はてなキーワード: リア充とは
○朝食:ヨーグルト
○昼食:助六、野菜スープ(コンビニの1日に必要な半分の野菜がとれるてきなやつ)
○夕食:ちゃんぽん
○調子
はややー。
なんか風邪が大流行してて、僕座ってる島がガラ空きになって、少し寂しかった。
僕もなんか咳っぽいし、風邪かも。
○お便り返信
http://www.marugame-seimen.com/lp/app/
みんなもダウンロードしよう!
連休明けのこと考えて外出するなんてえらいなー
休日出勤はたいへんでしたね。
死んだら何にもならないですが、とはいえ辞めたら辞めたで、無職は無職で辛いのがまたしんどい。
死なない程度に折り合いをつけたいですね。
王将、最高!
oooooo4150 日をまたぐ時間になって夕食を考え中とは。くいしんぼうさんめ
そのかわり、はややーしてるでしょ。
oooooo4150 ヨーグルトの頻度が増えてる?
なにかの漫画でヨーグルトは朝より夜食べた方がいいって書いてあったのですが、やっぱり朝食べたい。
同じものを食べ続けるの好きなんですよね、なんか精神が安定する気がするんです。
しょしさるすべりけ!
しょしさるすべりけ!
(声に出して読みたい日本語)
チャプター1を攻略中。
が、いきなりサイコロの謎解きでつまる、豪快に詰まる。
いや、謎解きの解き方はわかるんだ、
「マッチ棒パズルで、太陽と月のマークの数字を、インド数字を上面の時計に合わせて読み取ったもので組み立てる」
こうすればいいんでしょ、それはわかるんですよ。
ただ、時計面とインド数字の組み合わせが、まったく理解できない。
それぞれの面に書かれてるインド数字が、何時にあたるのかがさっぱりわからん。
これ、軽く僕自身の認知の歪み的なやつが邪魔してる気がしてならないから、かなり憂鬱になってきた。
ノー課金。
○ポケとる
を捕獲。
ログボのみ。
そもそも2枚でいいのか? というのも結論出てないし、うーむめんどいなあ。
○スマブラfor3DS
世の中の男VS女問題で、実はそう見せかけて、リア充(というかうぇーい系?)VS草食の場合も結構あるんじゃないかとふと思った。あくまで一部の話です。
まず女子側の問題で、セクハラとか容姿いじりとかの話。具体化したほうがわかりやすいけど、「ちゃんと化粧しろよ、地味なんだからw」とか「○○ちゃんとくらべておまえはブスだなあ~」とか「生理?」とかそういうの。こんなからかいを飲み会でする人は実際のところ年代問わず、大学時代にうぇーいなことをしてきた人々が多いように見受けられる。
で、こういうことに対する文句を、女子側が「男は」と主語を大きくして語る。腹が立つのは全然まったくそんなことをしたことのない草食男子だち。「男は」ってなんやねんと。自分はそんなことしたことないし、むしろ女側にからかわれたりしてるんだぞ、と、憤りを感じる。
男子側の問題についても、実のところ女子とほぼ変わらず、セクハラとかいじりの対象になっている人々がいる。こちらも具体化すると、「童貞?」「彼女いないの?」「きもいw」とかいうのをすごくフランクに言われてきた層。男→女に対するセクハラ発言は性的な不快さが大きいのに対し、女→男のほうが単純に「言い方きつすぎ」の一言かなあと思う。そこまで言う?っていうことを本当にフランクに言うんだよね。同性相手にならそこまで言わないだろ、ということを男(地味)相手になら平気で言ったりする。女側でこういうこと言うのも、いじり=コミュニケーションと捉えがちなリア充よりの女子。
で、こういうことに対する男子側の文句を同じく主語を大きくして語ると、腹が立つのはセクハラされるような地味な女子。「そんな女ばっかりじゃないし!!!」「むしろ男のほうがひどいし!!!」ってなるわけでは、と思う。特に性的なからかいが関わってくると、女子側はひどい…。あと、男→女の場合、先輩ないしは上司というパターンが多く、パワハラにも繋がりやすい。
すべてがすべてではないけど、このようなことを相手に言う人は、性別問わず「ノリがいいこと=よいこと」「ノリがいいこと=いじって笑いをとる」というような青春?時代を過ごしたタイプの人であると思う。
ただそうしたタイプのほうが圧倒的に印象が強いため、被害を受けた人にとっての「女」あるいは「男」のステレオタイプになるんじゃないかな、と思ったりした。
もちろんこれがすべてじゃないのはわかってるけど、男VS女問題に見せかけて、ウェーイVS草食の学校カースト引きずった結構このパターン多いのでは?って思う。加害者になったことない被害にあった人同士が罵り合って、加害者同士は「そんなひどいこと言うひといる^^;?」って言ってたり、あるいは「それもコミュニケーションでしょ…」って言ってたりするっていうやつ。
でも私は至って真面目に、心からそう考えている。
なりたい自分と実際の自分との乖離は、どんなことであってももやもやして悲しい。
自分のセクシュアリティがなんだかよくわからない。(迷子にして答えを先延ばしにしたいだけなのかもしれないが)LGBTQというやつなのだろうか。
恋をする対象か、セックスできる(したい)対象か、それともその先を考えて、長い付き合いの間に愛を育める間柄なのか。
私の場合恋をする対象は、異性なら◎、同性なら○、でもセックスは異性だと×、同性だと○、というようにどっちつかずな状態になっている。(性嫌悪というやつなのか?)
で、最初に戻るが、私はレズビアンになりたい。なんでかといえば、私は百合が好きだからだ。それに対する憧れのようなものがある。
と、ここまで来るとつまるところ私は「バイ」だ。
ここまで子細にわかっていればセクシュアリティがわからないも何もないが、やっぱり私はレズビアンになりたいのである。というより、ヘテロになりたくない。
恥ずかしながら、異性を好きになるなんていう、恋愛至上主義に乗っかった会いたくて震えるなんて考えるリア充な存在に、自分がなりたくないのだ。そうなるくらいなら恋愛なんて面倒なことには一切考えない人生を歩みたいくらいだ。
別に異性に対するトラウマがあるわけでも、恐怖症なわけでもない。理由があるとしたら、たぶんただ中高を同性しかいない環境で類は友を呼ぶ間柄で思春期を過ごしたからこうなったのだ。
同性を好きになったことは何度かある。しかし異性に恋をしない訳ではない。半年くらい前は確かに好きな人がいた。けれどもうこんな思いはしたくないとも最終的に思った。
そんなわけで、私はバイである、もしくは本質的にはヘテロかもしれない自分が受け入れられない。だからセクシュアリティが迷子なのである。
ばかだね。
「twitter老害」という話題が二週間ぐらい前だったかに話題になった。どうも3年以上ツイッターをやっている人が老害として叩かれているらしい。
僕はツイッター7年目の超老害である。なぜそこまで新参の人が古参を叩くのか、よくわからなかった。なにせ一ヶ月ぐらい前にはじめた新参はてなーとしての僕は、古参はてなーの方を尊敬しこそはすれ、老害などと批判を書きたてようとはとても思えないからだ。
勿論、大多数の新参は特に批判などはしていない。あくまで一部の人達の話だ。以下、あくまでも古参叩きをしている新参に限って話す。
ろくに調べもせず印象で叩くのも失礼なので、多少時間おいて古参叩きのような文脈のツイートを多少いろいろ読んでは見た。
すでに消されてしまったようだが、togetterにもまとめがあったらしい。これが消されているというのがまたこの話題の闇を感じるのだが・・
まあ端的に言えば「全く違う層が入ってきた」ということだ。古参勢は「ネットユーザー」としてのツイッタラーだけど、新参勢は「リアルの一部」としてのツイッタラーなのだ。リアルでは言うべきでないようは発言の是非について、前者と後者ではかなり感覚が異なるだろう。僕のフォロワーさんが新参勢に、ともすれば意味不明とも取れる批判を飛ばされた案件を、もう一回冷静に考え直してみると、いわゆる「ネタツイ」の許容度が異なるのではないかと思った。
ネタツイだけではない。新参勢はLINEのようにツイッターを使っているのだと思う。つまり、リアルの人間関係の延長線上で会話をしている。そしてそれがツイッターの本質だと思っているフシがあるのだ。だから、「ツイッターではありがちなこと(とはいえLINEやリアルの会話では確かにありえないこと)」に突然目くじらを立て、古参勢に「そんなことを言うやつはツイッターに向いていない垢消せ」と文句をつけてくるのではないかと思う。「リアルの人間関係の延長線上」ではありえないような会話の仕方をしている古参勢はたしかに多いし、僕もそうだ。
また、かつてはネットにいなかった「ウェイ系、リア充」みたいなタイプの人間も新参に多い。かつての、というか今でも一部ではネット上で主流の言説であるウェイ叩き、リア充叩きはそういう人からすると耐え難いものであろうとは思う。
ツイッターを初めて一年とか経っていろいろツイッターに関して知識があると自負し始めた人が、古参勢を適当な理由で向いてないと勝手に判断していくというのは何なんだろうと思う。
古参勢的にはツイッターってそういうものでしょ、残当な反応でしょ、と思っていちいち批判リプライを飛ばしに行かないようなことでも、それを知らない新参からしたら非常に不適切だと思うというのは理解できる。
しかしツイッターがどういうものなのか理解しようとせず、指摘する人と対話を拒否し、機能や用語を調べようともしないという態度を取るというのは若干良くないし、それだけならまだしも、価値観が違うことを理由に諍いを起こした相手を「ツイッターに向いていない」と切り捨て、アカウントを消せと要求したり、凍結されればいいのになどと言う、あまつさえ冤罪通報を行うというのはどういうことなんだろうか。
個人的な感想だが、「ツイッターはそういうもの」というのに賛成できない、機能が気に食わないという人のほうがよほど向いていないように思えるのだが・・
自分に向いてはいないけどやりたいから、先にやってる人たちを追い出そうというのは良くないと思う。
勿論向いていないからやめろなどと僕は思わないし、時間をかけて溶け込んでいけば良いのだが、なぜか上手く溶け込むために友好的になろうとせず無駄に攻撃的というのは問題がなくはないと思う。
今僕は先達のはてなーの方の書く記事などを読み、はてなというのはこうするものなのか、と思いながらいろいろやっているが、ちょと自分が合わないなと思う要素があったとしても別に先達の方々に文句を言いに行こうなどとは微塵にも思わない。色々やってみた結果自分には合わないと判断してやめるかもしれないが、古参の方に出て行けなんて思うはずがない。
3年以上前からやっている人を批判している人たちも、あと2年もすればその基準では老害の域に行く。今この瞬間新参であるだけなのに、あそこまで偉そうに古参を疎外しようとするのはなんとも言えない理不尽さを感じる。この理不尽さを上手く言語化できなくてもどかしい。なんと言って良いのか教えてほしい。
10/10追記 http://anond.hatelabo.jp/20161010210604 に続きを書いた。
縦だけど、リア充っぽいオタクについては時代は大きな問題じゃない
興行収入は遂に風立ちぬを越え、もう上にはジブリ映画しかいないという状況だそうだ。
それ故に、作品の情報はネットをやっていると否応なしに目につく。
ツイッターでは「もしかして」「入れ替わってる!?」のコピペが大量に作られ、
pixivやニコニコ静画など画像投稿サービスではイラストがひっきりなしに投稿されている。
演出に注目したものから制作体制、スタッフ登用など組織論なような話まで、数数多の記事が出ている。
事前に情報を触れてしまうことに抵抗がある人はなかなか大変だろうなぁ、と思う。
記事の名は、こちら
無邪気にこの作品を楽しむことへの疑問
「興味深い見方だった」という肯定的なコメントがつけられていたことと、
サイト内ランキング1位(10月1日当時)に釣られて読んでみたものの、
いざ読んでみると、
「ふむふむ。」
「……ん?」
「はぁ!?何言ってるの?」
となってしまう、久々に猛烈に反論したい記事内容だった。自分「君の名は。」未視聴なのに!
そして、この気持ちをぶつけるところがなかなか見つからないため、
ここでひっそりと所感を書き連ねることにする。
この記事の主点はあくまで地方論であり、作者の主張はこうである。
特に後半。地方を暗く扱った作品は確かに探せば存在するだろうが、
戦後サブ・カルチャーの潮流として、地方への鬱屈や屈折の描写が常に存在していたかというと、そうは思えない。
片方で「地方賛美系のご当地アニメ」を取り上げ、批判しておきながら、
というか、自らが「地方の賛美・消費と並行して」と言っているのに、
戦後のアニメ・マンガの主流であるかのように扱うのかいかがなものだろうか。
アニメと地方を考えた論評は、この記事に限らず最近は非常に多い。
それに伴い、聖地巡礼やアニメによる町興しが注目されていること、
経済停滞や少子高齢化により地方のあり方の議論が盛んであること、
などが理由として考えられるだろう。
しかし、それらの論評で見過ごされていると見過ごされていることがある、と私は思っている。
それは「地方であれ、都会であれ、あくまで舞台は舞台」ということである。
細やかな小道具があり、大きな絡繰りがあり、巧みな照明効果や音響がある、
それらが充実しているか、特色だっているかは、作品の評価を左右する一要素かもしれない。
しかし、それはあくまで一要素であり、舞台の上で演者が動かない限り作品とはならないのが通常である。
地方である、都会である、ということは物語の展開に大きく絡む。
しかし、作品のメインテーマになるまで比重が高くなることはそこまで多くない。
ペルソナ4という作品を例に挙げよう。原作はゲームで、アニメ化されている作品である。
そこは大型総合スーパーが進出し、地元の商店街がその影響で衰退している。
主要人物の中には、周囲との軋轢が生じている総合スーパー店長の息子や
こう見ると、まさにこの作品は地方の屈折した部分を描いた作品である。
では、これは記事作者が主張する「地方の軽薄な理想化に一定の留保を付け加える」作品だろうか。
自分はそうは思わない。
ゲームプレー済・アニメ視聴済を知ってる人なら分かると思うが、
この作品、リア充ゲームと揶揄されることがあるくらい、終盤になると仲間の結束が固くなる。
主人公が転校してきてから去るまでの1年間で、彼らは忘れられない思い出を作り、心を強くする。
ならば、この作品は「地方暮らしもすばらしい」的な地方賛美の作品だろうか。
それも違うだろう。
つまり、地方都市の性質・描写は極めて重要な位置にあるのは確かだが、
舞台の基本設定であるが故に、物語の主題にまではなかなか上り詰めないことが多い。
その舞台で登場人物がどう動くか、どんな出来事に遭遇し、乗り越えるか、
そのような舞台設定以外の重要事項が大抵の作品には存在しているのである
(もちろん、舞台設定全押しのご当地振興系作品もないわけではないけども)。
また、舞台装置であるが故に、物語の展開に応じて描かれ方が変わる、ということも起きる。
良い出来事が起きればその背を押すように明るく描かれ、
良くない出来事が起きればその気持ちを代弁するかのように暗さが出るが舞台装置である。
そのため、後味が良いラストとなる作品ならば、当然その舞台の地域は後味よく描かれることになる。
そして、娯楽作品である以上、漫画・アニメで後味が良いラストと後味が悪いラスト、
これに加え、
「人間、そう簡単に地元から移動しない。両親に頼るところが大きい高校生以下ならばなおさら」
ということも多くの場合、見過ごされていると感じる。
高校生以下の場合、特段な理由がなければ通学範囲+αが彼らの行動範囲となる。
背景が実在の場所に忠実で、聖地巡礼が盛んに行われる作品の中で、
一番舞台が全国に分散している作品として、私は咲が思いつくが、
それは、「全国大会に各地から集まってきた女子高生」を描いているからであり、
・身内の都合です(転校など)
・突然ワープしてました
これらのような特段の理由がなければ、登場人物はなかなか生活圏から離れて動かない。
だからそこ余計に、舞台の明るさ・暗さは展開の明るさ・暗さに密接にかかわる。
描かれる街が単一の都市圏に絞られるのだから、バッドエンドを目指してない限り、
舞台となる地方は物語の展開に連動して明るくに描かれるのである。
そこに舞台となる町が素晴らしい、というメッセージが入るかどうかは作品それぞれだが、
舞台である=描かれた地方は作品の重大なテーマである、という構図は
必ずしも成り立たないと思うのである。
この記事に対して気になるところがもう一つある。
というよりも、先述した結論としての主張や「君の名は。」の分析よりも
東京が揺らがなかったことへの不満、
そういう東京が良く描かれていることへの不満が文章の端々から漏れている。
「東京に隕石が落ちて壊滅することを期待してしまった」までくるともはや怨恨の類すら感じる。
この観点において、もっとも瑕疵があると思えるのは3ページ目のこの部分である。
物語をあくまで散文的に見直せば、『君の名は。』は、故郷のない男と、故郷を失った女が、東京で故郷の幻想と特別な異性を妄想する話といえるのかもしれない。
これはもう、誤読していると扱ってしまっていいのではないだろうか。
それに付随した人間関係や馴染みの店もある。
高度経済成長期に断絶しているという最も日の浅い解釈をしても40年の歴史がある。
当然、そこで生まれ、育ち、その場所に愛着を持っている人が存在する訳であり、
というよりも、この作品は地方と東京の対比が大きな要素でもあるのだから、
人間関係や行動範囲があるからこそ成立している作品だと思うのだけれども……。
もしテロや地震があり、瀧自身や近い関係の人物に危害があったら、
きっと、瀧も三葉もお互い逆の立場で必死に動くと思うのだが、いかがだろうか。
規模が小さい、独自性があるなどの性質から、創作の世界において、
物語を進めるための非現実的な設定を地方が押し付けられる傾向が強いということは事実である。
パロディに満ちた謎の施設や人物がやりたい放題するTRICKのような作品は極端だとしても、
地方賛美という面ではこれ以上に多くの意見が出たサマー・ウォーズなど、
悪い言い方をすると、ご都合的に地方が歪められて描かれることは多々ある。
地方を味方する立場で活動を行っている人からすれば、良い思いはしないだろうし、
作品に反映するかどうかは別にして、そのような不満があることは受け止めるべきである。
しかし、それを受け止めるのは制作サイドであり、東京ではない。
そのような設定を組んだのは新海氏、堤氏、細田氏であり、東京が作ったわけではない。
批判の向きは新海氏、堤氏、細田氏、もしくは各委員会、はたまたワーナー、テレビ朝日、東宝に対して
向かうべきであり、東京に矛先を向けるのは間違っているだろう。
地方を「消費」可能な商品に仕立てているのは、(所在は大都市かもしれないが)
作者および制作組織であり、大都市そのものでは決してないのである。
地方と大都市という二項対立は、研究においても創作においても非常に分かりやすいしよく使われる。
しかし、本記事のように地方の不満は全て大都市が起こしているものだ、
という構図にまで落としてしまうのは、単純化が過剰であるだろう。
不満の捌け口をほぼ全で大都市東京に向けている所が、非常に鼻につく記事であった。
ワンピースのように大海原にでてテッペンを目指す漫画でもない。
ただひたすら自己承認欲求の強いナード属性の主人公が面白味も無い自己犠牲で活躍して、
人間的魅力がないのに友達が増え、女の子から好かれるご都合のハーレム展開漫画。
何の魅力もない主人公なのに今の若者はこれに自己投影して自分を慰める。
スラムダンクや北斗の拳やクレヨンしんちゃんやジャングルの王者ターちゃんや
シティハンターや幽遊白書やろくでなしブルースや今日から俺はやドラゴンボールや
封神演義や蒼天航路やキン肉マンやうしとらやぬ~べ~やガッシュや寄生獣やジョジョや
を消化してきたおじさんは、自分と違う面白さを持った主人公の人生を見たい読みたいんであって
自分と似たような暗いジメジメしてるだけ、ジメジメ回避のための打開策のアプローチすらできない主人公、
なのに周りのおかげで勝手に上手くいくような主人公をお出しされても、全く面白いと思わないんだよね。
ハッキリいってヒーローアカデミアの作者って人間として面白くないでしょ?
自分が描きたいものを描いているというより売れるものを描いてる感がすごい鼻に付く。
誰かに否定されてでも書きたいとか着地に失敗してもおかまいなしに書こうとする気配が全く感じられない。
小奇麗にやろうとしてる感がキツイ。
チート能力や周りのヨイショを期待してしまうかもしれないのが辛い。
緑谷が主人公としての義務の周りを「ハッ!?」とさせるような魅力が全くない。
ナードならナードサイドによるリア充・一般人の「俺たちはひょっとして大きな勘違いをしていたのでないか」という読者の知見を広げたり啓蒙する役目を全く果たしてない。
ナードがニヤニヤしながらリア充メンバーに囲まれてチヤホヤされてるのをみて、現実で居場所がないナードが読んで緑谷と自分を置き換えて心を慰める、
代償行為にすぎない。
こんなの人生の糧になるか?
おじさんは死なず、ただ去ろうと思った。
エレンいいよね!
すこし自分の思ったことをまとめてみた
内容 | 恋人 | 風俗 | ラブドール |
---|---|---|---|
初期投資 | お金と時間と自分次第 | 2万前後 | 50万〜100万ぐらい |
維持費 | お金と時間と自分次第 | なし | なし |
総費用 | 人によって+になったり一生分以上のお金が掛かる | x回数 | 50万〜100万ぐらい |
容姿 | 運と自分次第 | パネマジがあるがある程度はお金次第 | 選べる |
劣化 | 時とともに劣化 | 選ぶ相手を変えれば解決 | 基本的には無し |
愛情 | 自分と相手次第 | 基本的にはビジネスライク | 与えるだけ |
コミュニケーション | 自分と相手次第 | お金と自分と相手次第 | 一方的 |
性交渉 | 自分と相手次第 | お金次第 | いくらでもOK |
性病 | 人によってはある | それなりにある | なし |
手軽さ | 手軽ではない | 移動と時間とお金がかかる | お手軽 |
浮気 | それなり | ビジネスですので | なし |
責任 | 子供ができてしまうと・・・ | 基本的は無し | なし |
結婚 | できる | できなくはない | 限りなく0に近しい |
子供 | 大体は作れる | 大体は作れる | 新たに購入 |
廃棄 | 人によってはストーカー化や慰謝料等 | お金の切れ目が縁の切れ目 | 業者に連絡 |
将来性 | 人による | 考えなくて良い | AI,AR,VR等々技術の発展によっては・・・! |
相手の変更 | 年齢と収入によって難しくなる | お金でいくらでも | お金でいくらでも |
ハーレム | 基本的には難しい | お金でいくらでも | お金でいくらでも |
周りにバレると | リア充 | エロ親父 | ヤバイ |
こう並べてみると
って感じがしてきた
こういう論はさ、「ゲームプレイヤーだって努力してるじゃん」論なんだよな。
レべリングの末にエンドコンテンツを最高効率でこなせる奴がいたとして、世間的に「努力」と評価されうるかって話。
で?って話。
北斗の拳のケンシロウはそりゃえげつない努力家だが、あれは努力型の作品と言えるのか?
そりゃ、「昨今の一見努力型に見える作品」は受けがよかろうな。
「機会があれば俺も努力できるし、そうすれば俺だって」という妄想を満たしてくれる、素晴らしい「努力ポルノ」にしか見えないんだが。
「弱キャラ友崎くん」すげぇな。
偏見なく非コミュを相手してくれる学園1のパーフェクト美少女がヒロインで、「ネクラで非コミュな僕も頑張ればリア充に」ってか。
こんな醜悪なキモオタ妄想ラノベで、主人公が努力してる点だけをもって、「努力型も嫌われないッ!!(キリッ」ってなっちゃうから、最近の若者は・・・と言われちゃうんじゃねぇの?
例えば、ライトノベルの分野で言うと、今は売れるための絶対の方法があるんです。
ライトノベルの主人公は努力しちゃダメなんです。読む側が自分を投影できなくなるからです。ヒロインは都合よく向こうからやってくる。超能力などの能力は、いつのまにか勝手に身についている。今のライトノベルの多くが、そういう設定で書かれていますよ。
――恋人や能力を努力して勝ち取るのではなく、何もしなくても、いつの間にか恋人と能力を手に入れているという設定でないと売れないということですか。その努力の過程こそが、今までは物語の根幹だったはずなのに。
そうです。今は努力できる立派な人物が主人公だと、読む側が気後れして感情移入できないんですよ。主人公は読者と同じ等身大の人間。そして、主人公に都合のいい物語を求める傾向が進んできた。文学の世界でもそうなってきていると思います。
http://www.yomiuri.co.jp/yolon/ichiran/20160923-OYT8T50010.html
散々話題になってるけど、ちょっと驚いたね。あまりに時代錯誤すぎて。
たしかに「主人公は努力しちゃダメ」論、聞いたことあるよ。2ちゃんねるとかまとめブログのコメント欄とかでよく見る。
けどその認識って、あまりに時代遅れっていうか、昨今のライトノベル情勢について、言い訳のしようがない勘違いがあってさ。
だって、今この時代――2016年のラノベ業界って、「努力しちゃダメ」どころかむしろその反動、カウンターの時代に突入してるんだから。
とりあえず、まずこの辺を見てほしい。
これはネットのラノベ読みがみんなで投票してその半期ごとのベストライトノベルを決めるっていう企画で、
参加サイト数はブログ・Twitter含めて296個とそこまで多くはないけど、積極的にライトノベルを読んでいるいわば「最先端の層」にいる人たちが作ってるランキングだ。
ちなみに俺は2016年上期にランクインしてるもののうち、まあ全部は読んでないんだけど、上位の4作品は全部読んでる。
そこでまず、言わせてもらう。
これは、川上さんにとって、とても残念な発表なんだけど、その上位4作品のうち、なんと、3作品が。3作品が、だよ。
「ちゃんと努力する」ってことを、大きなテーマとして掲げてる物語なんだ。
あーあ、やっちゃった、って感じだろ?
この段階で、「主人公は努力しちゃダメ」なんて、少なくとも2016年には時代遅れだってことがわかるじゃんか。
ちなみにその3作品っていうのが、「りゅうおうのおしごと!」「最果てのパラディン」「弱キャラ友崎くん」の3つな。
1位の「りゅうおうのおしごと!」は別の記事(http://anond.hatelabo.jp/20160928053429)で語られてたからここで語るまでもなく。
じゃあ残りの「最果てのパラディン」「弱キャラ友崎くん」になるけど、まずは後者の方に、典型的なシーンがあるから抜粋する。
「負け犬の遠吠えって言ったのよ。リア充みたいな人生は嫌い? リア充の人生を送ったことがないのに? バカみたい。なんで嫌いだってわかるのよ? リア充の楽しさを味わった上で、でもそれは楽しくない、って言うなら筋は通ってるわ。けど、あなたは味わったことない。だったらそんなのただの酸っぱい葡萄、負け犬の遠吠えね」
(中略)
これは「弱キャラ友崎くん」の序盤のシーンで、ヒロインの日南葵が主人公に言い放つ言葉なんだけど、このセリフ以降、
この作品の根底には常にこの考え方が通底してる。この物語の主人公は、ここから「表情筋を鍛える」「人と話す話題を暗記する」みたいな
クソみたいに地味な努力を積み重ねていって、リア充を目指して人生を攻略していく。マスクを付けて、その下を常に笑顔でいることで、根暗っぽい表情を消したり、
単語カードに人と話す話題を書いて暗記して、雑談を得意にしたり。とにかくそんな感じの話で、総じて言えば「努力賛歌」だ。
そして重要なのはこれがきちんと、いま、注目されて、売れている、ということ。
さてさて、それだけじゃない。お次は「最果てのパラディン」だ。
この作品はいわゆる「なろう」から書籍化した「なろう小説」で、例に漏れず主人公のウィルは現実世界から異世界へ「転生」する。
しかし重要なのは、「転生」によって生まれた主人公のモチベーションだ。
どうしようもなく曖昧で、混濁した生を送り。その靄のなかで、そのまま死んだ。
なぜだか、じわりと涙が滲んだ。こらえようとして、唇を引き結ぶけれど、それでも涙はぽろぽろとこぼれてきた。
(中略)
失敗してもいい。無様でもいい。泥にまみれてもいい。
僕は、今度こそ。今度こそ、生きるんだ。この世界で、生きるんだ!
こんなふうに、今までニート(?)として曖昧に暮らしてきた自分を恥じ、「今度こそちゃんと生きる」ことを心に誓う。
そして、前世の知識、というアドバンテージはありながらも、地道な剣術の練習、魔術の練習を繰り返し、
大きなドラマを乗り越えながらも旅に出る、という物語を、なんとまるまる1巻を使って描く。
0歳から主人公が成人するまで、地道に筋肉を鍛えたり、座学を受けたり。もちろんそれが物語にはなってるんだけど、
1冊ほぼ半分が「特訓」の描写であると言っていい。特訓はキツイことだけど、「ちゃんと生きる」だめに、そこから逃げない。そんな話だ。
そしてこれももちろん売れてる。となると、おかしな話になってきましたね。
これも言うまでもなく、「主人公は努力しちゃダメ」論の真逆なのにな?
ちなみに、上記の抜粋シーンはいずれも、1巻の50P以内に出てくる。
こういう価値観が、そもそもの前提として物語られてるってことがそこからもわかるよな?
さて、つまりだ。
積極的にライトノベルを読んでいるいわば「最先端の層」にいる人たちが作ってる2016年上期のランキングの、
上位4作品のうち「りゅうおうのおしごと!」「最果てのパラディン」「弱キャラ友崎くん」の3つが、
明らかに意図を持って「努力」のシーンを丁寧に描いているってことになる。しかも、どれもちゃんと売れてるんだ。
川上さんはそれでも、「売れるため」には「ライトノベルの主人公は努力しちゃダメ」なんて言えるのか? って話だよ。
「取材記事の文章の中身やニュアンスについて文句を言われても困る」なんて言い訳にすらなってない。
だって、これはもうニュアンスってレベルの話じゃない。むしろ逆、いま「売れるため」には「ライトノベルの主人公は努力しないとダメ」なんだから。
と、そういう話。
それは
「君の名は」が
『どういう立ち位置の作品』として見ているかが違うからなんだろうなー
と思う
俺は君の名はもっとマニアックな…「劇場版深夜アニメ」くらいのノリで観に行った
間違っても増田なんて見ることはないリア充カップル向けの恋愛映画
や
アニメ映画だぜ?
新海誠ってそんな映画のつもりで作ってたのかなー?(ちなみに俺は新海誠作品はこれ以外何も見たことない)
例えばアレだ
あれくらいの感覚
「基本的にはアニメ好きなオタクをメインターゲットにしてるけど、なんかの拍子にリア充(非オタク)にも受け入れられたらいいなー」
くらいの作品
だから俺は深夜アニメの美少女キャラが男に媚びた言動をしても(個人的にはムカつくが)違和感を感じないように
「まあこんなもんだよね」
としか思わなかった