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人気漫画【推しの子】が大人に激しく刺さるワケ | ゲーム・エンタメ | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース
minoooon525 2023/05/02
このブコメを読んで正直自分は「そんなことなくね?」と思ったが、皆の意見を聞いてみたい
ちなみにminoooon525 氏による過去のブコメを読むと上の発言と矛盾すると思われるものがあったのでそれについても聞いてみたい
※ちなみに彼は過去のブコメを読む限りエロゲーマニアで半アベガーという好感の持てる一般的な人間であると思われ、逸汎人であるはてなーとは感性が異なる可能性はある
minoooon525 2021/04/28
おい!はてな民、最終回が酷すぎた長編漫画の思い出語って行けよ
minoooon525 2022/10/27
ダイヤのAの作者がどんな考えであの最終回にしたかを考慮してもクソつまんねえもんはクソつまんねえだよな。言い訳にすらならん
在日コリアンの苦難、米ドラマに 「パチンコ」話題呼び放送映画賞:朝日新聞デジタル
minoooon525 2023/04/26
『バンドリ!』『アイマス』『ラブライブ!』に続く、新たな二次元×声優のヒットは22/7(ナナニジ)? 新規性と魅力を考察 - Real Sound|リアルサウンド
minoooon525 2021/07/21
ラブライブ!のポスター批判したら… 虚偽申請で凍結:朝日新聞デジタル
minoooon525 2020/05/06
浦田カズヒロ先生「100日後に打ち切られる漫画家」が妙に生々しくて胃を痛める展開の連続で思わず見てしまう人たち - Togetter
minoooon525 2020/03/30
つかさ
そういうのを、「アタラシイコトヲハジメラレナクナル」とかいってごっちゃにするなよ
「Google Street View」は車道から撮影したものを公開するというものだ
クレームに対しても、きちんとモザイクを入れる等の対応を表明し行った
そこで、作ってやる、待ってろ、と言って作られたソフトが
「Google Street View」みたいな「事業としての挑戦」と比べられるのおかしいだろ
しかも
擁護する奴は、界隈の悪意性を漂白して、幇助は無理筋ってみんな言うが
使ってる界隈はそう思ってるのに、弁護士でもない第三者が、あれは価値中立なツールだったみたいにいうの、いっそ滑稽だよ
ジャンピング土下座して匿名性を剥奪する抑止ツール作ってないとおかしい
アレを引き合いに出して
きちんと語り継いでいかないといけないと思っている
ハックルさんに新規性があるものを作らせてはいけない(面白いけど)ということが再確認された今日この頃。
色々なハックルさん評が入り乱れるが概ね方向性は同じで総合評価で賛否両論はあっても個別の人物評は似通っている。
その中で「もしドラだけは本当に成功した。ゲームの歴史みたいに嘘も言ってない」という評価がある。
それは環境でも慢心でもなく、「もしドラはドラマ要素が追加されただけで、内容は元ネタをそのまま使っているから」である。
もしドラのドラマ要素にしても、野球部に有望な参謀がついて「また俺なんかやっちゃいましたか?」して成功させるというテンプレートをなぞっているだけで、これまた新規性があるとは言えない。
新規性のないものと新規性のないものを組み合わせて、単体での新規性はないが組み合わせとしては新規性がある気がするものを作る、これがハックルさんの必勝パターンなのだろう。
Twitterでよく流れてくる「女性は男性から抑圧されているから自由になろう」みたいな漫画が苦手。この前流れてきたイスラムの女の子の話とか主張が全面的に出ていてストーリーがスッカスカなのがすごく気になった。こういうの説教臭いって言うんだと思う。
あと仕事一筋で恋愛できないズボラ女が家事やってくれる理解のある彼くんとか彼女ちゃんに助けられるみたいな、逃げ恥みたいな恋愛が最高でそれ以外の生殖行為は愚かしいみたいな持ち上げられ方する奴。
他に九州から都会に出て法事かなんかで家に帰ってひたすら親戚ディスる漫画(結婚して子供産まんと行き遅れるばい!みたいな無神経な親戚が出がち)とか、毒親から逃げて真実の理解ある彼くんと子育てしてますみたいなのもありがちなのに何度も何度も擦ってくるのは何で?新規性ないの?
いっそ「地元最高!」くらい突き抜けていれば気にならないのに。
第一線の数学者は他のどの科学者よりも難しい問題を達成していると思うのだが、特に現代数学において誰でも知っているというような人が全然いない事実にひっかかるものがある。
マルクスみたいな経済学者とか、ファーブルみたいな生物学者など、他の学問には数学者よりは高度なことはしてないというのに一般の人でも知っているという人がいるのに、これはどういうことなのか。
数学者で有名といったら、せいぜいピラゴラスといったような古代人、現代数学でいえばリーマンとかラプラスとかだ。
これらの人物に共通するのは小学校から大学までのカリキュラムで扱う理論や公式の発見者かどうかということに過ぎない。
特に古代人が考えたことは現代から見れば易しいものなので義務教育の内容に採用されやすい。だからあのへんの時代の人物は数学者でも知名度が高い人がいることになる。
ようするに言いたいのは数学者の有名無名はただ単に教育制度次第になっているということだ。
高度な現代数学でも岡潔や望月新一と有名な人はいるじゃないかと言う人もいるかもしれないが、あれらが有名なのも、実績の価値が正しく一般の人にも伝わって認知度が高まってきたというものではない。
岡潔なら統合失調症だったなかで戦時下を生き抜いたこと、望月新一なら自分のコネを使って論文を掲載させたこと。
そういう生き様のセンセーショナルなところがもっぱら庶民の関心を呼び起こしているに過ぎないのだ。
ポアンカレみたいな「未解決問題を解いた人」というわかりやすいラベリングを持った人間が有名なのも本質的には上述したのと同じところにあるのだろう。認知している人の多くが業績の概要と価値だけでも正しく理解してるか疑わしい。実績の内容に関する関心ではなく、未解決問題を解いたという一点で共通認識化されているように思われる。
ちょっと単純化が過ぎるかもしれないが、数学以外の科学者の土俵はもっぱら実験や実証のなかにあると思う。
実験により、何かをしたらこういう結果が出た、という目に見える因果関係を把握する力さえあれば誰でもその分野の大学者になれる素質はあるとさえ言える。
もちろん実際に誰もが知ってる大学者になれるかどうかはもちろん有用な結果をはじき出す実験にこぎつけられたらという話になるが、どちらにせよ彼らは比較的易しい具象の中で研究対象と戦っているということには違いない。
一方で数学ときたら現時点で新規性のある高度な数学論文をしたためるには何万ページという論文が語る知見に対する確かな理解の積み上げが無いと無理だろう。
理解する過程においても数千ページ目にあたるある論文が理解できないとなったときどこに理解の欠落があるか今まで読んだ論文から探しなおさなければならないわけである。
理論の構造自体も目に見えるようなわかりやすい因果関係から成っているのではなく、抽象的なわけだから、知識の欠落がなかったとしてもその理解は純粋に難しい。
しかし高度な論文の作成はその先にあるのだからこの数学の研究というものは果てのない作業なのである。
望月もそのような作業を経てついにはIUTの創出という高みに至ったはずである。
そして望月以外にも当然少なくとも月ごとには相当数、同程度の高みから発した高度な内容の論文が公開されているはずだが彼らの中から一般人にも有名という人は現れて来ない。
ようするに現代数学者は天才である。あの手の分野の数学者は受験勉強を全くせず東大に悠々と合格するような人間がざらであるらしい。もっとも現代数学者の絶対数が少ないのだから「ざら」というのは数ではなく割合の問題なのであろうけど。
そんな数学よりは高度な理解力を要しない学問では誰からも知っている人が出てきているのに、現代数学ではせいぜい専門家の間で有名という程度にしかなれないというのは理不尽なことだと思う。
私にはそれほどの数学の才能はないので数学ができる人間に対して劣等感がある。
だから劣等感の元凶である彼らにはせめてとことん栄誉ある立場にあってほしいのだ。
彼らすら大して評価されないのでは彼らと違って能力のない私には何も救いがないではないか。
あるいはこういうことなのかもしれない。既存の知識を理解するという力と新しい見識を発見する力というのは異なるものなのではないかと。
つまり数学の功績は高度な理解力の上に成り立っているものだけども、高度な理解力をもった彼らがもし別分野を志していたとしたら果たして一般の人の記憶にも残る大学者になれていたのかどうか。
現代数学者にチョムスキーの生成文法もその理論を考え出した背景にある理論も含めてその気にさせれば簡単に理解してしまうだろうが、かといってもし彼らがチョムスキーと同時代に生まれて言語学を志していたらチョムスキーを出し抜いてあのような文法理論を創造できたのだろうか。漢字の世界で白川静みたいな業績を打ち立てることができただろうか。丸山真男のような戦後思想史の巨人になれただろうか。
理解力は結局脳の処理能力という量的な要素に還元されるものに思われるが、理論の創造というものはどのような分野にしても大胆なひらめきがものを言い、これなるものは量化などもちろんできない、一種の特殊能力なのではなかろうか。
数学はむしろ知見が論理的に緻密な状態でに充実に蓄積されているのに比べ、他学問の知見は相対的には雑駁というかなんというか、とにかくそういったところから新しい理論を考え出すのには数学以上に何かアクロバティックな部分が必要にも思える。
コペルニクスだったかは海上の水平線で帆船が見えなくなる事実から地球が丸いということを歴史上最初に悟った人物らしいが、彼のような発見は彼より多くの知識を持った、つまりは理解している天文学者には出来ないはずだと朝日新聞の轡田だかいう論説委員の本に書いてあったと思う。
本当だろうか。現代数学者がその時代に生まれても無理だったのだろうか。でももしそういう発見という意味での知性が特殊な力なのなら、ここは素直に認めておくべきことなのかもしれない。数学者こそ昔の偉人が発見した事実をベースに論文をしたためることができているだけで、彼らがいなかったらならば今のような仕事はまるでおぼつかないものになっていたかもしれない。
ただしコペルニクスやデカルトみたいなあの手の啓蒙思想の潮流で偉人扱いされている人がもしも今生まれたら、史実でその発見をしたときのインパクトと同じぐらいのインパクトを持った発見ができるのだろうかという疑問はある。
しかしできないのだとしてもそれは役割の問題なのだということになるんだろう。コペルニクスにはその特殊能力をもって彼にしかできない発見をしたのだし、現代数学者も彼らの理解力をもって高度な論文を発表している。それでよしとするべきことなのだろうか。19世紀から20世紀のイギリスでは優秀な人間は天文物理学に行くものだという常識・慣習があったのも引っかかる。
学者としての優秀さというのは最終的には理解力のような計り知れるものではない、ひらめく力・直感のセンスで決まると認識があった証左なのだろうか。
そうであるなら私についてもまだまだ人生これからで、数学以外の学問でひらめきを発揮する道はあるのかもしれない。
そうだとすれば劣等感を抱く前提条件も崩れ、数学者が一般に知られていようといまいが気にする問題ではなくなってしまうはずであるけれど、ここまで掘り下げて考えてしまったので、まあそれはそれとしてこの疑問は解消されるまでことあるごとに私を悶々と悩ませるには違いない。
まあそれでも既存の知識を理解することにおいては絶大な才能があること、つまり学者がどんな難解な理論を提唱しようがたちまち理解してしまうという意味で、あらゆる人に対してタイムラグはあるにしてもそれを無視した見かけ上はどちらの方が物事をよく理解してるかということについては遅れを取ることがないという点にはやっぱり羨やむものがあるかな、ノー勉で東大に受かる素質というのも素直に?率直に?畏敬の念に駆られてしまう。
dorawiiより
大学教員側の人間です。マジレスすると、ちゃんと提出して発表していて、形式要件が揃っている場合、落とすのも結構教員側にもリスクあるんですよ。
まず、成績は1人の教員の単独で出すことにはなっていないのが普通で、副査の先生を付けていたり、専攻内の会議で決まります。
授業も毎回欠席していたり、不可ばっかりでたまに可があるような学生なら「この学生を落とします」と言っても他の先生も疑問に思いません。
が、授業では特に問題なかった学生の場合、研究や論文だけが特段にダメな学生という事になります。そうすると、他の先生も「本当にこの学生の研究はそんなにダメなんですか?私の授業では問題なかったんですけどねぇ」ぐらいの事は聞かれます。
博士論文なら研究成果が求められますが、修士論文は、あくまで研究の「練習」ができたかどうかを評価する場なので、研究成果が悪くても、例えばサーベイ不足で後から先行研究が見つかって新規性が完全になくなってしまったとしても、それを理由に落とすことは基本的にはできず、修士の単位は認めなければなりません。研究の練習ができたことは事実だからです。大学に何学部があるかによりますが、例えば数学などの分野では修士レベルで数学的に新規性のある発見をすることが困難である分野もあります。基本的に修了は大学全体の事項なので、特定の専攻だけ修了の基準が著しく厳しい(絶対に新規性がないと修士を修了させない)という事は、普通はないようになっていると思います。
まぁ、指導教員が「この学生は絶対にダメなんだ!」と強硬に主張し続ければ落とせるようになっているとは思いますが、そうすると、他の先生に「この学生との間に何かしら個人的なトラブルがあったのだろうか…?」と勘繰られたりします。副査の先生がついている場合は、副査の先生としても、「何もしなかったら仕事しなかったことになって、万一ハラスメント案件になったときに厄介だから、とりあえず、事情ぐらいは聴いておくか…」と、「なんでできなかったの?」みたいな聞き方で後から直接学生に質問するかもしれません。
修士の場合、研究や論文がダメな学生を落としても、教員の側としても特に得はないし、リスクばっかりです。なので、普通は認めてしまった方が得策…という判断になると思いますよ。
おかしいじゃん!
とっくにEPICとかで配られているようなゲームも入ってるしよっぽどの新規でもなきゃ意味がないよ。
そもそも新規に薦めるにしたって画像の一つも貼らないしセールページに直接飛べるようなURLもない。
ただゲーム名と値段を列挙して愚にもつかない説明文をつけただけの増田がなんでこんな伸びるんだよ!?
まあ結局ブクマ数なんて記事の面白さと何の関係もないってことだよね。
絵文字にパンティーつけてるだけの増田がホッテントリに入ったことさえあるぐらい皆内容なんてどうでもいいんだ。
2chの粘着スレが話題の重要性よりも叩きやすさに比例して伸びるみたいに建設性のかけらもないたった100文字のコメントの入れやすさで決まるんだよ。
それだけじゃなくて「何か人気のまとめ」っていうだけで何も考えずにブクマする虫みたいな奴らだってブクマするんだから一度伸びたらガンガン伸びるよな。
はは……こんなの気にして俺って馬鹿みたいだ
そもそも他人の評価なんて実際にはクソほど当てにならないって分かりきってるじゃん。
ゲームのレビューなんてまさにそうで、昨日まで非常に好評だったゲームが無料配布された途端に見る見る数時間しかプレイしてない連中からアンチ票入れられて直近評価はボロカスになるのなんてよくあることだ。
そりゃそうだよな本来リーチするはずのなかった層がやってきたらそりゃ評価なんてしないよ。
世界一売れているマックのハンバーガーだって評価しているのはあんまり金がない社会のロングテール層であって、ちょっと小金持ちのヴィーガンや大金持ちのブルジョアにレビュー頼んだら犬の糞みたいに扱われるんだ。
不特定多数に広まればそれだけ合わない人間からの辛辣な評価を受けるし、そうして辛辣な評価を与えた側だってわざわざ出会わなくてもいいものに時間を使ったことを悔しがってるものさ。
そう考えてみれば実際には帯にも襷にもならないような中途半端な増田書いて伸ばしちまった奴も読んじまった奴も可愛そうなもんだよな。
幸せなのはSTEAMセールって文字だけ読んで好きなゲームの話だけコメントしてとっとと飛び去ったイナゴみてえなもんだがそういう生き物自体がそもそも可哀想とも言えるんだから皆が皆それぞれに可愛そうじゃねえか。
あーそのとおりだ半端な増田で伸びるなんてコレほどLOSE-LOSEなこともねえもんだよ。
全くそんな不幸の渦中に押し込められちまった例の増田の筆者が可愛そうでならねえよ。
まあちょっとばかし伸びすぎて変なアンチコメントもついちまったが概ね「届くべき相手に過不足無く」って感じだ。
グーグル検索で無意味にかかってくる「いかがでしたかブログ」みたいに必要もない相手の前を無意味にちらほら横切るような下品なネットの漂流物にならずに済んだってもんだ。
いやーそう考えると実に俺は幸福だな。
それに比べて本当に不幸な増田もいたもんだ。
同情するぜー
デビッド・ライス氏と白饅頭氏が互いを批判する文章をブログ,SNS上に投稿している。しかし,以前からこの両者の発信する文章を読んできた私としては,両者の主張は根本的なところで対立はしておらずむしろ同じ方向を見据えて書かれているように見えた。
ではなぜ,ライス氏と白饅氏は対立するに至ったのだろうか。結論から書けば,両者は主張の内容は近しいものだが,その主張をどのようにして一般に発信するべきかという点において大きな価値観の相違があった。その相違にばかりに注目し批判を繰り返した結果,現在の不必要な対立を生じさせたと私は考える。
両者は互にレッテルを張り合い,主張をよく確かめずに感情的な言葉を投げ合っているように見える。しかし,ライス氏と白饅頭氏は現代の言論界において重要な役割を担っており,こんなところで格を落とし合っている場合ではない。
実際に両者がブログ,SNSに投稿した文章から,なぜ不毛な対立が生じたのかを見ていこう。
ライス氏は2022年11月2日,自身のブログ「道徳的動物日記」に,『「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターについての雑感』というタイトルの記事を投稿した。その中で,氏は白饅頭氏の言説について
“弱者男性論者たちはアカデミシャンではなく、コンプレックスや差別を煽ったうえでnoteやYouTubeで言動を売って稼ぐ「商人」だ」”
と批判した。
弱者男性論者である白饅頭氏がアカデミシャンではないというのは事実だ。彼は学部卒で,大学等には属さず個人で発信を行っている。「商人」というのもやや悪意のある表現ではあるが,noteや書籍を販売しているとい点では間違った表現ではない。
だが,アカデミシャンでないことも「商人」であることも,白饅頭氏の論を誤りだとする根拠にはならないはずだ。ここでライス氏が批判しているのは言説ではなく,白饅頭氏の立場と手法だ。氏の言説が誤りだと主張するならば,具体的に彼の文章を引用するなりして,どこがどう誤りなのかを論理的に説明するべきだろう。
また,ライス氏は2021年4月3日に現代ビジネスに『「フェミニズム叩き」「女性叩き」で溜飲を下げても、決して「幸せにはなれない」理由』という記事を寄稿した。その中で,
“弱者男性論でおこなわれているのは、「女性」(または「フェミニスト」「リベラル」)という属性を仮想敵にして、自分たちのつらさの原因はすべて彼女たちに責任があると主張することで、弱者男性である読者たちの溜飲を下げさせるための議論だ”
と書いた。ここで批判されているのは“溜飲を下げさせるための議論だ”とあるように,弱者男性論の主張する内容ではなくその目的だ。もちろん,その弱者男性論によって留飲を下げている男性も少なからずいるだろう。
しかし,それが決定的に弱者男性論を否定する根拠になるだろうか。卑小な目的で立てられた論であろうと,それが誤りだと証明するには論を構成する根拠や理論についての誤りを指摘するべきだ。
上記のように,ライス氏は弱者男性論を批判しながらも,その批判内容は専ら論者や読者の問題を指摘することに終始し,弱者男性論を構成する根拠や理屈についての矛盾を殆ど指摘していない。
ライス氏は上記の記事の中で,弱者男性論がある程度は妥当であることを認めてすらいる。しかし彼はその妥当性を認めながら,それが社会に与える悪影響のみを強調し,弱者男性論をこき下ろしている。これはややバランス感覚に欠けた主張だと言える。
なぜ彼はこのような一方的な主張をしたのか。それは,彼がネット論客と呼ぶ者たちによる弱者男性論が盛り上がりを見せていたからだ。ライス氏は先ほど引用したように,ネット上で学位を持たない者が政治的な主張をし注目を集めることに対し強い拒否感を持っている。彼からすれば,学位を持たず大学にも属さない者の発信する政治的主張はSNS上でフォロワーに対してアピールするだけのものにすぎず,学術的な裏付けのない稚拙な主張に過ぎないようだ。
たしかに,ネット上で政治的発言をするアカウントの発信する内容は仲間内に向けてのアピールに終始しがちな傾向があることは否めない。
しかし,白饅頭氏の発言のほとんどは客観的な妥当性を意識しているものだ。彼のどの主張にしても,必ず明確な根拠を示しながら筋道を立てた発言を行っている。弱者男性論にしてもそうだ。
SNS上には白饅頭氏と同様にアンチリベラル的な主張をするアカウントが数多く存在し,数万のフォロワーを獲得しているものもいるが,彼ほどの存在感と影響力を有している者は他にいない。それは,白饅頭氏の発言する内容がアンチリベラル層だけでなく,中立・一般層にたいしても説得力を持っていることの証左と言えなくもない。
ライス氏は白饅頭氏のTwitterやnote上での発言を批判している。ライス氏によっては,SNSのような誰でも発言が可能な空間では論理的に正しい意見よりも大衆の感情を煽る意見の方が支持を得やすい。だから白饅頭の主張は誤りであるにも関わらず支持されるのだという。
しかし,白饅頭氏が発言を行っているのはTwitterやnoteのような誰もが発言できるメディアに留まっていない。現代ビジネス,プレジデントオンライン,BLOGOSといった,中立性を保ったある程度格式のあるWEBメディアにおいてもその主張が掲載されている。これは,彼が一般メディアからもある程度の評価を獲得している根拠であり,仲間内に向けて偏った発信ばかりをしているというライス氏の主張を否定するものになる。ちなみに,現代ビジネスにはライス氏も寄稿している。
ライス氏は学術的な背景のある言説を至上のものとし,ネット上での言説を程度の低い物と見なす価値観を持っているようだが,これは偏った価値観だろう。
ネット上では素人の発言が可能だが,それに対して専門家が批判を加えることも可能なのだ。生半可な言説では,素人がネット上で自らの論が正しいと広く認めさせることは,実際のところかなり困難だ。ネット上で政治的主張をするアカウントのほとんどは仲間内で価値観を確認し合うことしかできないのが現実だ。
そんな中で,広い層からの支持を集め,書籍を出版するまでに至った白饅頭氏の言説は,一考に値するものであると判断されるべきだろう。たとえ学位がなくとも。
それに,学術分野での肩書を持つ者の発言が必ずしも正しいとは言い難くなってきているのはライス氏も理解しているはずだ。実際に,彼のブログでは大学に属する研究者の著書や発言の誤りを指摘する記事が多く書かれている。
ライス氏は,ネット論客の主張は仲間内へのアピールばかりで発展性も新規性もないと言うが,学術の世界ではそうでなはいと言えるだろうか。学術界でも,特定のコードに反する内容の主張が正当な理由なしに発表を拒否されるという事例が少なからずあったはずだ。
ライス氏は学術的であることを重要視しているが,それだけを至上のものとし,そうでないものを見下すような態度はそれこそ閉鎖的で彼の指摘するネット論客の悪い特徴と同じだ。
2022年12月20日,白饅頭氏はライス氏のツイートを引用リツイートしこのように書いた。
“社会正義の総本山アカデミ屋を称揚する奴がいうのマッチポンプ感があって草”
たしかに,社会正義を定義しがちなアカデミア出身のライス氏が,社会正義に疑問を呈する内容の本を紹介するというのはやや疑問を生じさせるものかもしれない。
しかしながら,ライス氏は普段からアカデミアの主張する社会正義について無批判だったわけではない。彼のブログを読めばわかることだが,学術的な地位のある人物の著書についても内容に疑問を感じる点があればしっかりと指摘をしている。
ライス氏はアカデミアを重要視こそしているが,かといって盲目的に信奉しているわけでも無い。
“いやだから、君のような人文アカデミア礼賛ネット論客が「露悪的なおもしろさ」とか語るのダブスタもいいとこでしょ。”
白饅頭氏はライス氏を“人文アカデミア礼賛ネット論客”と呼んで揶揄している。これは,ライス氏が人文アカデミアについて批判的な視点を持ち合わせていることを無視した発言だ。
“インテリの本って普通に読みにくくて面白くないという根本的問題があるんだよな。
おもんなくてわかりにくい文章を書いているだけの分際で「高尚なことをやっている」とのぼせ上がっている奴らの商売が破綻するなんて当たり前でしょ。
「本当に頭のいい人は一般の人でもわかりやすく説明する」みたいな論調には与しないまでも、かといって「複雑なものを複雑なまま理解するのが知性だ」みたいなのも、インテリの自惚れが含まれていないわけではないだろう。“
これは名指しこそしていないが,ライス氏の著書に絡めた発言ととることができる。たしかに,ライス氏の著書は硬い文体でやや学術寄りの内容でもあるため,読むために労力を要する。
だが,ライス氏の著書はより厳密な内容で社会について論じたものであるという点から,白饅頭氏の著作よりも優れていると言える。本自体の売り上げで言えば白饅頭氏のほうが圧倒的ではあるが,それは彼の知名度と,内容の易しさによるところが大きいだろう。ライス氏の著書は本人の知名度も低く,厳密で硬い内容であるために気軽に手に取れる本ではないものの,より厳しい視点を持つ読者にとってはライス氏の方が優れたものとなるはずだ。
白饅頭氏は難解な内容について“インテリの自惚れ”と言っているが,これはただの暴言だ。ライス氏の著書が難しい内容となっているのは,学術的な視点からより厳密に理論を展開しようとしているからであり,アカデミア出身としての自負心と責任感によるものだろう。アカデミアを腐したいあまり,不適切な言動をしてしまっている。
“ 世間知らずのインテリくずれがパソコンカタカタで俺に勝つなんて甘い。フォークリフト乗ってから出直せ。”
“世間知らずのインテリくずれ”とは,おそらくライス氏のことだろう。しかし,ライス氏は大学院を卒業した後企業勤めやフリーターをしながらブログを執筆していたため,白饅頭氏の言う世間知らずは根拠のないレッテル張りだ。インテリという言葉には明確な定義がないためはっきりとしたことは言えないが,少なくともライス氏は修士課程を卒業しているという点で学部卒の白饅頭氏よりも学術的な視点でのアドバンテージがあることは確かだろう。インテリくずれという揶揄も,適切な発言とは言い難い。
白饅頭氏はライス氏を頭でっかちで世間知らずな,大衆の苦労など知らない嫌味なインテリなのだと思い込んでいる節があるように見える。
しかし,ライス氏のブログを読めばわかることだが,彼は社会に出て様々な苦労や葛藤に出会い,しっかりと現実を見据えたうえでその経験を活かしながら発言をしている。決して白饅頭氏が言うような,苦労知らずや頭でっかちではない。
白饅頭氏はライス氏のブログや著書に関して,“つまらない”や“わかりづらい”,“売れない”と評している。たしかに,ライス氏の硬い文体は読む人によってはつまらないと感じるかもしれない。だが,社会について論じる以上は厳密かつ真剣な文のほうが望ましいというのも,一般的な考え方ではある。ライス氏の文章はライトな読者層にとってはつまらなく感じるかもしれないが,言説に対してより高い基準を求める読者にとっては大いに満足のいくものであるはずだ。
白饅頭氏はより広く読まれることを目的としだ文章を書くため,その内容を可能な限り平易なものにしている。彼からすれば,ライス氏の文章はわかりづらく自己満足的なものに見えるのかもしれないが,分かり易さを求めることで論理的な強度が低くなることも事実だ。ライス氏の文章は批判的な視点を持った読者に対しても説得力を持つように書かれているため,どうしても文章が複雑化することは避けられないだろう。それをわかりづらいの一言で済ませるのは不当な評価だと言わざるを得ない。
白饅頭氏の著書がライス氏の著書よりも売れているのは確かだが,市場での評価が必ずしも言説の正しさを格付けするものではないはずだ。先程も書いたように,白饅頭氏の本が売れているのは知名度と平易さによるものが大きく,世間で売れる本の殆どがそうだ。
白饅頭氏は読みやすさを重視するあまり,学術的な厳密性を軽視しすぎている。たしかに厳密性を求めた文章は難解で読みにくくなるが,一定レベル以上の読者はそう言って文章を求めるようになるにも確かだ。白饅頭氏の文章は新規の読者を獲得すことには適しているが,高い基準を求める読者からは不満を覚えられる内容だろう。
また,白饅頭氏はアカデミアに対して偏見を抱いているようにも見える。彼の発言を見ると,アカデミアとその出身者はアカデミア内でのコンセンサスに沿った発言しかできないと思っているようだ。
しかし実際には,アカデミアとその出身者には多様な背景と思想をもった人々がおり,時には学会での権威に背くような意見発表されているということは彼が知るべき事実だ。
これまで書いてきたことからわかるように,ライス氏が重視しているのは学術的な姿勢と厳密性だ。一方で白饅頭氏が重視しているのが人気と分かり易さだ。両者が重視しているものは両立が困難であり,それゆえに互いが敵対的な姿勢を取るようになってしまったのだろう。
くだけた表現をするなら,ライス氏は「ガチ」であり白饅頭氏は「エンタメ」だ。どんなコンテンツであっても,ガチとエンタメは対立しがちであると同時に両方が必要とされるものだ。
ここで,格闘技の興行を想像してみよう。コアな格闘技ファンを満足させるためには,当然実力のある選手同士の対戦を見せなければならない。しかし,実力があっても知名度は低いという選手が多い。知名度の低い選手では,新規のファンやライトなファンを呼び込むことができない。そこで,実力はともかく知名度のある選手の試合も組まなければならない。
実力のあるガチの選手と知名度のあるエンタメの選手,共に興行を成り立たせるために必要な存在だ。白饅頭が朝倉未来なら,デビッド・ライスはヴガール・ケラモフだ。
ライス氏のような,学術的な背景から厳密な文章を書ける作家も,白饅頭のような分かり易くて売れる文章を書ける作家も,言論の世界を成り立たせるために必要な存在のはずだ。
両者は現在のリベラルやネット世論に対して同様の疑問を呈することもあり,思想的な共通点もあるように見える。冷静な対話を重ねれば,互いの考えについて理解を示し合うことも可能なはずだ。
ライス氏と白饅頭氏はこれから日本の言論界をリードする存在になり得る作家であり,こんなところで小競り合いをして格を落とし合って欲しくない。
ラブコメに関して熱く語っていた増田が先月いた( https://anond.hatelabo.jp/20221105115632 )けど、ぼくヤバにはここで語られている3作ほどの新規性や新機軸があるわけでもないので正直ここまではてなで上がってくる理由はわからんですたい。
相手は仕組みがわかってないから特許範囲の書き方を変えちゃって、でも実施例の実験データは全部パクられてるってやつ。
これ下の回避手段云々もからむけど、自分が退くか相手をもらうかしかなく、自分のオリジナルな書き方ができない。歩きたかった道が茨道になっちゃうんだ。
もっとわかりやすくたとえていえば、ラノベアニメ化したらアニメオリジナルキャラのほうにどっさりとファンがついちゃっていまさら「そういうありきたりな萌えキャラ嫌いです、こういうことされると続編でおれが本当に書きたかったキャラがもう出せないなーちらっちらっ」とかいう原作者の気持ちになる。
テーマとしてはほしのこえや秒速でやったように、距離や時間が人を分かつことのドラマ性を描くということなので、そこに新規性はあまり無く、
むしろかつては宇宙を用いて膨大な距離や時間、秒速でも子供が大人になる20年程度を使って描いたテーマを、今の俺なら現代社会を舞台にしても3年で描けるという新海誠本人のテクニカル面での洗練さ、自信のあらわれなのかなと強く感じました。
新海誠の鋭さを考えればやはり物語としては「町は救えたけど二人は再会できない」か「町は救えたけど二葉は死ぬ」である方が良かったな、テーマを考えればそうであるべきだよなと思いますが、そこは商業故の大衆に迎合した形なのかなと思います。
テーマ性や失うことの輝きみたいなものを考えると天気の子の方が完成度としては格段に高いなと思いました。
天気の子の良いところは主人公の選択によって世界が変わるという点ですね。
それほどに選択は重く尊重されるというところが大変に良いと思いました。
天気の子の世界にもヒロイン一人を犠牲に人類を救うべきという人もいたでしょうが、選択するのはお前ではないということを突きつけるのも良い。