はてなキーワード: 操り人形とは
自分は一体なんの業があってここまで辛い人生を送っているのかと思うことがある。
親の虐待
はっきりいうと、もうボロカスみたいな人間だ。自分が自分に自信を持つことを悪だと認識している。いや、自分を取り巻くあらゆる存在によってそう認識するようにされていると言ってもいいかもしれない。
周囲はもっと自分に自信を持つべき、とか、自己肯定感を高めるべき、とか言うが、0はいくら高めても0でしかないし、こういったすさまじい体験から0を1にしたら何があるかわかったものではない、と自動的に考えてしまうから、1にすることもできない。
多分、俺は自分を殺し続けてきたんだろうと思う。何回も何回も。言いたいことを言わない、やりたいことをやらない、ただただ周囲のストレスのはけ口、操り人形。
はけ口にするなといえばそれ以上の暴力が待っている。
言いたいことを言えば無理やり叩き潰されて黙殺される
やりたいことをやればそんなくだらないことをと全否定される
そのたびに俺は俺を殺した。思い切り歯向かいたい衝動を殺した。殺さないと本当に俺が殺されるから。あの世に行くよりはこの世にいよう、そう思うようになったのだろう。
そして今も俺は俺を殺している。
男というだけで攻撃されている。
自分を殺していない男たちはきちんと防御できているのだろうか、本当にすごいと思う。
俺には無理だ。もうむき出しの神経に直接刺さってくる。すごく痛い。
今日も誰かのために心にもないことを言う。もうこれ以上痛いのは嫌だ。
【追記】
あぁそうか、こうかくと「おれは男だから攻撃されている!」っていう被害妄想っぽい文章になるのか、コメントありがとう。
拝啓 俺
殴る蹴るなどの暴力は振るわれていませんが、毎日精神的に追い詰められていますね?
できたことじゃなくてできないことばかり指摘されてそこから人格否定の嵐、嵐、嵐、、、
君は自分なりの学び方を見つけても、たとえそれでどんなにいい成績をとっても見つける端から親に否定され禁止されますね?
やりたいことがあっても親に「そんなくだらないことをするならあっちをやれ」と言われてますね。
そう、あなたの親は何時間も漢字を覚えるまで書き続けることが好きなんです。教科書通りにやれない人間は人間と思っていないんです。
みんながやっている習い事をするのが素晴らしいことだとおもているんです。そうしない人間はバカだと思っているんです。
本当に辛いでしょう?自信をなくしていじめられたり級友に良いように利用されましたね?学校にいけなくなっても誰一人心配なんかして
くれなくて所詮自分の周りの人間なんてそんなものだと思いますね?
それでも偉いと思います。あなたの大事な持ち物は何もかも破壊されて操り人形にされたけど良く耐えて生き続けました。
いま、かなり年を取りました。そんな頑張っている君に何十年かたった将来の自分がどうなっているかを教えますね。
今も操り人形のままです
アメリカのカリフォルニア州に住みはじめて5年だが、日本人とはあまり交流がないし、今となってはこちらの感覚を楽しんでいる。
最近日本で選挙があったけど、この状況下でまーだ自民を盲信しているアホが多いようなので、アメリカで、いや世界で安倍晋三がなんて呼ばれているか教えておく。
トランプも安倍に劣らず負けじと低知能で下品、おまけに道徳もない、最底辺の人間でアメリカでも評判は最悪だ。
でも対日本となるとどうだ?トランプがどんな馬鹿な事を言っても、安倍は同意する。
どれだけ無茶であっても、あらゆる要求を安倍は同意する。Yesマンにもほどがあるだろ。奴隷外交ってやつ、これが?
トランプが安倍を好きなのは唯一点数稼ぎができる存在だからだよ、日本が。
日本人はプライドないの?知性はないの?信念はないの?って世界中で思われているんだけど、その自覚ある?
安倍はもう馬鹿を通り越して、知恵遅れのおじいちゃん扱いされてるわけだが、それが首相、つまり日本の代表みたいなものですよ、イメージ的にはね。そんな爺さんの一挙手一投足が「日本人」のイメージに反映されるわけだが、その自覚あるの?
そんな人間の言うことを他国のTOPが聞くか?聞くわけないでしょ。韓国だって日本相手にあんな態度になるのも、当然でしょ?そんな信念のかけらもない操り人形がTOPになれる国だぜ??日本の外交力は地にまで落ちたというか安倍が落としたわけで、それでも尚、安倍に外交力が微塵でも備わっていると思っている馬鹿がいるなら、もう人間なんてやめてしまったほうがいい。
知能は間違いなく猿以下だ。
こっちは安倍のせいで、日本人って言うのが恥ずかしくしょうがない。安倍のせいでな。
もう日本のイメージは凋落の激しい低俗国家以外の何物でもない。安倍のせいでな。
この状況下で自民が再選したことはこちらでもニュース+笑いものになってる。
[追記]
大好きな安倍が馬鹿にされて、トランプを叩こうとする猿以下のゴミがいるので、言っておくとか、既に述べてるだろ、
トランプもゴミにも劣るド底辺の人間だよ。そんなトランプに奴隷のような扱いを受けてるんだ、安倍はな。
あー、はてなって知恵遅れ多すぎ。
京アニだけはああなってはいけなかった。本当に自分にとってはクリティカルだった。
ずっと、聲の形が嫌いだった。一番最初の読み切りがwebにアップロードされたその日から、ずっと憎しみをためていた。
もう何度も言われたことだろうけど、あの作品の、“ヒロインが完全に慈悲深く邪念の無い天使であるが故に成立するシナリオ”、それが本当に大嫌いだった。
耳の聞こえないヒロインが天使であるが故に成立する感動。初めて読んだ時に、頭が理解するよりも先に拒否反応が出ていたし、声を出してかぶりを振った。
障害者を聖人に仕立て上げることによって“健常者”に対して感動を産むシナリオ、それが本当に嫌いだった。
障害者は健常者の感動の道具じゃない。障害者も、健常者と同じ、人間なんだ。同じステージに立っている、同じ生き物なんだ。なのに、健常者がマジョリティであり、そちらをターゲットにした方が“売れる”というただそれだけの理由で主人公を健常者として設定し、障害者を健常者にとって都合のいい操り人形にした編集、作家、その作品、そしてそれに陳腐な感動の涙を流した読者全員が、本当に嫌いだったし、だけどその嫌悪感が圧倒的にマイノリティであるという事実が本当に悔しかった。
聲の形が大嫌いだった。
聲の形が京アニでアニメ化された時、自分はほとんど嫌悪感からその事実に目を背けていた。
youtubeとか、まとめサイトでサムネイルだけはちらりと見えてはいたが、クリックすることはなかった。クソみたいな漫画のクソみたいな焼き直しだと思っていたから。京アニのきれいな作画にのみ裏打ちされた身の丈に合わない虚構の評価を精々貪るがいい、なんてずっと思っていた。
やがてブームが去った。聲の形の話題を出すマジョリティは数を減らし、やがてほとんど語られなくなった。それに比例するように自分の心のざわざわも減っていった。
これで平安になると思った。やっとそう思うことができた。実際、しばらく自分の心は穏やかだった。聲の形のことはすっきり忘れて、自分自身の本来の生活に戻っていった。
なのに、燃えた。
燃えて、その瞬間的な衝撃が時間とともに和らいでいったあと、思ったのは聲の形のことだった。
聲の形の、悲劇性のともなった障害者が物語のメインとして登場するにも関わらず、結局はすべて健常者の視点で世界が説明され、健常者のカタルシスを得るかたちで幕を閉じるあのシナリオが、本当に大嫌いだった。
でも、わかっていた。その主張は、どこかの著名かつ善良な障害者が、「でも、自分は好きですけどね、聲の形」なんて発言すればすぐにガラガラと崩れ去るものだということが。なぜなら、当事者の意見だから。外野がいくらわめき散らしても所詮外野で、話のど真ん中にいる人間の言葉には勝てないし、そもそもその言葉そのものが真理じみてしまうから、勝つ勝てない以前の問題になってしまう。それくらい、当事者の言葉は強い。
京アニがああなって、京アニに一種の人格じみたような物が形成されたように思う。
京アニを構成する人々の声、とかじゃなくて、京都アニメーションという会社そのものが、あれを期にひとつの生き物のようなオーラを発散しはじめたような気がする。皆、事件の“被害者そのもの”のことを気にかけるよりも、その人たちが失われることによって京アニにどれだけの“損害”が出ているかのほうばかり気にしている気がするからだ。エリートアニメーターがどうだ、監督がどうだ、アニメの資料がどうだ、京アニの歴史がどうだ、そんなことばかり話題にあがり、“被害者そのもの”を気にかけているのはその人たちの親類ばかりだ。人々の存在そのものが希薄になっている。だから相対的に、そういう意味において、京都アニメーションは被害者の誰よりも人間らしい。
聲の形は障害者を身内に抱え込むことに成功し、箔がついた。今後、京アニがどうなったとしても、その箔は一生はがれないだろう。とんでもない悪に身を染めていました、なんて事実が出てこない限り。
だから今後京アニ作品は、少なくとも評価が下がることは無い。悲劇性のともなった障害者を目の前にすると人間は冷静な判断をすることができないからだ。そしてそれは聲の形のヒロインを見て涙を流した圧倒的多数の読者たちと同じだ。
“田舎者と貧乏人を初めて見た話”を読んだ感想を、そっと書き残す。
それも日本で5本の指に入るほどの田舎で生まれ、高校卒業までそこから出たことはなかった。
小学校は地元の公立に通い、そのあと中学受験をして、家の近くの中高一貫校を卒業した。
中高時代は近くの学校まで自転車で通学し、部活と勉強が生活のほとんどだった。
現役で慶應に進んだ。
まさかそこでここまで大きなカルチャーショックを受けるとは思っていなかった。
私は自分がいかに世間知らずだったかということを全く知らなかった。
まず、初めに、「この店、もってる株主優待券使えるじゃん」という会話に驚いた。
喉元まで出かかって飲み込んだ。
田舎では子供はもちろん、大人だってそんなものは持っていなかった。
他にも非常に面食らうことが多かった。
23区内で実家の近くに、マンションを借りて下宿させてもらっているひと
就職解禁日に東京ガスの内定が決まった報告を親から知らされるひと
などなど挙げだしたらキリがない
世の中は生まれた瞬間から不平等だということを腹の底から理解したね。
田舎ではそこそこ裕福な側だったから、余計に東京の富裕層をみておどろいたね。
都内御三家卒トリーバーチさんが言う通り、たしかに生活文化もぜんぜん違った。
ただ、今までの自分と異なった生活文化の良いところにたくさん気づけたし、良いとおもったところは自分に取り入れていったから、そこは都内御三家卒トリーバーチさんと異なる点かな。
まあ、東京という街が、大部分日本全国の地方からの上京者で構成されるので、地方出身者がその文化に馴染みやすいのは、構成からみてそうだろうというのはあるけどさ。
ただ、この文章は都内御三家卒トリーバーチさんへのアンチテーゼだから、敢えて悪いところも書くけど
都内御三家卒トリーバーチさんみたいに、いわゆる東京の消費文化にどっぷり浸かっているひとを見たときに、「なんだか人として薄っぺらいなあ」と感じたね。
それは、そういった人達が、自らの意識じゃなくて、営利企業の広告・周りの人々の目線・マウントといった外部の刺激に翻弄され踊らされ、自己を見つめる機会が少なく、モノを消費させられているかんじがするからだとおもう。
なんだか操り人形というか、外部の刺激にただ反応している動物のようにも見えるんだよ。
最近そういう消費させられているかんじをダサいと感じる精神性が、世界的に若い人の間で増えてきているように感じる。
あと少し話は変わるんだけどさ、都内御三家卒トリーバーチさんの文章を読んで
やっぱり日本で最も根深い差別は“出身地差別”だとあらためて確認することになったね。
例えばこんなかんじ
「大阪出身なんだ、なんかおもろいこと言ってよ笑」
「埼玉出身なんだ、ひっ捕らえろ」
それも無自覚で問題視もされてないから、LGBT差別なんかよりも根深い。
人種もLGBTも本人の自由意志による選択ではないから、そのことで差別するのはいけないことなんだよな。その理屈は全くもって正しいとおもう。
そして出身地も本人の意志で選んだものじゃないよな。それなら“出身地差別”も前の2つの差別と同じようにやめようとなるはずだとおもうんだけど、実際はそうはなってない。
「田舎者の無粋さと、田舎のつまらなさには心底辟易だわ。関わりたくないわ。早く都へ帰りたいわ。」って言ってるけどさ
それは白人が「黒人の無粋さと、つまらなさには心底辟易だわ。関わりたくないわ。白人だけのコミュニティですごしたいわ。」というのと、構造的に全く同じだと自覚したほうがいいよ。
ただね、そんなバカにされている地方出身者にも、都内御三家卒トリーバーチさんよりも明確に恵まれている点がある。
それはスタート地点が低く恵まれていない地方出身者の方が、それから先の人生の伸びしろが大きいということだ。
もうね楽しくて仕方ないよ、ワクワクするね。
どんどん生活の質が上がっていく。これは本当に希望に満ちあふれているよ。
人間って生活の質が向上したときに幸福感を感じるというのが持論で、それは進化生物学的にも則しているとおもう。
(※もちろんそれだけでなく、他にも幸福感を感じるときはある)
そう考えたら、これからの人生ずっと昇り調子の地方出身者は幸せだとおもう。
生まれた瞬間から上限近くだと、それ以降の人生良くて現状維持で悪ければ転落だよね。
それは不幸だとおもう。
実際、都内御三家卒トリーバーチさんは都落ちして、生活の質の低下に苦しんでいるよね。
あとこの仕組みには、都内御三家卒トリーバーチさんへの救いも内包されているよ。
だって、都落ちした都内御三家卒トリーバーチさんは、その出来事によって、今までの都内での暮らしの素晴らしさに気づけたわけだし、何より一度下がったらこれから上がる楽しみを得られるわけだからね。
『くるみ割り人形と秘密の王国』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向けであります。
すごいぞなんと150点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。なんで、なんかもっとお金出したい感じはあるんだけど、この映画の場合グッズとかサントラとかそっち方向にはいかない、いけない、やばい。
この映画を公共向けにレビューするとジャスト95点くらいなのははっきりしていて(いや辛く採点すれば80くらいか?)残りの+50くらいは何かといえば完全に性癖の話なのですよ。いつもそうだけど、今回はそれにもまして(主に後半)全く当てにならないレビューであることを告白しなければならないです。何がやばい特殊性癖なのかについて最初に語ると話が混乱するので、後ほど詳細を述べます。
物語はストームボール一家がクリスマスの準備をしているところから始まります。でも主人公でありミドルティーンの次女であるクララ(演マッケンジー・フォイ)は浮かない顔。他の一家もなんだかギクシャクしている。それも無理のない話で、どうやらストームボール一家の母親は、このクリスマスの直前に死んでしまったようなのですね。
家族を失った喪失の中でもストームボール一家は伝統であるところのクリスマスをしようとしている。ヴィクトリア朝の話だから、親族の大規模なパーティーに出ようとかあるのだけれど、母親を失った悲しみからそれらを拒否して引きこもりたい主人公のクララと、このような状況だからこそ普段通りに日常に過ごさなきゃならないと考える父親の間には、感情的な亀裂があるというところから物語は始まるわけです。
そういう意味で言えば、これは大事な家族を失った喪失から回復する話です。同じテーマを扱った今年の映画でいえば『若おかみは小学生!』なんかがあります。普遍的なものなので他にもいくつもあるでしょう。
そういう普遍的なテーマだったんで、料理の作法にも定番(セオリー)みたいなものはあるわけですが、まずそのセオリーそのものはきちんとこなしていた。そういう意味で脚本は及第点。
また、同じテーマをこなしながらも独自性のある切り口も感じられました。この項目はその独自性についての感想です。
この種の「喪失と再生」の作品において、「去ってしまった人から過去において贈られた自分に対する愛情を再認識する」というエピソードは非常に重要なセオリーポイントになります。
それは例えば前述の『若おかみは小学生!』においても「私たちは娘であるあなたを愛していたよ」「その愛は永遠だよ」というようなメッセージは存在していて、それが主人公に受け取られることで回復の契機になりました。
いってしまえばこの「親からの愛情」ってのは遺産なわけですよね。だからこのテーマは遺産継承に関するテーマだと考えることもできます。
でもこのテーマには隠された問題点もあって、それは「親子間の関係を遺産を残すもの/受け取るもの、というような一方通行の、上位者の秘密に下位者が気づくだけという、そういう物語として描いていいの?」というものです。この問題告発って自分は今まで意識したことがなくて、『くるみ割り人形と秘密の王国』で始めて気が付きました。
例えば先程から比較している『若おかみは小学生!』においてこの問題提起はないんですね。それはなぜかといえば、『若おかみは小学生!』の主人公おっこはタイトル通り小学生で、これから自分の世界を確立していく存在だからです。重要なのは遺産が(つまりは死んだ両親からの愛情が)「あった」事であって、それにさえ気づけばおっこのここから先のミッションは回復だけなわけです。
しかし『くるみ割り人形と秘密の王国』の主人公クララはミドルティーンであり、もうすでに自分なりの自意識も世界観も作り上げつつある存在です。
次女のクララには、上には憧れつつも素直に従うことができない長女がいて、下には一緒に遊んで面倒を見てやる長男(小学生低学年くらい?)がいます。弟の面倒を見ながらも、女性的な完成度と貫禄では長女に勝てない次女。おしゃれは苦手でちょっと理系(工学系)な変わり者な主人公。
彼女はそういう意味で「母親を失って狂乱するほど悲しむ幼子」ではない。悲しいし落ち込んでいるし、日常を取り繕おうとする父親に反発をするけれど、だからといってそれを破壊しようというほどのパニックにはならない。自分自身の力でこの悲しみを乗り越えようとしている、まだ若いけど自立を目指す女性なわけです。
そんな彼女は、通り一遍な意味では「死んだ母親から愛情があった」ことはわかっています。世間一般でそういう慰めの言葉はよく聞くし、自分が母に愛されていなかったという疑いはない。
でも、じゃあ、その「愛情」って具体的にはなんなんだろう? もちろん日常でのさりげないやり取りや、スキンシップや、無言での加護やら、ありとあらゆるものがその候補なわけですが、それらは要するに伝われば伝わるし伝わらないわけです。過去のシーンとしては無数にあるそれを、クララはまだ自分の中で結晶化できていない。そこにクララの戦いはあるわけです。
この物語ではその愛情を暗示するキーワードとして母親の残した「大事なものは全て中にある」という言葉があります。
クララは亡き母からのプレゼントエッグの中に残されたこの言葉を追いかけて冒険の旅に出るわけですが、この言葉の意味は最終的には「私(母)がいなくなった世界においてあなた(主人公クララ)が前を向いて生きていくための大事なものはすべてあなたの中に残してきた」です。
大事なものは、様々な教えであり、生きていく知恵でもあり、もちろんつながりや愛情や人格そのものでもあり、大げさに言うならば「母親(家族)と過ごした時間のすべて」なわけです。
そしてこのキーワードが示すのは、それだけにとどまらないんですよね。
この言葉は「nを残してきた」「nが私(母)の愛情である」という指定ではないわけです。だからこそ逆に「何が残されていたと認識するかは、娘であるクララが選んで受け取りなさい」という信頼であるわけです。
愛情は遺産なわけですが、それは決して贈る/受け取るという一方的な関係ではない。この物語における「気づき」はそういうステージのテーマとして描写されている。それはやはり一味変わった、深い踏み込みだったと思います。
一方、作中において「遺産」はもうひとつの意味でもあらわれます。クララの母は幼いころ「秘密の王国」を発見してその民に慕われた女王でもあったのです。わお。ですから、遺産は女王位。クララは本作のメインの冒険である「秘密の王国への迷い込みそこで戦うこと」をとおして、この「女王位の継承」という問題へ巻き込まれてゆきます。
でもこの問題も前述の「母の愛情をいかに受け取るか」とワンセット、同じ物語の両面なのです。
クララは「女王が去ってしまって荒廃が始まった秘密の国」で大歓迎を受けると同時に、その危機においては「お前なんかは女王の代替品にすぎない」ともいわれてしまいます。「女王の位」をうけとった娘クララは、ただ単にそれを受け取った段階では「無力な模造品」にすぎないという弾劾です。
クララの母でもあり前女王でもあるマリーが幼いころ発見して作り上げた秘密の王国とそこに住む住民たちは、マリーに生み出されて育てられたという意味では、クララと同じく「マリーの子供」でもあるわけです。表面上は老人に見えても年上に見えても異形に見えたとしても、その意味では全てクララの兄弟姉妹に等しい。その彼らが、母マリーがなくなって、道を失い、うろたえ、クララに剣を向けさえする。
その混乱はマリーの残した女王位をただ受け取るという、つまりは遺産を残す上位者、受け取る下位者というだけの状態では、収拾されないわけです。
つまり、これもまた、「継承というのは一方的な贈与関係ではない」というテーマに接続されているわけです。
作中で、母との回想シーンの中で、クララは母から「あなたは姉に憧れているけれど、あなたにはあなた独自の世界があって物事をあなただけの見方で見ることができる。そこがあなたの魅力なのよ」と励まされます。
クララはクララなりに世界を見ることができる。それは父母や周辺環境のコピーとして自意識を確立していくしかない幼子ではなく、ミドルティーンとしてすでに自分の世界があるこの物語のクララでしか描けなかった切り口です。
母からは無限の贈り物を残されたけれど、その中のどれを受け取るか――母の残した教えや愛情のうちどれを「クララという自分自身のコアとして据えるか」というのは、クララの側の自由であり、その選択によって自らの存在を定めるわけです。
その自由の幅が良かった。
この物語の中で、クララは「秘密の王国」での旅と冒険を通して、そういった自分自身の内面と出会い、悲しみを癒やすわけですけれど、でも実はこの度ってなくても良かったんですよね。作中でも途中でリタイヤして現実世界に帰る選択肢が示されるシーンが有ることからも分かる通り、それはありなわけです。途中で帰るどころか、実は、出かけなくても良い。
クララはもうすでに自分自身を確立しつつあるミドルティーンで、この作品の冒険なんかを経なくても、時間さえかければ悲しみから立ち直っていたと思います。父親との間にギクシャクした感情は少し残ったかもしれないけれど、それすらも時間の流れでおそらく解消できた。
そこがとても良かった。
幻想郷への旅が必要不可欠であり、この冒険行がなければクララが破滅していたのだとすれば、クララは神が(母が)操る遺産相続の操り人形なわけですが、そうではなくクララは旅をやめる自由がある中でそれを続行し、自分で選んだわけです。
母から与えられたすべての教えや愛情の中から、姉と同じように「おしゃれで社交的な自分」ではなく、「機械いじりが好きでとびっきりの発明家である自分」を選んで継承した。同じように「秘密の王国で歓待されるだけの女王」ではなく「みんなのために調和を取り戻そうと戦う女王」も選んだ。選ぶという行為によって、ただ与えられる下位の存在ではなく、継承というテーマにおいて贈り主である上位存在と対等の関係であることを示したのです。
この辺はもはや登録商標とも言って良い「ディズニープリンセス」というワードの「プリンセス」にたいして、一定の回答を出そうと本作が挑んだ結果でもあると思います。
王位とか王権(そして愛情を)先代から送られ継承した存在が、プリンセスである。
でもそれは逆説的に、「プリンセスとは手渡されはしたものの、その手渡されたものをまだ十全には使いこなせないし、自覚もはっきりとはできていない、運命や自分自身と戦いの最中にある存在だ」という主張でもあると思うのです。
そういう踏み込みのある本作は、テーマから見ても脚本の構造から見てもかなりの出来でした。
――まあ、もっとも、ここまで脚本を褒めては来たんですけれど、その表現としての台詞回しがどうにも垢抜けない感じで、紋切り型なところも多くて正直言えばそこは今ひとつです。取ってつけた感じがある。
てなわけで、構造面ではキラリと光る部分はあるけれど、80〜95点くらいですかね、これは。という感想になるのでした。
文字数がオーバーしたので後編 https://anond.hatelabo.jp/20181201181722 に続きます。
ガワだけ同じで中身を変えられる初音ミクとは違うという話
共有体だったらキズナアイがまともに受け答えできないのは中身に専門家をあてがわないチームの責任だけど
ガワと中の人が一対一対応しているので自然と個人の能力の限界が出る=一個人にそこまでの重責を負わすのはひどい
という話
とびっくりしてwikiを見たら作者の名が書いてあってほっとした。
私が知らないだけで高性能AIだったのかと……。
作り手がいるならキャラは作り手の意向に沿った言動をとりますよね? それは実在する人間と同程度の人権を認められるん……? その主張の方がヤバくないですか?
こちらの分析を見て、千田有紀はどこを間違ってしまったのか考えてみたい。
多くの人はここで引っかかると思う
「キズナアイは相槌ばかり」という言説の真偽はとりあえず真としてほしいみたいな話とみた
つい最近の最善の相の議論でも話題になったけど、とりあえず仮定を真として議論を進めましょうみたいなの
多くの人は利害が絡むから無理なので、千田は「あくまでも仮定です!ここが受け入れられない場合読み飛ばしてください!」と
しつこく語りかけるべきだった
手打ちEXCELで回数数えるとか悪手もいいとこ。そこは前提なんだから
しかし、であるなら世の中がマルクス主義フェミニズムの指摘するところの資本主義と家父長制で構築されているのだから
キズナアイにかかわらず世の中の表現のいたるところに同様の分析ができるはずだ
そうならそれで「今回のキズナアイは世の中一般に比べてことさら悪いわけではないです」など言って
早々に敵対モードを解除し、資本主義や家父長制一般の話に持っていくべきだった
「私にも家父長制を再生産している部分もあります。それは私が不徹底なのではなく世の中の構造が原因なのです」
みたいに言って沈静化させることもできたはず
今回炎上が加速したのは、いつものアンチフェミニズム・表現の自由戦士の他に
キズナアイ/VTuberファンまで敵に回してしまったのが原因かと思う
彼らは「キズナアイには魂がある」などと主張していることからわかるとおり表現の自由戦士軍団とはことなるクラスタに生きている
そして本来フェミニズムにもマルクス主義にも敵対的な集団ではなかったはずだ
彼らを怒らせてしまったのは千田があのインタビューを「シナリオライターが入念に作り上げた作劇だと扱った」ことであり
それはすなわちキズナアイを終始「企業が作り出した操り人形」だとみなしていたのだと思う
例えばこれが生身のYoutuber女性で、受け答えが相槌だらけだったとしたら
「まともに受け答えしていない、女子をエンパワーメントできない」などと切って捨てられるだろうか
必死に頑張ったかもしれない一個人に対してそこまで酷評できないのでは?
というか普通の人があの場にでてキズナアイ以上の受け答えできる?
スーパーで夕飯の買い物をしている最中、LINEの通知が届いた。
「BABYMETAL新体制のお知らせ」という件名を見て、とたんに胸騒ぎがした。嫌な予感だったから、ボタンを押すのを何度かためらった。
結局、後回しにしても結末は一緒だと思ったので、買い物かごの野菜を袋に入れるついでに、LINEを開いた。
YUIMETALが脱退したニュースを私はそうやって知った。
そのまま家に帰り、風呂に入り、泣いて夕食を食べて、今少し落ち着きを取り戻してこれを書いている。
私がBABYMETALにハマったきっかけは、サマソニ2014の出演者紹介ビデオのギミチョコのMVで
それがYUIMETALだった。
それからはよくあるメイトの話といっしょで、昼夜YoutubeでLIVEビデオをあさり、一週間後にはアルバムを買って
イベントホールの最上階で見る米粒のような彼女たちのパフォーマンスに心打たれた。以来4年間、ずっとファンである。
私はラウド系の音楽が大好きで、独身のころはよくモッシュピットでその場の有象無象がもみくちゃになる激しいライブが大好きだったが、
BABYMETALのライブで初めて、地蔵になるファンの心境を理解したし、実際自分がそうなった。
ノリのいい爆音の中で、体を動かすことより彼女たちのダンスから目が離せなかった。
本当は彼女の活動中にこういう記事を書くべきだったが、私は心底YUIMETALのダンスに惚れた。
私はダンスの素人で批評できるほど色々を知っているわけではないが、
激しく頭をふったかと思いきや、音ハメをするステップが乱れることもなく、
時ににこやかに時にクールに表情を作る彼女はプロフェッショナルだと思った。
マニアックな話だが、彼女のダンスの中で私が一番好きなところは
ヘドバンギャーという曲の最後の最後、操り人形がこと切れるように、腕を持ち上げてぶらぶらと揺らす振付の部分だ。
彼女たちのことを良く知らない人に説明すると、BABYMETALのライブは毎回ほとんど同じ曲で展開するが、
パフォーマンス中は曲転換の演出を除いてトークなしのノンストップのライブである。
およそ一時間半ほどのライブ中、インターバル3分程度の状態で、十数曲やるのが彼女たちのライブスタイルである。
スポットライトや火柱などの演出の中、たまにバラードやバンドのソロを挟むとはいえ、ずっと踊りっぱなし、歌いっぱなしになる。
ヘドバンギャーは大抵ライブのラスト前など、最後のほうに持ってくる曲だ。
BABYMETALの振付はPerfumeのMIKIKO先生がほぼ振り付けている。
ヘドバンギャーのダンスは、ジャンプや土下座などのダイナミックな振付から
先のMIKIKO先生らしい上半身の、特に腕の先までビタッと止める動きまで多様だ。
曲の中で腕をまっすぐ伸ばしながらも、肘から下をぶらぶらさせて
YUIMETALはこの四年間ほとんど、あらゆるライブにおいて
持ち上げる腕を水平に保つ、姿勢を保持する長さが変わらない。
その間の腕は吊り下げられたかのように持ち上げられ、キープされている。
真夏の酷暑の中のフェスのステージだろうが、パイロの炎をガンガン焚いて観客まで熱風の餌食になった幕張だろうが、
90分ノンストップで繰り広げるどのライブのステージでも、タイミングは変わらなかった。
疲れていれば、腕を早く下してしまうほうが楽だろうに、彼女はそういうことをしなかった。
そういうダンスへのプライドが垣間見れるようで、私はそのパフォーマンスを楽しみにするようになった。
私といえば毎回のライブの総括としてそれを見逃さないように躍起になった。
祈るような気持ちでヘドバンの腕の角度を見ては、その夜のライブもいいライブだったと満足するのが常だった。
YUIMETALのダンスは、上半身が激しい動きをする中一切下半身をぶらさない体幹の強さと動きのキレ、
バランスを保ちつつも、着地の位置まで決まっているかのように無駄のないステップなど
あらゆる点が華麗だった。
何度も上演する曲を、私が想像できないほど修練したのだろうと思う。
あまりにも洗練されているので、見ていて重力を感じることがないほどだった。
そういう彼女のパフォーマンスを、私はいつも楽しみにしていた。
YUIMETALのBABYMETALからの脱退はショックだ。
しかし、彼女は恐らくとても自分を強く持つ女性だということは、パフォーマンスの端々で感じていた。
その人が、あんなに大成功したグループを抜けるという意思を持ったら
これはもう何があっても覆らないのだろうと思う。
彼女がどんな夢を叶えたくて、あるいはどんな事情があって脱退するのか、私にはわからない。
でもあらゆる状況でも素晴らしいパフォーマンスをやり遂げた人が意思を持ったら
それは貫かれるものだと思う。
だから彼女の脱退を承認した、このバンドに関わる全ての人に、彼女の意思を尊重してくれてありがとうと言いたい。
SU-METAL、MOAMETAL、そしてマネージメント・スタッフにはこの状況下で、ひっそりと新体制のリリース準備を進めたことは
頭が下がる思いだ。
私は来週、幕張のイベントホールでBABYMETALのライブを観に行く。
奇しくも初めてBABYMETALのライブを観たのと同じ会場だ。
大好きなYUIMETALはいない。そのダンスは二度と見れない。
新しい体制となったBABYMETALを、私は目撃しに行くのみだ。
BABYMETALは、パフォーマンス以外の意思表示の機会は少ない。
ファンとして感じていたYUIMETALの信念を、意思の強さに、私は心底惚れていた。
一回り以上も年の違う女性に対して、同じ女性として尊敬をしている。
水野由結の名義で発表されたメッセージどおり、己で決めた自分の夢に向かって、これから突き進んでいてほしいと思う。
あのな、自律型AIが世の中に存在してないってことはアレは完全にまだ人形なんだ。
3DCGなんだ。人間が手取り足取りしないとしゃべれもしない操り人形なんだ。
vチューバーはそのために人格AI部分、動作AIの部分(将来はできるかもしれないやつ)を人間が代行している。
キズナアイはAIっぽいvチューバーだよ。「商業AI」、「自称AI」なんだよ。
あの会社の技術力でできることは画像選びとか簡単な文章の文末選び程度しかない。
「アイ」という固有名詞を「AI」表記してみんなに誤解してもらえただけの人形だ。
名古屋大学の先生が「AIに小説をかかせた」といっても、これもやってること実際にみたことあんのか?
人間が選んだ次の展開の選択肢からなんとなく良さげなのを選ぶだけ。
おなじ研究室では東大入試問題をAIに解かせようとしてるんだけど、
そこのAIはそもそも数学の文章題になるといかに厳密な文章でも
出題文をちゃんと理解できてないので中学の方程式レベルも無理。
(詳しくいうともうちょっと難しくなるんだけど、文系にはその操作の理解が無理)
AIは将来はすごいことができるかもしれないが今できるのは亀甲占い程度だ。
まだ会話なんて絶対にできない。