はてなキーワード: 目的意識とは
中学生の頃、厚生委員会の委員長を務めた。ペットボトルキャップやプルトップ、ベルマークを集めることが主な委員会の仕事だった。環境問題について考え、社会にどのように貢献できるのか。そのような目的を掲げた委員会だった気がする。
実際はそんな高尚な目的など上っ面なだけで実態は意味があるのか正直疑わしいものだった、と現在の自分は振り返りながら思う。
ペットボトルキャップを集めれば環境保護になるし集めた数だけ発展途上国のワクチン活動に貢献できる。エコキャップ活動だ。これが掲げられ、委員長が毎年変わる中学校では活動が慣習的に引き継がれてきた。何も考えず慣習的に実行していた。私たちは本来必要な目的を見失い、地域のゴミ箱を漁りまわったりクラスの雰囲気という圧で半ば半強制的に集め、どのクラスが一番多く集めることができるか競い合った。例年はどうなのか興味もないし覚えてもいないが、個人的には学校内を盛り上げることができた。これは私の成果ではなく、自分の担任の先生が学校を盛り上げるのが上手かったのと、委員会の担当の先生の委員に対する圧力と指導方針がよかったのである。中学校は先生の立場がとても強かった。自主自律を掲げる高校に進学し、とある委員長になった私は大失敗した。高校では生徒が主体的に活動しなければならなかった。私には荷が重すぎた。中学校の頃の私は先生の傀儡であり、私には物事を動かしていく行動力と目的意識が欠けているのだと思い知らされた。
ゴミ箱から集めたペットボトルキャップは汚いので、学校に持ち帰ってシールなども剥がしてキレイにする必要がある。水もたくさん必要だし、乾かす時間も労働力も必要だった。クラス全員とまではいかないものの、何人かで協力したので、文化祭の準備みたいな青春の甘酸っぱい思い出にはなっている。手は色々な清涼飲料が混じった甘酸っぱいベトベトで覆われていた。いい思い出の反面、今思うと完全に無駄ばかりだった。大量に水を使うことは直接的に環境に悪だし、乾かしたりする時間や労働力という面でも部活をしたい人からすれば無駄に極まりない。数さえ集まればよくて、自分のクラスが目立てるのであれば、という意識が盲目にさせた。
そもそも学校でペットボトルキャップを集めるというのも結構意味がないことらしい。家庭で発生したペットボトルキャップを回収して学校へ持ってきたり、ゴミ箱などからキャップを回収する。汚いキャップやシールのついているものはキレイにしたりシールを剥がす。回収した分はまとめて、配送業者を呼んで回収業者へ送る。配送業者を呼ぶにもお金がかかる。そのお金を寄付した方が良いだろう。私の代は、先生の車でキャップ回収を行っているスーパーに送ったっけ?だと配送業者は使っていない気がする。もう覚えていない。ゴミ業者はペットボトルとキャップを密度の差によって分別するし、元から回収されるペットボトルをゴミ箱から回収しするのは本末転倒である。
本来の「環境問題に意識を向ける」という目的に基づくならば、家庭内のゴミの分別の具体的内容を伝えるとか、生徒の意識調査をして向上に繋げるとか、根本的かつ最終的に効率のよいやり方があったはずだ。でも目に見えやすい”実績”には表現しにくいから小中学校では通用しにくいのかもなぁ。色々と調べて、エコキャップの意味を伝える紙面を作ったことがあった気がするけど、そのときに現状の活動は無駄ばかりであることに気づくべきだった。
詳しくは知らないけど、最近はゴミ袋有料化とかプラスチックストロー廃止とか、色々と環境に対する活動があるようだ。それらに根本的に効果がある方法なのかは知らないけど、目先の”実績”にばかりに盲目的にならず、長期的な目をもって自分の活動に意識を向けていきたい。
嵩張るけどお出かけのときは水筒を持参し、出先でペットボトルを買わないようにしている。実際はペットボトルを買うお金を節約したいだけなんだけどね。
本を水平にして、本が開く側の角に近い位置を持つ。
手首で強くスピンをかけて、手裏剣のごとく、水平方向に回転させながら投げるのだ。
野球ボールのように手首を縦に振ってスピンをつけるのは、手首の構造上、わりと楽だが、本の場合は横に振ることになるので難しい。
そのためには持ち方が重要で、手を添えるように持つのではなく、指先だけで摘まんで持つのだとよく指導された。
なるべく本の角に近い位置を持てと言われたのも、今考えれば、手首からの距離を稼いでモーメントを大きくするためだったんだろう。
本の角を摘まむなんて行動は日常に無く、そのたびに指が吊りそうになるわけだが、練習すると痛みにも慣れてきた。
やがてスピンは良くかかるようになり、本の飛距離も伸びて嬉しかった。
あと、物体は上側45度方向に投げた場合が一番飛ぶと言われているが、本の場合、それだとバサッと空中で開いて落ちてしまう。
そのため、本を投げる場合は、水切りの石のように、水平に投げる方が良く飛ぶとも言われた。
徒然でなく、目的意識を持って水切りしたのは、後にも先にもあの頃だけだ。
指を吊ってまで本を投げるのに比べたら、それは授業で眠りにつくくらい、無意識に簡単だった。
それゆえ、河幅はそこまで狭くなかったが、石はたびたび対岸まで跳ねてしまう。
対岸に人が居ると練習ができず、シュッシュッと口に出しながら、手首を何回も「素振り」して練習に勤しんだ。
当然、薄くて大判な本ほど、空気抵抗が弱く、回転力が増すため飛びやすい。
すると、遊びの目的はいかに厚手で小さい本を飛ばすかに移ってくる。
小さいのでいかに手早くスピンをかけるかが勝負なのだが、それにもまして、厚手になるその重量に手首が負けてしまう。
スピンでの痛みは捻るような感じなので、捻れが戻るようにそのうち消えてしまうのだが、重量による痛みはグキッと来る致命的な痛みだった。
さすがにまずいと思って重量にこだわるのはすぐ辞めたが、一度だけ、広辞苑を学校の体育館の向こうの壁まで飛ばしたときはとても嬉しかった。
今なら、鳥人間コンテストで対岸まで届いた人を見た気分とでも言うのだろうか。。
まあ、利き手(利き手首?)は1週間くらい使い物にならなくなって、ノートを左手で書いたり散々だったが。
もしくは飛距離を競うこともある。
こちちは手首への負担という点では、それほど問題ないのだが、費用的な問題が壁となる。
長く飛ばしたいとなると、体育館や倉庫でも借りない限り、飛ばす場所は野外になる。
(ちなみに、学校の廊下は長さ的に十分だったが、他の生徒にぶつかる、蛍光灯を割るなどのイベントを経て当然禁止されていた。)
すると、本は飛ばすたびに土や泥で汚れてしまう。
ある程度の汚れだと、本のページとページがくっつくので、逆に飛距離が伸びることもある。
それを「本が締まる」と呼んだりしたわけだが、それでも表紙面に付着する泥が多くなると、真っ直ぐ飛ばなくなる。
それゆえ、本には定期的な買い替え需要が発生する。
いや、野外で飛ばす人でなくても、少しでも飛ばしやすい本を求めて本を買い漁ったりする地域性なのだ。
当然、古本屋もそういう需要を見越していて、価値はわからないが、とにかく薄くて大判な本を多めに扱っていた。
それは、ブックオフで100円なのにいつまでも積まれている価値の薄い本とでも言えばわかってもらえるだろうか。
そういえば、古本屋でいつまで経っても同じ本が積まれているというのも、大学入学で家を出るまで知らない現象だった。
そういうわけで、飛ばして遊ぶだけの内容がわからない本が、家にはいっぱい置いてあった。
だから、子供の頃は、どんな家でも2種類の本棚があると思っていた。
読む用と飛ばす用と。
後者は家の外に置いておくのが普通だったが、大人になってからは、そんな習慣は世の中に無いのだと聞いて、
逆に、汚れた本まで家に持ち込むの?家の中がドロドロになるのに気にしないの?と勘違いに勘違いを重ねたこともあった。
あと、地元以外の家だと、壁に本をぶつけた傷が無いことも新鮮だったな。
あれ、窓を割らないように投げるもんだから、窓と反対側の壁によく付けちゃうんだよ。
花瓶や壁掛けの絵画なんかも、実物は大人になってから初めて見た。本を投げて壊すかもしれないから、実家には無かった。
そして図書館は、飛ばすための「道具」が揃う夢の場所だったが、当然そのような行為は禁止されていた。
「本を飛ばして遊ばないでください」なんて掲示が貼られていたのは、うちの地域ぐらいのものだろう。
図書館においてだけ、本は本来の存在意義を保つことができたのだ。
それでも、貸出を受ければ誰も見ていない。
図書館には必ずと言っていいほど、変なページで曲がり、ホコリや泥の付いた本があった。
図書館の本がこんなにキレイに管理されてる!と知ったのは、やはり実家を出てからのこと。
そういえば、実家近くの狭い公園にも同じ掲示が貼ってあったな。
野球のボールじゃなくて、本で近所の家のガラス割るっていう経験も、子供にはよくある経験だと思っていた。
そうそう、良い子は真似しないでね。
まぁいいや
ところで、セックスワーカーでも高い目的意識を持っている人たちがいる
セックスシンボルになる、世界的に活躍する、新しいポルノを作る、政治家になる、
身近なところでは、会社を起業する、株式投資の資金貯め、大学・留学資金貯めなど
でもさ、世の中の大半の人は普通の会社に勤めてても↑上記みたいな高い目的意識は持ってないじゃん
ただなんとなく何も考えず働いてる
なので、別にセックスワークだって、上記にあげた高い目的意識を持たず、何も考えず、
「腰掛け目的」「バイト感覚」でやってもいいじゃんってひとたちは日本だけでなく海外にもいる
僕はビルダークラスのストイックに体を作っている人を尊敬しているし、自分がマッチョになっていく過程が楽しいという感情やボディビルという競技に真剣に向き合う目的意識に疑問は持たない。
ウエイトリフティング等の自分の限界に挑戦して可能性を広げていく個人種目も然りだ。
僕が腑に落ちないのは毎日同じルーティンをこなすだけで完結している人たちだ。
彼らは大会に出て自分の成果を測るわけでもなく、絶えず自己研磨に励みポテンシャルを育てていく気概もない。強いて言えば「健康で文化的な生活」を送っているというプライドを満たすために筋トレを行なっているようだ。
彼らは同年代のふくよかな男をだらしがないと見下し、自己管理ができる人間の証として毎日形だけの筋トレを繰り返す。
そして気晴らしに女性に自らの体を見せつけお褒めの言葉をいただくというセクハラ紛いの暇つぶしを行う。
望むような体を手に入れたいという探求心など皆無で、片手間程度の運動を行なう彼らは生温く見えるし、何よりその意識高い系と呼ぶような浅はかさに嫌悪感を覚える。
上部だけのライフスタイルしか考慮にないという点で、カーネギーの7つの習慣を読んだはいいが口先しか変わってない者や、分別なくものを捨ててしまい生活に支障をきたすミニマリスト気取りと同じ類いではないだろうか。
おそらくこじるりもそういった惰性で筋トレを続ける人間を指してこういった発言をしたのではないかと思う。
好みは置いといて、春日のような競技として体を作り込む人を間近で見ていて一定の理解はあったはずだと信じたい。
彼女が好きだったV系ミュージシャンも非現実的なパーソナルイメージを作り上げることに苦心しており、そのスタンスも魅力だったはずだ。
彼女はビルダーとただの筋トレ男を慎重に分別する注意に無頓着だったのではないかと思う。彼女が思った以上に筋トレという話題はセンシティブなものであってそれも踏まえて騒動後に「筋トレって筋トレしてる人にとって聖域なんだってことがわかったよ」という発言が出たのだと思う。
下(患者)から「不安だから検査したい」と要望きて検査するものとは思ってないから、「検査したいという患者全てに検査すると~」って前提の意見はなんだかなぁ~って感じ。
中韓は上(政府(感染対策の当局))が「検査して軽症でも陽性の感染者数を絶対把握して世界に発表する」という感染症対策の目的意識で大量検査してるんでしょ。
その数字を元にして日本含めた世界各国が中国や韓国に対して渡航注意情報や入国制限のレベルを決めているわけでさ。実際に最近も日本が韓国の一部地域に入国制限出したし。
それが中韓は「軽症でも検査してカウントした感染者数」なのに日本は「軽症は検査せずにカウントした感染者数」だとおかしくない?
せめて感染者出したビルや組織の人たちは自宅待機だけでなく全員検査させるとかしなきゃさ。そういうのも国際貢献なんじゃないの。
マジレス:目的意識(SNSやメディアで大暴れしている議論が成立しそうにないアカデミア業界の人が視界に入りませんかそうですか)
2019-01-30
日本の自称中道(あるいは自称保守)/日本の自称リベラルが集まるインターネッツですか?っていう
そこでは「また差別を煽るようなクソ記事書きやがって」みたいなカキコミがあったり
特定の組織集団のみ意識が高く有能とか妄想でしかないので当然やね
↓
アカデミックな場がない
↓
アカデミズムっていうのはその全く逆で、ある程度の資格を備えた人間だけが参加することで、会話の質を担保する。
いや、実際には有意義な話をしている場所は普通に日本語でもあるのだけど、そういう議論が成立してるってことは、誰もが自由に参加している訳でもなんでもないってことなので、つまり元増田がちょっと検索したぐらいでは辿り着けない。
↓
誰もが自由に参加している訳でもなんでもない
(でも誰でも参加出来て真面目)
「完全に陽性の人が野放しで下船するのだけは防ごう」くらいの目的意識でしょ。
向上心が報いがあるか?ってのがあるよね。
せいぜいそれがなかったら首になるぞと脅すくらいで。
将来の結婚相手となるような恋人が欲しくなり、マッチングアプリに登録したが、自身が上位大学出身なせいか、はたまたただ単に私のプライドが高いためか、大卒未満とはよっぽど光るものが無い限りやり取りをしないと決めている。
私は、大卒未満の人は
・大学では学べないことを学ぶためや、家庭の金銭的な事情から専門学校や直接就職した者。
・受験勉強をしたくないor勉強ができないから仕方なくその進路を選んだ者。
の二種類に分別出来ると考えており、多くは後者であるということだ。
簡単に言ってしまえば目的意識のあるなしで分別できるということである。
前者はもちろん、後者の中にも素晴らしい人材や私より遥かに優れた方もいるにはいるのだろう。
何故ならば大学、特に一定以上の大学に通うためには基礎学力がある程度ないと入れないし、そして卒業時にはそこを買われて多くの人材が高卒の人よりも多くの金を稼ぐ。
技術の進歩によって家事の負担が比較的軽くなり、共働きの家庭が増えていく中で、私の大学の同期もパートナーになる人には経済力がある人が良いという人がそれなりに多い。
もはや専業主婦では豊かな生活を実現することは難しい。なぜなら社会には今まで出てこなかった女性が進出し、今まで男だけで争っていたポスト争いに女性も加わっているからだ。単純な母数だけでも増えているので、専業主婦のような存在は今後益々減っていくことだろう。
そんな状況にあるならば、私はより多くのお金を稼ぐ可能性の高いパートナーの方が良い。
世帯年収が増えれば増えるほど子供には幅広い選択肢を与えてあげられるし、何より自身も豊かな暮らしを享受できるからだ。
そうとなれば、やはり必然的に学歴でフィルタリングするのが効率が良い。
こんなことを書いていると、高卒でもお前如きより稼いでる奴いっぱいおるわって言われそうなので言及しておくが、なぜ確率的に低い方から探さねばならないのか私には分からない。時間は有限であるし、何より他にもやることはたくさんある。それならば確率の高いところからのみソートしてやり取りした方がはるかに効率が良い。
違う、そうじゃない。
「絵柄」は作者に依存するけど「同じ作品内」でも顔立ちの描き分けができていないものが稀によくある。
ついでに言えば非ヲタに限らずオタクでも「この作品、ハンコ絵じゃん」と思ってる作品群があるんじゃないの?「ハンコ絵なんてない」という主張だったっけ?
アニメキャラが「記号化」していることは敢えて言うまでもないだろうけど、ようするにアニメキャラは「へのへのもへじ」と同じなわけ(特にオタク向け)。
「なんで、みんな顔がへのへのもへじなの?」という問いかけに対して「いや、同じへのへのもへじじゃないよ。筆跡をよく見なさい?まぁ素人には同じに見えるんだろうが」と返しても意味が違うって分かるよね?
現実の人間の顔立ちを見分ける時とは適用される判定基準がまるで違うわけ。
オタクはへのへのもへじの違いが分かるけど、人間の顔を見分けるのは苦手。
一般の方は人間の顔を見分けることができるけど、へのへのもへじの違いはよくわからない。
>>非ヲタは多分漫画の顔は皆一緒、程度の認識しか持っていない
一般の方には仮に人間の顔を見分けるための「顔立ち判定ドライバー」のようなものがあるとしよう。
じゃあ一般の方には顔立ち判定ドライバーがあるのだからアニメキャラが同一ルールで処理可能なものならオタク同様に見分けられないとおかしい。
つまり「非ヲタには分かるまい」みたいな主張は、顔立ち判定ドライバーでは判別不可能に繋がり、ルールが異なることを示唆する。
そして「オタクは現実の人間の顔を見分ける能力が低い」という仮説はキャラクターごとに服装、髪型、髪の色、目の色を変えるようなオタクコンテンツの特徴から導き出せる。
また、こうした「濃い味付け」がなされている時点で、「逆に顔立ち判定ドライバーの精度が一般の方よりオタクの方が優れている」という可能性を否定する。
悪いけど当初の主張に関しては逆に確信を深めたよ。
よく考えたら「オタクがアニメキャラの顔を見分けることができる」というのを否定する意味がない。
反論するなら「オタクでも現実の人間の顔を見分けられる」という形じゃないとおかしいわけだし。
オタクは顔立ち判定ドライバーがうまく働いていない。でもアニメキャラは見分けることができる。「絵柄」とか「線の引き方」があるから。
「好きなものに詳しくなるのは当たり前」と思われるかもしれないが、その主従関係は実は明確ではない。
「興味を持ったから詳しくなる」のか?
「詳しく「なれる」から興味を持つ」のか?
オタクは脳の器質的に現実の人間の違いはわからないがアニメキャラの違いが分かるから、アニメキャラのほうが大切である。
そうした違いが(「傍若無人さ」と表現したが)オタクが現実の人間に対しては言わば「一般の方がアニメキャラに対してするような」振る舞いを生む。
その可能性を指摘している。
>>オタクは大体においてその環境に投げ込まれるというより、自発的にオタクになっている
わたし(や世間?)のオタク観に不満があるらしいのはわかったが「自発的にオタクになっている」というと「そうだったっけ?」感は否めない。
「自発的にオタクになっている」というのが本当だとして、そうした「欲求(と目的(目的意識?))」がどこから来るのか?という話をしていた。
>>「オタクだから(ではないから)+直ちに+判子絵を好む(好まない)」
そういう「法則」的な話をしていないと分かってくださいよ。
そういうノリで話をするなら「オタクの定義なんて実際のところは明確でないのだから誰もオタクなんて名乗るべきじゃないしオタクなんて言葉は使うべきじゃない」という話に繋がっていくよ。
>>2016/06/21
マネジメントは対人関係の総合的な体系化だから学ばなくとも環境で成果になるから学習は必要ないよ
必要なマネジメントはそれが必要な環境に長くいると自然になりたつ
人材の偏りや業務の特性 具体的な発生事象の内容と対策はそれぞれその現場ごとにあるので
役職を重ねることで自然になるし逆にそれを座学で学んでも意味がないし逆効果
班分け指示だし進捗管理は臨機応変にひらめきや毎回異なる状況で発生しないしするような現場ではマネジメントは意味ない
あらかじめ準備しておいた装備に訓練された人材で対策の練れる対象に目的をもって行動するのにマネジメントがいる
そのマネジメント単位をとりしきるのには未知なものへの判断を行うさらに上の役職があるがそれはマネジメントではない
投資や役員といった外部の大きな目的意識をもつものがそれを達成する手段としてマネジメントされた組織を必要とする
新しく配属された能力もわからない部下の練り上げ方というのはマネジメントではない
そういうわけわからん組織で成果をあげるための方法もマネジメントではない
どういうコンテキストをもっているのかというのを時間をかけて経験で理解したチームになってそれをどう使うかがマネジメント
言葉で説明しきれない細かい要素も判断基準に含んだチームを運営して効果をだすのにどこかで学んだその現場の特性を含まない文字列が役に立つわけがない
最近はそのいきなり役職をまわされてしらない部下の集団をなにか作業させるのにそつなく動作させるための心構えみたいなものをマネジメントと
いっているところがあるようだがそんなのでよければ本屋でビジネスコーナーにいけば一人で大企業をなせるほどの文字情報はあるだろう
これらの制度・文化については、個人の自己決定権を侵害しがちという観点でどちらかというと批判的でしたが、最近わからなくなることがままあります。
これらの共同体は、差別を内包していたり、人権に対する制約を課していた一方で、弱者をすくいあげるセーフティネットとしての機能もあったと思います。
そもそもが相互扶助のために成立してきたものなので、セーフティネットとしての機能があるのは当たり前といえば当たり前ですが。
そう考えると、弱者の救済、もっと広く言ってしまえばリベラル的な目的意識に対して、イエやムラの枠組みって、もちろん各論では噛み合わない部分はあれど、手法としては普通に選択肢に入りうるのではと。
ただ、はてなをざっと観測している限りだと、子育て世帯やシングルマザーは救われるべき、恋愛弱者も包摂されるべき、という論調がある一方、
イエやムラ制度に対しては、解体について歓迎こそすれ危機感を持つような論調はみられないように感じられます。選択的夫婦別姓の件とか見てても特に。
これは乱暴に言えば、「セーフティネットの解体」と、「弱者の包摂」を同時に主張する矛盾とも言えるのかなと。
もちろん、弱者の包摂をもっと良い手段で実現すべきだ、という発想が前提なのでしょうが、そこに例えば家制度の改善と維持(差別を軽減し、相互扶助機能を維持するような方向性)が選択肢として挙がってこない(ようにみえる)のは、何故なのでしょうか?
意見もらえると嬉しいです。
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個人的にはイエ制度やムラ社会については、母と姑との関係性や父が地域社会で苦労していたのを見てきた経験から、良い印象は持っておらず、手放しになくなればいいと思っていました。
ただふと、リベラル風を気取っている割に、セーフティネットの一つを捨てることに手放しに賛成してたんだなあと気付き、こういった増田を書くに至った次第。
あなたが考えているようなことを実行したら藝大合格しましたよ、という話だったらもっと心強かったですよね。
その代りと言ってはなんですが、美大ならどこでも合格できますよ。
眼がいいのは何よりですので視力を落とさないようにしてくださいね。
3列目だと視力1.0でも厳しい感じがします…今は倍率40倍もないようなのでそんなに混まないのかもしれませんが、こればかりはやはり運ですね。
あとこれはあなたにはまず起こらない特殊な事例だと思いますが、受験中、昼食をちゃんととったにもかかわらず、まるで低血糖のような状態になって目眩で倒れそうになってしまったんです。
それで母に持たされた飴をこっそりなめました。
飴を隠し持っていると役に立つかもしれません(その場合、見つからないようにしてくださいね)
あなたは目的意識もコミュ力も高いしきっと有意義な藝大受験生活が送れると思います。
任天堂は7年経つ頃にはどうなっているかわかりませんが、もっと面白いことが見つかったときに絵を描きまくった経験が必ず役に立つでしょう。きっとそういうことが出てくる気がします。
失敗談も役に立てばと思い投稿した次第です。