はてなキーワード: 矮小とは
http://anond.hatelabo.jp/20161123235437
意外とゲイと女装って別のコミュニティで、女装は一見すると普通で地味な人が多い。
深く話すまでは、趣味で女装していて、実は良識人で知的なんですよというフリをする。
女装する人たちの欲望は内向きなもので、ナルシストな人間が非常に多い。
自分の美しさを証明する、自分の優位性を確保する、そんな目的で女装している人間が多いと思う。
社会では不当に自分は扱われていて、自分はちやほやされるべき存在。
時には、女性への恨みが深く、恋愛市場で不遇な扱いをしてきた彼女らよりも、女性的な魅力を持っていると確信することでその復讐を果たそうとしている人間もいる。
自分より綺麗な女じゃないと付き合えない、なんてセリフは掃いて捨てるほど聴いた。
ゲイは経験人数が多いのが特徴とあるが、女装は援助交際の割合が非常に多い。
どんなにおとなしそうでも、どんなに女装が似合っていなくても、パパのような人がついており、
服を買ってもらったり、コスメを買ってもらったり、女装やハプニングバーのイベントに連れてってもらっていたりする。
趣味で始めたと公言していた子持ちの中年も、半年後にはSNSで「アナルマゾ奴隷です。男のご主人様を募集しています」だなんて書き込んだりしている。
子持ちだろうが既婚だろうが関係無い。猫をかぶっていても、最初はノンケだって言っていても一年以内には男性経験豊富になる。
若い年代に限れば、その世界は完全にルッキズムに支配されており、容姿が女性的であるかどうかがヒエラルキーを決める。
特定の地位までいけない者は女装の世界に敗れ公の場を引退をし、個人間のやり取りで別のパパを探し続ける。
ある程度以上の者のうち何割かは、認めてくれている世界の自分こそが真実の自分だとおもうようになり、性転換まで行き女性の世界で一般人に逆戻りする。
中途半端な者はその世界にとどまり続け、経験が長い分女装評論家を気取るようになる。
ルッキズムが染み込んでいるので、時には、性同一性障害である人々を見下し、矮小な者として扱うようになる。
時々、本当の性同一性障害のコがその世界に迷い込むが、繰り広げられている惨憺たる光景を目にすると、すぐにその場から逃げていく。
ルックスという戦闘力でマウンティングを繰り広げるその世界は、さながら男性的な世界とも言える。
一時期、女装がブームだなんて言われていた時期もあったが、その実情を目にした時、嫌悪感を抱く人間が続出することは想像に難く無い。
表面では仲良くしていても、コミュニティの裏側やネットの掲示板などでは醜い貶しあいを続けている。
知り合うことで損をする人がたくさんいる。
一見すると特異で面白そうな人間に思えても、本当に関わらないほうがいいだろう。
http://rentwi.textfile.org/?759297917043609600s
心臓をドキドキさせながらブコメを見たら、「らしくないね」というようなものや、そのエントリを否定する内容がたくさん星をもらっていたので少し安心し、閉じて終わろうかと思った。
今朝、はてブのトップまであがって来ていたのでダイジェストじゃない方まで読んでみたら、
わりと「何を言ってるんだ、まったく正当なことを書いてるじゃん」というような意見もたくさん目にはいってきた。
もういちどエントリ本文を読み返して、 上へ下へ読み返して、はてなを閉じて、それから部屋でひとり泣いてしまった。
なぜ自分が突然泣いてるのか自分でもわけがわからず、ひととおりめそめそした後考えた。
エントリは、おそらく、どこかの具体的な誰かに対する怒りの発露なのだとは思うけれど、特に対象を特定することなく話が進む。切断処理と思考停止、それは敬意がない姿勢であってその学問や若者にとってはたいへんよくないという怒りの内容。漢字や英語とおなじくらい、あたりまえに数式は読めるようになるべき、できない人は恥ずかしいと思えと。
私は漢字だってそんな詳しくないし、英語だってろくに読めない。ほかにもできないこと知らないことが山のようにある。ひとつひとつ恥じていたら、本当にもう、生きていられないくらいの量になる。恥ずかしくて、みっともない存在だというしかない。
私には、数学じゃないけど、とてもとても苦手なものがあって、長いことそれは「人として普通にできなければだめ」だと思ってかなり苦しめられていた。だけど、ある時点でようやく、人は得意なことに注力そこを伸ばしていれば、社会でちゃんと居場所を与えてもらえる、座る場所をみつけられるということを知って、それでずいぶん楽になった。
もっと早くこれがわかっていればなあとも思った。「早くわかりたかった生き方」とは、ちょうど「数式アレルギー」という言葉をつかって、自分事になる前にスミマセンそれはこれ以上こっち側に入りません!とシャットアウトするようなやり方だ。私はこれをもっと早く知りたかった。たぶん、弱かったからだ。弱い人間なので、少ない体力・能力・時間を、できるだけ絞って特定領域に注力して、ようやく人並み…というか、私はこれが仕事です、と言えるレベルになった。
入ってきてほしくない何かをシャットアウトする時は、情けない顔をして、「すみません私、そういうのが本当苦手で・・・」とへーこらしているだろう。「アレルギー」という単語は使ったことはない気がするが、苦手な部分については取り組むときはアレルギー的に具合が悪くなる。それに触ると軽いパニックになって、心臓に血液がまわって体のほうに震えがくる。飛べそうもない跳び箱を前にしたときと同じかんじだ。情けない。恥ずかしい。そういえば、アレルギーは先天性の避けられないものだから、「苦手」のたとえとして適切でない、という批判を見たけれど、もともと体に合わないのを知らず多量摂取した結果発現する後天的アレルギーもあるので、個人的にはそこまでずれた例えだとは思わなかった。死ぬレベルじゃなくて「触るとかぶれる」「くしゃみがとまらない」程度のアレルギーもある。大きくなってからアレルギー、トラウマになったものがない、という人は幸福だ。うらやましい(私はソバアレルギーになってしまったし、花粉症も出た…)
そんな話を、私はしょうもない笑顔を貼りつかせて言うだろう。神妙にいったら、もっとみじめになる。敬意なく見えただろうか。誰かをいらだたせるようなやりかたをしているんだろうか。
エントリいわく、そんな私は矮小なニセモノの大人だった。考えて学ぶ時間をとっていない勉強不足の。大丈夫だよ出来なくても生きていけるんだよ、などとのたまう、才能ある若者の前には害でしかないような。
自分の専門外のことまでちゃんと気が回って、スマートに返せる人が「まっとうで普通」、「わかりません」を使う人間はものすごくマイナスの彼方にいて、恥ずかしい存在、って書いてあるように読めた。
わたしも実はかつては「わかりません/しりません」が嫌で(かっこわるいし、相手に失礼だと思ったのだ)人とボールのやりとりをするときは、気をまわしていちいち相手方の勉強する方だった。そのころ私は、出来るやつだ、という評価をもらえていた気がする。でも、それは過大評価だった。 時間を使ってむりやりやっていただけで、自分のしごとにプラスオンで、そこまではやってられなかったのだ。ある日パンクした。キャパオーバーになった。
「苦手なことを本業から除外」するためにも、こちらの「相手のためにちゃんと勉強しなきゃ」をやりすぎないためにも、 シャットアウトは私には必要な作業だった。
・・・別に自分に向けられた言葉でもなく、状況はまるっきり違うということは頭ではわかっている。それなのになんでこんなに悲しいのか考えたところ、ちょうどこのあいだホッテントリに入っていた、生きがいについて聞く増田と、その増田を憎む、というエントリの構図を思い出した。既に大量に「持ってる」ことを自然体としてもっと上の何かを求める増田と、そもそも「持ってない」増田。前者の増田に、後者の増田の存在は認識されていなかったので、傷つく人がいるなんて想像もしなかったんだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20160728000910
http://anond.hatelabo.jp/20160728154543
「できる」「持っている」のが当然で、そこがゼロ地点である、という前提で始まる議論は、たいへんまぶしく光っていた。そこからはるか下にいる自分は、 光にばーっと照らされるて、うわー、ゴキブリかー!と改めてつきつけられてしまった。結城さんや、ほかの仕事できる側ですと言うブコメたちからみたら、私は、あの憎む増田のいうところの、ゴキブリということなんだー、と。それがはっきり見えて、私は、 あんなにみじめで悲しくてショックをうけてしまったのだった。 書き手はそんな意図はなかったかもしれないけど、本心をふつうに書いた結果、それは流れ弾になって飛んできた。「恥ずかしい」「ニセモノの大人」 「勉強不足」 全部つきささってしまった。ブコメの「頭が悪い」「逃げをわざわざ打つな」「無知はさておき、恥知らずはちょっと」「無責任」などなど、もりもり刺さった。やっても追いつかない、体が持たずに睡眠に割いてしまう、これは、勉強不足か、頭がわるいか、無能か。
思い返してみる、そういえばもともと、結城さんは「中高生が一人でも数学面白いって思ってくれたら」みたいなことをよく書いていた気がする、今回も「若い人が」って、今後やってくるであろう未来ある若者と数学の未来について考え、憤っている。あー、もともと私のような人間はその立派な活動のおこぼれにあずかっていたようなものだろうか、などと、感じてしまった。優しいから別にそんなこと誰も直接はぶつけてこない。「誰しも学びたいという気持ちが」とか「すそ野を広げることが大切で」みたいに書いてくれるだろう。でも、ただ、眼前には辛辣な実際があった。それを見てしまっ(たように思え)て、がっくりとくじけてしまった。この人は弱い方の人間のためにも階段を用意してくれる人だ、この人は味方だ、…そう思っていたので、ちょっと、そう、ショックだったんだ。
こういうリプライを飛ばしている方がいた。結城さんもこれをリツイートしていたので、それですこし救われた。
「このポストは生まれつき数学が苦手な人に対して失礼だと思います。彼らは「勉強不足」で数学 (算数) のような抽象的な概念がわからないのではありません。生まれつき無理なんです。そして生きるためには「数学は苦手である」ことをこのような表現で宣言する必要があるのです。」
生きるために、という一言がとても優しい。これを読んでまた泣けた。ありがとうございます。
これが繊細チンピラと呼ばれる人々の見る世界か…などと思った。向こうに悪意はない、ないのは知ってる、でも、アアー。何かを受けて勝手に倒れ込んでしまった。朝から夕方ごろまで、めそめそしたりぐったりしたりしていたけど、落ち着いた。大丈夫だ。でも、たぶん数学ガールはもう読めない。あれは私のものではないなと強く思ってしまったから、みじめな気持ちになってしまいそうだから、いったん自己防衛のために、もろもろフタをしめて、また明日から仕事とか家のこととかで、ばたばたして一度いろいろ忘れたいと思った。あー、きょうはお天気もよさそうだし爽やかに走りに行こうと思ってたのだけど、目が真っ赤になりすぎて外に出られなかった。のんびりストレッチでもして寝よう・・・。
何のことかわからない人は、今日タイトル戦してるからそれを参考にしてくれ。
羽生さんの色紙が当たればなあと思っていたが、
握手もしてもらった。
その帰り
「???」
話を聞くとその方は羽生さんの色紙何枚も持っているそうで。
そりゃあ欲しかったよ。
ただ、糞真面目で天邪鬼な俺は素直になれなかった。
抽選の結果なんで。この棋士のサインもほしかったんです(半分ウソ)等々。
結局交換せずに岐路についた。
しかし未練がましい俺の脳みそは微かな記憶を引っ張り出してきた。
「あの人観戦記者じゃね?」
「まさかそんな」
観戦記者だったよ。それならサイン色紙は一般参加者に譲るだろうよ。
てかなんで抽選会に参加してんのさ。
考えすぎてチャンス逃すこと多いなあ、と肩を落とす俺。
ただ救いはあった。
抽選会で色紙をもらった棋士が、某国営放送主催のトーナメントで優勝したのだ。
小さなことで気持ちが揺れ動く矮小な人間だが、うれしいものはうれしい。
結局どうなんだろうね
思わぬ機会に直面して決断を下さなければならないときに後悔しない方法とは。
その時後悔しても長い目で見ればどちらでもよかったというケースもあるけれど。
たいてい後から見るとどっち選んでもよかったんだけどね。
どっちも選ぼうとして中途半端になってしまうのは人間の性なのかね。
何が言いたいかというと
失恋したよ慰めて
この人、決算報告書とかPL読めない可哀想な人なんだろうなって思った。
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本来は、株主に配当し社員を養い事業を継続させることと、研究開発によって新しい価値を生み出し人々に新しい幸せをもたらすため、というシンプルな話であって、そもそもが不確実性とリスクを織り込んだ上で、企業理念や生み出される価値に共感した資本家が投資し、企業を育て応援し、その結果、社会は前進し、人々にもたらした幸せの総量が増えることで経済的な対価としての配当を得るというのが本来の筋であって、利益とはそういったエコシステムの中で確約されていない、ドライバーの一つのはずなのに、どこでどうして目的にすり替わってしまうのでしょうね?
もちろん利益が上げられないと企業として存続できなくなるので、そりゃ当たり前の話なのですが、その手前に、理念と利益の使いみちが関係者に遍く、わかりやすく語られてないと話がおかしいだろうと。
そしてここで避けて通れないのが、成果主義による従業員の管理でございます。
一般論としてですが、上場企業にとって会社とは株主のものだという意見をよく耳にするけれども、そもそもが、リスクを織り込んだ上でその企業をどう育みたいか、どのような方向性でもって成長拡大して欲しいかという意見を持ち株比率で言えるから、という視点での話であって、そういった前提がなし崩しなまま株主利益至上主義みたいな言説が現場レベルで浸透してしまっているとしたら、いったい自分は何のためにこの仕事やってんだか?って思ってしまうことはありませんか?
株主配当後の利益をどのように活かす目論見であるか、という、しごく当たり前のことが、組織マネジメント上の自分の業務目標とどのように関連していて、どのようなシステムの中で何と紐付いて他の社員と連動してるか、連携していかなければいけないか、という、これまた当たり前の役割や見通しのことが、本当の意味でハラオチして皆働けているのだろうか?
というのが、就職してからこれまでいわゆる「成果主義」的な世界の中で「目標」を「管理」されながら生きてきて、お給料もらってきた中で、ずーっと疑問でなりませんでした。この「目標」を「管理」されることは上場企業だと社長になっても株主からされるわけで、目標ってなんやねん、なんのための目標やねん、そりゃ理念にひもづいてるはずですよね?という心の声が青臭く遠くゴーストが囁くかのごとく、あるいは何かしらの幻聴のように、いつだって僕の心のなかでは響いております。
もちろん仕事で生み出した成果は正当に認めてもらいたい。
そしてその結果としての賞与、もちろんどっさりたくさん欲しい。
だけれども、全体的にシステムとしての企業の利益の使われ方などを俯瞰したところで、その成果がどのような意味を持つのか、そしてそのリターンとしての賞与というのが、企業が企業として社会に提供できるインパクトに対して額面で考えたら、なんというかものすごく矮小なものに思えてしまって、「目標」を「管理」される中でこのちっぽけな(語弊あってすみません)、世の中の動きからしたらものすごくちっぽけな「お金」のために、日々の「目標」を達成するためにアクセクせざるを得ない「成果主義」なるものに、変だよなぁ?ちいせぇよなぁ?という違和感は、この制度のもとに働く労働者なら誰でも感じるところなのではないか?と思って悶々としています。
なんか、これってアラフォーなのに独身のままここまで来てしまった、ある意味、社会・経済的責任から逃れて生きてきたガキンチョの感じるたわごとなのかもしれないですけど、でもやっぱり、なんだろう、この仕組み、変だなぁと思うんですよね。
要約:おら早く結婚して家庭を持ち家を買い、会社ではそれなりに偉くなりたい。
以上、ガキのたわごと、大変失礼いたしました。(謝るくらいなら書くなという神の声が聞こえてきたけど聞こえないことにします)
エヴァQを今更観て考察を色々読みふけっていたのだけれども、新用語の定義をうんうん唸って考察しているページばかりで、作品のテーマというか結局庵野はこれで何が言いたいわけ?というところを誰も言及していないので自分で書く。
※追記(2016/4/25):はてな内外からたくさんの反響を頂いて驚いた。投稿後、考えが変わったところもある(特に震災の影響を見逃していたこと、ヴィレの分離の意味について)のだけれど、もう一度全部見直して加筆修正する時間が取れない。近いうちに頑張りたい(ここ見てる人も少ないだろうが)。
新劇場版のテーマを考察するにあたって、まず旧世紀版のテーマを確認しておきたい。
結論から言えば、旧世紀版の中心テーマは(1)組織上位の命令とあれば人殺しさえやってしまう人間の悪辣さ、(2)若者を自らのエゴの実現のために利用する大人の悪辣さ、(3)自分の価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全、(4)馬鹿は死ななきゃ治らない、の4つである。以下詳述する。
旧世紀版において明かされる最大の謎と言えば、使徒とヒトとがほとんど同じ存在であるということである。そのことはミサトの台詞から良く分かる。
「私たち人間はね、アダムと同じ、リリスと呼ばれる生命体の源から生まれた、18番目の使徒なのよ。他の使徒たちは別の可能性だったの。ヒトの形を捨てた人類なの。」
そして第24話において登場する渚カヲルに至っては、ヒト以上の容姿、能力、パーソナリティを持つ魅力的な存在として現れた。そのことはシンジも認めるところで、以下のように述べている。
「そうだ。生き残るならカヲル君の方だったんだ。僕なんかよりずっと彼の方がいい人だったのに。カヲル君が生き残るべきだったんだ」
しかし周知のように、シンジはこれを殺してしまう。TV版第25話第26話は主としてこの懺悔に費やされるが、そこで繰り返されるのは、ヒトを守るためには命令通りにカヲルを殺害するのは仕方なかったという言葉である。
シンジ 「結局、僕はこれに乗るしかないのか?好きな人を殺してまで。父さんやみんなの言う通りに、またこれに乗って戦えっていうの?母さん、何か言ってよ、答えてよ」
ここには、人殺しさえも上の命令であれば仕方ないとしてしまう人間の悪辣さが表れている。
そしてこの人間の欠陥は、エヴァンゲリオンの元ネタとしてしばしば監督自身が挙げる、岡本喜八『ブルークリスマス』、富野由悠季『イデオン』で繰り返し述べられるテーマでもあり、その両者の背景にあるのは第二次世界大戦である。
なお、エヴァ以降の作品であるが、インドネシアの大量虐殺を扱ったドキュメンタリー『ルック・オブ・サイレンス』においては、被害者の遺族になぜ家族を殺したと問い詰められた加害者が、シンジと同じ言い訳をしているのが分かる。
旧劇場版では、上記のようにシンジにカヲルを殺害させ、深い絶望(=デストルドー)に陥れ、そのデストルドーをトリガーとしてサードインパクトを引き起こしている。
その動機は、ゲンドウについては「ユイに再び会いたい」というもので、ゼーレにいたってはキリスト教的な原罪観から、人間を贖罪させたいというものである。どちらも身勝手な発想に基づくもので、到底人類全てを滅ぼす理由とはなり得ない。
ここには、若者を自己のエゴの実現のために利用する大人の悪辣さが表れている。
なお、エヴァには影響は与えていないが、深作欣二『仁義なき戦い』においては同様のテーマが描かれていて、その背景にはやはり第二次世界大戦がある。
周知のように、シンジは自分の価値をエヴァパイロットであることにしか見出せず、それを失って人に見放されることを非常に恐れている。
TV版最終話はほとんどこのテーマについての議論に費やされている。その一部を引用する。
以上のような問題を抱えた人類は、旧劇場版においてサードインパクトに突入し、シンジとアスカ以外全滅してしまう。
生き残ったシンジは、隣に横たわるアスカの首を絞めてしまう。これは(解釈の余地はあるが)シンジの対人恐怖症がまったく解決されていないことを意味している。馬鹿は死ななきゃ治らないのである。
以上の点を踏まえて、エヴァQでは旧世紀版のテーマをどう扱っているのだろうか。
結論から言うと、シンジは相変わらず人を殺し、大人に利用されている。これは旧世紀版との比較を表にしてみると分かりやすいかもしれない。
旧世紀版 | 新劇場版 | |
---|---|---|
殺した対象 | カヲル君(をはじめとする使徒) | ニアサードインパクト震源地の付近住民 |
殺害の正当化理由 | 上位の命令に従っただけであり仕方がない | 愛する綾波を救うためであり仕方がない |
罪の代償 | 深い絶望 | 周囲の非難 |
贖罪の方法 | 戦自に殺されることを望む | 2本の槍と13号機で世界の修復をする |
上記行為の結果 | ミサトに自殺を阻止され、戦地に送られるが、デストルドーをゲンドウ(とゼーレ)に利用されてサードインパクトが発動。人類はシンジとアスカを除いて滅亡。 | 世界修復の希望をゲンドウに利用されて、フォースインパクトが発動。目の前でカヲルの首が飛ぶ。 |
主な変更点としては、①殺害の正当化理由が「上位に命令されて・・・」という消極的なものから、「綾波を救う」という積極的なものに変化したこと、②贖罪の方法が自殺という消極的なものから、世界の修復という積極的なものに変化したこと、が挙げられる。
さらに、③「(3)自分の価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全」という問題がほぼ扱われなくなっている。
これらの変更の結果、エヴァのテーマは(その善し悪しはともかく)矮小なものとなった。すなわち、旧世紀版においては第二次世界大戦により露わとなった「人類の問題点」ともいうべき大問題が扱われていたのに対し、ここで扱われている問題はあくまで「シンジの問題点」である。このことは、愛する者のために人殺しをしてしまうというのはいかにもフィクションが好みそうなところで、現実でこれが問題となる例は少ないということからも分かるだろう。
さらに、「(3)自分の価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全」という問題がほぼ扱われなくなったことでテーマはより普遍性を失っている。
上記の点を踏まえた上で、なぜテーマの変化が起こったかを考えてみると、私はエヴァの成功と自身の結婚が背後にあるのではないかと睨んでいる。
エヴァの成功により庵野は自身の生きる価値を見出すことができ、「(3)自分の価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全」という問題が解決できてしまった。
さらに結婚により、人殺しの正当化理由として「愛する者を救うため」という理由が俎上に載ったものと推測される。
Qの次回予告においては、次回作では「ファイナルインパクト」が起こることが示唆されている。しかし、それが仮に起きたところで解決される問題は、上記のようなシンジ個人の問題点で、我々からするとどうでもいい問題である。次回作はかなり小規模な作品になるんじゃないかと個人的には思う。
私には何もない。
心許せて互いを高め合えるような相手はいない。
招く相手がいなければ家の中を日々掃除して
勧め合える相手がいないから、次第に興味がうすれていった。
私はどんどん無趣味で無気力でただ苛々とした感情を蓄えるだけの
本当に自分は空っぽでつまらない人間だったのだなと愕然とする。
寂しいのならばこれを打破する手段は幾らかあるが、
何かに縋りたいが、愛せるものはない。
かと言って死のうとも思わない。
吐き出せば楽になれるかもと期待する気持ちもあった。
空っぽすぎて笑う気にもなれない。
猜疑心の強い性格と、気の置けない友人を作るにはとりすぎた年で
きっと今後はもう打算で結婚する以外に身近な人間を作る事は出来ないだろう。
心に空いた穴を塞ぐ術はもうない。
過ぎたるは及ばざるが如し。
何故あの時私は退かなかったのだろう。
心に合わせて、今の容姿も遠くない内に醜く衰えていくだろう。
遅かれ早かれ友人など一人もいなくなることは予想してはいたが、
あの人に付いていかなければ縁の寿命は延びていただろう。
そして今安易に死を選ぼうとしないのもあの人がいるからだろう。
死にたいと思うより、このまま消えたいと思う。
メッキは全て剥がれた。
そこには矮小で卑屈でプライドだけは高い空っぽな自分が残っただけだ。
もう嫌だ。
よく考えて見れば当たり前なんだが、自動運転の社会的影響は極めて大きい。自分で運転しなくていいから楽できるわ~という矮小な出来事ではない。ちょっと想像力を膨らませて、この技術の可能性に早く気づいたほうがいい。
自動運転車は10年以内には人間と同じくらい安全に走れるようになる。人が乗ってテストしている条件下ではすでに安全に走れている。近い将来は誰も乗っていなくても走れるようになる。
自動運転車を呼ぶと無人で走ってきて、目的地で降りると自動的に何処かに走っていくというようになる。
タクシーを考えると人間の運転手というのが一番高価な部分だが、自動運転の値段はタクシーよりずっと安い。
そういう技術が実現すると、車を持っている意味が減ってくる。呼べばすぐ来るものに何百万も払って家に置いておく価値はないってわけ。
まずは都市部と郊外の2台目のニーズが自動運転車で満たされるようになる。ちょっと慣れなくて不便だけどこれで十分、というようになる。
普及が進んで自動運転車の数が増えてくると、駐車場に行ったり目的地で駐車場を探したりする時間より早く自動運転車が家に来るようになるので時間の節約になる。自動運転車の便利さも知れ渡ってくる。
そうなると1台目ニーズも満たせるようになってしまう。そろそろ車を買い換える頃だけど、そもそも車買う必要ある?最近むしろあっちのほうに乗ってないし、みたいになる。
新築の家は駐車場がない代わりに家が広いというのを売りにするものもでてくる。いろんな場所から駐車場が減って土地が有効活用されていく。自動運転車は動いていない間はどこにとめておけばいいんだ、となるが、昼間は稼働率が高く基本的に走り続けているから駐車場はあまりいらない。夜はちょっと離れたところにまとめて止めておけばいい。
そもそも車の数が劇的に少なくなる。いまは車は「所有する」ことになっているが、その寿命のうちほとんどの時間駐車場に止めておかれているだけだ。これが自動運転車を必要なときだけ「利用する」というモデルに変わると、必要な台数は劇的に少なくなる。
お盆みたいなピーク時は車が借りれなくて大変という話もあるが、それも的はずれな心配。いまの世界は道路のキャパに比べて車の数が多すぎて、ピーク時はすでに機能不全を起こしている。バカみたいに長い渋滞で何時間も潰れるのは大変ではなくて、家で自動運転車が来るまでくつろいで待つのが大変というのは意味がわからない。結局のところ道路が単位時間内にさばける車の台数は限界があるので、それ以上の人が同時に出発しても道路上で待つことになるだけ。
道路の効率は「スムーズに流れているけど交通量の多い状態」が一番高くて、それより車を増やしても単位時間あたりに通過できる台数は増えるどころかむしろ減る。渋滞を作らない程度に車を走らせるのが全員の時間の節約になる。
車の台数は道路がさばける以上には根本的に必要ない。いまもし全員が車を同時に運転しはじめたら凄まじい渋滞になるだろうと思うと、今どれだけ無駄な車が作られて売られているのかよくわかるはずだ。
自動運転車が増えてくれば、連結して群れになって走行するとか、発進停車が少なくなるよう信号とも同調するという方法で、道路の利用効率をグンと上げることもできる。要するに自動運転が増えると目的地に早くつく。
自動車業界は、一般の客が車を買わなくなる代わりに、少数の自動車メーカーとIT企業が多数の自動運転車を所有して、それで会員向けに運輸サービスを提供するというビジネスモデルになる。今我々の知っている一般コンシューマ向けの自動車業界は終了する。
完全な自動運転を新車のオプションとして購入するというのは現実的にはない。車を買うということがナンセンスになってくるのに、高い新車を買う上に高い自動運転オプションをつける意味がない。自動運転は整備要件も特別なものになるので車検代も高くなる。
車の生産台数が劇的に減るので既存の自動車会社は変化に適応できずに潰れるものもでてくる。買わない以上は車種とかは何でもよくなるので利幅も減る。いままでうまくできていた会社ほど逆に危ない。
しばらくは手動運転車がなくなることはない。自動運転車は人間の運転に適応できるのだからわざと退化させて手動運転を禁止する必要がない。しかし手動の車は何百万円もかかる非常に高価な趣味みたいになる。
自動運転車は設備効率がよく人件費がかからないので安価になる。子供の送り迎えも高齢者の移動も安全になる。〇〇円で毎月500キロまで乗り放題(家族でキロ共有可)みたいな料金プランもでてくる。
自動運転車に問題が起こった時は車内からオペレータにすぐにビデオで話ができるから、不測の事態(事故が起こったとか前の人が車内を汚していたとか)の心配はいらない。
所有も運行も会社がやる以上、事故の責任も完全に会社が負うことになる。会社はドライブレコーダーを搭載して事故に備えてすべての記録を残すようになる。利用者は運行には一切タッチしないので免許はいらない。
以上、自動運転車は客が新車のオプションとして選ぶような「おまけの」技術ではなく、根本的に業界を変えてしまう。そこをよく理解したほうがいい。
自分はキャバクラの黒服をしているんだが、今日恐ろしい目に遭った
相手は客
いや、それだけなら良いんだ
規定の金さえ払えれば
ドリンク交渉を行ったキャストが口を揃えて「あいつ頭おかしい。」と言うのでオタク女子のキャストを付かせてみた。
理由が分かった
ドリンク交渉をするといきなり逆上し切れ出す
弱者男性は一般的男なら分かる「これは言ったらヤバい。」っつー線引きが分かんねーんだろうな。
もちろん会計でも揉めたし、1人で何か出来るわけ無いにも関わらず強気で意味か分からなかったぜ…
正直これが子供の時よく言っていた「ガイジ。」ってヤツなんだと思った。
多分、弱者男性ってのは頭に障害があって正常なコミュニケーションが取れないんだ
生き物として欠陥があるんで子孫は残さず淘汰されるべき