃん?」なんて思うかも知れないが、やはり時代が進んでいく方向という概念はあり、せめてマシな方向へ進んで行って欲しいというのが人情であり、IT分野であればITを知る人がマシな方向を選んで欲しいではないか。
ITのことを全く知らんのであれば置き物であって欲しいが、大臣が何も言わないのもそれはそれで問題であり、だからこそ何か言わなきゃならないのだがITのことを全く知らんヤツが口走ったことに付き合わされる省庁やIT業界のことを考えてみろ、可哀想だろうが。
最後にオマケとして河野太郎およびデジタル庁の動きへ対して取るべきリアクション一覧を置いておくので参考にして欲しい。
オードリー・タンのモノマネをした | 徹底的に非難する |
非IT系人材を登用した | 非難気味に注視する |
IT系人材からレクチャーを受けた | 肯定気味に注視する |
金融系のWeb3を推進し始めた | 徹底的に非難する |
学術系のWeb 3.0を検討し始めた | 注視する |
マイナンバーの改良を検討した | 注視する |
マイナンバーと金融情報の紐付けを検討した | 非難気味に注視する |
マイナンバーに分散型ID(DIDs)の応用を検討した | 肯定気味に注視する |
国家行政発行資格証の統合を検討した | 肯定気味に注視する |
中央・地方の行政システムの統合を検討した | 非難気味に注視する |
オープンデータを拡大した | 肯定する |
議会システムの更新を検討し始めた | 肯定気味に注視する |
じゃあワイは一番金持ってそうなサトシ・ナカモト
どんどんn活躍していて。
自分が応援できることは投げ銭というか、課金と言うか、お金出すとかファンレター書くくらいしかできん・・。
この、文章の力が弱まっている時代に。文章くらいしか一般スキルが無い自分がつらい。文章を書くのも、読むのも(読解力)、現代人は弱まってるので、文字のアドバンテージや影響力はどんどんへってるよなー。
お絵かきしたり音楽作れたりする人にあこがれる。音楽は少しだけ手を出したことがあるが挫折したしなあ。そうすれば推しに直接的に応援になるのに。
とりあえず手を出してなんか、やれば。いいのかも知れんが。最初の一歩が踏み出せない。
自分なりに愛情表現の仕方はいろいろある。文字以外には造形とか。それやりたいなーと思いつつも重いケツがなかなか上がらなかったり、基本的なタスク処理スキルが足りてない、という致命的な問題もあるなー。
社会って、なんか、視聴覚に訴えてわかりやすいことばかりじゃなくて。視聴覚にわからんけど重要な事やってることなんてたくさんあるわけで。インフラとか。
自分もその。一般人にはわからんし、そもそもそんなものの存在すら把握されないような仕事だし、そのすごさを伝えることも難しいのだろう。もちろん推しにも・・。
遠距離恋愛というか。なんというか
自分のテリトリーとするスキルを、推しがすごーいと言ってくれることは無いだろうカテゴリなんだよな。
自分自身よりも、自分の成果が評価されてほしい。でもその成果物の製作者は俺!ってわからなくても良い。(わからないほうがいい)
ただ俺は幽霊みたいに俯瞰して、「どや。俺の成果物、すごいだろ・・・」と空から腕組みして見守っていたい。みたいな。なんかそういうイメージ。
それはそれで半分くらいすでに実現してるんだけど、うれしさと寂しさが半々に襲ってきて複雑な感情すぎてよくわからない。
例えるならビットコインの開発者とされるサトシ・ナカモト氏みたいな存在。
それに近い存在っちゃそうかもしれん、たぶんこの記事を見てる人の家の中に俺の成果物がたぶんあるかも知れない、っていう。そういう成果物なので・・・。
どや。すごいやろ
昨今の事案を受けて、「仮想通貨をつぶすな」という主張が良く見られる。
多くの場合、法律の目がとどかない博打をこれからも続けさせろ、ボロ儲けの手段を維持しろ、という主張としか思えないが、「日本におけるイノベーションをつぶすな」という理性(?)からの主張も多い。
よくある主張は次のような形をとる。
今起きている事案は、あくまで仮想通貨取引所の問題であって、仮想通貨そのものの問題ではない。特に非中央管理性の理念やブロックチェーンの技術的価値が棄損されたわけではない。
ビットコインの創始者とされるサトシ・ナカモトが論文で語った高尚な理念やそこで提示された優れた不正防止手法をもってそれ以外の仮想通貨まで擁護しようとする向きがあるが、極めて不自然に感じる。
例えばリップルは非中央集権通貨であるし、ブロックチェーンは仮想通貨ごとに別物として存在しうる。これらの観点から自らの社会的存在意義を説明できていない仮想通貨はいくらでもある。本当にイノベーションがそこにあるか疑わしいものもある。
取引所と当該の仮想通貨の元締めが同一だったり、共通である場合、「取引所側の問題であって仮想通貨側の問題ではない」という主張は無理がある。
「設計は正しかったが、実装がまずかった」とし、取引所にのみ責を帰することができるのは、両者のメンバーが完全に分離している場合のみである。
Tetherの場合は、特定の取引所が実質的にすべてを握っている。
Nem財団の重要メンバーが取引所Aに籍を置いていると仮定して、そしてその取引所Aの実装がまずく事故が発生した場合、財団は善であり、あくまで取引所Aの過失という説明は、詳細な事情を勘案することができる内部の人間のみに通用する論理であって、詳細が分からない外部の人間にとっては通用しない。
仮想通貨は技術面では追跡可能で透明化されているかもしれないが、関係者による人為的判断が入りうる以上、技術面の透明性のみを主張しても一般の人間には説得力を欠く。
非中央集権な管理手法やブロックチェーン技術は仮想通貨専用のものではないので、これを機に通貨以外での適用をという主張でもよいと思われる。ことさら仮想通貨のみがイノベーションの担い手というわけではない。
ここではあくまでよく見られる「イノベーション(テクノロジー)無罪論」に焦点をしぼった。
本当に仮想通貨が必要なのか、法定通貨のデジタル化ではだめなのか、その辺の議論も見てみたい。
熱くなって擁護論を唱えている人は初期の理想の技術論に「天才って実際にいるんだ」と感激し、その後の幻滅を見た自分のような人でなければ、その幻滅を見なかったことにして信仰を持ち続けたい人か、最近この世界を知って誰かのポジショントークをそのまま受け入れている人だろう。
なお、テクノロジーの問題とは別に、先行の類似取引システムでの規律に相当するものか、あるいはそれを代替するものがいまの仮想通貨取引所に存在しないことについては議論があるべきだろう。
仮に仮想通貨世界の内部では問題がないとしても、現実世界(法定通貨の世界)との境界をまたいだところで問題が起きる以上、両方の世界に所属する取引所に対しては、現実世界において先行する各種金融取引システムの規律の準用を求めるべきだった。
日本の取引所から韓国の取引所に送金し、そこで現金化し、金貨を購入して日本に持ち込むというマネーロンダリングが行われるに至っては、それすらも無力だったのだとは思うし、後からなら、このように何とでも言えるが、カネにまつわることがらでは性善説の採用ほど無力なものはないと、技術者のはしくれとして痛感した。