はてなキーワード: 無意識とは
どちらにしても基本2分
なんだけどこの2分が長い
格上の人とやると上手さの一つに体力をごっそり削ってくっていうのがある
同格とか初心者相手だと密着した打ち合いをやっても体力はそんなに持ってかれない
2年間という短い期間だけどやっててこれそうかな?と思うのはプロになるような人以外、攻防の全部は練習の結果だな、と
無意識にできるようになってからセンスだなんだの話になるんじゃないかな
あと体力!
2分2Rなり3Rを最後まで手を出し続けるのはもう気合と根性しかない!
どんだけ手をあげてられないくらい疲れても気合と根性で腕を上げてジャブを出す!これは技術やセンスじゃなく気合と根性!これしか解決策はない!という話
とにかくまだまだ身に着けることは多い
1.自分だけが息苦しいような気がしていたけれど、色んな人と会話してみると、どの人もそれぞれ違う悩みを抱えて、他の人に嫉妬したり、羨んだりしていることが何となく分かった。人生ってそういうものなんだと、きっとそれで大丈夫なんだと今は思う。
2.表面上、周りから見て上手くいっているように見える僕の人生も、実はあべこべでぐちゃぐちゃで、普通に社会に溶け込んでうまく生きてる人や逆にめちゃくちゃでも自分のやりたいことに全力投球で生きてる人を見ながら、どちらにもなり切れていない自分に対して少し落ち込んだり、不安になったりすることもある。でも、今はそれでいいんだとそう思う。
3.アニメ・ゲーム・小説などの物語やライブや歌などの音楽は自分に色々なことを教えてくれた。僕の人生を豊かにしてくれた。そういうものを僕はこれからも大事にしていきたい。
4.人は欲深いもので、人生の中でやりたいこと・成し遂げたいこと、やっとけばよかったなんてことはたくさんあって、そういうものは自分の中にはないと思っていても、その時々で際限なく湧き出てくるものだと思う。でも、僕はそれでいいと思う。今の自分にできること・やりたいこと・経験したい新しいことを一つでもやって、その時は「自分の人生が少し豊かになったな、よくやったな」と素直に自分を褒めてあげたい。
5.僕は少し他の人たちとは違っていて、他の人が当たり前のように気づいていることに、何年も気づかなかない。反対に、僕の中では当たり前だと思っていたことが実は他の人にとっては当たり前じゃなかったりすることも度々ある。そして、僕にとっては全く興味が無かったり、重要じゃないと思っていたことも実は他の人にとっては案外重要だったりする。そういうことがようやく分かり始めた。
6.数か月後、数年後の将来への不安があることは、決して悪いことではないように思える。それは自分の中で無意識に今日、明日はとりあえず何とかなるだろうという心の余裕を持っていることでもあるから。僕も少しずつそうなれたらなぁと今は思う。
7.僕は周りから見ても恵まれた環境にいて、人生も上手くやってきた方だと思うけど、その裏では色んなことに苦労して、悩んで「僕って生きるセンスないなぁ」とか「僕って弱いなぁ」と常々思っている。そんな自分が正直嫌いになりそうにもなるけど、でも最近はようやくそんな自分を肯定できるようになってきたそんな気がする。
8.自分で少し意識して工夫すれば、変えられる部分もあれば、自分ではどうしても変えられない部分もある。そういう時に少し「なんで自分はこうなんだろう」と落ち込んでしまうこともあるけれど、そういう所も自分の個性として受け入れていきたいと思う。
9.何か壁にぶち当たった時、人はそれを乗り越えたり、逃げたり、愚痴を吐いたりしながら、その壁に対処すると。別に乗り越えることが成長だとか逃げることが絶対に正しいというわけではない。その時の自分が考えて、選んだものによって、自分が良くも悪くも少し変わったんだなと思う日がいずれ訪れる。今はそれでいいのだとそう思うし、そういうものを大事にしていきたい。
10.自分の身近で起きている出来事に対して、僕は基本無頓着だけれど、実際に自分が同じことを経験すると、僕の想像以上にそれが大変だったり、楽しかったりすることがわかる。そういうものも大事にしていきたい。
11.自分が人生で絶対に正しいと思っている信念なんてのは案外脆くて、それに耐えきれなくなった時に僕は混乱してしまうだろう。それでも、そうやって踠き、もがいている中で気づくこともきっとあるんだと今はそう思う。
12.世の中は目まぐるしく、変化していて、自分だって世界だってどうなっていくのか分からないけれど、今は1日1日を大切に今日を平穏無事に過ごせていることに感謝したいとそう思う。
13.辛い時、悩んでいる時、自分がどうすれば良いか分からなくなってしまう時もあるけれど、その時は一旦深呼吸をして、今までの人生の中で大切だなというものを振り返って見たり、少し勇気を出して新しいことに挑戦したり、今まで話したこともないような人と連絡を取ってみたりしたいなと思う。そういうちょっとした経験を人生の糧にして大事にしたいと思う。
14.人生が辛い時、しんどい時、「どうして僕はこうなんだろう」と思ってしまう時もある。でも、そういう自分の心が疲れている時にしか見えない景色、得られないこともあるだろうと今は素直にそう思う。
15.人生には自分がどうすればいいのか、どうしたいのか分からなくなってしまう時が時々訪れる。そういう時に、自分が悩んでもがきながら、改めて思ったこと、感じたこと、やりたいと思ったこと、やった方いいなと思ったことが自分にとっての答えなんだと思う。そういったやってつまづいて、悩んできたことを僕が自分が懸命に生きた証として様々な形で残したいと思う。インターネットの掃き溜めに垂れ流しているこの他愛のない文章も自分にとってはとても大きなものなんだと思う。
昨今の日本は無秩序そのもので、政界は与党が汚職三昧、質の悪い無教養だけでなく倫理観すらない人間で占められている。
さらに、頭の悪いタレントが平気で立候補して、事もあろうに当選したりもする。
社会問題は解決するどころか日に日に増えていき、(それも政界サイドの問題が大半を占める)少子高齢化は与党からは是正するつもりもなく、税金は利権にばら撒かれるのみと思っていたら、それが日に日に加速し、今や電通も立派な中抜き業者へと成長した。
教育や研究に税金が使われることはほとんどなく、何もかも時代遅れであり、未来への投資がなされない以上、日本の未来は加速度的に悪化することが目に見えている。
現時点で国民一人当たりのGDPも絶望的に低く貧乏国としての地位が確立されているが、それでも政治家への相対的に報酬は非常に高い。
日本がどれだけ没落しているか、貧困以外の面でも、国際競争力を見てもアジア内ですら中間程度の順位だ。日本人が途上国と思っていた国はとっくに日本より可能性のある国へと成長しているのである。
諸悪の根源、カルト界の重鎮、安倍晋三の死によって、少しは無秩序な様がマシになるかと思いきや、日本全体が既にカルトに侵食されており、ガチカルトのネトウヨだけでなく、無意識カルトまでもが、今や日本のマジョリティー的な存在となっている。
これらの層が大半を占める日本では、民主主義が機能せず、ここまで衰退した日本で今尚政治に関心が低く、政党が何をやっているのかも気にしない、投票する層が何を考えているかと思えば、安倍氏主導で始まった野党へのネガティブプロパガンダによる ”野党はだらしない” という言葉だけが記憶に残り、自民党に入れるだけ。思考しないことに慣れた層が投票するだけだ。
公文書を偽装し、善人を死に追いやるような政党が平然と選ばれるのだ。
倫理観という最後の砦も機能しない。日本人はそれすら失ってしまったのだろうか?
メディアもメディアで腐敗と戦うメディアは稀有で、国家の衰退に加担し、印象操作に走る始末だ。安倍氏殺害の容疑者が勘違いして安倍を狙ったなどと、吹き込んでいるのがいい例だ。
反社の統一教会の名前すらろくに出てこない。海外メディアですら出ているのに。
この姿が世界からどう映るだろうか?国家として破綻しているとみなされ、世界から一層相手にされなくなるだろう。今まで通りATMとしての場面だけお呼ばれするだけだ。
与党に自浄作用はなく、メディアも腐敗に加担し、国民の反知性化に走るのみ。
この状況下で、何に希望を持って生きているのか、非常に気になる。
せめて人選を3世とかで分かりにくくしてくれればいいのだが、明らかに日本語がおかしいし、ハーフとかなんだと思うと吐き気がする。
テレビに出るなら、私はス〇イで母国の虐殺に加担してます、とさわやかに言ったうえでテレビに出てほしい
【参院選2022】開票特番|三浦瑠麗、東浩紀、石戸諭、夏野剛と見守ろう 3:11:00
https://youtu.be/T4HE9mY1xxc?t=11462
三浦瑠麗が安倍元総理が殺された件について聞いたところ、まっさきに統一教会について言及した福島みずほ。
開票特番の雰囲気としてはしっかりとした証拠もないのに要人の暗殺と特定団体を結びつけるのはヘイトクライムを誘う可能性もあるし、
党首がそのような言及をすること自体を問題視していた。東浩紀、石戸諭はもはや驚きを通り越して呆れていた。
三浦も驚きつつ、これはニュースになってしまう、聞いておいてなんだが自分には責任はないと思うと述べていた。
しかし一晩経ってもニュースにはなってないし、この番組における四人の反応は過剰だったように思う。
実際のところ安倍暗殺と統一教会がどのように関係があるか、次々と情報は出ているが本当のところはよくわからない。
しかしこれほどに統一教会への言及を避ける程の緊張感が発生する理由もわからない。
もちろん、根拠なしに特定の団体を叩きに走ることがヘイトクライムに繋がってしまうことを恐れているという言い方はできるのだけど、いまいちしっくりこない。
Twitterやはてブなどでは統一教会に関する言及が怒涛の如くされている気がするのだが、
やはりニュースや開票番組に出るような知識人と匿名の有象無象では温度感は異なるのだろうか。
ネットで真実を知った気でいるわけではないが、ニコ生のようなメディアでこそ突っ込んだ議論がされるべきなのではないかと思ったんだが…
統一教会についてもっと多くのメディアが報じるべきだという立場と、証拠もないのに特定団体を加害者にしてはいけないという立場。
この2つの立場は例えば裁判で被害者が加害者を訴えた時に第三者が「裁判で結果が出てないのに第三者が色々言うべきでない」と発言するのに似てて、
その発言は被害者側から「平等の立場に立とうとする加害」と避難される。だんまりするのではなくちゃんと言えよという意見だ。
しかし実際問題その場に自分が居たわけではないのだから、「加害者は悪い!」と断言することはリスクが多すぎる。
それゆえ、何も言わないことが第三者としては結局マイナスのない安定択なのだ。
これを踏まえると三浦瑠麗ら四人が福島みずほの統一教会発言を非難したのも理解はできる。
証拠もないのに特定団体の名を出して死者が出てる事件と結びつけて言及するべきではない。ましてや党首が。
しかし、それでもなお統一教会についての言及があの場でされることに対してそれほど問題には感じられないのだ。
それは無意識で自分が、加害者側に気持ちが寄り添ってしまっているからなのかもしれない。
ネットにおける情報も、統一教会に関連する様々な情報がニュースで明らかになればなるほど「ああやっぱり!」と合点がいく気になってしまう。
しかし、自分にとって都合が良い情報は、無意識に選別してインプットしてしまう傾向にあるのがわかる。
根拠のない状態で統一教会とテロを結びつけてしまう考え自体が陰謀論の沼にハマってしまっている。
4回って言い方でわかる人もいるかもしれない。私は関西の大学生だ。頭は良くないけど、そんなに後悔しない大学生活だった気がする。まだまだやりたいことあるしね。
本来なら舌ピなんて1回で開けて楽しんで就活を前に閉じるものかもしれないけど、私はやっと内定が出た直後に開けた。そこの会社に行くかはまだ迷っているけど、我慢できなかったので。
ピアスは病院で開けた。ニードルかなと思ったらピアッサーで、少しずれてしまったけどまぁ満足してる。開けたのは先週土曜だから、そろそろ3日くらい。まだじんわり痛いし、違和感もある。舌を火傷した時や、口内炎が出来たような痛み。咀嚼すると痛みが強くなる。熱いものは駄目。辛いのとアルコールと煙草は控えている。奥歯の方に押し込めるものは割と食べれる。スープや飲み物や豆腐とかプリンは全く問題なし。茶碗蒸しが大活躍している。
両耳たぶは開いてるけど、他は開けてなかった。
耳は高校の卒業式のその日に開けた。アマゾンで買った一番安いピアッサーで、その日に。高校は校則が厳しくて、携帯持ち込み禁止、寄り道禁止、髪染めピアス禁止、アルバイト禁止、SNSのアカウント作るの禁止、他にも色々禁止だった。校則に書いてあるだけとかじゃなくてほんとに先生に見つかったら指導されるレベルの厳しさだった。有名ではないけど幼稚園からある女子校だからそんなものかもしれない。今となっては懐かしいけど、それは私が隠れてバイトもSNSも寄り道もしていたからで、真面目に守っていたならきっと後悔していただろう。
一度無断で休んだ時は反省文を書かされた。学校へ行くくらいなら死のうと思ってホームドアのない電車を探していた時、行かなくてもいいんじゃないかと思った。先生や親も死ぬよりサボる方が嬉しいんじゃないかなんてやたら冷静に客観視してた。反省文を書きながらこれは何の反省なんだろうと思った、だって死ぬか行かないかの二択だったのに。
両耳のピアスは私としては早かったが世間的には遅いだろう。私はいつもそうだった。みんなより全部遅い。化粧を覚えたのも高校3年だった。
前髪を初めて作ったのもはたちになる少し前だ。高校生の時から散々ある方が可愛いだろうと言われていたし思っていたのに。
髪を初めて染めたのもはたちすぎてから。しかもインナーの一部で殆ど分からないくらい暗い青だった。でもそれがきっかけで色んな色をやった、インナーだけど。大学入って直ぐに染めてたらもっと色んな色が出来たのにとも思う。
次は全頭してみたいと思っている。遅いかもしれないけど、遅すぎはしないだろう。だって大学生だし。ぎりぎり。
いつも遅い。みんながやり始める頃にはそんなの興味無いとばかりに見ていて、後からやりたくなってもっと早くても良かったなと後悔する。そしたらもっと楽しめたのに。
成人した直後からワインを飲んでいる。家にカクテルセットがあるというと驚かれる、大学生では珍しいかもしれない。日本酒もすき、ジントニックもすき。クラフトビールもすき。そんな感じ。
幼少期に読んでた本は大抵大人びていた、気がする。少しだけ。英才のように文豪たちを読破したとかカントを読んだとかはない。今はキルケゴールの死に至る病を買って、大学生だと言うのに意味が分からなくて呻いている。もしこれを読んだ方の中に哲学好きな方がいたら、あれを上手く読み解く為のコツとか解説書なんかを教えて欲しい。
閑話休題。
遅いとか早いとか、そういうことは無意識に思ってしまう。早いうちに触れるのはいいことだ、何歳になっても遅いなんてことは無い。そうは言っても現実はその通りでは無い。
小説家やイラストレーターになりたかった。学生のうちに仕事を受けられるようになっていなければそれで生計を立てるのは難しい。そもそもいちばん暇な大学生でプロのレベルまで出来なかったのは才能がないのだろう。能力ではない、やり続けるという才能が。
研究者になりたかった。小学生の頃の行きたい大学はマサチューセッツだった。ちなみに今も昔も英語ができたことは無い。向き合う度に外国語は向いていないことをひしひしと感じる。
研究者に憧れがある、科学者、数学者、天文学者、宇宙の真理やこの世の理、最先端の技術、未知の可能性、人類の進化、魔法と区別がつかなくなるまで発展する科学技術。無闇な憧れだ。論文も本も何も理解出来ず、どういうふうに系統だっているのかも分からない。でも憧れている。でももう遅い。私はサインコサインすら分からない。
頭がいい、と思っていた。昔は。人と会話することもある程度得意だ。
国語は勉強しなくても偏差値が取れた。小学生で漢検2級を取った(これは母の全力の献身によるものだ、私の努力ではない)。他の教科も聞いてたら何とかなった。でも中学2年くらいから授業を聞かなくなって、数学や理科ががくんと落ちた。相変わらず国語はトップ近くで、社会は本から得た知識でなんとかなって、英語は長文とリスニングで何とかした。文法はからきしだった。
高校ではやれば出来るのにと言われ続けた。地頭は良いのにと。そうかもしれないと思っていた。そう思いたかった。
でもそうでは無いのだろう。
本を読んでも理解できないことが増えた。読み終わっても中身を忘れることが増えた。あんなに無限に読めると思っていた本を、もうしばらく最後まで読めたことは無い。難しくなったら駄目だった、ライトノベルは多分いまでもサクサク読める。
私は天才でも秀才でもなくて、やる気とかいう最大の生まれ持つ才能も持っていなくて、やる気がなくてもなんとかなる能力もなくて、全く興味の湧かない仕事内容の会社に就職しようとしている。
昔はゲームなんて時間の無駄だと本気で思っていた。それなら勉強した方が世界も広がって能力も高まって良いと。
勉強なんてもう何年もしていない。ソシャゲに毎日数時間と毎月数万を使う立派なソシャカスだ。
ピアスやタトゥーには憧れていた気がする。酒や煙草にも。アウトロー感のあるものには憧れがあって、でもテンプレートな安い人間にはなりたくなかった。でもなってしまった。
白衣を着て、日本でも有数の大学院で試験管を持ったり数式を書き散らしたり、ドイツ文学やフランス文学を原文で読んで純粋理性批判について論文を書くような学生だったら、髪がペールブルーとターコイズの二色で舌や唇にピアスが開いてて身体にタトゥーが入ってたら最高にかっこよかったかもしれない。
そんな格好をしている美大生なんて山ほどいる。
そんな格好をしている鬱の社会不適合者なんて山ほどいる。
私がなりたかったものにはもう一生なれなくて、それでも表面だけで真似できるものだけ、努力しなくてもできるものだけ、真似している。
大学は楽しかった。散々文句を言ってやる気がなくてチャイムがなって数十分後に来てチャイムと同時に帰っていたけど、物を作るのは楽しかった気がする。ともだちもいる。そうそう人を友人と口に出せない私が友達だと確信を流石に持てるくらいには仲がいい、はず。
桜の咲く公園で夜にビールを飲んだり、宅飲みでマリカしたり、自主休講して展示を見てパフェを食べたり、ナイトプールにいったり、ディズニーとユニバにいったり、覚えてもいないくらいたくさん話して笑ってた。最近は知り合いの家に酔った勢いで雀卓をアマゾンで買って送り付けてルールを説明した。自分も分かってないのに。
彼らにとって大した思い出でもないかもしれないが、私にとっては一人では死んでも得られないそれらをくれた事に死ぬほど感謝している。
ずっと死にたいという思いはあって、でもその中にもう死んでも構わないというポジティブな希死念慮があることは間違いなく楽しかった大学生活のお陰だろう。いやなこともたくさんあった、アルバイトも大変だった。バイト先に警察が来たこともあった、これはいい経験だけど。人生で経験できることはできるだけしておきたいので普通にその時も良かったなと思っていた、店からはたまったものじゃないだろうが。
そんな気持ちだからバンジージャンプも行ったりした。単に絶叫好きなだけかもしれないが。ピアスもその一環かもしれない。開けなければどんな痛みかなんて知らない。舌ピ開いてるあのキャラクターとかも、開けた直後はポタージュとか豆腐とか食べてたのかな、と思うとちょっと面白い。
シーシャも行った。今度葉巻もいく。
努力の要らないものばかり。ボランティアでもしてみれば良かったな。したい気持ちはあるけれど時間とか労力とかいきなりその日鬱になったらとか思うとなかなか出来ない。
習い事もしてみたかった。音楽がからっきしだから何か楽器とか。バレエとかダンスとかにも興味がある。踊るのはすきだ、振り付けは真似するのが苦手だから即興ばかり。音楽を流して踊り続けるのだけは得意だ、人に見せたことは一度もないけど。あとボルダリングとか、薙刀とか、色々やってみたかった。
そういう系だとサバゲーもある。これはサークルに思い切って入った。楽しかった。銃を買ったけれどコロナでサークルが停止してそのままなくなってしまったので一度もフィールドで撃てなかった。いつか思いっきり撃ちたい。
スキーやスケートは好きだから、フィギュアスケートもやってみたかった。ずっと憧れはあるけどスケートリンクが近くにあったことがないのでこれはしょうがない。
バイクにも乗ってみたい。一度後ろに乗せてもらって、免許取りたいといったけれど、結局バイクを持つのが大変なことやお金を考えて取っていない。
美容にはすぐお金を使ってしまう。というか費用対効果だ、時短になるならやっておきたい。二重はやった。脱毛はもうすぐ一回目がある。まつパもやりたい。レーシックもやりたいけどカラコンを入れなくなりそうだと思うとちょっと躊躇する、眼鏡も少し気に入っているので。外した方が可愛いけど。
少しでもかわいくなりたい。自分が死ぬほどかわいくなくて、死ぬほど魅力がないのを知っているから、少しでもってなってしまう。
アイドルになりたかった。歌手でも俳優でもいい。最近はミュージカルがすきだからミュージカルにも憧れる。服のモデルもいい、写真撮られるのも色んな服を着るのもだいすきだ。
でも私は人前が苦手だ。頭で苦手だと思ったことはない、好きなアーティストのライブにいっても、こんなにたくさんの人の前で歌ってこんなにたくさんの人に愛されるのはどれだけ快感だろうということを考えてしまう。
でも人前に出ると勝手に身体が震えて、平衡感覚がおかしくなって、喋れなくなる。大学の発表でもそうだ。上手く話せなくなる。頭は冷静だから対処はできるけど、身体は勝手に震える。
人前というか知らない人と歌う機会があったことも少しあって、褒められたら嬉しかった。けど歌手やアイドルになれるほどじゃない。顔も可愛くないし、ダンスも下手だ。自分では出来てるつもりでいても動画を見るとキレのなさに絶望する。これは本当に才能だと思う。
女の子のアイドルゲームが出来ない。羨ましくなってしまうから。男の子なら普通に推せてたまに羨ましくなるくらいだけど、同性だと近いから難しい。でもなりたいのは男の子のアイドルだ、イケメンと一緒に可愛い女の子にキャーキャー言われるなんて最高じゃん、と思う。
先生になりたかった。人に物を教えるのはすきだ。上手い方だと思う、友人に教える時も。相手の知識量や理解力に合わせて単語に解説をいれ、分量を変え、分かりやすそうな例えを使う。フラットな目線を持っているとも自負しているし、向いている気もしてる。先生と言うよりかはマンツーマンで指導する方が向いているかもしれない。
でも一度家庭教師に登録していて、仕事の話もあったけど、大学名で難色を示された。多分向こうの親御さんが文系か理系の学生がいいと言ったんだろうな、とぼんやり思った。同じ大学でも塾講師をしている子はいるので普通に学力があれば大丈夫なんだろう。私には教える力はあっても学力はない。でもやる気がなかったからこそやる気を出させたり、本を解説するのだけは本当に上手いと思うのだけど……まぁ、仕方ない。
他にもいろいろ夢はある。理想の生活もたくさんある。でももう叶わない。分岐点はとっくの昔にある。
今できる楽しそうなことだけを積み重ねて、本は難しくて気力がない時には読めないからソシャゲの周回とTikTokをして、少しずつあの日の高潔な私が死んでゆく。取り返しはもうつかない。じきに働かなきゃいけなくなる、働けるかは分からないけど。
せめてできる新しいことをしようと思って日記を書いた、ちょっと憧れていたから。ツイッターでフォローしてる文章の上手い人のnoteが良かったから、ああいうものを書きたいと思った。
私は承認欲求が強い。物凄く。いいねひとつに一喜一憂して、私より評価されている人全員が羨ましくて、なんとかいいねをしてくれそうな人に届いて欲しいけどそれを表に出せない。せめてタグをつけてRTをするくらいだ。
私は私の作品が好きでも、クオリティが低いことは知っていて、それでも好きだと言って欲しくて、でも他の有象無象の、私から見てあまりにも稚拙で低俗な作品といっしょくたにいいねされてると悲しくなる。こういうところが本当に性格が悪いと思う。けれど好悪はもう変えられないし、今更承認欲求も手放せない。昔は承認欲求なんてないと、どうでもいいと、むしろそれを持っている人になんでそんな感情を持つんだろうと疑問にすら思っていたのに、自分に承認欲求があるとしたら全てが腑に落ちた。無いと思い込んでいても消せなかったものは、多分もう消えてはくれない。
私は自分が底辺であることを知っていて、それでも結局どこかによく見られたいという願望が残っていて、ナルシストなところもあって、性格の悪さもあって、それがこの文章からも滲み出ていることが本当にいやで、でも取り繕うことすらしないのも嫌だからどうしようもない。
理想の自分になりたかったと思いながら、今日も自分をひとつ成長させてくれるはずの買い込んだ本をめくることすらできず、朝になった。
この文章は最初からひたすら思いついたことを脱線するまま書いて、読み返しや修正もしていない。
どうせ誰にも刺さらないことを知っている。私の作品が好きですという感想を匿名で貰ったことは一度もない。一度も。本の感想も。
最後まで読んでくれた人が数人でもいたら御の字だろう。
それでも誰かが読んでくれて、コメントをしてくれることを夢見ている。認めたくないけど、心のどこかであわよくばインフルエンサーとかがTwitterに投稿したりして、バズって、はてな文学みたいな扱いを受けたりしないかななんて期待している。醜い。でもこの醜い感情を抱えていたくないから書いてしまおう。心に秘めていたりツイッターでぼかしながら細切れに話してることを、全部思いのまま書きたくてこの文章を書いた。
何が刺さるんだと言われたら自分でも分からない。実力以上の評価が欲しい訳でもない。努力もしないくせに数字だけ貰えるなんてことはないと分かっていて、それでも楽なことの方がすきでそちらを選ぶ。趣味だからなんて言い訳せずに絵の練習でもしていたら今頃もう少しましだっただろうか。漫画も描きたかった、漫画の方がバズるから。表現媒体としても面白い、ネタを思いついても小説では書けないこともある。でも描こうとしても絵が下手すぎて結局再現は出来ない。
楽な方に楽な方に流れている。
ひとつ開けたら憧れの気持ちが止まらなくなってしまった。人生で一回は開けておきたい、テンプレートに近づくとしても。死にたいとか鬱だ何だとかいっている言葉が、昔より軽くなりそうだ。ファッションが変わっても私の中身は何も変わらないのに。
楽な娯楽だ。努力しなくてできる変化、合法的な自傷。腕を切ったことはない、痛いから。でも首を絞めることはある。いつか首を吊るためのシミュレーションのように。一度失敗したきりだけど、いつかはきっと死ぬだろう。寿命まで耐えられるとは思えない。
本当は耐えて欲しい。耐えられるくらいでいい、その程度でいいから、幸せになりたい。
普通の人になりたい。創作をする、私は天才だと思っている友人は、死にたいけれどその死にたさも自分だから治らなくていいと言っていた。
私は幸せになりたいから心療内科に通った。意味はあんまりないけれど。
これを書いている間もずっと舌が痛い。これが収まる頃にスクランパーとインダストリアルを開ける。思い切り食事ができるのはまだ先になりそうだ。
何度も終わらせようといい感じに結べそうな文を書いているのに書きたいことが溢れてしまう。
私は人に知って欲しいたちだ。なんでも、やったことや見たもの、感じたことや思想、なんでもすぐツイートしてしまう。勿論セーブはかなりしているけれど。そしてそのツイートを全部見て欲しいと思ってしまう。何故なら私は好きな人のツイートを全部見たいタイプだから。ある程度好意を持っていたら何を喋っていたか知りたいかなんて当たり前だと思うけど、世の中では意外と少数派らしい。でも私の中ではそれが当たり前だから、ツイートを見ていないと言われる度にそんなに私に興味がないのかと傷つく。表には出さないようにしている、めんどくさいと思われるから。でもあえて出す時もある、相手が平気そうだったり、そういうキャラで私がやっていけそうなら。メンヘラちゃんのキャラでいたら、少しだけ私の本音を言うことができる。
だからひたすら書き連ねるのは楽で楽しくて、でと整理されてない文章なんて誰も読みたくないだろう。でも日記というか、書き散らしというか、日々の所感としてはこんなものかもしれない。
舌が痛いし眠くなってきた。多分何も無ければ無限に喋り続けられるだろう。自分の話をするのが好きだ、相手に知ってもらいたいから。好きな人のことはなんでも知りたい、血液型とか、健康診断の話になった時の視力とか、すぐメモってしまう。私の記憶力が悪すぎてメモっているだけで、覚えておきたいというだけなんだけど。締めに頭の中で用意しておいた文章のストックがもうない。前のを引っ張ってこよう。ちょっと書き換えて。
そうやって楽な方に楽な方に流れている。
今度はスクランパーとインダストリアルを開ける。お手軽な変化を得て、なんとかぎりぎり生きている。バイトの当欠も、説明会のキャンセルも、自主休講にしすぎな大学も、なんとかなってるとは言えないけど、取り敢えずまだ致命傷ではない。致命傷ではないけど、ゆるやかに死んでいくのだ。
きっと今の私は、昔の私が一番なりたくなかった姿だろう。働きたくないとか甘えるやつ、努力しないやつ、後回しにするやつ、遅刻するやつ、頭の悪いやつ、死にたいと
【参院選2022】開票特番|三浦瑠麗、東浩紀、石戸諭、夏野剛と見守ろう 3:11:00
https://youtu.be/T4HE9mY1xxc?t=11462
三浦瑠麗が安倍元総理が殺された件について聞いたところ、まっさきに統一教会について言及した福島みずほ。
開票特番の雰囲気としてはしっかりとした証拠もないのに要人の暗殺と特定団体を結びつけるのはヘイトクライムを誘う可能性もあるし、
党首がそのような言及をすること自体を問題視していた。東浩紀、石戸諭はもはや驚きを通り越して呆れていた。
三浦も驚きつつ、これはニュースになってしまう、聞いておいてなんだが自分には責任はないと思うと述べていた。
しかし一晩経ってもニュースにはなってないし、この番組における四人の反応は過剰だったように思う。
実際のところ安倍暗殺と統一教会がどのように関係があるか、次々と情報は出ているが本当のところはよくわからない。
しかしこれほどに統一教会への言及を避ける程の緊張感が発生する理由もわからない。
もちろん、根拠なしに特定の団体を叩きに走ることがヘイトクライムに繋がってしまうことを恐れているという言い方はできるのだけど、いまいちしっくりこない。
Twitterやはてブなどでは統一教会に関する言及が怒涛の如くされている気がするのだが、
やはりニュースや開票番組に出るような知識人と匿名の有象無象では温度感は異なるのだろうか。
ネットで真実を知った気でいるわけではないが、ニコ生のようなメディアでこそ突っ込んだ議論がされるべきなのではないかと思ったんだが…
統一教会についてもっと多くのメディアが報じるべきだという立場と、証拠もないのに特定団体を加害者にしてはいけないという立場。
この2つの立場は例えば裁判で被害者が加害者を訴えた時に第三者が「裁判で結果が出てないのに第三者が色々言うべきでない」と発言するのに似てて、
その発言は被害者側から「平等の立場に立とうとする加害」と避難される。だんまりするのではなくちゃんと言えよという意見だ。
しかし実際問題その場に自分が居たわけではないのだから、「加害者は悪い!」と断言することはリスクが多すぎる。
それゆえ、何も言わないことが第三者としては結局マイナスのない安定択なのだ。
これを踏まえると三浦瑠麗ら四人が福島みずほの統一教会発言を非難したのも理解はできる。
証拠もないのに特定団体の名を出して死者が出てる事件と結びつけて言及するべきではない。ましてや党首が。
しかし、それでもなお統一教会についての言及があの場でされることに対してそれほど問題には感じられないのだ。
それは無意識で自分が、加害者側に気持ちが寄り添ってしまっているからなのかもしれない。
ネットにおける情報も、統一教会に関連する様々な情報がニュースで明らかになればなるほど「ああやっぱり!」と合点がいく気になってしまう。
しかし、自分にとって都合が良い情報は、無意識に選別してインプットしてしまう傾向にあるのがわかる。
根拠のない状態で統一教会とテロを結びつけてしまう考え自体が陰謀論の沼にハマってしまっている。
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みんなで、どうやったら容姿を度外視して他人を好きになれるか、活発に議論してるぞ。
ほーらやっぱり「人を好きになる努力」って存在するじゃねーか。
「ねえ増田、人が人を好きになるのは結果であって、誰かを好きになる努力なんて存在しないよ」
なんて宣っていらっしゃった。
恋愛の好意が無意識下にあろうとも、人間には自由意志があるのだから、環境を変えたり価値観をアップデートしたりして影響を与えることはできるんだ。
恋愛対象として見れない?
違うよね。
1.自分だけが息苦しいような気がしていたけれど、色んな人と会話してみると、どの人もそれぞれ違う悩みを抱えて、他の人に嫉妬したり、羨んだりしていることが何となく分かった。人生ってそういうものなんだと、きっとそれで大丈夫なんだと今は思う。
2.表面上、周りから見て上手くいっているように見える僕の人生も、実はあべこべでぐちゃぐちゃで、普通に社会に溶け込んでうまく生きてる人や逆にめちゃくちゃでも自分のやりたいことに全力投球で生きてる人を見ながら、どちらにもなり切れていない自分に対して少し落ち込んだり、不安になったりすることもある。でも、今はそれでいいんだとそう思う。
3.アニメ・ゲーム・小説などの物語やライブや歌などの音楽は自分に色々なことを教えてくれた。僕の人生を豊かにしてくれた。そういうものを僕はこれからも大事にしていきたい。
4.人は欲深いもので、人生の中でやりたいこと・成し遂げたいこと、やっとけばよかったなんてことはたくさんあって、そういうものは自分の中にはないと思っていても、その時々で際限なく湧き出てくるものだと思う。でも、僕はそれでいいと思う。今の自分にできること・やりたいこと・経験したい新しいことを一つでもやって、その時は「自分の人生が少し豊かになったな、よくやったな」と素直に自分を褒めてあげたい。
5.僕は少し他の人たちとは違っていて、他の人が当たり前のように気づいていることに、何年も気づかなかない。反対に、僕の中では当たり前だと思っていたことが実は他の人にとっては当たり前じゃなかったりすることも度々ある。そして、僕にとっては全く興味が無かったり、重要じゃないと思っていたことも実は他の人にとっては案外重要だったりする。そういうことがようやく分かり始めた。
6.数か月後、数年後の将来への不安があることは、決して悪いことではないように思える。それは自分の中で無意識に今日、明日はとりあえず何とかなるだろうという心の余裕を持っていることでもあるから。僕も少しずつそうなれたらなぁと今は思う。
7.僕は周りから見ても恵まれた環境にいて、人生も上手くやってきた方だと思うけど、その裏では色んなことに苦労して、悩んで「僕って生きるセンスないなぁ」とか「僕って弱いなぁ」と常々思っている。そんな自分が正直嫌いになりそうにもなるけど、でも最近はようやくそんな自分を肯定できるようになってきたそんな気がする。
8.自分で少し意識して工夫すれば、変えられる部分もあれば、自分ではどうしても変えられない部分もある。そういう時に少し「なんで自分はこうなんだろう」と落ち込んでしまうこともあるけれど、そういう所も自分の個性として受け入れていきたいと思う。
9.何か壁にぶち当たった時、人はそれを乗り越えたり、逃げたり、愚痴を吐いたりしながら、その壁に対処すると。別に乗り越えることが成長だとか逃げることが絶対に正しいというわけではない。その時の自分が考えて、選んだものによって、自分が良くも悪くも少し変わったんだなと思う日がいずれ訪れる。今はそれでいいのだとそう思うし、そういうものを大事にしていきたい。
10.自分の身近で起きている出来事に対して、僕は基本無頓着だけれど、実際に自分が同じことを経験すると、僕の想像以上にそれが大変だったり、楽しかったりすることがわかる。そういうものも大事にしていきたい。
11.自分が人生で絶対に正しいと思っている信念なんてのは案外脆くて、それに耐えきれなくなった時に僕は混乱してしまうだろう。それでも、そうやって踠き、もがいている中で気づくこともきっとあるんだと今はそう思う。
12.世の中は目まぐるしく、変化していて、自分だって世界だってどうなっていくのか分からないけれど、今は1日1日を大切に今日を平穏無事に過ごせていることに感謝したいとそう思う。
13.辛い時、悩んでいる時、自分がどうすれば良いか分からなくなってしまう時もあるけれど、その時は一旦深呼吸をして、今までの人生の中で大切だなというものを振り返って見たり、少し勇気を出して新しいことに挑戦したり、今まで話したこともないような人と連絡を取ってみたりしたいなと思う。そういうちょっとした経験を人生の糧にして大事にしたいと思う。
14.人生が辛い時、しんどい時、「どうして僕はこうなんだろう」と思ってしまう時もある。でも、そういう自分の心が疲れている時にしか見えない景色、得られないこともあるだろうと今は素直にそう思う。
15.人生には自分がどうすればいいのか、どうしたいのか分からなくなってしまう時が時々訪れる。そういう時に、自分が悩んでもがきながら、改めて思ったこと、感じたこと、やりたいと思ったこと、やった方いいなと思ったことが自分にとっての答えなんだと思う。そういったやってつまづいて、悩んできたことを僕が自分が懸命に生きた証として様々な形で残したいと思う。インターネットの掃き溜めに垂れ流しているこの他愛のない文章も自分にとってはとても大きなものなんだと思う。
ワイは無意識で生きてるやで
1.自分だけが息苦しいような気がしていたけれど、色んな人と会話してみると、どの人もそれぞれ違う悩みを抱えて、他の人に嫉妬したり、羨んだりしていることが何となく分かった。人生ってそういうものなんだと、きっとそれで大丈夫なんだと今は思う。
2.表面上、周りから見て上手くいっているように見える僕の人生も、実はあべこべでぐちゃぐちゃで、普通に社会に溶け込んでうまく生きてる人や逆にめちゃくちゃでも自分のやりたいことに全力投球で生きてる人を見ながら、どちらにもなり切れていない自分に対して少し落ち込んだり、不安になったりすることもある。でも、今はそれでいいんだとそう思う。
3.アニメ・ゲーム・小説などの物語やライブや歌などの音楽は自分に色々なことを教えてくれた。僕の人生を豊かにしてくれた。そういうものを僕はこれからも大事にしていきたい。
4.人は欲深いもので、人生の中でやりたいこと・成し遂げたいこと、やっとけばよかったなんてことはたくさんあって、そういうものは自分の中にはないと思っていても、その時々で際限なく湧き出てくるものだと思う。でも、僕はそれでいいと思う。今の自分にできること・やりたいこと・経験したい新しいことを一つでもやって、その時は「自分の人生が少し豊かになったな、よくやったな」と素直に自分を褒めてあげたい。
5.僕は少し他の人たちとは違っていて、他の人が当たり前のように気づいていることに、何年も気づかなかない。反対に、僕の中では当たり前だと思っていたことが実は他の人にとっては当たり前じゃなかったりすることも度々ある。そして、僕にとっては全く興味が無かったり、重要じゃないと思っていたことも実は他の人にとっては案外重要だったりする。そういうことがようやく分かり始めた。
6.数か月後、数年後の将来への不安があることは、決して悪いことではないように思える。それは自分の中で無意識に今日、明日はとりあえず何とかなるだろうという心の余裕を持っていることでもあるから。僕も少しずつそうなれたらなぁと今は思う。
7.僕は周りから見ても恵まれた環境にいて、人生も上手くやってきた方だと思うけど、その裏では色んなことに苦労して、悩んで「僕って生きるセンスないなぁ」とか「僕って弱いなぁ」と常々思っている。そんな自分が正直嫌いになりそうにもなるけど、でも最近はようやくそんな自分を肯定できるようになってきたそんな気がする。
8.自分で少し意識して工夫すれば、変えられる部分もあれば、自分ではどうしても変えられない部分もある。そういう時に少し「なんで自分はこうなんだろう」と落ち込んでしまうこともあるけれど、そういう所も自分の個性として受け入れていきたいと思う。
9.何か壁にぶち当たった時、人はそれを乗り越えたり、逃げたり、愚痴を吐いたりしながら、その壁に対処すると。別に乗り越えることが成長だとか逃げることが絶対に正しいというわけではない。その時の自分が考えて、選んだものによって、自分が良くも悪くも少し変わったんだなと思う日がいずれ訪れる。今はそれでいいのだとそう思うし、そういうものを大事にしていきたい。
10.自分の身近で起きている出来事に対して、僕は基本無頓着だけれど、実際に自分が同じことを経験すると、僕の想像以上にそれが大変だったり、楽しかったりすることがわかる。そういうものも大事にしていきたい。
11.自分が人生で絶対に正しいと思っている信念なんてのは案外脆くて、それに耐えきれなくなった時に僕は混乱してしまうだろう。それでも、そうやって踠き、もがいている中で気づくこともきっとあるんだと今はそう思う。
12.世の中は目まぐるしく、変化していて、自分だって世界だってどうなっていくのか分からないけれど、今は1日1日を大切に今日を平穏無事に過ごせていることに感謝したいとそう思う。
13.辛い時、悩んでいる時、自分がどうすれば良いか分からなくなってしまう時もあるけれど、その時は一旦深呼吸をして、今までの人生の中で大切だなというものを振り返って見たり、少し勇気を出して新しいことに挑戦したり、今まで話したこともないような人と連絡を取ってみたりしたいなと思う。そういうちょっとした経験を人生の糧にして大事にしたいと思う。
14.人生が辛い時、しんどい時、「どうして僕はこうなんだろう」と思ってしまう時もある。でも、そういう自分の心が疲れている時にしか見えない景色、得られないこともあるだろうと今は素直にそう思う。
15.人生には自分がどうすればいいのか、どうしたいのか分からなくなってしまう時が時々訪れる。そういう時に、自分が悩んでもがきながら、改めて思ったこと、感じたこと、やりたいと思ったこと、やった方いいなと思ったことが自分にとっての答えなんだと思う。そういったやってつまづいて、悩んできたことを僕が自分が懸命に生きた証として様々な形で残したいと思う。インターネットの掃き溜めに垂れ流しているこの他愛のない文章も自分にとってはとても大きなものなんだと思う。
女らしさも男らしさも、押し付けているのは男女含む既存社会で、らしさを受け入れている人が同性にも無意識におしつけてることがよくある。で、女は全体にむけて押し付けるなと言う場合は既存社会=男性社会と言いがち。個別には女に対しても女らしさを押し付けるなって言うけど(姑とかには言う)ね。女コミュニティの中で、女に対して女が「女らしさを押し付けるな」と言うのは攻撃的で暮らしにくいけど、もう少し言ってもいいとは思う。
男も「男らしさを押し付けるな」って男にも女にも言っていいと思うよ。長男教の母親とか、金出せ責任取れ男だからと言う人とかに。今の時代なら、「女は養われてろ女に責任持たせられん」に文句いって嘲笑われた昔よりかは、聞く耳持つ人が多いと思う。
3ヶ月前に入籍した。夫婦で仲が悪いわけじゃない、でも会話が少ない(ほぼない)し一緒にお店入っても無言の時間がよくあるし、家でもご飯時以外別々の部屋にいる。もはや住む家の家賃を出してもらってる以外に私が夫といる理由って何…?状態。
私一人の給料では暮らせないから、私はこの状況がさみしくても夫といるのかもしれないけど、じゃあ夫は何?どうして私と一緒にいるの?ボランティア?(夜の関係も一切なし)
気持ちがのっぺりと平坦になっていくような気がしてもっと刺激的な会話や過ごし方をしたい…これは甘え…?
心理的DVでは全くないけれど(傷つく言動をされてないから)、ここまで無関心な存在に対して、夫はどうして家賃を出し続けられるの?
事実富裕層や権力者は利権の椅子の上に座りながら、男同士会合を開いて旨味の独占をしたり、妻の世話をあてにしたりしているはずだ。
増田が男性特権に心当たりがないだけで、心当たりのある男性は沢山いる。
単に増田にとってnot for meなだけ。
あと、同じ「無職」でも女性だと「大変だね」になるのに、男性だと「情けない」という感情が瞬間的に沸き起こってないだろうか。これも「特権」なのだろうか。
むしろ男社会に迎合しすぎた人間の仕草だろう。特権の副作用だろうが、これとフェミニストを混同しているのはよくわからない。
女性の多くも付き合う相手を決める時、男性のルックスとか年収とか社会的地位を無意識に考え、友達に紹介するときに恥ずかしくないかどうかを気にしたりするのはごく普通である。それはいい悪いではなく、人間である限り仕方のないことだ。男性だけが異性をモノ化しているってことは絶対にない。完全にお互い様の問題について、男性だけが非難されるのは理不尽だと思う。
男性だけが非難されるという感想は、特権階級であったがゆえの認知のズレだろう。重罪で平民を踏んできた貴族が、お互い様だろ、平民に悪口を言われても黙ってなければならないなんて、理不尽だ!と言うようなもの。女性も非難されているし、なんなら非難以上のことをされている。
ルックスや経済力で測られるプレッシャーと性的モノ化を対立させて考えてるのが意味不明。別の問題だ。
性的なモノ化は日本では当たり前になりすぎて人権を軽視するレベルに至っている。
風俗や舞妓やAV被害者やセクハラが別の名前で横行していた映画業界もそうだろう。これを改善させるべき、というロジックに何一つ不備は見当たらない。
「男が30にもなって定職もなくて情けない」「男は結婚して家族を養って一人前」という規範は、男性自身が内面化している部分も確かにあるけど、それは世間や社会が求めているからであって、自分の意志で自由に脱げ捨てられるものではない。女性だって「女らしさの呪縛」を捨てて、化粧も何もかも一切やめればいいじゃない、という話になる。というか、「女らしさ」については、それを押し付ける人々への批判や非難になるのに、どうして「男らしさ」については「男らしさ」を押し付ける人々への批判に向かわず、男性自身が自己責任で脱するべき、という話になるのか。明らかにおかしい。
これはわかるな。
女性に対しても、女らしさの呪縛を維持する本人の自己責任という視点があまりに欠けている。
社会的弱者が多いために、社会構造によって否応なく適応せざるを得ず、自ら脱するのが難しい側であるという配慮は必要であり、男性の男らしさは周囲を抑圧することやボーイズクラブを含んだ、男らしいプライドによる女性排除や支配の概念のことなのは分かるが、
まず断っておくと、自分はフェミニストか否かという点では、フェミニスト寄りである。白饅頭や青識のようなアンチフェミは心底嫌いだし軽蔑もしている。ただ、フェミニストがやたらに好む以下の論法には、一男性として強く反発している。
「特権」という言葉を使う場合、権力者や富裕層などに対して、自分の意思で自由に捨てられるものだけを指すべきだと思う。いじめやパワハラで引きこもりになって無職で……という男性は決して少数の例外ではないと思うが、こうした男性に何の自由に捨てられる「特権」があるというのだろうか。あと、同じ「無職」でも女性だと「大変だね」になるのに、男性だと「情けない」という感情が瞬間的に沸き起こってないだろうか。これも「特権」なのだろうか。
女性の多くも付き合う相手を決める時、男性のルックスとか年収とか社会的地位を無意識に考え、友達に紹介するときに恥ずかしくないかどうかを気にしたりするのはごく普通である。それはいい悪いではなく、人間である限り仕方のないことだ。男性だけが異性をモノ化しているってことは絶対にない。完全にお互い様の問題について、男性だけが非難されるのは理不尽だと思う。
「男が30にもなって定職もなくて情けない」「男は結婚して家族を養って一人前」という規範は、男性自身が内面化している部分も確かにあるけど、それは世間や社会が求めているからであって、自分の意志で自由に脱げ捨てられるものではない。女性だって「女らしさの呪縛」を捨てて、化粧も何もかも一切やめればいいじゃない、という話になる。というか、「女らしさ」については、それを押し付ける人々への批判や非難になるのに、どうして「男らしさ」については「男らしさ」を押し付ける人々への批判に向かわず、男性自身が自己責任で脱するべき、という話になるのか。明らかにおかしい。
こういう意見を見るたびに、フェミニストは教室の中でひどいいじめを受けていた男子とか、パワハラでいつの間にかいなくなった男性社員とかが、全く目に入っていないんだな、とつくづく思う。だから主張が間違っている、というわけではないけど。
(追記)
気がついたら炎上しているけど、言いたかったのは、本来のフェミニストの仮想敵はジェンダー規範そのもののはずであって、「男性」ではないこと。
既存のジェンダー規範を変えるためには、政治とマスメディアの役割が大きく、それに働きかける社会運動が必要になる。それは、個々の男性の自己犠牲の精神で実現できるものでは絶対にないし、そもそも自己犠牲できる余裕のあると思える男性は貧困者に限らずほぼいないだろう。そんなものに期待してはいけないのである。
(追記2)
時々感じるのは、フェミニスト「男性は・・・すべき」という言い方の中に、「男らしさ」が要求されているように感じられること。「女性を押し除けてまで男性が前に出るなんて、男らしくない」みたいなジェンダー規範が、特に男性フェミニストの中には確実に存在する。まさに田原俊彦の歌の意味での「フェミニスト」(誰も知らないか)。