はてなキーワード: 目的意識とは
何のことはない、テンプレのセリフであるが、思えば大学生のころから、この言葉に違和感を感じていた。
「海外で何をしたいのか」
学生の自分には分からなかった。何しろ田舎から上京してきたばかりで、地元では海外で働いている人などほとんど身近にいなかったのだ。
ただそんな自分にも、「海外志向の人はイケている」という雰囲気が漂っていたことは理解できた。
総合商社の就活人気が大きく上がってきていた時期ということも相まっていたのかもしれない。
そんな雰囲気を感じつつ、自分も進路を決めなくてはいけない時期が近づいてきた。
ミーハーな部分もある自分は、流行の「海外志向」とやらと、どう折り合いをつけるか悩んでいた。
そんな大学3年の春、海外で働いている大学のOBと現地(海外)で交流を持てる機会に恵まれた。
2週間ほど滞在し、グローバルに働いている人たちの仕事や生活を見させていただいた。
これは非常に勉強になったし、貴重な機会だった。
これまで姿の見えない亡霊のように感じていた「海外志向」というものが、自らの感触を伴って理解できた。
ただ、自分の抱いた感想としては「日本の高校に来ているALTの先生や、日本のケバブ屋で働いている中東の人と同じだな」というものだった。
別に、ALTの先生やケバブ屋の店員を揶揄しているのではない。
②「われわれ日本人の日本で働いている外国人に対する感覚」とほぼ同じだと。
同時に、
③「われわれが海外で働く日本人に抱いている感覚(=羨望)」は
これらとは異なるものだということにも気が付いた。
具体的に言うと、
②では、良くも悪くもその外国人に対して何かを感じることはない。
(職業上の役割(例えばALTや店員)の上で普通に接することはあるが)
強いて言えば、「日本に来て仕事をしていて大変だな、家族はどうしているのだろう」といった感じだろう。
一方、③の場合、
「~先輩は海外駐在をしていてイケている」、「~君のお父さんは海外で働いていてかっこいい」というものが結構ある。
この違いは何なのだろう。
仮に、①~③がすべて同一のものであれば、
学生A君は、上野で働く外国人から感銘を受け、彼らに憧れを抱き、同じように自分も海外で働きたいと感じている
というエピソードがあってもよさそうだが、寡聞にもそのような話を周りで聞いたことがない。
そもそも、「海外で仕事をすること」が個人の願望の対象となり得るのかという疑問がある。
私は日本で生活するのが大好きである。生まれた国だし、母国語は日本語で何ら不自由がない。家族も友達もいる。故郷もある。
学生時代に海外旅行にも行ったが、日本は生活水準・安全面など極めて高水準な国だと実感するばかりだった。
海外で生活するということは、このようなものを全て捨てる訳ではないが、多くの部分をトレードオフの対象としてしまう。
可能性として初めに考えられるのは、「相対的に高い収入」だろう。これは日本に働きに来ている外国人にも結構あてはまるかもしれない。
(もっとも昔ほど日本と諸外国との所得格差がなくなっているが・・・)
いわゆる出稼ぎだ。
あるいは、国境にとらわれず、トップレベルの仕事や研究をしたいというケースも考えられる。
大学の研究職の人がアメリカのトップスクールに、といったケースはこれだろう。
つまり、海外で働くことは、(ある程度生活環境を犠牲にしてでも)何かを得るための手段なのだ。
もっとも、単純に海外が好きで住みたい!という人もいるだろう。
そういう人を否定するつもりは全くないし、この場合は「海外で仕事をすること」が個人の願望の対象となり得るケースだろう。
長々と書いてしまったが、私は「海外で仕事をする」ということに対しては、
A:具体的な何かを得るための手段
B:単純な好き嫌い
にも関わらず、こんな内容を書いているのは、目的意識(≒A、Bのようなもの)がないまま、
「海外志向」と口にするだけでなく、それをマウントの手段とする風潮があるように感じるからである。
まさに私が亡霊のように感じていた「正体不明の海外志向」である。
今の会社に入社を決めた大きな理由の1つに「日本で働けること」があった。
一方で、そんな会社の中でもこのような「正体不明の海外志向」が跋扈しているような気がしているのである・・・。
(注)
この内容は長々とした個人の感想です。特に結論を持つものではありませんし、実際に海外で働いている方を貶める意図は全くありません。
僕はQUEENのファンなのだが、I WANT IT ALLという曲が好きだった。この曲の、特にブライアンメイのソロの部分~Not a man for compromise and where’s and why’s and living lies~「妥協したり、場所や理由のために生きたり、偽りの人生を生きるような男じゃない。だからこそ全てを賭けて何もかも手に入れてやる」・・・そういう歌に、当時15歳の僕はひどく感銘を受けた。何度もこの歌を繰り返し聞き、辞書の側面にこの歌詞を書き込んだ。そして人生に夢も希望も目的意識も無い偏差値45の私立高校生だった僕は、人生の目標として独学による早稲田大学合格を打ち立て、何を思ったか高校を中退してしまった。校風が合わないこともあったが、自分を追い込み、それこそ全てを賭けるに相応しいと思ったのだ。しかし高い意識と目標とは裏腹に自堕落な受験生活。元々要領が悪く遅々として進まない独学に焦りを感じ、代ゼミの社会科目の単科でリズムをなんとか維持するも、現役は全落ちし、一浪の果てに偏差値50の私大法学部にしか引っ掛かからなかった。しかし、(方法方向が間違っていても)それなりに努力していた僕の姿を見ていた父の言葉は優しかった。「もう1年やってみるか?」泣きながら自宅の窓から外を眺めていた僕はその優しい言葉にとても惹かれたが、自分の学歴面のハンデや就職時年齢を考慮して、今後受験を続けては人生へのリスクが高すぎると判断し、コンプロマイズ(妥協)の道を選ぶことになる。偏差値50の私大へ進むよ、と答えた時、僕のI WANT IT ALLは終わり、僕の心は死んでしまった。
早稲田だろうと滑り止めだろうと、どの大学に入ったとしても、大学へ入った時点で偏差値の呪縛やしがらみから解き放たれて大学生活を充実させるべきなのは間違いない。今では心からそう思うし、妥協して腐っている新入生には、偏差値の呪縛から解放されて人生を楽しんで欲しい。しかし僕にはそれが出来なかった。話しかけてくれる数少ない人達の好意を踏みにじり、常に孤独を選んだ。そして心が1度死んでしまうと、頭が何かを理解しようとすることを拒否してしまうのだ。高い教科書を何冊も買い読もうとしても、講義をいくら受けても、言葉と言葉の間に繋がりが見いだせず、混乱しか引き起こされなかった。次第に大学へは通わなくなり、1日のほとんどを自室から出ずに過ごすようになる。1度も大学へ行かないまま2年前期が終わったとき、僕は「ヨシ、もう死のう。友人もいない、勉強もできない、頭も死んでいるし、どうせ妥協した人生だ。僕の負けだ。もう死のう。」と思い立ち、同じ旨の遺書を書き置きし、身辺整理してから実家を出た。家族に迷惑がかからないどこか遠くで自殺しようと、ひたすら電車を乗り継いだ。電車が止まれば路地や公園で凍えながらうずくまり、朝になるとまたひたすら電車であてもなく遠くへと揺られた。九州へたどり着き死に場所を探していたときの事だ。ある駅のマクドナルドで座っていると、隣に明らかに知的障害のある若い男とその父が座った。その父は、食事をしている我が息子に愛しそうにカメラを向け、楽しそうに、笑顔で写真を撮り出したのだ。その親子の姿に私は衝撃を受けてしまった。なんという父親の愛だろう。もし僕に障害のある息子が産まれたら、この父親の様に心の底から息子を愛せるだろうか。そこにあるのはただひたすらな無条件の愛だった。自分の両親顔が浮かび、次の瞬間僕の目からは涙が止めどなく流れ、いてもたってもいられずすぐに席を離れた。泣きながら公衆電話を探し、実家へ架電した。「今から帰るよ。ごめん。」と。自宅へ帰ると泥のように眠った後、今後のことについて話した時も父は優しく「もう大学は辞めるのか」と尋ねてきた。僕はもう迷わずこのまま通う事を選んだ。大成功だけが人生では無い。あの親子のおかげでそれを本当の意味で理解し、心の再生は近づいていた。大学では相変わらず孤独だったが、それからは全ての講義に欠席せず、聴講したのを録音して更に講義録を作り、試験対策も死に物狂いでやった結果、本当にスレスレで4年で卒業できた。留年が無く卒論が必須ではない法学部だからこそだったと思う。しかし就職活動は完全に捨ててバイトもサークル等もせず、卒業だけを目指していたので、卒業して無職になってからは、今後の人生の方向性は定まらず、これにも困りきってしまった。なにしろ受験と大学の勉強だけしか知らず、その他は中学生で時間が止まっているのでやりたいこと、人生の目標なんてものは無い。呂律は回らない、言葉は詰まる、人生経験は何一つ無い。そのため就職活動は困難を極めた。臆病で説明会や面接で行った会社のインターホンを押せずに帰ったりもした。結局数社説明会を受けたりボロボロの面接をしただけでやめてしまい、困った事になったなと思いつつも1年ほどダイソーの釣具で海釣りばかりしていた。けれど何か人生の軌道修正をする糸口が欲しいと思い、就職活動の練習のために一般教養科目だけで受験できる公務員試験を受験した。これがトントン拍子に進んでしまい採用されることになり、現在はもう5年が経とうとしている。面接の相手が、実際の職場で会うことはまず無い公務員試験だと、堂々と話すことができたのだ。それに法学部出身故の法律の素養が意外と仕事や昇進で役に立ち、年齢的には結構早く昇進もさせてもらっている。何がどこで繋がり役に立つかは、なかなかわからない。確かに僕の人生は妥協の先にある人生だが、これは妥協や敗北ではなく、小規模な成功と換言できるのではなだろうか。大大大勝利だけに囚われて孤独で苦しい人生から抜け出せなくなるより、戦略的に人生をスライドさせていくことも、ひとつの人生としてはありなのではないかと思った。
俺の人生は何だったんだろうと思わせてくる。
たとえばそれがスポーツにおける活躍であるならば、むしろそれは二十代、せいぜい三十代のうちしか出来ないようなことだからまだ耐えられる。
俺がいつかそこを目指そうと今から歩きだしたら実力を身につけるだけで20年はかかってしまう場所にすでにたどり着いてる人を見ると絶望する。
若さというエネルギーを振り回し、若さゆえに期待され、若い内に凄い世界に飛び込めた人間だけに許される圧倒的成長なしではとてもたどり着けない場所に彼らは居る。
長い時間をかけて十分な実力を身につければそこに届く事はあるかも知れない。
でも、人生の最大値で若くして成功した人に勝つ見込みはほとんどない。
若くして結果を出した人間はその後多少の減速を見せても、常人が人生2回分必要とするところまでいつかたどり着いてから人生を終える。
勝てないんだ。
一生。
勝てない事が絶望なんじゃない。
そういう世界で勝ち抜いた人間にだけ許されるような仕事がある。
いつかそういう世界で勝ち抜く可能性を秘めた人間しか門をたたけないフィールドがある。
そこに……俺達はもう二度と立てないんじゃないかと突きつけてくる。
同時に、泥を這い回れば自分のような凡人でもただその場所に行くだけなら……ただ砂を噛みに行くだけだろうけどたどり着ける可能性が完全に途絶えていなかった事も突きつける。
圧倒的な違いはあるが、その圧倒的は、絶対的な壁ではない。
越えられたかも知れない壁。
100mを9秒台で走るのは苦しいだろう。
だが100mを10秒台で走るぐらいなら、根気と目的意識、ないしはただそれが純粋に好きであれば可能なのだ。
それすら出来ないままにうずくまった奴に、嘆く権利なんて有るのか?
お前の人生には彼が産まれてからと同じだけの時間がまだ残っているんだから全部使ってみたらどうだ?そこまでする勇気はないか?
そう突きつける。
東大入っておけば、のちのち楽そうだなと思って、目指し始めた。
15分も勉強したら、飽きてきてネットやったりテレビ見始めたり。
机に向かってても、すぐに昼寝を始めたり。
モチベーション上げるためには色々やった。
人間は、長期的なリターンより短期的なものを過大評価してしまいがち。
「いま苦労して、あとで得する」を実践するのは難しい。
そのためには、①将来のリターンを過大に見ること、②いますぐもらえるリターンがあること、③現在の苦労を軽くすること、が重要だと思った。
①については、「東大生はモテる」みたいな内容の本を読んで自分を自分でダマしたり、逆に、大学受験失敗して学歴コンプこじらせた人のブログを繰り返し見たり。
②は、この問題解いたら・今日がんばったら、ご褒美として、〇〇ができる、というのを設定。
ソシャゲでいうデイリーミッションとその報酬みたいなものかな。
③については、やらなきゃいけないことの総量は変わんないけど、心理的負担を減らす。
受験日までやるべきことを月ごとに割り振り、週ごとに割り振り、日ごとに割り振る。
そうすれば、常に「次の10分に何をすべきか」だけを考えてれば良いことになる。
「富士山を登ると思うと気が遠くなるけど、次の一歩のことだけを考える。気力体力が尽きかけても、次の一歩だけ頑張ろう、その精神さえあれば、山頂まで行ける」っていうのは、山岳部の友達の言葉。
「困難は分割せよ」の精神だな。
まあこんなこと言ってても、結局、休んでは勉強して、また休んで、の繰り返し。
1日10時間勉強できた日なんてないし、1日フルに使える日でも、平均6時間もできてたかあやしいんだけど。
何が言いたいかと言うと、増田の友達は特殊じゃない?ってこと。
俺の友人の話。
あいつはとにかくスゴイ。経歴については以上。
いやいやお前あっこ受かって、あっこで働いとって、今こうやって色々スゲー事しとるやんけ、ほんなもん勉強好きやないとやってれへんやろ、とツッコむと、
ちゃうねん、勉強自体は嫌いなんよ、勉強は目的を達成するための手段に過ぎへんから。俺は世界中楽しく好き勝手遊び回って老後はめっちゃエエとこで幸せに暮らしたいだけやねん。その為にイヤイヤ勉強しとるだけやねん。ホンマやったら女の子と乳繰り合いたいけど我慢してんねん。いや乳繰り合うのは合間見てやっとるけどもや、とかなんとか言われた訳よ。
それに対して俺は、でもやで、そんなんでも難しいこと勉強しとったら眠たなるやん?と聞いたら、
えっ目的あるなら眠たならんやろ?勉強せなあかんのやから、とかサラッと言われてビックラこいたね。コイツ人間かと。
ぼくみたいな底辺さまよっとるゴミには一生持てへん目的意識やなあ、と返した私に対し彼が向けた、まさにゴミでも見るかのような目を今でも覚えている。それ以来彼とは連絡を取っていない。
現在のフィギュアスケートの採点ルールの中に「芸術点」というものは 存在していません。
2005年頃までに使われたルールが「技術点」「芸術的印象点」の2種類に分けられそれぞれを6・0満点で行っていたため、その後半の部分で使われていた「芸術点」と言う言葉を現在のルールの「TES(トータル・エレメンツ・スコア)」と「PCS(プレゼンテーション・コンポーネンツ・スコア)」にそのままあてはめて「技術点」「芸術点」だとマスコミが大雑把に説明する時に使っているだけです。
①スケーティング・スキル(滑りの滑らかさ、スピード・緩急自在さ・多方向への滑り など)
②トランジッション(エレメンツとエレメンツとの間の部分がただ滑っているのではなく、細かい色々なスケートの技術を織り交ぜているかどうか)
③実行力(身体の動き、身のこなし、目的意識を持ったテーマを表現するような動き、観客とのコミュニケーションがとれているかどうか)
④振り付け・構成(独創的・個性的なうごきがあるかどうか。プログラムのコンセプトに添っているかどうか。エレメンツをいつも同じ場所ばかりでやっておらずリンクのあちこちで実行しているか、動きが音楽にあっているかどうか、演技中スケートリンク全体の空間を上手く使い、場を支配しているかどうか など)
⑤曲の解釈(音楽の強弱やリズムの変化などに合わせて無駄のない動きが出来ているかどうか など)
です。
yahoo知恵袋より
教えて
●衝撃の瞬間
シーズン6
ここで、ある宗教団体による大規模な集団自殺が行われ、多くの米国市民が犠牲となった。世界中を震撼させた猟奇的事件の真相とは。
ノルウェーの首都オスロで起こった政府庁舎爆破事件。そして同日に起こったウトヤ島の大量虐殺。この連続テロ事件の犯人は、移民排除を主張する国粋主義者の男だった。
●ロア~奇妙な伝説~
・よみがえる死体
伝染病の原因が解明される前、薬は科学である以前に迷信とされていた。1800年代のニューイングランド地方の小さな村に住む人々にとって、結核の症状を治める唯一の方法は死者が確実に死ぬことだった。
・恐怖の手術
アイスピック・ロボトミーの生みの親であるウォルター・フリーマン医師は、わずか10分の手術によって精神科病院を根絶できると信じた。だが、彼の強い目的意識は新たなホラーストーリーの誕生へとつながっていく。
コメディカルの学校を卒業できないような人が社会学科行って卒業して就職出来るとは思えないが
そんなんどの大学にでもいる。
むしろ社会人学生だからだろ、彼らは学費出してくれる親もないし学校内でも浮くし卒後もストレートより就職不利になるわけだから
看護師、理学療法士、診療放射線技師などの養成校に就職目当てで軽い気持ちで入るのはやめた方がいい。
特に発達障害の傾向が少しでもある人には絶対にやめろと言いたい。
具体的には先延ばし、遅刻癖、コミュ障のうちどれか一つでも当てはまったら別の道を考えるべきだ。
7年、8年通った挙げ句に卒業できず去って行った人を何人も見てきた。目的意識の高いはずの社会人学生ですら挫折した人が複数人いた。
華々しくホームページやパンフレットに飾られる国試合格率や就職率の裏にどれだけの留年者・中退者がいることか。
コメディカルに向く人は、与えられた課題をコツコツやるのが苦ではないが、秀才になれなかった人だろう。
医療保健学は学問ではないと思う。学問とはきつさの中にも面白さがあるものだろう。
医療保健学は職業訓練以外の何物でもない。もし入学するならば、それこそ学生になるのではなく軍隊に入隊するのだというくらいの覚悟が必要だろう。
やりたいことが見つからない高校生や浪人生は社会学科(社会福祉学科ではない)に行けばいいと思う。もちろん興味があれば哲学科だろうが数学科だろうがそこに行くのが一番いいが(哲学科に関して言えば、生きる意味といった人生哲学的なことをやりたいのなら慎重になったほうがいい。あそこは半分ドイツ語学科かフランス語学科である)。
社会学科は卒論的な意味で潰しが利くと思う。アニメ・ゲームや性産業まで研究対象になるから、在学中に何か興味の持てる対象が見つかりそれを研究に生かせる可能性は他学科より高いはず。
良いか悪いかはわからないが、元AV女優が東大院に入って本を出したなんていうこともあった。
コツコツ型でない人間が何よりも避けなければならないのは、中退である。
コメディカルを勧める人は口を揃えて「資格を取れば食いっぱぐれない」と言うが、ある年齢以上から給料は伸び悩むし、コスパが良い選択とは言い難い(看護師は夜勤をやれば結構稼げるだろうが)。
もし人体に興味があるなら、それこそ医学科に行かなければ間違いなく後悔する。
どんなに研鑽を積んでも、制度上新米の医師にすら敵わないというのは非常に精神的にきついと思う。
しつこいようだが、就職目当てでコメディカル養成校に入っても得をするのは学校経営者のみである。既に泥沼に足を踏み入れてしまった人は、一留が決まった時点でなるべく早く撤退すること。
学歴を決めるのは主に次の要素だ
1 生まれつきの知能
2 育った環境
4 目的意識
7 長期的な人生設計
8 気力の充実
こういった要素を併せ持っている人間を企業が欲しがるのは当然だろう。
むしろこういった要素が欠落した人間と一緒に働くのは苦痛とすら言えるだろう。
地頭が悪く・育ちの悪さが滲み出ていて・非効率的で・行き当たりばったり・仕事を投げ出しやすく・自分の価値観ばかり押し付けたがり・目先の事しか考えていなくて・無気力で・とかく要領が悪い、そんな人間と一緒に働きたいだろうか?
それでも、愛嬌があるとか、話しかけやすいとか、いつも機嫌がいいだとか、そういった一面を持っているのならまだいい。
だがそれすらもなく、「なんで学歴が低いだけで差別される!ふざけんな!俺は凄いんだぞ!俺に言わせりゃ学歴なんてのはな~~」と喚き散らすような人間は、友人にするなら面白いかも知れないが、一緒に働く相手としては『苦痛』の一言で終わる確率が高すぎやしないだろうか?
が、配属された部署は、全9人のうち7人が60代、1人が50代、そして20代が自分1人という高齢化社会を象徴するようなところだった。ちなみに両親はまだ50代。
転職して3ヶ月が経ち、仕事にも慣れてきた。はじめは仕事を覚えるのに必死だったが、最近は周りを見回す余裕ができてきた。と、同時に高齢化部署に対する不満も次々と出てきた。
愚痴を言いあえるような同年代な人が、全くいないので、ちょっと愚痴らせて欲しい(一緒に仕事をする別の部署の先輩方も、なんだかんだで30代40代ばかりだ…)。以下、周りの人生経験豊富な社員に対する不満点。もちろん下記の不満点は、彼ら年齢のせいではなく、彼ら個人の資質や経験のせいなのだろうけど。
・プライベートに口を突っ込む(昼休みは外で空気を吸ってくるべき、とか。本読みたいんですけど)
・伝家の宝刀「昔はこうだった」
・生産性の意識が皆無(口では「生産性大事」という割には具体的な行動に落とし込まない。むしろ余計な仕事を増やして生産性を下げたり)
・コスト意識が低い。特に自分自身に対する人件費についての意識が(若手の何倍のコストで自分が雇用されているのか、一度よく考えて欲しい)
・9人しかいない部署なのに、上下関係がいっぱい(不文律含む)
・目的意識が共有されていない。よって協調して効率的に仕事ができない(優先順位がバラバラで、声が大きい人の思いつきが優先されることがよくある)
・建設的で対等な議論ができない(改善のための議論がいつのまにか年長者による説教に)
・責任感がある人がいない(そりゃあ、定年後の再就職で責任感も何もないのかもしれないけれどさ…)
・唯一の若手である自分が、毎日めちゃくちゃ気を使ってやってるのに(つまらない話を朗らかに聞いたり、分かりきったことをあえてご指導していただいて指導欲を満たしてあげたり)、気を遣われていることに一切気づいていない(「すごいですね!」「さすがですね!」「昔はどうされていたのですか?」「教えてください!」)
書いているとイライラしてきた。
僕は専業主婦の給料というものは配偶者の給料を等分したものだと思ってる
だから妻の事を「俺の稼ぎに依存して暮らしてる」などと考えた事はない
ただ時々「君は(僕の給料/2)の値打ちの家事をちゃんとやってるのかい?」と思う事はある
僕は給料を君と半分こにしてる。それだけの価値が君にあると思ってるからそうしてる
それは、極端な話をすれば僕のプライベートが僕の快いようになるために給料の半分を君に払ってると考える事もできる
君は本当に僕の給料の半分の価値を僕に返してるかい?いや、別にそうしなくてもいいんだ。そうしたいと思ってくれればそれで十分なんだ
20代後半で異業界からの転職だったので(未経験枠)歴は5年てところ。
にしてはレベルの低い話かと思うが、まあ一般人てこんなもんかと思って読んでください。
最初ついてくれたメンターが可愛い子には旅をさせよタイプというか、
端的に言って面倒見の悪い人だったため基本的な考え方を教わることなく自力でなんとか這い上がってきた。
自分も割と感覚で物事をやってしまう典型的な文系タイプなので、相性は悪くないと思ってた。
なんでも自分で調べて身に着けた。
ついでに、色々調べてると情報源が豊富になって色々な技術が目に入るので
直接的な関連性はないが関心が散漫になって広く浅く技術が身に着いた。
今思うとそこの目的意識が薄かったのも悪かったな。
他方、面倒見の良いメンターに育てられた先輩はちっきりした設計でコードかいて
新卒入社なので歳はだいぶ下だが歴はそれほど変わらないはず。彼も文系だ。
最近またその先輩が設計したライブラリを見せてもらって参考にしながらコード書いてたら
最後のコミットが一年前で、まだそこに追いついてないのかよと愕然としている。
設計が綺麗ならなんでもいいかっていうとそうじゃないこともあるだろうけど。
設計力は応用力かなと思うので、悔しいがその点負けてると感じる。
最初はあれやれこれやれ、これ関連はこう考えてここを見ろ、
っていちいち全部言ってあげた方がいいよね。
これからどうすっかなあ。
どんな綺麗事で取り繕った所で、目的意識の根底にあるのは「アフィを沢山もらいたい」でしかないからな。
アフィさえ沢山もらえるならいくらでもゴミを読者に売りつけることが出来る連中なんだ。
俺たちが憧れたプロのアフィブロガーは「ブログと趣味に専念することで良質な情報を提供できるようになった人種」だった。
しかし今はもう違う今のアフィブロガーは「ブログしか収入がないから糊口を凌ぐためならいくらでも読者を悪徳業者に売り渡すクズ」なのだ。
今までそれは仮説で留まっていたが、今回の一連の出来事でそらはもはや『確信に変わった』と言って差し支えないだろう。
どこまでもアマチュアたれ。
そこに個々人としての幸福がある。
最大多数の最大幸福もそこにある。