はてなキーワード: 目的意識とは
一体全体どうしちまったっていうんだ。
食パンにスライスチーズをのせて、ピッ ってすればスグできるから。
オーブンレンジの操作パネルに ”トースト” って書いてあるから。だからそれを押せばいいんじゃん。
俺が大学に行くために独り立ちして以来、十年以上は離れてた。そういえば正月や盆休みに顔を合わせることはあっても、こうして平日に一緒に生活するのは久々だったよな。
受験勉強のときには、よく夜食を作ってくれたな。いよいよ切羽詰まってた夜、寒い冬。夜中に届けてくれた月見うどんはうまかったぜ。
「おにいちゃん、うどんあるんだけど」。ありがたかった。ちょっと出汁が強かった気がしたけどな。
あのころお前は、なんだか唐突に料理に凝りだして。俺は不甲斐なくも、いいなあ中学生は暇でなあ、なんて思ってたぜ。のほほんと。
妹よ。
そんなお前は学生時代に唾つけといたイケメンのケツをつついて某メガバンクに就職させて、炊事・洗濯その他家事に対応させフルカスタムにし、いつのまにか一児の母になって、母親の葬式だって兄貴を振り切って手を回してくれて、あらゆるシーンでテキパキと如才なくて、地頭のクロック数が高いっつーか、先読みが効くっつーか、PDCAサイクルがタイトなのか、人生を回していくスピードそのものが俺なんかとは段違いで。何が二人を分けた? 生まれつきの差か? それとも強い目的意識の下のある努力の成果だったのか? いや身につけたスタイルなんだっけか。いつぞやの飲みのときにドヤ顔で”注意の節約がコツっすよ”とか言ったっけな? いつもなんか考えてんだよな。やっぱりスゲーよ、さすがは自慢の妹。
そう思ってた矢先。
「娘ちゃんは夫さんに割り当てました」。実家で羽根を伸ばして、きょうだい水入らずの平日。世界のどこにでもありそうな、でも欠けていた穏やかな日の、昼食が。
ツナサラダのツナ缶のオイルを切っただと? ツナサラダだぞ? そして現れる、柔らかいチーズトースト。
糖分多めの食パン。
それはいい。我々の生活には現実的な制約があるから。だからこそいまこの瞬間を大事にする。ここにあるものを味わう。妥協ではない。これが生きるということ。日々をやっていくということ。チーズトーストを焼くということ。
友人がおそらく強迫性障害だ。
①待ち合わせに5分〜20分絶対に遅刻してくる。理由を聞くと、確実に間に合う時間に起きているのに「あれが足りないかも、これが必要かも」と考えすぎて、いつも遅刻してしまうそう。
②潔癖症である。複数人で鍋などを食べる時は、絶対に取り箸で装わないといけない(直箸が無理)。自分は汚ないと思っているので、自分の後に風呂場を使って欲しくない(誰かの後に風呂場を使うことはできる)。
③全てのことに固執性が高い。〇〇を絶対に使わないと決めたら、どんなに意味がなくても絶対に曲げない。どんなに暑くてもエアコンを使わないとか。旅行なとで事前に決めた予定が少しでも狂うと、途端に全部投げやりになる。
以前は近所に住んでいて目的意識を持たない遊び方をしていたので、多少はイライラしたが一緒にいても平気だった。
潔癖症に関してはこちらが少し気を使えばいい程度だし、友人が遅刻してくることを見越して自分も待ち合わせに少し遅れて行くなどしていた(毎回20分も待っているとイライラするので)。
今は離れたところにいるので、友人と会う時は互いの居住地に観光込みで遊びに行くか、ともに旅行に行く時である。観光や旅行などの1日に複数の目的がある遊び方だと、予定が狂うと途端に投げやりになってしまうので本当に困るし、とても気を使うので一緒にいてしんどくなる。
とても気の合う友人で、いろんな所を一緒に巡ると楽しいので、日中は別行動で夜の食事と泊まるところだけ一緒というのは悲しいんだけど、もうそういう付き合い方をするしかないのかな…。
今日、同期入社のA男が退職した。俺はそいつを駅まで車で送る途中で退職の労いとして一緒に飯を食べたのだが、それまでの散々なそいつへの愚痴を書きなぐっておく。
A男 : キモ男。面長で痩せ気味。大卒後に一時期引きこもりになっていたらしく、これが初の社会人経験。バイト等はしていない。
俺:Aと同期入社のアラサー。色々と転職繰り返して今の田舎の公営企業に落ち着く。
このA男は、見た目はキモい男なのだが、中身も容姿を裏切らないキモさだった。まず話し方が嫌らしい。常にどもりがちなのは仕方ないが、一旦心を許した(なめてかかった)相手には「俺ざ~~~ん」のような、野良猫を見つけたときのような奇声をあげる。ようは俺に対してだけ、妙に馴れ馴れしく語尾を不自然に上げた普段の倍のトーンでキモい笑みを浮かべているのだ。ボディータッチがないだけマシなんだろうと耐えていた。
あげく寂しいのか、俺の名前を連呼した歌まで歌っている始末。あいつがその歌でCDデビュー(死語)したら印税9割とってやろう。そういうのは飼い猫をすればいいじゃないと言ったら、猫が苦手だとか。猫が苦手な人間に人権を与えてはいけないという法律があるので、A男はココロの中で撲殺しておいた。
そんなA男は、会社に入って1日程度で音を上げてしまった。理由は「車の運転が怖いから」。それが最終的な退職理由の一つでもある。
田舎なので電車やバスといった交通網が薄い。当然のように車が人間よりも上にいる社会では、車を運転できない人間への配慮は低い。しかし会社自体は良い意味でアットホームなためか、電車と自転車通勤で折り合いがついた。実際、諸事情で車通勤ができない人は他にもいるので問題はなかった。本人的には運動不足解消にもなってよかったはずなんだんがなぁ。どういうわけか、退職理由の筆頭が「車」なのは何度聞いても意味がわからない。
そもそも車通勤が当然な会社に、車が苦手な引きこもりが入ることが間違っている。そんなのは本人もわかっていたらしいが、なんとかなると思ったらしい。お前は減量失敗したボクサーかってくらいに無計画なやつだ。せっかく就職祝いに買ってくれたであろう軽自動車がないているぞ?俺が代わりに運転してあげたいくらいだよ。
他にも退職理由は色々で、曰く「親の言いなりになっているような感じがしたから」「仕事が暇すぎた」「教育係の人とすれ違っていた」とか。柔道部と間違えて茶道部に入った中学生のような言い訳を重ねるだけだ。一緒に飯を食ってさえ、A男の本音の浅さと無計画具合に心が冷めた。
そんなA男が今日退職したのだが、最後の最後までやってくれる。A男は車に乗れないので、自転車通勤だ。そうすると職場の荷物を持ち帰るのが難しいということで朝と夕方に俺が駅まで送り迎えをすることとなった。この時点でかなり俺の甘やかしがすぎるのは承知の上だ。荷物なんて宅配便を使ってもいいくらいだし、そもそも退職まで1ヶ月の猶予があるならちょっとずつ整理整頓をして最終日には手提げかばんだけで済むようにすればいい。普段から書類整理と書類への押印しか仕事がないのだから。
という退職経験者ならわかることも、引きこもりでバイトもしたことのない若者には難しいので俺が犠牲になったわけだ。まあ俺も以前の職場で似たようなことをしでかしたからね。
そして今日の夕方、A男を乗せるために早めに車で待機していたが、結局やつが来たのは俺が出てから1時間以上経ってから。あれか、沖縄時間だね。特に時間を指定しないと何時間でも待たせて構わないという例のやつだよね?俺以外はみんなやっているとという。LINEにもでないのは沖縄時間だからだよね。ロッカーの片付けが1日かけても終わらないってのも沖縄特有のやつだよね?
と、沖縄へのdisりが最高潮になったときにようやくトボトボやってきた。走れよ!
で、ここからようやく飯の時間。だけどキモA男は車の中でもキモかった。いやうざかった。
車に乗ってから言ったのが「俺デザートが食べたい」「Coco's行こう」だった。
いやいやデザートならコンビニで食えばいいだろうし、こっちは待たされて腹減ってるし、しかも俺が何を食べたいのかを聞く気もないのかね君は。地図を見ながら案内してくれと言っても、禄に地図が読めないから案内になっていない。仕方ないので俺の近所のCoCo'sに寄ったさ。
さてCoCo'sについて開口一番言われたのが「財布を車に忘れた」だ。取りに行くと言ってはいるがその気配が感じられないので無視しておくことにする。
まずやつは「デザートが食べたい」とこの店を指定した。だが最初にやつが頼んだのは薄いピザ1枚。最初にご飯を入れて余裕があったらデザート食べるらしいのだが、なんでピザだけなの?
A男曰く「ピザの1枚の量が想像つかないから1つだけ頼んだ」らしい。おい、量を想像できる料理を頼めばいいのでは?近くに箸が描かれた冷麺だってあるだろ?それに直径23cmのピザの分量が自分の胃袋に収まるかどうかを想像できないってどういう状況?君の脳みそは肛門にでもくっついているのかい?食欲は「普通」ってそれ答えになっているのかい?
結局、でてきたピザはコメダのモーニングよりちょっと寂しい程度の軽いピザだった。だから追加注文するようだが、なぜにドリンクバーなの?そしてその後も、なぜかフライドポテトとチョコパフェを頼んでいた。ど田舎の中学生のような組み合わせだ。お前今年で24だろ?俺だって甘いもの好きだからパフェとか食べるが、このいびつな組み合わせと注文の仕方はありえない。
見ていて、A男はファミレスのような場所で食事経験がないのかと思ったほどだ。自分の腹にはいる分量をメニューから想像することができていないし、俺のように一回でハンバーグセットを注文しようという目的意識もない。初めて入ったバーで食事に迷っているような雰囲気だった。食事一つが手探り状態。
料理一つに対しても、美味しいともまずいとも言わない。食事を楽しむ空気も出さない。どちらかが奢る可能性のある場では、俺は少なくとも味の感想や店の雰囲気を肯定的にいうことにしている。それが普通のファミレスの料理でも「うまいね」の一言だけで空気は違ってくる。
A男に俺は見えていないし、彼の目の前の料理も炭水化物や砂糖の塊にしか写っていないのだろう。ポテトを口に運ぶ動きに生命力が感じられない。少食アピールの女性みたいな苛立ちでもなく、赤ん坊の汚らしい食べ方でもない。食事というものに興味がないかのようだ。
こんなに一緒に食事をして楽しくない相手も珍しい。女性とデートしたら最初の料理で女性は消えているだろう。
食事の席ではやめた理由等を念の為聞いたのだが、やはり車通勤がネックらしい。それは解決したはずなのに、なぜか4月からずっと尾を引いているあたりがキモ男らしい。
結局A男を駅まで送り届けて任務は完了した。時間外勤務手当がでないことをここまで恨んだことはない。完全に子守じゃないか。当然、ファミレス料金は俺が支払った。A男に少しでも貸しを作りたくないから。やろう、俺より食ってやがる
(終わり)
登戸の事件に心を痛め、その後「一人で死ね」論争に言い表せない違和感を感じていたところ、なかなか腑に落ちるツイートがタイムラインに流れてきた。
引きこもり云々のツイートが流れてって完全に「自分らは被害者なんだ!」っていう視点でしかモノ言ってなかったけど
自殺を否定も肯定もしないが
「1人で死ね」とは
「他人を巻き込むな」ってだけや
「死んでほしい」訳じゃなくて
「死にたくない人を殺すな」と言ってるだけや
被害妄想も大概にしろ— にらい (@UUQjfllQ68CKPia) June 2, 2019
僕が思うにこのような拡大自殺は「死にたくない人を殺そうとする」ことに結構はっきりとした目的意識を据えているのではないだろうか。
要は「私が受けた傷がまわりまわって私と接することなどなかったであろう人を傷つけてしまいました。」という悲劇の演出として市民を殺傷するというところが少なからずあるのではないか。
そういった一種の殺人願望に対して「そんなことするな」と言い切ってしまうのは元も子もないことで思考が停止してしまっており、議論や考察の妨げになってしまう。
僕が感じた違和感や抵抗感はここからくるもので、ただただ「殺人は良くない」と言うだけでは、この事件のような「無敵の人」はなぜ出現してしまうのかということや、「無敵の人」にさせないための救済法はないのかという発展的な議論を潰してしまうし、それは孤独な人を自分たちの暮らす社会から断絶させて追い込む態度にほかならないように感じるのだ。
世の中には誰でも知っている物語をこんな風に汚れた目で見ている奴もいる。
物心付いた頃から、世の中に存在する数多くの人魚姫の絵本に対して、言いようのない困惑を抱いていた。
人魚姫、それは様々な子ども向けの読み物の中で唯一、女主人公が読者の目に全裸を晒す場面のある物語だった。
幼少期の俺にとって、魚の尾鰭が人間の女の下半身にすげ替わった直後の人魚姫の描写は、あまりにも衝撃的だった。
人魚達には人間のように、動きにくい服で生身の体を覆い隠す文化がない。
ほとんど生まれたままの体に装飾品をつけ、自由自在に海の世界を泳いでいる。
しかし、直前のページまで「人間ではない空想上の生き物」として許されていた人魚姫の姿は、人間の下半身と接続した途端、突然「子どもが見てはいけない生々しいもの」に変質する。
人魚姫が人間になろうとして、何もわからないまま「なり損ねた」ぶざまで痛ましい姿が、あの裸身なのではないかと俺は考える。
実際、アンデルセンによる原作には、王子に姿を見られた人魚姫は、自分が何も身につけず裸であることに後から気づき、慌てて長い髪で体を覆い隠したという描写がある。
この恥じらいの描写は、人魚姫が目を覚ますまで、無言でその場に突っ立って彼女の姿を眺めていた王子の態度と併せて考えると、両者の間にいたたまれなくなるほど明確で圧倒的な力関係が最初からあることを示しているように思える。
特に海外の絵本の挿絵にその傾向があるが、高貴な衣装で身を固めた王子が、恥ずかしそうな表情と共に髪や海藻で乳房や下腹部を隠している裸の人魚姫を見下ろしている構図は、見ていて心の奥がザワザワするほど暴力的だ。
かつて王子の命を救った尾鰭を自ら手放した今、高貴な人魚の姫はもはや空想上の美しい生き物などではなく、恥や罪や裏切りや支配のある人間世界の一員、何も身を守るもののないか弱い全裸の小娘に堕ちてしまった。
人魚姫の絵本で初めてオナニーを覚えてしまった幼少期から、こんなことを数十年間悶々と考え続けている。
正直恥じらいの描写だけではなく、人間の枠に収まるべきじゃなかった存在が、無理矢理人間に変身させられてしまう理不尽さ自体が性癖なんだと思う。
10代の頃から、ネット上で見つかる限り、世界中の人魚姫の絵本の画像を保存している。特に人魚姫が人間に変身した直後の場面の挿絵を執拗に集め続けた。
動画サイトに上げられている、この童話をモチーフにした国内外のアニメ作品(プロアマ問わず)のスクショもそこには含まれている。
この物語が時代や地域を超え、世界中の人に愛されている証拠だ。
去年、最近の人魚姫の絵本が萌え絵に寄ってきているとか、そもそも30年前から書店で売られている定番の絵本の画家は当時活躍していた有名なアニメーターだとか、そんな議論がネットの一部界隈を騒がせた。
俺にとっては今更な話だ。
子ども向け絵本に相応しい絵柄というものは時代によって変わるのだとか、特定の画風や表現に目くじらを立てる大人の方が歪んでいるのだとか、どちらも冷静で健全な意見だと思うが、上記の葛藤を長年抱えている俺個人にとっては疎外感しか湧かない。
絵柄がどうであろうと、この世で作品として表現された多くの人魚姫に対して、俺は欲情するし、ポルノのように見なしてしまう事実がある。
絵本を生み出し子どもに届けることを職とする人々には、こんな読者がいることを心から申し訳なく思う。
しかし、原作の内容からして、やはり人魚姫は初めから人の心の後ろめたい部分を刺激する歪さを含んだ物語だったのではないだろうか。
人間への変身を遂げた直後の人魚姫の肢体を、露わに描くことの是非は正直わからない。
わざと扇情的に描くこともないんじゃないかと思う。そんなことをするせいで俺のような変な人間が出てしまう。
あくまで自分の体感だが、実は2010年前後から、子ども向けの読み物における人魚姫の挿絵の表現に変化が現れつつある。
2010年代(ゼロ年代からそうだったかもしれない)の人魚姫達は、痛ましい裸体を王子や読者の目に晒すことが前よりも少なくなった。
浜辺に倒れて気を失っている人魚姫は、何も着ていないのではなく、鱗が変化したと思われる可憐なドレスを予め身に纏って描かれるパターンが増えている。
俺は正直、その傾向にものすごく安堵している。
もう欲情しなくて済むし、後ろめたさを感じなくてもいい。
そうすれば人魚姫の清純さ、可憐さ、儚さ、気品は十全に表現される。
さっきまで被服の概念のない無垢な世界で生きていたせいで、自分を愛さない男の目に一糸纏わぬ裸体を晒す、愚かで無知な少女はいない。
俺は間違いなく、おそらく意図的にこんな理不尽で無垢で蠱惑な物語を歴史に残したアンデルセンを、良くも悪くも一生恨み続けることだろう。
追記:
向こう見ずで愚かな少女の憧れが、最後に宗教的に高尚な愛と犠牲の境地に昇華していく話だというのは理解しているんだけど、なんかそこに至るまでの過程に、清純になりきれないエグみやエロさが含まれているような気がする。
個々の絵本やアニメのような派生作品には、言いづらいけどオカズを探してたはずなのに純粋に芸術性の高さに圧倒されてしまうような素晴らしいものも多い。特に東欧の絵本とかすごい。
どちらかといえばアンデルセンだけじゃなくて、数年周期でよくネットで「人魚姫の絵本がエロい」と騒がれる絵(30年前からおそらく今に至るまで日本で1番手に入りやすい人魚姫の絵本が出典)を描いた高橋信也さんにも複雑な気持ちを抱いている。
エロ目的で描かれたものじゃなく、社会で広く受容されているし文化的にも高い評価を受けている作品を幼少期からずっとオカズにしていることは、とてもじゃないがこの先なかなか打ち明ける場がないだろうと思ったので、一度言葉にしてみたかった。
これを投稿して16時間後の今、「王様の耳はロバの耳」の床屋のような気分でいる。肩の荷が降りた感じだ。
訂正すると、画像が2000枚あると書いたのは多少不正確だった。
人魚姫関係以外の非三次元のオカズ(MtFのTSFとか)も合わせてまとめたフォルダの画像の総数が2500枚程度だった。
実際にあの場面の画像を今まで確認・収集できている人魚姫派生作品の数は、300前後になる。1作品から複数の画像を保存する場合が多いのでこうなるんだろうな。
基本的に俺は変身前の人魚姫の姿で抜くことができず、本当にピンポイントで人間になった直後のあの場面だけに欲情してしまう。なので人魚の姿での画像は集めていない。
加えて、子ども向けとはいえ裸の少女が描かれている微妙な場面の画像が、人魚の姿での明るい表紙絵や、華やかなドレスを纏った終盤のシリアスな場面の挿絵に先んじてわざわざネットに上がる頻度は、やはり少ないと言っていいだろう。
こんな目的意識を持ってネットの海を長年徘徊していると、海外の人魚姫好きが日本の東映が昔作った長編アニメ映画とディズニー版を比較したレビューを書いていたり、ディズニー版はディズニー版で色々な(俺のようにおそらく性の目覚めを奪われてしまったのだろう人間を含めて)ファンがいたり、ニコ動のボカロ曲がアンデルセンの原作通りの筋書きを教えてくれる作品としてyoutubeの投稿者の間で何年も根強い人気を持っていたり、simで人魚姫の物語を再現する動画投稿者が定期的に現れたり、各国で様々な人魚姫が作られている様子がわかったりと、とにかく色々な受容のされ方を目にする。
そこで起きている現象を自分しか知らないままでいるのは何となく惜しいような気がするので、具体的にこの派生作品のここがエロいと感じてしまうという懺悔を含めて、ろくなものにならないだろうが雑な考察をまたいずれ投稿するのもありかもなと考えている。
4/18 再々追記:
ブコメの中に池田浩彰さんの名前が挙げられていたので回答します。
あの本は確か残念ながら絶版になっていたはずだけど、小学生の頃に図書館で見た時はかなり動揺した。
人魚のデザイン(知らなければ画家の名前でググってほしい)もそうなんだけど、画風の美麗さといい、しっとりと柔らかそうな人体描写といい、一度見たら忘れられないような印象の強さがある。唯一無二。普通に絵画として好きだけど、色々な気持ちになる。
この投稿を読んで実際どんな派生作品があるのか調べてみたくなったというブコメもいくつか見かけるけど、個人的には「little mermaid andersen」とか「人魚姫 絵本」とかに色々な単語(legsとか裸とか)を加えながら、グーグルやyoutube、あとピンタレストでもずっと黙々と検索していた。
英語もいいけど、youtubeだとフランス語やスペイン語、あとイタリア語とかで「人魚姫」を意味する言葉を検索しないと辿り着けない動画も色々ある。正直その辺の検索ワードはウィキペディアの人魚姫の記事の各国語版を参照しながら、読めなくてもスペルがそれっぽい単語を勘で拾って打ち込んだりしていた。
いつのまにか性癖の話は脇に置いてでも、一つの童話に対してあれほど多様で豊富な派生作品が存在する様子を誰かに知ってほしい気持ちが湧いてきた。
実際に集めた画像を見てみたいというコメントもあるけど、しかし、その多くはそもそもエロ目的なんかじゃなく純粋な作品紹介のためにネットに上げられたものが大半なんだ。
連邦vsジオン、連合vsザフトみたいな対立軸がなかったため、大規模戦闘を描写しにくかったのではないだろうか。もちろん00そう言えなくはないが、ソレスタルビーイングには、大規模戦闘を行う力があった。
各キャラが何をしたいのかが最後までわからなかった。主人公であるオルガは「火星の王」になりたかったようだが、火星の王とはなんのことだろうか。あまりに抽象的で、意味不明である。
また、マクギリスが実現したかったことは、ギャラルホル創設時の意思に立ち戻って、ギャラルホルンを改革することと考えられる。しかし、実現したいと思うきっかけが不明である。どのような動機に基づいているのかが説明不足であると感じた。
筆者的にはMA戦以降の展開を、書き直してほしい。
小学校教員経験者としての個人的な意見です。といっても大卒後2年だけ勤務(5年生, 6年生担任)してその後転職してるので、経験は少ないし時差があります。ただ最近、というか定期的に話題にあがる、かけ算の順序問題について自分の考えを書きたいと思ったので
(2)かけ算を元にしたわり算の理解
という2つを考えつつ書きなぐります。
ここではかけ算の順序を固定するという表現を使ってみようと思います。まず現状としてかけ算の学習では
(1つぶんの数)x(いくつ分)=(ぜんぶの数)
乱暴な言い方かもしれませんが、このように固定するのは必要悪だと思っています。
かけ算の順序を固定する理由をざっくり言うと、かけ算の式において(1つぶんの数)と(いくつ分)のそれぞれを明確に式の中で表現するため、です。それに伴い、順序を固定する必要が出てくるということです。固定は副次的なものです。
例えば3 x 2という式において、(1つぶんの数)にあたる数は3なのか2なのか、(いくつ分)にあたる数は3なのか2なのか、順序が固定されない限り判断がつかず評価ができません。どっちの数がどっちだか混乱してしまいます。なので、かけられる数に(1つぶんの数)を、かける数に(いくつ分)を対応させることにより、明確に(1つぶんの数)と(いくつ分)を式の中で表明することができます。
あと、計算だけ指導するのであれば、順序の固定は不要です。実際に、意味がわからなくても計算ができる人は山ほど居ます。ただ、かけ算やわり算の意味をとらえるためには、(1つぶんの数)と(いくつ分)を区別して考えていかなければなりません。
これだけじゃわかんねーよって人は以下も参考にしてください。
授業をするからには、かならず評価をすることになります。実のところ、この順序をつけなかった場合、問題の文脈を正しく理解して立式したのかどうか、評価が難しいです。問題において提示されている事象、より厳密に言えば「現実モデル(*1)」を、正しく「数学化(*2)」して処理しているかどうかが、評価のポイントになるわけです。もちろん児童ひとりひとりにインタビューをして評価できれば良いのですが、ペーパーテスト上では、立式ができているかどうかをかけ算の順序で判断するしかありません。(もちろん、正しい順序で書けたからといって正しく数学的に理解できているかどうかはわかりません。適当に数字を選んで立式している可能性もあります。逆に、現実モデルは説明できるのに式でそれを表現できていない場合もあります。これは現在のペーパーテストによる評価の限界でもあります。)
このままだとわかりにくいので、次で具体的な例を挙げながら説明します。
(*1)「現実モデル」...例えば「1ふくろにつきももが3こ入っていて、それが5ふくろあります」というものが現実モデルの一例です。現実にはその場にももがあるわけではないですが、その現実事象を模したものが現実モデルです。
(*2)「数学化」...ここでは文章題から立式する過程のことを指しています。問題を数学(算数)の領域で解決できるようにすることです。数学化した時点で、現実モデルの情報はそぎ落とされます。たとえば[現実]→[数学]の動きの場合、「りんごが2こと3こでぜんぶでいくつ」→「2 + 3」と容易に数学化できますが、その逆の[数学]→[現実]の動きの場合、「2 + 3 」→「 」の部分は無限に答えが考えられます。りんごじゃなくてもも2こと3こにしてもいいし、今日は1月2日です3日後は何日ですか、でもいいわけです。数学化されたものはそれだけ抽象化されていて、元の現実モデルを言い当てるのは困難ですし、現実モデルがそもそも無い場合もあります。
よくあるひっかけの文章題では、文中で(いくつ分)をわざと先に出し、(1つぶんの数)をその後に登場させるものがあります。
「6枚のお皿にりんごが3個ずつのっています。りんごは全部で何個ありますか」
文章題の順序通りに立式すると、6 x 3という式になります。固定した順序で考えると、これは(1つぶんの数)と(いくつ分)の順序が逆になっています。この場合、実際には
1皿に3個のりんごがのっていて、そのお皿が6枚分ある(式 3 x 6)
1皿に6個のりんごがのっていて、そのお皿が3枚分ある(式 6 x 3)
という現実モデルになってしまい、結果的に6 x 3という式は後者の現実モデルを元に立式したと判断することになります。
りんごのぜんぶの数はどちらも等しいですが、6 x 3という式の元の現実モデルが実際の現実モデルとは異なるため、問題にある現実モデルを正しく数学化できたとは言えず、誤答になるということです。
(1つぶんの数)を3、(いくつ分)を6
として捉えているのか、
(1つぶんの数)を6、(いくつ分)を3
として捉えているのかには大きな違いがあるわけですが、(1つぶんの数)x(いくつ分)の順序で書こうと決めておくことで、どちらで捉えているかを特定することができるようになります。
そう考えると、順序は逆にして固定しても問題はなさそうです。今の
(1つぶんの数)x(いくつ分)
という順序は、ただ言語的な順序に従っているだけだと思います。
かけ算がたし算の延長ということを思い出すと、
2 + 2 + 2 + 2 + 2
を
2 x 5
と表しているだけで、これは
2 + 2 + 2 + 2 + 2
を、2が5つ分という風に捉えて、その順番で2 x 5と順序づけているのかもしれません。5つ分の2と捉えれば、5 x 2と順序づけてもいいので、捉え方の問題なのかもしれません。個人的には前者の方が自然に感じるのですが、刷り込まれてきただけかもしれません。
(共通性のある例を考えると、2/3という分数について、日本では「3分の2」と分母から読み、記述するときも大抵の人は分母の3から書き始めると思います。「3分の2」と考えなから、分子の2から書き始めるのは違和感があるのではないでしょうか。一方で英語圏の場合、Youtubeとかで実際に確認した限り、2/3は「two third」と分子から読み、記述の際も分子の2から書き始めます。)
繰り返しになりますが、順序自体が大事なのではなく、かけ算の式において(1つぶんの数)と(いくつ分)のそれぞれを明確に式の中で表現することが大事で、そのために順序の固定が副次的に必要になるということです。
改めて考えると、この固定というのは非常に厄介でもあります。まだ学習し始めの子どもを混乱させないために条件を固定しているという意図もありますが、順序を交換しても答えは変わらないという事実と照らし合わせたとき、納得いかないのも当然です。しかもその事実自体は小2の九九の時点で学習します。
順序が問題にならないときというのは、既に数学化されたものを取り扱うときです。つまり、そもそも数学化の過程が評価の対象にもなっていないものです。算数的に言えば、文章題のような問題ではなく、既に立式されている問題です。
2 x 3
という問題であれば、
2 x 3 = 3 x 2 = 6 答え6
と計算しても間違いはひとつもなく、正答です。2 x 3が計算できなくても、順序を変えて3 x 2で計算しても良いのです。その根拠は、かけられる数とかける数の順序を逆にしても答えは変わらないからです。むしろ学習が進むにつれて、交換法則は便利に使うことができ、積極的に使えるようにしていくべきです。(教科書でもちろん学習します。)
また、アレイ図(↓のやつ)を考える時、自分でどう括るかによって、(1つぶんの数)と(いくつ分)が決まり、どちらの順序でも考えることができます。例えば
● ● ● ● ●
● ● ● ● ●
● ● ● ● ●
上のようなアレイ図であれば、縦3個でくくれば3 x 4という式になりますが、横4個でくくれば4 x 3という式になり、かけ算の順序が逆になります。自分で現実モデルを作り出してそれを数学化しています。
わり算の考え方には2つがあります。「等分除」と「包含除」です。その違いを説明するために、虫食い算のかけ算を考えます。というのも、わり算はかけ算の拡張なので、発想として虫食いのかけ算で考えるとわかりやすいです。3 x 2 = 6と、順序を逆にした2 x 3 = 6を虫食いにして考えましょう。かけ算の順序を変えただけなので、どちらも答えは同じ6です。
・等分除
□ x 3 = 6
というかけ算をわり算では
6 ÷ 3 = □
と表します。この場合、求める□の部分は(1つぶんの数)にあたり、例のりんごと皿で考えれば、
「りんごが全部で6こある。これを3枚の皿に平等にわけると、1皿あたり何こになるか。」
という問題になります。1つぶんのりんごの数が、求める答えです。これが「等分除」です。わり算と聞いて想像しやすい、平等に分けよう、というものです。教科書でもこの等分除から学習します。
・包含除
3 x □ = 6
というかけ算をわり算では
6 ÷ 3 = □
と表します。この場合、求める□の部分は(いくつ分)にあたります。例のりんごと皿で考えれば、
「りんごが全部で6こある。1皿に3こずつりんごをのせていくと、皿は何枚必要になるか。」
という問題になります。皿の枚数が、求める答えです。これが「包含除」です。イメージ的には、6つある物を1セット3ことして何セット作れるかな、というものです。
以上のように、□ x 3 = 6と3 x □ = 6のどちらも6 ÷ 3 = □というわり算になるのですが、もともとのかけ算の式をみると、求めている□の部分が(1つぶんの数)なのか(いくつ分)なのか、という違いがあります。一見、全部わかりやすい等分除で考えればいいじゃないかともなりますが、包含除は等分除ではとらえにくい、余りのあるわり算を考えるときに非常に有用で、必要不可欠です。
この等分除と包含除の考え方は、かけ算での(1つぶんの数)と(いくつ分)を明確に区別しているからこそ理解でき、学習できることです。3回目くらいになりますが、(1つぶんの数)と(いくつ分)のそれぞれを明確に式の中で表現するために、順序を固定する必要が出てくるということが、かけ算の順序を指導する理由であり、今回書きたかった結論です。もし順序を固定しない場合、式の中でどっちがどっちなのかを示す記号を加えるなどの工夫が必要なのではないでしょうか。
単に順序を逆にしても同じ、として学習を進めると、(1つぶんの数)と(いくつ分)に区別のない世界で考えることになります。このとき、子どもにかけ算やわり算の意味をどのように指導すればよいのでしょうか。計算だけ指導するのであれば、何も問題ないのですが。
「算数的活動を通して,数量や図形についての基礎的・基本的な知識及び技能を身に付け,日常の事象について見通しをもち筋道を立てて考え,表現する能力を育てるとともに,算数的活動の楽しさや数理的な処理のよさに気付き,進んで生活や学習に活用しようとする態度を育てる。」
「算数的活動」とは「児童が目的意識をもって主体的に取り組む算数にかかわりのある様々な活動」を意味しています。先ほど考えたわり算の理解は、この算数的活動を実現しうる機会の一例そのものだと思っています。
正直、計算自体が重要なのであれば、現代では電卓やコンピュータに入力する力が求められるだけです。もっと時代が進めば、こんな等分除や包含徐を学習しなくてもなにも困らない時がくるかもしれません。もちろん、先ほどの算数科の目標は社会の移り変わりによって広義に変容するものですから、時代が変われば内容も変わるでしょう。しかしそんな中でも、根本として算数・数学を探求することが大切ということはゆるぎないと思います。
小学校の教員は基本的にほとんどの教科を一人で担当します。私は自分の算数の指導に課題を感じ、よりよい授業のために調べたり足を使って研究会・学会に参加したりしてきたのですが、正直いうとそうしてきた算数だってあまり自信が無いです。すべての教科を完璧に仕上げるのは結構な難易度だと思います。
勤めている人はみんなそうですが、現場の教員たちも同じように膨大な業務に追われています。また、子ども・保護者のトラブルの対応も多々です。学校では毎日事件が起きているといっても過言ではありません。若い先生は特に教材を研究する時間が必要ですが、所定の勤務時間内にできる時間はほぼゼロです。朝と夜の残業時間も、授業そのものに関係しない業務が多いです。学校で子どもが過ごす大半の時間は授業時間なのに、その授業の準備が満足にできないということです。経験を積めば良いと言われても、今担任しているクラスの子どもが被害者になるだけです。あたりまえですが、その子たちは一度だけの1年を毎年過ごしているわけです。貴重で大事な時間です。
現場にもっと人が欲しい、というのが素直な感想です。算数では少人数授業やチームティーチングが増えてきていますが、根本的な問題は解決していません。算数に限らず、教員がもっと授業に関することに時間を割けるようにするべきです。毎日授業があるのに、その授業の質が低くなっては意味がないです。結局、先生たちもかけ算の順序について教えてくれる人なんて居ないのかもしれません。そんな状況で教えなくちゃいけないんです。
新聞配達からの司法試験合格とか、除籍繰り返しても薬剤師とか、何が何でもモノにする!という根性が感じられるが、元増田にはそれがない。
世間的に見栄えのする仕事とかないかなー、大卒の肩書きとか資格取れないかなー。あ、あまり難しいのは勘弁〜。キツイのも汚いのも嫌〜。てか、俺様が中卒高卒レベルの底辺労働やる訳ないっしょ。バカにしてんのか。年齢差別だ差別!
みたいなやつだよ?何の目的意識もないやつ。
やれるもんならやってみろ、と言いたい。
薬剤師って汚れ仕事じゃないし国家資格だし、と考えているみたいなのでやってみたらいい。薬学部は頭の回転が速くて気の強い女子学生やシンママの巣窟だけどな。そんな環境で6年間。せいぜい虐められないことを祈っとくわ。