はてなキーワード: ラッキーとは
匿名で自分のログを世の中に浮遊させ、そして拾って頂けるのは楽しかったです。
長く続けるとバカなので何処かで絶対にボロが出る。なのに書きたくなってしまった。
再投稿です。きちんと上がらなかったように見えたので、消してしまって、もうええかと思ってしまったのだけど、
見たかったというコメントを見て、少し修正して上げることにしました。こんな駄文にありがとう。
https://anond.hatelabo.jp/20210130001953
https://anond.hatelabo.jp/20210131035752
これらの続きです。
====
前回のエントリでずっと4GBのメモリとともに作業していたと書いたが4GB以下が正しい。
最初の現場は128MBだった。あと、盾を鉾と書いていた。この誤字脱字と誤用の多さで私のプログラマとしての質の低さもなんとなく察して頂けるだろう。
◯結婚した話◯
何故か結婚の話が書かれていないという書き込みが幾つかあったので結婚の話から。
30歳を越えてから趣味が充実していた事もあって周囲には煩く言われるものの、結婚を考える事はあまりなかったし、結婚の分岐に入ることが必ずしも幸福につながる選択肢とは限らないと考えていた。
この考えは今も変わらないが私は運良く幸福につながるほうへ入ったようだ。すまんな。
何せ30歳を越えてからは同じ趣味のおっさんの友人たちと焼き鳥屋であーだこーだいいながら企画を練り、イベントを立てたりするのが楽しくて仕方がなかった。
20代があまりにも労働をしすぎた。22歳から28歳までの6年間、年俸制なので一円も残業代が出ないのに月300時間勤務を2年半はやったと思う。最初のうちはISDN接続のテレホタイムでのネトゲが自分のゴールデンタイムであり、息抜きの時間だった。
時代が今なら渋谷凛か風野灯織に貢いでいたことだろう。長い労働時間は人生の搾取だ。
嫁は異業種の人で、友人のボカロPのファンだった。彼のライブに通ううちに顔なじみになり、少しだけ会話をするようになった。
ある時行ったライブが月曜夜の開催ということもあって若い人が多く、ライブハウスの中でスーツを着た客が私と嫁しか居なかったので思い切って「今日はスーツ、我々だけですね」と話しかけ、そこから色々な話をしたのを覚えている。いやらしい。
ボカロPのライブでの出会い、つまり私が結婚出来たのは初音ミクさんのおかげだ。
30歳になったあたりからようやくIT業界に過残業を何とかしようという機運がやってきた事、そして定時で上がる精神的な胆力がついた事で音楽を作る時間的精神的な余裕が出来、人との交流が生まれ、ライブに行く機会が出来たから私のような人間でも結婚出来たのかもしれない。しらんけど。
国勢調査によると35歳を過ぎてから結婚した男性は約3%らしい。私は一生分の運をこれで使った。(正しくは6.8%だと何処かの教授が言っていたが)
自分が居た現場の雑感だと、同じシステム開発現場でも大手SI や 大手SI子会社のほうが結婚している人が多かったように思う。多重派遣はやはり収入面で結婚に対してネガティブな意見を聞くことも少なくは無かった。
若い頃は親にも親戚にも「そろそろ結婚も考えないといけないだろうから派遣社員辞めないとね」と言われたことを思い出した。SESの増田は一度は言われたことがあるだろう。
世間一般的には技術職というイメージよりも派遣社員というメージが強く、収入面も相まって世の中の反応厳しい。
普通の一般派遣と請負の派遣の人が混在している現場が多いと思うが、前者は1人でも派遣が出来、上位会社の現場のリーダーが直接指示をすることが出来るので最近はその方が多いように思う。
ところが、一般の派遣会社として登録するには資本金が多くないとダメで、派遣法が改正されたあたりで資本金が少ない会社は請負の道を選ぶしかない。
そうすると複数人で現場に行き、自社のリーダーに仕事の指示をされる形になる。ただ、コレは守られていない現場が多い。
さらに、大手や大手子会社と取引を直接行うのにも資本金の大きさ・設立してから何年等の条件があったりもする。
資本が少ない会社は資本金の多い「別な会社を迂回して」契約する。そこに多重派遣ができる仕組みの1つがある。上位請負の営業が◯◯社経由しろという場合、利権・癒着の場合もあるのだろう。
新人の時、パワハラの教育担当に私が毎日何度も怒鳴られているのが流石にプロジェクト内で目に余るようになったらしく、私はドキュメント整理という新たな仕事を貰う事になる。
炎上プロジェクトの為、全く作られて無かったクラス図をソース等からRational Roseで自動生成し、体裁を整えて他の設計書も含め印刷をした。同じものを2部作るのだが、何故か同一性保持という理由で一部はコピーで制作。分厚いバインダーに綴じた。
印刷とコピーで休憩もせず毎日終電の生活をしていた時、PMに「広島の二番バッターみたいだなおまえ」と言われたのを覚えている。コツコツやるけど面白みがない人間だと言われたのだ。
要領の悪い私に休憩のタイミングなんて解らなかった。ましてやパワハラマンに使えないと毎日散々どやされ続けた後なので尚更である。
その経験から私は同じプロジェクトに居る若手に「そろそろ1回休んだら?」「いつまで働いているの?増田がそろそろ帰れって言ったって言ってもいいよ」となるべく声をかけるようにしていた。モテそう(モテなかった)
この時、たまたま席が空いているという理由で隣に座っていた方が、のちに難易度が高い事で有名な銀行統合の現場の某SIのトップになっていた。プロジェクトの雰囲気は良くなかったが、いつもにこやかで私のような末端にも優しかったのを覚えている。出来る人は余裕がある。
印刷業務が終わった後、入社してからずっとテストだけをやらされていた1年上の先輩のアベさんと、とうとうプログラムの修行に出してもらえる事になった。
新規開発のプロジェクトである。プログラムも一杯書けてラッキーなのではと思っていたのだが、自社の人間はアベさんと私だけで、あとは上位会社のPMと、更なる下請けで構成されていた。
現場のリーダーも下請けの人で、この人が私とアベさんの教育係という事になった。
自社の営業が初日に来て「この子達よろしくね」とリーダーに伝えた所、「任せてください!」と良い返事をしていたが、自社営業が居なくなった翌日から面白いくらい態度が一変することになる。
何を聞いても露骨な悪態をつき教えてくれず、技術的な質問も一切受け付けない。
流石にアベさんと自社の営業に伝えたのだが、翌日朝私のところにやってきて「チクったな」「自社の人間でも無いお前らに教える余裕はない」と言われてしまうだけで特に事態の改善はされなかった。パワハラ上司の次はこれだ。駅のホームドアは大事なので全駅に付けて欲しい。
救われたのはインターネットが使える現場だった事だ。とはいえ、なんせソースレビューも私とアベさんで互に行うので、技術的な進歩がまるで無い。
ある時、私が書いたプログラムがメモリを使いすぎてフリーズするようになり、問題になってしまった。他にも技術的に問題のあるプログラムを書いてしまった事が続いたのと、リーダーに対してハッキリとモノを言うことも災いし、PMの判断で半年でプロジェクトを出ることになってしまった。
もっとうまく立ち回る事も出来たように思う。しかし、若造は人生の経験値が足りなかった。
多重派遣の大きな問題として、現場ガチャにより環境が大きく変わるというのがあるだろう。2~3年も我慢すれば大抵の場合次の現場に行けるのかもしれないが、短い人生の2~3年は少ない数字ではない。
請負ではなく一般派遣扱いで来る技術者の中には新人なのに1人で派遣されてくる人も多い。そんなのは新人教育とは言えないと思うのだが、どこの会社の募集要項にも新人教育はバッチリと書いてある。
その「新人教育」とやらの実態というのは大抵の場合、外部で行われる初心者研修と、自社の営業が「この子よろしくね」と現場に伝える程度の事でしかない。
社会人としての新生活での不安、技術的な不安、誰が教えてくれるのかも解らない不安、定時になっても誰も帰らない・帰って良いとも言われない、作ったものの品質の不安、数多くの不安を抱えて過ごさなければならない。ちゃんと相談出来る人も現場に居ないのである。
技術的な所は勿論、精神的なケアも必要な時期だと思うのだが、このような体験を20代前半でしないといけないのはどうも無駄な苦労をしているようにしか私には思えない。
ただ、新人が伸びる為に必要なのは「経験者によるソースレビューによる指摘」が必要不可欠だと私は思う。レビューを先輩・上司が行い、新人が書いたコードの信頼性の担保が出来ないと、余計なバグを生み、可読性・メンテナンス性も落ちるだろう。
なによりバグを出してリーダー・PM・顧客に「こいつ大丈夫か?」と思われるストレスの大きさと自信喪失感は長く忘れられない。
余談だが、最初の教育担当のパワハラ先輩とはその後別な現場で一緒になった。しかも彼は会社の倒産後、上位請の会社に転職していたので私に仕事を振る立場として現れたのだ。全く知らなかったので顔を見た時は「ヤバい現場に来た」と焦ったのだが、「あの時は俺の頭がどうかしていた。申し訳ない」とまず謝られてしまった。驚くほど柔和な性格になっていて棘が全て抜け落ちていた。その後一緒のプロジェクトの間はたまに昼飯を一緒に行くまでになった。
約1年一緒に働いたが一度もドヤられる事は無かった。許せるか許せないかは別として、パワハラをするほうにも何かしらの事情や背景があるのだなと一つ学んだ。
社会人1年目の忘年会はゲイのショーパブの観劇だった。そこでアベさんはダウンタウン浜田の高校(全寮制男子校)の同級生というママに唇を「むちゅーーー!!」と音が聞こえるような熱烈な口づけをされ、人生のファーストキスを奪われていた。私は隣でただ震えるしかなかった。
知人もなく上京してきた為、他の社員と交流する帰社日をそこそこ楽しみにしていた私は怒りのあまり社内報に若気の至りで”ボロクソ”に書いた所、社長の目にとまり、翌年から忘年会の幹事を任されることになってしまった。なにせショーパブの観劇は社長の要望だったのだ。
そして、普通の居酒屋で特に弾まない会話をして終了をする忘年会を2年繰り返した。
自社の忘年会を面倒に思うベテラン社員は多く、各現場に電話で来てくださいねと念を押して来て貰ったのに参加者が全然楽しそうではないのだ。
普段それぞれが別の現場に居る人なのでそれほど同僚感も無く、特に仲も良い訳でもないので会話が弾まないためだ。良かれと思って2時間半飲み放題にしたが、本当に盛り上がらない。
「なるほど、これで会話をしなくて良いイベント(且つ社長の趣味)がブッキングされたのか・・・」と理解した。
その経験があり、”自社”に缶ビール等の各種アルコール・ノンアルコール飲料とテイクアウトの料理を用意し、16時開始、17時から随時帰りたい人は帰る。という方式に変えた所、立食(椅子も勿論ある)で仲の良い人の所に居て彼らとだけ話すことも出来るし、色々な人と交流することも可能になった。時間が短いために会話のネタに困ら無い事も功を奏し、思った以上に盛り上がる事が出来た。
子供が出来た今ようやく思うに至ったが、子育て世代も延長保育やパートナーにお願いすることもなく早めに帰れて良かったはず。殆どは17時から続々と退社していたが、以前は無かった有志の二次会組もいくつかあったようだ。参加者にも総務部長にも「毎年これで良いね」と言われ、ほっとしたのを覚えている。
何が正解かは解らないが、業務時間内で終わる自社での短い時間の立ち飲み(椅子席あり)は好評だったので、幹事をやらされがちなSES増田は参考になれば良いなと思う。
基盤まわりの仕事をしていた時、あまりにもプロジェクトでメモリの初期化漏れが頻発して問題となり、プロジェクトのお偉いさんが捻り出したアイデアが「”物理”メモリ全部を定期的に端から終端まで0で埋める」というものだった。
そしてそれをどう実現するか?という会議に呼ばれたのだ。
指を使い「物理メモリを”端から””端まで”全部、プログラムが動かない時間に定期的に一回ゼロで埋めればいいじゃない?」との説明があった。
これは良いアイデアだとご満悦の上役と、違和感を覚えない他のベテランの参加者達。
「まず、仮にこれが実現出来たとして、サーバーが立ち上がった時点でOSやミドルがメモリを利用していますが、どうしますか?OSもミドルも当然落ちます。」
「メモリですが、皆さんが普段変数宣言やmallocで受け取っているメモリの番地ですが、全て仮想メモリのアドレスなのはご存知ですか?」
「我々のような庶民は直接物理メモリアドレスに仕組み上アクセス出来ません」
「物理メモリにアクセスするにはカーネルのプログラミングが必要になります」
「メモリにはユーザープログラミングで触れる事が出来る層と、カーネル層という仕切り、さらに仮想メモリ・物理メモリという仕切りがある為に、堅牢性を保持している云々」
ここまで伝えても皆ピンときていない。文章にすればまだ解るが所為オタクの早口の説明なので当然、私の話術にも大いに問題はある。
もしかして自分が間違っているのか?このままだと私がこの対応をやらされる羽目になる。
私は交渉事でうまく立ち回れる技を持っては居なかった。なので、最後の手段に出た。
「だからこんな方法は絶っっ対 実現できないんですよ!!!」と突然のブチギレ。いや、出来るのかもしれんけど。
一同ポカーン。突然のメガンテを使った私に皆パルプンテ状態になり、
「増田がココまで言うのなら出来ないんだろう」という事になった。
正直、高い技術も必要ない汎用的なシステムの開発現場のなんてこんなものだ。AWSもGitHubも触ったことのない私があえていおう。
最初のエントリーに業務時間内に勉強させろと書いたが、目的が無ければおそらく時間があっても、「私は完全に仕事をしています」という顔をしながらviで青空文庫やアマチュアの小説を読んでいた時間の方が長かったのではないかと思う。
本当に誰も居ない感じがしていいわね。
本当に集中するとき言うけど、
なんか流行に乗った言い方してるみたいで逆にそういうつもりじゃないんだよって言うのもまた逆に恥ずかしいわ。
それはともかくとして今日は何の日だか知らないけどラッキー祝日なので
とりあえず建国を祝ってみるわ。
建国記念日の由来ってなんだか邪馬台国のイメージがつきまとうだけど、
それであってるのかしら?
邪馬台国の人のイメージの髪型の瓢箪が両サイドに付いたあのスタイルあるじゃない。
よくよく考えてみたら、
あのイメージを植え付けた人って誰なの?とも思うの。
なに発祥なのかしら?
あの由来を知りたいし、
いい加減に
元祖邪馬台国髪型と本家元祖邪馬台国髪型との争いもいつまでやってるの?とも思うの。
だいたいどちらも似た感じの髪型だし、
それぞれのなんか事務所的なところに行くと、
どちらがその髪型発祥でもいいじゃない!って世間はそんなに熱量高くないんだけどねぇ。
根拠ないじゃんと言うと共にだから今日は建国を祝う儀式なのかーとも思うのよ。
それはさておき、
今日こそは今日こそはなにかどっかに寄って焼き鳥でも食べたいところだけど、
ああどうしようって思うわ。
確定申告の準備をやんわりして、
うふふ。
喫茶店の本気の美味しい本域のコーヒーはやっぱり喫茶店で飲むべきである理由たる所以ね。
どうしても、
あの技が出せないのよあの技が。
そのままだけど。
よく見るピンクグレープフルーツとよく似た感じがまたより一層拍車をかけてくれるわ。
何の?って感じよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ヤフコメを具に読んでて気が付いたけど大部分の人はA。
A.現実の日本の男女格差とかどうでもよくてタテマエとしての男女平等のお題目が言えなくなった組織の老リーダーは単純に能力的に適格ではなくオリンピックという世界的イベントとしてこの人が注目されるのは日本人として恥ずかしいと思ってる人
→森喜朗には辞めてほしいと思っている
B.日本の男女格差に普段から敏感であらゆる手段でそれを是正してほしいと思っている人
→世の中のタイミング的にもポジション的にもこんなどうでもいい老人が注目してもらえるラッキーなチャンスは2度とないのでどんどん追い失言して国際的な批判を浴び現実的な男女格差是正政策を国が渋々採るまであと2-3発打ち上げる必要があるので森喜朗には辞めて欲しくないと思っている
節約が動機の人間が自炊生活をすると、自分の食欲に合わせて料理をするのではなく
料理するのがめんどくさいが食べることがめんどくさいに直結してしまう
一日一食とかになり、思考や行動がエネルギーを極力消費しないようにする方向に最適化されてしまう
本人は食費も抑えられて太らないからラッキーぐらいにしか思っていないかもしれないが、知らず知らずのうちにその人のパフォーマンスは劇下がりしている
「まだスタッドレスに変えなくても大丈夫ですよね」と聞かれたとするじゃん
事故が起きた時に「あの時増田さんがスタッドレスに変えなくても大丈夫と言ったのにスリップして事故が起きた。責任取ってください」
んで、逆に「もうスタッドレスに変えたほうがいいですよ!」つって事故回避できたとするじゃん
そんで「あの時増田さんがスタッドレスに変えてくださいと言ってくれたので事故が防げた。お礼を差し上げます」
なんて絶対ならんわけよ。ラッキー!またなんかあったらアイツに相談しよとしか思わんわけよ
そういうのがたまにいるわけよ
不倫した人はとかく責められる.裏切られた配偶者ならともかく,関係ない赤の他人がうざいぐらい非難してるの何.
特に慰謝料のことばかり言う.300万は取られるとか支払い能力のない学生でも請求できるんだとか.自分がもらえるわけでもないのに.
奥さんや子どもの気持ちを考えたら多額の慰謝料は当然だと言う人もしばしばいる.確かに愛する人が別の誰かと関係をもつということが悲しいのはわかる.
でもお金をたくさんもらったところで何になるというのか.儲けたラッキー♪とはなるかもしれないけど,パートナーの気持ちを取り戻せるわけでもない.
不倫に限った話じゃないけど,お金じゃ解決できないと分かっている事案でなぜ金を搾り取ろうとするのか.大切な人を奪われて悲しい,いくらお金をもらったところで心の傷は癒えない...
じゃあなぜ金取るんだよ.もらってもしょうがないじゃん.
家庭を壊した極悪人なんだから罰を受けて然るべきという文句もよく聞くけど,まさか家庭を壊そうだなんて毛頭も思ってない.奥さんのことを目の敵に思うことだってない.
昨年増田で「何もねぇと思ってた土地に根を下ろすと決めたのだ」的な文を書いた。
引越しは4月にした。今は家関連だと、チマチマと使わない物を引越し会社のくれた段ボールに詰めつつ、断捨離をする毎日だ。
そんな時、私の相方の宝物を入れた箱を見つけた。
こんな箱は私も持っていて、中学の時分からもらった手紙や年賀状などが詰まっている。
残りの1つ、相方と断捨離を進めつつ年賀状を見てみたら、妹の友人から学生時代にもらったものらしい。
ふーん、と思って目の前で読んでいたら「XXXXと会えなくて寂しい、本当にめちゃくちゃ大好きだから戻ってきたらまた遊ぼう、メールしよう」と書いてあった。
これはこれは。かなり“想われている“ではないか。
ほほー。なるほどなるほど。
相方に声をかけた。「とっても好かれていたんだ?」
「うん。よく一緒に遊んでいたし」
差出人を見た。我が家に妹と共に泊まりにきたことがある人だった。
「付き合わなかかったの?」
「うん、べつに」
「へえ、なんでなんで」
「いいから手を動かして」
それ以上は聞くこともせず、断捨離を進めた。
その日の夜、私は考えにふけっていた。 相方は私より早く寝るのでその隣で、kindleで活字を眺めていたが1文を理解することもなかった。
思えば、相方は優しく(本当は否定する力がない、自分に自信がないだけ)
見た目が良く(歯並びも良くて、清潔感も良く、身長が高すぎず低くもない)
そして他人に依存しやすかった。(これってつまり自立していない人なのかもしれないが)
刺さるヒトには刺さるタイプだよな、と思った。
私が選ばれたのは、たまたま学生時代に席が4年間前後だったことや、
一緒に飲み歩いていたことが、
相方の人生のよきタイミングに合って、 功を奏したのかもしれない。
当時はただの友人と思って深夜の2時に呼び出して酒を飲みに行こうなんてやったりもしたが、
3年の夏とうとう告白はなく、私が折れる形で付き合おうと提案したのだ。
(母に言わせれば、実家に帰っても学校のことを聞くと相方の話が多かったのでいずれ付き合うだろうと思われていたが。)
あの時の自分に今でも心の底から感謝している。 相方がいなければ私は家を買っていなかった。そもそも買えなかった。 仕事一筋に打ち込んで、キャリアアップしたりしなかっただろう。
私の無茶ぶりにいつでも応えて、共に悩み・苦しみ、
本当にただラッキーだったのだろう。
結婚は妥協、と一時期友人にゲラゲラと話していた自分がいたが ブン殴って車の後ろに繋いで5kmくらい引きずってやりたい。
相方は完璧だ。 人間としては完璧ではないかもしれないが、私にとっては完璧だ。 デコとボコがぴったりとハマった、あの感じをいつでもひしひしと感じる。
私は継続が苦手で、1週間にまとめて家事や掃除をする(が、相方が来てから家事をほとんどしなくなってしまった)
代わりに私は辛い作業を軽くする提案をするために相方の作業を見る。(ルンバを買おう、食洗機導入しよう、弁当のおかずは1週間分作り置きしてしまえば朝詰めるだけになるよ、などなど)
…他所から見れば、私はたいそう嫌われ者に写り、吊し上げるだろう。
実際、私自身は私の評価が低い。なんでいまだに相方が結婚したままでいてくれるのかわからない。
もしかしたら、愛などはとっくにかすれているのかもしれないが、慈悲深い相方のことだ。
相方無くしては私は生きられないだろう、と哀愁の眼差しで私といてくれているのかもしれない。
熟年離婚やなんか路線かこれは、と普段から考えながら、 私は少しでも家事をしようとチラッと掃除機をかけたり、食器を洗ったりするのだった。
今日は天気がいいから洗濯も回してやったぞ。 干すのは面倒だから乾燥機だが。
子供が1歳で入った保育園は小規模事業なので3歳で卒園。このタイミングでの保活に失敗し、認可外園になった。
ところが子の持病が見つかったとたん2度も診断書提出させたあげく言葉を尽くして退園させられた。
認可外なのだから仕方がない。次の園が見つかるまでうちの子だけ遠出の外出をさせずに留守番させたのも仕方がないだろう。
ただ、退園を通告した園長はわたしがすんなり受け入れたと見たとたん「将来きっと今の状況も笑い話になりますよ」などとすぐに他人事の過去の良い話にまとめ上げようとしたことは覚えておく。
それでは認可園に転園しようと区役所に行ったら区の独自フォーマットの診断書を提出させるくせに、希望園は自分で探すルールだということで、普通の保活と同じ手順を踏むことになった。「やはりご自分で見て希望を決めていただかないと」ともっともらしいことを言って看護師勤務の園がどこかも教えてくれない。
そこで親がかたっぱしから10以上の園に電話して全ての園に1から持病の説明する。そして見学や面接もすることになる。そのうえで大抵「体制が整っていない」と丁重に断られるんだが、いくつかの園からは「おたくが入れるかどうかはこちらが決めることじゃない」とか言われるは新鮮だった。ほんとですよねー区が決めてくれたらお互い楽なのにねー。こういう園はつまり看護師が勤務しているということだろう。体制整ってると強い。
病気の説明が悪いのだろうかと思って持病を説明するサイトをぐぐると「この病気の子の親は過保護になりがち。健常な子と同じように集団保育させましょう」的に書かれてる。そりゃ過保護にはなるでしょうよ。この状況で子の教育のためだけに保育園や幼稚園に入れる鋼メンタルな親はいねーよ。
主治医は「まあ保育園は義務教育ではないから・・・」と言いながら度重なる診断書の要求には全部応じてくれた。内容はいつも「集団生活に支障はありません」というもの。うちと同じ思いをしているたくさんの子を見ているのだろう。
横浜市の子供の医療費がタダなのもありがたい。今までかかったのは入院時の付き添いベッドレンタル代と診断書3通の代金だけ。わたしの年収が百万単位で上がらない限り、今後何年も毎日飲む薬代を含めずっとタダなのだ。
そんな主治医や医療制度に感謝して、不平不満を言わない主義を貫いていたら、結果的には「うちが決めることじゃない」と言い放った園に普通に通ってるよwww区が決めたんだから仕方ないよねwwwww1歳の時も3歳の時も普通の保活では入れなかった超絶近所の認可園に決まったのでほんとラッキーだわwwwwそういえば認可園って保育料タダなんだなwwwwww
女として産まれて、女を愛して生きてきた。
同性を友達以上恋人未満に持ち込むのが抜群に上手いというのが私の持つ唯一の才能で、人並みに振られたり傷ついたりしながらも女だからという理由で拒絶されたことがない。そんな環境を当たり前に享受して感謝すらしないくらいに、当たり前のように女同士で恋愛をしてきた。
男と付き合おうと思ったこともある。私がノンケの女と付き合うように、私と付き合う男もいつか現れるかもしれない。そんなふうに考えてデートしてみても、口説くならここじゃないだろとか今押せば流れでセックスに持ち込めたのにとか、余計なことを考えてしまう。イケメンだろうが金持ちだろうが気が合おうがダメだった。どれだけ打ち解けても、信頼しても、肌が触れ合っても、恋愛感情も性的感情も持てなかった。そういうことを何度か繰り返して、どうやら私の恋愛感情はイコールで、自分の子供を産んでほしいと思うかどうかだと悟った。
好きなタイプは色白で一重の骨格ウェーブ。余程相性が悪くなければ、性格はそう重視しない。いわゆるメンヘラも愛せるし、他人の陰口で盛り上がる女の子の意地悪な目付きも可愛い。自分の子供を産んでほしいと本能的に思える女を愛し、自分のものにすることに達成感を覚える。欲しがるものはなんだって買い与えてやりたいし、こんなのはじめて、と言われることに喜びを感じる。元カノたちや近しい友達に男っぽい恋愛観だと言われるたびに、男に産まれた方が楽しかっただろうに、と思う。かと言って男になりたいわけでもないし、女をやめたいと思ったこともない。
セクシャリティ以外の場所でも女という理由での不利益を被ったことがない。痴漢にあったことは数回あるが、今まで生きてきた24年を振り返ってもそれくらいしか出てこない。ゴリゴリの男社会と呼ばれる業界に就職したが、誰も私を女扱いしてこないし、結婚がどうとか彼氏がどうとか、そういうことも聞いてこない。企画会議でも女性ならではの意見は求められないし、お茶出しに使われたこともない。同僚の女たちはそういうふうに扱われることに不満を覚えているようだが、私はどこか羨ましいとすら感じている。GUやsnidelで購入した在り来りな服を着て、髪を鎖骨辺りで切りそろえて緩く巻き、カミングアウトすることもなく生きているのに。誰かにとっては理想郷なのかもしれないが、私はどこか、世界に置いていかれているような疎外感をずっと抱えている。
こういうモヤモヤした気持ちを明確に言語化したのは、LGBTコミュニティというものに触れたからだ。そこで私の疎外感ははっきりと輪郭を持ってしまった。
中学時代の後輩に誘われて新宿二丁目のレズビアンバーに行ったときのことだ。
いわゆるリアルの友達とそういった場所に来たことをバーのママやお客さんは羨ましいと言い、元カノなのかと聞かれた。私も後輩も女が好きだがそういった関係になったことはないと伝えると、学生時代にカミングアウトできる環境にいたことは恵まれていると教えてくれた。学生時代、私は別に公にカミングアウトしていたわけではない。後輩も然りだ。お互いがストレートでないことをいつ知ったのかも覚えてない。思春期に悩みを打ち明ける相手がいたことが羨ましいとも言われたが、私は後輩に好きな女をどこに連れていこうとかプレゼントはなにがいいだろうとか、そういう当たり前の恋愛相談しかしたことがない。
客のひとりがレズビアン用マッチングアプリで出会った彼女と来週はじめて会うというような話をしはじめて、周りがレズビアンの恋愛はネットが基本だということ前提で恋愛相談に乗り出したあたりから、私はもうついていけなくなってしまった。そういうアプリがあることすら知らなかったし、かつてTwitterで出会った人と付き合ったときもごく普通に、オフ会のあと家に泊めてセックスしたというだけの馴れ初めだった。会ったことない同性と付き合うという文化は、私には奇妙に思えた。思春期に自分のセクシャリティで悩むという経験を、私はしたことがない。女が好きだから女と付き合う。ただそれだけを繰り返して大人になった。振られたことも何度かあるが、私が女であることと相手にとって私が恋愛対象でないことは関係ない。私が男に産まれていたって、きっと私を振る女はいただろう。孫の顔を親に見せられないと嘆くパターンもあるようだが、親のために生きてるわけじゃねぇし、と思ってしまう。
抑圧されるマイノリティの葛藤が共通言語のあの場所で、私は圧倒的マイノリティだった。悪い言い方をすれば少数派同士傷を舐め合うようなあのコミュニティが、私には合わなかったのだ。マイノリティがマジョリティの世界で浮いてしまった。
それから私はしばしばTwitterでLGBT系のタグを閲覧するようになったが、そこでもやはりリアルではなくTwitterで出会って付き合う文化が根付いているし、カミングアウトできないことやリアルの女と付き合えないことへの葛藤が渦巻いている。多くはセクシャルマイノリティであることを後ろめたく思い、恋人がいないことを嘆いているようだ。
彼女たちには、そういう生き方を選ばずにいられないような環境があるのだろう。私自身差別を受けたことはないと言いながら公にカミングアウトしないのはわざわざ言うまでもないことであり、付き合ってほしいわけでもない人にそんなことを言って無用な誤解を受けたくないという気持ちもあるので、全く理解できない訳ではない。それでもやはり私は、このマイノリティの世界の中でも疎外感を感じている。SNSで声を上げセクシャルマイノリティへの差別と戦おうとする人々を見ると、私は一体なんだろうと思う。女体を性的に消費し、めちゃくちゃに種をつけて孕ませてやりたいと思いながら、それが叶わないことになんの不満も抱かない。孕ませたいと思うのは性癖の話であって、実際に子育てすることを考えるとゾッとする。いっそ真剣に性同一性障害であれば、私は私を理解出来る。女の身体に産まれたけど心は男だから、好きな女を自分のものにしたいし、女同士で恋愛をするレズビアンにも馴染めない。しかし実際そうではないのだ。私は私の身体について、ピルとかゴムとか関係なく確実に避妊できてラッキーとしか思っていない。
一方で、男にアプローチされると心のどこかで「うわっホモじゃん気持ち悪」とも思うのだ。当事者だからと言ってLGBTに理解があるとは限らないし、差別をしないということは、差別心を持たないということではない。気持ち悪いと思うのは仕方の無いことであり、感情は個人の自由であると思う。自分のなかの差別心と向き合って理解し、表に出さない。むやみに干渉しない。自分の感情で他人を傷つけない。それが真の寛容であると思う。それはともかく、どうやら私は恋愛史上において、自分を男として認識しているらしいのだ。そうでなければ自分に好意を抱く男性に「うわっホモじゃん」とは思わない。
女として生き、女を愛し、自分にも他人にも女として扱われず、かと言って男になりたいわけでもない。私は一体なんなんだろう。中性という性もあるようだが、私は能動的に中性になりたいわけではない。そもそも中性ではないと思う。可愛い服を着て化粧をしたいし、美人だと思われたい。それと同時に、色白で一重で尻のデカい女をめちゃくちゃにしてたくさん孕ませたい。15人くらい嫁がほしい。一緒に二丁目に行った後輩には、男女の前に雄なんだよなぁと言われた。それは少しわかる。女であると同時に雄なのだ。恋愛面を抜きにしても、テストステロンの塊みたいな性格をしている。それでも私の身体は女だし、女が好きだし、それで支障ない。
マイノリティであることはつらいことかもしらないが、マイノリティのなかでさらにマイノリティであることもつらい。世界で自分がひとりぼっちみたいな気持ちになる。自分が新種で、図鑑にも登録されていなくて、自分の存在を誰も知らない。そんなふうな気持ちになる。
誰か教えてくれ、私の性別はなんだ。私はどう生きればいい。この苦しみを、誰となら分かち合えるんだ。