はてなキーワード: 表彰とは
子供をたくさん産んだ人を表彰すると、産めない、産まない人を貶めることになるのかなあ?
足が早い人を表彰したら走るの嫌いな人や足のない人を貶めることになる?
素晴らしい研究を表彰したら研究がうまくいかない人や能力のない人を貶めることになる?
お手伝いをしたたかしくんをみんなの前で褒めたらお手伝いをしなかったゆうすけくんを貶めることになる?
何も言及せずとも相対的に貶めているということ?世界ランクが下がるということ?
自分のできないことを人ができるのが嫌な気持ちはわかる。嫉妬という名前がついていてそれは自分の感情だ。
表彰とかアホか。
結局さぁ、今だって子供が欲しいやつは産んでるんだよな。年収に関わらず。
ブコメで「補助があればもう1人くらい産んであげるのにな〜?」とかチラチラしてる奴らは、断言するけど、補助増やしたとしても絶対に産まない。構って欲しい讃えてほしいだけ。
少子化は解消されないものとして、それ以外での労働力の確保あるいは必要労働力の効率化する方向へ舵を切ってそっちに予算をかけるべき。
今の政治家は自分が逃げ切れればいいだけ。少子化対策とか言っておけばバカな奴らがホイホイ釣れて票入れてくれるから表面上取り組んでるように見せているだけで、何も根本解決にならないしする気もない。仕事してるように見せてるだけ。
https://anond.hatelabo.jp/20170612191223 の続き
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なんだかんだあって、今年の年収が1億円に達する見込みだ
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100万円しか持ってなかったときは、安心するのには1000万円必要だと思っていた。
1000万円に到達したときは、5000万円は欲しいと思っていた。
1億円に到達した今、10億円は欲しいと思っている。
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というもの年収1億円ということは手取り5000万円くらいになる。税金って恐ろしいね。
なんか高度な手法を使って課税逃れをしてる人もいるけど、私は真面目に愚直に5000万円納めるつもりだ。
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話がずれたけど5000万円じゃ一生過ごすのはなかなか厳しい。
豪華な暮らしをするなら5億円は欲しいけど、税金を考えると10億円も稼がないといけないことになる。
もちろん年収1億円以上が継続するなら何も心配はいらないけどそんなラッキーがいつまでも続くわけがない。
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この文章で伝えたかったことは、人間の欲望には天井がないということだ。
今後どうなることやら。
国際かんがい排水委員会(ICID)は、かんがいの歴史・発展を明らかにし、理解醸成を図るとともに、かんがい施設の適切な保全に
資することを目的として、建設から100年以上経過し、かんがい農業の発展に貢献したもの、卓越した技術により建設されたもの等、
歴史的・技術的・社会的価値のあるかんがい施設を登録・表彰するために、世界かんがい施設遺産制度を創設しました。
登録により、かんがい施設の持続的な活用・保全方法の蓄積、研究者・一般市民への教育機会の提供、かんがい施設の維持管理に
おやこ劇場という団体があります。簡単に言うと、親子での観劇などの活動をする為の団体です。が、活動は観劇に限りません。
ウィキペディアを参照してください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%82%84%E3%81%93%E5%8A%87%E5%A0%B4
おやこ劇場(おやこげきじょう)(こども劇場(こどもげきじょう)という名称の場合もある)は、親子で舞台芸術を鑑賞し、また他の親子とともに色々な活動をすることなどを通して子供たちの感性を豊かに育てることを目的とした団体である。全国に、同様の団体が多数存在し、基本的に団体が存在する地域を名前に含んでいる。任意団体であるものが多いが、NPO法人格を取得している団体もある。基本的には毎月親子で会費を払って加入し、2ヶ月に1回程度、舞台鑑賞の機会を持つことが多いが、それぞれの地域の特性に合わせて会費、運営方法は異なる。運営は参加者自身の手によって行われており、特定の宗教、政治団体との関係性はない。略称は「おやこ劇場」「こども劇場」「劇場」など。
googleでおやこ劇場を検索すると、「勧誘」「宗教」「共産党」というキーワードがサジェストに登場します。
調べてみると、このような観点でおやこ劇場を見る人もいるのだなあと思いました。
私も、とあるおやこ劇場と関わりがありますが、こちらでは特に「宗教」とか「共産党」という雰囲気はありませんでした。
ただ思い出すのは、子ども関係のチラシに混じって、戦争(戦争法案?)反対的なチラシが恐らく一種類、事務所に置かれていたのを思い出しました。場違いではありますが、それにしたって、一種類程ですし、劇場の入会の時や普段の活動で貰った事は無かったので、おやこ劇場が特定の政治主張や活動に結びついている感じは受けませんでした。仮に、週刊金曜日でも置いてあれば話は別かもしれませんが、そんな物は当然置いてありませんしね。朝日新聞や毎日新聞や新聞赤旗も置いてありません。
会誌を読んでも、左翼的というかその様な活動実績も、政治的な書籍紹介も見た事がありません。
誰かが持ってきた日の丸の置物があった事もありました。
というわけで、割とネット右翼寄りの私でも感じるのはこの程度でした。
本棚にこち亀だったか、電車男だったかが置かれていましたが、あれについてはどういう経緯で置いてあるのか分かりません。
私が関わっているおやこ劇場は、県か県知事から表彰されているおやこ劇場ですから、運営が変であれば問題になるかもしれませんね。
あいつらは「批判」をすっごい悪いことって意味で使ってるの。
「批判」は和を乱すとか喧嘩を売るって意味でしかない。ケチをつける。因縁をつける。人の気分を悪くする。
批判は、すごくネガティブな、ピースフルでない、縁起の悪い行いなわけ。喧嘩とかケチ付けってことなわけ。
と、ここのコメントの1つ
研究者の頭脳と時間を、違うことに使いすぎている - 日経テクノロジーオンライン → ブコメ
基礎研究と応用研究、政治家はアカデミズムと算数ドリルがまだ区別できておらず「基礎なんかすっ飛ばして最初から応用問題が解けた方が効率よいし偉くね?」って本気で思ってそうなくらい、基礎研究軽視だからなー
2017/06/24 17:10
なんで歴代ノーベル賞受賞者の面々が口を揃えて異口同音に「日本は基礎研究に予算かけなさすぎ」って叫んでるのに、政治が一向に基礎研究への予算配分増に対して及び腰なのか、
一方で金欠だ振興費はもう頭打ちだと言う割に「チョコレートで脳が若返る」とかいう、明治のPRにノせられスライドだけ無駄に立派なトンデモ似非研究に内閣府が飛び付いて、予算がすんなりタンマリ通るのか、自分の中で勝手に謎が氷解した。
いつもなら「選ぶ側の政治家が科学や研究学問に対して無知無理解だから」「真偽を判断するだけの科学リテラシーと知識が無いから」で済まされて、最終的に「日本の政治家がバカばかりなのが悪い」と結論づけられるが、
多分それだけじゃない。使ってる言語体系と価値観の相違も勘定に入れるべきだったんだ。
つまり、内閣府の皆さんや現行の政治家の皆さんの多くが「基礎研究」「応用研究」の頭に付く「基礎/応用」という修飾語を、我々と違うニュアンスで捉えてるかもしれない、ってことだ。
・「基礎研究」と「応用研究」(大学や研究機関)
・「基礎問題」と「応用問題」(数学の問題集)
似てるようで全く異なる両者を、同じ意味でイメージしていらっしゃる可能性が非常に高いかもしれない…ってことだ。
つまり
「基礎研究というものは、延々と3+(-4)=-1… みたいな、計算ドリル初歩の練習問題を繰り返してつまづいている段階であり、それすらすぐ正答できないという事は無知で後進的で恥ずべきこと。
基礎なんかはもうとっくに出来てる前提で、応用研究(問題)がスラスラ解けるようになる事が到達目標であり良いこと。だから限られた研究予算は、基礎研究(問題)なんかをいつまでもダラダラやってる子(大学)よりも、
成果がすぐ見える応用研究(問題)をいっぱい手がけてる優秀な子(大学)に優先して配分するよ!」…という盛大な勘違い価値観のまま、表彰対象を選んでる可能性がある。
…いやそれも「連中が無知なのには変わりないだろ」と突っ込まれるかもしれないが、純粋に知らないのと、知ったつもりで誤解したままなのでは話が別だ。
もし「基礎<応用」という上記のニュアンスで捉えている人が多かったら、科学者の"基礎研究を大事にしろ"の声が政治家に届かない理由も分かる。
"基礎研究なんて膨大な無駄の中からほんの少し凄いものが出てくるって世界(id:k_oniisan)"っていう正論も、「基礎の段でつまづいてるような出来の悪い子が、こづかい減らされるのを恐れて出来ない理由と言い訳を並べている」
としか受け取られていないかもしれんわけだ。たまーに偉いノーベル賞受賞者の先生が擁護して同じことを言っても、「出来の悪い子を、自分の身内やお友達や生徒だからって庇い立てしてるだけだ」と見做されているわけだ。
他方、基礎を終わらせて、もしくは基礎を飛び級して、成果の出る研究、金になる研究、応用研究に軸足を移し、先駆けて沢山手がけている子こそが優秀であり、高効率であり、限られた科研費の優先投資先として
相応しいのだと。そういうロジックで選んでるのだとしたら、民間企業協力のキャッチーな予備実験や仮説もどきの方が最先端研究だと持て囃されるのも実に納得だ。
そりゃ平行線にもなるわ。
書いてて絶望的になってきた。自分だけの思い込みかもしれないけど、これで科学立国とかマジで無理ゲーじゃね?
思った以上に賛否色々とブコメ、トラバを頂き、話題をすぐ畳むのが勿体なくなったので折角もう少し風呂敷広げてみよう(広げた後に収拾する気があるとは言ってない)
・id:outalaw 「予算」という言葉がすれ違っていそう。科学者たちは恒久的な人件費を含めているが、行政は一時的な雇用費や物品費こそ予算と捉えており、行政のいう予算は横ばいだが科学者のいう予算は減り研究時間も減っている。
・id:death6coin トランプアメリカはもっと低い次元にいそう/http://www.nistep.go.jp/archives/32530によれば予算的には減っていないが出どころが変化しており、研究者に成果へのプレッシャーがあるのではないかとの分析がされていた。
確かにその可能性も高そう。年度毎に補助金申請書を書き直さなくてもよい永続的フローが保障される事を要求する研究者サイドと、◯期活動分のキャッシュを確保することに奔走し、科研費増なんて出来るわけがない現実を見据えてる政治家サイド。
かたや「基礎研究への予算が増えない」と嘆き、かたや「予算は水準維持してる」と主張するのも、どちらかが嘘付きって事ではないはず。おなじ「金」のことを話してるんだからすれ違うはずがないと思いきや、両者の中で定義が違うままと。
で、河野太郎の研究者の皆様シリーズもまた、ブクマ上位によく来る人気エントリだが、結局できる事は"成果を生まない大型プロジェクトをつぶしてほかのことに振り替えるか、または成果を生まない研究者の予算をほかに振り替えるか"
実際上記の通りプレッシャーかかってますね
*id:kaeuta 馬鹿にしたい気持ちはわかるが、今の政権は経済産業寄りという点に尽きる気が。国民感情的に「膨大な無駄」が許される状況ではなく、基礎研究がすぐに金を生まない以上、金になりやすい応用研究が推進されるのだろう
*id:mainasuplus 増田にもあるけど、短期的に金になると想定される分野にしか研究費を突っ込みたくないのだろう。基礎研究や文系学問に研究費が落ちてこないのはほぼこれに尽きると思う。
予算は限られてて、社会保障費並の伸び率で野放図に増やすわけにはいかない。じゃけんせめて、振り分ける対象の厳選仕分けと優先順位付けくらいきちんとしましょうね~ という大筋は正しい。
が、それでも「基礎研究に割り振る比率はもう十分与えたから、与えられた枠内で工夫するか減らすかしてね」には強く反対する。
また抽象的な例え話に飛ぶが、国民も政府も喉が渇いてて、収穫すればすぐ生食できて喉が潤う万能フルーツ『成果』の大規模栽培を皆が渇望しているわけで。
収量予想や収穫期限コミットまで厳しくガン詰めされているので、使える湯水(金)も限られ、なおさら『成果』を優先栽培する以外に選択肢はないわけで。
でも、その『成果』を栽培するにあたって必須となる土づくりと肥料、その名も『基礎研究』…これは今すぐ食えるモノじゃないし成功の保障も低いから、金かけるのは後回しにしてね。そう言ってるわけだ。
もしこれから科学事業を再び仕分けていくにしろ、まかり間違って奇跡が起き科学振興予算が倍増するにしろ、上記の思想ベースである限り、どれだけ湯水の如き金があっても、きっと土壌と肥料は最後まで後回しで、
皆こぞって効率良い『成果』の密植技術開発に明け暮れるのだろうね。やがてサイエンスという土壌は、キャパを超えて過剰密植された『成果』に養分を吸われて徐々に痩せてゆき、追肥もされないので
最期は何も生えない不毛の大地だけが残りましたとさ。めでたしめでたし。
これには強く同意する。事業仕分けとかで管轄範囲の権益を侵さない限りは、知った上で正しく確信犯として野放しにしてる感
「ボケ、痴呆→認知症」っていう事例もあることだし、たかが言葉遊されど言葉遊び、形からでも変えてみる意味はあるかもね。
但し、「障がい者、子ども、メクラチビゴミムシダマシ」のように、無理に言葉狩りして理念が追い付いてない、仏像彫って魂入れずだと反感を買うおそれもあるね
国際かんがい排水委員会(こくさいかんがいはいすいいいんかい、英語: International Commission on Irrigation and Drainage, ICID)は、
灌漑と排水に関する非政府の国際組織。灌漑・排水分野に関する国際組織としては世界最大である。
2014年に価値の高い灌漑設備を登録・表彰することを目的にかんがい施設遺産(英語: Heritage Irrigation Structures)制度を創設した。
1950年に創設された国際機関であり、灌漑・排水を通して食料や繊維の供給を世界規模で強化することを目的としている。
接客関係の仕事してる人たちが相手の話を聞いてる時や否定せずに肯定して受け止める時に「そうですね」って使うけど(研修とかで教えられる)
実際に使う人たちのほとんどか間違ってる。
研修の講師も教えてるはずなんだけど、感情の篭ってない肯定はただの棒読みと同じだからね。
電話応対聞いてても実際にお店に行って話をしてもそうなんだけど、八割くらいはマトモに使ってない。
みんな、抑揚のない返事してるだけで必要のないクレームにぶち当たってる。
人形じゃないんだから、普段友人たちとバカ話してるようなくらいに感情込めないと起きなくていいクレームは起きるし、受け取らないで済むはずだったストレスとダイレクトに受け取る羽目になるよ。
うちの新人も最初は棒読みみたいな返事で「ソーデスネ」なんて言ってたせいで連日クレーム受けていた。
そんなんじゃ気が滅入るから少し感情込めるように話してみようか?って言ったら、最初はイマイチわかってないようだったけど、
どうしても出来ないと言うもんだから、君が今やってるのは接客という演劇。役者になったつもりでやってごらんとアドバイスした。
それからは、しばらくぎこちなかったが今では自然な会話で受け答えできるようになったよ。
最近は役者と考えないで素で接客が楽しくなったので受け答えも自然に出来ると言えるほどになったし、表彰されるようにもなった。
そういう子を見てるせいか、いろんなお店で「そうですね」って言葉を聞くとこの子は棒読みだなぁ…この子は聞き上手だなぁと思ったり。
長々書いたけど、研修で教えられたとおりとはいっても、人形が受け答えするんじゃお客さんはいつまでたっても満足しないどころか不満を募らせるばかりだぞという話。
だれかあの苗木の被害にあってる人いませんか。
祖母は表彰状みたいなものをもらっていたから相当注ぎ込んでいるのだと思う。
いつだったか、私は1日で1瓶なめたこともあるわよ、と
祖母に自慢げに言われたが
あれを1日でなめきったとか本当に正気の沙汰ではない。
でも、それを押し付けるのだけは本当にやめてほしい。
私は飲まない、本当にやめて、と何度も言ってるのに、
「身体のことを考えてない」「私はこうだった」とか何とか言って
本当に聞く耳を持たない。
いつか私の知らないところで子供に飲ませるのではと思うと本当に怖い。
今日も子が体調を崩したことを知って、
「ほら、飲ませないから」などと言ってきたので本当に頭に来ている。
ということを、この間BSスカパーでやってた「勝手にアニメ大賞」という番組を見て強く感じた。
その番組は芸人とかアイドルとかで、アニメに詳しいと自負するオタクがテーマにあったアニメを表彰していく(たとえばアニメ初心者に見せたいで賞みたいな)という番組なのである。みんなオタクなので、一種のキモさはみな持っているのだが、私が一番キモいと感じたのはNMB8の三田麻央であった。彼女はAKBグループのアイドルとして活躍しているので、少なくとも「ブス」の範疇には入らない(個人的に言えばかわいいと思う)のだが、その見た目が台無しになってしまうと感じてしまうほどやばいものを感じた。
彼女をキモいと感じてしまった理由は、「しゃべり方」にあった。
いきなりワンオクターブ高くなって「そうそうそうそうなんですっーーー!!」というしゃべり方、これ一つでもう私はダメだった。
対照的だったのが、アニソン博士として紹介されていたピン芸人のあしとみしんごという人だった。彼は、見た目からして「ザ・オタク」という感じだったのだが、しゃべり口が落ち着いてて、話している内容はともかく、キモさをほとんど感じさせなかった。
オタクの諸君は、自分が熱く語りたいと思った時こそ、落ち着いて、声を抑えてゆっくりしゃべってみよう。そうすることで印象はずいぶん変わってキモさを払しょくできるはずだ。
「Ubuntu」とは、「他者への思いやり」のことです。この単語自体が、人間としての精神を体現しています。
我々は、生産的で、幸福で、複雑な領域における新しい発想を歓迎できる柔軟性を持ち、また、あらゆるプロセスを常に改善し、さらに、各々が全く異なる要求や関心、能力を持つグループの間の協力を促進するコミュニティを希求します。
我々は、メンバーの多様性によってコミュニティを強靱なものにするために、多様な参加者を活発に探します。このUbuntu行動規範は、多様なグループがお互いの利益と喜びのために協調することを確実にするために存在しています。我々は、誰であっても、プロジェクトへの参加に障害がないよう努力します。
行動規範は一般的に、公的であれ私的であれ、我々がどのように振る舞うべきかを統率します。我々は、プロジェクトの代表者(公式・非公式を問わず)、関係者、そして直接の参加者が、このUbuntu行動規範を尊重することを望みます。
我々は、下記に真剣に努めなければなりません。
我々の成果物は他者によって使われるでしょうし、また逆に他者の成果物にも依存しています。いかなる決定であっても、利用者や関係者に影響を与えることを頭に置いて、決定をするときにはそのことを考慮する必要があります。
意見に相違があるからといって、無礼な振る舞いをとってはいけません。衝突を解決するために協働し、他者が善意で行動していると仮定し、親身になるよう努力しなければなりません。苛立ちが個人攻撃に発展することがあってはなりません。不快感を覚えたり脅威を感じるコミュニティは、生産的ではありません。
間違いを犯すことは誰にでもあります。そのときには、責任を取らなければなりません。もし誰かが傷つけられたり攻撃されたときには、注意深く、そして思いやりを持って意見を聞き、間違いを正すよう行動しなければなりません。
我々が作り上げようとしているものは複雑で、それぞれに想いが込められたたくさんのパーツでできています。各々が違ったゴールとビジョンを持つチームの間での協調は不可欠です。ただのパーツの組み合わせ以上の成果物を作り上げるには、各々のパーツが全体を理解するよう努力しなければなりません。
協調して取り組むことで、冗長な作業を減らし、品質の向上につなげることができます。プロジェクトの内外を問わず、協調することは大切です。可能な限り、アップストリームのプロジェクトと共同で作業し、フリーソフトウェアのコミュニティと協調することが必要です。透明性を確保し、その作業に関心を持つ人とはなるべく早期から協働するのが良いでしょう。
社会的な、あるいは技術的な意見の不一致はよくあることです。しかし、意見をまとめずそのままにしたり、何を合意したのかを不明確なままにして他の人を悩ませることがあってはなりません。
プロジェクトの参加者は、意見の不一致を建設的に解決することが期待されています。もしも合意に至らなければ、あらかじめ決められたリーダーに仲裁を依頼し、透明性 (clarity) と指示を求めます。
誰であっても、完璧であることを求められてはいません。誰かに質問することは、後で発生するであろう問題を回避できるので推奨されます。ただし、適切な場所で質問してください。質問を受けた人はすぐに反応し、手助けしてあげてください。
プロジェクトを離れるときには、与える混乱を最小限にするよう動くことが求められます。プロジェクトから離れることを他の人たちに伝えて、離れる人が作業を中断した地点からほかの人たちが再開できるようにしてください。
我々は、実例と議論と行動によって動かされます。新しく参加した人は、もしプロジェクトの改善につながる新しい考えがあれば、ぜひ人々を率いて、行動を起こしてください。リーダーシップは、行動を起こすことだけで誰でも実践できます。その機会があれば、誰かの許可を待つ必要はありません。
プロジェクトに関する責任は「慈悲深い独裁者」を頂点として、そこから特定の範囲について責任と権限を委任されたコミュニティ・カウンシル、その下にいるチームや委員会 (councils) 、個人に委任されていきます。コミュニティ・カウンシルまたはその代表者が、争いごとの解決を行います。
我々は実力主義に基づいて、意思決定や統率、リーダーシップを、長く参加している人から、能力があって関心の高い候補者に委任していきます。
評議会 (boards) や委員会 (councils) への任命は、コミュニティ・カウンシルが決定権を持ちます。ただし、事前にコミュニティに対してインプットを求めるものとします。
リーダーシップは、表彰や権利や肩書きではありません。リーダーシップは権限であり、そこには責任が生まれます。リーダーシップはコミュニティから委任されたものです。リーダーの権限は、委任するコミュニティから支持されている間だけ得られるものです。
我々は何かものごとを決める前に、意見やデータ、関係者からの意見表明を集めます。リーダーの役割として、チームが決定を遅滞なく行う手伝いをし、ガイダンスを与え、合意に至らなかったときに決定をし、決定の実施に責任を持つことが期待されています。
何かを決めないことには、先に進めません。明確な指示には価値があります。ときには、データが足りなかったり、合意が得られがたいこともあるでしょう。それでも、何らかの決定を下さなければなりません。いつでも完璧な決定を下せる保証などないのです。決定を先延ばしにするより、失敗して、失敗に学び、将来の役に立てることが大切です。
我々は、問題をより把握しているチームを信頼して決定を下してもらうことで、プロジェクトはよりよいものになると認識しています。もし決定に不満があれば、それを下したチームと調整します。調整が付かなければ、その決定についてレビューする統治機構 (governance structure) があります。つまるところ、責任を持つ人が決定を下し、それがプロジェクトの統治 (project governance) に支持されていれば、その決定は有効であるとします。我々はある決定について納得しないこともあるかもしれませんが、それでもプロジェクトを信用し、たとえ内心では違うほうがよいと思っていたとしても、プロジェクトとしてその決定が実施されることを支援します。
誰であっても、どの組織に所属していようとも、どのようにプロジェクトに関わろうとも、我々は参加を歓迎します。コミュニティは開かれたものであり、能力や適性を持っていることを示せれば、職責を負うことができます。
「名演奏家はその演奏によって評価され、リーダーはチームの行動で評価される」リーダーは、行動すべき・身を引くべきときを知っています。チームは、リーダーに権限を渡したりそれを取り戻すべきときを知っています。
良きリーダーはスポットライトを浴びようとせず、他のメンバーの活躍をたたえます。リーダーはチームメンバーの中で目立つ存在でしょうが、良きリーダーはその注目を他のメンバーの優れた活動に対してスポットを当てるために使います。
リーダーはときに、理解されず、合意に基づかず、一般的ではない冒険的な決断を下す必要があります。我々は、完全な合意を得るよりも物事を進めることを優先し、勇敢にもそのような決定を下すことを評価します。とはいえ、冒険的な決断には十分な検討が必要です。ある人にとっては頭の痛いことになるかもしれないことを肝に銘じ、影響を抑えるようにしなければなりません。変更について、その理由を明確にして、そして早めにコミュニケーションをとることは、その変更を実施するのと同じくらい重要です。
もしもリーダーが自身の雇用関係や他のプロジェクトとの関わりによって利益相反状態になっている場合には、それに気がつくことが期待されています。そして、私利私欲のためとみなされることのないよう、棄権したり決定を誰かにゆだねたりすることが期待されています。リーダーに限らず全てのプロジェクトメンバーにも、私利私欲のためではなく、ユーザーの暮らしをよりよくするために決定を下すことが期待されています。
もしも利益相反が疑われる場合には、誰かにセカンドオピニオンを求めてください。利益相反状態にあることを明らかにすることが、解決への道筋にとって重要です。リーダーは、たとえ一般的ではない、あるいは特定のグループに有利・不利となるように思われるものであっても、決定が信用できるものとなるよう行動すべきです。
このUbuntu行動規範は、網羅的でも、完全なものでもありません。ルールブックでもありません。協調的で共用の環境 (a collaborative, shared environment) とゴールに関する、我々にとっての共通の理解を引き出すためのものです。
このUbuntu行動規範は、クリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承 3.0 非移植ライセンスのもと配布されます。あなた自身のプロジェクトにこれを再利用することができます。また、好きなように改変することもできますが、あなたの改変を他の人が利用することも許可し、Ubuntuプロジェクトの著作権表示を付けるようにしてください。
「図工の時間で動物の絵を描くことになったので動物の写真が載ってる本が見たいです、どこにありますか?」
「今度の調理実習で芋を使った料理を作ろうと思うので芋の料理が載ってそうな本を貸してください」
「新見南吉の本がひとクラス分くらい欲しいんで、他の図書館から借りたりして集めてください」
「お楽しみ会でクイズをするんですけどクイズの本ないですか?」
たまに「○月にこういう学習をするんで……」って事前に教えてくれる先生もいるけどたいていは子どもたちが急に図書館にわらわらーっと来て
「先生~~、今この本がいるんで今出してください」「僕も僕もー!」「私もー!」って形
このジャンルの本がここにあるよ~っていうのは教えてるけど子どもたちは何回言っても覚えられない(たまーに覚えてくれる子もいる)
担任は忙しいので子どもたちを図書館に残したまま教室でマル付けとかしてるっぽい
ので私が右往左往しながら応対する
司書のいない学校ってどんな感じなんだろう?うちの市はほとんどの学校で司書を置いているのであまり想像がつかない
分類ラベル貼って決められた場所に置いてても目当ての本を探すのって難しいのに、
ラベルのない本が数千冊、ごちゃごちゃになって置いてあるんだろうか?
貸し出し手続きせずに勝手に取って勝手に戻しに来るのかな。行方不明本の数凄そう
そもそもそんな状態で調べ学習ができると思えないから、図書館は使わずに担任が事前に用意した資料や
フィルタリングガチガチのパソコンでなんとか調べてるんだろうか
図書館前に掲示物貼ったり、ポップ作ったり、本のデータをパソコンに登録したり、貸し出し数の多い子にちょっとした表彰状を出したり、図書館だより作ったり、子どもたちに読み聞かせしたり、そういうのもないのかな
なんかさみしいなあ
息子はもうすぐ5歳になる。
私は母親で、息子と毎日遊ぶのが楽しみだ。息子の最近のブームはお相撲。四股を踏み、ハッケヨイノコッターッと相撲をとる。息子は相撲をするのが楽しすぎて、ヨダレを垂らしながら本気で向かってくる。負けると悔しいと言って泣くから、こちらが手加減して負けてあげるまで相撲をとる。(八百長)
先日、優勝した稀勢の里の表彰式録画を息子と一緒に見ていた。君が代斉唱で涙を流す稀勢の里の姿にジーンとしていると、突然息子が怖い〜と泣いて逃げ出した。何が怖いの?と聞くと、「お歌が怖いの〜」だと。
息子よ。
これからの人生で、いくらでも君が代を唄う機会はあるよ。ましてや相撲は国技だから、お相撲さんになったら、君が代を唄えなきゃいけないよ。お相撲さんにならなくても、学校やスポーツ大会で君が代を唄う機会は数多くあるよ。確かに暗い雰囲気の曲だけども、厳かで母は結構好きだよ。今度お風呂で一緒に唄ってみようね。
今の増田と同じ時期に同じようなことで悩んで壊れた自分から言うと、プライドを捨てて休学するのがおすすめ。
旧帝の理系でトップレベルに勉強ができて表彰されたという時点でもう充分すぎるほど戦ったと誇っていいし、研究をしたりこれから技術者になるための素養は充分揃ってるよね。
ただ増田自身が悪循環だと自覚しているように責任感が強く自分で抱え込みすぎてしまう性格だけはなんとかしよう。こういう真面目な人間がうつ病などの精神疾患のリスクが高いことは精神科医の中ではよく知られていて治す方法もある。具体的には認知行動療法などがあるんだがこういう治療はとにかく時間がかかる。忙しい卒業年次では就活の負担もあるしゆっくり治療ができないだろう。
そこで1年間の休学をおすすめしたい。1年間好きなように遊んでストレスを解消しつつ良い精神科医を見つけて認知の歪みを修正する。そうやって幸福に過ごしていれば不思議と「なんで生きてるんだろう」という問いは消えていくだろう。
助けて欲しいです!
息子が当時の担任から首を絞められ、叩かれる等の体罰を受けました。杉並区は体罰認定してくれましたが、校長は未だに体罰の事実を認めず、謝罪もありません。体罰教師は、通常の人事異動で今も他校で教えています。
そればかりか、校長が息子の卒業式に、体罰教師を来賓として招くと言うのです。息子は怯えて、卒業式に出られないかもと言っています。
東京都教育委員会にも何度も話をしましたが、「都教委は東京都職員の処罰・指導を行う部署であって、イジメや体罰を無くす部署ではありません。」だそうです!
文科省からは「優れた職員の働きを認める学校」として、学校が表彰もされると言われました。体罰をした学校が表彰されるのは疑問と伝えましたが、評価の仕組みが違うので、と言われました!
頑張って学校に通った息子が卒業式に出られなくて、体罰教師が来賓として出席できるっておかしくないですか!?
「日本死ね」再びです!
教育に携わる者が、イジメや体罰を無くすつもりが無くて口だけ。
区の体罰認定も、1人で頑張って勝ち取りましたが、まだ戦わなくてはいけないなんて…。
1人の力では弱いです。
苦情だけでもいいので、助けて下さい。