2016-01-25

ある少年飛行兵の話し

から71年前の1945年1月25日、彼はフィリピン沖で護衛空母特別攻撃実施し、戦死した。

私は彼の存在老人ホームでのボランティアで知った。

陸軍飛行場が近くにあったこの地域では、東大に入るのと同じくらい難関のパイロットという道が、

現実的ものとして認識されていたようである

彼もまたそんな軍国少年の一人で、軍人になることを決意し、陸軍少年飛行兵となった。

彼が乗ったのは「戦闘機」ではなくて、「爆撃機」だったそうだ。

99式双発軽爆撃機通称「99双軽」と呼ばれたその機体は、かの有名な零戦と同じく、

序盤はその軽快な運動性で戦果を挙げていたが、後継が続かずに旧式化していった歴史を持つ。

入隊して以降、実家へは手紙も寄越さなかったそうである

ただ一度、その99双軽で帰ってきたことがあったそうだ。

彼の乗った99双軽は実家のあった大字上空で旋回、上昇、降下といった曲芸飛行を見せた後、

小学校の校庭に彼のしたためた遺書を投下して、飛行場へと消えた。

弟の方がこの一部始終を見ていて、曲芸飛行の様子を教えてくれたが、その飛行の意味は分かっていないようであった。

飛行機特に大戦中のレシプロ機はとてもデリケートな乗り物で、華やかなイメージとは裏腹に、

常に危険と隣り合わせの代物であった。

急降下爆撃を念頭に置かれて開発された99双軽も、降下速度を見誤れば引き起こしの際に粉々に吹き飛ぶし、

戦闘機に比べて機体が重い爆撃機は旋回や上昇での失速も激しい。

操縦手達もレッドアウトやホワイトアウト危険さらされる。

恐らく何時間にも及ぶ訓練の中で、彼は自分と機体を極限まで追い詰め、その操縦スキルを手に入れたのだろう。

彼はその後大陸戦線へと送られた。

恐らく、故郷上空で見せた急降下で敵の車両拠点に爆撃を加えたのだろう。

そして、それは最後特攻の際も恐らく――。

記録は残っていないが、さんざんっぱら旧式化した双発の爆撃機である

戦果は無かったろう。

享年19歳。

19の青年ができた最後親孝行が「急降下」を見せることであったことを思うと、今でも胸が苦しくなる。

只今は誰にも看取られることなく逝った彼の無念を思うばかりである

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