はてなキーワード: 菓子とは
超個人的な意見だけど、差し入れって上げた瞬間にお荷物と化すのが現実な気がする。
それでも差し入れがウケた時のおんなのこたちの笑顔が忘れられなくてまたデパ地下うろうろしちゃうので、どうしようもないなあとは思う。
そう。もらった瞬間は嬉しい。
適当に扱う人も多い。でもしょうがない。ただでさえ荷物の多いサークル参加。
チマチマした菓子にいちいち構ってられない。
後になって「これ誰から貰ったっけ?」と思う事もある。
もらっといて何様だよと言われそうだけど、もらう側としては結構負担なんだよなぁ。
ちなみに私はもうサークル参加してないので、最近は差し入れされる側にはほぼなってない。
差し入れる側になって一番喜ばれるというか、「これ欲しかった」的な反応されるのはコンビニとかで売ってるカロリーメイト系の栄養補助食品とか、焼き菓子系。
その場で食べられるから「お腹空いたら食べて!」と言って渡すとめっちゃ喜ばれる。イベントの時って大体空腹と戦ってるからね。
コミケの差入れを探そうと軽い気持ちで入ったクリスマスまっ盛りのデパ地下を小一時間ほどさまよってしまい、進歩のない自分にちょっと辟易したので
筆名晒してはちょっと言いづらい「差し入れ文化」についてつらつらとまとめてみる。
・コミケ参加歴3年(うち2年は売り子、直近1年は直接参加)
・常に島中
・ジャンルは2~3年ごとに変更してるけど年々常駐率上がってる
どのジャンルでもそうとは言いがたいものの、女性向け二次創作ジャンルでは「差入れ」を渡す文化がわりと定着してる節がある。コミケだとお歳暮とお中元の時期にあたるし何か風流だ(嘘)。いつだったかTwitterで差し入れのマナー講座的なものが話題になってたので、やはり渡したい人とか言いたいことがある人(主に受け取る側)は多いように思う。
差し入れははっきり言って人間関係ベースで品物を決めると思うので、「買い専→描き手(書き手)」と「描き手(書き手)→描き手(書き手)」とは選び方が異なってくるものだと思うし、マナー講座で正義となっていたお菓子の選び方は前者に寄ったものだと思った。あれはほとんどアイドルにファンがプレゼントするような物で、実際、前ジャンルの中堅(誕生日~壁)の知人に「もらった差し入れどうしてる?」と聞いたところ、食べきれないから会社の訳知りの同僚とかに配ってると聞いた。大行列のさなかで貰うから、渡す人はメッセージカードなんか渡さないととてもでないが個人識別してもらうのはつらいだろうなーという印象だった。
しかし、弱小ながら作り手側として参加すると若干話は変わってくる。マナー講座で出されてたような「500円前後のデパ地下菓子の詰め合わせ」だと、人にもよるけど個人的には予算オーバーになってしまう。なんとか3000円程度におさめたいと思ってるけど、大体理想の数そろえると全然間に合わない。
というのも、ジャンルに1年程度常駐してると顔見知りが増えてきて、大抵の場合どんな弱小サークルでも知人は10人前後にはなるからだ。本の数がはけなくてオンデマンドでしか刷ったことないレベルでもまあ、それくらいの数の知り合いはできる。しかも私は押しが弱くて好きな作家さんにアタックとかしてないので、アプローチちゃんとしたらもっと数は増えると思う。
しかも、最近腐女子に出戻りして分かったことは、最近の人気ジャンルは昔(※ジャンプでるろうに剣心が連載してた頃合い)と比べて、ふとした弾みで知り合いが出来やすい。何でかというと、ナンジャタウンとか大江戸温泉とかアニメイトカフェでやってる期間限定イベント(予約とかメニュー制覇の関係でグループ参加になりやすい)、グッズの譲渡・交換、あとはスタンダードに即売会で知人の知人として話すとかなんとかで、「あのときお会いしましたね」レベルの人はぞろぞろと増えていくのだ。
で、何が辛いかというとその「あのときお会いしましたね」レベルの人がイベントに来るかどうかというのは把握しにくいし、来たとして差し入れを渡すリストに入れるかどうかというのも怪しく、もし一方的に渡されて日にはその後お返しをするめどが全く立たないので何となーく気まずい感じがするのだ。それで石橋を叩くように人数を算定して、一人あたりの単価がぐんぐん押し下げられ、買える物の幅がぐぐぐっと狭まり、しかしながら年齢もそれなりなので、「デパ地下菓子」か、「駄菓子だけどジャンルに縁があってネタになるアイテム」あたりでぐるぐる悩むはめになる。駄菓子だと数多いから不測の事態に対応しやすいけどなんか渡してがっかりされるのもあれだし、かといってちょっと気張ったデパ地下菓子だと弾数に不安が……という塩梅。
ただ、差し入れってあげる時はめっちゃ悩むけど、人からいただいた時は細かいこと気にせず「ありがてぇ」って思うしムシャムシャ食べるので、これだけぐるぐる悩むのは一般論でしか語れないネットの悪影響なのかなとも思わないでもない。そりゃ生ものとか夏場にチョコとかは当然避けるけれど、それ以外の細かな好みとか、ウケるかウケないかまでは担保できないし、それよりはちゃんと原稿書けって話だよなあ、と。ちょっと気の利いた差し入れで惹ける注意なんてほんの一瞬なんだから、作り手としては作品で勝負!といきたくても、アマチュアの作品発表は人間関係込みってところも大きいので、このジレンマはなかなか抜け出せない……。
それでも差し入れがウケた時のおんなのこたちの笑顔が忘れられなくてまたデパ地下うろうろしちゃうので、どうしようもないなあとは思う。
10年近く女性向けで同人活動をしていて同じジャンルのアンソロ企画から声がかかる事も少なくはない。これまで、何冊ものアンソロの執筆依頼を光栄に思い、その度に全身全霊をもって応えてきた。しかし最近はそういった気持ちよりも疑念を抱く事の方が多くなった。
私自身もアンソロジーを何度か主催してきたため、雑な執筆依頼のメールには肩を落とさずに居られない。微々たる経験値だとは思うがこれから執筆依頼のメールを出す方は以下の事を最低限の事と考えて参考にして欲しい。
・pixivメッセージで依頼する。(連絡先がわからないためSNSから打診することについて一言お詫びをいれる)
・twitterで依頼したい案件があるとメールアドレスを尋ねる。(タメ口は勿論駄目!)
執筆者は何故自分を誘ってきたのか、意図が不明瞭であればある程、ただの数合わせなのではないかと不安になり、やる気が削がれていく。
公募型のアンソロジーについては詳しくないので省くが、私の場合はこの人の〇〇がどうしても見たい!アンソロジーに掲載したい!と、いう強い想いから執筆をお願いする。
なぜそう思うに至ったか?相手がこれまで発表してきた作品に感銘を受けているからだ。その想いを素直に丁寧な言葉で書き連ねる。
タイトル(仮題でよい)、本のサイズ、装丁が決まっていれれば装丁なども
(イラスト、漫画の場合は解像度や塗りたしを含めたサイズ、カラーモード、推奨ファイル形式など)
(小説の場合は青空文庫を流したwordのテンプレートを配布する)
(あくまで私生活の合間を縫った執筆である人が大半である。万一の事を考え早めに設定しておく必要がある。)
(完成本の他に原稿料が出せない事へのお詫びと代わりに粗品を渡したいという旨だけ書いておく)
(※1完成本と一緒に1000〜3000円相当の菓子箱等やAmazonギフト券、図書カードなどを渡すことが多い/粗品の内容については勿論メールで触れなくて良い)
(頂戴する原稿の一部を告知の際にこちらでトリミングし使用するお願いと作品の各々の再録時期に着いて明記する。
また、原稿の全体を公開しない形であれば、各々で作品の一部を公開し企画を宣伝することも可能だと書く。サンプルを告知するまで個別な宣伝を避けたい場合はその旨も)
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(漫画と小説の場合は後日また期限を設定し頁数、左右の始まりを自己申告して頂く形にする)
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主催はその後も様々な用件で執筆者の皆さんと連絡を取り合っていく必要がある。
しかも企画が進めば進むほど、締め切りが近くなりイベントも近くなり、入稿データの準備や個人誌の原稿、イベント参加の準備で、主催は尋常でないほど忙しくなる。
しかしそれを理由に、執筆者達に適当な連絡を取っていいというわけではない。
企画が無事に終えるまで、主催は執筆者からの信頼を失わないようにを日頃から心がけておくべきである。
例えば…
などである。
アンソロジーならば個人誌よりもハードルが低いと勘違いされることが多いのか、twitterなどのSNSで流れに任せてアンソロ企画を強行してしまう若者をよく見かける。特にこれは同人初心者であることが多く、目も当てられない事態だと感じた。
ある程度同人活動を経験している者であればある程、原稿を執筆する事の精神的肉体的負担を理解しているし、人の原稿を頂戴する事が決して軽い事では無いと想像する事は容易いはずだ。
同人活動は「好き」の気持ちで本を作ることが殆どであるが、アンソロジーの場合はそういった熱意の他に様々なスキルが必要になってくる。
原稿にかける時間は人それぞれであるが、どんなに好きな作品やカップリングの企画であろうとも自分の原稿や私生活に宛てがうはずの時間を割いて執筆する事に変わりはない。そんな中だからこそ、同人経験が豊かで原稿の扱いに慣れており、自分の原稿を期待して待っていてくれて、その作品やカップリングが好きな方達が喜んでくれるような一冊を作りたい、そういった熱意がしっかり伝わってくる主催に原稿を提出したいと考えるのは当然ではないだろうか?
アンソロ主催とはボーッとしていれば執筆者の原稿が勝手に集まってくる役得仕事ではなく、執筆者達に最大限の敬意と気配りをしながら、企画をまとめあげなければならないパワフルな仕事である事を念頭に置いて欲しい。
※ここに書いたことは私がこれまで経験してきた連絡手順であるので、一意見として参考にしてください。気配りの仕方は人それぞれなので、主催さんは自分で考えて執筆者さんへの配慮をお願い致します。
※2何故か去年の記事が今年になって拡散されていたので書き忘れていた部分を少し足しました。依頼文が不安な方は信頼出来るお友達などにメール文を一度チェックしてもらうのもアリです。素敵な企画を成功する足がかりとなれば幸いです。(追記2015.09.08)
スーパーのパンコーナーで『おそらくは知的障がい者の男性(30代前半ぐらい?)」が1人
「これ、おいしそー!やわらかー!」とか叫んでいたが皆無視していた。
大声だけじゃなくてズリ落ちた赤いジャージと伸びきった服。
とりあえず切り揃えただけの髪から覗く焦点の定まらない表情が見る者を遠ざけているようだ。
自分も「まあ、商品を叩いたり壊したりしない限りお客様だしな」ぐらいな気持ちでスルーした。
だが、コーヒー売り場で「たまにはコーヒー豆挽いて帰るか」とコーヒー豆のセルフ挽きマシン(正式名称知らん)に
豆を投入しガアァァァァァと音が響き渡った時に「マズイ」と感じた。
「なぁにー?この音なにー?」という声が遠くから聞こえて来たからだ。
途中で止めるわけにもいかず、そのままコーヒーを挽いていると
「ふくろのコーヒー!いい匂いー!ふくろのコーヒー!いい匂いー!」と叫びながら
進撃の巨人の奇行種のような動きでやってきて、自分のすぐ真後ろに立って揺れている。
振り返って見るのは怖いので、ちょっとだけ首を左に向けて確認するのが精一杯だった。
挽き終わったコーヒー豆を詰めていると、肩口で大げさに吸い込んでクンカクンカしていたが、
やがてまた何かをブツブツ呟きながら菓子コーナーへ足取りも軽く行ってしまった。
触られたり直接被害にあったわけじゃないが、かなりの恐怖を感じた。
普段は「障がいのある人も同じように優しく接して……」とか綺麗ごとを言ってるくせに、
昨今では忌み嫌われる長文で、たいして面白くもない内容なので誰も読まないだろうが、それでいい。
軽く自己紹介。精神科病棟で働きはじめて一年になろうとしている。看護助手の契約社員。今年で21歳になった。
一浪して合格した、世間的には難関と認識されている、都内の有名私立大学()を半年で退学して、今の職場に入った。高卒資格なしで将来食っていけるか不安なので、不況でも食いっぱぐれないと聞く、看護師を目指そうと今は考えている。それ以前はコンビニのアルバイトと日雇いの倉庫作業くらいしかしたことがなかった。退学した理由はくだらない。授業に出席せず、単位取得における必須出席率(三分の二)に満たなかったので、留年がほぼ確定していたからである。受験当初から志望校などなく、勉強もさほどせず、たまたま合格した大学にとりあえず入ったという塩梅で、絶対に卒業しなければならないという意志もなかった。中流家庭で経済的には比較的恵まれていたので、仮に努力さえすれば(一般的な大学生にとってはそれは努力ではなく普通のことなのだろうが)一留したとしても卒業はできたはずである。まったく親不孝な息子である。
わたしが働いているのは比較的症状が安定した患者が療養する慢性期病棟である。患者の平均年齢は65歳くらいで、ほぼ全員が統合失調症の患者である。平均入院年数は約15年である。医学的知識に乏しいので統合失調症とは何かといった説明はしないが、約100人に1が罹患するとされている疾患である。自分の身近に統合失調症を患った者がいても珍しいことではない。事実、わたしの身内にも罹患者がいる。距離的に頻繁に会うことはできず、ほとんど疎遠であるが自分と年齢が近いこともあり気にかけている。
慢性期の開放病棟とは言え、当然ながらそれは院内における開放という意味であって、自由に院外に出られるという意味ではない。あたりまえのことだ。また患者各々の処遇によって、院内開放の認められる患者とそうでないものがいる。前者は全体の三割ほどだろうか。それ以外の患者は看護師同伴での外出の外は、ほぼ365日病棟内で過ごすことになる。彼らの生活は異常なほどに規則正しいものになっている。規定の時間に起床を促され、看護スタッフの監視(長年にわたる薬の服用がもとで嚥下に問題がある患者が多く、誤嚥で窒息する恐れがあるため)のもと朝食を済ませ、その日が入浴日であれば風呂に入るよう半ば強引(彼らは清潔観念が乏しく風呂嫌いが多い)に促され、昼食を食べ、自主参加ではあるが作業療法に参加し、夕食を済ませる。食後は各々に処方された抗精神病薬を服用し、就寝前には看護用語でVDSと呼ばれる就寝前薬を服用し消灯、就寝となる。もちろん彼ら全員がすんなりと眠ってくれるわけではないので、必要に応じて追加薬として眠剤をさらに服用させる。それでも睡眠ゼロ時間で朝をむかえる患者もいるが。
規則正しい生活が健康を保つ秘訣であるとは言われるが、物事がすべて規則的に進む環境に長く置かれれば、精神的に健康な人間でも何らかの精神症状を示すようになるのじゃないかと思う。何事も適度にやることが大切である。仮に自分が彼ら患者と同じ生活をしてみるとなれば、1ヶ月も耐え切れないのではないか。
普通の人から見れば異常な規則的生活を強いられているばかりでなく、彼らはプライベート空間を与えられていない。病室は4人1部屋の総室であり、ベッドにはカーテンが備え付けられはいるが、必要とあればスタッフが遠慮無く開けるのでプライバシーの確保としては機能しない。唯一例外として挙げられるとすれば個室トイレであるが、それでも外側から簡単に鍵を開けられる。もちろん理由はある。ここは精神科である。患者を1人にするのはリスクが伴う。その最悪のリスクが患者が病棟内で自殺するというケースだ。自殺するのに銃もロープも包丁も必要ない。タオルやシーツ1枚で十分である。首を吊る必要もなく頸動脈を絞めれば尻をついた体勢でも逝ける。患者に希死念慮の疑いがあれば、保護室と呼ばれる個室で隔離し、常時モニターで観察する。必要であれば拘束帯で手足、体幹を拘束する。それは仕方のないことであると個人的にも思う。そのようなことがあれば直ぐに訴訟になり、病院だけでなく医師、看護師、資格を有していない看護助手も裁判にかけられるのである。人間が外部との接触なく常に1人きりで長時間過ごすことに耐えられないのは、拘置所などにおけるSolitary Confinementが精神に及ぼす悪影響を鑑みれば明らかであるが、それでも生活の中に1人の時間を設けることは精神の安定にとって非常に重要なことである。
一日の中で病棟が最も活気にあふれるのは3時のおやつの時間である。患者は小学生の小遣いほどの小銭を握りしめて、病院に併設された売店へと向かう。わたしも幼少時代、同じように手汗にまみれた小銭を握りしめ駄菓子屋へ足を運んだ記憶があるが、自分より2回り以上年齢を重ねた彼らが喜びと興奮の面持ちで売店に赴くのである。もちろん離院されては困るのでスタッフ同伴である。なかには1時間も2時間も前から「○○さん、おかし」とこちらが辟易とするほど頻回に訪ねてくる患者もいる。そのたびに「△△さん、時計見てください。今何時ですか?3時まで待ってくださいね」と説明する。しかし時間を把握することができないのか、理解に乏しいのか、その後にわたって同じやりとりが何度となく繰り返される。そしておやつの時間が近づくと、患者は詰所(ナースステーション)に詰めかけて「かいもの、かいもの」の大合唱がはじまる。入社して形式的な研修を終え、病棟で働きはじめた初日、その光景を目の当たりにし、「これはなにごとか、いったい今から何が始まるんだ」と誇張なしで思ったものである。一度に売店へ連れていけるいけるのは、多くて5名である。それに対して2名の看護スタッフが同伴する。離院のリスクが高い患者はマン・ツー・マンで対応しなければならないので、業務の都合上、最後に後回しにしざるをえない。この対応に納得のいかない患者は時としてもの凄い険相でこちらを睨みつけたりもするが、申し訳ないが待って頂く。いざ売店へとたどり着くと、患者は菓子の並ぶ棚を物色し、各々お気に入りの菓子や飲み物(十中八九コーラである)を買うのだが、彼らの選択肢はさほど多くはない。金銭的な問題もあるが、誤嚥のリスクが高い菓子類(特にパンや、硬いもの)は遠慮してもらう。病棟へ戻り、スタッフの目の届く範囲のテーブルで購入した菓子を食べるのだが、彼らの食べる、飲むの早さは尋常ではない。これは食事においても同じである。コーラを飲み干す早さは、ハイキングウォーキングのQちゃんにも引けをとらないだろう。
余談だがこの病棟にはデイルームに自動販売機が1つ設置されているのだが、患者が選ぶのは常にコーラである。コーラの横に並ぶ水やお茶などを患者が買う場面を見た試しがない。聞くところによるとこの傾向はこの病棟(病院)に特異なものではないらしい。特にかくコーラの消費量が半端ではないのである。1日になんども業者がコーラの補充に来る。仮に1日のコーラ販売数が最も多い自販機であったとしても驚かないだろう。
ここで少しOT活動(作業療法)について触れておきたい。その内容ではなく病院経営の観点から見た作業療法である。わたしは不勉強で参加者1人あたりの診療報酬がいくらで、具体的に自分の働いてる病棟で月あたりどれほどの利益が出ているのかといったデータは知らないのだが、現状でも結構な額の利益を稼ぎだしているようなのである。しかしそれ自体はなんら問題ではない。病院も利益を出さないかぎり存続が危ぶまれるわけであり、それは結果として直接的に患者の不利益になるので致し方無いだろう。しかし病院経営者としては、さらなる診療報酬の増収を求めて参加者の今まで以上に増やすことを病棟にプレッシャーをかけてくる。だが経営的観点からのみ作業療法を考えるのは、本末転倒であり、本来の作業療法の意義を見失いやしないだろうか。普段活動意欲の乏しい患者たちの他者と交流する機会の場を提供したり、同じことの繰り返しである日常に些細でも刺激や楽しみを見出させ、活動意欲の向上を目指す。わたしは作業療法士ではないので専門的な知識はないが、研修のとき作業療法士からそのような目的を聞かされた記憶がある。作業療法は任意参加である。もちろん参加したほうが治療的には望ましいことは間違いないが、患者自身が活動に対して主体的にならなければ効果は期待できない。仮に活動に参加しない患者には売店へ行かせない等のやり方で、強制的に参加を促したところで継続しないのは明らかで、それ以前に患者自身の金でおかしを買わせないとなると人権侵害である。ある患者は「おもしろくないから、わたしはいいよ」と参加を断り続けている。確かにプログラムがマンネリ化していることは否めない。病院の作業療法士が仕事に対して不真面目であるからではない。みな限られた予算のなかで真面目に患者のことを思い必死でやっている。要は作業療法で得た診療報酬はどこに還元されているのかという話なのである。言うまでもなく、参加をしぶっている患者に対して毎日声掛けしている現場スタッフには還元されない。それは別にいい。しかしOT部門への予算を増やす、給料面で還元するなど多少はできないのだろうかと常々感じている。慢性期病棟でほとんどの患者は退院が見込めないため、患者を金づるにし作業療法による診療報酬で利益を出そうとう考えなのだろうか。これは完全なる愚痴である。
わたしは今まで目的も夢もなく堕落的に生きてきたので、それゆえか「生きがい」だとか「なぜ人は生きなければいけないのか」といった面と向かって口にするのは恥ずかしい問題だが、漠然と考えてきた。
いままでは、どちらかと言えば普遍的な命題として考えていたのだが、統合失調症を身内に持つものとして、同じ疾患の患者と毎日のように接触を持ち、「彼らに生きがい、あるいは生きる目的があるとすれば、それはなにか」といった具体的な疑問に変遷していった。
ある患者に病棟での生活で一番楽しいことはなんですか、と尋ねたところ「(部屋の窓から)道をみること」という答えが返ってきた。わたしから見れば、そんな些細なことが彼女にとって一番楽しいことなのである。別の患者は「婚約者と結婚して二人で暮らすこと」だと言う。彼には婚約者もいなければ彼女もいない。すべて妄想なのである。しかし誰が「あなたの言ってることは妄想によるものですよ」などと否定できるだろうか。このような閉鎖的な環境で長年生きていれば、自分で虚構の世界をつくりあげてそれにすがって生きていくしかないのではないかと個人的には思う。
精神疾患に対して偏見を持っている者は多くいるだろう。わたし自身も実際に今の職場で働き始めるまで偏見を持っていただろうし、今も偏見はあるだろう。偏見というものは概して無意識のうちに身体に染み付いているものであって、「わたしは○○に対して偏見はありません」などと平気で言う人々は疑ってかかったほうがいい。自分のなかに偏見があることを自覚し、それを少しでも減らしいくことしか我々にはできない。ちなみに今までこの文章は、一つの精神病院にたった一年しか勤めていない人間が書いたものなので多分にいろいろなバイアスがかかっていることだろう。
(追記)
ここで、わたしは実際のところ統合失調症の患者です、つい先日退院しました、と書けば結構な釣りになるのだろうが、残念ながらそうではない。
上記の文章を読まれたかたは、鬱屈した患者たちの姿を想像されるかもしれない。彼ら患者たちは、閉鎖的な環境で長期間に渡る入院生活を余儀なくされている。憐れむべき現実だろう。病棟に飾られた造花の紅葉では秋の匂いを感じさせてはくれない。夏が過ぎ去った後の秋風の涼しさを感じることもできない。しかし患者たちの表情は思いのほか明るく柔和である。無論、ついさっきまでニコニコとしていた患者が、いまにも殴りかからんばかりの表情に急変することは多々あるのだが。概して、彼らは彼らなりに現在の環境に適応し、楽しみを見つけながら生活している。
彼らは退院することなく死ぬまで病院で過ごすことになるのだろうか。慢性期病棟に長期間入院する患者の退院が難しいことは言うまでもない。特に高齢者となると退院後の受け入れ先が限られてくる。また患者自身が退院したいという意欲に乏しいという場合もある。それもそうだろう。入院生活が十数年にも及ぶとなると、社会復帰をためらうのも無理もない。病棟の五十代のある患者は精神症状もほとんど見られず、一見して彼が精神障害者であるとは思えない。人当たりの良いハゲのおじさんといった風貌である。精神保健福祉士が先頭に立って、退院実現を図ろうと粘り強く退院促進をすすめている。退院後は病院のデイケアを利用してもらう計画である。それでも普段多弁である彼は、退院という言葉を聞くとそっぽを向いて耳を貸さない。
『ショーシャンクの空に』という映画がある。有名な映画なので観たことのある人も多いだろう。そのなかでモーガン・フリーマン演ずる囚人レッドがこんなことを言う。
「あの塀を見てみろ。はじめは憎らしく見えるだろうが、しだいにそれに慣れ、しまいには依存するようになる」
わたしは退院をしぶる彼を見て、長期入院している精神科の患者も似たような心境の変遷をたどるのかもしれないと考えることがある。ホームレスと違い、入院していれば働かなくとも毎日腹を満たすことができる。そのかわり自由は制限されるが、ときとして自由は重荷にもなりうるのである。しかし彼は年齢的にまだ中年であり、やりたいことも多々あるだろう。彼が恐怖心を断ち切り、入院生活に終止符を打つことを願っている。ダメだったら戻ってくればいいいのである。
精神科で働いてわかったことは、統合失調症という人格は存在しないという当たり前の事実である。彼らには統合失調症という共通項があるにしても、性格も精神症状も皆異なる。それがこの疾患のおもしろいところと言うと語弊があるかもしれない。しかし患者と日々接するのは、うんざりするどころか楽しいのである。たまに患者にヤクザ口調で怒声を浴びたり、軽く殴られたりもするが、病気のせいだと考えれば、それも仕事だと思える。頓服薬を服用して落ち着いた患者は、自ら「さっきはごめん」と謝ってくる。わたしは「べつに気にしないでいい」と答えるだけである。
最後に、ある六十代の患者さんは「葬式ないよね?」と頻回にスタッフに尋ねる。彼女が「姉さん」と呼んでいる妹さんが死ぬという妄想があるようで、妹の葬式はないかと確認しているのである。とりわけ、わたしに対して尋ねてくる。恐らくはわたしが坊主頭で、彼女に坊さんと呼ばれているからであろう。わたしが実際に坊さんではないことは理解している様で、ある時冗談で、「○○さん(彼女)が死んだら、葬式は僕に任せて下さいね」と言うと、彼女は笑った。ブラックジョークを理解するだけのユーモア精神のある患者さんである。
…ということくらいは分かってるよな?な?
結構前に会社の上司が「嫁が今菓子の手作りに凝ってて、休みのたびにつくるんだよ。だから休みの日は、いい匂いで起きたりするんだよね」という話をして、
それを聞いた後輩男子社員はとろけそうなくらい羨ましそうな顔をして、
「いやー!いいっすねー!そういうのすげー憧れますよ!」って言ってた。
だからって言う訳じゃなく、その後輩に気があった訳でもない。
ただこの間たまたま家でつくったパウンドケーキが丸々一本余ってしまったとき、
会社にもっていってみんなに食べてもらおうと思いついて、もっていった。
昼休みにわたしはパウンドケーキの入ったタッパをぱかっと開けて、
「家でつくったの余ったから、持って来ちゃった。よかったら食べない?」って言った。
そしたらその後輩、なんか微妙な顔をして、
「あー、すいません。ぼく手作りのそういうの苦手で・・・他の人に食べてもらって下さい」っていわれた。
別に、喜んでもらおうと思ってた訳じゃない。ただ捨てるのが勿体ないから会社に持って行っただけだから。
後輩が憧れてたのは可愛い彼女に作ってもらう手作りお菓子であってこんなおばさんがつくったものじゃないっていうのもわかってる。
でもそれにしたって、同じ会社で働く人間同士なんだからマナーってものがあるんじゃないの。
その場では受け取っておいて、あとでこっそり処分するなり、色々やり方があるじゃないの。
なんでそうやって人の好意を無下にして傷付くようなことをするの。
そうやって人の気分を害して、毎日顔を合わせてる社員なのにやりにくくなるとか考えないの。
ああ、でもわかってる。後輩はわたしになんて嫌われたってどうだっていいって考えてるんだ。その時改めてわかった。
おばさんになるって辛い。
外部の株主いるの?
外部の株主がいて現状を知らないなら、チクってブチ殺せ。
一族経営ならまーほっといていいんちゃうの。それブチ殺すのは税務署のお仕事やし。
ある意味で「経費枠大目にとっといたで」っていう感じの良い社長という考え方も出来る。
俺も社用車はあるし、就業中のおやつ代やらなんやらは経費で落としてはいるけど
株主に明細見せて、「これくらいは社員サービスですぜ」で納得させてるし、文句言われる筋合いはないわ。
社員に旨いコーヒーと菓子を提供するのは社長の勤めだと思ってる。
なんて言っても広い。
なんと2kmくらい、視線の先の人が米粒に見えるほどの直線だ。
クラーク像を右手に、古河記念講堂やら工学部やらを眺めながら長い長い並木を歩けば、つきあたりまで30分かかる。
ここで終わりかと思ったら甘い。つきあたったその道の向こう側は獣医学部。そう、まだまだずっと北大の敷地だ。
ぐるっと回ると7km~8kmほどあると思う。
北大にきたらクラーク像やら植物園やらポプラ並木まで見ようって思うだろ?
同じ敷地にあるなら徒歩数分でたどり着けると思ったら大間違いなんだぜ?
さて、疲れても頑張って今度は南に歩いて行こう。
一日目は徒歩で市内な。
時計台と、赤レンガ庁舎、大通公園と、見るものはいくらでもある。
初日、なんだかんだで15kmくらい徒歩な。
疲れても頑張れ。
それは正しい。
1万円でセックスできるという破格の安さ。
合法風俗が低価格高品質すぎるため非合法売春婦がそんざいしないという。
すすきのでいうキャバクラとは、東京で言うところのお触りオッケーなセクキャバだという。
美味い飯も食える。
ミシュランガイド北海道特別編で三ツ星を獲得した「鮨 田なべ」も所在地はすすきのだ。
銀座と歌舞伎町と吉原を混ぜこぜして、クリーンにしたような歓楽街、それがすすきの。
ここで性欲も食欲も満たして一泊な。
南へ南へ。
道中に寄り道出来るなら、藻岩山の夜景がすばらしいので寄るのもいいだろう。。
函館山から臨む海に挟まれた夜景も素晴らしいが、突如として札幌の街が現れる藻岩山の夜景も負けてはいない。
しかし、個人的には昼から温泉、昼から酒、朝までグダグダをオススメする。
でも、定山渓温泉はつい最近わいたお台場大江戸温泉物語みたいなもんじゃない。
歴史があるっていうか、うん、一言で言えば、昭和の温泉街という感じだ。
なんていうか、ザ・昭和。
廃墟となった潰れた旅館と、潰れそうな旅館が交互に並んでいて、やってくるのは社員旅行のバスばかり。
この時代にまだ社員旅行客なんてあてにしてるから廃れるんだと思うんだが(笑
河童押しらしい。
萌えキャラ全盛の今、定山渓の河童がどんなか、グーグル画像検索をしてほしい。
繰り返すぞ。
ここで昼から温泉、昼からビール、そのままグダグダして、ここで一泊な。
広大な敷地で、美術館だけじゃなく、野外ステージ、工房、芸術三昧。
1日遊べるんだが、それをこらえて、そこから東へ。
目指すはクラーク像。
目指すべきはスープカレー。
ほんとにほんとにほんとにほんとにスープカレー。
少しだけ札幌のとなり町にはいったあたりで、野幌森林公園っていう巨大な森林公園があってな、ざっと東京ドーム430個分の広さでな。
そのなかに、開拓の村っていうこれまた広い野外博物館があってさ、開拓当時の建物が移築されててけっこう楽しいわけ。
北海道来たなぁって気持ちになれるわけ。
夕食はサッポロビール園だ。
ちょうどよく帰り道にあるはずだ。
サッポロビール園、キリンビール園、アサヒビール園とあるんだが、雰囲気を味わうならサッポロビール園だ。
北海道において、ビール園で食べるものといったらジンギスカンなんだ。
「ビール園に行こう!」を翻訳すると、「ジンギスカンでビールを飲もう!」だ。
で、三泊目の宿。
俺ならJRタワーに泊まるね。
ワイングラス傾けながら叫んでやるね。
「見ろ!ユリア。視界に映る全てが俺のものだ!俺の街サザンクロス!」
一日目の女の子の味が忘れられないなら、すすきのに泊まるのもいいぜ。
すすきのに泊まるなら、サッポロビール園じゃなくキリンビール園なら歩いて行けるよ。
札幌にいてもまだまだ見どころはあると思うけど。
帰りの空港も新千歳空港にするなら、富良野美瑛コースか、小樽余市コースだな。
それ以上離れると、移動時間がきつい。
それより遠くに行くと、東京を拠点に箱根観光に行くようなもんだ。
知名度でいうなら富良野美瑛だが、風景以外とくになにもないから、ある意味人を選ぶ。
小樽余市コースなら、おすすめはニッカウイスキー工場見学かな。
旅の疲れピークでも運転が平気ってなら、神威岬までは行ってもいい。
4日目にもなると、美味いものもくいあきたろうから、運転しながら、月寒あんぱんとかわかさいもとかをガラナで胃袋に流し込むくらいでいいだろ。
ジンギスカンキャラメルとか、ネタでもやめろ。
石屋製菓の白い恋人は不味くはないが大半の人間は食べ飽きてると思う。
壺屋のき花は白い恋人の上位互換だが、旭川空港ならとにかく千歳空港には売ってないだろう。
一昔前なら生チョコ、ポテトチップスチョコレートが喜ばれたが、一周した感じがする。
六花亭の菓子は意外性があるわりにハズレも少なく、しかも包装が洒落ていて女性にウケる。
お気に入りの女の子には、職場用の詰め合わせとは別になにか買ってってあげるといいだろう。
重たくていいなら、北海道限定のサッポロクラシックが喜ばれる。(土産物屋じゃなくてそのへんのスーパーで買うと安い)
まあ、全部妄想ですけど。
先日の会議でオフィス菓子の売り上げ金額が違いすぎるって議題があがった。
その金額四千円。ちょっと多すぎる。
後で入れよ。って思って忘れちゃったにしては多すぎる。
そんな注意で終わって不足分は各部署の割り当て予算で補填します。で終わったんだけど。
私、見ちゃったんだよね。
衝立の向こう側に設置しているケースからスッってお菓子を抜いてポケットにしまった先輩の姿。
衝立のこっちにいる同期と世間話しながら、通り過ぎるついでにスッって。
すっごく鮮やかな手つきだった。
音もしないし、会話もよどみなかった。
誰もそっち見ていなくて、私は本当に偶然に目にしてしまった。
もちろんその場でお金は入れてなかった。
もしかしたら、後で入れたのかもしれない。
そう信じたい。
でも、とても手慣れた手つきで初めてではないのかも。
って思えてしまった。
それと同時に怖いな。って思った。
そういうことを平気でできてしまう事に。
まったく興味が無い顔をしていた。
先輩とはそれ以降必要最低限のことだけ応対して、距離をおいている。