青葉真司の妹とかヤングケアラーだったと思うけど
アフリカのカカオ労働の児童なんかとは別の話として語らなければ事態を矮小してしまう
宗教2世被害者とか性被害者なんかもそうだけど
高ランク弱者と絶対悪の認証済み物語として語る人は
本当の問題を隠蔽し延命させてる自覚を持ってほしいわ
]]>東大院卒、収入は二十代で600万超、正直いって自分の顔は中の上くらいなんでマッチングアプリでも全然相手は困らなかった
相手の条件は一応年収400万程度大卒以上とはしてたけど年収それ以下でも全然かまわなかったし、学校歴も問わなかった
長男はいやとかもなかったなぁ
デートは割り勘派、フードコートデートだけは嫌だけどマックとかでも全然いいよみたいな感じで活動してたけど
ただ一点、頭が悪いor良すぎるのと歯が汚いのだけはダメだった
学歴・学校歴が自分より上で頭が悪いってことはめったにないが0ではないし、同程度以下だと下がるにつれてだんだん確率があがっていく
で、頭の悪さが見えるとめちゃくちゃ誠実でいい人だってわかってても興味が消える
学歴・学校歴が自分より上はもちろん、同程度以下でもうわ〜頭いいな〜すご〜っていうひとはいるのだが、そうすると嫉妬心が芽生えてしまってどんどん卑屈になってしまうしマウント癖が出そうになって自分の矮小さが本当に辛いし相手に申し訳ない
こうして自分は結婚をやめた
性格悪いやつは淘汰されてええのよ
人を不幸にさせないために今後も結婚はしないし恋愛もしません
あと色が変わってるレベルで歯が汚いやつはまじで自分のためにもちゃんと磨こうな
]]>もちろん学も教養もない。映画も面白くなかった。
権威に据えるのは間違いなのだが、お笑いの功績があまりにも大きすぎるせいで周りが祭り上げてしまった。
最近は年のせいかその才能は鈍っていた。
みんなそういうの全部分かった上で見てるんだと思っていた。
TV番組とかでもそういうことをやっているってやや漏れ伝わってくる話だったし、今回の話も事実だと思う。最初から松本が潔白だなんて思ってない。それがトラウマ化して20年も苦しんでいる被害者女性は気の毒なのだが、後輩芸人含めて松本サイドにはやっていることの自覚・ましてや悪意などなかっただろう、というのも分かる。
やはりどこまでいっても、尼崎のチョイ悪の、あの時代のおっさんだったのだと思う。
今回一番キモいと思うのは、落ち目になったと見るや否や「空気を読んで」いきなり批評を始める連中なんだよな。
“権威”相手には絶対に声を上げないくせに。「川に落ちた犬は棒で叩け」の精神だ。
その矮小で卑屈な根性が本当に不愉快。
次に悪いのは松本を持ち上げて権威にしてしまった連中。
あのポジションにしてしまったからこそスキャンダルによってダメージ受けるような属性に変わってしまった。
浜田と一緒に外人のパンツ盗んでた頃と彼の本質は同じなのに。
]]>どうして他ゲーだとほとんどいる「あんまり好きじゃないな〜」がないのか。
ここ数日で違うゲームに触れてたことで、一定の言語化ができた気がする。
「自己理解が深い子が多いから。」
シンプルだけどもこれに尽きるかも。
具体的には、
自らの魅力を理解したうえで武器にすることも辞さないミュルジス
過酷な環境でも腐らず音を上げないヴィグナだったり
一度は絶望の縁に立っても希望を捨てなかった濯塵ハイビスだったり。
わかりやすいのは、焔影リードとしてのエピソードで彼女が一気に好きになったこと。
最初はアークナイツの子達の共通項って何じゃろなって感じだった。
でも考えてみると、テラとかいう過酷な大地に、1人の人間の矮小さをわからせられた人間がほとんどだっていうこと。
そのせいで(おかげで)、自分の身の程を知ってるキャラクターが造形されやすいこと。
それでも、明日のための希望を失わず、失って泥水啜ったとしても最終的には前を向く、
ロドスはそのための努力を最大限手助けするという物語の方向性が、私生来の「希望」の性癖にぶっ刺さったんだと思うんだよな。
ただね。
テラの世界で自己理解が深くて、現実を直視してなお自分ができることをやるカッコイイ大人がどうなるか教えてやるよ。
死ぬんだよ。
]]>アイツら馬鹿共はな、口を開けば男の悪口が止まらず、男女平等や弱者への救済を謳いながらも、弱者男は絶対に助けたがらず、女が男を助けなくて良い理由を一万個作ることに精を出す様な生き物なんだ
まともに考えてみろ
自分の意見ばかりを叫んで、弱者を助けようともしない、そんな不平等で人格の終わってる奴がいたら、本来であれば無視されるだろ
お前らはそんな馬鹿どもの意見を真面目に聞き過ぎている。動物の鳴き声みたいなもんなんだから無視してりゃ良いんだよ。無視するしかないんだよ。女を甘やかすな
男に依存し切って、男に甘え切って、男にマウントを取りたくて、精一杯思いついた男の悪口を48時間もSNSに書き続けてる馬鹿どもはな、思う存分に書かせとけ。反論するな
アイツらの人生の唯一の楽しみを奪うな。アレが女の生き甲斐で、アレしか出来ないの
生まれてきた意味が、男への悪口を書くだけで満たされる矮小な生き物なの
あんなものに反論して、お前らの貴重な時間を消費するな。自己研鑽に励め
馬鹿女のオナニーなんてのは、まともな男には理解出来ないし、理解しなくて良いんだ
肉体的にはお前ら男の労働力で食わしてもらって、精神的にはお前ら男の悪口を吐いて依存してる馬鹿どもをな、現代の男は馬鹿真面目に対等に扱い過ぎなんだよ
これは現代の男へのアドバイスだ
口汚く聞こえたかもしれないが、俺は馬鹿女の悪口なんざ言わないし、説教なんてしないよ
何故なら、救いがたく、自分のことしか考えない生き物には何を期待しても無駄だからだ
不満を聞くならな、責任感を持って、論理や公平性を保ち、女から見た社会じゃなく、ちゃんとした社会の形が分かるまとも女の話を聞け
男の犠牲を目に映した数少ない女を敬え
男親だったら、女親の子供に関する意見だけは聞いとけ
それ以外に下らない愚痴や不満を言い始めたら全て無視しろ。馬鹿女を甘やかすな
]]>ハッキリ言って、もし神さまが人間に差別を強いるのなら、そんな神さまは死んだほうがいい。
しかも死んだ方がいいですって(笑)。差別と黒人が嫌い(KKKレベル)かよ。
こういうのは一党独裁で言論や信仰の自由のない国の発想だよ。
党の決定が絶対で神様ってやつ。
]]>ジブリで宮崎や高畑の近くで働いたことがあるんだぞ!というのが自慢の種、飯の種なんだよ。
そういう人が宮崎駿という人をある意味で矮小に描いたドキュメンタリーを見たときに怒りを覚えるのはわかるような気がする。
宮崎駿は神であってくれねばならないんだ、そういう人にとっては。
でなければ、神の側近くで侍っていたということが自分の存在価値である人間にとっては大いなるダメージなのだ。
媚びへつらう。
ということを彼は批判している。
実際に媚びへつらっているのかどうかは知らない。
でも媚びへつらってあの映像が撮影できるなら幾らでも媚びへつらってやる、と思わねばドキュメンタリーなんて制作できないだろ?
なぜそんなことが理解できないのだろうか?
あの映像があるおかけで、大叔父というキャラクターが高畑勲を描いたものであるというのが実感を持って理解することが出来た。
例えば、書籍や雑誌などで鈴木敏夫がインタビューに答える形で、いや実は大叔父っていうのは高畑勲を描いたものなんですよ、と発言していたとしてもピンとは来なかっただろう。
しかし映像の中で宮崎が絵コンテを見せながら、これパクさんに似てるでしょ、と嬉々としているのを見せられれば1万字の文字で説明されるよりも遥かに伝わるものがある。
あの映像は貴重なんだ。
その貴重さがなぜ理解できないんだろうか?
その貴重なものを撮影するための手段として、媚びへつらいが必要ならなんぼでもやってやる、と思えなければ人に何かを伝えることなんて出来ない。
多分そういうところを理解できない人は創作というものは出来ない。
ものを作るということは並大抵のことじゃないんだ。
その覚悟がない人間が創作なんて出来るわけがない。
]]>こう思うようになったのは、大学時代に友達が受けた講義で教授が言っていたらしい言葉がきっかけだ
「ファッションに気を遣わないのでは、獣と同じですよ」 だいたいこういうニュアンスだ
ファッションに気を遣うのは人間だけ、人間らしさの大きな要素にファッションがある、そういう話だと思う
ぶっ殺すぞ
俺の実家で飼ってたネコは日がな一日自分の身体をベロベロやって毛並みを整え、たまに毛玉を吐いていた
コイツ、おのれの身体を舐めて毛並みを整えるくらいしか娯楽がないのか?なんて矮小な生命なんだ、と俺は思っていた
何に見せんのかもよくわからん(去勢されてたし…)のにずっと毛並みを気にしているネコの姿は、高校時代、休み時間の半分くらいを男子トイレの鏡に向かって髪を整えるのに費やしていた長髪のヤンキーに通じるものがあった
ああファッションってネコの毛繕いと本質的に同じなんだな、というのが俺の至った結論で、俺はこの結論にけっこう満足していた
それがなんだ ファッションは人間にのみ許された特権なんですゥ〜? フザけんなよ むしろ逆だっつうの
砂の城を築いて壊す、みてえなことをやってるほうがまだマシだ 万物の霊長としての矜持がすこしは感じられる
身体に巻く布の色や形を変えて喜んでるのは、ネコの毛繕いと同程度の営みで、魂のレベルが低い
Tシャツと短パンで出かけるべきなんだ すべての場所に
冬は毎日同じダウンジャケットを着て、下に着るのは中学生の時から着てるダルダルのトレーナー
それが人間らしく生きるってことだ
着飾りたい その気持ちに蓋をして、逆に着飾らないこと どうすれば一番着飾らないでいられるかを考える いや、考えない
なにも考えないってことなんだ
気候に合っていて肌に不快感のない服を着る それだけだ
あっでもこれ逆に快不快しか判断基準がない下等生物っぽさがあるな
やっぱ、考えましょう
どうやったら着飾らないでいられるかを考えるってことだ
これは、「着飾らないオレを見て!」とか「ありのままの自分を評価してくれる人がいるハズ!」みたいな話ではない
逆だ
着飾らないことで、よりモテなくなる
繁殖本能の逆を行く 何の意味もなく逆を行く
そのまったく無意味な営為を、確かな意志・自我をもって完遂することで、ひとつ万物の霊長としての矜持を貫くことができる
俺はそう信じています
]]>あと差別ではなく区別だからまちがえないように
]]>あれがものすごく異常な光景だってことをもう誰も認識してないんだな。
ポケモンシリーズにおけるプレイヤーの立ち位置は最終的にはその世界におけるチャンピオンであり、頂点そのものだ。
しかも伝説のポケモンもコンプリートしてるし、各地で犯罪組織を潰したりもしてる。
ポケモン金銀におけるレッドのような伝説的な存在そのものなんだ。
プレイヤーはあの世界においてDQの勇者の如く冒険をするわけだが、そんな人間があの世界に何人もいるはずはない。
一人に一つの世界が与えられているから出来る振る舞いであり、それはもう特別な存在なんだ。
フリーレンの世界における勇者ヒンメルが10人も100人もあの世界に存在できるわけがないのと同じだ。(魔王が100人いて幹部魔族が1000人いるならそれも可能かも知れないけどそんな世界はもう滅んでいるだろう)
だからポケモンプレイヤーが「もしもあの世界に自分が住んでいたら」と空想する時、自分を主人公にそのまま重ねたりしない。
もっと矮小な存在、ジムを攻略していてもせいぜい5つぐらいに留めた中堅レベルのトレーナーを想定するものだ。
伝説のポケモンに跨って世界を駆け抜ける本物の未来のチャンピオンなんかじゃない。
俺はそう思っていたんだが、どうも最近はそうじゃなくなってきてるようだ。
違和感が凄い。
]]>
相手が男だからではなく、立証ができない、という点でな。
まじで犯罪にしようとおもったら、性的同意の話とかになるんだけど、「ジャニーズに加入して仕事してて仕事を貰うためにいやいやジャニーに抱かれていた男」みたいなやつを、性的同意を示してなかった、とかすることができるだろうか?
もしできたとしたら、それは他の場面でやべーことになるぞ。まじで性的同意アプリ案件だ。
だから強姦ではなく、セクハラあつかいにするしかない。性加害だ。
加害呼ばわりしてるだけ、まだ極力大きくしようとしていると言える。
]]>己の矮小な存在を認めてほしくて自演でスレを伸ばしていた2ch老害の成れの果てだ
]]>刺さったから効率化とかいうふわっとした言葉を免罪符にしたいのかも知れないが。
]]>土地が高いからしょうがないんだろうけど、無理矢理感がアリアリでマンションが人気になるのも分かる
]]>立地的にすぐそこは歌舞伎町、そりゃあ広告効果は絶大なことだろう。周りを歩く疲れた顔をしたサラリーマンは(自分もその中の一人であるが)1000万どころか年間を通してその半分以下の稼ぎの人もたくさんいると考えるとなんだか微妙にやるせない気持ちになる。
ホストという職業は定期的にテレビでホストキャラの芸能人が現れたり、その羽振りの良さからかなんだかキラキラしているエンターテイメントのようなツラをして世間に顔を向けている。
ただ冷静に考えてみると実態は結婚詐欺師の方が近い。アイドルだってキャバクラだって疑似恋愛を売ってお金に変えているという点では同じ枠組みに入るがホストの場合(女性側は)付き合ってると思っている場合も多い。
そこまで行ってしまうと疑似恋愛というカテゴリーからは完全に足がはみ出てしまい金銭の享受が行われている以上カテゴリは結婚詐欺師寄りだ。税金払わないあたりも。
個人的将来息子がなったら嫌な職業ランキングではヤクザより上かもしれない。悪人になるにしてもあまりに矮小で卑劣すぎる。男としてゴミ。
暴力的なまでに明るく煌びやかな歌舞伎町、その中の風俗店にはいったい何人の女性がホストに貢ぐために知らない男のナニをジャニーしているのか、歌舞伎町を一歩出た薄暗い大久保公園にいる立ちんぼは?
(法律的にアウトな立ちんぼはともかく)風俗店で働く女性を否定するつもりはない。世界最古の職業は売春婦だというし。
ただ、大金が欲しいから、性的サービスに抵抗がないから体を売るのと彼氏(笑)に貢ぐために体を売るのとでは雲泥の差がある。そこには洗脳が介在しているから。
メンタルの弱り切った愛に飢えた女を騙して宥めて売春させて金を貢がせてます!月に1000万円売り上げてます!何を誇らしそうにトラックでキメ顔してるんだ?どう考えても一般市民の目につくところに顔を出せる人間じゃないだろ。死後聞いたこともない地獄に堕ちてくれ。
もし私のお客さんはお金を持て余している地主のマダムとバリバリ実業家の女社長、あとは趣味の範囲内でお金を使ってくれる細客です!誰一人として客を不幸にさせたことはありません!と言い切れるNo1ホストの方ががいらっしゃったら教えてください。
ただでさえ忙しいであろう閻魔大王に舌を抜くタスクを追加するのは忍びないので事前に舌を抜いといてあげようと思います。
]]>芸能界とメディアと力を得たモンスターによって生み出された構造的な問題であって、そこに男女差を持ち込む必要性はない
]]>
これは完全なる増田の映画だ。
俺は増田だ。
そこそこバズったことのある増田だ。
時には年収1000万増田だし、世帯年収600万増田だし、年収300万以下増田だし
フェミ増田だし、アンフェ増田だし、ミソジニー増田だし、反共産増田だし、反与党増田だし
システムエンジニア増田だし、教師増田だし、技術者増田だし、公務員増田だし、
反ワク増田だし、アンチ反ワク増田だし、科学信奉増田だし、アンチ科学増田だし
新婚増田だし、限界婚活増田だし、彼氏増田だし、彼女増田だし、兄増田だし、妹増田だし
母増田だし、夫増田だし、クンニ増田だし、下方婚増田だし、ポリンキー増田だ。
俺はインターネットを通じて得た知見を基に様々な増田になった。
俺以外にもいるはずだ、別の人間の知見にフリーライドしてさも何者かになったかのように
増田に書き込んでバズを狙ってきた奴らが。
この構造は完全にエブエブと一致する。
監督のダニエルズが公言している通り、
エブエブのキーになるマルチバースはインターネットのメタファーだ。
我々はインターネットを通じて今の自分ではない様々な情報、知識、経験を得ることができるし
様々な人になりきることもできる。
そのすべては「もしかしたら自分だったかもしれない誰か」だ。
しかし、そうして「すべてを知った」時に訪れるのは完全なる虚無だ。
「すべてを知った上で本当に得られる知見」というのは
自分は何者でもない単なる矮小な増田でしかないということだ。
そうして俺はあらゆる人間になって、そうしてそのあらゆる人間の敵と対決した。
常に増田を通じて対立を煽り、バズり、相手を打ち倒した気になることで自己の確立を目指した。
が、それは間違っているとこの映画は言っていた。
作中で対決によって物事を解決しようとするエブリンに対し、夫のウェイモンドは
「Be Kind(優しくしようよ)」と訴える。
俺にはそう言ってくれる人間は誰もいなかった。
俺が最初に訪れたマルチバース(通称2ch)ではすべてが闘争だった。
で、その辺で寝ちゃったのでエブエブの最後のほうはよく覚えてないんだけど、
うーんこ、れは増田の映画だなぁと思ったのでこれを書いた。
]]>自分は幼少期の病気が原因で足に障害を持っているが、何十年経っても未だに健常な足が欲しいって思ってしまう。
歩くことはできるけど完全に足を引きずってる。
学生のときは体育が死ぬほど辛かったし、運動会なんて地獄だった。
大人になっても周囲の目は気になるし、新しく知り合った人に足のことを聞かれるのも辛かった。自然と視線は下を向いてるし、人の後ろを歩こうとする。
障害以外(ゲームとか歩きを伴わない娯楽)では楽しく生活できるけど、旅行とか温泉とかは心の底から楽しめない。
メディアとかに出てくる障害者はみんなちゃんと受け止めていてすごいと思うと同時に、自分の矮小さに押しつぶされそうになる。
でもやっぱり自分の障害を受け止められないよ。自分が健常者だったらっていつも夢にみちゃうよ。どうしようもないのにね。
誰かにどうして欲しいって訳ではないけど、みんながみんな障害と向き合えてる訳ではないって知っていて欲しい。
]]>私がK子と出会ったのは、まだ雪の残る3月上旬、札幌のすすきのでのことであった。
K子は、私がごくたまに寄るカフェ兼バーでウエイトレスをやっていた。
年は30歳、身長157cm。体型はややガッチリタイプに見え、いわゆる固太りに近かった。
顔はまぁまぁ整ってはいたが、頭部はアメフトのボールのように大きかった。
完璧なメイクを追求してるようで、白塗りの土台が厚く、丸い輪郭が、さらに強調されていた。
キッチリ描いた眉に、メリハリをつけたアイライン。目元周りには、そのひとのお化粧への設計意図が表れるものだがK子の場合それは、顔の大きさを、目を拡大させることでごまかそうとする意図だった。
それとK子のメークには、悪い意味でのバランス感覚という特徴も見られた。
あちらとこちらの均衡を保とうとして、薄くするのではなく、厚く盛る方にいってしまうのである。
だから白塗りは行き過ぎて歌舞伎のようになってしまう。
さらにK子は勤務中はロングヘアーをタイトに縛ってるので、目元が上がって鋭角的になるのだが、これがふしだらで好色な印象を与えかねない外見になってしまうのだ。
ここまできては化粧も逆効果である。
それはせっかくのよい素材での料理を、調理でなくソースで惑わし、お門違いの高級感を添えたつもりの洋風メニューのようだった。
白人の風貌という、ないものねだりを追いかけた挙句、醜くなってしまったマイケルジャクソンのようであった。
K子は、そんな女だった。つまり、どこにでもいるひとだ。
K子はその日も普段どおり給仕をしていた。時刻は夜の9時。私のオーダーはグラスビールだった。
私のテーブルにもやってきた、そこで2人は始めて目を合わせた。
するとK子は私の顔を見るなりハッとした顔をして上背をやや引いた。私は「ああまたか」と思った。
なにが「またか」なのか。それはその時の私の顔が彼女にはイケメンに写った、ということの了解である。
断っておくがこれは自慢ではない。なぜなら、こうしたことは4年に一度、つまりオリンピック開催と同じ頻度でしか、私に訪れないからだ。「またか」と感じるのは、4年がさほど長くも感じられない私なりの時性であって、傲慢の致すところではない。
毎日のようにこういうことが起きる人を、真のイケメンというのだが、この程度のいわば「プチ・イケメン」なら今のご時世、結構いそうである。
私の顔は、それどころかまぁどちらかといえばブサメンである。口が飛び出た造作が特徴で、唇も厚い。佐藤浩市の2倍は厚い。
このせいで、顔の下部にボリュームが出てしまい、シャープには見えないモヤッとした風貌になっている。
目も悪いのでシカメっ面にもなりやすく、表情も暗い。
たとえるなら、ガリガリ君のような輪郭であるし、佐藤浩市の親父の三國連太郎みたいでもある。
芋というか、類人猿、合わせればゴリライモ。私はそんな顔なのである。そしてもちろん、あなたに「そんなことないよ」といってほしい、そんなケチな性分も持ち合わせているのだ。そこがまた醜い。
つまり私も、どこにでもいる人なのである。
ここ20年ほどで男もするようになった「化粧」とは、もともと目立たないもの(一重まぶたなど)を、まやかしの力で輝かせる補正技術だと思うが、私の口元のように、はじめから飛び出ているものを、平たく目立たせずに抑制する用法には、それはまったくといっていいほど役立たない。
しかし男の場合、三國連太郎がそうであったように、また、佐藤浩市がそうであるように、絶対的なブ男というものはいない。バナナマンの日村も最初見たときはびっくりしたが、慣れれば愛嬌がある顔である。
男は、風貌をある水準(清潔感と常識のあるファッションセンス、そして似合う髪型、できれば細身)まで満たせば、異性にアピールできてしまうのである。ここらへんが女子と違う。無愛想でもある程度はイケてしまうということだ。かくして私のような者でも、こうしたラッキータイミングが巡ってくるときがあるのである。
さて私にハッとして頂いた女子に対しては、私はだいたい挨拶をするようにしている。
ここでいう挨拶とは、店や本人の迷惑にならぬよう気を遣いながら、名刺を手渡すことだ。
できれば一言添える「もし、よろしければ、お近づきになれれば…」みたいなことだ。
ハッとする、させるというのは直感の神秘である。人間のあまたある能力のうちでも一二を争うような、めちゃめちゃものスゴい、宇宙の誕生レベルの認識だ。
人間(じんかん)にヴァイヴレーションが伝播する。あるひとがある人の存在にピン!とくれば、その相手にも同じピン!が、誤解も曲解もなく瞬時に伝わる。だれも解明できない感覚。こうした体感に対しては対象化なぞハナから諦め、人として素直にしたがい、謝辞を述べるのがスジというものであろう。
とりあえず自分を規定する第一歩として世の中には名前というものがある以上、名乗る。
自分から名乗ることより大切なことは、世の中にそうそうない。
「4年に一度」がいつなんどき訪れるやもしれない。そんなときのために財布に名刺を2~3枚入れておく。
こうしたなんでもない普段の心がけが、出会いを引き寄せる具体的な手段なのだ。
こうした縁で、私はK子と付き合った。世間には「よくまぁこんなサエないのと一緒になったなぁ」というのが男女問わずいるが、なんのことはない自分もその仲間入りであり、K子の方でもそう思うときがあったかもしれない。つまり、サエないのはお互い様だったのである。最初のうちは。
だがしばらくすると私にはK子の大きい顔と太い骨格が、次第にいとおしく写ってきた。
そして次に、それがかけがえのない尊さに思えてきた。
というのも付き合い始めてすぐに気づいたことだが、K子は私と最初に目が合ったホンの0.1秒の閃き、焦点で、自分の開削に成功した、まったく優れた女だったのだ。
私との邂逅によってポン!と新規開設された自我内の回路に、まったく純粋に従った。
しかもそこにいささかも世俗的な疑いを差し挟まなかった。
世俗的な疑いとは、私と付き合うことのメリットデメリットやコスパを考えることや、趣味や好みが合う合わないというような話などである。
K子はそれらを考えもしなかった。だから、デートで会ってもあまり話さず、肩を寄せ合い、手を握り腕をさすり、見つめあったりするだけだった。それでどちらも了解した。ドンと存在が大きいのである。100%ピュアな肯定性の塊。
そしてそうしたK子の態度は、私の細胞のすみずみにあまねく影響を与えた。小さな自分に固執していた私を、彼女は開放してくれた。
こういう女に慣れると、小顔ブームとか、華奢な女子やスタイルに固執するのは、矮小なことと知れる。しつこいようだが慣れればあの日村ですら、ファニーフェイスである。
K子はやがてメークが薄くなっていった。コスメへの依存を減らしていった。
単なる身だしなみ以上のそれは、まやかしだと気づいたのだ。
食事や運動に、それまで以上に気を遣い、毎日しっかり生活を積み上げていくよう、意識的に自分を導いていった。
現代人はただ毎日暮らしてゆくだけで、目に見えない「不純物」が、アカのようにたまってゆく。
社会が教育が、仕事が常識が、不純だらけだから当然だ。
人はいつも意識的に「みそぎ」をしなければならない。するとみそぎなんてしなくていいんだ、そのままのあなたでいいんだと社会その他は全力で否定する。だがそれは違う。甘言に引きづられてはいけない。やつらはあなたから銭を引き出したいだけだ。
メイクはそうした「不純物」の象徴であった。それがズバッと削ぎおとされた。
すると並行してK子の慢性的な肌荒れも改善された。
こうなると輝かしい、真の女の誕生である。
人の本来的な美しさや輝き、魅力は、外から取ってきて付け足すものでない。自分の内面から湧き出させるものだ。
こんなことは実に当たり前のことだが、不純物の洪水の中にいると気づかない。
自分から「湧き出させること」が自然に出来る人は、この世にいながら永遠を手にしたも同然なのである。
そこではあなたはわたしとなる。わたしもあなただ。
理想のカップル、なるものは知らない。知らないがそれは「人それぞれ」ではない。
たぶんそれは溶け合った1つの形態しかない。愛など、しらぬ。
以上この文は、まだ見ぬあなたと、まだ顕在化してない私を想って書いた。
<了>
]]>私がK子と出会ったのは、まだ雪の残る3月上旬、札幌のすすきのでのことであった。
K子は、私がごくたまに寄るカフェ兼バーでウエイトレスをやっていた。
年は30歳、身長157cm。体型はややガッチリタイプに見え、いわゆる固太りに近かった。
顔はまぁまぁ整ってはいたが、頭部はアメフトのボールのように大きかった。
完璧なメイクを追求してるようで、白塗りの土台が厚く、丸い輪郭が、さらに強調されていた。
キッチリ描いた眉に、メリハリをつけたアイライン。目元周りには、そのひとのお化粧への設計意図が表れるものだがK子の場合それは、顔の大きさを、目を拡大させることでごまかそうとする意図だった。
それとK子のメークには、悪い意味でのバランス感覚という特徴も見られた。
あちらとこちらの均衡を保とうとして、薄くするのではなく、厚く盛る方にいってしまうのである。
だから白塗りは行き過ぎて歌舞伎のようになってしまう。
さらにK子は勤務中はロングヘアーをタイトに縛ってるので、目元が上がって鋭角的になるのだが、これがふしだらで好色な印象を与えかねない外見になってしまうのだ。
ここまできては化粧も逆効果である。
それはせっかくのよい素材での料理を、調理でなくソースで惑わし、お門違いの高級感を添えたつもりの洋風メニューのようだった。
白人の風貌という、ないものねだりを追いかけた挙句、醜くなってしまったマイケルジャクソンのようであった。
K子は、そんな女だった。つまり、どこにでもいるひとだ。
K子はその日も普段どおり給仕をしていた。時刻は夜の9時。私のオーダーはグラスビールだった。
私のテーブルにもやってきた、そこで2人は始めて目を合わせた。
するとK子は私の顔を見るなりハッとした顔をして上背をやや引いた。私は「ああまたか」と思った。
なにが「またか」なのか。それはその時の私の顔が彼女にはイケメンに写った、ということの了解である。
断っておくがこれは自慢ではない。なぜなら、こうしたことは4年に一度、つまりオリンピック開催と同じ頻度でしか、私に訪れないからだ。「またか」と感じるのは、4年がさほど長くも感じられない私なりの時性であって、傲慢の致すところではない。
毎日のようにこういうことが起きる人を、真のイケメンというのだが、この程度のいわば「プチ・イケメン」なら今のご時世、結構いそうである。
私の顔は、それどころかまぁどちらかといえばブサメンである。口が飛び出た造作が特徴で、唇も厚い。佐藤浩市の2倍は厚い。
このせいで、顔の下部にボリュームが出てしまい、シャープには見えないモヤッとした風貌になっている。
目も悪いのでシカメっ面にもなりやすく、表情も暗い。
たとえるなら、ガリガリ君のような輪郭であるし、佐藤浩市の親父の三國連太郎みたいでもある。
芋というか、類人猿、合わせればゴリライモ。私はそんな顔なのである。そしてもちろん、あなたに「そんなことないよ」といってほしい、そんなケチな性分も持ち合わせているのだ。そこがまた醜い。
つまり私も、どこにでもいる人なのである。
ここ20年ほどで男もするようになった「化粧」とは、もともと目立たないもの(一重まぶたなど)を、まやかしの力で輝かせる補正技術だと思うが、私の口元のように、はじめから飛び出ているものを、平たく目立たせずに抑制する用法には、それはまったくといっていいほど役立たない。
しかし男の場合、三國連太郎がそうであったように、また、佐藤浩市がそうであるように、絶対的なブ男というものはいない。バナナマンの日村も最初見たときはびっくりしたが、慣れれば愛嬌がある顔である。
男は、風貌をある水準(清潔感と常識のあるファッションセンス、そして似合う髪型、できれば細身)まで満たせば、異性にアピールできてしまうのである。ここらへんが女子と違う。無愛想でもある程度はイケてしまうということだ。かくして私のような者でも、こうしたラッキータイミングが巡ってくるときがあるのである。
さて私にハッとして頂いた女子に対しては、私はだいたい挨拶をするようにしている。
ここでいう挨拶とは、店や本人の迷惑にならぬよう気を遣いながら、名刺を手渡すことだ。
できれば一言添える「もし、よろしければ、お近づきになれれば…」みたいなことだ。
ハッとする、させるというのは直感の神秘である。人間のあまたある能力のうちでも一二を争うような、めちゃめちゃものスゴい、宇宙の誕生レベルの認識だ。
人間(じんかん)にヴァイヴレーションが伝播する。あるひとがある人の存在にピン!とくれば、その相手にも同じピン!が、誤解も曲解もなく瞬時に伝わる。だれも解明できない感覚。こうした体感に対しては対象化なぞハナから諦め、人として素直にしたがい、謝辞を述べるのがスジというものであろう。
とりあえず自分を規定する第一歩として世の中には名前というものがある以上、名乗る。
自分から名乗ることより大切なことは、世の中にそうそうない。
「4年に一度」がいつなんどき訪れるやもしれない。そんなときのために財布に名刺を2~3枚入れておく。
こうしたなんでもない普段の心がけが、出会いを引き寄せる具体的な手段なのだ。
こうした縁で、私はK子と付き合った。世間には「よくまぁこんなサエないのと一緒になったなぁ」というのが男女問わずいるが、なんのことはない自分もその仲間入りであり、K子の方でもそう思うときがあったかもしれない。つまり、サエないのはお互い様だったのである。最初のうちは。
だがしばらくすると私にはK子の大きい顔と太い骨格が、次第にいとおしく写ってきた。
そして次に、それがかけがえのない尊さに思えてきた。
というのも付き合い始めてすぐに気づいたことだが、K子は私と最初に目が合ったホンの0.1秒の閃き、焦点で、自分の開削に成功した、まったく優れた女だったのだ。
私との邂逅によってポン!と新規開設された自我内の回路に、まったく純粋に従った。
しかもそこにいささかも世俗的な疑いを差し挟まなかった。
世俗的な疑いとは、私と付き合うことのメリットデメリットやコスパを考えることや、趣味や好みが合う合わないというような話などである。
K子はそれらを考えもしなかった。だから、デートで会ってもあまり話さず、肩を寄せ合い、手を握り腕をさすり、見つめあったりするだけだった。それでどちらも了解した。ドンと存在が大きいのである。100%ピュアな肯定性の塊。
そしてそうしたK子の態度は、私の細胞のすみずみにあまねく影響を与えた。小さな自分に固執していた私を、彼女は開放してくれた。
こういう女に慣れると、小顔ブームとか、華奢な女子やスタイルに固執するのは、矮小なことと知れる。しつこいようだが慣れればあの日村ですら、ファニーフェイスである。
K子はやがてメークが薄くなっていった。コスメへの依存を減らしていった。
単なる身だしなみ以上のそれは、まやかしだと気づいたのだ。
食事や運動に、それまで以上に気を遣い、毎日しっかり生活を積み上げていくよう、意識的に自分を導いていった。
現代人はただ毎日暮らしてゆくだけで、目に見えない「不純物」が、アカのようにたまってゆく。
社会が教育が、仕事が常識が、不純だらけだから当然だ。
人はいつも意識的に「みそぎ」をしなければならない。するとみそぎなんてしなくていいんだ、そのままのあなたでいいんだと社会その他は全力で否定する。だがそれは違う。甘言に引きづられてはいけない。やつらはあなたから銭を引き出したいだけだ。
メイクはそうした「不純物」の象徴であった。それがズバッと削ぎおとされた。
すると並行してK子の慢性的な肌荒れも改善された。
こうなると輝かしい、真の女の誕生である。
人の本来的な美しさや輝き、魅力は、外から取ってきて付け足すものでない。自分の内面から湧き出させるものだ。
こんなことは実に当たり前のことだが、不純物の洪水の中にいると気づかない。
自分から「湧き出させること」が自然に出来る人は、この世にいながら永遠を手にしたも同然なのである。
そこではあなたはわたしとなる。わたしもあなただ。
理想のカップル、なるものは知らない。知らないがそれは「人それぞれ」ではない。
たぶんそれは溶け合った1つの形態しかない。愛など、しらぬ。
以上この文は、まだ見ぬあなたと、まだ顕在化してない私を想って書いた。
<了>
]]>思い出して欲しい。放射性物質のウラニウム塗料が蔓延った旧時代を。そして放射性物質が医療の役に立つと、顎を失ったあの男を。が、当時の人々からすれば現代からすれば愚行そのものとしか呼べぬ行為こそが科学だったのだろう。どこまで行っても我々は不可知論者である。全ての弊害を知り得ることなどない。気が付いたら手遅れだった、無論、尊い犠牲を払われたマーキュリー夫人にしてもそうだ。彼女の時代には有害性は認識されていなかった。が、結果として彼女は今尚隔絶せられた棺に収まっている。
そう、私が言いたいのは現状の枠組み、現代で言えばトリチウムその他諸々の半減期はあれども有害に間違いはない汚水を垂れ流すことに対して危機感を持つべきだと言いたい。データはただの他人の考えた情報の推移である。アーレントは政治的な意味合いで凡庸な悪と表現した。それは取りも直さず思考を外部に委ねた、傀儡と自ら欲した存在のことを言っているのだと解釈する。確かに凡庸な一市民に一々今回の汚染水を調べろ、とは酷であるのは承知している。が、一市民に於かれては各自考えて欲しい。その上で判断して欲しいのだ。
最後に私がせめて政府に望むのは、今回の件に纏わる風評被害を被るであろう漁業関連の人々、そしてもしかすると農業の人々への手厚いフォローをお願いしたい。復興したとは言え、完全ではない。今の日本は片腕のもげた人間が雑魚寝している痩せた人に己が食べるべきものを与えているに過ぎない。そしてもしかしたら癌細胞が今すぐそこで、例えば肘でも膝でも、或は心臓で発生しているのかも知れない。その為の包括的な経過観察は最低限必要ではないか。
ここで最後に格言を記す。樽一杯のワインにスプーン一杯の汚水を混ぜると樽一杯の汚水になるのだと。
未だ我々は海水の推移をさえ解らぬ下卑た存在。矮小な科学の知識で最小限被害の少ないと見積もった先が今の対処なのだろう。それは危険だと、予め申し上げる
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