はてなキーワード: 得体とは
私は数あるブログサービスの中から偶然はてなブログを選んで、偶然性別が女だっただけなのに、なぜ急に、勝手に「はてな女子」なんていう得体の知れないものにカテゴライズされているんだろう。
サービスが始まったばかりの頃にはてなブログでブログを書き始めました。その日その日感じたこと、思ったこと、考えたことを細々と綴るようになりました。
それまでの私と「はてな」の関わりは、はてなブックマークのホットエントリーを読むくらい。「はてな」は「エンジニアの人たちが色々と難しい議論をしているところ」。そんなイメージがあって、そこのはじっこでそっと屋根を借りるような気分でした。
つい最近、「あなたへのお知らせ」ではてなブックマークではコメントがつけられることを知りました。そのコメントで「自分に酔っている」と言われて戸惑いました。まさか、日記に対してそんなコメントをつけられるとは思ってもみなかったからです。
そのコメントがついた記事ははてなブックマークの「はてな女子」というカテゴリに表示されていて、私はまた戸惑いました。私は数あるブログサービスの中から偶然はてなブログを選んで、偶然性別が女だっただけなのに、なぜ急に、勝手に「はてな女子」なんていう得体の知れないものにカテゴライズされているんだろう。
最近「はてな女子」について言及する記事を見るたびに、はてなブログで日記を書いてはいけなかったのかな、と困惑しています。別のブログサービスに引っ越したほうがいいのかな、それともブログ自体やめたほうがいいのかな。
「はてな女子」って何なんですか?
これも有用なサードブロガー論考。こちらの方が私の文章より的を得ています。
ではhttp://anond.hatelabo.jp/20131209142219に引き続き
まず、前記事に付いたブックマークコメントの中に、これからの私の論の展開を予想した素晴らしいものが2つあります。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20131209142219
『この仮定の下で考えると、サードブロガー論だけじゃなくて「釣り診断」みたいな流れにも巻き込まれちゃったよーな印象がある。
以前より見る側が釣りかどうかを意識するようになってきた気がするのは私だけでしょうか』
http://b.hatena.ne.jp/murishinai/20131209#bookmark-172583242
『なんで中心にいちゃだめなの?(確信犯/天然)ってのが争点なんじゃないかなあ。』
そうです。私は次にブログの真偽判定問題について書くつもりで前半を締めくくったのです。
さて、はてなではトピシュ氏http://topisyu.hatenablog.com/や
hagex氏http://hagex.hatenadiary.jp/
がネットに投稿された様々な文章の真偽(作り話か・釣りなのか)をブログで判定・解説してるらしい(詳しくは知らない)。
正直に言うと、あまり私が近づく界隈ではないです。釣りに対する私の攻撃方法は、彼らのやり方とは少し違いますし
何をもって釣りだとするのかの基準も私とは違うようです。私が悪質な釣り師だと感じているのは
引きこもり女子いろいろえっち氏であり http://luvlife.hatenablog.com/
彼女のネット上での女体をチラつかせた立ち居振る舞い(サードブロガーとは逆に、自意識を絶対に出さない)をもって、
しかしそれでも、彼女に「これが私の素だよ?」と返されたら私はその言葉を信じるしかありません。
「釣り記事」じゃないのに「釣り記事」ってゆわれる(´・_・`)
http://dshocker.hatenablog.com/entry/2013/12/09/193914
こんな記事を書かれたら、それを信じるしかないのです。大彗星ショッカーはPV数なんか狙ってないんだ。有名になりたいわけじゃない。
『ただ自分の思いを「ストレートに!!まっすぐに!!ぶちまけてみた!!」』だけ。で、たまたまPV数が爆発的に増えてると。そういう純粋なブログなのかもしれないのです。
「コメントが欲しいだけなら、ブログの記事は不完全な方がよい」
http://akamemukan.hatenablog.com/entry/2013/12/08/085228
そうです。この方がおっしゃられたような、『わざとスキを作っ』ているのではないかと思ってしまうほどの稚拙な文章や、
『誤解を招くようなタイトル』がサードブロガーには多過ぎるのです。
「なんでもっと考えて文章を書かないんだろう?」「なんでこんな極端なことを言うんだろう?」
という疑問も上の記事を読めばある程度は納得できます。
ショッカー氏の『僕はウソをつけない』という発言も、果たして本当のことを言っているのか、それともキャラ作りなのか、どちらなのか分からなくなります。
そういう邪推を起こさせられるサードブロガーに比べたら、やまもといちろうの記事タイトルのなんと大人しいこと、文章中の意図のなんと分かりやすいこと。
しかし私はそれでも、彼らが「キャラを作ってる」とは思えないのです。
キャラを作ってるというのはまさに「引きこもり女子いろいろえっち」のように、自意識を一切見せないのです。
「こいつ何考えてるかわからん」「得体が知れない」と感じる人間に、私は「キャラ作り」認定をします。
まつたけ氏の立ち居振る舞いに至ってはあれは自意識とかキャラ作りとかの次元を超えて彼の「悲鳴」のような気もしています。
サードブロガーはキャラを作ってません。では、私は彼らをどう解釈しているか。
私は、彼らは「自分の心や思考を文章に変換」することができない、またはそういう訓練を受けてないだけの人たちなのだと解釈しています。
私はまつたけ氏やショッカー氏の書いたものをブログの文章とは認められません。
ブログを書くことも、ブックマークコメントをすることも、2ちゃんねるに書き込むのも、発言小町に書き込むのも、義務教育を受けた日本人なら誰でもできます。
そして、皆きちんと文章を書いています。お喋りするように書き込んでいるわけではないのです。2ちゃんねるですら、「文章」が飛び交っています。お喋りをしているわけではないのです。
しかしどうもサードブロガーを見ていると、その文章はLINEのやり取りとか、中高生のツイッターでの営みなどの、「お喋り文」なのです。
一言二言の羅列、文脈が見えない、第三者が読んでもよく理解できない。ありのままの感情をそのまま放出している。
もしそういう、サードブロガーやLINEの文章がこれからの日本語文章の主流になってしまうのなら、私はそれに断固反抗します。
お喋りのコミュニケーションと文章のコミュニケーションは違うはずであり、それぞれにそれぞれの良さがあるはずです。それを統合してしまうのは
私はなぜここまでサードブロガーを批判したくなるのかと自問してみると、やはり「彼らの文章や文章に対する姿勢が気に食わない」ということに尽きるのだと思います。
だから、「彼らは悪意など持っておらず、ただ文章や表現に対する姿勢が甘いだけなのだ」というのが私の意見です。
では次に、私以外の大多数に圧倒的に支持されている、「サードブロガーはただの釣り師である」「PV稼ぎである」「キャラ作りである」
という意見をまとめ、釣り・PV稼ぎ・キャラ作りの何がいけないのかを語ってみたいと思います。また彼らの「打たれ弱さ」についても考えてみたいと思います。
続き→http://anond.hatelabo.jp/20131211124543
(文・masudamaster)
性同一性障害者(FTM)とラブホに行ったら入室を断られた話。
※FTM - Female to Maleの略。身体的には女性であるが性自認が男性。(wikipedia)
なんやかんやでラブホに行ったわけです。場所は駅周辺にラブホが5件くらいあるような都内のやや外れたところの駅。
行ったのはおっぱいのみ手術して無くなっているFTMと男性。FTMは外見的にも声を聞いても男にしか見えない、性器と戸籍以外はほぼ男。
ラブホテルに行く経験はお互い少ないけれど、まあ都内だし現代だから何も問題ないだろうと思って出かけた。この判断には以前一度新宿でFTMの人とラブホに問題なく入れた経験があったことも理由として挙げられる。
そしてラブホに行って、フロントで断られた。対面式の受付だった、部屋をお願いしたところ受付のおばちゃんが「えっ…あれ、お連れ様は…え、おふたりですか?男同士の方は…」みたいな対応。
ラブホでホモが断られることがあるとは言うけど、問題はホモかどうかではなくその人そのカップルがちゃんとしているかであり、現代においてそんなことはきっとないと何となく信じていた。なので断られてびっくりした。
しかし一緒にいたのはFTMであり女性と言えば女性であった(戸籍は女性のままだった)。男っぽい女性だって世の中いくらでもいる、男性同士ではないのだから気にする必要はないと考えた。「いちおう女です」と揃って主張した。すると受付はいぶかしがった「…え…何か証明するものとかあります……」。
そこで公的身分証を提示した、戸籍は女性であった。これで問題なく、ああ女性の方だったんですね失礼しましたとなると思った。しかし結果は「…え………いや、ちょっと…入室していただくわけには…」みたいな反応であった。びっくりした、ならなぜ身分証を求めたのか、好奇心で訊いたというのだろうか。ホモであるのがラブホで断られるのは汚れるからみたいな話を見た記憶もあって、女性であるなら何も問題はないと考えていた。そこまで求めて断るというなら、それは得体がしれないから断ったとでもいうのだろうか。
重ねて断られて粘ったり怒ったりはせず、結局は立ち去りました。しかし現代の世の中でしかも東京なんかもう差別意識は低く優しい人間社会だとなんとなく考えていた、それは過信だったなと思いました。
なおその後、別のラブホに行ったところ問題なく入れました。
自室。真っ暗。間接照明をつけた。部屋が淡いオレンジ色に染まるが、照明は一個だけなので薄暗い。
いつものブログを巡回。どれも更新ナシ。Twitter、特にこれといったつぶやきもなく。
今日の夕飯はファミチキとカレーパン。じゃがりこを肴に泡盛をロックで。
テレビはもう何ヶ月もつけていない。部屋にはクーラーの音と、時折通り過ぎる車の音だけ。
ちょっと前までは、自分と人生を変えたくて必死に戦ってたっけな。
毎日が緊張の連続な分、酒を飲むと自分でも不思議なくらい涙が出てきたもんだった。
なんだかよくわからない、自分じゃ手に負えない得体の知れないモノと戦っていた。
勝てば輝かしい未来がまっているんだと。
大人になれば、立派になれば、周りから認められれば、こんな得体の知れない惨めな気分とははオサラバできるもんだと。
違った。
去年からバーに通いはじめた。
一人で酒を飲みにバーに行ってカウンターに座ると、同じカウンターには俺の親と大して年の違わない大人達が寂しさを抱えて酒を飲んでいた。
俺には偉そうに説教こそするが、その説教の裏には、うだつのあがらない自分自身へのやりきれなさが隠れているのがわかった。
あぁ、大人もこの、わけのわからないもんを背負ってるんだ。
快楽で忘れるか、若者に説教を垂れるか、仕事に没頭するか、政治家や社会のせいにするか、、、若い奴とは違って対処方法はいろいろ持ってるにしろ。
大人も皆、難儀していた。
どんなに立派な肩書きを得ようが、周りから認められようが、このわけのわからない心の隙間は埋まらないんだ。
泡盛も、氷でいい感じに冷やされて美味しく飲めた。じゃがりこは泡盛にあわなかったけど。
生きるってこういうことなのかなと思う。
自分の世界を作って、好きな人と繋がって、自分の幸せを知り、その一瞬、一瞬の幸せを感じることが。
偉くなるだとか、立派になるだとか、そういうのは、もうどうでもいいと思った。
昔のインターネットって怖かった。とても危険でとても怖かった。
ピーピーガーガーとモデムがなったら、そこからはリアルと区別される世界だと教えられ、
その先には、黒背景と巨大サイズの白文字が出迎え、僕らに恐怖を教えこむ。
僕らは、リアルとネットが別世界だと、懇切丁寧に教えて貰っていたのだと今に思う。
mixiのように、クローズドなネットを作ることで、パプリックの象徴であるネットを際立たせた。
得体の知れないパブリックなネットの世界という恐怖は残っていた。
「うちらの世界」は、mixiにはいくらでもあった。でも、そこは閉じた世界が守っていた。
それでも、燃え始める人が増えた。
クローズドなネットとパブリックなネットの棲み分けが議論された。
でも明確な答えはとくになにも無く、先に進んでしまった。
下手したら公開されてるの?みたいなのがある。
それがいつも使う便利道具として身近におかれている。
ネットは昔より怖くなってる。それはネットがリアルになってしまったからだ。
リテラシーの高低で優越感浸ってる ばかだブックマーク があるけど
そういうブクマされる記事を見ると、自分がネットを始めたのがもっと遅かったら
正直危なかったと、ひんやりする方が多い。
これは映像で語られる新しい文学の形だと思った。今後映像作品の制作に携わる人すべてが観なくてはならない。それだけの業を見せてくれる映画だ。
この作品を読み解く上でもっとも重要なキーワードは『風立ちぬ』である。私は前情報として、この作品はゼロ戦設計者・堀越次郎の半生と堀辰雄の小説『風立ちぬ』を組み合わせたものであること、および本筋は堀越の側から採られていることまでは把握していた。そこで抱くのは「ならばなぜタイトルが『風立ちぬ』なのか」という問いであった。
商業的立場に基づいたパッケージングと広報が随所で誤解を誘発させている映画であるが、それでもタイトルとオープニングは主題に正直だった。はじめにフランス語交じりのエピグラフを見せられれば戸惑いつつもやはり「この映画で私は文学をやりますよ」という表明と受け止めるほかない。ヒロインとの出会いのシーンではなんと——技師の卵・堀越次郎としては不自然極まりない——仏文学生のようなやり取りをみせられる。……オーケーだ。心を決めよう。わざわざ飛行機と大地震という刺激的なシーンの合間に配置したのはかえって本気が感じられる。こちらもそのつもりで観ることにした。
とはいえ、映像作品と文芸作品——殊に私小説とでは観る/読む姿勢に質的な隔たりがある。作者はこれをどう翻案してくるのか? ここでもキーワードは『文学』と『風立ちぬ』である。
多くの人が指摘しているように、劇中には『風立ちぬ』以外にも旧約聖書や『魔の山』といった西洋文学の中心作品からの引用がちりばめられている。しかしおそらくその意味や出典を理解することは求められていない。これは作者からのシグナルとして受け取るべきだろう。——あっ、今なんか文学っぽいこと言った。そして風が吹いた。そう感じた瞬間、我々は観客から読者へと推移する。実際、そのために尽くされた工夫こそが本作をこれまでにない映画として成り立たせている。
日本文学の伝統たる私小説とは一般には作者の個人的な体験を語ったものと定義されるが、その実は読み手が(多くは情緒面に欠陥を抱えた)〝私〟の情動を追いかけながらその文脈に自己を編み込んでゆくことで成り立つ極めて対話的な芸術形態である。ゆえにこれを映画で実行するためには観客からどうにかして主体性を引き出さねばならない。一体どうするつもりなのか。
一番にあるのは人物の造形と描写である。だいたい主人公からしておかしい。はっきりいってこんな身勝手な男には作者自身を除いて誰も共感などできまい。そのくせ彼の心情を伺えるのは原点である飛行機作りへの衝動のみであり、主題の一つに思える恋愛さえ観客からすればずいぶんな距離感をもって描かれている。この映画をいわゆる娯楽作品として楽しむのは大変な難行であろう。しかしそうした人物の〝得体の知れなさ〟と突き放した映像表現こそが観客を読者に変える上で重要な機能を果たしている。——いざ事件が起きた。けれども主人公がどんなリアクションをするのか、我々には予想もつかない。そこでその人物の行動と周囲の出来事だけが語られ、心理も感情も置き去りにされればどうなるか。我々は残る最後の手——自力でそれを補うことを選ぶほかない。振り返れば人物もまた文学を行う道具にさえ見えてくる。
しかしたくらみどおりに人を動かす要はやはり映像にある。シグナルである〝文学っぽい〟セリフに続くのは決まって突風と変事だ。さあっと吹く風に引きずられてカメラが空へ向かい、これまで観客が寄り添っていた主人公が突如フレームアウトする。視点人物の喪失が自然と不安をもたらし、そこでさらに思いもよらぬ出来事や主人公の行動を目にした観客は解決を求めて必死で事態を追うよう仕向けられる。こうして観客は気づかぬうちに主人公の心理を己の内に抱え込む。かくして映像言語による小説的描写が果たされる。みごとである。
そうして状況が収まり、不安が解消された次に訪れるのは〝平常〟である。正常にせよ異常にせよしばらくは事態の変化はなく、そうである限りは主人公の行動も我々の予想の範囲に収まる。主人公はどんな状況に置かれても自分の夢につながる道を一途に辿り、時には常識によって非難される。「だいじょうぶです。あなたの頭の中にある人物像はそれほど間違っていません。そのまま続けてください」そういう作者からの配慮を感じるひとときでもある。
このように、物語の進行は事件とそれに続く平常との繰り返しによって綴られている(それがふさわしい時代でもある)。
そして繰り返しの合間は主人公の夢を再確認する時間だ。飛行機への憧れを描くこのシーンは物語を区分けすると同時に、現実との対比を描く場でもある。印象的なのは、夢の中では誰もが等しく飛行機に乗り、笑顔でいるということ。理想が、道徳が語るものを主人公は明確に認めている。にも関わらず現実の彼はためらいを見せることがない。風は——? 空を飛んでいるかぎり、止むことはない。
先の見えない時代。戦前の文学の匂い。そして変事の前触れたる風。それこそが物語を支えるビートである。そのためにこの作品は『風立ちぬ』を必要とし、ゆえにこの映画のタイトルに『風立ちぬ』以外の選択肢はありえなかった。
(続く)
こないだテレビ東京見てて、千歳烏山のプレーパークが出てきた時にさまーずが
自己責任って言ってたけど本来相応しい使いどころってそこだよね
で、「得体の知れない自己責任という言葉が蔓延して」と言ってた社会学者の人とか
ふと思い出してたんだけど、それもそれでなんか違う気がした
曖昧な概念に社会を語るのに相応しい言葉が、小学校で打ち止めなんじゃないかって
それだと自分の知ってる身の丈に合った使い方してるってことじゃないかなぁ?
ただ、もともと児童にこそ相応しい概念だとそりゃ、逆に範囲広くなりすぎるわな
そもそも親に守られてて、ある程度管理された環境の「有限責任」だからこそ
続き。
開始して数分でいきなり何通もメールが来る。おまえら登録後1日もたってない人間に何を期待してるんだ。というか半分くらいスパムくさい。
スパムじゃなさそうなのもやたら外部サイトに誘導したがる。アレか。業者か。しかも得体のしれない短縮アドレスを張っている。フィッシングにしか見えない。
万が一業者や詐欺師じゃなかったとしても、おっさんネチズンの俺にとってはメールの直接やり取りは相当仲良くなってからというのが常識なのでマジレスしていいのかどうか困る。
これがアフィの餌になる程度なら別に困らんのでいいが、無邪気なのか悪意なのか判断できないので、悪意であることを前提にしか行動できない。
俺はネプテューヌコレクションをちょっと試してみたかっただけなんだ(そしてあまりのレスポンスの悪さにこれはクソだと判断せざるを得なかった。DMM.R18のエロゲの方が反応いいとか終わってる)。
http://anond.hatelabo.jp/20130716162838
長文注意。
私自身が大阪出身ということもあり、共感を覚えたので書いてみる。
彼より人生が十数年先行していることを除けば、概ね状況は似ているように感じたのだ。
つまり、いわゆる元増田の記述に昔の自分を見たので、私自身の回顧録的に勝手に文字を綴ってみるわけである。
私は大阪府北部出身だが公立中学は荒れていて、ガラスが割れる、校庭にバイクが乗り入れる、などイベントに事欠かなかった。
中学生当時の私はZやZZを全話みたり、イデオンについて語りたくてうずうずしてるような人間だったので、当然カースト下位だったし、またそれに応えてくれる人間はクラスどころか学年にもひとりもいなかったので、流れ弾に当たらないよう目立たなくして学校に行っていたのを覚えている。
かろうじてゲーム(例えばDQやFF)の話でクラスの人間と言葉を交わす程度だったように思う。
もちろん、いじめのようなことも多々あった。
思い出したくもないが、様々なモノがなくなったし、色々な心無い言葉が私に向けて飛んできた。
そのときの私は「どうせ中学までの付き合いだし無視すればいい」と考えて無反応を貫いた。
高校・大学と地元から遠いところに入学し、実際その通りになった。
ところが20歳の頃に中学の同窓会が企画され、何故か私にも声がかかる。
幹事いわく、「四大に行った人は忙しいと思うけど参加してくれないかなぁ?」
詳しく聞いてみると、その公立中学のクラス40名ほどのうち4年制大学に進学したのは私を含めたったの5名だった。
私を除いた全員が私立大学の文系で、国公立理系だった私は一緒にされたくないなと思ったものだ。
意を決して同窓会に参加してみると、そこにいたのは高卒就職組がマジョリティの30人ばかりの集団で、その多くが当時流行っていたフリーターであり、無職も多かったように思う。
数少ない正社員になった者は同級生と結婚して子持ちだったりして、「彼らはこの先どうやって生きていくつもりなんだろう」と若かりし私でも考えた。
また、女子は3割強が結婚しており、すでにバツイチがついているのもいたことに、まだ学生だった私は別世界を見た気がしたのが印象に残っている。
しかし、確かに別世界だとは思ったが、その世界もそんなに悪い気はしなかった。
彼らには彼らなりの幸せがあり毎日が充実していて、私に子どもの写真とかを嬉しそうに見せてくる。
当時の私は研究室の選択とその先が見えずに悩んでいる状態であり、彼らと話して何とも言えないもやもやした思いを持った出来事だった。
さて、その後。
バブルが本格的にはじけ就職戦線が急速に学生不利になると、私には思うような就職先はなかった。
それでも一部上場企業に何とか滑り込み、色々な開発に約10年携わった。
今でもその時の製品がこの世の片隅で役立っていることがうれしいし、地元に残った人たちとは一味違った仕事ができたと思っている。
しかし、地元の彼らが20歳で得たような幸せをついに得ることはできなかった。
また、誰かの役に立っているという実感を得ることもできず、逆に仕事に疑問を覚えるようになってしまっていた。
そして、職を辞し、医療職へと転身することを決意する。
2回目の学生をしている私に対して、子どもが小学生に育って悩みを話している人たちはもっと遠い存在に思えた。
もはや、そういう形の幸せは想像してみても実感がわかないものになっているように思えたのだ。
それよりも気になったのは参加人数が半分以下になっていることだ。今回の幹事によると消息がしれない人が多数いるらしい。
同窓会の席で聞いてみても、地元に残った人の間でもよくわからないのだそうだ。
消息不明の人たちに関しては、実家ごと引越したとか、関東方面に働きに出たとか、いろんな話が飛び交っていたが得体のしれないものばかりだった。
結局、私が15歳の時に同じ教室にいて、20歳のときに全く違う地平を見ていた人たちは、30歳を越えてもっとバラバラになってしまった。
これには様々なことが絡んでいると思う。
例えば、私が育った街が戦後にできた郊外だったからかもしれない。
地元と言っても、地縁があったり血縁者が近くに住んでいたりするわけではなく、ただ「近くに住んでいた」に過ぎないからだ。
そしてそれは、そこに留まる強力な理由にはならかったのだと思う。
その他にも挙げていけば本当にきりがないし、きっと元増田とも環境は全然違うだろう。
今回こんな文章を綴ったのは、環境が違うにも関わらず同じようなもやもや感があることが、とても気になったからだ。
私はこのもやもや感を今でも持っているし、もしかしたらさらに十数年経ってもこれを持て余しているのかもしれない。
でも、どこかの時点ではすっきりしたいとも思っている。そんな日がくるのかどうか全くわからないけれど。
うたプリのことは、乙女ゲーらしいこと、アニメ化してること、なんかすごい人気らしいこと、ぐらいは知ってる。
行列騒動は、ツイッターの情報をまとめてるやつを読んだ。あとさっき公式サイトで購買部の商品も見てきた。
人気あることは知ってるって言ったけど、どういう行動特性をもった、どういう社会的属性が、何人規模で居るのかまでは知らない。
だから、待機列整理のためのスタッフを用意しておくべきことは批難されてるほど余裕で想定可能だったのか、
そもそも日替わりアイテム先着販売とかでもないのに、何故そんな開店前から列に並びに来るのか、わからなくて気になっている。
ネットで時々写真を見かける、痛部屋って言うのか、壁や天井が見えなくなるほど部屋中にアニメキャラのポスターやグッズ飾ってる部屋、
列に来る人が全員そういった部屋なら、ああそういうプライオリティなんだな、ってわかった気になれるんだけど。たぶんきっとそうじゃないと予想していて。
グッズそのものよりも、グッズを買うためにする行動の方が目的の人が大半じゃないかなーと。
徹夜とか、オールとか、始発とか、ファン=熱狂者の行動をやってみたいと思ってのロールプレイで、
グッズを入手するのに一番合理的な手段を選択した結果じゃないんだろうなーと。
でもさー、結局だいたいの合理性って負けるんだよねー。非合理的ないろいろに。きっと合理的って、究極的には代替可能ってことで、ある意味一番敵視される思考なのかなーとか、最近すげー感じる。そんで、そんなことどうでもいいから現実から逃避したい。逃避したくてこれ書いてる。でもどんどん時間が流れてどんどん窮地に立っている。いや違うな。自分としては逃避してもらっちゃ困るから、脳にはぜひ向き合ってもらいたいんだけど、脳がどうにも逃避するんだよ。どうなってんだ。何かをロールプレイしようとしての行動なのか? 現実から逃避する存在ってなんだよ。頼むからそんな本人すら得体が知れない存在を目指さないでくれ……
そろそろ時代的に地下鉄サリン事件を知らない世代が表に出てきてもおかしくない頃合だと思う。というか、かく言う自分がその辺りの人間である。
事件のあったときに生まれてなかったという訳ではないけれどあまりテレビとか見てなかったしそもそも住んでいた場所が事件のあった霞ヶ関辺りとは遠く遠く程遠い場所だったのであまり実感も何もなかったってのもあるしあまり詳しくは知らない。でもじゃあ今になって事件を詳しく調べてみようなんて気分には正直全くならない。寧ろ出来るだけ触れるべきではない話題なんだろうなあと何となく怖がっている節がある。世間的な大事件といえば酒鬼薔薇の件や宮崎の件、バスジャック云々ってのもあったしあと最近なんかだと加藤の件とかも、とにかくセンセーショナルな物といえば他にも色々とあったはずなんだけど、それでも口に出すのも憚られるってレベルじゃあない。一体どこら辺が差を生んでいるんだろうなあと思った結果「被害者が進行形で後遺症に悩まされている」とか「関係者がつい最近まで逃亡生活をしていたり何らなの形で事件がまだ続いている」みたいな印象があったりするせいなのかなー、とか。何かと聞くのも調べるのも気が乗らないし不謹慎みたいな感覚があるんだよなあ。ポア鳥とかネタ的な感じで使われてる奴とか見ても結構笑いづらくて勝手に困っちゃったりしてる。とはいえこちらが調べるつもりじゃなくてもある程度耳に入ってきちゃったりする話なんかを聞いていると事件当時ないし事件が起きるまでの間にどういう風な感じでオウムが扱われてきたのかとか色々と聞こえてくるしやっぱり興味がないわけではない。怖いけど。
事件が起きるまでは「ちょっと変な宗教とその教祖」程度の扱いで結構普通にメディア露出していたとか、反面映像作品に教祖の写真をサブリミナルでぶち込んで視聴者に刷り込もうとしたとか、選挙活動していたとか(歌、有名らしいけど)、今思うと結構引く様な風景だけど当時としては割と日常風景だったんだなあ……何か怖い。いや寧ろそれ位まで浸透してきた辺りで事件が起きてしまったからこそのセンセーショナルなんだろうか。どうなんですかね。
日本人の宗教嫌いはオウムのせい、なんて話も聞くけどそれはちょっと言いすぎだと思う。多分もっと昔から結構ひねくれてる人種だからオウムだけのせいとはいえないと思うけど、まあ宗教自体に対する偏見とかあからさまな忌避みたいなのはオウムが決定的にしちゃった部分はあるのかもしれない。まあやっぱ当時の事知らんからなんとも言えんけども。実際海外に行って無宗教なんて言うと酷く胡散臭がられるらしいなんて聞いたけど、その場でちゃんと「日本では新興宗教が化学兵器テロを起こした事があってそのせいで宗教に対する偏見が強くなったんだよぅ」とか理由付けをしっかり述べてあげれば先方も納得するとは思うけどね、っつーか寧ろショックで口半開きになるよきっと。何せそんな事件なんて世界広しっつってもこの国だけでしょうし。自爆テロなら今でもチョイチョイ見かけるには見かけますが、「新興宗教が」「化学兵器を自作して」「地下鉄にばら撒いて人を殺す」んですよ。色々な意味でツッコミ所が多すぎる内容ですよ。
……オウム。結局は得体が知れないから怖いって事なのかなあ。新興宗教ぶち上げて人殺して、結局何がしたかったんだろうか全く分からない。分かるわけはないですし実際に首謀者たるヒゲ教祖(昔から生理的に苦手な風貌ではあった)も今では鉄格子の向こうで気が触れてらっしゃると聞くし、真相は闇の中って奴なんだろうなあ。何かやだなあ。怖い。
まずさあ
こういう意味不明なことやめような。
で、ざっと見て言うけど
どんなサービスなのか、現状どんな感じなのか、を登録前に眺めさせろや。
なんでいきなり新規登録なんだよ。焦りすぎだよ。
得体も知れない、どう楽しいのかまだわからないサービスに飛んで、
お前も逆の立場だったら興味なくして帰るだろ。
で、全然絵の投稿が無いから見せられるような現状がないのはわかった。
というわけで、開発者ブログのhttp://pictshelf.hatenablog.com/entry/2013/06/11/215230この記事とかのリンクを
大きめに出して「こういうサービスなんですよー」ってのをまずは前面に見せろや。
なんとなく見に来た奴はそこまで自主的に掘ってくれないよ。
お前が誘導すんだよ。
お前は全体的にあれや、
「お前がお前に対して興味あるほど他人様はお前に興味が無い」
っていうことをきちんと理解すべき。
これは誰にとっても真理。
まあ腐らずがんばれ。
容姿の良し悪しじゃないんだよ。
嘘を連呼して自分が価値があるように見せかけて女に自分を売り込もうとする男なんて
女がパートナーに男に求める物(どっしりとした男らしさや頼り甲斐、信頼性)が欠片もない。
「だから160cm台の男も選択肢に入れないと女性の皆さんは売れ残りますよ!」
と嘘を並べ立てて女にがっつく薄っぺらい見栄と性欲の強さが、高身長男性以上に目立つ。
自分より小さい160~165未満の男性など、とにかく「自分より下」の存在を作って
執拗に攻撃していたぶり憂さを晴らしたがる歪んだ人格も露わになっている。
実際184らしいが、本人がテレビ番組で182のほうが響きが良いから
182で登録していると打ち明けていた。
(生まれ年) (二十歳男性の平均身長) '92 171.9 '91 172.0 '90 171.9 '89 172.0 '88 172.1 '86~'87 172.0 '84~'85 171.9 '83 172.1 '82 172.0 '79~'81 172.1 '78 172.1 '77 172.0 '76 172.1 '75~'74 171.9 '74 171.9
150 *0.07 160 *3.36 170 48.46 180 95.00
151 *0.09 161 *5.06 171 55.55 181 96.53
152 *0.13 162 *7.30 172 62.11 182 97.65
153 *0.20 163 10.17 173 68.57 183 98.44
154 *0.33 164 13.73 174 74.13 184 98.96
155 *0.43 165 18.24 175 79.29 185 99.43
156 *0.61 166 23.30 176 83.91 186 99.67
157 *0.99 167 28.87 177 87.74 187 99.76
158 *1.45 168 34.58 178 90.58 188 99.84
159 *2.21 169 40.79 179 93.05 189 99.91
http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/NewList.do?tid=000001011648
150~160台の男はどうしても周囲にいるその6割の170cm以上の人間と常に比較される。
170代前半の人間も「あと一歩で恐怖の160台」という身長コンプを持ってるから
厚めの靴を履いたりするので、結果的に160台は埋もれる。
文章上では得体が知れなくて気味が悪いですよ。魅力的っていうけれど、肝心のその魅力が1mmも伝わってこない。
自分は不安症である。物心ついた頃から、不安症である。理由は特にない、多分。器質的なものである。
で、昔からお金を使うのが怖い。お金が足りなくなるのが怖いのだ。今ここで使ったらいつかの時に足りなくなるかもしれない、とお金の概念を理解したくらいから思ってる。それでちょくちょく使えないことがある。
なお今は加齢のせいか、あるいは貯金がそれなりの額に達して調子こいてるせいか、時々ポンと使う。普段はケチだと思う。他人に対しては常識的な額より少し多めくらいに使うが、自分に対してはドケチである。人に迷惑をかけないドケチと呼んでいただきたい。いや呼ばなくていいです。
前置きが長くなったが、まだ前置きである。
姉と妹は金遣いが荒い。といっても、姉はしたたかなところがありきっちり自分の欲しいものは手に入れた上で、絶妙に足りなくなる(子供の頃は10円20円、おとなになったら100~2000円くらい)ので、大人からうまいこと援助を引き出す、という術に長けている。あれも器質的なものである。たぶん。
逆に妹はバカで、欲しいものから順にてにいれていき、どうしても欲しい物を見つけた時には全く金がない。で、大人に泣きつくがあしらわれる。そういうバカである。甘い大人がいると泣きつくたびにほしいものを買ってもらえるタイプである。
自分はひたすらなにも手に入れない。ケチだと怒られる始末である。
上記のような性質により、姉はこれまた絶妙に人に喜ばれて自分が損だと感じない土産をチョイスする。出して良いと判定しているらしい金額で、見栄えと量が最大化する組み合わせを選ぶのがうまいのである。
妹はバカであるため、出して良いと判定する金額が設定されていない。あとは見栄と自分が食いたいものorほしいものである。そしてその時に持っている金額しだいで土産が決まる。したがってしばしば買いすぎるか、少なすぎる(たぶん有り金がつきたと思われる)。最近は年食ったせいか身内に対しては見栄をはろうという気概が無くなったのか、質<量でやたら安いものをたくさん買ってくる。そしてまずい。
さて、そして自分だが、昔は土産を買うのが非常に苦手だった。頭のなかに最悪のケースが浮かぶのである。たとえば修学旅行の観光バスが何らかの事情で使えなくなるか置き去りにされ、自力で家に帰らねばならなくなるかもしれないというどう考えてもありえないケースを最悪ケースとして考えてしまう。そうすると自力で帰るために手元にまとまった金を残しておかねばならないので、土産にも自分に対してもほとんどなにも使えない。食事も即決一番安いものである。水もできるかぎり飲まない。どれだけケチかというと、筋金入りのケチである。というか不安神経症である。それも病的な。
で、まぁどうしても土産は買っていかねばならないという意識はあり、あまりにもしょぼいと母親が切れて家を叩き出される可能性がある(家を叩きだされたあとにどうやって生活するかと考えると息が苦しくなるタイプである)ため、保険をかけて少なくとも母親が怒らない最低ラインの土産を買ってかえる。要するにしょぼい。まぁでも母親がしょうがないわねぇという人だとたぶん未だに土産を買うという習慣がなかったので、母やありがたしであるが、しかししょぼいことにはかわりないのだった。で、帰ってくるとたいてい説教をされる。
とはいえ、この得体のしれない不安感は加齢とともに軽減している(図々しくなったともいう)ため、大学に入る頃にはだいたい普通くらいの土産をチョイスできるようになった。
で、ある時バイトでためた金で友達とディズニーランドへ行った。大学にいったら小遣いはなくなる方針の家のため、決して軍資金は多くなかったが、出来る範囲で飲み食いをし、大いに楽しんだ。
高校生の時もやはりバイトでためた金で友達とディズニーランドに行って、金がないなりに大いに楽しんだことはある。この時はマジで金がなかったので土産はしょぼかった。カネがないことは両親も承知していたので、母はぶつくさとやはり文句はいったが、小中学生の頃ほどは怒らなかった。まぁ自分で稼いだ金であそびに行ったわけだし、文句言われるのは筋違いだと思うが。
で、大学生になってバイトで稼げる金が格段に増えた(とはいえ社会人ほどではない)し、友だちときゃっきゃしながら土産を買って、あぁ土産買うのって楽しいんだなぁ!と思いながら家路についた。これははじめての経験だった。友人たちに比べればやはり金遣いは控えめであるが、帰れなくなるかもしれない、路頭に迷うかもなどと考えながら半泣きで買う土産とは次元を異にしていた。普通の人はこうやって買ってるんだと本当に目からうろこだった。そりゃ、土産屋が繁盛するわけである。ディズニーのゲートの外にも販売店があるわけだ。
で、実家の最寄りの駅につく。母は迎えに来てくれていた。どうだった? 楽しかった? と当たり障りのないことを聞かれて、テンションの上がっていた自分は楽しかったよ! おみやげもいっぱい買った! などと答えた。車中は和やかな雰囲気だった。母が眉間にしわを寄せずに私を迎え入れたのはあの時がはじめてだったかもしれないと思うくらい和やかだった。
が。
やはり母は母である。というかうちの家族はやっぱ世間一般からは少しずれていると思う。母は言った。妹が、もししょぼい土産しかかってこなかったら家の中入れないとか息巻いていた、と。良かったねぇ、家に入れてもらえて、と。
それから十年たった今、思い出してブチギレている。当時はむっとしただけで、あぁ、そう、で流したが、時が経つにつれ腹が立つ。
十年間色々とあったが、妹とはほぼ絶縁状態である。母はたしかに変わり者であり、私とも相性が悪かった(自分は非常に扱いにくい子どもであったので仕方ないが)のでよくきつく私にあたったが、妹はその母の尻馬に乗って私をよくバカにしていた。土産の話もその一つだ。そして母は妹を咎めなかった。
確かに自分はドケチである。だが、そういう性格なのはしかたがないのだ。不安症には長く苦しめられているし、鍵を閉め忘れたと言っては何度も家に戻りそれだけで疲れて出かけられなかったり、ストーブを消し忘れた気がするといって家に戻り約束の時間に遅れたり、新しい服がすぐにダメになってしまうのを恐れてなかなか買えなかったり、首になることを恐れてバイトのシフトに入りまくったり、単位落として留年すること恐れて(授業料が恐ろしい)試験前になると眠れなかったり、私だって苦しんでいる。なにも他人の土産をもらうことは期待するくせに、自分は出し惜しみするというようなケチではない。どちらかといえばもらった土産さえも非常時のための食料として取っておきかねない、そういう人間なのである。
その恐怖を超えて、ようやく楽しいと思えるようになった気持ちを踏みにじられたような気がした。バカが。なにも考えずに頭から使うだけのバカが。不安も感じたことがない上に家主でもないくせに、家の中に入れないだなんて偉そうに、バカが。
たぶん今、もし今の気持ちをもったまま十年前に帰ったら、きっとそう罵ってるだろう。
あの時買ったプーさんのお菓子の空き箱は、今もペン立てになっている。今はもう古い絵柄をなぞりながら、私はまた腹を立てている。だけどこの腹立ちを無神経な誰かに向けずにいられたらいいと思う。同じように不安で仕方ないだれかに、そうだよね、こわいね、でも本当は怖くないし、自分の足で立てるという確信が持てればきっと楽しくなるよ、大丈夫といって寄り添いたい。
まだ4月!
6月になるまでに進路が決まっていればいいだろ。
ゴールデンウィーク明けから内々定もらうひともたくさんいるはず。
一般職というからには女性?まあ、総合職の採用活動もまだまだある。
これはまあ、どれくらいの学校に通っているのかによるところもあるけど。
焦らず地道にやるしかない…
話すことを考えすぎて、想定問答みたいなのを作ってない?
面接における質問に対して、暗記したものを棒読みするような応答はよろしくない。
よくされる質問については箇条書き程度でまとめるのは良いだろうし、
演技力に自信があれば、入念なシミュレーションもありかもしれないし。
どうして熱意が伝わらなかったんだろう。
それから熱意。
熱意より、己が会社にどういう価値を提供できるのか伝えることのほうが大切。
学部生なのかどうか知らないけどさ。
相手に、どういう風に働くことができるのかを想像させる材料を提示したい。
会社理解の上で、自分の強みがどういう仕事において発揮できそうか、考えておく。
「もし入社したら、具体的にどういうことをやりたい?」と問われたときに、たくさん話せるように。
よほど見当はずれじゃなければ、多少間違っていても平気。たぶん。
あとこの質問、入社直後というか数年の間隔ではないほうが良さそう。
個人的には、考えやすいと思う。
20~30年先のことを想像するほうが、やりたいことが見つかるような気がする。
ここまで書いておいてなんだけど、
就職活動を含めた社会に出ることそのものへのスタンスに幅を持たせられないかと。
新卒正社員での入社以外の在り方をキャリア教育は提供できないのだろうか。
新卒正社員入社以外のキャリアビジョンが無きことになっている。これは大きな問題ですよね。
そこに組織に縛られない生き方としてノマドが食い込んできていて、これも全無思考だと思うわけですが。
契約社員で採用をもらい正社員登用を狙うのもひとつの方法だし、紹介予定派遣という手もある。
そういうキャリアアップの仕方を提示できれば、新卒正社員入社一択から逃れられるかもしれませんね。
雇用市場がざわついている時期は供給過多なわけで、当然ライバルも多い。だからこそ第二新卒orキャリア採用で転職する方法もある。
ところが、その方法は無きことになってる。他の方法論を知らない(知らされてない)のも不幸だと思います。
企業、或いは経産省は「社会人基礎力」なる得体のしれないものを求めてくるわけで。
これを絶対値だって鵜呑みにしちゃったら辛いですね。「面接ごときで自分の何がわかる!」と思ってほしいです。
ただ、これには反対だ。
反対するのは、絶対値的な考え方が前提にあるからではないですか?
「自分より優れた人がいる=自分に価値がない」ではないですよ。
自分は「(この会社を受けた人の中には)自分より良い人がいたんだ」って素直に受け入れてました。
もちろん、悔しい気持ちもありましたが。強力なライバルがいたら叶わない。
ってことを教えてあげればいい。
不採用の理由なんて「君より良い人がいたから」であって、実際問題として出せないんですよ。
採用枠の数に対して多数の応募者がいて、最終的には比較検討で採用・不採用が決まる。
選ばれた人材が内定を辞退すれば、時には次点からの敗者復活もありえる。絶対的に価値がないわけではない。
どうしようもないと考えるから死を選ぶのかも。
「たいしたことない奴に負けた」と思うのは、もっと辛くないですか?