「昔、昔、浦島は〜」
浦島!浦島太郎じゃない!
そういうシステムになっているんだ。
これら「なんとか太郎」の集まりに、いけしゃあしゃあとと紛れ込んでるわけだ。
やつは、ただの太郎だ。
インターネットの自称事情通たちは、我が物顔でインターネットを闊歩している。
いや!インターネットだけじゃなくて、リアルでも間違いなくそうだろう。
「オレ様は情強大魔神だ!」くらいの勢いで街中を我が物顔で闊歩しているに違いない。
そして道行く人々を勝手に情弱と断定し、見下し、悦に入っているのだろう。
自称事情通たちは常日頃から自慢の情弱センサーで情弱度を邪推しながら道を歩いているんだ。
哀れなピエロだよ。まったく。
まぁ、それはいい。
それは本題ではない。
注目すべきは、ここだ。
「助けた亀に乗せられて〜」
乗せられて!
かといって、毅然とした態度でお礼を断るのでもなく!
ようするに「お礼をいただけるのであればやぶさかではない」みたくこの歌詞では言っているわけだ。
一見どうということない「乗せられて」だが、実は日本の縮図といって過言でない。
こうした振る舞いは日本という島国の津々浦々で見られることだ。
勝ち組はなんら要求することなく相手が察して勝手に「乗せて」くれる。
別に自発的にお礼など要求することはないし、それは恥知らずなことなんだ。
負け組はいつか「乗せられる」であろうことを夢見て頑張るが、生涯「乗せられる」ことはない。
繰り返す。負け組は、生涯「乗せられる」ことはない。
「いいことをすれば見返りがありますよ」という。
児童らは「乗せられて」「乗せられて」と数百〜数千回繰り返し聞くうちにその「仕組み」を理解するであろう。
負け組にとってそれは欺瞞である一方で、勝ち組にとっては真実なのだ。
「いいことをすれば乗せられるはずだから、乗せれられていないということはいいことをしていないのだろう」
そうした逆説的な論法を耳にした例は一度や二度ではないはずだ。
なお余談だが、亀の立場で考えてみると浦島はお礼をいただける立場にない。
そもそも、イジメて来たのは人間族の子供であって、それを別の人間族が静止したまでのこと。
亀の立場から考えてみれば、これはマッチポンプ以外の何物でもない。
どうして浦島太郎がお礼をいただけるのか?
このようにして日本人は浦島太郎を反面教師にして様々な学びを得ることができるはずなのだ。
時間の流れが違う「ネタ」を見るたびに「ウラシマ効果!ウラシマ効果!」などと叫んで喜ぶのが関の山だろう。
「○○の起源は、日本の浦島太郎」などとハナタカしてるわけだ。
作品の本質ではなくSF的な小道具・ガジェットにばかり目を向けたがる。