はてなキーワード: 伝統とは
私は"ロビー活動"とは一言も言っていません。今回の件について具体的に贈収賄があるというのなら、その事実を明確にした上でIOCは批難されるべきと思います。
プロモート、というのは「その競技の普及、競技人口の拡大、つまり"売り込み"にどれくらい取り組んできたか」という意味です。2010年で世界のテコンドーの競技人口は7000万人ですが、伝統的な競技であるレスリングは世界で1000万人にも足りません。テコンドーはこれだけ激しく売り込んできたわけです。
私は、伝統的、という言葉で守られている状態を好ましく思っていません。そういう意味で偏った考えを持っており、その上で、レスリングは伝統ある競技だから間違いなくオリンピックで取り上げられる、という考えを「歴史の上にあぐらをかいて」と表現しました。
オリンピックに採用される競技は競技人口や単純な人気だけで決められるべきではない、という主張であるなら、それはまた別の議論です。
誰がそんなことしてんの?
「昔からの穢れの感覚だから非処女を忌避するのはおかしくないんだ、正しく自然なことだ、非処女キタナイ死ね」とでも誰か主張してんの?
それなら「利用」かも知れないけど、そもそも「穢れ」言い出した増田もそこまでは言ってなくね。
何に過剰反応してんの?
それに、一部は消滅して一部が残ったり、本来の意味は形骸化したりっていうのは
普通にあるものなんだから、「抜粋」であることだけを理由に否定するのはおかしいと思うけど。
昔の人が穢れと考えたもの全てを穢れと考えてないのであれば、穢れという考え方を使うのはおかしい、とか言うの?
俺はそうは思わんなぁ。
あのね、都合の良いところだけ抜粋して都合の良い伝統や宗教を利用するなってことだ
そこで何で「子供」が出てくるの?
非処女を忌避する感情は日本の伝統的な穢れ忌避の感情と関係あるかどうかの話だろ?違うの?
あと、俺は君の「清めがないなら穢れではない」という理論に疑義を呈しただけで
歴史的に一部の巫女は一生独身が求められたりして、それって「神に仕える身なのだから、穢れるな、キレイでいろ」という意味なわけだから
日本には伝統的に処女を失うことを「穢れ」とする考えはあったと思う。時代・場所を越えて普遍的であったかはともかく。
また、日常的に死穢に触れる作業に従事する者等は清め不可能なほど穢れた存在と見なされ差別された歴史を考えると
穢れても清めりゃOK(穢れは必ず清められるもの)が日本の伝統なら「穢多」がこれほど差別されては来なかったわけで。
何が言いたいかというと、「清めがないなら穢れではない」という論理で「非処女忌避感情は日本の伝統的な穢れ忌避感情と関連がある」という言説を否定することには少々違和感がある、ということ。
Facebookで次のようなやりとりがあったので、貼り付けます。皆さんの思考の一助となれば。
(補足:本題は、AとC、Eのやり取りです。B、Dのコメントは前振りです。また、イメージがわきにくいので、男女の別と肩書きを付しました)
AKB48メンバーの恋愛・丸刈り問題、フランスの新聞「リベラシオン」にも掲載されました。
タイトルは「日本のダンサー少女の丸刈りに衝撃」で、事実を淡々と伝えています。You Tubeの画像が24時間で300万回以上再生されたとか、日本で大騒ぎになってるとか。彼女は「自分で決めた」と強調しているとか。それで、「第二次大戦後ナチの将校と寝たフランス女性の懺悔を思い出させる」という反応とか、「これが先例になったら困る。青少年への影響を考えろ」というツイッター上の反応とか紹介してます。そのうえで、。「このように日本の懺悔の伝統に少女を追い込んだことについても、恋愛を禁止したことについても、このような有名人プレッシャーをそれを負うには若すぎる少女に課したことについても、誰も罰せられない」と皮肉っています!
私は、You Tubeは世界中から見られるので、日本の恥を世界にさらさないで!と危惧していましたが、恐れていた通りになりました。 http://next.liberation.fr/musique/2013/02/01/surprise-chez-un-danseur-une-chanteuse-japonaise-se-rase-la-tete_878485
どこかで、次回出すCDに、切った髪の毛を入れて発売するという記事を読みました。すべては商業的に仕組まれたことだったのではと思います。本当ならば、なんとしたたかなことか。
Bさん、私も作為的なものを感じます。でも、それが商業的に成功する国・社会であってはいけないし、フランスはAKBのような存在そのものが成り立たない成熟社会です。
商業的に成功するんでしょうか?さすがに切った髪の毛をCDに入れるのには、ファンも反対すると思うのですが。まあ、ファン以外の人がたくさん買うと思うので、売れることは売れるかもしれませんけど…。
AKBのような存在そのものが成り立たないことを「成熟」と捉えることには反対です。
Cさん、反対の理由は何ですか?確かに「成熟」にはいろいろな意味があるので、ちょっと良い表現ではないかもしれませんが。
Dさん、そうでしたか。うっかり、ひっかかりました。(^^ゞ
端的に、成熟(その裏返しとしての未熟)といえる根拠がないと思うからです。逆に、成熟と捉える理由はなんですか?
ところで、フランスでは、AKBは人気がないですが、モーニング娘。は結構ファンがいるようです。どういう差なんでしょうか…?
私の考える「成熟社会」とは、自由、平等、法の支配がより行きわたる社会です。子ども、女性、障がい者等、弱者の権利がより守られる社会です。
もちろん、この問題1つだけで日本が未熟でフランスが成熟しているという根拠には不十分かもしれませんが、たとえば日本の新聞で、上のように「誰も罰せられないのはなぜ?」と疑問をなげかける新聞があるでしょうか?フランスにももちろん闇の部分はたくさんあるので、100%良い国だなどといいう気は全くないのですが、女性差別とか児童・暴力ポルノ問題への批判に関しては、日本の数歩先を行っています。モーニング娘やコスプレが人気と言っても、あくまで「しゃれ」の範囲で、今回のような丸刈り事件には大多数が反対するのがフランス社会だと考えています。
Aさんのおっしゃるような社会を「成熟社会」と呼ぶことには違和感はありませんが、AKBのようなアイドルが存在しえないことは「自由、平等、法の支配がより行きわたっていること」と関係がないように思います。
児童ポルノ問題については、日本はアメリカやヨーロッパ諸国に比べると遅れていますね。性差別については、議論が盛り上がっているということ自体は先を行っていると言えますが、議論の進展状況については、フランスでのヒジャブ禁止問題を見る限り、単純にそう言えるか微妙なところもあります。
今回の丸刈り事件については、日本でも批判的な見解が大多数だと思います。例えば、朝日新聞の記事はかなり批判的です(http://www.asahi.com/national/update/0201/TKY201302010381.html)。この記事は、むしろ、上記のフランスの新聞よりも問題状況を理解していると言えます(この件について、坊主にされたフランス人女性の話と比較させるのは的外れです。もちろん、単に市民の反応を紹介しただけ、という言い訳はできるでしょうが)。
Cさん、朝日の記事は読みましたが、私には批判的とはあまり思えませんでした。特に、後半の危機管理のプロとかいう方の「謝罪は成功」とか、「アイドルは商品。ブランドコントロールは何よりも重要です」というコメントで締めくくる記事構成は、それを是認しているととられる可能性大です。「反省してるから許してあげて」と言いますが、反省する必要はないし、それを売りにしていること自体が明治時代以来の処女神話というか、女性の商品化(差別)の表れと思うと私には耐えがたいのです。フランス社会はそれに抵抗があるからAKBのような存在が(ごく一部のマニアックな層に人気が出たとしても)メジャーになることはないと思っています。
へジャブ禁止令もそもそもイスラムの女性差別に対する批判からでてきた話で、しかも禁止は学校内だけですから、問題ないと思っています。
察するに、今回の件に関してどのような理由から批判するのか、という点について、Aさんと朝日新聞とでは視点が異なるのだと思います。朝日新聞は、「アイドルの恋愛禁止」をやや批判的に描き、「反省の手段として丸刈りにする」ということを体罰あるいはパワハラに類するものだと批判し、また、マーケティング戦略として失敗したのではないかという角度からの意見を紹介しています。そこには、「女性差別」の話は登場しません。
今回の件を女性差別の問題と捉えることは、的を失していると思います。もちろん、女性の商品化→即差別と考える人がいるのはわかっていますが、自分はそうは思いませんし、そういう考え方が一般的だとも思いません(これに対し、男性女性問わず、性の商品化自体が心地良いものではないという意見は多いと思います。それは差別とは別の問題です)。
ヒジャブ禁止は、フランスの差別解消についての独善性が出たものと思っています。ムスリム女性自身の反対を押し切って、よく施行に踏み切ったなと思います。
それはともかく、AKBが存在しえないことが成熟社会である、という言明は、Aさんのコメント内容から推測すると、結局、「女性の商品化は差別である」→「AKBは女性を商品とするものである」→「AKBの存在は差別である」→「差別のある社会は成熟していない」→「AKBの存在は未熟を表す」という思考過程を経ているという理解でよいですか?
女性の商品化=即差別とは私も思いません。それこそ大人の男女が自らの魅力を演出してそれを売りにすること自体は、職業として成り立つのでしょう。でも、そこに「恋愛禁止」のルールなど入りこむすきはないですよね?その自由の否定とそれを受け入れる社会が未熟だという考えです。校則なども一種の自由の制限として私自身は反対です。
なので、上記の「女性の商品化は差別である」という命題からは出発しません。AKBのような未成年を商売道具として利用する大人に対する批判はあるので、AKBに限らず、「10代のアイドルは大人が子どもを商品とするものである」→「特に処女性を売り物にするアイドル(たとえばAKB)は女性差別である」→「子どもを商品としたり、女性に限らず、差別を許す社会は未熟である」という思考過程を経ているかな?と思います。
このAKBの構成員たる若い女子の丸刈りが、いかに多くの女性から嫌悪感を帯びて見られているか、秋元某はわかってないでしょうね。この嫌悪感は、まさしく「女性がオッサンから商品化」され、「搾取」されていると嗅ぎ取っていることからきます。また、「若いにーちゃんがこれを見て喜ぶだろう欲求」を充たしたと、商業ベースから判断されていることを嗅ぎ取っているからでしょうね。
法や人権に携わる者が、これらのことに鈍感であってはならないと強く感じます。そういう意味での「嗅覚」、とても大切ですよね。頭で理屈づけることなど、後から暇な人がすれば良いことです。これが社会的に、また若い女性、若い男性に与える悪影響から考えると、即刻このような「性の商品化」はやめるべしだと思います。また、森美術館の例の展示も、いま問題の体罰も、根っこに同じものを感じます。
Aさんの仰ること、私には大変よく理解できます。ロースクールも法学部も、真面目にジェンダー法に取り組むべきでしょうね。
そうそう思い出しました。キャリア教育などでも「自分を商品と思って売り出すなら、なんて売り出しますか?」というフレーズを使う講師に、それは不適切だと抗議したことがあります。人間は売り物ではありません!それを、いけしゃあしゃあとやっている大人たち、買う人間がいるから売るという発想の大人、これは本当に断罪しなければなりません。
謝罪って・・・誰に対して?写真集の犯罪については責任者=男性・権力者の落とし前は社会的にも不問で、労働者=女子は人権も人格も否定される不平等が搾取だし、キモい。日本はジェンダーバランスの点では著しく未熟な社会である。
AKBの女の子と同じくらいの年齢の娘がおりますので、この女の子の丸刈り姿を直視できません…。これがもし自分の娘だったら…と考えるだけで、死にそうなくらいイヤな気持ちになります。そんな集団に入ることを許してしまった、親としての自分のあり方を呪うと思います。
この画像に対する嫌悪感は、表現しがたいほどです。女性が「罰として丸刈りにする」という行為自体が、ナチスの収容所に入れられた女性や、大戦後、ナチスとの付き合いがあったことで丸刈りにされた女性たちを連想してしまうのです…。
こんなことがまかり通る「幼稚」な国であるということを、臆面もなく世界にさらしてしまったことは、本当に恥ずかしいと思いますね。
私も朝日新聞の記事を読みましたが、あれのどこが批判的なんでしょ?しかも、その記事の横に「板野友美引退」ですよ?スポーツ紙か?と突っ込みました。
テレビのニュースも然りです。この気持ち悪さ、不快感の本質をついてくれない。
Aさんのスレッドを読ませて頂き、やっと胸のつかえがおりました。
>Aさん
女性の商品化というよりは、子供の商品化が問題であり、また、それとは別に、処女性を売り物にすることが女性差別だということですね。処女神話はたしかに女性差別の意識の発現と言えるでしょうから、処女性を売り物にすることが女性差別意識を払拭することを妨げると言うことはできますよね。
ただ、たしかに「男はあの映像を見て喜ぶ」と演出サイドが思った可能性はありますが、実際にはそんなことはおそらくありませんので(喜ぶ人もいることはいるでしょうが)、演出サイドを責めるならともかく、今回の件に対する批判の声が多い現状に鑑みると、社会を未熟と言ってしまうのは、卑下しすぎではないかと思わないではないですね。
少数派の意見を正当化しなければならないときには「嗅覚」だけではどうにもならないので、理屈付けが必要です。もちろん、問題発見のプロセスでは、理屈付けの前に「嗅覚」が先に立つわけですが、正当化のプロセスにおける理屈付けがなければ、味方同士の馴れ合いで終わりです。
>Cさん
「嗅覚」が働かないような人は、学者にも司法関係者にも人権に携わる人にもはなれませんね。どこぞの弁護士みたいに人権が飯のタネ、なら別ですが。かしこぶっても、痛みをわからない人に理屈をつけられるよりは、まずは気持ち悪さを「共感」できる人でないと、自分はおろか他者の「権利」なんて守れませんからね。「正当化のプロセス」を他者がしたり顔ですることが、問題発生のすぐの時点でそんなに必要とは思えません。それを味方同士の馴れ合いなどと断言されるというのは、やはり第三者である自分を安全地帯において評論する、というところからですかね。
Cさん、大衆論理は常に正しいんですかね。女性のことに関して女性の意見を聞かない男性に何がわかるのでしょうか。古代脳である嗅覚すらないならもはや生物とも思えません。
AKBは日本の現代社会の考察対象としての興味は強くあったが、メンバーそのもの自体にはあまり興味がなかった、しいて言うなら峯岸みなみが好きだった。
彼女の顔が好みだったというのもあるが、彼女の自分を下げるようなことをしてまで笑いをとるサービス精神が気に入っていた。
それは彼女の持つ、一種の愛に対する不安感がそうしているのではないかと思っている。心の奥底で、しっかりと安心した愛を受け取れなかった寂しさ。
しかし、その行為は、彼女に備わる本質的な優しさがそうしているのだと思うのだ。
実存的な不安から来る愛の渇望を埋める方法は人それぞれ違う。他人のことをわがまま放題に振り回したり、異様に執着したり。多くの場合はそうなる。
だけど、彼女は意識的ではないだろうが、自己犠牲を選んだ。自己犠牲なくして、何が本当の優しさなのか。
女性特有の利害関係への敏感さを標準以上に持つ他のメンバーの対して、異彩に存在していると感じていた。
彼女にたいする愛はこのへんにして、本題に入ろう。
今回の坊主謝罪問題は、AKB48というゲームを破壊するほどの衝撃がある。
「恋愛禁止」は、ファンと運営の間にある馴れ合いの果てに生まれたルールだ。
恋愛という実に個人的な出来事を、仕事であるアイドル活動に結びつけるのは、昔からあるアイドルの伝統ではある。
しかし、そういった不文律だったのものを、はっきりと打ち出したことは、AKBの大躍進の起爆剤になったのは間違いないだろう。
アイドルに抱く願望を、はっきりと約束してくれる。これは最初は一種のネタのようなものであったようだが、徐々にファンと運営の間での前提となっていったようだ。
ファンと運営との馴れ合い(ふれあい?)は総選挙やじゃんけん大会などがファンからの要望を答える形で誕生したように、AKBの伝統なのだろう。
そのファンと運営とそれをとりまくメディアとの馴れ合いのゲームそのものが、AKBというプラットフォームであり、彼女たちはゲームのキャラクターのように象徴化されて愛された。
そのゲームが現実にならないようにするには、彼女たちに生身の人間としての行動を許してはならない。それが恋愛禁止へと至ったのだと思われる。
しかし、今回の峯岸みなみの事件は、その関係に亀裂を生じさせる始まりになるのではないか。
これはゲームに熱中しすぎて、ゲームそのものが成立する条件を破壊してしまうということだ。
例えば、こういう経験はないだろうか。子供の頃、友だちとふざけてじゃれあってる時に、徐々に叩き合いになり、そして、ある瞬間一線を超えて喧嘩になる。
あるいは、文化祭の準備で、実行委員長が本気になりすぎて周りが引いてしまう。
ゲーム(遊び)が成立していた関係性や暗黙の了解が、参加者が過熱しすぎることで暴走し、破壊されてしまう。
これと似たようなことが、今回の事件で起こった。
AKBの人気が頂点を極め、ショービズの世界に巨大な化け物ように君臨した時、自分たちの成功法則の一つ、恋愛禁止のルールの存在が大きくなりすぎてた。
それは過去のメンバーへの激しいバッシングや、脱退や移籍などの処罰(人間的行為なのに!)を受けたのを見ればわかるだろう。あれほどの人気を持ちながら、その地位を奪うほどだ。
前田敦子なんて、恋愛禁止がいやで脱退したと言われるほどだ。それほどのことなのに、誰もそれを批判しない。まさにゲームが行き過ぎて暴走していた状態だ。
彼女が実存的な不安を抱えていると想定すると、きっと自分の居場所が消えてなくなるほどの強いショックを週刊誌を読んで感じたのだろう。
それがパニックとなり衝動的に坊主にしたのだろうと思っている。運営が事前に知ってたら絶対こんなマイナスなイメージを与える結果になるようなことはさせない。
坊主にしなければ許されないと彼女を追い詰めるほど、恋愛禁止ルールは暴走していたのだ。
そして、多くの人が後味の悪い気持ちになる。恋愛禁止を旗手にもってそれを犯したメンバーをバッシングしていた人も、今回は彼女に拳を振り下ろすことに躊躇するだろう。
なぜなら、自分が人を追い込んだことを坊主というはっきりとわかるヴィジュアルで見せられたら、さすがに自分がこれからやろうとすることの意味に気づいてしまう。
そして、それまで白熱していたことが、ゲームだったことに気づいて覚めた気持ちを抱くのだ。ネタだったものがマジになっていき、そして行き過ぎた時にネタだったことを思い出す。
あるいは、からかって遊んでいるつもりが、いつの間にかいじめになり、相手がひきこもりになってようやく自体を理解するような。
一度人はゲームに覚めてしまうと、なかなかまた再熱中出来ない。
もしかしたら、今回の事件がきっかけに、AKBは崩壊するかもしれない。
そして、今の芸能界と日本に漂う、自己増殖的に増えるゲームが、崩壊するきっかけになるかもしれないなんてのも思う(話を広げすぎだけど)
「イケダハヤト氏の文章がなぜ不快なのかをまじめに考えた - GoTheDistance」
http://d.hatena.ne.jp/gothedistance/20130126/1359170899
このブロガーさんは、日本の腐りきった SI 業界で頑張っている人なので、あまりこういう流行りものネタには手を出してほしくないな、と思いつつも。
私は、イケダハヤト氏を少しも不快に思わないばかりか、むしろ彼の社会の新しいトレンドを見抜く異常なセンスのよさに感嘆しているのだが。
だからいままで、彼に絡む人たちの気持ちが理解できなかった。
だが上の文章を読んで少し理解できた気がする。
イケダさんは、現場にいるベテランたちから嫌われているのだろう。
現場のベテランは、イケダさんを「サラリーマン生活も満足につとまらず、いまは家に引きこもってブログを書いているだけの若造」と頭から決めてかかっているのだろう。
イケダさんが何を言っても「現場じゃそんなことはない」「そんな話は非現実的だ」とすぐにケチをつけたくなるのだろう。
日本人は伝統的に、理念より経験を重要視してきた。大学教育より OJT が重視されてきたのもその現れだ。そういう意味でイケダハヤトさんは、まさに理念そのものであり、唾棄すべき対象ということになるのかもしれない。
しかし、それで本当にいいのだろうか?20年前に日本が名実ともに先進国の地位を確立したあとに、経済成長が止まってしまったのは、日本人が現場の経験を超えた理念の世界について、真面目に考えることを怠ったからじゃないかな。日本人には欧米の真似はできても、それを超えることができない。本質論を語れないからだ。イケダさんのブログにはいろいろヒントになる話があると思うけどね。
最近、イケダさんをからかっていた Y 氏は、日頃から名誉毀損的な言動を繰り返しているのだが、誰も彼を咎めようとはしないのは不思議なものだ。Y氏は自虐的でおどけた立ち位置を取っているから許されているのだろうね。日本だど「俺、バカっすから〜」と頭の良さげなところを見せない人間が好かれる。一方でイケダさんは、神経質ぽく見えるルックスとあいまって、賢しげにしている可愛くないやつという認識で叩かれたりするんだろうね。
イケダさんには頑張ってもらいたいものだ。ただ、本当に嫌になったら、外国に移住してもいいかも。日本は理想主義者には生きづらい国だ。こうしてきちんと理念を語れる若者たちを追放し、日本はますます老人だらけのしなびた国へと衰えていくのだろう。自業自得ではあるが。
今回の一件に関して、橋下徹がやりすぎだとはぜんぜん思わないのですよ。
だってね、人が死んでるんですよ。
学校でですよ?
そりゃ、ワタミで出したってダメですけどね、学校で人を殺すのは絶対ダメです。
あそこであれを出したらもう終わりっていうやつがあると思います。
ワタミで自殺者が出たからって営業停止とかは、どうかなって思うんですけど、ワタミで集団食中毒を出したら、そりゃ店閉めないとって思います。
そういうのと同じだと思うんですよ。
他の生徒にはとばっちりだとか、政治が教育に口を出すべきじゃないとか、入試を取り仕切るのは市長じゃなくて教育委員会だとか言われたりしてるけど、学校で人が死ぬということは、そういうことだと思うんです。
どんなにバスケが好きだと言われても、
「それでもあの高校に通わせるわけにはいかない」
と答える。
自分にはバスケしかないとか、今が人生で一番輝いてるとか言われたら、
「そんなことはない。あなたの人生は、今だけじゃなくてこれからもずっと、輝かせないといけない。」
と答える。
在校生だって、後輩が入ってこないくらいでああいうのはどうかと思う。
後輩が入ってこようがこまいが、自分で選んだ高校でしょ。
部としては、層が薄くなるのは困るけど、それはそれ。
繰り返すけど、学校で自殺者、学校で体罰、それはとても重大なことだと思う。
人気取りだとか、連帯責任だとか言われてるけど、学校で自殺者というのはそういうレベルの大事件だと思う。
というより、そういうことにしないといけないと思う。
残念だとか、遺憾だとか、申し訳ないなんて言葉で済まそうってほうがおかしい。
人が亡くなった、というか殺したんでしょ?
人を殺した教育システムは、他にどんないいところがあったとしても、廃するべきだ。
伝統の重みなんか、人の命の重みに比べれば紙ペラよりも軽いよ。
その伝統とやらも、人を殺した教育システムの一部として、未来永劫糾弾されるべき。
教師は全員異勤すべきだと思うし、体育科どころか普通科の入試もやめさせるべきだと思う。
私は絶対に許さない。
私は絶対に絶対に許さない。
橋下市長が体罰の背景に「生徒たちも容認していた」「勝利至上主義」などと発言していたのに対し、女子生徒は「容認していないし、勝つことだけが目標ではなく、礼儀など人として一番大切なことを教えてもらっている」と反論。自殺問題について「心の傷は深く、重く受け止めている。傷を癒せるのは先生」として教諭の総入れ替えにも反対し、「多くの生徒が学校を守りたいと思っている」と強調した。
男子生徒は「今回の結果が覆せるんじゃないかと、強い思いを持ってきた」と会見の動機を語った。別の女子生徒も「今まで続いている伝統は今でも正しいと思っている」と力説した。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2013012100907
bogus-simotukare また橋下か, 維新の怪
勇気ある子ども達に感動。大体「問題があるから」ってこんな無茶苦茶が許されるなら「当て逃げ犯」「選挙違反者」と問題だらけの「維新の怪」はどうなるんだよ。手前らの不祥事は個人責任か?
簡単に罠に嵌まってますなあ。
安倍の経済左派政策と同じで、橋下は敵陣を混乱させるためにやってるだけなのに。
左翼チョロすぎてあくびが出るわ。
http://anond.hatelabo.jp/20130114200706
http://anond.hatelabo.jp/20130114183054
解答ありがとうございます。なるほどなるほど。
元来油というのは貴重な物で、食用になったのは割と最近の事なんですね。
それでも他国の料理には油っ気の多いものがあるのに、日本に無いのは…
日本は豊かになってからまだ日が浅くて、油を使った伝統料理が育つ時間が足りなかったのかな?
あとは、油の取れる作物が育つかどうか、なんてのも関係あるのかもと思いました。
例えばオリーブ油なんかは結構昔から地中海では作られてたようだから、昔のヨーロッパ人はきっと高級ながらも食料として認識してたんじゃないかな、と。
こんな記事が注目を集めていた。
http://anond.hatelabo.jp/20130112060014
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20130112060014
ブコメで色々と言われているが、『「将来は専業主婦になりたい」と堂々と言える世の中のほうが健全だ思う』というのがあった。
ブコメを見て不思議なのは、歴史的に見て自然というのに大いに反発しながら、今ある状態を歴史的な目で固定化している不思議。今の状況も変化が起こるもの。もう専業主婦で女がいられる時代ではないと言っているが、何でそうなったのか。フェミが何とかとか言ってるけど、そんなフェミ視点だからまともな経済視点で語れない。
専業主婦が以前よりも少なくなった理由は、給料が下がり続けているデフレ状況下がある。この今の状況は歴史的な進歩ではなく、逆に退歩している。デフレがいつまでも続くのが、自然な社会の形態とでも思ってるのか。経済音痴に言っても分からないから、インタゲ2%とか色々と言っても仕方ないから、ものすごく簡略化する。今の安倍自民が言ってることが実行されれば、内需が増えて国内雇用が増え、給料が上がる。男の給料が増え、何よりも、当の女性が専業主婦になりたい女性が増えている。ニッチなはてなでフェミが何とかとか言って夢想している人の予想以上に、専業主婦になりたい女性は、実際に増えている。専業主婦になりたい女性が増えていると、何度も調査結果が出てるだろ。デフレから脱却+当の女性の希望で、専業主婦家庭は増える。以前の高度経済成長期並には、増えなくてもね。
専業主婦は歴史的な存在ではないとか必死に言って反発しているのは、何なんだろうね。これも、歴史的現実的に疎いフェミ視点とやらなのか。あのね、もう少し考えないと本当の馬鹿だと思われるよ。今は、高度な資本主義経済下に生きている。その今の資本主義社会と、それとは根本から違っていた社会の女性の暮らしぶりを、今にそのまま当てはめてどうするわけさ?専業主婦が増えたのは、経済成長を続けていた資本主義社会で増えた。もう一度、経済成長を続けていけば、当の女性の希望も加わって、専業主婦家庭は増えるわけ。
何か?以前のその専業主婦でなかった時代の女性を「伝統の女性像」とか言って、その時代を今に適合するのか?そうなるとさ、今の資本主義社会自体を否定しないといけなくなるよ。そんなことまで考えないで、言ってるよね。専業主婦ってのはね、「資本主義社会での女性像」のことで、資本主義社会ではない時代の女性像を今の資本主義社会に重ねて、「昔は違ったんだ」って、とうとう脳内溶解でも始めたのかね。資本主義社会での女性のことを言ってるのだから、同じ資本主義社会での女性を言わないとさ。
最初の「男は仕事、女は家庭は歴史的に見ても自然」の記事に、その時代を今に適合してどうするんだ!とか言ってるが、鏡を見ろってこのことだな。資本主義社会ではない時代の女性像を今に適合しているのは、お前だろってな。
結局、『「将来は専業主婦になりたい」と堂々と言える世の中のほうが健全だ思う』、その通りだろ。別に専業主婦を強制しているわけでもないのに、何でそんなに反発しているのかって。むしろ、専業主婦を思いっきり否定して、その方向性で強制しているのは、一見すると男女平等とか言っているフェミのほう。しかしね、反発だらけなのは、このニッチなはてなではびこっているおかしなフェミ何とかってだけでね。他のもっと一般的なサイト、テレビ、新聞、雑誌やらでは、普通に専業主婦のことが出ているが、アホみたいに反発していない。一般の調査では、専業主婦願望が増えているんだから。
一般的な声はどこにあるのかを一番写すのが選挙結果。政党で一番フェミのことを言ってきたのが、社民党。その社民党は、もう政党自体が消滅しそうだよな。北朝鮮の拉致やら色々とあるが、社民党はトンデモ、社民党が言っているフェミニズム主張はいい加減にウザい。これが、世間の声なのに。何で、世間一般の声を無視するのか。はてなサヨクの政治系やら、はてフェミ系やらの声は極限られた特殊な意見ってのは、選挙結果でも分かるだろ。
働く女性像とか煽って、結局、その女性たちを苦しめてきたのにさ。専業主婦願望の増加の理由って、働く女性像なるものを煽り続けて押し付けて強制までさせて専業主婦を否定しすぎて、宗教や、ファシズムになってきたから、それに反発した女性の声が大きくなったのだろう。自業自得とは、このことだね。
あとさ、電化製品とかあるから専業主婦は必要ないって、それは違うな。専業主婦は子供といる時間のこととか、家にいる女性に安心感があるとか、精神的な面での重要なことがある。唯物的に専業主婦を捉えるから、現実が見えない。モノでしか見られないのに、よく今の社会で働けるな。単にモノを売っていても、同じ価格のモノでも一方のほうが売れるのは、付加価値があるから。今の資本主義下の商売でも、単に唯物的に売っているのではなくて、精神的なものを付加しているわけだよ。「モノを売っているのではなく、物語を売っている」って聞いたことがない?単に機械的にモノを売っているだけの時代じゃないくらい、さんざん言われてるだろ。専業主婦になると、なおさら遥かにそうなる。精神面での安らぎとか一緒にいる物語ね、こういうのが専業主婦でのありがたいことで。単に電化製品があるから専業主婦はいらないモノだって、もうね、今の時代の物売りの基礎もあったものじゃないね。
あと、最初の記事のブコメに進化心理学とあったね。進化心理学関連の本って、結構ある。専業主婦の極々短い指摘くらいで反発して思考停止するのは、こんなタイトルを見ただけで発狂するのかね?
『なぜ女は昇進を拒むのか――進化心理学が解く性差のパラドクス』
こういうのは、進化心理学で研究されていること。タイトルから見て反発するのではなく、学問としてよく見てみるんだね。進化心理学自体を否定するのならば、学問を否定するまさにファシズムだな。学問の幅は想像以上に広く、自分に都合の悪い研究も色々とされているのを認めろ。フェミさんたちのは、タイトルもアレで中身もアレなのが多いが、進化心理学は中身はしっかりしているから、色々とよく見てみれば。心理学という学問が、フェミのアレな主張に真正面から反対することも言っているな。
消滅まっしぐらで、世間から何ら支持されず邪魔者のゴミ扱いされている社民党なんかを支持しているはてなの偏狭なはてフェミって、はてなサヨクと同じく、はてなのアホの象徴。社民党は女性から相当な嫌悪感を充満させられて、嫌がられまくっているという現実を、はてフェミはいい加減に見ろ。
政治思想としての右派左派と、本来極右や極左である人に対して使われる罵倒用語として右翼左翼をごっちゃにしているのが混乱のもと。
右翼も左翼も粗暴・暴力的である人間とそのシンパに対して使うことが通常で、批判対象が粗暴であるというイメージを投げかける目的でも使われる。排外主義や自民族中心主義者が粗暴だったら右翼だし、非伝統的な改革志向と粗暴さが組み合わさったら左翼。基本的にこう覚えておけばいい。
■事例
石原慎太郎:自分の排外的な主張を組織化するときに民族主義を使って、言説自体が粗暴だから普通に極右で、罵倒語の対象としての右翼。
フェミニズム:素朴保守主義者にとっては急激な変化を求めている(=粗暴)ように感じるから罵倒語の対象としての左翼。粗暴ではないけど。
まあ石原慎太郎が紳士で知的だと思う人にとっては右翼じゃないわな。
で、外交の話だけど、中国の政治家が「クソヤンキーと小日本の顔をはたいてやればいい」とかいえばアチラ的にも極右政治家だろう。
単純なタイプミス
重複記述
僕は「縄」とか呼んでる技法で、一つの話をするためにいくつもの例え話や実話を絡めながら、積み重ねてコンセプトを強調する技法を僕はそう呼んでいます。
自己申告ではあるが7・8年の執筆キャリアがある人間が普通に書いててこんな凡ミスやらかすことはない。
あるとすればそれはちょうど作文の苦手な小学一年生が必死こいて国語の勉強を重ねた結果中学2年に上がった時点でどうにかこうにか文章の様相を呈してきたぞみたいなモノが書けた場合などが考えられるが本人は高校時代がどうこうとか言ってるのでたぶん違うだろう。
つまりこれらは全て添削されることを前提して書いたもの、要するに釣りである可能性が濃厚。
内容的には例えば7・8年で技術が伝統として成熟して古典と称せると思ってるあたり何と言うかアレだなあとかああ下らない揚げ足取りして父親が鼻につくお年頃だけど直に言う勇気も無ければ父越えやったぞと胸を張るだけの実績もないが故なんだろうなあとかいろいろ生温かいことを思わせる要素が満載なのだが、その辺も全部狙って書かれている可能性が微レ存。