はてなキーワード: じわじわとは
↓前回の記録
https://anond.hatelabo.jp/20201214012540
この正月休みに、ドライ初段から三段ぐらいまで一気に昇格したような体験をしたのでここに記します。
1月2日、以前やってみたけどうまくイケなかった催眠オナニーに再挑戦。
先日の乳首開発成功でドライの回路がさらに開いたようで、みごとにイケました。
前回失敗したときは半信半疑だったので催眠にかからなかったけど、今回は催眠音声への信頼を高めるよう自己暗示をかけながら体の緊張をゆるめ、快感がじわじわと体に流れるのを感じることができました。
上体が勝手に持ち上がり、頭がガクガク震えて脳内が真っ白に。乳首にも前立腺にもペニスにも一切触れない完璧なる脳イキ。
こんな世界があったのか!
前立腺と乳首開発済みであること、自分は真性マゾではなくドライオーガズムと脳イキを味わいたい旨を嬢に伝え、プレイ開始。
序盤の淫語責めで先の催眠オナニー時に会得した回路が開き、耳もとで淫語をささやかれるだけで何度も軽いオーガズムに達しました。
そこからは徐々に乳首を愛撫してもらい、わなわなとうめき声を漏らしながら数十秒ごとに連続オーガズム。乳首を爪でカリッと刺激されただけなのに秒単位でイッてしまいます。
乳首責めが進んだところでひと休みしたのち、ペニスの裏筋を優しくしごかれると尿道に電撃のような快楽が走り、ここでもまた連続オーガズム。亀頭の表側を刺激すると勃起から射精に向かうが、裏筋のみの刺激だとドライへの回路が開くことを嬢に教えてもらいました。
人生初の裏筋イキ。そして性感帯への刺激ナシで言葉だけで絶頂する体験を初めて味わいました。
透明ディスプレイの使い方が上手い。映像が宙に漂っているよう。
2年前のOPムービーは良かった。コロナ禍の影響で出演者は別撮りにするしかないにしてもああいう路線はできないものなのか。
番組に客観性を持たせるという意味でサブちゃんが顧問的位置に座ってるのは個人的に賛成。でもサブちゃん話してるとき加藤一二三みたいだななんか。
いきなり三連ちゃんは各スタジオのPAの調子が実際に放送してどうなのか確認したかったからか?
やっぱりはじめてことで混乱してるところがあるのかも。
いつもいい曲あてがって貰ってる。衒いがないけど耳に残ってきれいにまとまったポップス。
平野紫耀はピッチが甘い(違和感あるほどではないけど)が声質で誤魔化されてる。ハスキーボイスに細かいビブラートが混ざってくる感じが初期の森進一ぽい。
実は弱ペダに出てた人が一番上手いのではないか、コーラスパート担当だったけどうまく溶け込んでる。
メインボーカルの男の子が変声期できつそう。でも当てふりにすると空々しいだけだから歌うしかないのか。
ワイプ芸でアイドル連中が賑やかしになってた。こういう時にジャニーズは勝手がいい、だから重宝されるのか。
氷川きよしの大幅な路線変更で後釜っぽい見られ方してるんだろうな。
「肌が合う」と生々しく歌った後で「惚れたねほの字だねほっほー」とぶりっ子かますの、ファンからはどう写ってんだろう…
SMEが推してる若手実力派女性歌手ってAimer、milet、Uru辺りだと思うんだけど、なんで他2人と比べてキャリア浅いmiletなのかな?と思ってしまった。
今年のAimerは「SPARK-AGAIN」が、Uruは「あなたがいることで」が結構ヒットしたのに、miletが披露したのは去年リリースされた曲だしなあ。
AimerもUruもミステリアスなキャラでテレビ出演は慎重だし、キャリアがある分序盤の枠だと声掛けづらいとかそういう事情なのだろうか。
ただ観客がいないだだっ広いホールの真ん中でレーザーに照らされながら歌う様はMVの再現のようでなかなか見応えがあった。
オリンピックと大河/朝ドラに全フリしたような人選。しゃべりは芸人に任せてる。
今回はサブちゃんと徹子にどう相手するかが一つの課題だったのか。
南キャン山ちゃんがチコちゃんに恐々と相手してるのじわじわ笑えてくる。
審査方法は今回データ連動を利用した視聴者投票のみ、視聴時間に合わせて投票数が変わる仕組みで大泉洋も言っていたがよく考えたものだ。
アイドルオタクは推しのために興味のない演歌もちゃんと見ろということだ。
「今年は踊らないの?」って件をウッチャンがめんどくさそうにあしらってるのが一番印象に残った。
ああいう、場の勢いでやってみたら上手く行っちゃって後々ややこしくなることってままある。
今年はNiziUと坂道グループが対比される構図だったけど、振り付けとか曲そのものの難易度はそんな大差ないように見えた。ただちょっとNiziUのほうが丁寧。
秋元康の歌詞ってイケイケどんどんで人を励ますような描写が少ない。AKBや坂系に限れば「働け、進め、若くて可愛い子に惚れた」ということしか歌ってない気がする。
「イントロがあってAメロがあってBメロで溜めてサビがきて、で、それぞれ律儀にキーやリズムパターン変えてて」っつうJ-Pop特有の歌劇調のスタイルが通用しなくなってきたなと思う。「夜を駆ける」も「香水」も「Make You Happy」も実はループミュージックの構造を成していて、リズムパターンやコード進行を大きく変化させないクラブやヒップホップミュージックの方法論に従っている。ダンスが身近になったりSNSの拡散が馬鹿にならなくなった今だとそういったどこを切り取ってもさまになるスタイルがどんどん主流になりつつある。J-Popらしいコテコテの曲は「紅蓮華」のような映像作品とのタイアップか、デートの雰囲気作りにちょうどいいバラードでしかみられなくなり、そのうち今の演歌のような「中高年向け音楽」という扱いになるかもしれない。
スカートの裾を振り上げる振りは衣装が独特な造りだから出来ることで、こういう衣装の意匠と振り付けが連動していたりするのがかっこいい。
サビの「No!no!no!」の裏で被せられてるシャウトの声は誰なんだろう。いい声してる。
だんだん大泉洋に対するウッチャンの態度がやさぐれてきてるけどどうなるんだこれから。
演歌歌手でもないのに往年の代表曲歌わせられるのは陰りが見えてきたサインかもしれないんだよな…
「Ultra Music Power」歌うときの知念の声が年々伸びなくなってきてるのが切ない。
八乙女光ってEXIT兼親に似てるよね?入れ替わってもしばらく気付かれなさそう。
こういう若い女の子が集まってるグループで1人欠席があったりするとなんか不穏な気持ちになる。
SnowManは欠場。いつ誰がコロナに感染してもおかしくないからNHKのプロデューサーはこの2、3ヶ月肝を冷やしてたんだろうな。
篠原ともえには悪いけど、Perfume(ライゾマ)の演出とかに見慣れちゃった今はただでかいだけじゃ白けるんだよな。
もう普通に歌わせてあげたって。
尼崎のヤンキー数原くんはこの王子様衣装をどう思ってんだ。衣装合わせのときに「キンプリと間違えてんのか?」って愚痴ってそう。
無観客ライブでエア握手してる紹介VTRからして可笑しすぎる。
良心的存在であるウッチャンですら吹き出してしまう衣装のセンスはどうにかならなかったのか。
元SMAPメンバーですらドアップきついときあるのによくこんな煽ったカメラワークをやるな。
洗練されたコードや譜割に独創的な詩世界。シンプルな衣装と舞台演出が曲の完成度やパフォーマンスを際立たせていて良かった。だからこそ最初の寸劇は蛇足に感じたけどこれはご愛嬌か。
坂本冬美はかっこいい老け方してる。ツンデレな温泉宿女将とかやたら頭のキレるベテランパートみたいな役どころでドラマに一回出てほしい。
10年前くらいの洋楽でよくあったEDMみたいだけど、もはやキスマイはそういう歌を歌う集団って僕は納得してる。
中継主体であることで民放特番ではよくある局内を練り歩く演出が今回採用されたのは面白かった。
何歌うかとか演出がどうだとか本調子かどうかとかそんなこと関係なくただ出てくれるだけで満足できるか?そういう安心感があるか?っていうのが大御所か否かだと考えている。
その中でも今回トップクラスにホッとしたのは天童よしみの出演シーンだった。
もう天童よしみが歌うならば知らない曲でもジャニーズのねじ込みがあってもなんとも思わない。
さだまさしがライブ後にNHKの生放送でフリートークするのを見てる人意外といるよね。
さだまさしの歌を聞くと毎回「力抜いててこうも声が通るものなのか」と感動する。中音域ちょっと歪むのもかっこいい。
やっぱりJ-Popらしい転調をだんだん耳が受け付けなくなってる。音像はがっつりサブベース聴かせてて海外のメインストリームと混ぜても聴き劣りしないレベルだと思うんだけど、なんだろう。
小室哲哉に全く触れられてないのがどうしようもないけど悲しい。
鈴木雅之を嫌いな人ってあんまいないだろうけど、かぐや様から入って「夢で逢えたら」とか「ロンリーチャップリン」知らない層もやっぱり一定数いるのかな。
意外とジャスチャー激しい人だったのに今更気が付く。
毎年恒例の子ども向けの配慮コーナーだけど当の子どもに支持されてるかは疑問。
歌ってるときの二階堂ふみのすごく努力したのはわかるし見応えあるけど本職の人にはやっぱり敵わない感じ、歌手になる夢に挫折する「エール」の役どころにはまってたな。
いずれは誰かに歌い継いでほしい。
後半に続く。
タイトル | 執筆時点のブクマ数 | 投稿日 | 投稿曜日 | 投稿時刻 |
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カーニバルのギリギリなビキニ、その歴史 | 11 | 2020/11/24 | 火(前日が祝日) | 08:04 |
ベリーダンスとマーニャのふんどし | 34 | 2020/11/30 | 月 | 08:10 |
ボディペインティングとドラえもんことわざ辞典のCFNMとPETA | 15 | 2020/12/07 | 月 | 07:57 |
根本的な疑問。ブルマーとスク水とセーラー服はなぜ紺色? | 14 | 2020/12/14 | 月 | 07:49 |
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ブクマで、どうしてブルマーの調査を個人のブログやnoteでやらないことをいぶかしがるコメントをいただくこともあった。理由はいくつかあるが、一番の理由はこの匿名の環境が心地よいためだ。もしもコテハンで延々とブルマーについて語っていると、自分のアイデンティティの深いところにブルマフェチであることが刻まれてしまうだろう。現に、さっきブルマーを脱がしてお尻を見る夢を見た。いつしか毎週のようにブルマーについての考察を書くことが求められ、承認欲求からそこに依存し、それが完全に習慣になってしまう。怖いことではないだろうか。
さらに、ある程度ライターやブロガーとして名前が売れたら世間で話題になったり、現在進行形で炎上していたりすることについてコメントすることが期待されるかもしれない。それは、気晴らしとはほど遠い。自分がやりたいのは個人的に気になったことの調査であり、それ以上ではない。だいたい、世間の議論は不毛なことが多く、建設的でない議論に巻き込まれても面白くない。要するに、期待されると疲れるのだ。
また、この記事はほとんどが海外の情報の斜め読みとその翻訳からなっており、それで閲覧数を稼いだり、有料の記事を作ったりするのは少しばかりおこがましく思う。最近はあまりやかましく言わなくなったのかもしれないが、リンクフリーかどうかもわからないサイトから引用している個所も多い。コンプライアンス的にはグレーだろう。こうして書いた記事がバズったら確かにうれしいが、あまりブクマ数は気にせずに遊びとしてやる距離感が一番楽しい。バズることが自己目的化しては意味がない。
匿名性の良さにはほかにもある。増田という環境は情報の書き手と受け手の関係がフラットで、記事の誤りを気軽に指摘してもらえるのだ。もともと自分の勉強のためにブルマーについて調べていたのだから、批判も含めてあらゆるコメントはいつもありがたい。
更に、増田でこうして書いたことで学べたこともある。ライター業というのは思いのほか大変なのだ。まとまった長さの文章を毎週書くことをしばらく続けてみたが、テーマを選ぶことも調査することもそれなりに気力を使う。小説で長い文章を書くのが元々苦ではなかったので、こういう記事も簡単だろうと油断していたのだが、自分で考えた締め切りを守るのも負担だとわかった。ましてや自分の興味がないことも書かないといけないうえに、ウケるテーマを探さないといけないプロはなおさらだろう。一時期、文筆業に憧れていたことがあったのだが、こうして実際にその真似事をやってみると、その苦労がどれほどのものか、かなり実感がわくようになった。
確かに、自分の妄想を必死でひねり出して数万字書いてスルーされがちな小説と比べ、調べたことをまとめたものはほんの数千字でブクマがもらえるので、かけた手間と承認欲求のコストパフォーマンスはこうした記事のほうがいいのだが、そういう問題ばかりでもない。
とはいえ、面白い経験ではあったので、例えば僕のフェティシズムとは関係のない記事を書いて、どの程度伸びるかどうかを実験しても面白いかもしれない。たとえば、筆者はよく美術館に行くのだけれど、刀剣には詳しくないため、どこをどう見ればいいのかがわかっていない。それについて調べた記事なんかを書くのもいいかもしれない。さっさと書籍を入手しろという話かもしれないが。
また、何かまとめたくなったら書く。それがいつになるかはわからない。
もう亡くなられて丸七年経つので、人々の記憶から薄れつつ‥‥と思っていたら、今年になって、アニメのエンディングに起用されたり、今公開されている映画の主題歌みたいな扱いで代表曲が使われていたりと、令和の若者にもじわじわと水面下で影響を及ぼしているようです。
私が大瀧さんを大好きになったのはつい最近です。大瀧さんをリアルタイムで体験したのは、キムタクと松たか子のドラマ「ラブジェネ」の主題歌だった『幸せな結末』でしたが、この時は特にファンでもなく、でも後追いで『A LONG VACATION』のCDを購入していたくらいには気になっていた存在でした。このドラマで大瀧詠一の主題歌が流れるたびに、「これまさか新曲じゃないよね。昔の曲引っ張ってきたんだよね」「なんてベタな歌詞だろう」「このキスしてる男女が延々映されるPVどうにかならんのか」とかさんざんなことを思っていた記憶があります。当時は別のアーティストに熱狂的になっていたので、そちらと比べて、『幸せな結末』のベタベタな歌詞が、往年の大物ミュージシャン(というイメージ)の時代錯誤的な表象に思えて、残念に感じたものです。
で、それから20年以上が経ち、ご本人は鬼籍に入られ、私は彼の死後にファンになったのだけれど、大瀧さんの特集雑誌を読んでいたら、こんな対談記事がありました。
内田:ご自分の歌詞と松本さんの歌詞だったらどちらが歌いやすいという違いはありますか?
大瀧:それは圧倒的に松本の方が歌いやすいですよ。『幸せな結末』なんか歌えないと思ったもの。「今夜君は僕のもの」なんて死んでも歌いたくなかったんだから(笑)。あれは歌い始めた時にゾッとして、「歌謡曲の人はよくこんな歌詞で歌えるもんだな」と思った。何度やっても歌えなくて、たまたま最後のテイク一回だけ上手くいったけど、「松本にしときゃあよかったなあ」と思ったね(笑)。詞のなかにとっかかりがないのよ。松本の場合はメリハリがあるし、「ここだな」というニヤッとするような聴かせどころがあるから面白いんだけれども、『幸せな結末』はノペッとしたありものの継ぎ接ぎなわけです。しかし、ああいうダサい歌詞の時が一番歌手としての力量が試された。なんとか歌ったけれども、あれを続けるなんていうのは狂気の沙汰だと思ったね(笑)。
すごい言いようです(笑)。自分で作詞したくせに‥と思ったら、一応ラブジェネのスタッフとの共作ということになっています。
つまり何が言いたいかというと、これを読んで自分は嬉しくなったのです。
(誤解のないように言っておきますが、『幸せな結末』は今聴くととてもいい曲で、特にオープニングの重厚感はゾクゾクします。今ではすっかり好きな曲になっています。)
当時の思いの答え合わせが時空を超えてできたことがなんだか嬉しかったので書いてしまいました。
大瀧さんの甘く爽やかな歌声が大好きです。もういないなんて7年経ってもまだ信じられないのです。(涙)
「畜産は環境に悪い!」「マイクロプラスチックで海が汚染されている!」みたいなことを言えばみんなビビると思ってるっぽい人らがいるけど、俺にはそれ効かないんですよね
環境ドシドシわるくなって欲しいし、食いもんが汚染されまくってみんな不健康になってほしいじゃん
そりゃ俺だけマイクロプラスチックにやられるんだったら嫌だけど、環境問題はふりかかる相手を選ばないからな 俺がやられるなら大抵の日本人もやられる
だってその辺がもしなかったら、今の世の中ってかなりつまんねえぜ 長い目で見てどうなるかわかんないデカい変化がじわじわ起こり続けてるのってワクワクするじゃん
未来の子供達がクソ汚い地球で暮らしていくことになっていいのか?→いいじゃん、嬉しいじゃん、ザマみろでしょ
地球環境気遣い人間のモチベーションがわかんねえよ なんなんだ?マジで なんで地球環境を保てるのが嬉しいんだ?
魚がいっさい食えなくなったらオモロいやん
へぇ、やっぱり三浦春馬氏ような芸能人だって30年生きてこれ以上は生きていたくないと思うのか。
今年7月、彼が自殺した報道を目にした最初の感想は、驚愕でも悲嘆でもなく「ああ、やっぱりそうなんだ」というある種の安堵だった。
三浦春馬氏が何を思い、何に悩み自殺したのかは彼本人にしか分からない。だが彼の苦悩は彼個人だけの物ではなく、もっと多くの人が抱えている普遍的な苦悩であるように思えてならなかった。
青年と中年の間、というより魂は干からびてもう中年になってしまった私だが、自殺した三浦春馬氏と同じ30歳の時には、人生がまだ折り返し地点さえ過ぎてない事にうんざりしていた。早く楽になりたい。早く楽になりたい。そんな思いばかりが日に日に強くなる。
人にとって最適で、幸福な人生の長さはどれくらいなのだろう? 30歳になるよりもっと以前、成人したての頃には既にそういう事を考えていた。
例えば10歳の小学生が中学に進学したくないから12歳で自殺する計画をしているとする。流石にこれは人生の結論を急ぎすぎている。小学生の身近にいる年長者の多くは彼の計画を止め、考えを改めさせようとするだろう。私だってそうする。
では、20歳の大学生が社会に出たくないから22歳までに自殺しようと計画した場合はどうだろうか?
社会人になっても人生の墓場に入るわけではない。それどころか自分の場合は社会に出てからの方が自由が増え、毎日が充実している。彼もしくは彼女だってそうなるかもしれない。命を終わらせるのはあまりに惜しい。そう考える人は大学生の自殺を止めようとするだろう。
違った考え方の人もいる。思春期が人生の絶頂期という考え方は正しい。自殺という能動的な人生の終了は選択しなかったが、別に自分は22歳までに死んでも良かった。そう考える人は自殺を積極的に手伝わないまでも、大学生の自殺の意志を知って何もせず放置するかもしれない。
というかお前もう成人してるんだから、生きるべきか死ぬべきかなんて重要な選択を他人に委ねるな。自分で判断しろよ。そう考える人も大学生が自殺するか自殺をやめるまで放置するだろう。もし本当に大学生が自ら命を絶ったら不愉快な気分にはなるだろうが。
三浦春馬氏が亡くなった30歳という年齢は、現代人にとって絶妙な人生の長さに思えてならない。
自分を含め、「自殺という選択肢が脳の片隅に少しでもある人」の場合、30歳になるとこんな事を考える。
思春期が人生の絶頂期という主張は極論だ。だが思春期が終わってからの数年間も、広い意味ではモラトリアムのような物。モラトリアムが人生の絶頂期という考えであれば、なるほどと腑に落ちる。20代の終わりという年齢が人生の一つの大きな節目である事は客観的に見ても事実であろう。
20代の終わり頃から頭が固くなり、新しい物を取り入れる柔軟さが衰えてきた。なので、自分が今抱えている希死念慮は5年・10年という短いスパンで解決する事はおそらくない。場合によっては一生付き合う覚悟が必要になる。希死念慮を抱えながら生きる今後数十年という長い人生、真綿でじわじわと首を締めるような緩やかだが確実に精神を蝕む苦痛に、自分はこれから耐えれるのだろうか。
中高年の中には日々を惰性で生きる者、生きる事が苦痛でたまらないのに、何らかの事情で自らの命を絶てない者や、命を絶つ覚悟も、そのための行動を実行する気力もない者が大勢いる。後悔のない人生を送る人間はいないかもしれない。きっと彼らだって自ら望んでゾンビのような生き方を選んだわけではないのだ。では自分はどうだろうか。彼らのような中高年になりたいか問われれば答えは「NO」である。だが自らの命を絶つための気力がまだ残っているか問われれば「YES」と答える。
もうここまで生きたのだから、これ以上生きられなくても別に構わないと考えるようになり、ある程度自分の人生の見通しが立ち、精神が未熟な頃から抱えていた漠然とした不安が実感となって襲ってくる。それが30代という年齢だ。
ここで断っておく。
私は当分の間は自ら命を絶つつもりはないし、誰かにここまで生きたのだからもう休んでいいのでは、と自殺を推奨するつもりだってない。2020年が終わる前に、自分の考えを記録しておきたかった。ただそれだけだ。
三浦春馬氏よりも若い20代か10代の若者がこの文章を読むと負の衝撃を受けるかもしれないが、匿名ダイアリー利用者の年齢層はもっと高いはずなので、若者の目に入る可能性は低いだろう。
まぁ、もし若者を憂鬱な気持ちにさせてしまっても、別に気の毒だとは思わないが。
人生に大した喜びもなく惰性で寿命を消費しているだけの中高年の怨嗟が渦巻いているこんな場所を覗いて、「ほら見ろやっぱり年長者だって、もっと早く死んでおけばよかったと考えてるじゃないか!」と、人の生が虚しい物である事をわざわざ確認している若者なんて、どうせ歳をとっても暗い人生しか送れないに決まってる。
医学の発展により人の寿命は伸びたが、人類の多くは伸びた寿命をいかに幸せに過ごすかという、幸福になるための努力を怠ってしまった。肉体を維持する技術の進歩に大抵の人間の精神はついて行けてないのだ。
もうこれ以上長生きしたくない。生きるのが苦痛だ。そんな悲鳴と虚しさがこの国を、この世界を覆うようになって、個々人の幸福を置き去りにして進んできた人類の長寿のための医学の歩みはやっと足を止めるのだろう。
当たったんだ。
例のセットのやつ。
俺はデブなので今まで食事療法でじわじわ体重減らしてて、運動負荷に足とかの関節が耐えられる程度になったから「そろそろ運動かぁ、走ったりしなきゃならないのかな〜やだな〜」とかデブらしいこと考えてた。
そこで例のセットの抽選見つけて、まぁ当たったらただ走る苦行よりは楽しいかな〜って応募して、当たったから買った。
めっっっっちゃたのしい。
運動がめっちゃ楽しい。しんどいな、汗ばんできたなぁって思ってもまだやりたいな、あとこれくらいレベル上がるまでやろうって遊んでたら、あれよあれよと長時間運動してる。
学生時代とかは特になんだけれど、体育ほど嫌いなもんはなかった。
その嫌い意識っていうのが会社の健康診断で「ヤバいから痩せろ」って言われるまでやらなかったくらい。
なんならその時の体重は3桁台だった(身長は167だから相当のデブだ)
ここで初めて、強制的にやらされる運動が嫌いだったんだなぁってのに気づいた。
今はたのしい!って昨夜なんか大体2、3時間くらいやった。夜中に帰ってきて、気づいたら汗ダラダラで深夜超えてた。夜ぐっすり。最高。
今日も夜更かしと運動疲れからちょっと遅く起きたけど、休み休みで多分4時間は遊んでる。
筋トレ楽しい、ヨガ楽しいって言ってる奴らみんな頭おかしいって思ってた。楽しいねこれ。
新しい趣味に出会えた感謝と、運動をゲームにすることで自分みたいな運動アレルギーみたいなやつに運動を楽しいって教えてくれた任天堂に感謝を込めて。
ビクトリーッ!
一番確実に効果があるのは手術で胃とついでにそのへんの脂肪をとるやつだけどな
健康で太ってるならそれでいいんじゃないの、卑弥呼もそういってたぞ
ハァハァゼエゼエするのが嫌なの
でも世の中にハアハアゼエゼエしないカロリーの消費のふやしかたってのが唯一あって
筋力つけて基礎代謝あげること
筋力つければ同じ量食べててもすわったまま、寝たままで痩せられるようになる
肩こりとかしなくなる(肩がおもいなとおもったら筋トレにいけばいい)
いいことしかない
ただリングフィットなどは筋トレといいながらスピードと心肺機能を要求してくる
普通にペットボトルに水いれて筋トレか太極拳(自重筋トレ)してるほうがいいぞ
ここまでいってもわからないのならゼエゼエしない、足踏みさえしないがゆっくり止めてじわじわ効くやつならなんでもいい
金があってコロナがない地域の人ならエニイタイムフィットネスとかのマシンを30秒つづけられるギリギリの重さでやって30秒やすんでまた30秒やるのがいい
以前は声優推しだったが、推しの引退や新たな推しの担当しているコンテンツに飽きてしまい、じわじわと声優オタク界から離れてしまった。
流れ着いた先はここ数年話題となっているVTuber業界。あえて個人名は出さないが歌に惹かれたり、話に惹かれたり、ゲームスキルに惹かれたり……
私は運よく現地のチケットが当たり、さらに発券してみるとステージの間近の座席に座ることができた。
私は声優推しの頃からライブに行く人物であったが、今回初めてVTuberのライブに参戦することになった。
元々配信等で歌唱力に定評のあった人物であり、当日の生歌にとても期待をしていたし、不安もしていなかった。
メタい話にはなるが、VTuberがステージ上にどのように表れるのか、バンドメンバーや観客とどのようにコミュニケーションを取っていくか……等々、技術的な演出面もとても興味があった。
当日は歌こそ主眼ではあったものの、上記の技術的な面も垣間見ようと思いながら現地に向かった。
そしていざ本番、ステージ上の高画質・大型スクリーン上には圧倒的な歌唱力を披露する推しの姿があった。
まさに圧巻の歌唱力であり、生歌と生演奏、声が出せないとはいえ盛り上がった会場の雰囲気も相まり、この世界の全てに感謝したくなるほどの感動を覚えることができた。
本番も終わり、終演放送も入り、いざ会場を後にしようという頃には、「VTuber?まぁ軽く推してる感じかなぁ~」という気持ちは「○○さん最高、私の最推しですわ」という強い”推し”の気持ちに変わっていた。
その後当日参加していた他のVTuberを含め、複数の感想配信を聞いていく上で、この気持ちにある考えが混じってきてしまう。
私は「VTuberというキャラクター」を推しているのか?それとも「VTuberを演じる中の人」を推しているのか?
という考えである。
VTuberには「担当声優」や「中の人」というのは基本的に存在しないし、無いものは公表されない(一部例外アリ)。
おおよそその存在を醸し出すことはあれど、明言はされないものである。
しかし私が元々いた声優オタ界隈は、基本的に”キャラクター”を演じている”声優”、つまり”中の人”を推している界隈であった。
声優さんが演じるキャラクター自体が好きなこともあったが、根本には”推し声優”そのものを推す心があった。
そのため演者の名前は公表されるし、お渡し会等のリアルイベントも頻繁に開催されていた。
この「中の人」を意識し「中の人そのもの」を推す界隈にいたこともあり、私は上記の考えに至ってしまった。
また、私の専門は情報工学であり、「VTuber」という存在を形作る技術はほぼすべて頭の中に入っている。
つまり、どのようなスタッフが、どのように協力をして、どのようなソフト・ハードを用いて、どのような行動を取ればVTuberとなるのか、ということがおおよそ分かってしまうのである。
かくいう私も自らソフトウェアを自作しており(未出未完)、VTuberになってみようかな?と考える程度には、「中の人」について理解をしている。
表立って話すことは滅多になくなった「中の人」論であるが、「完全な無」から「声が出て動きもできるキャラクター」を生成する技術が無い現代では、「キャラクター」には確実に「演者」が存在する。
明日になって唐突に技術的特異点にでも到達しない限り、「中の人」は切っても切れない存在である。
また、大きな事務所に所属しているVTuberは、だいたいの人物は以前に生配信・動画投稿を行っていた人物である。要するにVTuberになる前に活動していた「前世」が存在する。
「中の人」はバーチャルでない前世から輪廻転生し、VTuberになっているのである。
ここまで話しておいて、「いや!推しの○○ちゃんは中の人とか前世とかないから! ○○ちゃんは今画面上にいる○○ちゃんだけだから!!」という純粋強火オタクはいるだろうか。
正直、様々なコンテンツを疑ったり背景を考えることなく、ストレートに受け取れる人物を、私は尊敬するし、もはやそうなりたいレベルである。
しかしそのように受け取るには、私は様々なことを知りすぎてしまったのである。
知ってしまった以上後戻りすることはできず、VTuberを推すときには、常に”前世”のことについて考えてしまう。
配信画面の向こう側、配信用スマホの向こう側には、私たち視聴者と何も変わらない、血の通った人間がいることを想像してしまう。
あの歌声を持つ推しは、前世で振るわなかったからここにいるのだろうか。
前世で振るわなかったのに今更話題になって、悲しんだりはしないのだろうか。
VTuberで売れても自分の顔や名前は一切売れないことに辛さはないだろうか。
その答えを得ることは一切できないと分かりながら、活動の裏にある悲しみを想像してしまっている自分がいる。
知れたところで何かできる行動はないのだろうが。
推しに対して辛さを抱えるならば、推さなければいい話だという意見もあるだろう。
しかしオタクというものは、一度推し始めたら生半可な辛さでは推しの炎は消えないのである。
それが中の人を推していようが、バーチャルなキャラクターを推していようが、表面上の”推し方”には、恐らく変わりはないのである。
私の不安や思いとは裏腹に、今日も推しは生配信をし、コメ欄の皆と笑いあっている。
恐らく中と外どちらを推しているか、という問いに答えは出ないだろう。