はてなキーワード: マイノリティとは
https://gendai.media/articles/-/74450
この記事、納得出来る部分もあるんだけど、外見で値踏みされるのって男よりも圧倒的に女の方だよ?
女はずーっと前からそういう扱いを受けてきた。男は度胸、女は愛嬌っていう。女と似たような扱い(でも女に比べたらまだ全然甘い)を男も受けるようになったら突然ピーピー喚きだしてるって印象が強い。
まあ白饅頭って時点で論外ではある。
こことか特に。
『生身の人間に対してだけではなくて、近年では、自分が相容れないフィクションの登場人物や表現などに対しても、「加害である」とか「差別である」というロジックで排除を唱える人が一部にいます。それはしばしば「政治的正しさ」という文脈で語られるわけですが、実際には理論的な裏付けや、何が差別なのか、何が加害なのかといった根拠を明確にして反発している人よりも、「不快になった」という感情に、後からそれらしい理屈をつけて怒る人の方がはるかに多い。』
『その上マイノリティとして認定されることもない中高年男性などは、苦境に陥っていてもなかなか苦しみを理解してもらえないということになりかねませんし、事実としてそうなりつつあります。』とかさ、
なんで中年男性に限定するんだろうね。そんなの、女も若い男性もそうだっつーの。この間も22歳の男性が発達障害と診断されて自殺したのが話題になったのに。
寧ろ中年男性は十分苦しみを理解されてるだろ。女性に非正規労働者が多くても当たり前だとして話題にしなかったのにちょっと男性に非正規労働が増えたら突然社会問題として取り沙汰されるようになり、若い人や女性の自殺が増えたって報道がされただけで中年男性の方がーって大騒ぎされてるし。
オフ会で会った港区出身現住、三十代後半白いニットのふわふわ女。
ボランティアが趣味でガキが二人いて、洒落たレストランでメシを食うのが好きらしい。
あと『困ってる人へアドバイスした素敵なあたし♡』の感情の公然猥褻オナニーも趣味。
私は田舎出身、関東現住、二十代前半の独身女である。趣味は書道・読書、特技はメシ作り。好きなおかずは機械姦モノである。
家族が大好きで笑顔を見たくて美味しいものや便利なもの(お金)をプレゼントするのも好きだった(義務だった)。
母親はうつ病でよく自殺未遂する。気を引くのが趣味。座右の銘は『一緒に死のうね』。父親はアル中で趣味は子ども虐めること、5ちゃんねる。
私が子どもの時は給食費も学費もほぼ払わず、服は両親がゴミ捨て場から拾ってきた服を着ていた。
今思うとお手本のような毒親だった。
大人になってからは下宿して働いていたけれど、時々4人家族集まってなごむ実家が好きだった。暴言を吐かれても好きでいたかった。
それでも親から包丁・弟から鉄バットを向けられると家族愛より死の恐怖が勝ってしまう。
両親への仕送りを止めることを伝えると以下の書類を要求された。
ロクでもない奴が両親だったむなしさを知った。
こんなちょっぴりナーバスな時、元々約束があったオフ会で港区ババアに軽すぎるアドバイスされるとさすがにイラついてしまった。しばらく服を新調していなかったので身なりの隙があったのもしれないけれど。
ただ生まれた時から地位も余裕も普通の家族を持っている人たちとの差に絶望していても人生は止まらない。私がうつ状態だろうが解離で記憶がぶっとびがちだろうと楽に死ねないのだから生きていくしかない。抗うつ薬が仕事のパートナーになった。
生活力が低いことに気付いたので、まともな料理の仕方・片付け・都会での身の振り方を勉強した。YouTubeのおかげで当たり前が勉強しやすくてラッキーだった。節約につながった。
上京して一年働いて百万貯金した。生活保護をすすめられた女でもなんとでもなれた。正社員のキャリアも続けられた。
経済的な不安も少なくなり、自信も取り戻しつつあった。それでも港区ゆるふわババアの一言が忘れられなかった。
たった五分話しただけ、失礼でどうでもいいはずの奴への憎しみが頭から離れなかった。
今はどうでもいいはずの怒りをどうにかしたくて虐待支援員養成講座を申し込んで支援側の勉強をした。
この勉強は大正解だった。私はあの一言にどうしてひどく傷つけられたように思えたか理屈で理解できた。
支援者と相談者の立場に差があるから、気をつけて話を聞いたり、話をしましょうということだ。
港区女と私は支援者と相談者ではなかったが、裕福で都会出身で家族がいるマジョリティで成功者からの言葉は、貧しく田舎出身の孤独なマイノリティに刺さった。勝ち組負け組、意識しないようにしていても勝ち組から言われたことは正しいように無意識で感じてしまった。
彼女が何を考えていたのかは知らない。でも勝ち組の彼女から一言がつらかった。私は何もできず、恥ずかしい生き物だと烙印を押されたようでつらかったと自分の本当の感情を認められたら怒りは消えた。
貯金もあり余裕ができてきた今、友達とバーで飲んだり、お高めのデザインが良いトレーニングウェアを買ったりと人生の楽しさを噛み締めている。
普通の人から見ればキャリアも生活も足りないように私は見えるのだろうなと思う時もある。自分の常識知らずなことな欠点がイヤで夜に発狂することもある。
港区の彼女を考える。SNSの投稿と五分話しただけでは彼女のことは全くわからない。どんな性格なのか、どんなことが好きなのか。分からない。
聞きたくないことを聞かないし
ただ生きていくのだろうなと雨を見ながら思う。
私が彼女を知りたいと思うことはもうない。
はてなブックマークやTwitterなどで、「中立」「客観」と言った態度について批判的に論じるものをたびたび見かける。特に、差別や政治など、権力闘争の類で非対称性が存在するときによく使われるイメージがある。それらについて私なりに論点を整理してまとめ、コメントしようと思う。これらの論に親和的な人も、逆に批判的な人も読んでほしい。
まず、当たり前の話なのだが、何かを批判するときは通常複数の論点から批判できる。
例えば、社会民主主義は新自由主義の立場からすれば「市場が政府権力によってゆがめられ、効率的な資源分配が出来ない上に政府権力が不健全に増大する」と批判できるし、共産主義の立場からすれば「結局彼らは資本主義や自由市場と言った搾取を『多少マシ』にしている程度であって、本質的解決には役に立っていない。どころか、革命に向かう人々を減らすという点で有害ですらある」と批判できる。
これを見て、もし社民主義者の人が「アンチ社民主義者は矛盾している。市場原理主義みたいなことを言いながら、資本主義を否定している。彼らは矛盾している」と言うのがおかしいというのは分かるはずだ。あるいは、「新自由主義者は社民主義を批判している。これは共産主義者と同じだ。よって新自由主義者は共産主義者なんだ」もおかしいとわかるだろう。
インターネットではそれぞれの発言と発言主が結びつかず、なんとなく「自分の考えを非難する人」を全部同じカテゴリに放り込む処理をしてしまいがちだ。(なお、話をややこしくするのは本当に矛盾した意見を言うやつも一定数存在することだ)
そんなわけで、いわゆる「中立」「客観」批判者は皆「お気持ち」(ここでは、自分の快不快の問題をシームレスに社会的な問題につなげて、自分の感情に社会が従うべきだ的な発想を持っている人)の人たちだ、という雑な世界観を持っている人も多いが、ここで「中立」「客観」批判の理屈に触れて、「なるほど、こいつらはこういう理由でそういっているんだな。(自分は賛同できないにしても)まあ理屈は分かるな」と思ってくれれば幸いである。
これは厳密には『中立』『客観』を否定していない。どころか、不徹底な『中立』『客観』を批判し、本物の『中立』『客観』を目指そうとする方向性も見受けられる。
実際問題、はてなやTwitterでは、『中立』『客観』(それからこれと似ている『是々非々』など)を「右」と「左」(あるいは任意の対立する二大勢力)のどちらも全肯定/全否定しないことだと思っている感じがする人が複数見受けられる。まあ確かに、「右」のいう事を全肯定/全否定、とか、「左」のいう事を全肯定/全否定すると最初から決めてかかるのは紛れもなく党派的な姿勢であり、中立的でも客観的でもない。しかし、そもそも「右」がどうとか「左」がどうとか党派性を意識し、この二者のいう事には従わないぞ!みたいに決めてかかっているのは、全く同じではなかろうか。ようは、「中道」という第三の党派に過ぎない。そうではなく、中立や客観というものに自分は完璧に到達できないのだという事を自覚し、他人が中立的であるか客観的であるかは究極的にはジャッジできない(もちろん明らかにこいつ主観的に過ぎるやろみたいな人はいるけど、そう思っている私の方がおかしい可能性は否定できない)という事を踏まえなければ、「中立」「客観」という言葉は単なる党派性の御旗にしかならない。
これは実のところ、「正義の暴走」論とよく似ている話だ。正義の暴走を非難する人は正義が嫌いなのではなく(まあそういう人もいるが)正義のために正義の暴走は抑止した方がいいという話をしている。正義の暴走とは、やっている本人たちが勝手に正義と思っているだけで、実際には悪である、というロジックだ。同じように、「中立」「客観」の濫用を非難する人が「中立」「客観」を否定していないのも当たり前の話だ。彼らが否定しているのは「中立」「客観」を装った「党派性」「主観」だからだ。(面白いのが、「正義の暴走」論を持ち出す人の多くは「中立」「客観」の濫用の問題を考えず、「中立」「客観」を批判する人は「正義の暴走」論を持ち出されると不満を表出することが多い事である。両者はほぼ同じことを言っているのだが)
まあ、つまりこの批判は「お前は自分が客観的と思ってるかもしれないけど本当は違う(かも)しれないぞ!」というものである。個人に向けるときは喧嘩する気がなければ使わない方がいいとは思うが、一般論としては(特にわたしのような『中立』『客観』が大好きな人間ほど)よく頭に刻んでおいた方がいいと思う。
こちらは、『中立』『客観』的な態度を、ある一分野のみについてとはいえ明確に否定している(と私は思う)ので、論点①とは様子が違う。
まあ言っている事は正直分からなくもない。この手の人たちが良く比喩として使うように、「足で踏んでいる人と踏まれている人」の間で『中立』『客観』的な議論を成立させろ、というのは無茶である。差別されている人と、その差別をたとえ直接はしてはいなくても差別によって得られる利益を(その自覚なしに)享受している人の関係は、「足で踏んでいる人と踏まれている人」のそれよりはるかに複雑で見えづらいものがあるが、似たような関係性であるという事は、その是非は別として、可能ではあると思う。なので、倫理的な個人が差別問題について論じるときはその辺に気を付けて論じてもよい、論じた方が好ましいくらいのことは私も思う。
しかし、この考えを強い規範として言論空間に導入することに対しては私は警戒心を抱く。
「誰が加害者か」「誰が被害者か」「どこからどこまでが『差別問題』か」「どんな事実を適示すればそれが『被害者非難をあおっている』と言えるか」
これらをみんなが納得いくように定めるのは非常に難しい。間違った基準を定めてしまえば、例えば本来「被害者」である人たちを「加害者」として力づくで非難する事や、本来「加害者」である人たちの罪悪を「被害者」として覆い隠すこともありうる。「被害者」「加害者」の推定が正しかろうと、「被害者非難をあおっていると言える事実」と認定されたものがもし違えば、その事実は公論上での扱いが不当に小さくなりかねない。差別発言自体は言論の自由で守る価値はまったくないのだが、論点②の批判が拡大すると差別発言以外も巻き添えになるリスクがとんでもなく大きくなりそうである。そもそも一国の言論空間なんて政治勢力も右から左からワラワラ湧いてくる場所なんだから、うかつに基準を厳しくしたら、その基準が「万人」でも「マイノリティ」でもなく「特定の政治権力」の都合の良いようになってしまう可能性もある。一方で、剥き出しの、それこそ差別主義者やデマもなんでもござれの「言論の自由」が良いとも思えないし、「中立」を装って攻撃を誘発する人たちを何とかしたいという気持ちはあるので複雑なところである。
(ちなみに、個人としてこの観点から批判すること自体はどんどんやったらいい。問題なのはこの考えが強い規範になることである)
①②は曲がりなりにも論として成立しているが、③は論外である。これこそが「お気持ち」である。
これについて論じることは特にない。まあしいて言うならば、「個人的な感情の表明」自体は何ら悪ではないという事は付け加えておきたい。こういう風に、自分の感情だけで他人を思うままに動かす権利が自分にあると思っている人をまともに相手する必要がないというだけである。
①②③それぞれ、言う層が全然違ってくるということがイメージできるだろうか。
①は、左右問わずおそらくそれなりに頭のいい人、論理的な思考が好きな人が言うと思う。(ただし、論理的な思考が好きな人は左に行きやすいので、左が多い気はする)
②は、明確に左の中でも主張が強めの人が言うだろう。(なお、加害者と被害者の構造を、中国と日本あたりにすれば、右の主張強めの人たちも似たようなことを言っている)ここで重要なのは、彼らの主張は我々と大きく違うが、別に彼らは頭がいいわけでも悪いわけでもない。どちらかと言えば頭のいい人が多いと思う。
③の人は、多分単純に頭が悪い。左にも右にも真ん中にもこういう馬鹿は沢山いる。ただし、バカの中でもわざわざ自分はバカですとアピールしたがるインセンティブが強いのは右左の中でも過激な人たちだろう。
「お気持ちサヨクはバカ」みたいなことを言う人たちは、多分①②の理屈で「中立」「客観」を批判している人に左翼が多いという事と、③の人たちにバカが多い事を混同して、左翼=お気持ち=バカみたいな図式を作り上げているのではないかと思う。あと、「お気持ちサヨクはバカ」と言った同じ口で「リベラル(おそらくこの人はリベラルとサヨクをほぼ同義として使っているはず)は啓蒙思想を押し付けている」みたいなことを言っている人もいた。確かに②は啓蒙思想押し付けのダメな部分全開という感じで、③はバカである。たぶん構造としては②が③の人たちを率いて暴れまわっているという感じではなかろうか。まあそんな感じで、「中立」「客観」大好きな人たちも、③は論外として①②の理屈は普通にそれなりに通っているっていうことをちゃんと意識しよう。(まあ意識できてる人もいるだろうけど)
日本だけの話かな…
アメリカなんかじゃフェミに限らずポリコレ活動全般が「沈黙は共犯」とか言って敵味方分かれて壮絶な源平合戦を展開してるが
すごい本場のマルキシズムを感じる
基本は「闘争」「反体制」「暴力主義」ってことでいいと思いますよ。
沖縄の米軍基地で何やら暴力をふるったとか振るわなかったとか話題になっている。
沖縄の米軍基地だとか、今のフェミニストだとか、その辺でリーダーシップをとっている人たちを調べるとおそらくだが、直接に果敢説にかは知らないがマルキシズムの影響を受けていると思う。
フェミニズムでいうところの上野千鶴子はWiki見れば一発でわかる。
マルキシズムを雑に言うならばこんな感じだ。
世界は労働者(プロレタリアート)が資本家(ブルジョワジー)から搾取され抑圧されている
プロレタリアートはそんなブルジョワジーに対して不満を蓄積し続けている
プロレタリアートたちの不満が一定レベルを超えると世界中で労働者による暴力革命が起きる
世界はそんな簡単な構図じゃないし、労働者ならだれもが不満を持っているかといえばそうでもないし、そもそも不満が一定レベルを超えたら革命を起こす前に転職を考えるという点でこの思想はあまりにも現実を無視しているものになるのだが、「お前もそうだろ!?なぁ!?違う!?じゃぁ死刑な!」ってなった国がかつてあったことも記憶に新しい。
とはいえいまだにマルキシズムそのものをダイレクトに信じている人はいるとはいえ表舞台からは姿を消して今もどこかで人知れずぐつぐつと煮えこまれているんだが、このマルキシズムの流れを汲んだ、もしくはその思想の影響下にある思想というのはたくさんあり、そのどれもが以下のような特徴を備えている。
抑圧された被害者としての自分たちと犯人であるほか全部という雑なグルーピング
自分たちを守るため・敵を攻撃するためならどんなめちゃくちゃな論理でも立ててくる
問題提起から解決までに期待される時間が異常に短いか何ならマイナスになるくらいに急進的
フェミニズムというのは本来的に言えばマルキシズムとは全く合わない思想だ。なぜなら、弱い女性を守る名目とはいえ社会から排除されてきた女性が男性と手を取り合って一緒に仲良く協力して社会を作ろう、というものだからだ。敵対関係でもないし、暴力革命も起こらない。
だが、マルキストたちのフィルターを通過したことでフェミニズムは日本では異様な変質を遂げている。
私はこういった変質そのものについては歓迎されるものとも考えている。なぜなら新たな視点や論点を持ち込むチャンスでもあるからだ。
だが、それはオリジナルも等しく持ち込まれており比較できれば、という条件が付く。
マルキストたちは情報統制でもしているのかはわからないが、諸外国は「自分たちのフェミニズムが達成された楽園」であり、日本は「いまだに男が女を抑圧し続けている地獄のような世界」という筋機でしかものを見ない。
暴力革命をそのコンセプトに置いているマルキシズムは、結局「革命を達成するためなら何でもあり」というように考えている。そりゃそうだ、何なら資本家を皆殺しにする勢いの思想名だし、それは労働者の楽園を作るために必要な「正義の行動」だからその行動に制約を貸す必要もないしブレーキをかける必要もない、ひたすらアクセルを下手踏みにして何の問題もない。正義だからな。
私はマルキストたちはこうやっていろいろな思想を改変しては日本に導入して次の飯の種をせっせと育てていると思っているのはこういう理由だからだ。
マルキストたちは一体いつになったら暴力を否定するのだろうか。
くちでは暴力はだめだよねと言いながら行動で暴力をふるい続けていることに気付いている人たちもいるだろうが、それは彼らにとっては自分たちの暴力はきれいな暴力だから許容されるべきという内部ルールで勝手に納得しているからあのようなことも矛盾を感じずにやることができる。
しかし暴力を肯定している限り味方は増えないだろうし、社会に受け入れられるかといえば受け入れられない。
本当に差別問題とか解決したいんだったら、暴力革命じゃダメだろうと俺は思うので、早く自分たちがマルキストであることを認めて、暴力革命を否定し、言動も行動も変革したほうがいい、今の資本主義者たちの様に。
何も分かってないな
暴力革命をすべきと言ってるんじゃなくて、必然的に暴力革命が起こるっていう客観的な分析を行ってるんだわ
歴史見れば明らかだろ
民主主義革命も暴力、明治維新も暴力、そうやって暴力による革命が起こって、新しい社会体制ができたってだけだ
資本主義が何故、そうなるかって、資本主義が今までの階級社会と本質は何も変わってなくて、労働者の搾取で成り立ってるからなんだわ
しかも、その構造が複雑で一見、搾取が起こってない平等な社会のように見えるんだわ
AIが完全に生産を担った時どうなるか?人の仕事は無くなるだろう
そうなった時に資本を独占してる企業や資本家が全ての生殺与奪権を手に入れる
そうなった時にもはや私有財産などとは言っていられないだろう
全ての人が生きるだけの資源が生み出せるのに、それを一部のものが私有財産権の元に独占する事に必要性がないわけだ
だからその資本を共有財産とするための革命が起こるとこう言ってるわけだ
それなのに、何を今の共産国家を作った奴らは勘違いしたのか、暴力革命を起こせばそのような社会が早く訪れると勘違いしたのか、はたまたその理屈を自分が権力を手に入れるために利用したのか
資本主義はその構造上、搾取が起こり、寡占独占が進むように出来てるんだわ
だから、その資本主義の構造を分析してるから資本論と言ってるわけで、そもそも資本主義と言われ出したのはマルクスがこのように今の社会を分析する上で理解すべきなのは資本だと名付けたからなわけで
こうやって、不満持ってる奴が変わるべきなんだから、お前らの自己責任なんだからってやるほど暴力的な革命に近づくんだわ
穏便に社会が変革するようにしたいなら、不満を解消すべきなんだわ
言ってる事が独裁者と同じなんだわ
自民党もどうせこんな考えなんだから、無敵の人は増え続けるやろな
貨幣ってのが資本主義の構造を隠す役割を担ってるわけで、金融の構造を見てると経済学で言われてる事と全然違うぞって、ウォーレン・モズラーが気づいたところから始まってるんだよな
政府に予算的な制約がないのなら、失業者は全員雇えるってところが重要なのに
実物的な制約はあるわけで、その実物の生産を担ってる労働者を保護しろってのを無視して、金刷って景気良くなればみんなハッピー理論だと勘違いしてるんだよな
日本だけの話かな…
アメリカなんかじゃフェミに限らずポリコレ活動全般が「沈黙は共犯」とか言って敵味方分かれて壮絶な源平合戦を展開してるが
すごい本場のマルキシズムを感じる
日本の沖縄左翼活動なんかも凄く親米的で、本場アメリカのポリコレ活動のロジックをよく理解して実践してる
マルキシズムは、当時はそもそもそんなものなかったから仕方がないが、労働者の権利が適切に守られないという状況を前提にしているので、労働者の権利を適切に守れるように日々改善を続ける今の社会には合わない、という欠点がある。
いまだにマルキシズムやってる人たちが永遠に労働者の権利を守れと大騒ぎする理由はよほどわけもわからず盲従しているんじゃなければ労働者の権利が適切に守られてしまったらマルキシズムは成立しなくなるということでもあるだろう。そして多くの人々は権利は適切に守られていると感じているから彼らの言うことがちっともわからないということでもある。
おそらくマルクスが看破したことの中で真理が一つあるなら「資本家はルールの中で最大限搾取をする」という事であり、裏を返せば「ルールがなければ無限に搾取する」ということでもある。
日本では企業有利な制度が敷かれているためほかの国よりもより搾取がしやすく、またそれを実行している社会でもある。企業は自分たちに有利な制度がある限りはそれを最大限活用し続けることからもマルクスの見抜いたであろうことは正しいと思っている。Youtube何かでは「経営者がいかに税金を払わないか教えます!」といって制度の活用方法を堂々と指南しているが、堂々と言えてしまうくらい「当然のこと」と認識しているのだろう。あれらの話が本当に適法かどうかはわからないし、みんながやりだしたらあっという間にふさがれるからいうメリットはないが、いうということは何かあると考えたほうがいい。
仮に制度ではお前が稼いだ金の80%まで搾り取っていいことになっているが、そんな搾取は嫌だから65%にします!なんていう商売人がいたら彼らの世界では失格の烙印を押されるだろう。株主の利益をわざわざ減らす行為でもあるから、多分速攻で解任されると思う。もしくはそのほうが搾取効率が上がるからやっているのかもしれない。
マルキシズムを勉強したっぽい人がレスをつけているが、この手のことを考えるためには、その時の社会情勢も併せて考えなくてはならない。
労働法制がきちんとできていないというか資本家が制度上野放しになっていた状況で資本家たちはいくら搾取しても違法にならなかったからいくらでも搾取をしたという大前提を抜きにして今の世の中でルサンチマンがとかアウフヘーベンがとか子揚がとか、暴力革命がとか言ったところで「今の時代には合わない」の一言で終わってしまう。なぜなら法制度によって資本家たちが無限に搾取できないようにしているからだ。
ただ、日本がかつて中国に工場を移転させたように、制度上問題ないなら自分たちの利益が最大化するように動くという性質は変わらないだろうが、それによって人々が被る不利益を労働者による搾取だと大騒ぎするならそれもまた見当違いだ。
だけどマルキシズムに夢を見た人たちはいまだにいつか起こる暴力革命を夢見て(というか今まさに自分たちがやっている気分になって)暴力をふるいまくっているという現実はどう考えても問題だし、そんな状態ではいくら言っても誰も納得しないし受け入れないだろう。
そしてマルキシズムの世界観を持つ上野千鶴子みたいな人がフェミニズムを魔改造して導入したせいでフェミニズムもおかしくなっているが、その裏にあるのはやはりマルキシズムがコンセプトにしている暴力や革命だと思っている。だからこういう暴力的なことを否定してきちんと自分たちの思想を再構築せよといった。
労働法制が出来上がり、人々が労働者の権利について発言しても何の問題もない社会なら暴力革命は起きない、というか起こすほどに不満をため込んだ労働者が少数になるから起こしようもない。
マルクスが言っていた社会というのは実は簡単に成立しない状態にできてしまうし、それを受け入れられない一部の狂信者たちが今日もそこいらじゅうに呪いをかけまくっているみっともない状態になるだけのものでしかなかった。
王政よりマシだし、他に代案がないという点で。
とはいえニワカリベラルさんたちは、「その意見は民主主義を否定している」とか、考えすぎ。
悪いことがあったらそれを「民主主義の破綻」「民主主義の崩壊」のせいだとか、言い過ぎ。
民主主義ってのは基本的に欠点だらけの、悲劇と非効率しか生まない制度であって
汚職が起きたり、
民意が実際に反映されなかったりするのは、
「一番うまくやってもこういう悪い結果になるである」と最初から予想されている制度を回しているが故の、
完璧に狙い通りの結果に過ぎない。
やつらはさ、
「こうすれば民主主義良くなるんじゃね?」っていう仮設、提案、空想の類を
どういう訳か、正解、だと思ってるんだよな。
民主主義を良くしようと努力するのは、そりゃあ過去の有力な仮説の元でやればいいけど
上手くいかなかったから実務者を正義の名の元怒るってのは、全く検討外れだ。
TPOというのは元々ファッション用語であって、その概念を持ち出すならば「文化的営みの自由」のレイヤーで議論しなければならない。
しかし、
という事例を持ち出すということは、(それ自体に侮辱の意図がないことは理解出来るとは言え、)「性的営みの自由」または「政治的営みの自由」のレイヤーの議論にすり替わってしまっている点には注目する必要がある。
TPOとは例えば、「見せパンも休日のファッションとしては自由にすればいいけど、会社に着てくるのは空気読めてないよね」というような議論でなければならないはずなのに、いつの間にか「恋人とセックスするのもプライベートでは自由でいいけど、往来でやったら露出狂だよね」という話にすり替わってしまっている。猥褻物陳列は犯罪行為であり、もはや「TPO」の話ではないのに、これに反論すると「TPOが守れない人」というレッテルを貼るのは卑怯だと思う。
いや、これは卑怯というよりも、単に人々が「TPO」という概念をそもそも誤解しているのかもしれない。だとすれば、「これは性的営みではなく、文化的営みあるいは政治的営みだ」という異なる反論が必要になる。「マジョリティとは異なる文化圏が存在する」ことに理解と敬意を求めなければならなくなる。
何にせよ、このような粗雑な議論から始められてしまうと、反論する側も複数の全く異なる論点を同時に進めるという難しい対応を迫られてしまう。このように言語化の労力を押し付けられてしまうと、必ずマイノリティ側が不利になる。
また、例えばコラボとして行政や公共、社会に参画することにはアファーマティブアクションとしての側面があることも無視してはいけない。
これまで世論が空想性愛者およびそれに類する人々を不当に弾圧してきた歴史を反省するならば、多少のはみ出しに対して、「批判の自由」の名のもとに思い付きの言葉で口汚く罵るようなことは厳に慎まなければならない。何らかの批判があるならば、まずマイノリティに対する敬意と聞く耳を持って、丁寧な論考から対話を始める必要がある。
https://murakami-haruki-times.com/jerusalemprize/
もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。
そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?
「誰にも邪魔されずこっそりエロ漫画を読む自由」という「性的営みの自由」は、対人性愛者が対人セックスを行うのと同様に守られなければいけない。
「多少なりとも性的文脈を汲んだジェンダーエクスプレッションをファッションとして楽しむ自由」という「文化的営みの自由」は、物理的身体をベースにジェンダーエクスプレッションを行う人々と同様に守られなければいけない。
「そうしたマイノリティ達が受けている差別を明らかにするために、敢えてゾーニングを破ることによって人々を挑発し、怒らせる」という「政治的営みの自由」は、あいちトリエンナーレで行われた「表現の不自由展」などと同様に守られなければいけない。
1.出演者やスタッフが白人の人間で固められていて、そのことに批判の声が上がる。
3.そのことに反発の声が上がるが、ポリコレに反しているということでかき消されるか無視される。
4.ポリコレ仕様となった映画作品は誰も見ず、興行的に失敗する。
5.ポリコレ推進者たちは「この映画を見ないのは差別だ!」と主張し始め、更に反発される。
アセクシャル(女)のTwitterアカウントを見ると漏れなく地獄で草。高確率で昔の彼氏ガーとかセクハラがーとか男ガーキイイイイイイとかやってる
いやそれアセクシャルじゃなくてただの性嫌悪やんけ・・・っていう
まぁわざわざTwitterで自分のセックスについて世界中に向けて発信しようって言うんだから、
LGBTQAに限らず、性に関する『強い怒り』or『強い喜び』が原動力になっているのは必然か
人のむちゃくちゃ多い東京に出る機会があったのでせっかくだからセクマイ交流に参加してみようかなと思ったけどなんか難しそうやな
あと人となりがわかって交流がしやすい?ってことなのかTwitterをベースにしてるの多いな
いやいや何が楽しくてTwitterで自分のセックスについて熱心に発信せなアカンねん
さっきも書いた通り、性に関する『強い怒り』or『強い喜び』があるか、ジェンダーにまつわる活動家じゃないと無理くない?
どうしてもTwitterでやるなら仕事の関係者に見せても大丈夫な『見せる様のネットの自分』を作ってそれに紐づけるかだな
最近、名刺やプロモーション代わりに見せる様のネットの自分があっても良いかなと思い始めている
けどインスタ映えみたいな事に時間を割くのって増田で無為に過ごす以上にどうなの?とも同時に思っている
増田はストレス解消や考えの整理に役立つけど、オンラインサロンみたいのでメシ食う心づもりがあるわけでもないのに
便利かどうかはわからないが、視覚的にはとりあえず新しく、手触り・操作感がいい、
見せる様の自分をゆるくげられるSNS作っても良いかなぁとぼんやり思ったり
マイノリティー向けに限定したSNS作ってもいいかなって一瞬思ったけど、昔作って運営してた時は手間ほど得るものはなかったので、
マイノリティーには限定せず、最初から人に見せていい自分でお願いする
あとメタバースな。1秒も関わってないけど見せる様ならうってつけな気はする
公共の場所でエホバの証人などという少数派宗教が勧誘するのは禁止されるべきです(棒)
公共の場所で同性愛などという性的少数者を取り扱った映画のポスターを掲示するのは禁止されるべきです(棒)
人種差別、女性蔑視など昔からアホ猿が色んな「差別」をしてきてる。なんで「差別」が起こるのか。それは「意図せざる結果」というものが関係する。
意図せざる結果=個人の行動が積み重なって想定外の大きな結果が起こること
「猿山全体の利益を高める」というのを意識的にやってなくても、猿たちの行動が巡り巡ってそうなっていったのだろう。
同じように「差別をしよう!」と思って始まったわけではないだろう。WW1の黒人排斥は労働組合が「南部出身の黒人はスト破りをする」と偏見を持ったことから始まっている。組合は自分たちを守るために黒人排斥。黒人は正規の仕事に就けず、労働不足に陥った雇用者に採用され、なんと実際にスト破りをしてしまう。結果的に「黒人はスト破りをする」という偏見が事実と判断されて、差別が始まったのだろう。
就職の女性軽視はどうか。企業は長期働く社員が欲しい。そして女性のほうが退職率が多いと統計データでわかる。すると企業利益を優先して女性を総合職より一般職に集中させ、女性軽視が起こる。つまり「女性は仕事を辞めやすい」という偏見から、差別が生まれるのだ。
つまりまともな人間が直感しているように、偏見は差別を生むことがある。
お前のことを「ゴリラ」と呼ぶとする。オレ一人が「ゴリラってクソだよな。死ねばいい」と言ったり思ったところで、お前と俺の関係はただの喧嘩相手だ。しかし、ゴリラを見てクソだと思う人が次々と増えていく。そして大半の猿から「ゴリラはクソ」と言われるようになり、そしてゴリラは低収入の人生を歩むようになったのだ。しかもゴリラはマイノリティ。
「ゴリラ」を「ハッタショ」「弱者男性」「フェミニスト」「オタク」「KKO」「田舎者」「低学歴」「高学歴」「熟女マニア」等々と読み替えても同じ論理だ、と気がつくのにかかった時間が、お前の処理能力だ。
確かにお前自身は「偏見」をちょっぴり持っているだけで、場合によってはその偏見は事実だ。
だがそういう偏見に基づいて行動する猿が増えれば増えるほど「偏見に基づいて排斥する圧力」は強まっていき、それは結果的に「差別」という形で現れるのだ。
マイノリティ憑依ってこういうことか
マイノリティ憑依ってこういうことか