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はてなキーワード: 陣営とは

2023-01-21

外れ値「ではない」フェミニスト、どれだけいるの?

https://anond.hatelabo.jp/20230112102805

ネットで有名なフェミニスト本来フェミニズムから外れてポリコレ棒振り回しているの勘弁してほしい、というのはわかるし

それを代表として扱われるのは困るってのはわかるんだけど、その人たち本当に「外れ値」なの?

外れ値な人がいる = 外れ値じゃない人たちがたくさんいる

例えば、発言過激さ(※適当定義した点数。○○だから××点とかい基準は無い)が30~70点の人がほとんどなのに10000点を叩き出す人がいたら、それは外れ値でよいと思うけど

30~70点という人が「大量」にいない限り10000点の人は「外れ値」とは言い切れない。外れ値1人に対して、少なくとも外れ値ではない人は20人くらいは欲しい。


次に、発言過激さが10000点出すのが1人に対して、30~70点が3-4人程度しかいない場合

これはもう10000点の人を外れ値とは言えないが、どちらの陣営もそれなりの人数がいればグループけが出来るし、30~70点の人数の方が多ければ「10000点のグループは少数派の意見なので…」と言い訳はできる。


問題なのは発言過激さが10000点出す人が、30~70点の人よりも多い場合

もうこれは外れ値でも少数派でもなく、10000点の方が基準といえる。むしろ30~70点の方が外れ値の可能性がある。

最近フェミニストに対する低評価の原因として、外れ値とされている人たちが実際には基準なのでは? という疑惑もあると思う。

対象範囲わからん問題

が、前記の外れ値かどうかを判定するためには判定の対象となる人を探す必要がある。

今回の場合フェミニストの人が対象だが…

どこを対象として扱うんだよ、という問題がある。そしてどう区切っても対象人数はクソ多そう。

母集団データが取れないなら標本つくりゃいいけど、Twitterフェミニストっぽい人を探そうとしても声のデカい10000点の人が目立つし、もしかすると青識のなりすましかもしれない。

アンケートの依頼を出せばそこまで偏っていない標本が作れるかもしれないが、金も時間も費やしたくはない。社会統計学とかの人たちがいずれやってくれるはず。

日本大学関係者に絞る

あたりの条件で調査すれば、日本での「フェミニストのあるべき姿」や「多数派フェミニストの主張」ぐらいはまとめられそうである

そのまとめた結果から元増田で上げられたフェミニストたちが外れ値かを検討したい。

全数は調査できずに標本を抽出したが、偏って少数派の意見ばかりになったとしても 「●●大学には○○という教授が~」 というマサカリが投げられるはずなので修正できる。

https://research-er.jp/search/researchers

とりあえず「フェミニズム」で検索して…え、993件もヒットしたんだけど、これ全部調査すんの?

他にも調べなきゃいけないキーワードはあるんだけど…

………… とぅぎゃったーでも見てみるか…

力尽きました

フェミニズム関連の研究をしている教授とかは少ないだろうから、数名上げてそこが基準でいいかな…

とりあえず外れ値ではないフェミニストを知るためには上野千鶴子小宮友根、牟田和恵の論文書籍発言を見ておけば良さそうですかね

マサカリは歓迎しています

2023-01-19

名古屋ホームレスいじめ記事についたブコメを読んで

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2052877

こういう話題の時普段Colaboとか統一教会とかの件で右と左に分かれてお互いの陣営を罵り合ってる人達が一つになってる所を見るとなんかまだはてブのみんなもちゃん人間としての良心が残ってるんだなって少しほっとする。

2023-01-16

anond:20230116155427

そうなんだ。コラボ騒動前に消えといて良かったね

どっち陣営について(彼は十中八九、暇空サイドについただろうが)批判しても訴訟沙汰になりそうだし

anond:20230115101310

「そこまで熱くなるモチベーションわからん」ってマジでそれなんだよな

痴漢犯罪で悪いことぐらいみんなわかってて、誰もそんなレベル低いとこで争ってねーんだもん

どこの次元のヘルジャパンだよって話じゃん

そりゃ言ってることは正しい、正しすぎるほどに正しい

でもそんなんいくら大騒ぎされたって感想なんか「そんな雑魚しかイキれねーのか」こんだけでしょ

性犯罪者ぐらいヒエラルキー低くてどうしようもない奴以外、タマ縮み上がって安心して叩けねーのかって思っちゃうでしょ

よくフェミさんが槍玉に挙げてる「共通テスト痴漢やり放題」みたいなのは、相当悪質な愉快犯か頭のおかしな奴ぐらいで

それを言うならフェミサイドからも「安全ピンぐらい自衛バカスカ打たせろ」みたいな、別ベクトルに尖り狂った発言いくらでも拾える

しろ陣営に属してしまうとそれすら擁護しなきゃいけない

苦しくないんかって思うけど、まあ苦しいとも思わないぐらい狂っちゃってんだろうなって

2023-01-12

anond:20230112213455

なら直接いわれた室月さんだけ直接にたたく権利があるよね

二人だけ、名指しされた人だけで永遠に喧嘩してりゃいいのに

ブクマがもらえるとなったらブクマ乞食がさぁ…どっち陣営でも醜くてみてられない

anond:20230112182419

正月殺害予告バラまいたり、母親の子供まで特定してステイホーム先を脅す余裕でアウトな思想信者層が多数いるアカ陣営の話か

2023-01-11

anond:20230111023439

そらそうですよ。

リアル人間というものは、いいね欲しさに極端な発言したりしないし、

〇〇陣営とか言って人を敵味方に二分割したりしない。

Twitterなどが生み出した架空の分断の上でぎゃーぎゃー言ってるのはほんの一部の阿呆たちです。

まぁそいつらの声を拡大拡散するのもTwitterとかなんですけどね。

からもう、SNS

 

 

 

やめなさい。

2023-01-10

anond:20230110001300

いくら暇空の主張に思い込みヘイトが含まれていたとしても

暇空の指摘によって費用返還が発生したなら暇空の大勝利だろうと思って眺めていたが

調査の結果、返還必要がある金が発覚したが、暇空の指摘によるものではなく、監査委員独自に指摘したもの

という形になる可能性があるのか

そうなったら両陣営ともに大勝利宣言しそうだね

anond:20230110094515

お前がTwitterばかり見てTwitter世界の全てだと思い込んで、

ひよこのオスメス鑑定のようにTwitter上で「敵」「味方」「敵」「味方」と必死分別して、

まるで世界には二種類の人間しかいないかのように頭が凝り固まってしまって、

そんな阿呆が「敵が増えすぎてる!」ってほざいても、

そりゃあそうだろとしか言いようがない。

フェミニストにせよミソジニストにせよ、

極端な言説ばかりが目立つ仕組みのTwitter(広くSNSネットと言ってもいい)に耽溺して

「うおお敵だらけだぁぁぁっ!」って言ってる自分ちょっと客観視してみろよ。

人は本当に人それぞれだし、そもそも陣営」とか存在しないし、大体の人間言葉を尽くせば少しは理解し合えるものだ。

今すぐTwitterアカウントを全て消し去って、普通にリアル人間コミュニケーションをとってみろ。

まずはSNS

 

 

やめなさい。

そういう動画を見て喜ぶレベルの低い男にミソジニーが多いってだけじゃん。

https://anond.hatelabo.jp/20230110094515

なんでこの手のクソ増田は、相手陣営の「レベルの低い」層にだけ注目して全体を見ようとしないのか。

お前は算数を学ばなかったのか。 印象論じゃなくてちゃん数字で語れボケ

自分脳内だけで勝手結論作って勝手気持ちよくなりやがって、ふざけんなボケ

マジでいい加減にしろよクソが

2023-01-09

成人式の日に鉄火巻増田スマの起間勝手に桧信じ伊勢回文

今日成人の日!ということで紅白饅頭ハンディタイプ国語辞典をもらってきて今式を終えて帰ってきたところです。

おはようございます

スプラトゥーン3の今年最初フェス終わったわー。

上位100位の100ケツ見てるとシャープマーカー使ってる人が圧倒的に多いんだけど、

やっぱりそれみるとシャープマーカー使いになりたい私がいるけど

スクリューロッシャーとかも多くて、

この2ブキがやっぱりフェスでは強いのかしら?

それはともかくフェス初日新年会とか急遽入ってきたので、

丸一日フェス行けなかったので

実質1日で「えいえん+3」までやり込んだところだけど、

序盤もう全然勝てなくて勝てない波に飲み込まれてノマノマイェーイなんて言ってられないぐらいの30連敗とかもうなんたるちゃー!って

惨憺たるタルタルソースが手に誤射して被弾してしまったぐらいなたる結果!

ブキはもうそうそうにフェスだと

セブンファイブオーライダーより

サブもちゃんと使って運用しないと勝てないかキューバボムジェットスターとあとはプロモデラーとでで、

ジェットスターをメインに

たまに飽きたらセブンファイブオーライダーに持ち替えつつ、

もーほんと前半勝てなくて勝てなくて、

ホラ貝のガチャも全ギア10個詰め合わせが当たらなかったし!

暮れの元気なご挨拶日清オイリオサラダ油のセットの詰め合わせより絶対に全ギア10種類詰め合わせの方が嬉しいじゃない!

良いときは1フェスで2回当たったのは奇跡だわあれ、

300倍マッチでも勝てて魚の冠の名前の上につくマークがもらえなかったことが悔やむわー。

でも後半はいい波のれて

連勝叩き出して良い内容の戦いで勝率も上げられたから良かったわ。

まあやってない人は分からなくて本当に恐縮しまくりまくりまくりすてぃーなんだけど、

あれよくよく考えたら

フェス中の特別試合の3チームで戦うトリカマッチ

同じ陣営どうしで戦っても実績詰めないからあれどうにかならない?

例えば全部三すくみ投票した今回は「辛い」「甘い」「酸っぱい」で

この「甘い」で3チームトリカマッチやっても負けても勝っても

「甘い」軍団の実績は積み重ねられないみたいなのたぶん。

えーもー攻めの楽しいリカマッチだけど、

あれももう猛ダッシュ一番!

ボム投げて道を作ってさらシグナルに重なるようにボム設置しつつシグナルゲット、

邪魔するヤツもとりあえず道連れ!

インクの道を作って捨て身の決死ダッシュは相変わらずね。

シグナル取れた取れなくても、

取りに行ったって言う姿勢ポーズガッツ評価されるので、

うそ

そのトリカマッチで出てくるシグナルを取ると味方の陣地にインクが出てくる纏がお助けアイテムとして出てきて、

自軍の陣地を勝手に塗ってくれるの!

2人2人対4人だから人数不利な分、

絶対シグナゲッツして纏を設置しないと勝ちに行けないのよね!

リカマッチダッシュ一番が楽しいわ!

でも守りのチームになったらなったで攻めてくる突撃してくる敵の相手を撃ち落とすのは、

楽しいけれどもやっぱりシグナルを奪取するゲットのダッシュ一番が楽しいわよ。

リカマッチ醍醐味の楽しさの魅力の楽しいのは攻めチームに限るわね。

あとさー

チャレンジオープンの戦いもあんまりよく分かってなかったんだけど、

今回はオープン多めで戦って、

もうやってない人から見たら何のことだか分からないことだらけで

今日はもう内容成人式に行ってきて紅白饅頭ハンディタイプ国語辞典をもらってきたよ!の内容の増田でいいわ!ってところだけでオーケーって感じよね。

まあ疲れたフェスいつも毎回だけど、

あーでも

ホラ貝ガチャギア10個詰め合わせが一番のお目当てだったのに、

あと2つ名も「鬼のような」「ナイス」の2つ名が欲しいわ!

鬼のようナイスナイス送りたいじゃない!

ゲーム中しゃべれる言葉は「ナイス」と「カモン」と「やられた」しかなくてそれでコミュニケーション取るんだけど、

最初の意気込み頑張ってみんなで戦おうね!って「ナイスかましナイス返してくれると嬉しいし

から2つ名の「鬼のような」「ナイス」が必要なのよ。

あと「カモン」って言われても行けないし行かないし、

急に言われてもねーってカモンの返しが一番困るわ。

「やられた!」はなんかやられたー!って言いたいのよね。

言うだけだけど。

はい

ここでおでん編成チームのおでんニュースです。

おでんの具が

はんぺん、ごぼ天、ニンジン大根スペアリブです。

玉子コンニャク、焼き目のついた木綿豆腐牛すじメンバー投入をタイミングを見て見計らって後半戦突入よ!

おでん監督業もチーム戦よ!

一回あれおでんルーシースープ漉した方がいいかもしれないわ。

なかなか強力に仕上がってきているので、

一度水もまた足してスープの素も投入かしら?

でね、

プラフェスに合間に食べるおでんって最高なので

支度して準備しておいたんだけど、

結局仕込んでおいて食べてなかった夢中になっていたって訳なのよ。

気が付いたらおでんがその前半のおでんの具のメンバーが鍋のベーナーにパンパンに入っていて、

スプラトゥーン3のフェスのお供におでん仕込んでいたんだ!って

やっぱりあれゲームしながら同時に食べられる強まった食べ物

安価スーパーで手に入るものと言えばもうゲーミング鉄火巻わ!

サンドイッチしかりだけど、

あれはマヨネーズとかがソースが手に付いちゃったらアウトじゃない?

プレイ中にそうなったら元も子もないしエイムの精度が出せないわ!

からスプラトゥーン3のフェスに良いお供の食べ物はゲーミング鉄火巻で決定!

通常のスプラトゥーン3の遊びならおでんに決定!

2種類のタイプに使い分けて食べてゲームを進めたいわ。

からぜんぜんおでんが消費されていなかったので、

フタ開けたらおでんの具の前半のメンバーが満載で笑っちゃったわ!

おでん忘れてた!電話しなきゃ!って

誰に電話するのよ?って今さらだけど。

まあ総じてフェスは後半の頑張りが勝率上げられたから良かったわ。

もう結果出てチームは勝てなかったけど!

参加することに意義があるとかは言わないけど、

参加するならガチャしまくりまくりすてぃーだし、

どちらかというと

参加景品が目当てってところもあるわね。

三すくみのチームがどこが勝とうが実際どうでもいいの。

あとスプラトゥーン3のフェスのお供はゲーミング鉄火巻

これも改めて発見よね。

ゲーミング鉄火巻最強説!

カッパ巻きやかんぴょう巻でもいいけど、

トータル栄養的にタンパク質ゲーム中に摂りたいゲーミングたんぱく質でもあるので

ゲーミング鉄火巻が優勝で決まりよ!

今度のフェスは内容「鉄火巻」「カッパ巻き」「かんぴょう巻」でやったらいいのよ!

私は鉄火巻一択わ!

今晩は前半戦のメンバーおでんの具のゲーミングおでんを食べるわ。

うふふ。


今日朝ご飯

式典前に腹ごしらえで近所の喫茶店だけど和食モーニングランダム焼き魚の朝定食

今日は焼き鯖!

なんか鮭と鯖の二択しかなくない?

気のせいか

ランダム焼き魚定食はなにが当たるか楽しみよ。

いままで鮭と鯖しか当たったことないけれど。

デトックスウォーター

朝起きて温活ホッツ白湯ウォーラー葛湯の素が余っているので

柚子葛湯ホッツウォーラー若干ゆるめのシャバシャバのヤツの方がホッツとしては飲みやすいので、

固く練るよりねるねるねるねよ。

飲みやすい方で、

今日はもう用事が済んだからゆっくり出来そうだわ。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

なぜここまで仁藤叩きが爆発的に、広範囲に、盛り上がったのか?

この件で書いた増田がことごとく伸びないが備忘録として続けます

なぜ暇空氏はこんなに支持を集めてしまったのか?

https://anond.hatelabo.jp/20221219153937

Colabo暇空大戦勝利条件と着地点

https://anond.hatelabo.jp/20230106193827

今回考えたいのは、「なぜここまで仁藤叩き(Colabo陣営叩き)が爆発的に、広範囲に、盛り上がったのか?」ということ。

参戦している有名人の顔ぶれと、その他有象無象の皆さんのツイートを見ると、

ありとあらゆる層がありとあらゆる立場からColabo側に批判的に言及している。

が、そのコアにあるのは主に「ネット民の積もり積もったパヨクへの反感」だと思う。

日本インターネットにおける嫌われ者パヨク概念

最初表現の自由関連でオタク層が仁藤氏を嫌っているのがメインなのかと思っていたが、

有本香、ナザレンコ・アンドリー門田隆将といった保守論客っぽい人たちや

西村ひろゆき上念司といったいっちょがみインフルエンサー

佐々木俊尚のようなジャーナリストに至るまで、

もはや全然オタクでもなんでもない人たちがColaboに批判的・懐疑的、暇空氏に好意的言及している。

はてな民なら全員わかってると思うが、暇空氏はまともな人間が支持できるような人ではない。

なぜこうした著名人が暇空氏寄りの意思表明をしてしまうのか?

彼らに共通項があるとしたら「リベラル層」あるいは「パヨク層」とされる存在批判的なことではないだろうか。

実際、ナザレンコ氏と上念氏は「パヨクと戦う暇空氏を支持する」とそのまんま表明している。

これらのレッテルがふんわりしたものであることはわかっているが、そのふんわりしたものがふんわりと嫌われており、

人々から見て仁藤さんは「パヨク」と見なされるふんわりした要素をことごとく身にまとっていたのだと思う。

まり、これはもう、日本インターネットの「パヨクへの嫌悪」が表面化・可視化しただけなのではないか

しかに昔からネットでは共産党民主党というのは好かれていなかったし、

現実世界でも支持されていないのだが、暇空氏のテロ行為に便乗して「もう許さん」みたいに怒りを発散している人が多いのではないか

なお、特にパヨク叩きをしていなかったり、逆にパヨク的として叩かれている人たちも、一定数Colaboに批判的に言及しているように思う。

例えば室井佑月氏や大空幸星氏も、Colaboには批判的に言及した。

彼女ら彼らがネトウヨとかミソジニーとかオタクとかでないことは明らかであろう。

じゃあその一部の「本来パヨクとされる」層がなんでColaboに批判的なのかというと、

これは単純に仁藤さんとその弁護団は大変血気盛んで、いろんなネットバトルを提起し、

無駄にあちこちで恨みを買っている状態があり、

「またこいつらか」「というかこいつらが全員集合したのか」「オールスターか」

という構図を見て、みんな暇空氏の正当性とか勝機とかは一切考慮せず、反射的に応援してしまうのかもしれん。

もちろんColabo批判≠暇空支持であり、例えばColaboも暇空も対消滅しろみたいな人も多かろう。

「大嫌いなパヨクが叩かれている。攻撃している奴は極悪人のようだが、パヨクを叩いてくれるならなんでもよい」

といった無責任な人も多そうである

夕刊フジコラムを書いて暇空氏に褒められると喜んで「応援してます!」と言った有本香氏は完全にそれである

しかし、この戦いにおける「勝利」「ゴール」とはなんなのか?

前にも増田に書いたが、これ、どこがゴールで、どうなったら「勝ち」なの?

普通に考えたらデマ誹謗中傷する方が悪いし、裁判官だってそう判断すると思うので、法廷闘争は暇空氏が負けるはず。

なので暇空支持者の方々は「裁判で仁藤をやっつけろ」と思っているわけではないだろう。(ないよな?)

もはや裁判行方度外視して、ひたすら「パヨクをやっつけろ」という無責任な掛け声をかけているだけに思える。

Colabo側はもちろん、神原氏が早めに勝利宣言した通り、「裁判ネトウヨ暇空を完膚なきまでに叩きのめす」というのがゴールだろう。

これは大変わかりやすい。神原氏が「正義勝利!」と叫ぶ絵がすでに見えている。こっちはそういうことで理解できる。

しかし暇空氏のゴールがわからない。

最初は「仁藤氏謝罪させる」と言っていたが、そんなことが実現するわけがない。東京都に訴えてColaboを委託事業から外させるとか?

あるいは嫌がらせけが目的で、裁判費用は潤沢にあるから勝敗度外視でありとあらゆる裁判を起こしてColabo側に負荷を掛け続けるのだろうか?怖っ……。

そこまでならず者だと、さすがにネット世論も付いてきてくれないと思うのだが。だいたいそれで暇空氏が失うものも計り知れない。大丈夫か?

暇空氏支持者のゴールもわからない。この先の道は「暇空氏敗訴」が待っているわけで、何をゴールに置いているんだろう?

しばらくの間、嫌いな仁藤さんを叩き続けられれば満足ということなのだろうか。

いろんなことがわからなすぎる。

2023-01-08

anond:20230108124341

果たして核戦争なんかで滅ぶかな

核ミサイルは主要な都市施設に向けられていて辺境カバーしていないでしょ

よしんばしていたとして、最後に生き残った陣営が同時に相手を標的にしたミサイルを発射でもしないと滅べない

諦めてゴミみたいな日常にもどれ

anond:20230108100906

理念現実に先立つリベラルらしい事実誤認

暇空は困難女性支援活動必要性とか一切否定していない

仁藤らフェミ陣営当たり屋表現規制運動その他攻撃言動に反発しただけ

その過程で仁藤が主宰する社団法人のずさん会計が目に留まり、公金チューチュー疑惑を追及し始めた

まずは目の前にある現実認知フィルターでゆがめずに受け止める練習から始めてごらん

anond:20230107190737

空ヲタ陣営=隅っこで自分たちがいいと思う萌え絵コンテンツを創って楽しんでただけ

仁藤フェミ立憲共産陣営=頼まれてもいないのに立ち入って、萌え絵キモい消せ消せ消せと禁書を主張してきた侵略者

長々と論じるまでもなく、どちらが領土侵略されたかは明らか

暇空=ウクライナ、仁藤=ロシア

ゼレンスキーいまいち信用できないとしても、国際世論ロシア侵略行為は許されないで一致している

コラボ問題も同じこと

anond:20230108014105

デジイチ動画オートフォーカス問題SONYが従来カメラ比較すると劇的にと言って良いほど解決してしまった。
世代で言うとα6400以降のデジイチでのオートフォーカスビデオカメラ比較して遜色なくなってしまっている。
α6400がそれ以降のデジイチの基本性能の最下限を決定付けてしまったため、FUJIFILM代表に他社も追随して瞳オートフォーカスなどを搭載するようになった。

ただ当然ながらソフトウェアで判定しているため最も効きが良いのは最適化が施されている自社レンズであり、SIGMAなどのサードパーティレンズを使うと幾分か精度が落ちる印象。
そしてソフトウェアで判定する上で邪魔になるのかノイズが増えやすくなる暗所でもオートフォーカスの精度は下がる。

写真動画もイケるファミリー記録カメラ(デジイチ)の選択肢カメラファンとして正直に言って現状ではSONYFUJIFILMの2択状態となっており、Canonギリギリ頑張っているがNikon写真機としてのプライド邪魔しているのか動画方面ではあまりユーザー評価を得られていない模様。
そもそもカメラの2大巨塔CanonNikonレンズマウント仕様公開について保守的姿勢を崩していないため、予算自由が効きにくいファミリー層は手が出しにくいし家電量販店も追加でレンズを買って貰いにくくなるのでファミリー層へは売りにくいのだと思われる。
写真ハイアマチュアプロユースでは絶大な支持を持ち続けてるので、どこかで折れてレンズマウント仕様公開とサードパーティレンズメーカーの参入のし易さを整備してくれたらファミリー層も買いやすくなるのだけれど。

LeicaPanasonicSIGMAの新Lマウント陣営もパッとした印象を残せておらず、GH5で新しいユーザーであるYoutuberから支持を得続けてきたPanasonicもLマウントYoutuberを上手く引き込めず苦戦している模様。
Lマウントは建前上はオープンな方の仕様公開だけれどサードパーティがLマウントへ参入するには3社の合意必要らしいので実質的にはクローズドな体質らしいとの噂。

RICHO/PENTAXは相変わらずニッチで食っているのでファミリー層がどうのとかそういう次元じゃない。

個人的にはデジイチ動画だとPanasonic復権を期待していて業界面白くして欲しいのだけれど、現状ではファミリー層へSONYFUJIFILM以外を推すことは良心の呵責がある。
デジイチ動画Nikonは眠れる獅子だけれど、いつまで寝てんだと思ってる。寝坊も良いとこだぞと。

2023-01-07

新しいディベートの勝ち方

二者間の戦いになる→中立第三者こちらの陣営攻撃する→中立に寝返って両方の属性攻撃する

こりゃいいや!

ちなみにデメリットとしては3大欲求と衣食住にしか熱を注げなくなること

anond:20230107170434

元増田じゃなさそう

よかった

だってモキュメンタリードキュメンタリーの前提で話してるから

両方貶せる陣営があるなら俺もそっちいく

ドキュメンタリーはクソ!

結局左翼って世間知らずのお坊ちゃんお嬢ちゃんたちのお遊びでしかないんだなあ

私は哲学倫理学ちょっとやってたけど、今は障害者になってしまたか障害者雇用で働きながら底辺生活してる。なので意識高い人たちの弱者を助けようって思想とか態度には共感するし、期待もしていた。でもそれは理念とか哲学とか思想の部分であって、実際に世の中のことを知って彼らの実態を見てしまうとほんとがっかりしてしまう。実際に障害者にとって役にたつのって働いてるネトウヨ公務員の方だったりするし。

彼らの実態を何度も目にしてもそれでも落胆せずいつまでも擁護してられる人たちもまた同じような世間知らずな人間なんだろう。

社会のことを偉そうに語っていろいろ批判したりするのに、自分たちこそ世間知らずだったりする。世の中のこと何にも知らない。社会弱者が何に困っているか何も知らない。

弱者の味方ですみたいなこと言いながら組織権力持っちゃった人間性犯罪みたいなことしてたりする。金の使い方はいい加減で、性格は横柄になる。そのくせ自分いい人なんですみたいなアピールは欠かさない。弱者ポジションを取りたがる。

なんかすべてがハリボテなんだよな。貧困ビジネスってことばがあるけど、要はそんな感じなんだと思う。理念とか正義とか哲学とか思想とかがあってそのために行動してるんじゃなくて、金儲けしたい、いい人に思われたい、セックスしたいとかそういうモチベーションで動いてるんだと思う。ほんとくだらないよ。

リベラル陣営は全部そう。すべてがハリボテなので白けてしまった。正義なんてどこにもない。

2023-01-06

anond:20230106164816

はてなの和リベの姿勢は二つに分かれている。

ひとつ手続き的な公正さを重要視する立場からコラボ特権性など認めない、説明責任果たさせろ派。

もうひとつは、これはミソウヨオタとの聖戦でありコラボ正義陣営の旗印だ、しみひとつつけさせるな派。

元増田は一人で混乱しているようだが、結局ウヨサヨの一軸しか物差しを持ってないから「話題ネタに乗っかりたいけど何がなんだかわからない」状態なんだろう。糞して寝ろ

Colabo暇空大戦勝利条件と着地点

何がどう転ぼうが、両陣営とも勝利宣言して吹聴するであろうことは間違いないので、

第三者が見てどう思うかという観点から


①Colaboが起こした名誉毀損裁判

これは普通にColaboが全面勝訴するだろう。

実際、タコ部屋デマとかで攻撃していたのは言い訳のしようがない。

(Colabo側も脳のない家畜がどうとか酷い言葉を発信しまくっているので裁判官は「なんやこいつら……」とドン引きするかもしれないが)


こんな裁判絶対勝ちめないって暇空氏も、暇空氏の弁護士もわかってるはず。

賠償金がフルで認められたら1100万円だっけ、これは暇空氏なら普通に払えてしまうんだろうが、しか

「例の件、団体側が勝ったんだって

あんな自信満々だったのに暇空氏全面敗訴したのか」

という世評は必ず発生する。Colabo側も当然、勝ち誇りまくるだろう。

ネットバトル由来の裁判において「敗訴」のインパクトは極めて大きい。

野次馬は「暇空負けたんだ」とだけ理解して興味を失うだろう。

が、ここまでは暇空氏も、その支持者も、さすがにわかってやってんだよね?

その上で、なんかわからんが別のところでの勝利を目指してるんだよね?

「敗訴」のインパクトを押し返せる勝ち筋があるんなら、教えてほしい。

暇空氏が弁護団と共に起こすと予告している裁判がいくつかあるようだが、

何をどうやったら暇空氏が勝訴する裁判に持ち込めるのだろう?

監査請求に対する2月28日締め切りの報告

暇空氏の支持者はこれを楽しみにしているようだけど、これそんな大した話なの?

暇空氏はさんざんタコ部屋だの共産党だの不正受給だのナニカだの大陰謀論を展開してきたわけだろ?

それはほとんどが「デタラメ」だったわけじゃん?本人も支持者もそれはわかっとるよね?

その上で、仮に書類や申告にちょっと不備があったぐらいで、何をどのように大勝利宣言できるのだ?

しかも、不正受給どころか、間違って過少申告してた額がけっこうあって、

返還金なんて相殺されそうだし、少なくとも暇空氏の言うような「悪意で不正受給」は否定されるじゃん。

だいたいColaboが悪いってより東京都が悪いんじゃない?

しかもこれは2月28日の報告が不足だった場合の話であって、ちゃんと報告できる可能性もある。

しか監査請求(よくわからん)が受理されるのは異例のことなのかもしれんし、

補助事業ではなく委託事業であること、公金を使っていることを改めて指導徹底せよ」

みたいな怒られはちょっとあったけど、仮に、仮にそれらを全部認めたとしても、

暇空氏の大陰謀論とはかけ離れているのは誰でもわかるじゃん。

仮に、仮にColaboが2月28日ちゃんと報告できなかったとしても、

世間の、第三者の印象は、「やっぱり暇空の陰謀論デタラメだったのか」ってなるよ。

だってそれまでの主張とかけ離れすぎてるもの。「敗訴」とはインパクト全然違う。

「もうColaboは負けている」と主張する人たちは、勝ち負けのポイントをどこに置いてるの?

まさか

「金と時間だけはある暇空氏が、負けようとなんだろうとColaboへの嫌がらせ訴訟を起こしまくる」

みたいな泥仕合になればいいと思ってるのか?

そうなったら、ネット野次馬も、政治家も、メディアもみんなColaboをかばうよ。

本当に何をもって勝利しようとしているのか?

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

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 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

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 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

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 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

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 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

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