はてなキーワード: リア充とは
釣りとか炎上狙いではなくて、そういうのが本当にかっこいいと思っちゃってる人
セクハラパワハラ擁護、ミソジニーミサンドリー、田舎蔑視都会蔑視、オタク批判リア充批判……
発言する本人は「本音を思う存分書けるネットは最高!」とすら思ってるんだろう
でも実際書いてるほどの思想を本人は持っていないんじゃないかと思う
完全に空気に流されてこういう過激なことを書いちゃってるわけだ
強いことを言うのはもしかしたらスッとするのかもしれない
反論が来たらムッとするのかもしれない、でもそれは思想を批判されたからではない
自分の発言に反撃されたことそのものに拒否反応が出ちゃってるだけである
それに気付かず、反論にムッとしているからこれは自分の本音なんだという誤解を深めてしまう
厄介なことに、冗談で悪ぶる人は賛同を得られても大した感慨を得られず、むしろ反論を求めている
攻撃に対する反撃は、さらなる攻撃への言い訳としてこの上なく好都合だからだ
こんな後ろ向きのツッコミ待ちは他にない
たとえその瞬間には憤慨するとして彼らは反論されたい
新海作品も遂に日の目を見るようになったんか!ってキャホキャホ喜んでたけど
オタクの拠り所だったアニメにどんどんと無視できん現実の圧力がかかってくる
これじゃ現実と同じや
俺らの居場所をとらないでくれ
どうか
JCJKが好むリア充映画だと某所で見たが、それは少し違うと思う。
やたら女子力が高く女の子走りしたり頬染めたりカフェ大好きと、THE萌えアニメヒロイン!な三葉がただただ気持ち悪い。
ストーリーは童貞が描いた理想の恋愛のような気持ち悪い歪な青春像。
キャラクターとストーリーという骨子が萌えアニメで、背景美術と音楽、全体のリズムがエモーショナルな作り。
だから「君の名は。」は「一般人も観れる萌え豚・子供向けアニメ映画」であって、リア充映画でもスイーツ映画でもない。
あと、主人公二人が結婚するところは全然想像できない。すぐに別れそう。
まあ、すぐ別れそうな恋愛物語という意味では非常に少女漫画的で、たしかにJCJKが好みそうではある。数年で黒歴史になると思うけど。
パッとしない奴にでも分け隔てなく接するリア充感あるな
ケチな彼氏を持った女はディースデーに映画デートすれば安くなる。
恋の病で頭がおかしい女と尻軽ビッチ女を映画館に呼び込むために
あるいは男が女のために買うプレゼントとして
たとえば社会派映画なんて見てもエッチに持ち込めるような良い雰囲気にならんし
軽い雰囲気の映画として商品艤装して売り込むのが短期的には得策です。
(リア充死ねな社会派映画いいぞもっとやれ!望まぬ妊娠の末路とか見せてやれ!)
特に外国の社会派映画なんて社会状況や文化が違うんだから感情移入できるとも限らない。
女だけ泣いてて男はどうとも思っていないとかだと破局しかねない。
また、フェミ系の社会派映画ですよって丸わかりのポスターなんて貼ったら
女に誘われた男は「うわー、こいつフェミ臭のする女だな。面倒くさそう。」て引く。
要するに彼女のいない男なんかいたら女の目線で見ると雰囲気悪くなるから
映画業界としては一人身の男が入り難いポスター作ってるわけだな。
見逃した名作も見つかるかも…? #女性映画が日本に来るとこうなる が「どうしてこうなった」続出 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/1024317
==以下追記=================================================================
今はネットにもっと過激なのが転がってるのに何したいんだろう?
http://shiba710.hateblo.jp/entry/2016/09/14/122251
この底の浅いヒョロヒョロな評論考察を読んでイライラしてしまった。ライターが仕事ほしくてケツにローション塗りたくって新海と川村と野田にケツ差し出して媚びてるようなヌルヌル文章だよ。こんなの。
まあネットを巡回して色んな意見をまとめて自分の考えをたとえ薄っぺらい内容でも分かりやすく主張して言っているという部分ではローションライターとしてはいい線いってるんじゃないか。
で、内容は
東浩紀や渡邉大輔とかはリア充性に注目しているけど、そうじゃない、エンタメ技術論なんだと。うん。その方法論の実現のためにRADWIMPSという存在があると。うん。で、そういう組み合わせを仕掛けた川村元気が天才的なんだと。ううん?
ど、どういうことだろう。一体この人は何を言ってるんだろう。
>こういう風にお互いに共通する世界観、作家性を持つクリエイターを結びつけるのが、まさに「プロデューサーの仕事」なんだなと思う。そして、「音楽×映画」という観点で見ると、川村元気という人はいろんな実績がある。
中略
>高木正勝や山口一郎や野田洋次郎や中田ヤスタカのような作家性の強いアーティストに「映画のための音楽」を作らせる手腕。さらに主題歌と劇伴を同じアーティストが手掛けることによって、映画と音楽が密接に関わりあう作品に仕上げる手腕。そのあたりは、『バクマン』や『君の名は。』や『何者』に共通する、川村元気のプロデューサーとしての天才性だと思う。
おうおうおうおう、いぇいいぇいえいぇい。そうね。はいはいはい。
なんか知ってるなあ。こういう物語と音楽のあり方、なんだっけなあ。昔あったな~、同人誌のタイトルで、椎名林檎とかcoccoとかポルノグラフィティとかの曲名を同人誌のタイトルにしたりさあ。自分の好きなカプのテーマ曲を脳内設定したりあったなあ。つか今でも見かけるなあ。
結局川村元気においての映画と音楽なんてのはこういうことを東宝のプロデューサーとしてのスケールでやっているだけで、天才的な手腕でも何でもない。ただの凡庸さゆえにより大きなマーケットに向けての仕事ができるというだけです。村上春樹聞きながらレディオヘッドとか聞いてる学生と似たようなもんなんです。たぶん、人脈つくりや人と仲良くなることが得意なんでしょう。どうでもいいことですが。
本題なんだけど、もうさ、君の名は。の褒め文章、どれもこれも高校生のポエムみたいなのでうんざりする。なにがちょうちょ結びだよ。テーマが結びだ? んな程度のことたいていの物語系のコンテンツで君の名は。以上の水準でやってるよ。挿入歌の歌詞の考察でアニメ映画の評論かいな。さらにそんなスッカスカの考察のアホみたいな文章にブコメで称賛するスーパーアホもわんさか。こういうアホどもをあぶりだしたことが君の名は。の最大の達成かもしれんな。あと褒めるべきは、中高生をひたすら甘やかしてうっとりした気持にさせるためだけに日本のアニメシーンで最高峰の人材が浪費されたのは虚しいこととはいえけっこうな金儲けになったことだけはまあ褒めてもいいだろう。問題はそんな映画についてクソポエムを書いてしまう連中とそれにくっついていくクソオタ。
チャーリーのポエムに続けて40のオッサンが「ここはまさに同意」じゃないんだよ。
君の名は。に前史みたいなものがもしあるとしたら、適当に今考えつくだけでも、書けるだろう。
そして新海誠が作った山崎まさよしのPVになってしまったような秒速5センチメートルが公開されたのは2007年、ハルヒダンスなんかも当時の中高生にとっては重要なのかな。適当に言ってるだけだけど。
つまり、アニメ文化とPV的映像センスの親和性と消費者のリテラシーがこの10年間でとんでもなく浸透し、上昇した。具体的には、自己像を架空の世界、二次元キャラアニメ世界に没入させる技術が今の10代20代はそれ以前の世代と比べて圧倒的に優れているわけ。
そしてさらにカゲロウプロジェクトや告白実行委員会、ボカロ小説といった、若者向け物語文化がさらにそういうPV的な音楽と物語の需要にさらに拍車をかけた。
はっきり言って、やってること同じでしょ? 君の名は。とカゲプロとかずっと前から好きでしたとかって。新宿感はストリート感に対応しているし、青春ドキドキ胸キュンストーリーだし。
震災をダシにしつつ実際は自分の恋愛の成就にしか興味がないウスラバカのための映画で子供の背伸びにもピッタリ。
というのはまあクソオタ向けのまとめであって、なんでこんなとてつもないヒットしたかって、結局のところ新海誠のくどい撮影のキラキラ画面というのは、大衆にとって衝撃的な画面として映ったってことでしょう。しかも、描かれているものはスピリチュアルでスケールが大きい。ただ素朴に、「え~。アニメでこんなにキラキラした画面初めて~。すご~い」ですよ。それを映画館の大画面で見るんだからカルチャーショックでしょう。物語の内容がアホみたいな間の抜けた王子様とお姫様のきっしょいラブストーリーだとしてもね。べつに中高生がうっとりするのにはそれでいいんですよ。(本当はよくない) 問題はそんなのでポエムしちゃう連中。
田中将賀のパンピ向けデザインが安藤雅司ほかのとんでもない水準のリアリズム超作画で青春ドキドキ胸キュンストーリーが、実際の物語としての出来はともかく、予告だけ見てたらとんでもなくヘルシーで健康的な印象でしょ。そういうただひたすらキュンキュンときめきたいっていう大衆の眠っていた願望を呼び覚ますには充分すぎる画面を提示することができたわけ。本当にただそれだけなの。凡庸な物語センスの新海誠と凡庸な音楽の仕掛け人であるところの川村元気のセンスが大衆向けの子供だましクールジャパンアニメの到達点として結実したというのが妥当な見解でしょうよ。
物語コンテンツの需要における文脈や楽しむための作法には積み重なっていく歴史があるんだということさえ理解できないバカが大量宣伝を大衆向けの物語でやったから川村がすごいんだと単細胞な意見でつっかかってるんだね。ガンダムとマクロスをたとえに出して、君の名は。とカゲプロが似てると思うのは老いだぞ、とか。このエントリの文意さえ読み取れてないみたいで、これはバカでも分かるように書かなかったこっちが悪いのかな。それともバカなのが悪いのかな。
君の名は。をバカにされて頭がフットーしてる人、ケチつけられることがつらい人にオススメなのは川村元気は他所の畑で実った果実を自分の畑で植え直して大衆に売ることの天才とでも思っとけば川村でも天才扱いできるからいいんじゃない?
こっちはライターがフェアな関係であるべき対象を天才とか軽々しく言い出したのがイラついただけなんでね。
文脈なんて前提だよって人もいるけど、だったらライターはその文脈を歴史として記述しなきゃ。ポエムなんかよりも。
なぜヒットしたのか? 天才プロデューサーの仕事だからでありますって。ちゃんちゃらおかしいよ。ライターがプロデューサー褒めそやしてバカな素人がそれに乗っかって「これが君の名は。の正しい評論だよなあ」って好きなもの同士の特権意識で頷き合ってる気持ち悪い構図になってるんだがら。
このライターの人も君の名は。をRADWIMPSの音楽で読み解きたいんじゃなくてただ取引先ともっと仲良くなりたいってだけなんじゃないかなあ。業界の仕組みなんて知らないけどさ。
浅野いにおの新境地
客観的には浅野いにおのマンガはエロいしおもしろいけど、個人的には嫌い
うみべの女の子もソラニンも読んで面白かったけど個人的には嫌い
でもこのデデデデは違った
浅野いにおらしいふわふわした地に足が着かないアトモスフィアでくるんだ、カタストロフィへ刻一刻と近づく毎日が描かれている
絵柄もメインキャラがかなり萌よりになっててエロくてこのままCOMIC LOに転向してもいいのよ?と言いたくなったレベル
はにゃにゃフワーッ!!!
まあ相変わらず話の進みは遅いし、余計な描写ばっかでうざったく感じることもあるけど
外っ面だけで判断して得意げに切り捨てる人間がネットには多すぎる。
その勿体無さ、残念っぷりに気づいてほしいから、そういう評をしたくなる。
中身は社会派だったり、リベラルでモダンな感性を描いたりする。
そういう実は意識高い・示唆深い良作だったりする事が最近の作品には多い。
ヒットしてる作品もだいたいは、
そういう普遍的な良さを備えてるから、老若男女に受けてたりするわけで。
個人的には、こうした「萌え」見下しを逆手にとった作品性の潮流は
まどマギの成功が端緒を開いて、ラブライブが一つの完成形を見せたように思える。
これは、根暗なオタクが絶滅していって社交的な若いオタクが増え始め、
情報ツールの発展も相まってカジュアルに感動を共有する時代になったことと
少なからず連動していて、そういう時代に適応した結果だと思うね。
で、今その傾向をよく捉えたためにヒットしてるのが、君の名は。
決して嫌らしい下品な感じにはせず、男女どちらにも嫌われないラインを守る。
その上で誰もが感動できる物語を演出する。一種のリア充的バランス感覚。
まさに今時のセンスだと思うね、「男女両方に好かれる」ってのは。
まだ観てないんだけど、どうやらイケメンで学力も体力も交友関係も充実したリア充(ただし貧乏)が、田舎の美少女女子高生と意識が入れ替わるうちに仲良くなって友達以上恋人未満な関係になるけど、いつのまにか寝取られて風味絶佳キメる(注:沢尻エリカを寝取られた柳楽優弥が、線路沿いの道を自転車で暴走するもバランスを崩して転び、咽び泣くの意)って話じゃなさそうなので観に行くか迷う。
平日の昼過ぎ、カップルやイケイケの同年代などに囲まれて、君の名は。を観た。
友達がいないので、スマホを持っているがLINEもしないような人間が、上映前の数分間、覚悟してたが、それはそれは居心地が悪い時間だった。そもそも、あの新海誠の作品が一般に広く受け入られて大ヒットしていることを驚いたことが劇場に足を運んだ理由だった。
いままでそんなこと思ったことがなかった。
自分にとって中学校時代の漫画、アニメ、ゲームの"消費"は、いわゆるリア充である校内の主流派になじめない自分への言い訳だった。
「小2でラノベに触れてしまった。小3で深夜アニメにはまってしまった。小4でエロゲに手を出した。」だから「普通の人と私は違ってしまった」
本当はそんな因果はないのだが、そうしなければ自分を維持できなかったのだと思う。
いつもニコニコ気だるげな受け身の人間、関わってくる人を拒絶せず、自分からは他人に関わろうとしない。
そんな3年間だった。
高校に入学し、その言い訳はさらにひどくなった。"消費すら"を辞めたのである。理由は単純。そこそこ偏差値が高め、だがパッとしない私立高校へ入学したところ、周りにオタクであることを公言する人間が一気に増えたからである。
野球部イケイケしかしオタク。そんな奴がごろごろいた。もちろん世間から典型的オタクと呼ばれるような人間もたくさんいる。
最初はそんな彼らが羨ましかった。前者の人間だけでなく後者の人間すらも。みんな楽しそうにめいめい自分たちの感想を述べている。いままで自分が感じたものを共有することができず、何より他人と考えを共有しようともしなかった自分は彼ら彼女らが本当に羨ましかった。
しかし、交わることができない。そこでコンテンツの消費すら辞めた。
「私はテレビも見ない、本も読まない、一緒遊ぶこともないから出来事を共有することがない(高校から家が遠いことを理由に誘いはすべて断っていた)」だから「普通の人と私は違っている。なじめない。」
そんな考えのもと、他人が楽しそうに生きているのを見ることを趣味をしていた時期があった。
そんな高校生活前半だった。
後半は更にひどいものであった。部活の先輩に言われた言葉がきっかけである。
「○○(私の名前)って今この瞬間、この部の誰かが死んでも何も思わなさそう」
面と向かって言われて、確かにその通りと思った。実際、中学時代の同級生の通夜か葬式かに出た時も同じ部活の同級生だったが何も思うことはなかった。(中学時代の人間とは誰とも連絡先すら知らないような仲だったが帰り道に斎場があり、声を掛けられて出ることになった。)
自分はそもそも何にも興味がないのだろうとそれから思い始めた。
「私は何も楽しめない」だから「普通の人と私は違っている。なじめない。」
何もせずゆっくりと生きていた。
そのまま1年間の浪人生活に入った。人と関わりたくない自分は研究室は向いていない、センター試験後にそう思い絶対安全と言われた国立大学を落とした。浪人生活中にできる限り人と関わらずに卒業できる近場の大学と学部を探した。ゼミ無しで卒業できる文系学部に現役時とほぼ変わらない成績で入った。
親の金を浪費し、予備校までの電車を終点から終点まで行ったり来たり、本を読んで過ごした。そもそも行ってないのだから、当然、予備校の人間に知り合いは一人もいなかった。
ただ自由な時間ができたことで再び漫画、アニメ、ゲームを楽しむことができた。
大学に入った、予定通り人と関わらず過ごしている。
バイトも役を演じればよい塾講師、友達も作らず、飲み会など行ったことなどない。
とても満足していた。
大学を卒業したら家を出て一人で静かに暮らすのだろうと、そのうち専門業者とでも契約して死んだ後の処理をしてもらえるようにして適当に暮らそうと、そう思っていた。
それが「君の名は。」を見たときに自然と「青春をしたかった」と思ったのである。
君の名は。を見て感じたのだからだれか他人を求めているかもしれないが、そもそも家族にすら演じている自分を見せている自分が何ができるのか。人との付き合いの方法など分からない。
どうすればいいのか。どうすることもできないのか。誰にも聞くことができない。聞き方すらわからない。どうすればいいのか。
僕がシン・ゴジラについて「はいはい庵野庵野」と言ったのは、庵野秀明作品の中ではあからさまな様式美の詰め合わせでかつ、他作品でやったことのやきうつしだったからだし、そこに熱狂する人はオタクとして強度が… / “東浩紀氏「シン・ゴジ…”
典型的な学者気取りのオタクが書いた、わっかりにくい日本語と、エビデンスで取り繕ったクソみたいな文章の好例。こういう文章を自己満足でつくることを評論だ、批評だと言う人が嫌いで俺は評論同人への寄稿をやめた / “『君の名は。』の大ヒ…”
アニメについての評論や批評を見ても作品が面白くなる解釈ができるようになるわけでもなきゃ、アニメの見どころや作画的な技術論がわかるわけでもないことに気づいた途端に急に冷めてしまったのです。あー僕がやりたいのは作品紹介や楽しく見るために抑えておきたい情報であって評論じゃないな~と
「オタク文化がリア充色や社会派色を帯びて一般化して、オタクの時代は終わった」とか言ってる東浩紀に心底言いたいのは「今の20代は子どもの頃に押井守アニメやエヴァみたいな要素を含んだ冒頭からスタートするミュウツーの逆襲からアニメを見始めてそれがおとなになっただけ」ってことさ!!
支援ブクマ。いいぞ~ころしあえ~ / “「『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか」はどこがまちがっているか - 赤目無冠のぶろぐ” (2
「オタク論」は学者ごっこでしかなくて、実際にコンテンツが好きな人がコンテンツの話をするためにやってることではないからなぁ~。「評論ごっこ」「論文的なエビデンス漫才ごっこ」であって、もしこれを人文系の学問というならこんなもんに国がカネ出してる方が異常。憧れて同人作るのも狂気
オタクという自意識を持たない人をリア充だというならそれってどうなんだろうって感じはあるし、ジブリアニメで育った世代はオタクじゃなくてもあんなこじらせたものを国民的娯楽だと言って幼いうちから見せられてるんだから、オタクじゃなくてもその基礎的な土台はオタクなんだと思うぜ?
@tm2501 いやだからその事実自体が「オタクの時代は終わった」なのでは
@kimiterary だったら、それは20年前(もののけ姫や、ミュウツーが邦画の歴代ランキングで上位に食い込んで、アニメ映画をオタク以外が見に行く時代になった時)に約束された話だから、今それを言うこと自体が遅すぎない?…とは思う。
まぁ、その辺は記事にしたので夜に出すけど.それはね、多分「表面上の言葉でこの言い方をしたら絶対に誤解されるから、俺なら絶対こんな言い方をしないわ」っていうレトリックの問題であり、ある種の(正直言って、納得行かないけど)同族嫌悪なんだと解釈してるよ…うん
@tm2501 確かにもののけ姫やミュウツーに「オタク特有のグダグダした心理」の描写はないんだけど、その二十年分の変化の集大成として、節目の年と感じてるって話じゃないのこれ。その二十年前にいるのがまさにエヴァなわけでさ。
@kimiterary 東浩紀の文脈(オタクの定義を動ポモで扱ったものやそれを論じたゼロ年代ゲンロンとした上で)あるものはエヴァでありエロゲなんだろうと思うけど、世の中の人のターニングポイントが本当にエヴァだったのかと言われるとそこにはとても疑問を感じるかなぁ…数字の問題として
というか、うちのブログやそのスタンス自体が、「哲学者・批評家の言ってることを噛み砕いて、アカデミックな言葉を使わないで書く」という部分(本人すらアカデミックでそれをもっとシンプルに言い表した言葉があったことを知らずに書くことは多い)があるからねぇ~うん。
@tm2501 「誰しも土台にオタク的部分がある」のは普遍的にそう。ただ、それを突き詰めても「だからみんなオタクであり同時にオタクではない」みたいなところに帰結するだけで、そこからこぼれ落ちる人間、こぼれ落ちる想像力は確実にあって、で、それらはもはや力を持てないって話なんかなと。
@tm2501 世の中のターニングポイントがエヴァだったのかが問題なのではなくてシンゴジラの監督が庵野であることがこの文脈では問題なのでは?
@kimiterary あー…直感的には理解したけど、いいアクションを持ち合わせない部分がある話やなぁ~。
@kimiterary あー…うん。(概ね納得)
だとするとすげー個人的な話を主語がでかいままネットに書き込んだ系のことやなぁ~。「お前はそうかもしらんが、一般的な分岐はそこじゃないだろ」的なモヤモヤは個人的な話である時点ですでに意味を持たないというかその人の手を離れるわな…
@tm2501 つまり「アニメ・マンガ文化愛好者」としてのオタクと「少数派としてのグダグダなメンタリティ所有者」としてのオタクの問題。前者がもはやメインストリームに取り込まれた(皆オタクであり非オタな世界)として、後者の想像力が表出してくる余地が果たしてあるのか、でしょ。
@tm2501 そもそもアレ個人の感想だけどな?
@kimiterary それな(盛り上がってるから真夜中にがんばって記事を書いたけど、結局東浩紀との対立というよりも、EXILEまでオタク的になったという話までの道のりを自分がポケモンとかジブリを使って補填するようなすごく説明的な記事だからいいんだけどさ…)
@kimiterary 「後者はそもそもオタクなのか」とはてなブログにいるとすげー思うけどなぁ~。結局、何を議題にしてもグダグダにグズグズに揉めてる印象があるから。オタク論争だけでなく、人間関係でも、サイトやブログのアルゴリズムやテクニカルな話でも
@tm2501 ちなみにこんなこと言っておいて難だけどセカイ系とは相性が悪いマンだからさほど感慨はない……w
@kimiterary あ、僕もそこはどうでもいい派。15年以上前のオタク同士でランデブーしてろ派だし、安易に話に入ると誰も幸せにならないから意図的にスルーする派
@tm2501 端的に言って本人の能力値がどこでいいからどこかに向けて高くない限り救いようがない人種だけど、わりとそれオタクの本質の1つだと思うんだよな。
@tm2501 てゆーか貴方だしすっげえ雑なこと言うけど、要は1つのテンプレとしては太宰に感情移入しちゃうタイプのメンタリティが挙げられるんじゃないの、後者。ファウスト系に人生曲げられたマンとしてはこの辺他人事ではない
@kimiterary それ、私には発達障害の問題(IQの低さと高さが混在した人間の宿命や悩み)の話に聞こえるから、哲学案件ではなく、精神科案件か臨床寄りな心理学案件な感じがあるかなぁ…。個人的な話でもあると同時に、それらを病気や克服すべき問題と定義したのはそっちだし。
@kimiterary そこまで広くくくっていい話だとすると、それは確かに哲学案件。
@tm2501 俺としては「病気が治ってしまったら病気が治る前の自分は死んでしまう」みたいな感慨があるからいかに病を抱え続けていけるかの問題、自己肯定の問題なんだけどなそれ。戯言遣いが言う「変わりたいって気持ちは自殺だよね」に未だに取り憑かれてる感。
@tm2501 「太宰に感情移入しちゃうタイプ」の「太宰」に代入出来る解としての庵野なり新海ではもはやなくなった、ってことだと俺は理解してるし、なんならそこに代入できる解って今の世界にいるのか?そもそも求められているのか?ってところで一般化していけそうではある。