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2017-07-16

https://anond.hatelabo.jp/20170716120553

享年警察です。享年とは死亡時年齢ではなく年数(期間)のことをさしますので「享年17」と書かれるでしょう。

2017-07-14

もし小早川秀秋夭折しなければ裏切者扱いされなかった

吉川空弁当広家(享年65)見るに無理だと思う

家名残しても前田利家裏切りとか家康の焼味噌とか未だに言われてるし

2017-07-10

祖父四十九日和尚が大泣きしてドン引いた

昨日、祖父享年93)の四十九日法要があって、久々に実家に帰った。

法要が終わり、宴会場で食事をしているとき和尚眼鏡をずらして大泣きしだしてギョッとした。

そのあと、腰を上げて本家のおじさんと机越しに握手して、「もううち寺の味方は増田本家さんだけや...」

みたいなことを言って、肩を抱き合ってて、とにかく普通雰囲気ではなかった。

聞けば、最近檀家さんが減っていて、心配らしい。

跡取りも婿で地域との縁が薄いのも心配らしい。

そんな中、増田家が父に代替わりし、お布施の額が激減。すごく心細くなったという。

20年前の祖母葬儀で、祖父坊主を5人呼んでいた。

今回の祖父葬儀では、父は2人しか坊主を呼ばなかったというのが「信じられない!」そう。

増田本家のおじさんは、常日頃から増田分家集落20軒くらいある)に対して

寺にお布施をするよう呼び掛けていて、

増田一統の戒名ランクを上げたいという考えの持ち主。

和尚は酒を飲んだ勢いで、増田家のお布施の額についてや、

「うちは跡取りが婿でこのへんの人とは交流が乏しいから将来が心配だ」

本家のおじさんに愚痴をこぼし、

本家のおじさんが和尚立場に寄り添うような話をしたら、感極まって

「ああ、私より先に増田本家さんが亡くなってまったら、うちの寺はどうなるんだ」

不安になって涙が出た、と。

涙の理由がすごく俗っぽくって、ドン引いた。

食事に出席した分家のひとたちも、和尚の話を聞いてなんか笑ってるし、

和尚さま、しかたがないなあww」みたいな感じで、その発言を許してる。誰も咎めることなく。

祖父は、私たち子どものころ、朝夕お寺にお参りしてお墓掃除をする人物として集落でも有名だった。

お寺は、わたしと兄の集団登校の集合場所だったので、朝のお参りは、子供見送りのついでだった。

寺までの道中、祖父から「あの和尚さまは偉い人なんだよ。礼儀正しくするんやよ」って言われていたので、

わたしも兄も、祖父の言いつけ通り、和尚を「和尚さま」と呼び、

よくわからないけど礼儀正しくして、尊敬するようにしていた。

そんなかんじで、祖父から尊敬するように教えられていた和尚から、この仕打ちかよ。

祖父生前、この和尚から、「あなたはもう徳が十分だから戒名ランクを上げなさい」と助言されていたらしい。

だがこの祖父は、なにかの機会ごとに2-3年に1回は、

戒名ランク絶対に上げてはいけない。一度戒名ランクを上げると、

そのランクに見合ったお布施を払い続けないといけない。

子ども・孫にその経済的負担を強いることになるから絶対に上げてはいけない。

生きている間だけ世話してくれればいい」と言っていた。

残されたわたしたちはそれを遺言だと思って、守っただけだ。

祖父四十九日法要の席で、

おまえらお布施の額が少ないか不安になって泣けてしまった」みたいなこといわれないかんのだ。

いや、言いたいなら言ってもいいけど、本家ともなにしゃべってtもいいけど

四十九日法要でいう話じゃないやろ。

二重に三重にどん引いた。

あー。あの集落から出られてよかった...。

2017-05-20

国が終わる瞬間を見たいか

大日本帝国享年は77才。

1968~1945

ソビエト享年は74才。

1917~1991

そして日本国の年齢は72才。

1945~

まり、あと2年か5年で日本崩壊が起きる可能性が高いということだ。

その日本は、民主主義信用失墜だの不況の長期化だの好景気兆しだの安倍政権生前葬だので「ええじゃないか状態

国としての日本が終わる瞬間を諸君も見れるぞ!

あの感動をもう一度!!

2019年ないし2022年に迎えるとされる日本終了のXデー

新たな時代の到来を諸君はどう歓迎するだろうか?

2017-05-19

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれ出自壬生氏。

目次 [非表示]

1 円仁人物

2 遣唐使の渡海の困難

3 天台山を目指すが…

4 在唐新羅社会の助け

5 五台山巡礼

6 長安への求法

7 帰国の旅の苦難

8 関連文献

9 脚注

10 関連項目

11 外部リンク

円仁人物像[編集]

794年延暦13年)下野国都賀壬生町現在壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主から儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄理解者であって、多くの弟子最澄師事させている。

※生誕地については

美加保ノ関(藤岡町三鴨の都賀字館)

手洗窪(岩舟町下津原

壬生寺壬生町

などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。

また、美加保乃関は万葉集歌人によって和歌も詠まれており

下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ

あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと

石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまら

下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん

この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。

安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇延暦13年、廣智菩薩大慈寺住職とき南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市史跡指定されている。

15歳のとき、唐より最澄帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい最澄師事する。奈良仏教の反撃と真言密教興隆という二重の障壁の中で天台宗確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難[編集]

836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

上陸である唐の開成4年7月2日日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…[編集]

最後遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝勅許必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分新羅僧だ」と主張しているが新羅言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅社会の助け[編集]

当時、中国山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅社会の助けを借りて唐残留成功不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝設立の赤山法華院で聖林という新羅から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日4月28日の58日間)。

五台山巡礼[編集]

840年、五台山巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山客死した霊仙三蔵)。法華経密教整合性に関する未解決問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法[編集]

当時世界最大の都市にして最先端文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅長安絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難[編集]

当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安悪化不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁長安暮らしを支えた長安在留新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

円仁が無事生きている」という情報日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワー研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺松島瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草浅草寺もそのひとつ岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。

増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位従五位下・右衛門少尉

目次 [非表示]

1 生涯

1.1 仕官以前

1.2 秀吉近臣時代

1.3 郡山城時代

1.4 秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後

2 子孫

3 主な家臣

3.1 一門衆

3.2 重臣

3.3 その他

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典

5 関連項目

生涯[編集]

増田長盛邸址(愛知県稲沢市増田町

増田長盛屋敷跡(滋賀県長浜市朝日町

生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国存在した増田氏との関係不明である

仕官以前[編集]

秀吉仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。

秀吉近臣時代[編集]

天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。

秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見日記名前が登場している。

天正12年(1584年)3月小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍根来衆津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。

天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さら下野常陸安房大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。

太閤検地では石田三成長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国美濃国越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋五条大橋改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。

文禄元年(1592年)から文禄の役では、石田三成大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城駐留し、奉行として占領統治兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。

文禄4年(1595年、豊臣秀次秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このとき対応秀吉によるキリスト教フランシスコ会)の弾圧日本二十六聖人殉教)の端緒を開いた。

郡山城時代[編集]

文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和から夫役徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国和泉国の蔵入地管理を委ねられている。秀吉晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。

慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。

秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後[編集]

慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家前田玄以など五奉行連判で家康悪事糾弾する弾劾書を示し、五大老毛利輝元宇喜多秀家擁立して挙兵西国大名西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。

伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田左衛門を陣代として軍勢派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯戦後9月25日出家して謝罪し、9月27日大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。

後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。

三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地100万石がもたらす資金人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。

墓所埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。

枝吉神陽

枝吉 神陽(えだよし しんよう、文政5年5月24日(1822年7月12日) - 文久2年8月14日(1862年9月8日))は、江戸時代後期の幕末活躍した佐賀藩思想家教育者国学者藩校弘道館教諭外務卿内務大臣を務めた副島種臣実弟本名は経種。贈従四位佐賀の尊皇派の中心的存在

目次 [非表示]

1 経歴

2 影響

3 同時代評価

4 関連項目

5 参考資料

経歴[編集]

佐賀藩藩校弘道館教授であった枝吉南濠種彰の長男として生まれる。幼児期より神童と賞され、20歳の時には江戸の昌平黌に学んでいるが、ほどなく舎長に推されている。また、漢学に偏重した内容に異議を唱え、国学を学ぶことを認めさせた。

早くから儒教朱子学の教えに疑問を抱いており、佐賀藩哲学である葉隠』をも否定したといわれる。

26歳で帰郷してから弘道館教諭や什物方などを務める傍ら、父南濠の唱えた「日本一君論」を受け継ぎ勤王運動を行った。1850年には「義祭同盟」を結成。天皇を中心とした政治体制である律令制などの知識を伝授するなど、藩論を尊王倒幕に向かわせようとしたが藩主鍋島直正を動かすことは出来ず失敗している。なお、この義祭同盟から実弟副島種臣のほか、大隈重信江藤新平大木喬任島義勇明治維新に大きな影響を与えた人材を多数輩出しており、「佐賀吉田松陰」とも言える人物である。また、水戸藤田東湖と「東西の二傑」と並び称された。

1863年、コレラに罹った妻を看病するうち自身罹患し、死去。享年41。墓所佐賀市本庄町の高伝寺。

影響[編集]

神陽は律令制を学ぶことを奨励したが、彼の教えを受けた江藤新平(初代司法卿)や大木喬任(2代司法卿)は法整備活躍した。また、明治政府が当初導入した太政官制副島種臣が起草したものであるが、ここにも神陽の影響がみられている。

2017-05-06

現代カーストって

結婚済み>結婚したけど離婚独身だけど彼女持ち>独身だけど非童貞独身だけど素人童貞独身童貞享年彼女いない年数

であってる?

2017-04-03

これ妄想だよね

やや批判され気味のこのエントリ

女友達が死んだ。享年30歳。死因・不倫

http://ui0723.hatenablog.com/entry/2017/03/30/215040

単に文体気持ち悪いのは確かにそうなんだけど、それ以前に読んでいて違和感ばかりだった。たぶん妄想記事なんじゃないかな。

理由1

まず、6年も不倫していて地方に5人愛人がいる人。そんなヒマな人いるか?と疑わしいし、SNSを使い分けるとかありえない。本当に賢い男はSNS無駄にやらない。

理由2

実家暮らしで6年も不倫、も現実的ではないね不倫一人暮らしの方が絶対に向いてる。

理由3

大人なんだから大規模な誕生会は週末にやるでしょ。

理由4

てかミムラァって言いたいだけだろ。自分に酔いすぎ。

思うに、筆者が本当に言いたかったことは別にあるんだろうと思う。おそらく、振り向いてくれない女が30を過ぎたとか、30すぎた女にひどい振られ方をしたとか、そんな感じ。とりあえず30以上の女を潜在的に見下してるってことは分かった。

2017-02-13

http://anond.hatelabo.jp/20170213154139

祖父他界した。享年84歳。男性平均寿命が80.79歳(2015年統計)を考えると、まぁ長生きだろう。

こういうの見るとすごくもやっとする。

なぜ2015年まれ平均寿命と比べるんだ。

2016-10-08

帝京大医学部女の子テラスハウス出てたけど、その肩書きテロップに出てる限り「私はめちゃめちゃ馬鹿だけど、親に大金を払ってもらって医者になるよ!」って吹き出しに書いてあるようなものじゃん。

by東大卒電通ガール享年24

2016-09-10

オナホに速攻で負けて死にたくなった

http://anond.hatelabo.jp/20160822052822 の続き、リベンジ

初めて使ってから早2週間、やっぱり準備や後始末を考えると使おうという気が起きなくなります死にたい

前回、独特の感覚理解したもののそれ以上ではない感じだったのは恐らく、いわゆる溜めの期間が少なかったためだと思う。そこで今回は一週間のブランクを用意することとした。一般的には3日もあれば充分らしいが、念には念を入れた。これで文句はあるまい。

また今回はちゃんと部屋で致すべくタオルも敷いたしおかずは幾らでもある、準備は万端。一体どのおかずを使うべきかというどうでもいいことで悩んだが、今度こそちゃんとできるのだ。

が、いつもなら興奮するおかずでも何故か半端にしか立たない。え、まさか、緊張してるの?シリコン相手に?無機物相手でも緊張するって、人として終わってるにも程がある死にたい

前回と同じ流れになるのはどうにも腑に落ちないが、入れてしまえばまた大丈夫だろうということでいざ鎌倉。うんそうそう、この妙なイタ気持ちよさっていうのが良いのか良くないのか微妙なんだよ。違和感に押されてでも立つんから悪くは無いのかも知れないけど本当に微妙

じゃあとりあえず、どうせまた時間かかるだろうし動かすかなーっと………………え?え?あれ?

享年、45秒。死にたい

微妙感覚を楽しもうって思う時間も無かったね。気付いたら、痛みを覚えるぐらいに出る感覚になってた。

あと今更だけど、どれだけ出してもオナホの中に溜まるから実はこれって後片付け的には凄い楽なのでは???と気付きました。死にたい

風呂入るついでに洗い流そうとしたところで、一週間我慢して1分未満とかありえないだろ!!と一念発起して二度目に挑みましたが風呂場という環境のせいもあってか今度はダメでした。そういえばさっきも、出したら文字通り萎むとしか言いようが無い勢いで萎んだ。昔は二度、三度ぐらいはできたものだと思っていたのに、いつの間にかこれ程までに老いていたという事実なんて知りたくもなかった。死にたい

今回の件からお前が得るべき教訓は、溜めすぎてもよくないということだ。オナホの星はまだまだ遠い。死にたい

2016-08-23

享年彼女いない歴(予定)だけど、人を好きになるって何なの?

どうして誰にも好かれたことがないんだろうと考えてたら、ふと、誰かを好きになったことがないことに気付いた。

異性を見て可愛い、綺麗、と思うことはあっても、それは美術品や花を見て抱く感情と同じでただの感想以上の意味は無い。好きという感情機微がわからない。

物語的な意味合いでの意味はわかるが、それは物語からこそ現実感が伴わない。他人に対して、本当に物語にあるような強い感情を抱くものなの?


たまに、勇気を出して告白しても振られてモテないって人がいるけど、そういう人と自分のような享年彼女いない歴になりそうな人間は別カテゴリにしないと前者に対して失礼だと思いましたまる

自分的にはセックスしたいと思ったら好き

なるほど、下半身か。だとすると、何故その人としたいと思うに至るのかがわからないし気になる。

自分下半身感情ですら、誰かに(本気で)抱いたことが無いのだと思う。

2016-06-26

[] ジョン欠地王

イギリスイングランド)の王朝プランタジネット朝王族にして第三代国王

1167年12月24日プランタジネット王朝の初代王・ヘンリー2世の末子として生を受けるも、彼には土地を与えることができなかった

ため、父王からJohn the Lackland(土地の無いジョン)とあだ名をつけられた。

母君のアリエノールから愛情を受けられなかった事をヘンリー2世は憐れんだとも言われているが、父王が彼に土地を与えようと

したら兄達が反発したり、せっかく賜ったアイルランド卿の位も名目上でしかなかったなど不遇が続いた。

1216年10月18日赤痢悪化によって崩御した。享年48歳。

http://dic.pixiv.net/a/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E6%AC%A0%E5%9C%B0%E7%8E%8B

2016-01-25

ある少年飛行兵の話し

から71年前の1945年1月25日、彼はフィリピン沖で護衛空母特別攻撃実施し、戦死した。

私は彼の存在老人ホームでのボランティアで知った。

陸軍飛行場が近くにあったこの地域では、東大に入るのと同じくらい難関のパイロットという道が、

現実的ものとして認識されていたようである

彼もまたそんな軍国少年の一人で、軍人になることを決意し、陸軍少年飛行兵となった。

彼が乗ったのは「戦闘機」ではなくて、「爆撃機」だったそうだ。

99式双発軽爆撃機通称「99双軽」と呼ばれたその機体は、かの有名な零戦と同じく、

序盤はその軽快な運動性で戦果を挙げていたが、後継が続かずに旧式化していった歴史を持つ。

入隊して以降、実家へは手紙も寄越さなかったそうである

ただ一度、その99双軽で帰ってきたことがあったそうだ。

彼の乗った99双軽は実家のあった大字上空で旋回、上昇、降下といった曲芸飛行を見せた後、

小学校の校庭に彼のしたためた遺書を投下して、飛行場へと消えた。

弟の方がこの一部始終を見ていて、曲芸飛行の様子を教えてくれたが、その飛行の意味は分かっていないようであった。

飛行機特に大戦中のレシプロ機はとてもデリケートな乗り物で、華やかなイメージとは裏腹に、

常に危険と隣り合わせの代物であった。

急降下爆撃を念頭に置かれて開発された99双軽も、降下速度を見誤れば引き起こしの際に粉々に吹き飛ぶし、

戦闘機に比べて機体が重い爆撃機は旋回や上昇での失速も激しい。

操縦手達もレッドアウトやホワイトアウト危険さらされる。

恐らく何時間にも及ぶ訓練の中で、彼は自分と機体を極限まで追い詰め、その操縦スキルを手に入れたのだろう。

彼はその後大陸戦線へと送られた。

恐らく、故郷上空で見せた急降下で敵の車両拠点に爆撃を加えたのだろう。

そして、それは最後特攻の際も恐らく――。

記録は残っていないが、さんざんっぱら旧式化した双発の爆撃機である

戦果は無かったろう。

享年19歳。

19の青年ができた最後親孝行が「急降下」を見せることであったことを思うと、今でも胸が苦しくなる。

只今は誰にも看取られることなく逝った彼の無念を思うばかりである

2015-12-29

自分存在がなんなのかさえわからず震えていた15の夜

盗んだバイクで走りd・・・ガシィッ!

「俺のバイクを盗んだのは万死に値する。行く先?お前には暗い夜の帳の中に逝ってもらう。永遠に。」

享年15の夜の悲しい出来事でした。

2015-11-08

「血の繋がった年下の姉が欲しい」という罵倒

てっきり「姉が死去して数年後、姉の享年を超えてしまった時」のことをいうのかと思った…

「姉死ね」のウィットに富んだ言い方かと。。

2015-10-25

未だに誤解されている可哀想松岡洋右さんについて

 ICJとかユネスコの件でまたぞろ「松岡洋右の再来か!!!!」と腐れ外交官代名詞みたいな扱いを受けている松岡洋右さん。

 しかし、彼はゴリゴリ右派はいえ、「なるべくなら国連脱退したくない派」でした。連盟を脱退し、国際秩序へ挑戦状をつきつけるヤバさは認識していたのです。

 国連を説得できないなら脱退しろ、と言ってきたのは本国政府のほうで、

 アメリカ遊学した経験を持つ松岡さんにとっては「無茶振りにもほどがあるだろ」だったらしいですが、

 そこはホモシャチクンスである日本人であるかなしさ、負け戦とわかっていながら国連へ赴きます

 で、一縷未満の望みに賭けて国連で大演説を行うわけですが、そもそもの満州国擁護からして無理筋もいいところなのですから

 いくら弁舌さわやかな松岡さんも無理なものは無理。無茶振りやっといて、やっぱりダメした、からの暴発。このへん古きよき日本惨敗パターンをなぞってますね(rf. 沖縄戦)。

 彼も「全権」と名前はついてるとはいえ、実態としては本国使い走り大臣でもなければ現役の外務官でもない。「A(無理な命令)ができないならB(脱退)をやれ」という指示に従うしかありません。ここで本国に楯突いたらそれこそ独断です。

 しょうがないので命令通り、脱退します。

 (無茶振りはいえ)使命を果たせず、日本孤立化への道に導いてしまった松岡挫折感は相当なものでした。

 

 ところがメディア国民松岡を「英雄」に祭り上げます

 彼が肩を落として議場を退場する様子を「堂々退場す」と書き立てたのは新聞でした。

 国民帰国した松岡を旗振って出迎えます外交的には大失敗を犯した人物を立派な外交官として歓迎したのです。

国益」と「浪花節」を取り違える国民性はこのころから変わっていません。

 落ち込んで帰ってきた松岡さんでしたが、英雄として出迎えくれる国民を見てすっかり気をよくします。その後、右派から更に針を倒してファシスト的な方向へ進みます

 国連脱退により軍部のおぼえよろしきを得ていたこともあって、40年には外務大臣就任

 香港工作など平行していわゆる三国同盟を推進するものの、そのドイツとの同盟が仇となって日米関係悪化。ついには真珠湾へと至ります

 ところが、何をどうしたらそういう思考になるのかしりませんが、松岡さんはまさかアメリカ戦争になるとは考えていなかったらしい。日米が開戦すると男松岡は「陛下国民申し訳のしようがない」と泣きながら辞任。アメリカとの国力差を認識していたのはアメリカ帰りらしい慧眼でしたが、いかんせんその他が無能すぎました。その後、終戦までの四年はあんまりぱっとしない生活を送ります

 

 終戦後A級戦犯として裁かれ、本人も死刑になる気まんまんで望みますが、ここでも彼らしいヘタレぶりを発揮。持病の結核悪化し、法廷から「まあとりあえず裁判とか後でいいから病院いけよ」と病院送りにされ、そのまま不帰の人となります享年66歳。最後まで、なんだか咬み合わない人でした。

 

2015-09-26

にゆく人のためにできること

川島なお美さんが逝去されましたね。

ご冥福をお祈りします

自分母親も数年前に乳がんリンパ転移から

全身にガンが移行し他界しました。

享年は60歳です。

(北斗晶さんと同じ症状。頑張って欲しいです)

にゆく人に生き残る人がしてあげられることは、

一体何がベストなのでしょうか。

とても大事で、だけれども難しい問題です。

母は余命を医者にあと一ヶ月と宣告されてから

二ヶ月ほど生きました。

一ヶ月を過ぎた辺りでも何とか元気だったので、

しかしたら治るのかな?と思い始めました。

そう思い込みたかった。

そういう例も映画とかテレビであるじゃん、と。

そんなある日、母が家に帰りたいと言いました。

久しぶりに家に帰って色々家のことをやりたいと。

私は言いました。体調は安定していないし、

無理したら治るものも治らないよ、と。

母は珍しく声を荒げ、どうしても帰りたいの!

と主張しました。ですが私も譲れません。

無茶をして病気悪化したら取り返しがつかない。

そんなのは嫌だと。

ただ、それに加えて、母が家に帰ることが、

まるで終わりに向かってしまうような気もして。

怖くて、

母の主張を聞き入れてあげられませんでした。

もちろん主治医許可を出すわけはなく、

結局家に戻ることはありませんでした。

その次の日以降、

母の具合は徐々に悪くなりました。

入院して最初の一ヶ月は体調悪いなりに、

喋ったり笑顔を見せてくれていたのに、

日に日に喋らず、顔色も悪くなり…。

そしてその一ヶ月後、母は他界しました。

悲しくて、

そして自分のししまったことが許せなくて、

ただ泣きました。

何で帰らせてあげなかったんだ。

母は大事な、今しかできないこと、

やり残したことがあったんじゃないか。

その結果、もしかしたら気力が戻って、

病状が良くなったんじゃないか。

私があそこで母の帰宅を認められなかったのは、

ただ治ってほしいという気持ちからだけです。

その時、

それ以外の選択肢が考えられなかったのです。

でも…。

私はあの時どうすれば良かったのか、

正解は今でも分かりません。

家族の、親の死なんてきっと、

殆どの人は受け入れがたいものです。

余命宣告を受けたって、うまくいけば、

しかしたら助かるんじゃないか、

と思いたいのです。

きっと母はもう長くないことを、

自分なりによく分かっていたのだと思います

から帰りたいと。

ただ身辺整理のために帰りたいとは言えず、

こんなことになってしまいました。

でも、そんなこと言えるはずがないことは、

子供の私が、

一番分かってあげなきゃならなかったんです。

分かってあげたかった。

川島なお美さんは限界までテレビに出られて、

やりたいことをやることの努力をされていました。

でも、その裏には家族の、

深い深い理解もあったのだと思います

私が母に対してしてしまったことが、

間違っていたとは決して思っていません。

ただ、ただ悔いが残るだけです。

ですが、もし、次に同じような機会があるならば、

たとえ少し間違っていても、

自分も相手も悔いを残さない、

皆が幸せになれる選択をしたいと思っています

2015-06-04

犬が死んだみたい

今日から聞いた。

享年いくつだろう、10年くらいだからたいがい婆さんだ。

なかなか心を開かないし来客に吠えまくるし困った子だった。

それでも年に数回しか会わない自分には吠えないし、やたらお父さんには服従してた。

犬らしい犬だった。

の子は、もう二度と犬を飼いたくないなくすと悲しいからとかたくなだった母から許可を得て父が飼い出した犬だった。

田舎ゆえ、昔は犬ならどこかしらからツテでもらうものだったが近年そういったことはしなくなっていた。

飼い主がいいかげんだった避妊首輪での管理を見直し徹底したためだと思われる。うちもだ。

なのでペットショップのツテから巡ってきた子犬をもらったのが、この犬だった。

うちではそれまでに累計3匹犬を飼っていた。

前任の犬は我が家で生まれた。

いい加減な放し飼いかいい加減な散歩とか、田舎あるあるできっかけがあったため前々任の犬が産んだ。

それが前任だ。

前任の犬はひたすらおとなしく甘えん坊で利口だった。

コリーと混ざりまくった雑種、という感じがたまらなく愛嬌のある顔で美人だった。

母はその前任と長い時間を共に過ごしていた。

今の犬を飼ったとき母はすでに否定的だった。

あぁあの前任の犬のほうがいいといった内容をこぼしていた。

親元を離れて犬のことに干渉のない自分にはとくにフォローのしようがなかった。

それでも母は、当然のように世話をし散歩をしエサをやり。寒い日には毛布をくるっとして防寒力の高そうななにかを作って犬小屋にいれていた。

そして昨日母から「犬が死んだ」と全く別件のメールの返信で来た。

たった一言だったしそれ以上聞かなかったけど。

また母は大切なものを失った悲しみに暮れていることは分かった。

2015-04-14

帰ってきたら猫が死んでた

うちの猫が死んだ。享年19歳。

去年から体調悪くしてて、通院してたが治る見込みはなかったか延命治療のみやってた。

色々悪くしてたからなにが原因とは一概に言いがたいけど、腎不全

半年かけて3キロの減量に成功してしまってた。

どうしようもなかった。

中学生の頃から飼ってたおとなしくて甘えん坊な子だった。

お世辞にもきれいな猫じゃなかったけど、すごく可愛い子だった。

今書いてて涙が溢れてきた。ついでに雨も降ってきやがった。

去年病院に駆け込んだ時から覚悟してたつもりだけどやっぱりダメだ。つらすぎる。

一般的には長生きしたほうだと思うけど、後悔の思いばかりこみ上げてくる。

一緒にもらってきたもう一匹はまだ元気だけど、何年もしないうちにまた同じ思いをしなければならないのか。

だが全力で面倒見てやる。

猫飼ってる奴は絶対に定期健診受けさせろ。後悔するぞ。

2015-03-30

J-POPキラキラマイルドヤンキー墓地

先日親類の墓参りに行った。

新しめの霊園で、その親類の墓は

自分にとっては一般的な「○○家代々の墓」ってタイプのだったんだけど

周りを見渡してみると、洋式墓石デカデカ

「絆」とか「感謝」とか書いてあるのをちらほら見かけて面食らう

google:image:洋式墓石

洋式墓って、十字架聖書の一節とかを書いてあるのが

普通だと思ってたので、すごい違和感

誰がこんな墓にするんだろう。洋式墓ってなんかモダンでいい感じ

でもキリスト教徒じゃないから十字架とか聖書じゃないし

経書くのもモダンじゃないし、って感じなのかな。

それにしたって「絆」とか「感謝」って、J-POPじゃないんだし

今どきは墓までキラキラかよと、正直心のなかで思った。

でさ、そんな中の一つの墓誌何の気なしに見てみたらさ、

俗名もやっぱりというかキラキラネーム女の子でさ、

享年2才だって

なんというか、この子のご両親ってきっと無宗教というか

今まで「死」という現象を全く意識してなかったんじゃないのかなあと。

で、突然我が子の死に対峙して色々悩んで泣いて悔いて責めてとか色々あったんだろうと、

でも、主に時間的な、次に予算的な数々の妥協を受け入れていく中で

その結果っていうのが、このJ-POPキラキラ墓。

すっごいイオンロードサイドマイルドヤンキーな、

どこにでもある何者でもない感じで切ない

我が子にオリジナリティのある命名をしたつもりが

すごいダダかぶりだった感じの切なさ。

命名ってのはそれまでの人生教養が出るので恐ろしいなあと

常日頃から思っていたけど、墓というのも

送る人たちの死生観が否応なく表現されてしまうんだなあと

とても恐ろしい。

自分の死んだ後ってのも気になるんだけど

それよりもまず、親しい人たちを今後どう見送るべきかってのを

自分に翻ってもっと日頃から真剣によく考えないとなあというのをしみじみ思った

http://anond.hatelabo.jp/20150330001506

2015-03-12

メインノートPCがブッ壊れた話

床に落としてマザボ割れました。

懸命な処置虚しく逝去享年5歳。

っていうか割れた基板の修理なんてできるか。

ここ1年ほどで『2GBメモリ』と『128GB SSD』を増設換装したマシンだったので悔しいです。

とりあえず使えそうなパーツ(メモリSSD、ネジ、キーボード)を取りました。

残った残骸はヤフオクジャンク品として売る……こともできなそうだったので止む無く廃棄。

メインPCが死んだので新しいのを買いたいところですが、部屋の片隅で独りチラチラと様子を窺っているマシンがあります

 Chromebook「僕を使ってよ!」

日本発売前に個人輸入米帝から買った機種です。2歳。

ChromebookをメインPCに使っているのは米帝小学生だけです。

とても実用に耐え得るとは思えません。

しかし小雨降る中、捨て置かれた雨傘の下で震える子犬のような目で私を見つめてきます

それに新しいPCを買うのは平たく言っておカネがかかります。平たく言わなくても懐が寒くなります。安いものでも3万円。ちなみにうちの家賃も3万です。

 私「……さらゲイツ

Microsoftとともに齢を重ねてきた私としては断腸の思いです。

しかChromebookが健在で、懐に余裕ができるまでは勝ち馬Google先生に乗っかっていくことになるでしょう。

なお、私の密林ほしい物リストはこれ( http://goo.gl/1sYWcC )です。

買ってくれてもいいんですよ?

2014-04-20

著作権

明治の書物などを青空文庫で読ましていただいている(ありがたいことです)。

しか翻訳ものなどだと原著はとっくに著作権が切れているのに翻訳者長生きしたばかりに著作権が切れてないというのがある。

享年90歳!とかになると、ご本人にとっては幸福人生でよいことだが、原著内容が既に周回遅れになっていて倉庫に入れてしかるべきものになっているのに著作権だけは切れてないという現状。

ネズミーの話ではないが、著作権は作者の死後20年くらいでいいのではないかと思ってしま貧乏自宅学生感想

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