はてなキーワード: 甲斐とは
では答え合わせです!
まず「若者」は男性のことです!女性を想定してた人はここでお帰りください!
「遊ぶ」は今でいう売春・芸者宿を含む女遊びを指します!それ以外の人は残念でした!レジャーとかじゃないよ!あと不特定多数が重要なので彼女とのセックスも不可です!
「つまらない人間」はモヤモヤとした体制側のなんかあのへんの人間のことです!この文言を使う人が大雑把に想定してる敵集団です!
twitter見てもわかるけどさ、妊娠してないどころか、結婚すらせず、はたまたモテてすらいない(この場合のモテるは求婚されるレベル)奴が
「将来妊娠する可能性のある存在」として自分の要求を通そうとして、実際通している事なんだよな
妊娠している人の要求を通すならわかるよ?だけど「妊娠するかもしれない」から大事にしたら、妊娠するインセンティブが無くなるだろ。
むしろ「妊娠するかもしれないから」って妊娠するふりをして、永遠に周囲から甲斐性を集めるのが最適解になる。
その結果、妊娠できない年齢になっても不妊治療とか求めたり、30過ぎた女が「私が子供を作らない理由は~」とかつらつらコラム書き始める訳だわ。
それを真に受けたジジババが孫に小遣いあげるみたいに無駄なリソースを割くだろ。あいつらは作らないんじゃなくて作れないんだから。
まずはさ、妊娠していない女を優しくしない事から始めよう?twitterとかで「女」という理由だけでちやほやするのはやめよう。
ヤらせてくれるならわかる、でもヤらせもしない女をチヤホヤして勘違いさせるのはやめようや
「妊娠して出産してちゃんと子育てして、やっと初めて人扱いされる」これでいいじゃん。
年収300万の女が居たら、年収300万の独身男性と同じ扱い。独身の40歳のおじさんが居たら、独身の40歳のおばさんも同じ扱いする。
天気予報増田の言っていたとおり今朝はもちろん今週は寒いらしいので、
チャックの端にある、
チャックのレールの部分じゃ無くてチャックを通ってチャック通しをつなぎ合わせる列車みたいなのあるじゃない
でね、
しなった勢いで手の甲にバチコーンってヒッツしたの
夜のヒッツパレードじゃない方のヒッツで朝ヒッツといっても過言ではない分、
そのしなって勢いの付いたチャックのそのウィルソンじゃない方のチャックの部品が当たって
ファイナルファンタジーIIで自分で自分を殴ってもクリティカルヒットでないのに、
死にそうで生きてるけど、
思わず手の甲に青アザができちゃったぐらいで、
謎の青アザが膝にできるよりすでに謎は解決しているけど
なんだかみっともないなーってそう思うのよ。
痛いのはすぐに治っちゃったけど、
青アザが痛々しいわ。
まあ自分の青アザは自分がよく知って蒙古斑って言うぐらいだから、
みんな心配しなくてもいいわよ。
それはともかく、
年甲斐にも無くと言っても十分その年甲斐にはぜんぜん満たしてない歳なんだけど、
週末さー
気が付いたら夜が白んでいて
あさげ、ゆうげ、ひるげ、ってある家の、
てっきり「よるげ」かと思っていたら、
夜が明けかけていたのよ。
そっかもう「あさげ」かーなんつって。
というかクリアするつもりで、
私の見積もりが甘かったらしく10時間やってもまだまだクリア出来そうにないので
夜が白けてきて
私はホッと朝のデトックスウォーラーがわりに「あさげ」を一息で飲み干して、
1時間半ぐらいのおおよその目安にしてタイマーを掛けて仮眠したの。
直前に目が覚めるタイプの
目覚ましをしていてもなる前に起きちゃう現象に名称をつけて欲しいぐらい、
タイマーが鳴る前に目が覚めたの。
それはそれでいいんだけど、
約束の90分になってもタイマー鳴る気配が無かったから見てみたら
もとい
時分秒ってのが相場なんだけど、
年月日って数値で私は90年後に目覚めなければいけない設定していたのよ。
もう眠れぬ森の美女か、
それかエスエフのコールドスリープばりの90年寝るところだったわ。
無きことを得たのか
事なきを得たのか私は分からないけど、
仮眠しておこうと思った88分ぐらいで目が覚めて一安心だったのよ。
そんで5時にも飲んだ「あさげ」を7時半過ぎにまた飲むという
この「あさげ」のダブルヘッダー的な
1日で「あさげ」2杯飲んじゃうの!?って誰もがうらやむ状況だったわけなの。
でもさー、
結局その日1日ずっと眠たくて、
休日だからって朝方の時間までゲームしていたら生活が崩壊してしまうわって
何かを破壊したく思ったのか、
そのリズムを壊してみようとリズム壊しチャレンジに自ら挑んだの。
でも結果やっぱりどこかにシワ寄せが行くぐらいなドモホルンリンクルってレヴェルで
この時期ゆっくり湯船に浸かりたいほど
バブを抱きしめながら入浴して何か救いきれなかった履かない少女の儚い思いってファンタジーを私の中で紡ぐように
肌にも悪いし、
「あーもしもし、今日御社の記者さんが銚子の取材現場に向かってもうそちらに帰ってきてる頃だと思うんですがいかがですか?編集長」
「ええ、弊社の記者帰ってきてますよ銚子行きの列車に調子こいて乗って取材に行った弊社の記者が汽車で帰社しましたし」って
思わず私は、
お猿の篭屋の歌のように
えっさほいさが、
おんしゃへいしゃ!おんしゃへいしゃ!って聞こえるぐらいに
お猿の篭屋なわけ。
夜更かしはダメよってこと。
あと寒くなってきたから
馳せ参じるように風邪引かないようにってことが言いたかったのよ。
うふふ。
昨日買っておいた食べ損ねた海鮮チラシシースーを。
海鮮チラシなら話しは別よ!
お供の「よるげ」がなかったわけではないけど
ついついゲームやり込んじゃって食べるの忘れていたのよ。
さっき「あさげ」って言ったけど
お味噌を水で溶いたものを味噌ウォーラーって言うのはぜんぜんありだから
さすがにそれはしなかったけど、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ストレスチェックで常にアウトで抗うつ剤飲まなきゃまともにやってられないレベルで生きるのがしんどい
でも不幸とは思わない。でも不幸じゃないのにめちゃくちゃしんどい。
メンタルがダメになると、自分が何を持っているのか考える癖をつけている。挙げるとこうだ
・Amazonプライム会員なので買い物がすぐに届く
・映画も見放題
・音楽も聴き放題
・好きな趣味がある
・部屋も快適
・遊びに付き合ってくれる友達もいて
・職場で聞けば教えてくれる人がいる
なのにどうして生きるのが辛いのかというと、生活の大半にある仕事がうまくいかないからだ。
仕事がうまく進まない。まだ入社して数年なんだけど、自走できる仕事がない。
仕事をしているはずが、常に誰かの足を引っ張っている気がする。自分は迷惑しかかけていない。
そんな日が1週間に5日ある。
勉強ができない。優秀な同期たちにも恵まれていて、みんなの働きぶりをみる。
みんなを見ていたら、ただ読んでいる。本当に穴が開くほどドキュメントを読んで理解している。
俺はそれができない。しなきゃいけないのにできない。
辛い。資格試験ややらなきゃいけない仕事がたくさんあるのにどれもできない。
辛い仕事が辛いのは、ただ時間をかければできるというものじゃないからだ。
進捗が見えるなら、200時間だって残業してやるし、しても楽しい。
でも自分のやっていることは理解力や前提知識があれば3分で終わる仕事。それを自分の不甲斐なさに引き伸ばしているに過ぎない。
俺を鍛えてくれようとする人もいる。でもその期待に応えられない。
自分がアサインされた仕事がある。それもスムーズに進まない。担当は自分だけだから自分でやらなきゃいけないのに
自走できない。失敗が許されるような環境ではない。作業が進まないのは失敗じゃなくてサボりなんだ。
本当にどうしよう。やりたいことがあるのに何もできない。人の手がないと進まないし、進められない。
エルサレムのおとめたちよ
野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください
愛がそれを望むまでは
愛を呼びさまさないと。
大学2年生をしている。
キリスト系の大学に通ってるんだけど、神学的な講義がぜんぜん意味不明だった。
なので、一生に一度と思い、聖書に挑戦してみることにした。
率直に感想を述べる。
長かった……とにかく長かったー! ぜんぶで2000ページ以上もあった。
そのうえわたしは、本を読むのが遅い。なので、1ページに平均3分ちょっとかかった。詩編だと2分くらいかな。
なので、1ページにつき3分とすると、2000ページで6000分=約96時間も読んでいたことになる。こんな読書体験は初めてだ。
得られる物はもちろんあった。半年もかかって読み終えたのだ。成果なしでは悲しすぎる。
全文引用はちょっとどうかなと思うところもあったけど、この聖書の発行元は、250節までは引用OKとしている。
なので、この2編だけグサッとまるまる引用する。ほかにもちょっとだけ引用している。冒頭の詩は、『詩編』(追記:雅歌の間違いでした)という閑話休題的な部分から取らせてもらった。(私が持っている)旧約聖書の1052ページに載っている。
子どもの頃、こんな題名のドラマを観たことがあるかもしれない。
放蕩息子のたとえ
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどのパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
最初は意味不明だった。お前は何を言ってるんだ? そんな気分だった。
さて、解説サイトを巡ったところによると、この掌編というのは――父親を神に、放蕩息子を(いつも罪を犯しがちな)迷える人間に喩えているらしい。
なるほどと思った。イエスの説話にはたとえ話がよく登場するが、たとえ話の中でもたとえを使っているのだ。
神は寛容な存在だ。聖書においても、寛容さが重要な徳であると述べた個所が多くある。
現代社会においてもそうだ。昔に比べると、個人に対する寛容さが求められるようになっている。傍目では愚かに見える行いであっても、当人の意志を尊重する。自己決定権というやつだ(うろおぼえ)。
聖書というのは、なんかもういろいろと今の社会を先取りしているのだ。いや違う、普遍的というやつだ。どんな時代でも共通する大事なことを、ひとつひとつ、じっくりとしっかりと述べている。
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
――ルカによる福音書 16.1-13(16章の1節~13節) P.140
「それはひょっとしてギャグで言ってるのか!?」という、中学生の時に読んだ漫画の台詞を思い出した。
読み始めは、聖書らしい勧善懲悪を期待していた。読了後は、こいつやりたい放題だな! と感じつつ、この物語は何を意味しているのだろう――今度は自分で考えることにした。
こたつ机の上で、通勤途中の自転車で、トイレの中で、サイゼリヤでの雑談中に、神学のWeb講義中に、何度も考える機会があった。
わからなかった。結局。
それで、解説サイトを巡ってみることにした。どうやら聖書のたとえ話の中でもメジャーな作品らしい。
しかし、わからない。どの解説サイトを読んでもしっくりこないのだ。
どのサイトにおいても、「どんなに苦しい状況の中でも、神の国に行くために最善の行動を取ることが大事」と書いてあった。不正にまみれた富でいいので、いつか最後の審判が訪れて、永遠の国に住む時のための友達を作っておくべき、みたいなことが書いてあった。
例えば、主人が召使い3人に、自分が留守の間お金を預ける話がある。3人の召使いの中で、そのお金を資産運用によって一番増やした人が主人に一番褒められていた。お金を土の中に埋めておいた人は、主人の命でそれを取り上げられ、一番増やした人に渡ったうえ、彼は外の暗闇に追い出されてしまう。
(だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる)
でも、その一方で、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」みたいなことを述べた箇所が同じ新約聖書に3つ以上はある。
約二千年前に作り始められたわけだから、矛盾する箇所も当然あるだろう。しかし、それにしても不正な管理人の話には納得がいかない。
そうこう考えてググっているうち、こんな本をアマゾンで見つけた。
要約すると、長い年月に渡って聖書が写本され続けた結果、当初は存在しなかった物語や解釈や意図が入り込んでいった、とのことだ。
ならば納得できる。この『不正な管理人のたとえ』の真実は、こうだ。昔、聖書を写本していた権威ある人が、「このネタ入れたら面白いんじゃね?」的なノリで挿入したシュールギャグだったのだ。それが不正な管理人のたとえの正体である――解決。
解説サイトやヤフー知恵袋なんかでこの掌編を肯定している人は、もしかして、あれじゃない? 権威に弱い人なんじゃないか?? おかしいものはおかしいとして、はっきり言わないといけないんじゃない??? と、わたしは思いました。(小学生並みの感想
聖書を読んでよかった。
はっきり言おう(ここイエスを意識している)。わたしにとって収穫だったのは、多くのコンテンツの原典・元ネタであることを確認できたからだ。以下のようなものがある。ネタバレ防止のため、どの作品に派生しているかは原則述べない。
例えば、①エジプトの王宮でのモーセ&アロン VS ファラオの対決時に、お互いの杖を蛇に変えてバトルする場面とか、②サムソンが今わの際に両手で二本の柱を押し倒して数千人を巻き添えにして死ぬところとか、③ペルシャ王クセルクセスが、「王妃エステル、どうしたのか。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」って2回も言うところとか、④大岡裁き(どちらが本当の母親か決めるやつ)の元になった母親2人の諍いの話とか、⑤ダビデの三勇士の一人イシュバアルは、槍のひと突きで800人を殺してしまうとか、サラっと書いてあって思わず吹いた……。
ほかにも、ここには挙げきれないほど多くの漫画や小説やゲームの元ネタに会うことができた。これだけでも読んだ甲斐があるというものだ。
特に、士師記のサムソンには笑わせてもらった。スラップスティック・ギャグコメディの原型が聖書にあったなんて! 高橋留美子も、これを読んで『うる星やつら』の肥やしにしたのかもしれない。
聖書というのは、宗教書というよりは総合文学の書であって、これを基に、その人がどう人生を生きるか考えるきっかけにする、みたいなコンテンツなんだと思う。
聖書は、各編によって色あいが相当違う。格調高く綴られた世界創造の語りだったり、長い旅と王国の繁栄の中で主人公が次々と交代していく群像劇のようにも見えるし、小説上のジャンルはだいたい網羅している(冒頭の詩は兄×妹の恋愛ものだ)し、どんな生き方が正しいのかという論じ合いもあるし、お笑いな感じの喜劇もあるし、いきなり箴言集になったりするし、詩もたくさん出てくる。
ところで、聖書に出てくる神は、その時々によって寛容だったり不寛容だったりする。人によらずとも、矛盾していると感じることがある。
キリスト者を迫害した人や、信心や律法の罪を犯した人を赦す場面もあれば、かの有名なオナンさんはあっさりと殺されるし(彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された。)、聖者エリシャを「禿げ頭出ていけ」と詰った子ども達42人は、突如現れた熊2匹によって皆殺しに遭っている。
同じ人でもやることなすことに筋が通っていたりいなかったりすることがあるし、理不尽だと感じた運命が後に自らを利するものであることがわかったりするし、法律や常識に反した行動がみんなの共感を得ることだってある。
わたしが若者でいられる時間は少ない。あと10年以内には若者ではなくなってしまう。それまでには、ひとかどの人物になっていたい。今回、半年がかりで聖書に向き合った経験が生きたらいいなと思っている。
最後に、物語の背景を知らなければ厨二な詩としか思えない台詞を書き留めて結びとする。
サタンの弄びにより、死に等しい皮膚病に冒されてしまった義人ヨブの独白の一部だ。
ピンチの時には助けに来て、みんなを救って姿を明かさずに去っていく。
かっこいい、そう思った。自分もいつかなれると思っていたんだ、誰かのヒーローに。
でも現実は甘くない、私はヒーローになれなかった。大きくなるにつれて人間にならなきゃならなかった。
私は普通という呪いにむしばまれた、でも幸か不幸か私は容量が良かった。我慢を続けて我慢を続けて、それでも私が生きる意味は少ないけれど確かにあった。
生涯の付き合いになると思っていた、そんな親友で幼馴染の二人が私にはいる。
二人のヒーローに、二人が私のヒーローに、そんな存在だと思っていた。
一緒に過ごすのが本当に幸せだった、それだけでよかった、それだけでよかったのに。
今こうやって文章を書いてどうにかならないかと願って逃げている。救うべき相手から逃げたんだ、私は
今年の五月、精神を病んでいた私に、深夜訃報が流れた。弟から私のヒーローの一人が自殺したと電話越しにそんな言葉が聞こえた。
夢じゃないかと思った、頭が回らない、世界がスローモーションになっていく、思考が沖に逃げていく。
わからない馬鹿なふりをするので精一杯だった、考えたら受け止めなきゃいけない気がしたから。
今涙を流したら顔を合わす時までに自分の心が持たない気がして、そんな気がしてまた我慢した
それでも時は止まらない、葬儀に出席するために色々な用意もあれば、日常も止まってくれるわけじゃない、洗濯しなきゃと喪服を引っ張り出して、洗濯を済ませて取り込んだ時、春の香りがして、もう駄目だった。
涙が止まらなかった、思いが止まらなかった、動けなくなるぐらいその日は泣き続けた。
実家への帰路、バスの中でまた涙が出てきた。人目も気にせずまた泣いた。
葬儀が始まって、亡き骸を見たとき寝てるんじゃないかと思った。本当は質の悪いドッキリなんじゃないかって思い続けた。
それでも時間は進んでいって火葬場に行かなきゃいけなかった。吐きそうだった、世界が歪に見えた。これは夢だからと自分に言い聞かせた。そうしないと自分をだましていないと世界の速度に追いつけなくなっていた。
煙が見えた後、もう一人の幼馴染とふたりで骨を拾った、すべての時間が夢ならどんなに良かっただろうか。
現実感がないまま、時だけが進んで思考が置き去りにされていく。
私は生きる意味が減ってしまった、こんな苦痛を味わって生きた先に待っているものは何だろうか。
時間が解決すると皆が口をそろえて唱える、ヒーローがいない世界で、長い時間をかけて何が解決するんだよ。解決ってなんだよ、人が、私の大切な人が死んだんだ。もう会えないんだよ。
私は救えなかったし、救われなかった。
眠れない日々が続いて、毎晩私は彼への後悔と自分の不甲斐なさにイライラして泣いて朝が来る。
この後の人生、人のふりをしていきていけるといいな。
どういたらいい、教えてくれよヒーロー
ネタを書く漫才師とネタを書かない(書けない)漫才師問題とかってあるんだけど、
モテたいとかケンカ最強になりたいとか、(勉強とか運動とかで)一番になりたいとかの同列にクラスで一番面白いやつになりたいって欲求があるじゃない?
俺はその欲求に従ってひたすら笑い王になるべく皆んなを笑わしてたんだよ。
もちろん中学生の笑いだから文字通り子供騙しで裸になるとかそんなやつな。
でも努力の甲斐があって、中1ではクラスで一番面白いやつ。中2では学年で一番面白いやつ。中3では学校で一番面白いやつとステップアップを果たしたいった。
ああ、誤解される前に書いておくと、おもろいおもろいと人気者だったけど、もちろんメチャクチャ嫌われてもいたよ。
それはそれとして、みんなオモロいといってくれてた。
でもさ、やっぱり満足できないんだよな。
ネタが面白いわけではないんだよ。いや、フリートークとかも出来るし、増田くんなんか面白い話してよと言われて5分後にはオチで爆笑でぴったり授業の開始時間とか出来たよ。でもそういうことじゃない。
結局、俺のはただパフォーマンスなんだよな。
同学年にネタができる奴らがいた。
いや爆笑の度合いでいけば俺の方が笑いをとる。
文化祭でそのコンビと出し物でガチンコ対決みたいになったときも俺の方が笑いをとっていたと思うし、
でも違うんだよ。笑いの意味が違うんだ。
それがなあ中学のときは通じるやつが周りにいなくてつらかった。
わかってるのは俺とその漫才師のネタ書いてるやつだけなんだよ。
俺の方が上だよな?
よく「(若者は特に)政治にに強い関心を持ちなさい」言うけれど、政治に強い関心を持つほど無力感を覚える。
特定の政治団体を非難しているわけではない。もっと根本的に、政治は世の中を良くする力を持っていないように思える。
半分は正しくて、半分は嘘だ。
「選挙に行く」というのは民主主義国家としての体裁を保つための国民の義務として正しい。
「社会を良くするために」が嘘。
特に政治的思想の無い無投票派が加わったところで票の分布は変わらない。
それはきっと「政治に関心を持て」派の人も分かっているようで、
「選挙に行け」の後には決まって「A党はこういう不祥事をもみ消している」だとか、
「B党は財源を無視した政策だ」など、投票先を誘導するような主張がついている。
つまり無投票派を自分の味方にするために「政治に関心を持て」と主張している。
ではなぜ政治に対して関心を持つ人がいるのか。
それは政治が自分事で、政治が良くなれば自分が幸福になれると信じているからだ。
それは本当だろうか?
まず「政治を良くしたい」人は今の政治は良くないと思っている。
満足をしている人は良くしたいとは思わないからだ。
今の政治の不甲斐なさを見て、ストレスを貯め、政治の啓蒙活動に励んでいる。
現在の日本は民主主義の形式をとっているため現在の政治は多数決によって選ばれている。
1.バッドエンド 愚かな大衆は間違えに気づかない
たいていはこれ。個人が路上やSNSで行う啓蒙などこの程度なのだ。
これを見た「政治に関心のある人」はありえない、と思うだろう。
これが一番起こりにくい。
少数派である自分の思想が変わらないのに大衆をひっくり返すのはさらに困難になる。
自分の大衆も同じ人間だ。大衆だけ愚かで簡単に思想が変わると思うのは傲慢だ。
大衆を愚かだと嘆きつつ、ストレスを貯めて生きていくしかない。
これでは幸せになれない。パンとサーカスを楽しんだ方が幸福である。
項番2を見て「格差や貧困は政治でしか救われない。幸福ではなく正しさのために政治に関心を持て」と言われるだろう。
ではそもそも政治に社会を良くする機能があるのかを考えていく。
よく野党は「国会を開いて議論をするべき」と主張するが、国会で議論は可能だろうか。
間接民主制はマニフェストを国民に提示し、賛成を得た議員が国会に集まる。
よって国会に集まっている時点で意見は固まっていて、変更はできない。
仮に議員が論破されて納得したとしても、意見を変えることはマニフェストを指示した国民を騙すことになる。
だから自由な議論は選挙前に国民向けのパフォーマンスとしてしか存在しない。
国会が議論の場でないからスキャンダル晒しや野次でパフォーマンスする場になっている。
ワクチンを打つか打たないかを決めるのは政治だが、打つと決めたらあとは仕事と技術の問題だ。
ワクチンが足りなかったりアプリの不具合だったりは政治的問題ではなく、単純に仕事ができるかできないかだ。
選挙のマニフェストでは仕事ができるかは分からないし(面接をしたって無能を採用することはある)、
だから政治的にどれだけ議論をしたところで解決する問題ではない。
戦争や革命直後(全員貧しくなる)以外で歴史的に格差や貧困を解消した国家があれば教えて欲しい。
ならば政治は富をどう再分配するかという話になるが、
金銭的な富を再分配しても今度は社会的地位、労働環境、容姿などで格差が生まれ、不平不満は生まれる。
「生まれながらに顔が良いから恵まれている」「男だから体力的に有利」なんて問題は完全に富を再分配しても起こる。
では部分的な富の再分配はというと、生活保護など現状も存在する。
じゃあ金持ちからもっと税を取って国民に分け与えればいいというのはもっともだが、
結果的に金持ちが国外に移住して税収が減り、再分配するための富がなくなる。
これを防ぐためには全世界の税率を共通にする必要があるが、それは世界征服でもしない限り不可能だ。
完全無欠な政治思想が存在しない以上、何かしら不満は生まれるものだ。
だったら「政治に関心を持」って啓蒙活動を行ってSNSや路上で騒ぐより、
バーチャルYouTuberのデザインや活動に対してフェミの人達が文句を言って、そのバーチャルYouTuberの仕事がなくなるってのがちょっと前にあったじゃん?
https://news.yahoo.co.jp/articles/726aeddaf6debbea5f828f1da7fd184c9c09ebd1
フェミの人達がどうしてオタクやオタクコンテンツにやたら突っかかってくるかっていうとさ、社会の中で舐められているからなんだよ。
オタクの人達は社会から舐められ軽んじられているから、ついでにオタクコンテンツも舐められるし、あいつらに対しては何言っても大丈夫でしょって思われてる。
実際、フェミの人達が何を言っても、オタクでもフェミでもない第三者の人達が庇ってくれることはまずないわけでしょ?
オタクでもフェミでもない人達からしたら、社会から舐められているオタクなんて助け甲斐がないんだよな。
下手に助けて、仲間だと思われても気分が悪いし。
でも、そういう人達をどうにかして味方につければフェミも下手なことは言えなくなるわけよ。
勝ち目のないケンカを吹っかけるほど馬鹿ではないだろ、あの人達だって。
で、オタクが社会から舐められないようにするにはどうすればいいかって、服装を変えるのが一番効果的だと思うんだよ。
オタクが人から馬鹿にされるきっかけって、まずは見た目なわけじゃん?
オタクの人達は気付いてないのかもしれないけど、社会の中で生きるなら最低限このぐらいの服装は出来るようにしておいてくださいね、というのは明文化されていないけど決まってるんだよ。
余程の理由がない限りはそれが出来ないと社会の一員として認められないわけ。
その考え方が正しいのか正しくないのかは置いておくとして、結局今の日本社会はそういうルールで回っているから、それに対して特に理由なく逆らったところで良い事なんてない。
オタクの服装が世間で明らかに馬鹿にされ始めてからもう何十年も経ってる。
にもかかわらず、オタク達は変わらず馬鹿にされるような服装を続けて、舐められ軽んじられ続けている。
もういい加減やめにしませんか。
だいたい、オタクじゃない人達だってお洒落しようと思ってお洒落してる人は極少数だし。
とにかく最低限の服装をしようよ。
例えば、今の東京の気温だったら、ユニクロで黒か白の半袖の無地Tシャツとジーンズを買って着て、靴はスタンスミスでも履いておけばいいわけじゃん。
ユニクロもアディダスも宗教上の理由で身に付けられないとかだったら、他のブランドやメーカーで似たようなものを探して着ればいい。
それで3週間か4週間に1度ぐらいの頻度で美容院なり床屋なりに行って髪切れば、少なくとも服装が原因で馬鹿にされることはないでしょ。
え?その程度なら出来てるよ、と考える人も多いかもしれないけど、俺が今まで何度かバーチャルYouTuberのイベントやらファンの集まりやらに行った感じ、このレベルですら出来ている人は少数派だ。
こういうこと書くと、すぐルッキズムだなんだって言う奴が現れるんだけどさ。
社会から最低限求められていることをする気はないです、社会の価値観を大事にする気はないです、でも社会は自分の事を大事にしてください、って言ってんの。
そんな奴の言い分が通ると思い込んでるなら好きにすればいいけどさ、そんなの有り得ないでしょ。
あぁ、この人達は自分が出来ないことを出来るようにするんじゃなくて、それの価値を貶めることで自分の価値を不当に高めようとしているどうしようもない人達なんだな、と思われて終わりだよ。
だいたい、最低限の服装をしながら反ルッキズムを主張することは別に矛盾することでもないわけじゃん。
今回のバーチャルYouTuberの件に関しても、フェミの団体に対して抗議するみたいだけど、今のままじゃまともに話聞いてもらえないと思うんだよな。
最低限の抗議はしないと、ますます舐められるからしないよりはした方が良いんだろうけど、社会の一員として認められていない人達の言葉に世間が耳を貸すことなんてないよ。
社会から求められている最低限のことをしないで過ごしていて、それによって社会を軽く見てると思われてもおかしくない人達が、困った時だけは社会に助けを求めるって、そんな虫のいい話は通用しないだろ。
舐められている人間は何をされてもしょうがないという世の中は間違っている!って思うかもしれない。
実際、そういう考え方の方が正しい考え方なのかもしれない。
でも、結局この世の中は弱肉強食で、舐められた奴から死んでいくクソみたいな世界なんだよ。
別にそのせいで俺達オタクが損をするだけなら構わないけど、バーチャルYouTuberのファンとして、バーチャルYouTuberの人達が割を食うのを見せられるのは俺は嫌だよ。
これでオタク同士はオタク特有のあの服装をリスペクトし合っている、とかだったらまた話は変わってくるんだろうけど、そういうのは全くないんだよな。
というか、誰よりもオタクが一番オタクの服装を馬鹿にしている雰囲気さえある。
特別な理由があって、どうしても今の服装を続けなければいけないんだったら無理にとは言わないけどさ、別に服装にこだわりも何もないんだったら、自分も推しも馬鹿にされる原因になるようなことをする必要はないでしょ。
それが出来ず、人を納得させるだけの理由も用意できないんだったら、表には出ないでいてくれないか?
ツイッターとかnoteとかで「〇〇ちゃんがより良く活動するために俺達はこうあるべき!」みたいな主張をする奴に限って、クソみたいな服装でヘラヘラ笑いながらイベントに現れるんだよな。
ゴチャゴチャ言う前に、まずお前がその〇〇ちゃんの足を引っ張っているという自覚は持てよ。
バーチャルYouTuberは生まれたばかりのカルチャーだし、まだイメージが固まっていないから、今俺達が変われば世間の認識も変わると思うんだよ。(アニメとかゲームとかはもう手遅れだ)
本当に、お願いだからやるべきことをやってよ。
ワイが史上初の甲斐性を見せてやるよ……
まぁもともと高校から1人暮らししながら奨学金を借りて高校も大学も自分の稼ぎで卒業し、社会人1年目から実家へ5万円ずつ仕送りをするような人生を送っていた。
世間知らずだったのでそれが当たり前だと思っていたし俺は長男なので義務だとも思っていた。
そんな俺を大学生の頃から好いてくれた女が居る。
付き合うなんて考えられん。まともなデートなんか出来ない。俺と付き合ったって寂しい思いをするだけだ。
何度も突き放したが5回、5回もこんな俺へ告白をし続けた根気へついに折れてしまい、そこから社会人になっても付き合い続けていた。
本当にデートなんて出来ない、旅行も夢のまた夢。俺か彼女の家で飯食うだけが楽しみみたいな関係性を続けて、ずっとずっと俺に寄り添ってくれた。
こんな女ほかに居ないと思って28歳になったとき、まともな指輪も用意できない甲斐性のない男ではあったがプロポーズし、それを受け入れてくれた。
「金はどうするのか」「アンタの仕送りがないと生活できない」「結婚式のお金なんて出せない」「騙されてない?」「水商売女か?」
激怒するしか無かった。俺自身ここまで俺という人間は怒ることが出来るのかと初めて知った。
俺が大切にしたいと思った女が泣いている。冷たい言葉をぶつけられ、何で俺はこんな連中に紹介してしまったんだと後悔した。
俺の親は姉はこんな奴らだったのか!俺はこんな奴らを支えるために仕送りしてたわけじゃねぇんだ!何なんだ俺の今までは何だったんだ・・・。
「俺は金なのか!おめでとうの1つも無いのか!お前らとは永遠に関わり持たん!お前らとは家族でも何でも無い!絶縁だ!」
そう怒鳴りつけてその場で彼女の手を引いて家を出た。
彼女は俺に謝ってきたが謝罪する理由がどこにあるのか。
今後は毎月5万も送る必要もなければボーナスもまるっと俺達の懐でむしろ得!俺は幸せになってやる!お前を誰よりも幸せにしてやる!
俺のほうが彼女の両親へ謝罪をしなければならない。
絶縁してしまって家族がお前しか居ないことになってしまった。こんな俺・・・お義父さんお義母さんは認めてもくれるかな・・・。
ここからはもう全力だった。
1年後の結婚式とハネムーンを目標に更に切り詰め、そして副業アルバイトを始めた。この程度は過去に経験済みだから問題ない。
彼女の誕生日プレゼントだってまともなもん買えるようになった!「服か良いか?バッグか良いか?化粧品が良いか?なんでも好きに選べ!買いに行くぞ!」と言ったら「プレゼントはあげる人に選ばせるものではないでしょ」と叱られてしまった!w
お義父さんお義母さんはへの挨拶も杞憂だった。「娘を庇ってくれてありがとう」と感謝されてしまった。心の広さは懐の厚さだろう。どこかの銭ゲバは心が狭いから金がないのだ。
俺と妻が望んだことを俺は必ずすべて実現する。
俺の収入が増えれば増えるほど、アイツらは得られるはずだった金を得られないし、俺が建てた新築にだってアイツらは住めない。
アイツらの子供は本場カルフォルニアのディズニーへも行けないし、著名私学にもいけず、RTX3090を積んだ俺のPCでゲームも出来ないだろう。
俺はわざとにFacebookへ自分の生活を載せ続けている。姉貴たちが俺のFacebookを見ていることは幼馴染経由で俺は知っている。
原動力は確かにネガティブな感情だろう。それでも良いんだよ、眼の前の妻と子が幸せに暮らせば暮らすほどアイツへ見せつけられ、得られたはずのモノを得られない喪失感を与えられ続ける。
親ガチャがクソならクソを捨てる勇気を持て!大事なのは決断する勇気だ!
努力して努力して努力して見せつけてやれ!お前らクソは俺の重しでしか無かったと証明してやれ!
ネガティブな感情でも幸せになれるんだと俺はお前らに伝えたい!
俺の人生経験が親ガチャがクソだったお前らの1歩の足しになれば俺は凄く嬉しいし、その1歩を俺は他の誰よりも称賛してあげたい!
プラスマイナス岩橋の「やってはいけないことをやってしまうクセ」じゃないんだけど「言ってはいけないことを言いたくなる」ことがある
昔自分はそこそこサッカー熱があった。しかし、贔屓の不甲斐なさを見てモチベーションが下がった。今でも全く見ないわけではないけど距離を置いている感じだろうか
たまにかつての贔屓の動向も見る。たまに頑張ってるけどやっぱり今でも変わらない体たらくだ。そんな時今でもかつての贔屓を応援している友人に負けが混んでいる時に「やっぱりだめみたいだね」とLINEしてしまうことがある
案の定友人からは「そんなことはない、例えば〜が良かった」みたいな返しが来る。それを見てなぜだか少し安堵する。もう熱はとっくに冷めたというのに。
どこか心の深層で「復帰したいけど一度やめた手前」みたいなのがあって結局それがこの天邪鬼みたいな行為になるのかなとも思っている。そうだったら未練がましいよなとも思う。どこかのファンではなく無所属でスポーツを見れるようになれたらいいんだろうけど