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2020-03-15

フェミニズム界隈を巡る反論

 日本フェミニズムが抱えている問題複数あって、煎じ詰めれば「思想善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。

 女性地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構

 しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果殆ど出ていないことに問題があるのである

 むしろ結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲から評価を下げてさえいるのが問題なのだ


 古来より女性男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。

 例えば、近代イギリス小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性自分を殴る男性を好んでいる。むしろ自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。

 このような記述は、文脈的に言えば主人公チャールズストリックランドタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場女性一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。

 また、自然主義人間本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想作家大家である近代フランスエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。


 このように、国の内外を問わず女性に対する男性から暴力というもの散見される。流石に、このような状況は現代において相対的改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。


 問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズム評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である

 具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?

 以下に論点を纏めていく。


1:フェミニズム議論ソフィスティケートされすぎており、一般女性男性認識に馴染まない


 古代ギリシャ劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。


 女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」

 と、戦争反対のため断固セックス拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである

 女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。

 このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代フェミニストらにも見られる。

 女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会地位を占めること――その権利回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀フェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。

 その運動社会において大きく効果を上げた。

 イランのごとき保守的国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体ベールで覆う必要がある。そのような規則女性利益担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体ベールで覆うことを一般的によしとしない。

 女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である

 性はそれまで女性自由にはならなかった。構造主義先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判推して知るべしだが、女性婚姻父権立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代存在していたのである

 自身の性を管理行使する権利が、婚姻不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性権利現代において拡張されたのである

 ここまではフェミニズムにおいて一般的な議論範疇である

 とは言え、問題はこの延長線上にある。


 女性自身身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネス喜劇に見られるように、女性自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性権利の実現が確認できる。

 しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。


1-2:性の解放性的搾取

 相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。


 当然、女性社会進出をする上で、女性自身の性を政治手段として用いることには、危うさが秘められている。

 そのような危うさをして、現代フェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。

 アイドル、性産業広告業芸術

 これらの分野における女性露出性的搾取危険を秘めている、と現代フェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。

 ここにおいて、深刻な二律背反が生じているのは明らかである

 女性スキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?

 残念ながら、この問題に明快な結論は出ていない。


 政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性女性という対照を想起させる。

 男性狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性狡猾である男性暴力行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性尊厳根本からなうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性尊厳考慮されることはない。

 昆虫動物らに見られる、コミュニティコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。

 男性狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。

 勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。

 その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。

 人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。

 我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。

 女性はその能力を大いに用いてきた。


 さて、端的に言って、性的魅力は女性能力である

 それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。

 性的魅力は疑いなく女性能力である女性自身尊厳担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。


 しかし、その能力女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。

 近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。

 例えば、大きな胸を強調したポスター女性の魅力が強調されてはいるが、不適切方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。

 女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。

 この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。

 とは言え、ここが言わばロドスである


1-3:ソフィスティケートされ過ぎた議論

 女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。


 勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論錯綜するポイントがある。

 まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。

 女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。

 自分能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である

 例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。

 例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なライン身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。

 絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。

 これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである


 例えば、女性歌手楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。

「媚び」はこの場合、不自然女性立場貶める行為であり、最終的な女性不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取対象であると、誰かが指摘する。

 例えば、写真家女性写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。

 その「誰か」は、最終的に女性不利益を招くと指摘する。

 例えば、

 例えば、例えば、例えば――


 女性が魅力を発露すること、それが搾取対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性尊厳担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取対象とされてしまうこと。

 女性能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。

 能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益帰着すると、その誰かは指摘する。

 これが、フェミニズムソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である

 カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。

 このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代フェミニズムによって獲得された、女性自身能力や魅力を自身権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。


 能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。

 このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?

 勿論それは不可能であるフェミニズム矛盾にぶち当たっている。

 そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズム論理一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。


2:結論

 結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。

 その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである

 昨今のフェミニズム運動空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾解決することなくして、現代フェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。

 結論としては以上となる。

2020-02-11

フェミニズム界隈を巡っての反論

 日本フェミニズムが抱えている問題複数あって、煎じ詰めれば「思想善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。

 女性地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構

 しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果殆ど出ていないことに問題があるのである

 むしろ結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲から評価を下げてさえいるのが問題なのだ


 古来より女性男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。

 例えば、近代イギリス小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性自分を殴る男性を好んでいる。むしろ自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。

 このような記述は、文脈的に言えば主人公チャールズストリックランドタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場女性一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。

 また、自然主義人間本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想作家大家である近代フランスエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。


 このように、国の内外を問わず女性に対する男性から暴力というもの散見される。流石に、このような状況は現代において相対的改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。


 問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズム評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である

 具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?

 以下に論点を纏めていく。


1:フェミニズム議論ソフィスティケートされすぎており、一般女性男性認識に馴染まない


 古代ギリシャ劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。


 女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」

 と、戦争反対のため断固セックス拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである

 女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。

 このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代フェミニストらにも見られる。

 女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会地位を占めること――その権利回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀フェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。

 その運動社会において大きく効果を上げた。

 イランのごとき保守的国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体ベールで覆う必要がある。そのような規則女性利益担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体ベールで覆うことを一般的によしとしない。

 女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である

 性はそれまで女性自由にはならなかった。構造主義先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判推して知るべしだが、女性婚姻父権立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代存在していたのである

 自身の性を管理行使する権利が、婚姻不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性権利現代において拡張されたのである

 ここまではフェミニズムにおいて一般的な議論範疇である

 とは言え、問題はこの延長線上にある。


 女性自身身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネス喜劇に見られるように、女性自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性権利の実現が確認できる。

 しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。


1-2:性の解放性的搾取

 相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。


 当然、女性社会進出をする上で、女性自身の性を政治手段として用いることには、危うさが秘められている。

 そのような危うさをして、現代フェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。

 アイドル、性産業広告業芸術

 これらの分野における女性露出性的搾取危険を秘めている、と現代フェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。

 ここにおいて、深刻な二律背反が生じているのは明らかである

 女性スキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?

 残念ながら、この問題に明快な結論は出ていない。


 政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性女性という対照を想起させる。

 男性狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性狡猾である男性暴力行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性尊厳根本からなうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性尊厳考慮されることはない。

 昆虫動物らに見られる、コミュニティコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。

 男性狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。

 勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。

 その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。

 人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。

 我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。

 女性はその能力を大いに用いてきた。


 さて、端的に言って、性的魅力は女性能力である

 それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。

 性的魅力は疑いなく女性能力である女性自身尊厳担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。


 しかし、その能力女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。

 近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。

 例えば、大きな胸を強調したポスター女性の魅力が強調されてはいるが、不適切方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。

 女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。

 この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。

 とは言え、ここが言わばロドスである


1-3:ソフィスティケートされ過ぎた議論

 女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。


 勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論錯綜するポイントがある。

 まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。

 女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。

 自分能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である

 例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。

 例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なライン身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。

 絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。

 これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである


 例えば、女性歌手楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。

「媚び」はこの場合、不自然女性立場貶める行為であり、最終的な女性不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取対象であると、誰かが指摘する。

 例えば、写真家女性写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。

 その「誰か」は、最終的に女性不利益を招くと指摘する。

 例えば、

 例えば、例えば、例えば――


 女性が魅力を発露すること、それが搾取対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性尊厳担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取対象とされてしまうこと。

 女性能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。

 能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益帰着すると、その誰かは指摘する。

 これが、フェミニズムソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である

 カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。

 このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代フェミニズムによって獲得された、女性自身能力や魅力を自身権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。


 能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。

 このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?

 勿論それは不可能であるフェミニズム矛盾にぶち当たっている。

 そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズム論理一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。


2:結論

 結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。

 その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである

 昨今のフェミニズム運動空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾解決することなくして、現代フェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。

 結論としては以上となる。

2020-02-10

フェミニズム界隈を巡っての反論

 日本フェミニズムが抱えている問題複数あって、煎じ詰めれば「思想善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。

 女性地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構

 しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果殆ど出ていないことに問題があるのである

 むしろ結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲から評価を下げてさえいるのが問題なのだ


 古来より女性男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。

 例えば、近代イギリス小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性自分を殴る男性を好んでいる。むしろ自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。

 このような記述は、文脈的に言えば主人公チャールズストリックランドタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場女性一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。

 また、自然主義人間本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想作家大家である近代フランスエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。


 このように、国の内外を問わず女性に対する男性から暴力というもの散見される。流石に、このような状況は現代において相対的改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。


 問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズム評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である

 具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?

 以下に論点を纏めていく。


1:フェミニズム議論ソフィスティケートされすぎており、一般女性男性認識に馴染まない


 古代ギリシャ劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。


 女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」

 と、戦争反対のため断固セックス拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである

 女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。

 このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代フェミニストらにも見られる。

 女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会地位を占めること――その権利回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀フェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。

 その運動社会において大きく効果を上げた。

 イランのごとき保守的国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体ベールで覆う必要がある。そのような規則女性利益担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体ベールで覆うことを一般的によしとしない。

 女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である

 性はそれまで女性自由にはならなかった。構造主義先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判推して知るべしだが、女性婚姻父権立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代存在していたのである

 自身の性を管理行使する権利が、婚姻不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性権利現代において拡張されたのである

 ここまではフェミニズムにおいて一般的な議論範疇である

 とは言え、問題はこの延長線上にある。


 女性自身身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネス喜劇に見られるように、女性自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性権利の実現が確認できる。

 しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。


1-2:性の解放性的搾取

 相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。


 当然、女性社会進出をする上で、女性自身の性を政治手段として用いることには、危うさが秘められている。

 そのような危うさをして、現代フェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。

 アイドル、性産業広告業芸術

 これらの分野における女性露出性的搾取危険を秘めている、と現代フェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。

 ここにおいて、深刻な二律背反が生じているのは明らかである

 女性スキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?

 残念ながら、この問題に明快な結論は出ていない。


 政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性女性という対照類推させる。

 男性狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性狡猾である男性暴力行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性尊厳根本からなうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性尊厳考慮されることはない。

 昆虫動物らに見られる、コミュニティコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。

 男性狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。

 勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。

 その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。

 人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。

 我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。

 女性はその能力を大いに用いてきた。


 さて、端的に言って、性的魅力は女性能力である

 それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。

 性的魅力は疑いなく女性能力である女性自身尊厳担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。


 しかし、その能力女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。

 近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。

 例えば、大きな胸を強調したポスター女性の魅力が強調されてはいるが、不適切方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。

 女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。

 この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。

 とは言え、ここが言わばロドスである


1-3:ソフィスティケートされ過ぎた議論

 女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。


 勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論錯綜するポイントがある。

 まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。

 女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。

 自分能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である

 例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。

 例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なライン身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。

 絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。

 これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである


 例えば、女性歌手楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。

「媚び」はこの場合、不自然女性立場貶める行為であり、最終的な女性不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取対象であると、誰かが指摘する。

 例えば、写真家女性写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。その「誰か」は、最終的に女性不利益を招くと指摘する。

 例えば、

 例えば、例えば、例えば――


 女性が魅力を発露すること、それが搾取対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性尊厳担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取対象とされてしまうこと――。

 女性能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。

 能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益帰着すると、その誰かは指摘する。

 これが、フェミニズムソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である

 カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。

 このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代フェミニズムによって獲得された、女性自身能力や魅力を自身権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。


 能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。

 このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?

 勿論それは不可能であるフェミニズム矛盾にぶち当たっている。

 そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズム論理一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。


2:結論

 結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。

 その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである

 昨今のフェミニズム運動空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾解決することなくして、現代フェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。結論としては以上となる。

2019-10-24

anond:20191024094756

こんな有史以前から続くであろう不毛な議論に参加してる時点で暇人以外の何者でもないと思う

2019-07-04

有史以前男は搾取されてきた

イメージつかんのやけど、搾取って具体的にどういう行為を想定したらええの?

性交出産話を仄めかして女が引き出す配慮、金、物品など全部のことやで

う〜ん、これは頭フェミ

2019-07-02

老後の趣味としての釣り

釣り好きはてなユーザーの皆さんこんばんは。

古今東西老若男女に愛される釣りという趣味ですが、皆さんご存知の通り奥が深いものでして、釣法魚種そして地域により、「釣り」といっても多種多様であります。つまり貴方想像する「釣り」と隣人の想像する「釣り」は異なっていると思って良いでしょう。なので「釣りとはどうこうである」という言説はすべて「主語が大きい」。同じゲーム性の強い内水面の釣りではありますが、ヘラブナ釣りバス釣りの間にある差異想像してみていただきたい。

しか今日はあえて増田釣りについて書いてみようと思います

関西にある釣具店に働く友人から聞いた話。

有史以前から現在まで人類に親しまれてきた釣りですが、釣りの中にも流行り廃りというものがありまして、高齢化が進む日本においては渓流釣り磯釣りの人気が落ちている一方でタイラバ海上釣り堀に人が集まっているとのこと。

これはひとえに人口ボリュームがあり釣り人口も多い世代高齢化による。つまり歳を重ねると、山に分け入り沢に登りヤマメを狙う渓流釣りや早朝から磯を渡ってグレを狙う磯釣りは厳しくなってくる。そして比較的足腰に優しいタイラバ遊漁船にてマダイを狙う)や海上釣り堀に流れていく。

この話を聞いたとき高齢化はこんなところにも影響を与え得るのかと感心しました。そして思いました。釣りという一生の趣味にも、釣りの種類によっては適齢期というものがあるのかもしれない。釣りの種類によって準備にかかる時間も、道具を揃えるのにかかるお金も大きく異なる。若くて体力があって十分に稼げるうちではないと楽しめない釣りもあるのだ。

からこそ、「いつかはアラスカキングサーモン釣り上げたい」と思っている若者は、躊躇わずに行けるときに行きましょう(しか老婆心ながら忠告させて頂きますと、せっかくの機会だからといって新婚旅行バリGTを狙うのは、パートナーの十分な承認を取ってからしましょう)。

退職金で50万の鮎竿を買いたいと思っているサラリーマンは、5万の竿で一回でも多く鮎釣りを楽しみましょう。

そして老後の趣味釣りを考えている方は、持続可能性を考えていろいろな釣りに挑戦してみてはどうでしょうか。世の中には本当に色々な形の釣りがあります普段は読まない種類の釣り雑誌にも手を伸ばしてみましょう。かつて友人に誘われて一度だけ行った釣り場にもう一度行ってみましょう。サビキなんて子どもの遊びだと思っているかもしれませんが、実は一生楽しめる趣味になるかもしれませんよ。

取り急ぎ書きたいことは以上です。それでは皆さん楽しい釣りライフを。

2019-04-09

ドラゴンが火を吐きはじめたのっていつごろなの?

ギリシャ神話のテューポー

今日ギリシア神話として知られる神々と英雄たちの物語の始まりは、およそ紀元前15世紀頃に遡ると考えられている。物語は、その草創期においては、口承形式でうたわれ伝えられてきた。紀元前9世紀または8世紀頃に属すると考えられるホメーロスの二大叙事詩イーリアス』と『オデュッセイア』は、この口承形式神話の頂点に位置する傑作とされる。

巨体は星々と頭が摩するほどで、その腕は伸ばせば世界東西の涯にも達した。腿から上は人間と同じだが、腿から下は巨大な毒蛇がとぐろを巻いた形をしているという。底知れぬ力を持ち、その脚は決して疲れることがない。肩からは百の蛇の頭が生え、火のように輝く目を持ち、炎を吐いた。

半人半蛇だけど「炎を吐く邪悪な蛇」のイメージにはなっているかも。

ギリシャ神話怪物はだいたいテューポーの子孫だし。

ギリシャ神話ラードーン

ラードーン(古希: Λάδων, Lādōn)は、ギリシア神話に登場する、林檎園の黄金林檎を守っていた、100の頭を持つ茶色ドラゴン

(中略)

から炎を吐き、一説では顎の関節が尾にある為、体全体が口のようになっており、百の首を持つといわれている。

と、Wikipediaには書かれているが、ラードーンが火を吐くかどうかは定かでない。

何が出典なんだろ?

旧約聖書レヴィアタン

ヨブ記』(ヨブき、ヘブライ語:סֵפֶר אִיּוֹב)は、『旧約聖書』に収められている書物で、ユダヤ教では「諸書」の範疇の三番目に数えられている。ユダヤ教伝統では同書を執筆したのはモーセであったとされているが、実際の作者は不詳。高等批評に立つ者は、紀元前5世紀から紀元前3世紀ごろにパレスチナで成立した文献と見る。

ヨブ記』によれば、レヴィアタンはその巨大さゆえ海を泳ぐときには波が逆巻くほどで、口から炎を、鼻から煙を吹く。

(中略)

その姿は、伝統的には巨大な魚やクジラやワニなどの水陸両生の爬虫類で描かれるが、後世には海蛇や(それに近い形での)竜などといった形でも描かれている。

ドラゴンになったのは後世。

サラマンダー

プリニウス著作で唯一現存しているのが、自然芸術についての百科全書的な37巻の大著博物誌である自然界の歴史網羅する史上初の刊行物であった。

(中略)

最初10巻は77年に発表され、残りは彼の死後おそらく小プリニウスによって公刊された。

プリニウスの『博物誌10巻には、サラマンドラは斑点を持つ小さなトカゲで、雨が降ると現れるが晴れると姿を消し、体が冷たく火に遭うと溶けると記録されているが、これはサンショウウオに関する記述と考えられている。

また、『博物誌11巻にはピュラリスというキプロスの炉の炎の中でしか生きられない動物が登場しており、精霊サラマンダーこちらに近い。上記の通り、炎を操る特徴からファイアードレイクと同一視され、ドラゴンとして扱われることもある。

「ベーオウルフ」のドラゴン

『ベーオウルフ』が成立した時期は、作品内部にも外部の言及としても成立の時期を特定する記述存在しないため、必ずしも明らかではないが、8世紀から9世紀にかけての間に成ったと考えられている[3]。

第一部でベーオウルフは巨人ドラゴンとも言われている)グレンデルとその母親と戦い、第二部では炎を吐く竜と死闘をかわす。 なお、インパクトが強くかつ謎の多いグレンデルとその親に関しては言及されることが多いが、炎を吐く竜に関してのものは少ない傾向にある。だが、同時にいわゆる「ドラゴン約束事」(財宝を蓄え守っている、翼を持って空を飛ぶ、火を吐くなど)をほぼそろえている珍しいドラゴンでもある。

スラヴ神話のズメイ

スラヴ民族文字を持たなかったため、伝えられた神話民族独自に記録した資料存在しない。スラヴ神話存在した事を記す資料として、9世紀から12世紀の間に行われたキリスト教改宗弾圧の際の「キリスト教」の立場から記された断片的な異教信仰を示す内容の記述が残るのみであるスラヴ神話地方により様々なバリエーションがあったことが近年の研究により明らかになっている。

ズメイ・ゴルイニチ(「山の息子の竜」の意)の場合、3つ首以上、多ければ12体幹を持つと表現され、火や毒を噴くなど、歴然とした一般の「竜」のイメージで描かれる。

アングロサクソン年代記ファイアードレイク

アングロサクソン年代記』はアングロサクソン史を古英語で綴った年代記集大成である編纂9世紀後半のアルフレッド大王の治世に、恐らくはウェセックスにおいて行われた。

火の竜」を意味する名前の通り、炎をまとい、口からも炎を吐く。空を飛び、それが現れる時は辺り一面、昼のように照らされる。曇天の空に不思議な光が走る時はファイアードレイクが飛んでいるのだとされた。

隕石という説があるらしい。

獅子騎士イヴァン」のドラゴン

イヴァンまたは獅子騎士』(イヴァンまたはししのきし、Yvain, le Chevalier au Lion)は、1170年から1181年頃にかけてクレティアン・ド・トロワにより著作された散文騎士物語であり、アーサー王伝説主題にした5作品ひとつである

イヴァンは旅の途中で火を吐く大蛇獅子が戦っているところに出くわす。イヴァンは問答のすえ獅子に加勢し、大蛇を倒した。これに恩義を感じた獅子は、イヴァンと行動を共にするようになり、イヴァン獅子を連れた騎士とだけしか名乗らなくなる。

黄金伝説」のドラゴン

黄金伝説』(おうごんでんせつ、羅: Legenda aurea または Legenda sanctorum、レゲンダ・アウレア)は、ヤコブス・デ・ウォラギネ1230頃 – 98)によるキリスト教聖人伝集。1267年頃に完成した。

その時代エチオピアの町では一人の魔術師権力を持っていた。彼は常に恐ろしい二匹のドラゴンを連れていて、自分にはむかう者にけしかけていた。あまり大きなドラゴンではなかったが、口や鼻から火や燃える硫黄を噴出し、人や家を焼きつくしたので誰も魔術師に反抗できなかった。その噂を聞いたマタイ魔術師の元を訪れた。魔術師マタイドラゴンをけしかけたが、マタイが十字を切るとドラゴンは地面に倒れて眠り込んでしまう。

同じく「黄金伝説」に書かれている、有名な聖ゲオルギウスが退治したドラゴンは、毒を吐くが火は吐かない。

マルタが退治したタラスクは、「燃える糞を撒き散らす」と言われているけど、これ英語版では確認できなくない?

タラスクは、レヴィアタンボナコンの子なのだが、ボナコンの特徴である燃える糞」が、日本語訳されるとき混同されたのでは。

といったところから考えると、5世紀くらいまでは「火を吐くドラゴン概念は薄かったが、

8〜9世紀から伝承として語られはじめて、1012世紀頃にはすっかり定着していたという感じだろうか。

なぜ火を吐くようになったのか?

候補1:サラマンダーとの混同

サラマンダーは、火をより大きく燃え上がらせる能力があり、火山溶岩の中に住んでいるという伝承もある。

ズメイや、ヤコブドラゴンは、吐く息から硫黄臭いがするといい、火山連想させる。

候補2:雷や隕石などの自然現象に由来

ドラゴンには「地を這うドラゴン」と「空を飛ぶドラゴン」の二種類のイメージがあるが、

蛇や蜥蜴からは空を飛ぶイメージしづらいことを考えると、隕石から連想には説得力がある。

候補3:「身体が灼けるような猛毒から「火」に転じた

古典的ドラゴンはやはり「蛇」「毒」のイメージであり、

そこから火を吐くように変わっていったことを考えると、これも自然解釈に思われる。

うーん、わかんね。

anond:20190408143752

追記

というか最初、つまりギルガメシュ叙事詩(フンババ)の時点で『その口は火で、その息は死』と形容されてる。強力な怪物が火や死を吐くのは有史以前からの常識で、「最初から吐いてたが記録に残ってなかっただけ」では - cider_kondo のブックマーク / はてなブックマーク

フンババの咆哮は洪水であり、彼の口は火を意味し、吐息はまさに死である」というのは単なる比喩なのでは。

まあ比喩として記述されたものが、後に「そのもの」として受け取られるのは、この手の伝説ではよくあることだけれども。

仮にフンババが火を吐くとしてもそれだけで「もともと怪物は火を吐くのが常識」というのは飛躍ではないかと思う。

2018-11-06

anond:20181106201258

うっせー。有史以前は記録に残す手段が無かったんだからしょうがないだろ!

日本神話とかは口伝で残ってるんだからそれがソースだよ!

anond:20181106200906

妹の人気が途絶えたことは有史以前より発生したことはなかったぞ。

今までも、これからも。妹は人気の存在であり続けるのだよ。

2018-10-18

anond:20181018162351

おれはフェミじゃないけどそりゃ無理筋っしょ。歴史上、男が女を殴った案件(またその逆)が一度もないのならばそれも通るけれど、実際にはすでに殴り殴られの相克存在するわけで。現在の殴り合いはその復讐連鎖の一部でしかないわけよ。起源をたどってもいいけれどそんなの有史以前の闇に飲まれるだけだよ?

気持ちわからんじゃないけれど「おれは殴ってない! 無関係だ!」っていう態度自体がすでに大きな暴力であって(なぜならそれは常に殴り逃げなので)、離脱は許されてないというのは理解すべきだよ。

まり現実としては殴り合いを続けるか、無抵抗に殴られるかのどっちかしかない。どちらの陣営もね。

2018-09-26

anond:20180926154924

それは有史以前に食していたのではないだろうか

2018-09-15

気に食わないものや思い通りにならないものに憤るのが習慣になると

その興奮が快感になってくるそうな

嫌なら見るなという理屈が鼻で笑って一蹴される理由がここにある

ある種彼らは、嫌いなはずのものに好きで接しているのだから

無論コレは有史以前から外敵を追い払うあるいは撲滅するために役立っていた人間本能の一つだけど

少なくとも日本ネット上では、これが役に立つ状況が耳たぶほどもない

絶望的に頭が悪い人たちもサイコパスソシオパスなのか

絶望的に頭が悪い人たち(anond:20180915001802)を利用する人たちは『サイコパス』や『ソシオパス』だと思うが、
絶望的に頭が悪い人たち自身も『サイコパス』や『ソシオパスなのだろうか?だから当人らに悲壮感が無いのか?

ーーー

・表面上は魅力的で口達者 > 当てはまらない
・自信満々でよく自慢話をする > 当てはまらない

ーーー

良心の異常な欠如 > どちらからと言えば当てはまる
他者に冷淡 > どちらからと言えば当てはまる
自分健康容姿を病的に気にする > どちらからと言えば当てはまる

ーーー

10代の非行 > 当てはまる
・幼少期からの異常行動 > 当てはまる

ーーー

・性関係の乱れ > 特に当てはまる
・短い結婚期間、多数の離婚歴 > 特に当てはまる
家族は「もの」でしかない > 特に当てはまる
寄生的な生活特に当てはまる
・同情心に訴える > 特に当てはまる
慢性的に平然と嘘をつく > 特に当てはまる
・人を操ろうとする > 特に当てはまる
無責任特に当てはまる
自分の行動を制御できない > 特に当てはまる
・行動に対する責任が全く取れない> 特に当てはまる
現実的な長期にわたる目標がない > 特に当てはまる

ーーー

あげて見ると過酷環境下に限らずこういう人そこら辺で見るなと思った

社会規範教育問題だとずっと思っていたが生得的な問題なのかも知れない

サイコパス生存に優位に働くと言う
皆が利他的な行動をしていたら種として滅びてしまうので、有史以前過酷環境下では必要特性だったのだろう
現代においても環境が原因で過酷環境下にある場合には、この特性が無いとどうにもならないケースもあるとは思う

おぎゃあと産まれたばかりの赤ん坊は誰も同じに見えるし、誰も幸せになるべきだろう
ただそれと同じくらいに、太古から特性を引き継ぐ人たちもいる事を忘れてはいけないのかも知れない

2018-03-26

anond:20180323162850

そうはいっても世界で(たぶん)唯一有史以前から単一王朝を維持(象徴的にだけど)してて、その上日本人社会はある種法律社会システム以前に社会規範があるというか、独自社会文化根付いてて、これはこれでけっこう貴重なことなんだと思うんだよね。民主主義社会主義っていっても、せいぜいここ100-150年くらいのものだし、現実アメリカヨーロッパ中国ロシア社会を見ても壮大な社会実験みたいで、どれも目指したい理想の完成形には見えない。日本の町の平和感は世界のどこの国とも比較にならないダントツトップなわけで。それらは国の形と無関係ではないと思うんだよね。

2018-03-23

歴史はなぜ繰り返すのか」疑問な君へ

俺も同じように疑問だったんだけど数年前やっと気づいたので、

もし君も同じ疑問を持ってたら助けようと思う。

 

結論から言うと、人間死ぬから

 

人間基本的性質、この場合脳の仕組みとか心の仕組みとかは変わらない。

人間には集合的無意識存在することを証明した有名な実験として、

ブーバ/キキ効果、Bouba/kiki実験というものがある。

これは色んな社会、年齢性別ときには他と交流のない未開の地域にて

丸い曲線とギザギザの直線とからなる2つの図形を見せた後に

「どちらがブーバで、どちらがキキか」と問うたところ、

98%で「曲線図形がブーバで、ギザギザ図形がキキだ」と答えが返ってきた。

これはいかなる言語体系でもブーバが丸い曲線図形で、キキがギザギザ曲線をイメージした解答が得られた。

 

まり人間の持つ、ハードウェアとしての性能は人種文化わず、実は一様にして同じなのだ

この状態有史以来、いや有史以前からずっと続いている。

そうすると当たり前の話だが歴史の中で同じような状況に同じ性質を持つハードウェアが置かれた場合

本人が意図せずとも歴史において過去あったことと同じことをなぞろうとしてしまうのだ。

何故なら、それが人間にとって最も自然な反応だからだ。

 

からこその「愚者経験から学び、賢者歴史から学ぶ」のだ。

歴史人間ハードウェアが引き起こす問題や失敗を既に体験している。

自分が歩いた道が誰のものでもないと思うのは幻想であり、実際は似たような、まるで同じ体験歴史は既に繰り返している。

からこそ多くの歴史を学ばない者たちは、過去歴史と同じ失敗を繰り返す。

心の未解明問題について脳という器官の特性についてのハードウェア問題物理現象確認できない意識についてのソフトウェア問題と分けられるが、

俺は人間寿命による経験という蓄積の消失人間ハードウェア問題と呼んでいる。

でも人間進歩してきてるのではないか、と君は反論したくなるだろう。

進歩しているのは人間ではない。

先ほど述べたように、人間ハードウェアとして経験性質を引き継ぐことができない。

いくらDNAに多くの情報記載することができたとしても経験を産まれ子ども転移させることはできない。

ところがソフトウェアである学問、つまりテクノロジー人間ハードウェア問題を超えて引き継ぐことができる。

そう。

人間文字発明したときから他の生物と全く別の道を歩み出す。

ソフトウェアとしてのテクノロジーは後世に伝え続けることができ、寿命がなく、永遠に進化し続けることができる。

文字として理論技術は残され、誰もがそれを参照・学習することができる。

誤りがあれば訂正され、さら合理的効率的革新的理論により進化を進める。

人間は既に生物的な進化を終えていて、進化テクノロジーに引き継がれた。

人間にとっての子孫とは、テクノロジー進化させるための、ただの薪に過ぎない。

 

からこそ、福沢諭吉勉強しろ、と言ったのだ。

人類の英知はまさに、テクノロジーのものを言う。

芸術もまた学問ではあるが人間集合的無意識において働きかけるものであるため、

時代を変えて同じような音楽絵画が溢れてしまうのは当然のことと言える。

コンテンツの発展は既に新しい感性の発達よりも

テクノロジーによる補助なしでは達成されないものとなってきた。

これも人間の心というハードウェア自体進化していない証左である

 

結論に戻るが、

人間は死を持ってして、経験という名のハードウェアとしての蓄積を終了させる。

歴史を学ばないもの人間集合的無意識に沿ったいつかの時代の誰かの失敗を繰り返す。

そのため歴史を学ばないものが大多数の社会は、また同じ過ちを繰り返す。

唯一、人間進化を代行してきたテクノロジーのみ、過ちを繰り返さず前に進むことが許された。

人間文字発明し、進化委託した瞬間から人間生物進化をしておらず、

故に歴史必然的に繰り返されるものとして記録され続けている。

 

しかし成長・進化しない人類という種によってテクノロジー自体妨害なしに進化し続けてきたとは言い難い。

またどれだけ優秀な頭脳を持つものが現れても死ねばそこでおしまいだ。

からこそ、AIシンギュラリティを引き起こすと信じられている。

人間ハードウェアとしての進化が終了し、テクノロジーは新しい依り代を求めている。

死なず、忘れず、疲れず、天才を超える頭脳を持つ。

テクノロジーは新たな考案者として、考えるAIを求めているのである

2018-03-05

anond:20180305182913

よーしじゃあその前の発言から追ってくね。

社会が「女性(だけの)保護」を目的として施策を打ったらばそれは男性には負担しかなく、そして今まで男性はそれに耐えてきた。

ここはちょっと具体例がよくわからないのでパス

有史以前から女性を外敵の侵略から守り食料を供給していたのは男性

その代わり子を産み守り育てたり畑を守るのも女性の役目だったから、そこは能力に沿った役割分担ってことでいいんじゃない

もっと言うなら、戦後女性選挙権が認められるまでは社会男性だったし、

それからしばらくも(家庭外の)社会男性が作ってきた。

それは女性庇護するというよりは、女性人権がなかったということだよね。

幾多の戦争で中心になって体を張ったのも男性

現代でも、自衛隊員ほとんど男性警察官も9割男性原発作業員も大半男性

戦争警察の件は省くとして、原発作業員はおそらく力仕事など女性に向かないからだろうけれども。

大変な職場で頑張ってくださっている方には本当に感謝しているよ。

逆に女性しかできない過酷現場というものもあるよ。

今も多くの世帯でメインの収入を担っているのは男性

これも女性が今までは家庭に入ることが多かったからだよね。

これからは変わっていくと思うよ。

震災の時に食料毛布が優先して配られるのだけは女性

これは体力のない者順にという意味で、お年寄り子供の方が先だったはず。

タイタニックが沈んだ時にもボートに先に乗れるのは女性。ディカプリオは死んだ。

これはさっきの有史以来の話もそうだけど、フェミニズムとかまだない昔の話だし、そこから男性感謝せよってこと???

そもそもの議題にあった女性専用車両すら、男性の慈悲によって作られ、運用されている。

これは確かに男性乗客の皆様のご理解の賜物だと思うよ。

女性男性が、そして男性を含む社会が守るのは当然のことなどではない。

私も女性にはもうすでに社会的強者弱者存在しているから、女性という理由で一辺倒に守られてしまうと、強者女性フリーライドということになると思う。

ただいかんせん、腕力ということでは女性弱者寄りの存在であるし、犯罪腕力でもってするものから

女性男性と同程度の腕力を持つようにならない以上、犯罪暴力などから弱者として、子供やお年寄りなど、女性より弱い者の次に守られなければならない場合が多いだろうと思うよ。

女性からの加害だとしてもね。

被害者がめちゃくちゃ腕っ節の強い女性などはその限りではない場合もあるかもしれないけど…

痴漢に関しては、正直私はそれなりに対処できるし、私自身には女性専用車両必要ないと思ってる。

けれども恐ろしくて声を上げられない女性高校生などまだ効果的な対処ができないかもしれない年齢の者、そういう人たちのためには心強いことだろうと思う。

から私は守られる女性側としてではなく、社会側の立場から弱者庇護する側として、必要なのではないかと考えている。

それと私としては、男性には私の父や夫、友人に会社上司や同僚が含まれるので、それらの男性には本当にお世話になっているし感謝しているし、

もっと言えばその他にも色々な方にお世話になっているから、男性というよりお世話になっている方々として、していただくことは何も当然だと思うことはないよ。

ただ、昔から男性女性庇護してきたのだから男性全体に感謝せよ、みたいな感じだと、はてな…?となる。

そして女性庇護すべき存在ではない!と言われると、社会的にはすでにそうすべきでない女性もいるだろうし、

痴漢暴力など腕力をもってするものに関しては、子供やお年寄りの次に守られるべき弱者寄りの存在であろうとは思う。

anond:20180305164051

元増田

弱者を守るのは社会であって男ではありません。寝言言わないでください。具体的に男がどう守ったんですか?答えられんでしょ。

2秒考えたらだれでもわかると思うんだけど、社会の分は男性

社会が「女性(だけの)保護」を目的として施策を打ったらばそれは男性には負担しかなく、そして今まで男性はそれに耐えてきた。

有史以前から女性を外敵の侵略から守り食料を供給していたのは男性

もっと言うなら、戦後女性選挙権が認められるまでは社会男性だったし、

それからしばらくも(家庭外の)社会男性が作ってきた。

幾多の戦争で中心になって体を張ったのも男性

現代でも、自衛隊員ほとんど男性警察官も9割男性原発作業員も大半男性

今も多くの世帯でメインの収入を担っているのは男性

震災の時に食料毛布が優先して配られるのだけは女性

タイタニックが沈んだ時にもボートに先に乗れるのは女性。ディカプリオは死んだ。

そもそもの議題にあった女性専用車両すら、男性の慈悲によって作られ、運用されている。

そんなことも分から増田にかきこんでいるのか。

女性男性が、そして男性を含む社会が守るのは当然のことなどではない。

男性を口汚くののしる前にそのことを考えるべき。

あなたの様なのを小児の意見という。かえって己を辱めるだけではないか

2017-09-12

https://anond.hatelabo.jp/20170912165744

増田が例として挙げてるの「近親相姦したい暗君」のパターンだけじゃん。

暗君そもそも集団利益を考えていないんだから

集団利益を考えれば他所に嫁がせたほうがいい」と諌められて素直に聞くなら苦労はないよ。

それこそ実際の歴史を振り返れば「近親相姦ダメとか誰が言ったんだよ俺はやるぞ」というのが暴君暗君テンプレだし。

というか有史以前の原始部族社会を想定しておきながら、増田が語る村長イメージが封建君主的なんだよなあ。

具体的に想像してみればいい。

「遠くの有力部族村長の娘との結婚を所望して村人は喜んでるけど村長個人的事情で断ろうとしている」

となれば近親相姦禁止を持ち出すまでもなく村長は一発で追放でしょ。

anond:20170911141152

それなら答えられるぞ

昔の村とか、未開の部族とかなんて、集落は5家庭でみんな親戚、とかそんなんなわけじゃん

で、その村だけで採れるものには限りはあるし、敵対する勢力があれば同盟関係の村があった方がいい

というわけで、物々交換のためや軍事同盟のために、近隣の村とも親戚関係を作り、外交官としてパイプになれる人物がいた方が、双方の村に利益があるわけ

そこで、若い女を仲良くしておきたいよその村に嫁がせることが最適解になる

それなのに、村の若い女を全員、村長が嫁にしたらどうなる?

村長はウハウハだけど、集団としての利益はあるか?

から集団利益を考えると禁止にするんだよ


ここで問題になるのが、どの範囲集団と考えるか?だ

天皇家藤原家なんかで考えると、同盟関係でありたいよその集団なんて存在していなくて、唯一絶対天皇の妃となって、次代の天皇の母、祖父となるのが究極目標になる

しかし、もともと天皇の妃を狙える位置、というのもある程度近い位置、つまり姻族含め親戚でなきゃいけないので、勢力の隆盛に合わせて、権力闘争藤原家天皇家内での近親相姦バトルになってくる

これは、大きなくくりでいう親戚内が世の中全体で、もっとさな親子間程度をひとつ集団と考えた動きをみんなしている、ってことになるな

そして、この王族血縁っていう利益をよそに渡さないために、むしろ近親相姦奨励したりするんだ


そういう特殊な閉鎖的な関係を除き、生きるか全滅するかの200人レベル集団が点在している場合、どう考えても集団内で若い女を消費するのはもったいないって考えが出てくる

よその村と協力がないと全滅しかねないからだ

もちろん集団内での派閥闘争もあるから集団内で消費される女もいるが、親子間や兄弟間で消費されるのは無駄

つうわけで、自然近親相姦禁止するしきたりのようなものが出来上がるんだ

有史以前からの話だから、明文化された法律以前に、村のしきたりみたいな感じから始まっている

時代が進めば法律禁止されるわけだけどね

はっきり決まりにしとかないといけないのは、性豪のバカ若者が村にいたり、腕っ節だけのバカが村での権力を握った場合、そういうしきたりがないと村の勢力が落ちるから

集団内での女の消費は、集団としてのメリットはないけど、嫁をたくさん貰える集団内でハーレム作れる男にとって個人レベルではメリットから

集団への不利益だけで、誰もしなくなるってほど簡単な話じゃない

面白いのが、民族集落ごとに、禁忌とされる関係が異なるという点

線引きが近いところ遠いところあるし、母方のこれはいいけど父方のこれはダメとか、複雑なルールのある部族もいるそうだよ

2017-08-10

SNS少子化拍車をかける

SNS簡単ママ友ママフォロワに愚痴やら不満を言えるようになったおかげで、

有史以前から個々人が抱く「子育てはめちゃくちゃ大変」と認識SNSに広がる→

「うげっ!こんなに大変なら子供作らない方がマシじゃん」とSNS中心に世論が醸成される→

少子化拍車をかけている

と思う。そもそもそんな情報が手に入らなければ、未だに馬鹿の一つ覚え or 喉元過ぎればなんとやらで子供産めよ増やせよの世の中だと思う。

故に、SNS事業を手がける企業に、子育て支援法人税を導入すべき。

2017-07-18

名前はだれのもの

名前は「親」のものではない。では、「子供のものか? と言えば、それも違う。

「親が子に贈る最初プレゼント」みたいなお花畑理論を聞かされると、心の底からぞわぞわするんだが、

あいうそれこそ「何の根拠もない」名づけ理論を信じてる人間がいることに、時々当惑する。

増田、アンタのことだ。

あなたの所有物」に「あなたが名づける」なら、それはあなた自由だ。その名前が名づけられるものへの贈り物だといいたいならそう言っても別に構わない。

だが子供は「あなたの所有物」ではない。あなたとは別の人格を持ち、別の人生を送る他人だ。訳あって、たまたま10数年共に暮らすことになった、他人だ。

そこを勘違いした人間が、お花畑理論を振りかざし、子供に関わる周囲の人間に噛みついて回る迷惑毒親となる。

名前というのは、これから子供が生きる人生社会の中で出会う人と共有される、一つの符丁だ。人間名前とは、何をおいてもまず「社会のため」に必要ものなのだ

そこでは親の「想い」とやらはどうでもいい。

例えばアンタが飼い犬に「タウマタファカタンギハンガコアウアウオタマアポカイフェヌアキタナタフ」とか名付けても、別に誰もあなたを咎めはしない(馬鹿にはされるだろうが)。だが、それを子供名前にしようとしたら、全力で止められるだろう。役所の受付ですら書類を突っ返すかもしれない。そこにどんな「親としてのご立派な想い」があろうと、そこはくつがえらないんだ。それを忘れてはいけない。「社会にとって利のない」名前社会によって拒否されるんだ。

これは、字画判断がどうという話をしてるんじゃないぞ。俺が問題視してるのは、何をおいてもまず嫁さんに対するアンタの態度のことなんだ。

想像するに増田は、字画判断かいう「非合理的もの」が、自分人生にまつわってくるのが「嫌」なんだろう。だが、アンタの「嫌」という感情だって十分に非合理的だ。いい年をして、理で全てを説明できると思ってるなら大馬鹿を通り越してお目出度いとしか言いようがない。自分「理」に縋る「理由」はなんだ? 「理」のないものに身をゆだねる不安の源泉は「理」説明されるべきことか? 全てを理で説くならそもそも「こっちがいい/悪い」などという「価値」の概念こそ真っ先に捨てるべきじゃないのか? だが、あらゆる「価値概念放棄したら、人間としての健全社会生活など送れないだろう。

人間は、「理」以外の価値も持たなければ生きていくことはできない。絶対価値規準など、ない。だから重要なのは他者価値規準を知り、認めつつ、共同の価値規準を創出していくという姿勢であり態度なんだ。増田がすべきことは、嫁さんが「画数にこだわる」って知った時に、「なるほど、俺にはそういう発想がなかったけど、そういう発想をするひとがやっぱりいるんだ」と気付いて、「なるほど分かった。じゃあ画数のことも考えながら、いい名前を付けることにしようぜ」っていうことだったはずだ。

なのに、「画数?は?」みたいな対応をした、と。馬鹿か? 馬鹿なのか? 社会ゼロの子供か? 小学生ももう少し相手への気遣いをするぞ?

今すぐ嫁に謝ってこい。そもそもそんな「どっちでもいい」ことで、妊娠中の嫁の負担やすことにそれこそ「何の意味がある」んだよ? 人間社会で、メスの仕事が子を産むことなら、オスの仕事はメスが安心して子を産める環境作ることだと有史以前から決まってるだろうが。名前など、一でも二でも、分かりやすく周囲が呼びやす符丁でさえあれば子は育つんだ。それよりもっと大事なことが目の前にあるだろ。

不合理に満ちた世の中で、誰でも不安で何かに縋る。それは別に悪いことじゃない。ただ、少しばかりの寛容さと、だまされない賢さ、それは必要だ。姓名判断とやらに何十万何百万をつぎ込むのは、それは愚かな行為だ。だが、画数を気にするのに、現実にどんなデメリットがある? 小さいことでいちいち嫁の不安をため込むと、そのうちとんでもない宗教にハマったりするぞ。夫の支えというのは、そのくらいプライスレスものなんだぜ。

https://anond.hatelabo.jp/20170717145213

2017-05-17

http://anond.hatelabo.jp/20170517142900

大和撫子」は有史以来存在せぬ、有史以前もじゃ

萌えキャラと同じアイコン、だから早く諦めろ。

スタバ姉ちゃん可愛いけどなーなりたくはないけど。

2016-10-03

ホームベーカリーが普及してないのにパンツクッタコトアル???

ホームベーカリー(以下HB)が普及した今だからこそ「YES」と答える人も多いだろうけど、

HB普及以前の前世紀にこの質問をしてもさあ、


パンツクッタコトアル?」

「え?ないよ。なんで?」

「い…いや、なんでもないけど…。」

みたいな不完全燃焼な会話で終わりでしょ?

なんでこの質問有史以前に作られたのか甚だ不思議しょうがない。

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