はてなキーワード: 解釈とは
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/bambi_yoshikawa/n/n7035883b5e2e
これを読んで「身に覚えのない男性への呪詛」と理解するのはどういう解釈なの。「日本の労働環境は最悪だ」は「日本人への呪詛」になるんだろうか。人権意識向上の必要性を感じるのが普通では
それとも事務職?
「ナニ」と比べて最悪なの?
「ドコ」」と比べて最悪なの?
それは「ニホン」が最悪なの?
言葉にしなよ
それを「日本の労働環境は最悪だ」と書いたら、それは日本≒構成する日本人への呪詛でしょ
逆に聞くけど
それ以外にどんな意図があるの?
それと引き換えニホンはダメ、他人の財産を勝手に壊さないなんてクソ、みたいな
ほぼほぼ単一民族で構成されてる日本での出来事だけど、日本人に向けてない日本に向けてるんだ、とか
馬鹿じゃないのかな
心優しい人が人権意識向上の必要性を感じたらブラック企業がなくなるのか?
心優しい人が人権意識向上の必要性を感じたら痴漢が減るのかよ?
その人はもともと心優しいのに?
全く関係ない普通に働く人が心を痛めたら劣悪派遣の労働条件は改善されるのか?
全く関係ない普通に過ごす人が心を痛めたらナンパがなくなるのか?
その人はもともと普通に過ごしてるのに?
違うだろ
個別具体的な話であるべきで「さいあくだー、にほんはーさいあくー」とかいう話じゃないだろ?
そこに関心がある人に向けて全力で呪詛を投げるんだよ
多分、痴漢するやつも、接待に「使う」やつも、性的暴行を誘導したやつも、これを読まないんだよ
ちなみに元記事だけど
「性的視線にさらされる」みたいな誰もが一定の自覚がある事象を頭において
よくある誘導だよ
これで、ウンウン頷く人は詐欺に気をつけたほうが良いよ
半裸の男が表紙になる必要はドコにあるの?
性的特徴の違いによって表出のされ方が違うだけだ
※追記
女性は開くボタンを押しているつもりだったかもしれません。あるいは乗り込んだら閉じるボタンを押すというルーチンがあり、それが開くボタンを押すことと混線したのかもしれません。擁護はいくらでも浮かびます。
しかし居合わせた身としては、咄嗟に不快感を感じました。自分でも戸惑いましたが、結局相手の行動を好意的に解釈するには微量の好意が必要であり、容姿に強い違和感を感じるとその好意すら心に湧いてこないのだと思い知りました。
その点で、容姿を気遣えないことは大きな損です。しかし当該の女性のそれは一時的な心身の不調由来ではなく、おそらく今後も改善されることはないと感ぜられる特徴がありました。その点で可哀想だと感じた次第です。
私は自分が無垢ではないと知っているつもりでしたが、こんなに憶測から他者を毛嫌いする人間だとは思っておりませんでした。現実に触れ、私は己の潔白の限界を知りました。同時に他者への理解も深まりました。今後は他者と自分のために身繕いをしようと思った次第です。
駅の改札階から地上に上がるエレベーターを待っていた。私の前にすでに女性がいて、その人がエレベーターを呼んでいた。地上に上がっていったエレベーターが、折り返して改札階に戻ってくるまでの冗長な待ち時間を過ごす。私の後ろにお婆さんが来て並んだ。エレベーターが来た。
女性、私、お婆さんの順に乗り込んだ。私が乗り込んだ時、女性がエレベーターパネルのボタンを押していることに気付いた。女性は「閉」ボタンを長押ししていた。私とお婆さんが乗り込んでいる最中に。
一瞬、押し間違いかと思った。あのボタンのマークが分かりづらくて混乱するという話をよく聞く。押し間違いであってくれと思った。駅のエレベーターは安全性が高めに設定されているのか、お婆さんが乗り込むまで、そして乗り終わってもしばらく閉まらなかった。少し間があり、女性はまたも閉じるボタンを押した。迷いのない動作だった。ここで私は、その女性がきちんと認識した上で閉ボタンを押したと確信した。
その女性は、客観的に見て美しくなかった。腰まで伸びたパサついた髪と、よれよれのサーモンピンクのカーディガン、二頭身にデフォルメされた青年男性キャラクターらしき大きなマスコットの付いた茶色の合皮のリュックサック。はばからずに言えばどこか足りていなさそうな、あるいは病んでいそうな後ろ姿だった。
だから気が利かなさそうだし、後続が乗り込んでいるにも関わらず閉まるボタンを押しそうな雰囲気はあると感じていた。しかし本当にそうなるとは。予想通りの性格の悪さに腹が立った。
しかし同時に、性格と容姿のどちらにも難のある人間に対する自分の敵意に驚いた。一瞬、こんな人間は自分の生活圏から居なくなってほしいとさえ思ったのだ。駅のエレベーターは優秀なので、別に挟まれたわけでもないのに。
普段なら、こういうことがあっても「ああ、まあそういう人もいるだろう」と思ってやり過ごせる。これがその女性相手には適用されなかったのはどういうことだろうか。考えた末に、こう結論が出た。すなわち自分は、その女性から不快感しか与えられなかったため、許容の閾値を超えてしまったと。
まず見た目に全く良いところがなかった。乗り込む時に見えた顔の造形もそうだし、髪や服装にも褒められるところがなく、ただただ不快な感じだった。そして、そんな格好をできる人間なので他者からの評価は気にならないタイプで、かつ自己中なところもあると推測された。そしてそれは行動によって証明された。
すなわち、たった数分程度でいくつもマイナスの印象を抱かされたのだ。ある意味すごいことだ。そしてその積み重ねが、私に普段感じないような嫌悪感を催させたのだ。
ここまで考えて、私は少し安堵した。私の許容値が変わったのではなく、目の前の相手が大きなマイナスを抱えているタイプの人間だと思えたからだ。きっと今日じゃない日に出会っても、私はその女性を疎ましく感じただろうと確信できた。
同じ人間なのに、こうも他の人とは異なるのは可哀想だと思いつつ、自分はそうはなるまいと決意してエレベーターを降りたのだった。
はじめに言っておくが、この内容全体が狂人の思考だから、一切共感は得られないと思う。自分が思考の整理のために書いている。できない理由探しにも捉えられられる文章なので、苛立つ人もいるだろう。というか大多数だと思う。
それでも許せる人だけが読んで欲しい。なお、この先「音楽ライブやフェス」をまとめて「ライブ」と書く。
私はライブに行くことができない。人混みだとか、環境や財力とかは問題ではない。あえて言うなら、私は私のことを「どのライブにも行くに値しない人間である」というふうに考えている。
音楽ライブに行くためには、どのようなアーティストに行くかの選定と、そこに対する深い知識が必要だ。
いくら優れたミュージシャン、自分のお気に入りのミュージシャンであっても、知名度や同世代(筆者は所謂Z世代に分類されるようだ)からの評価的にその名前を出して場が盛下がるのであればリソースを割くべきではないと感じる。
そして、私にとってより大きな問題なのが、「ライブに行く人間たるものそのアーティストの全てを知らねばならない」と言う感覚である。
ライブではどのような曲が演奏されるかは、その瞬間まで完璧には予想不可能である。ゆえに、可能な限り、すべての楽曲を把握していなければならない、と思っている。前で述べた、盛り上がる有名な大物アーティストほど、この傾向は強まる。少し大袈裟に言えば、そのアーティストの(せめてA面)全曲に聞き覚えがないと楽しめない気がする。しかしこれは時間的にとても難しい。
(余談だが、SNS上でセトリが公開される文化と言うのは、追いつこうとしているからでは、知らない曲が出る対策ではと言うふうに私は解釈している。絶対に違う)
若者に人気のアーティストは大概発表された曲数が多く追いつけず、曲数が少ないアーティストはそもそも盛り下がる。そんなジレンマがある。有名かつ物故者の場合は追いつけるが、そもそももうライブがない。
知らない曲を知ることができる、新しいアーティストに出会えると言うのはよくある言い分だと思うが、そもそもそんな無知な状態で、ライブに行って良いものか、ミュージシャンとその全ての曲を知るファン(絶対に存在する)への明確な侮辱ではないだろうか。
ヒット曲だけを追った「にわかファン」がライブという参加できる人数が限られる聖域に来ることは、単にサブスクで聞くことと違い、心の奥でしかめ面をされるのではないかと思ってしまう。実際ノることもできないで間違え、冷ややかな目で見られることも容易に想像がつく。
おまけに、このような私にとって、チケット代は高い。平気で安くても5000、6000円取ってくる。おまけに交通費などもかかる。全曲知らない確証がある状態で、そんな大博打をできるか?私にはできない。
ここまで言っていて、意外と思われるかもしれないが、別にライブなどのノリ、空気は嫌いではない。別のジャンルのそうした会にも行った経験はある。しかし、ことこうした音楽では、全てのコンテンツを聞くことができない。むしろどう頑張っても全て追いきれないジャンルの方が、受けは悪いが気楽だ。
https://www.womensrights.network/post/what-actually-is-the-risk-posed-by-transwomen
以下の計算は、国家統計局(ONS)の2021年国勢調査の性自認に関するデータと、情報公開法により入手した法務省(MoJ)の統計から引用した数字に基づいている。
ONSのデータによると、イングランドとウェールズでは47,572人がトランス女性であると自認している。
MoJの統計によれば、少なくとも1つの性犯罪を犯して刑務所に収監されているトランス女性の数は76人である。
76/47,496. これは、626人に1人のトランス女性が性犯罪を犯し、有罪判決を受けるといえる。
ONSのデータによると、イングランドとウェールズには29,177,340人の男性がいる。
MoJの統計によれば、少なくとも1つの性犯罪を犯して刑務所に収監されている男性の数は13,234人である。
つまり、男性の集団で性犯罪を犯し、有罪判決を受ける確率は、13,234/29,164,106となる。
すなわり、2,205人に1人の男性が性犯罪を犯し、有罪判決を受けるといえる。
トランス女性と男性の間で性犯罪で有罪判決を受けるリスクを比較するには、オッズ比(トランス女性が性犯罪を犯し有罪判決を受けるオッズを男性のオッズで割ったもの)を計算すればよい。
↑
弾速がいずれであるにせよ、次の弾を発射するには弾の長さ分通過する必要がある。
再掲しないとだめか?
そもそも俺は「薬莢」の話してなくてお前が勝手に薬莢云々してきたからこっちも議論が引っ張られただけなんだけどな
俺は「弾」というような表現しかしてなかったしその言わんとするところは「銃身を実際に通過して飛ぶ部分の長さ」なわけ。
少なくとも「弾」と言ってる以上そう解釈することもできたのに、勝手に薬莢込み弾のことだと言ってると勝手な方向に意味を固定化したのがお前というだけ。
誰が知的障害なんだろうね?
ただでさえ音速とかの速度を扱ってるんだから、少しでもブレットが長ければそれがボトルネックとして目に見えて影響してくる。
そしてそうやって揚げ足取りに意識が行ってて、いまだに弾の長さが確かに制約になってる一面があることを理解できてなさそうな時点で頭がアレ。こんだけやりとりしたのに一ミリも理解が進展してなさそうなのが笑える
(前半からの続きです。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093126
もっとも、現代アートは手放しで褒められるものでもないでしょう。多くの批判者が火のないところに煙を立てているとは言えないと思います。作品の出来が悪いものも混じっていることは否めません。
大方の批判にもかかわらず、私は今回のトリエンナーレではそのような「的外れ」感のある作品はほとんどないか、かなり少なかったと感じています。これもキュレーションのよさでしょう。
思い返せば2020年のトリエンナーレにあった「エビにSEXをさせる方法を考える」という一連の展示はひどかった。テーマはとてもよかったのですが、日本(だったと思います)のクリエイターたちの作品はふざけているとしか言いようのないものでした。その課題は、「エコスフィア」(エビと水草の入っている閉じた水槽)の中でエビは酸素を吸って二酸化炭素を出し、水草は二酸化炭素を吸って酸素を出す。この循環のバランスはうまく保たれているが、一つ問題があって、エビは生殖をしなくなる。そこでエビに生殖をさせる方法を考える、というものでした。多くの作品はエビにセクシーな格好をさせるとか、エビの秘宝館のようなものを作るとか、そういうものだったと記憶しています。しかし、クリエイターたちはこの「エコスフィア」が地球の生態系の比喩であると気づかなかったのでしょうか? だとしたら愚かに過ぎるとしか言えません。それとも、気づいていてこのような作品を作ったのでしょうか? だとしたら二倍悪い。エビとは「私たち」に外ならないのだから、つまりクリエイターたちは女がセクシーな格好をして男を誘えばよいと言いたいのでしょうか? それはあまりにも「男尊女卑」に終始していると言わざるをえません。そこには問題意識が欠如しています。「教授の課題テーマはよかったが、学生たちのレポートがだめだったという感じだ。」私は友人とそう語りあったことを覚えています。
2020年といえば壁にブレインストーミングのように年号と出来事を書いてゆく展示もありました。そこには作家のメモも展示してあり、『荘子』の「胡蝶の夢」の故事が引用してありましたが、「與」を「興」と書き誤っていたことを覚えています。自分のことは棚に上げつつ、非本質的でささいな事をあげつらうようですが、「どうかわからないことで見栄をはらないでほしい」と思われてなりませんでした。
現代芸術の作家たちの一部が「見栄をはろう」としていることは薄々感じられます。人文学、哲学、歴史学、経済学などに議論の蓄積がありとっくに通過してきた知見について、芸術家たちが何周も遅れて的外れなことを言っている光景は、あまりみっともいいものではありません。なぜそのようなことになっているかといえば、芸術家が「作品」だけではなく、その「意味」で評価されるようになっているからでしょうか。
かつて芸術家は貴族の注文にこたえて絵を描いていたそうです。今の作家は自由に作品を作れるはずなのに、ただ社会の要請にこたえて作品を作ろうとして、中身のないステートメントを打ち出しているのは、痛々しくさえあります。
しかし、これは決して「アーティストはよけいなことを考えるな」と言いたいわけではなく、むしろその逆で「もっと学問をしてほしい」ということです。しかもそれは「芸術家」としての意識以前に、「市民」として当たり前にもつべき意識であると思うのです。芸術家は作品だけで力のある面白い作品を作って、そしてそれとは別に最低限、当たり前に市民として的外れでない発言もしてほしいのです。
トリエンナーレと同時開催の展覧会Bank ART Life7「UrbanNesting: 再び都市に棲む」に足を運ぶと、新高島駅地下1階の会場の入口には巨大な土のダンゴがありました。これはかなり面白かったのですが、説明を見ると福島の土で作ったとありました。もちろん福島の原発事故はまだ収束したと言えませんし、提示された問題は深刻です。しかし、その場では私も友人も何となく興が醒めてしまったのです。それはなぜでしょう? 何となく、「作品の面白さにテーマが負けている」と感じました。私も「キラキラ」なアートを好む一員であり、私の中で「無意味」のもつ破壊的な力に「意味」が負けてしまったのかもしれません。あるいはその逆で、テーマの重さのために、作品が軽く見えてしまったのかもしれません。いずれにしても、私は作品のよい受け手になることができませんでした。
しかし問題は受け手だけにあるのではないと思います。「作品」と「意味」のバランスは難しいことであり、作り手の側でもうまく調整しなければならないものです。先程述べた通り、今回の展覧会にはピンボケな作品が少ないと感じました。しかし、今回の出品作のうち、どれくらいが「意味」(言葉による解説)なしに「作品」だけの魅力で勝負できるものだったかは疑問も残ります。
今回の展示にあったBゼミの試みはよかった。「意味のないものを作る」とか「新しい楽器を作る」とか、芸術を意味から解き放つような試みは今でも頼もしく思われます。どうもいまのアートは、意味を付与された瞬間に弱くなってしまうような気がしています。作品と意味との関係性については、まだまだ考える余地がありそうに思います。
私の身近に YOASOBI のアニソンが好きでないという人がいます。「アニソンというのはアニメの解釈であり、アニメへの讃歌であり、しかしアニメ本編とはズレているから面白い。YOASOBI の歌はアニメのストーリーをそのまま歌っている。だから面白くない」と言うのです。何となくわかる気もします。偉そうに勝手なことを言うならば、現代芸術も世界にあるモノをそのまま出すのでなく、世界をアートの形で表現するとどうなるのか、「意味」に傾きすぎず「作品」の力で見せてほしいと思います。
しかし、芸術に「意味」をこめるなというつもりではありません。批判者の中には、芸術家は被災地を創作で消費するのではなく、実際に活動をすることで被災地に貢献すべきだというような意見を言う人があったような気がします。もちろんそのような活動はしないよりもしたほうがよいのですが、それはあくまで「市民」としてのはたらきであって、「芸術家」としてのはたらきではないでしょう。芸術家には芸術家にできることがあり、それは創作であるということを否定するつもりはありません。しかし、だからこそ「作品」と「意味」にはもっとよい関係があるのではないかと思います。その答えが何かということは、残念ながら即座に提示できないので、偉そうに勝手なことを言うだけになってしまうのですが……。
批判めいたことのついでに言えば、今回のトリエンナーレを批判する意見の中には、電気を使ったインスタレーションと環境問題を訴える作品を同じ空間に並べることの違和感を語る人がいたように記憶しています。その違和感も理解できますが、それとは別に、芸術と資本の関係という問題も感じました。入り口の協賛企業の一覧を見たとき、たいへん違和感がありました。資本主義への警鐘をならす作品(全てではないにしろ)が、大資本の資金で展示できるとは! 大企業はそのようなお金を出すほうがよいと思いますけれど、その一方で企業がそれを「みかじめ料」として批判されなくなるべきではもちろんないでしょう。作品が意味をもつときには、その作品のおかれる「場」までもが、自らの意味を暴露するようになるのかもしれない。初っ端からそんなことを考えさせられるなかなか面白い「展示」でした。
咎め立てばかりしてしまったようですが、最後によかったところをいくつか述べたいと思います。友人は、今回のキュレーターの解説文(紹介文)がよかったと言っていました。友人によると今や「この作品はこう見るべきだ、ここが素晴らしいのだと天から決めつけて、自分に酔ったような解説」を見ることも多いなかで、今回の解説文は「キュレーター自身が作品をどう見るか、真摯に考えて書かれていたので好感が持てる」というのです。また、「キュレーションにも工夫が多かったような気がする。例えば商業主義のマルボロの広告の下にインドの貧しい生活を描いた版画を配置するなど、『対比』を意識したものがいくつかあったように感じた」とも言っていました。キュレーターの仕掛けた「作品」と「意味」の関係性のバランスは果たして十分達成されたかどうか、それはよくわかりませんが、キュレーターが真剣に構成しており、私たちに問いかけるものがあったのは確かだと思います。
要するに、初めに述べた通り「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということです。言いたいことはこれに尽きます。
魅力のある作品も少なくありませんでした。友人は勅使河原蒼風のファンになり、富山妙子の画集を買いました。私は土肥美穂の buttaiが気に入りました。同時開催のBankART Life7では、みなとみらい駅の腕木信号のオブジェや、Bank ART Stationにあった送風機で立ち上がる足などの機械仕掛けの作品が好きでした。
つらつらと思いつくまま書くうちに、思いがけなく長文になってしまいました。次回のトリエンナーレにも期待しつつ、このあたりで終わりにします。
物語を読んでる最中に、登場人物の心情とか背景とか、全部教えられちゃったらどうなる?読者の脳みそがまるでスイッチを切ったように、何も考えなくなる。
例えば、登場人物が何を考えているか、どう感じているかを全部明かされずに、ちょっとしたヒントだけを与えられるとする。すると読者は、自分なりに解釈して、想像力をフル稼働させる。
その結果、物語に対する愛着も深まるし、何よりも楽しみ方が広がる。
逆に、創作の中で説明が過剰になると、読者はただの受け身になっちまう。
作者の意図をそのまま受け取るだけの、まるで教科書を読んでるかのようなつまらない体験になる。そんなのは、まぁ、つまらない。
だからこそ、説明不足ってのは意図的に仕掛けるべきテクニックなんだよ。
読者に考えさせ、想像させることで、物語に対する没入感も増す。そういう意味で、読者や視聴者を信じて、むしろ挑発的に情報不足を生み出してもいいと思う。
(2024/06/09 追記)
旦那さんは躁鬱かも。自分も5~6年前までは旦那さんと同じく短気だった。電車から降りる人より先に乗ろうとする人、傘の先端を後ろに振って歩く人、横断歩道を無視する車、政治家の汚職や不倫のニュースなどを見るたびにイライラして、文句を口にしていた。今思うと、これは躁鬱の症状だったと思う。自分が躁鬱だと自覚・改善するきっかけになったものを書いていく。今はイライラと上手く付き合えるようになり、人生が楽しくなった。それから、付き添ってくれた妻には本当に感謝している。あなたの旦那さんが自分と重なってしまい、自分もあの時気づけてなかったらと思うと、いてもたってもいられずに書いた。少しでも力になれれば。
※以下で紹介する情報は数年前に触れたので、うろ覚えでテキトーな部分があるかも。あくまで今の自分の解釈なので、鵜呑みにせず、旦那さんの心の準備ができたら精神科の受診をオススメする。
この映画がきっかけで鬱だと気づけた。鬱のイメージが変わった。「鬱はぐったりと元気のない精神病。気弱な人がなるもの」と思っていたが、実際は「些細なことにイライラしがちな人がなりやすい病気で、イライラと元気のない状態を繰り返すもの(=躁鬱)」だと知った。まさに主人公も自分もそういう人間で、共感しすぎて見終わったら泣いてた。特に、妻に辛く当たった後に自己嫌悪に陥るシーンは、自分にとってはあるあるだった。見終わった後、妻に改めて感謝し、改善していきいたいと思えた。ちなみに鬱は 「完治させる」のではなく「改善していく。上手く付き合っていく」 と考えた方がいいみたい。焦って治そうとすると、治らないことにイライラして再び自己嫌悪。
この本が改善のきっかけ。特に学びになったのが 「評価は人の居場所を奪い、感謝は人の居場所を作る」 こと。
評価とは、人間に良し悪しをつける行為。愚痴やネットでの誹謗中傷がそうだし、あなたの旦那さんや私が、待ちゆく人やテレビに対して言う文句もそう。他人を評価することは、相対的に自分を評価することになる。例えば、電車でマナーの悪い人にイライラするのは、その人を悪く評価してる反面、マナーを守ってる自分を良く評価してることになる。評価を繰り返すうちに、理想のみが高かまっていき、自分が追いつけなくなると居場所を失う。居場所を守るために自分に厳しくしてると、許容量を超え、次第に矛先が他人に向き始める。余計に他人にイライラする。負のスパイラル。また、意外だが「褒める」ことも評価であり、人の居場所を奪う。「あの人は優秀」とか。優秀な人を見ると自分がダメに思えて悲しくなるのは、勝手に自分も評価して居場所を無くしてるから。また「お前に褒められても嬉しくねーよ」って感じるのは、自分より下だと思ってる人間に居場所を奪われる不快感だと思う。
感謝は逆に人の居場所を作る。だから、居場所を得たければ、他人に感謝をされること(他者貢献)をするといいらしい。本にはここまでしか書いてなかった。それを知ってからは、いろんな場面で親切を心がけるようにした。ただ、だんだん感謝されないとイライラするようになった。そこで気づいたが、自分は「感謝されたい」という気持ちでいっぱいになっていた。逆に、世の中には自分と同じように「感謝されたい」人がたくさんいるんじゃないかとも思った。そして、感謝を伝えることは誰かの居場所を作れるということであり、それ自体が他者貢献 になるのでは?と考えた。それ以来、一切の評価を辞め、些細なことにも感謝するよう心がけた。例えば、今日も飯が食えることとか。生きてることとか。他人を褒めそうになったときは、感謝に置き換えた。例えば、活躍するスポーツ選手のニュースを見たら「すごい」じゃなく「頑張ってる姿を見ると、自分も頑張ろうと思えるな。ありがたい」とか。次第に、悪いことより、ありがたいことに目が向くようになり、「自分の人生、恵まれてんじゃん」と幸福度が増した。イライラも減った。
また、人間は良いことよりも悪いことに敏感らしいので、気づくと感謝を忘れてイライラが再発した。なので、感謝を習慣付けるため、以下の2つに取り組んだ。
自分は3つ言うようにしてる。少なくとも1つは言う。些細なことでいい、「洗い物ありがとう」とか。ただ、厳格にルール化するとしんどいので、もちろん忘れちゃう日があってもいい。次第に、寝る前以外も自然と感謝が言えるようになる。小っ恥ずかしいけど、互いに居場所を作ることができ、それが夫婦円満に繋がる。
日記といっても毎日はしんどいので、誰かに何かしてもらったときだけスマホにメモるくらいでいい。メンタルがしんどくなったときに見返すと「そーいや、こんな嬉しいことあったっけ」とマシになる。家族や同僚のミスも「こんだけありがたいことしてもらえてたんだよな」と許せるようになる。あと、この日記は意外な場面でも役立つ。記念日や友人の結婚式、同僚の退職時など、メッセージを考えるのに困らない。
を言ってほしいかも。そうしないと、何度も「二度としません」を繰り返すことになる。自分と妻がそうだった。旦那さんは、きっと 安心や信頼が欲しい んだと思う。旦那さんに一緒に考えてもらうのもいいと思う。自分も妻と一緒に具体的な再発防止策を考えるようになってから、感情的な口論が減った。
アンガーマネジメント超入門 「怒り」が消える心のトレーニング [図解 (特装版)]
自分も読み途中だが、怒りを抑えるだけではなく、そもそも怒りづらくなる方法や、怒りを上手く伝える方法なども書いてある。ちなみに、自分は今まで以下の考え方で怒りを鎮めてきた。
「気がつきすぎて疲れる」が驚くほどなくなる 「繊細さん」の本
旦那さんは、ひょっとしたらHSPかも(病気じゃなく性質)。HSPだと細かいことに気づきやすい。いい意味でも悪い意味でも。もし、飲み会など大人数の集まり後にグッタリしたり、光や音に敏感だったり、お腹すくとすごいイライラしたりする場合は、その可能性あるかも。ちなみに自分もHSPで、この本を読んだら楽になった。自分の妻は非・繊細さんなのだが、繊細さんと非・繊細さんの上手い付き合い方が載っていて、互いに勉強になった。
わかってらっしゃるとは思うが、上記を本人に無理矢理、読ませるのは逆効果。自分も会社にアンガーマネージメント講座を強制されたときはキレた。本人が知りたいと思ったときに、そっと差し伸べる程度で。ただ、本人に任せてたら状況は変わらないので「評価は居場所を奪い、感謝は居場所を作って、イライラを抑えられるんだって〜」くらいのノリで、 奥さんから日頃の感謝を伝えてみる のがいいのかも。相手は変えられないので。結婚はしたのだから、きっと旦那さんにも素敵なところがたくさんあるはず。楽しかった思い出を振り返ってみて。人生をつまらない文句やイライラではなく、楽しいことで満たしたいよね。
しばらくはしんどいと思うけど、峠を超えて、旦那さんがあなたが付き添ってくれたことに感謝してくれる日が来ることを願う。ただ、他人を変えるのは相当大変なことなので、ヤバくなったらあなた自身の人生を最優先してくださいね。長文失礼。
例えばAとBの説があったとして、「反ワク」というのは「反A」と言ってるに過ぎない。
何の意味も成してない。それなのに論破できると思っているのは、Bを信仰しているからである。
そもそも「反ワク」という言葉は、複数の解釈ができて厳密に意味を限定できない。
例えば、ある特定の工場で製造された特定の時期のmRNAコロナワクチンに問題があると主張するのも反ワクだし、
この世に存在する全てのワクチンに問題があると主張するのも反ワクだ。当然いくらでもグラデーションがある。
あなたがテレビゲームをプレイしてバグを見つけそれを報告したら、「反ゲーム」と言われることを想像して見て欲しい。
「反ワク」という言葉を使う人はそれと同じ事をやっているのだ。
科学的な議論をするなら、言葉の定義は奇数と偶数のように厳密にするように努めるべきである。
「反ワク」なんて論外中の論外だ。
この1億番煎じくらいの話を今更長文で書いてる奴ってどういうモチベーションでやってるんだ?
この認識でずっとやってきて結果が全く出てないんだから認識がおかしいってことなんだよ。
例えば、「結婚した夫婦の完結出生児数は変わっていない」「だから結婚させれば子供は増えるはず」というロジックが正しい保証は何もない。
現代においては「子供を欲しくない人間が結婚してないだけ」という可能性が大いにあるからだ。子供欲しくない人間を結婚させれば子供が欲しくなるということは過去のデータから結論できることではない。
過去とは、子供を持つことに対する社会的圧力も、子育てにかかる金銭的・非金銭的リソースの大きさも全く違うからだ。
データを雑に解釈して間違った結論を出し、間違った結論に基づいて対策を行っているから効果が出てないと考える方が自然だろう。
・胃が痛くなるような映画だった
・「主人公」として入れ込めるか入れ込めないかの天秤がずっと揺れ続けて本編のストレス(否定ではない)と相まって彼氏いるなら〜までネタバレしてて観てるのに頭がずっと忙しかった
倫理的には「よくない」けど他の人がウルフオブウォールストリート主人公アイドル版と書いていたような法律的にアウトな事はやってないし社会人になったらこの行動力とか人を巻き込む力は間違いなく武器になるしもうストレスフル(否定ではない)すぎて途中から「これは社会人になってアイドルの夢は叶わなかったけどその後倫理感あかなりアレだが超敏腕レジェンドアイドルマネージャーになった主人公ちゃんの学生時代回想映画なんじゃ…」と自分に言い聞かせながら視聴してた 最後アイドルとしてやっていける所は少しご都合に感じた 主人公ちゃんは他の人の感想で見たような「カスの蛭魔妖一」的な魅力はあるけどアイドルとしての華とかわかりやすいキャッチーさは少し他のアイドルと比べると欠けるから裏方として異常な行動力とバイタリティで名を轟かせる方が将来解釈としてしっくりきた
いや夢が叶えられた「10年後」だからこそ振り返って「トラペジウム」というラストだからそんな事言っても公式のラストがそうならそうなんじゃろ!なんだけど
・理系女子はあのメガネ写真男子が好きだったということでおk? あのプールの笑顔→主人公ちゃん出てきてのムスーとかラストの写真展の感じ(久々に会ってあの手を振ってツーカー感は出んやろ)とか
理系男子空間にあんなに可愛い子がいたら100%好きに…なっちゃうだろうが!!!
・あのメガネ写真男子初見の「なんか受けっぺえ男子出てきたいや逆に攻めか?」感と「主人公ちゃんにぬいペニすんなよ…いや主人公ちゃんの自我の強さに押しつぶされそうだけど」という相反する気持ち あ、赤いドレス??!口紅???エッッッ こちとらギャグとして受け取る感性じゃねえんだわ
・偶然でも流れでもないんだ…全て主人公ちゃんに仕組まれたものなんだ…
・最初の「こっからアイドルグループメンバー集めるの…?覚えられるかな…?」からあまりに手際よく集められ頭にいれさせて頂いてほんまこの手際の良さ天才の所業すぎるだろ あの隠れてやる指の「〇人目確保」が特に天才全ての「示唆」的すぎる
・田舎でアイドルものあるある「田舎にこんな美少女が集まるかよ」
・これは観終わったあと感想書きたくなる作品 賛にしろ否にしろ
・元アイドルグループの人が書いただけあってアイドルグループの闇描写のエッセンスが的確なんやろなあ…→的確すぎて胃が痛くなりそう(否定ではない)です
特にエグすぎてかなり薄めてあったけど「一人だけ歌う→私だけ〜」とかがなんか色々生々しかった 口パクというかなんかそういう運営の機微的に対する感情の鬱憤蓄積 オタクが泣き出さない程度にかな〜〜〜り薄めてくれてるけど目茶苦茶色々あるんやろなあと思いました
・ラスト10年後の彼氏いた子が妊娠(2人目)してるのもよかった あの絵柄とか流される他映画予告から察されるメインターゲット層は男性のアイドル映画で女性の人生の選択肢の1つとして「結婚して妊娠する」っていうのをドン!って提示するのはかなり度胸がある選択をしてスゲェ〜!ってなった バービーのラストみたいな感動があった
しかし女萌え豚の自分が逆やられたらあたまがおかしくなりそう…
でも初見で「男好きそう」とか「彼氏いるなら〜」とか微妙に平成モテ意識女子みたいな制服着こなしとかこの子は相手いますを存分に知らせてもらってたから今回は心の受け身を取れた 己の中の矛盾…所詮処女厨
・上記の描写とか「君は…女の子が好きなの?」とか令和の映画だ…
みんなスーツとか大人っぽい服きて「顔老けてねえ!服以外変わってねえ!」じゃなくて時間の経過とライフステージの変遷を感じさせてくれる
適応しようとする心つよい 必要な時に他人をフォローしたりすき
・おじいさん×2の声は無理があるだろ!!
・カナダで〜英語話者〜とかは原作者?のアイドルの人からなのかな
・アイドルになれるけどならないなりたくないという強者の余裕 しかもロボコンで銀賞…?才色兼備すぎるだろ…
・予定が後に入ってる状態だとそこに若干意識取られてクソ〜ってなった 完全フリーの時に観たかった けど今日しか見れる日なかったんじゃ
まずその二つは二者が別の論を唱えているから別の状態を指してることは明らかじゃん
元増田が現れてるが人として見れないことを前提に自分を騙して口説くっていってるね、これは女性側から見るとけっこうやな感じだな、仕方ないけど
でもその自分を騙すって部分は結局相手を過剰に意識しないってことで共通してるから「過剰に意識しすぎない」ところまではコンセンサスが取れてるわけで、理想とされる普通に接する態度に擬態をする、プラスアピールをしているという状態だという解釈になる
私は女だから①→②で段階が変わるという理論に対して、相手に少しでも好意が発生したらだ、と答えるね
両思いになる前の段階で人としての好意が発生して②を経てさらに意識して恋愛になるというのは普通の恋愛の超王道パターンで、相手も多少意識しているという状態が理想的、そうじゃなくても人としての好感があればアピールくらいは受け止めて貰えるよ、という話だと思う
ただ非モテの視線では、それがいつまでもゼロなんだよ、ということがありえる、人間として振る舞うだけでは全く異性として引っかからないしキモがられるって話をしてる人がいるんだよねたぶん
私は自分的にない人にNOを示したことが何回かあるし、女子が残酷に男子の好意を扱うのも見たことあるから、何にキレてるかわからなくはないんだよ
ここを打算的に回避する方法論を考えるなら、距離感の関係値や周りからの評価を上げておいて、少しくらい好意をアピールしてキモがられても脈がなかったねで済む状態にするという話になるのかもしれない、まず相手からの好感がない恋愛感情ってそれ自体が危険なものなので、拒否られるか、満更でもないのかは天と地の差があって、同じことをしてもキモがられるというのはどうしようもないことなわけ
そこから本当に魅力がない人間が恋愛をするにはどうすればいいかって話をしだすとちょっと長すぎるかも
書いてたら本当に意識してなかった年上に好意があると伝えられたときのイラつきが蘇ってきた、アピールする相手に問題があるから拒否られるというケースをやってるやつは、そもそも相手に恋愛的な好意があるかどうかを少しは見極めろよ、好意を持たれてない相手に恋愛感情を持っていてそれを押し付けるっていうのは、ほとんどが性欲が暴走してるだけでそれが伝わるから女が過剰に拒否するんだよ
バラモン左翼に加えて、新たに贅沢品としての信念として左翼批判が出てきたけど
決して左翼ってそれらの批判を受け入れることなく、けど右翼よりマシだよねって話にすり替えちゃうんよな
共産党は時給1500円って言ってる一方で、自民党も実は段階的に上げて1500円を目指すって同じこと言ってるんよ
これだけの違いでしかないんだけど、左翼の人は自民党は弱者を救わない、共産党が弱者の味方って言っちゃう
そもそも、弱者はただ時給が今すぐ1500円になれば救われるなんて思ってない
『モテたければ人として接しろ』というアドバイスはまちがい。正確には『個人として接しろ』 - 自意識高い系男子
これ読んで、日本語の「人」はpersonの意味とhumanの意味の両方があるんだな、と気付いた。
元増田は、暗黙に、人をperson、人間をhumanという区別をしていると思う。
ただ、日本語の「人」はどっちの意味でも使えるので、誤解が生じるような文脈で、
personの意味で人と言いたい場合は、個人や人格と言った方がよいのだと思う。
別の増田で、
・「人間扱い」とは、十把一絡げの「女性扱い」ではなく個人個人に合わせた扱いのことだよ派(抽象度を下げろ派)
・「人間扱い」とは、性差を意識した「女性扱い」ではなく男性と同じように/無性かのように扱うことだよ派(抽象度を上げろ派)
個人的には「人間扱い」といったら人間一般に適用できる後者を指すべきで、前者は「個人扱い」とでも呼ぶべきじゃないかと思うが
ってのがあるけど、まさに前者がperson、後者がhumanだと思う。
いずれにせよ、「人」は多義的なので、「個人」や「人格」と言い換えた方が正しく伝わる、というのはその通りだと思うけれど、
「人」にはpersonの意味もあるので、「人として扱う」という言い方もまちがいではないと思う。
実際、自分もpersonの意味で読んでいて、上述の記事を読むまで、その多義性に気付いていなかった。
さっき「誤解が生じるような文脈で」と書いたけれど、
個人的には、恋愛や人間関係についての話のなかででてくる「人として扱う」が「personとして扱う」以外の意味を持つとは思ってもみなかった。
ミュージカルは役者の演技によって解釈が分かれることもあるから原作と異なる読み取り方をされることもある(意訳)、まではわかるけど本筋の話題を逸れてまで関係ないオタク語りしてんなよXでやれ気色悪い
渦中のポストは最近の話だから岩城ファントムはこういう演技をするからこう解釈されたのかも!ならわかるけど比較に出されてる大昔のキャストの演技は直接関係ないし以降の語りはもう完全に本題から逸れてるし、自分の好きな作品と俳優の話したいだけだろ
エドワード・ウィッテンは、幾何学的なラングランズ・プログラムの一部とアイデアとの関係について「電気・磁気の二重性と幾何学的なラングランズ・プログラム」を執筆した。
ラングランズ プログラムに関する背景: 1967 年、ロバート ラングランズは、当時同研究所の教授だったアンドレ ヴェイユに17ページの手書きの手紙を書き、その中で大統一理論を提案した。それは、数論、代数幾何学、保型形式の理論における一見無関係な概念を関連付ける。読みやすくするためにヴェイユの要望で作成されたこの手紙のタイプされたコピーは、1960 年代後半から 1970 年代にかけて数学者の間で広く流通し、数学者たちは 40 年以上にわたり、ラングランズ プログラムとして総称されるその予想に取り組んできた。
弦理論やゲージ理論の双対性の背景を持つ物理学者は、カプースチンとの幾何学的ラングランズに関する論文を理解できるが、ほとんどの物理学者にとって、このトピックは詳細すぎて興味をそそるものではない。
一方で、数学者にとっては興味深いテーマだが、場の量子論や弦理論の背景には馴染みのない部分が多すぎるため、理解するのは困難(厳密に定式化するのは困難)。
短期的にどのような進歩があれば、数学者にとって幾何学的なラングランズのゲージ理論解釈が利用できるようになるのかを見極めるのは、実際には非常に難しい。
ゲージ理論とホバノフホモロジーが数学者によって認識され評価されるのを見られるだろうか。
弦理論の研究者として取り組んでいる物理理論が数論として興味深いものであることを示す多くのことがわかっている。
ここ数年、4 次元の超対称ゲージ理論とその親戚である 6 次元に取り組んでいる物理学者は、臨界レベルでの共形場理論の役割に関わるいくつかの発見を行っているため、この点を解決する時期が来たのかもしれない。
過去20年間、数学と物理学の相互作用は非常に豊かであり続けただけでなく、その多様性が発展したが、私は恥ずかしいことにほとんど理解できていない。
これは今後も続くだろう、それが続く理由は場の量子論と弦理論がどういうわけか豊かな数学的秘密を持っているからだ。
これらの秘密の一部が表面化すると、物理学者にとってはしばしば驚きとなることがよくある。
なぜなら、超弦理論を物理学として正しく理解していないから。つまり、その背後にある核となる考え方を理解していない。
数学者は場の量子論を完全に理解することができていないため、そこから得られる事柄は驚くべきものである。
したがって、生み出される物理学と数学のアイデアは長い間驚くべきものになるだろう。
1990 年代に、さまざまな弦理論が非摂動双対性によって統合されており、弦理論はある意味で本質的に量子力学的なものであることが明らかになり、より広い視野を得ることができた。
何で引っ掛けたらいいか知らんけど、じゃあ「夜勤」だと1343, 1139, 1081ブクマくらい? その中の一個の注目コメ抜粋すると
そう。そうなんだよ。こういう市井に生きる人が紡ぐ呼吸のような文章が読みたくて増田やはてブに入り浸るようになったんだよ私は。