はてなキーワード: 徒競走とは
まず前提として、「客観的」にどれが優れていてどれが劣っているかを「論理的」に「科学的」に論証することがほぼ不可能だということは認める。
問題はそういうことではなく、個人の主観的な評価の中で本当に優劣はないと言い張っていいのだろうかということ。
ゲームが好きなオタクは自分の大好きなゲームが本当にペタンクや現代芸術と同じ価値だと思っているんだろうか。
ゲームオタクは当然のようにペタンクや現代芸術を下に見ているだろう。それが個人の中での優劣ってものだ。大好きなゲームがペタンクや現代芸術なんかと同じわけがない。同じなのであればゲームだけやってるのではなく、いろいろな趣味を探すだろう。あらゆるものに無意識のうちに順位をつけているからゲームを最優先する人生を送っているわけだ。
「娯楽や芸術に優劣はない」と言いながら、自分では明らかに順位をつけている。なぜこういう発言が出てくるのか。これは結局劣等感から来ているのではないだろうか。
たとえば世間で高尚とされる趣味を持っている人はいちいち「娯楽や芸術に優劣はない」などとは言わない。こういう発言をしているのは大体オタクだ。
オタクは「娯楽や芸術に優劣はない」と発言することによって、低俗と見られがちな自分の趣味と世間で高尚とみなされている趣味が同じ価値だと主張しているわけである。つまり、相手の価値を毀損することによって相手を自分と同じところまで引き摺り下ろすということをしている。
「どれも娯楽だろ」「娯楽に優劣なんかあるかよ」ともっともらしいことを言って、すべてを自分のレベルに落として均質化しようとする。
オタクは教養がないのでこういう理屈で満足なんだろう。それに芸術に親しんでいる人たちもいちいち世の中の娯楽を批判して敵を作るようなことは積極的にはしない。
芸術に親しんでいる人たちは理論も勉強しているから芸術もわかり、かつもちろん娯楽もわかるが、一方でオタクは娯楽しかわからない。オタクは娯楽しかわからないのに、その価値観で芸術を酷評して「優劣はない」などと言っている。
要するに自分たちの理解できないものを理解する気もなく批判している。
こういうオタクが自分は賢いと思っているのを見るたびにとても滑稽だと思う。
「娯楽や芸術に優劣はない」などと言いながら多様性や理論を理解する気もない。主張の意図としては相手を理解せずに理解する気もなく自分と同レベルと言い張るという自爆行為である。自爆行為でありながらプライドだけは高く、むしろ自分の趣味こそ至高だと信じている。
「娯楽や芸術に優劣はない」という言葉はオタクが他人と同等になれる魔法なのだ。「お前らも俺と同じだろ」というわけだ。
オタクは競争のない世界が好きらしい。ネトウヨでありながらも、徒競走でみんなで一緒にゴールという価値観をあわせ持っている。自分に都合の悪いところは競争しない。
昨年、父が定年退職した。
父は40年以上ずっと運送会社で働いていた。趣味も車で、休みの日は必ずドライヴ。テレビも見ない、本も読まない、ネットもやらない。昔はよく料理をしてたけど、今はぜんぜんしてない。
学生時代は映画監督になりたかったらしい。だからだろうか、私が小さいころはよくカメラを持ち歩いていろんなものを撮影しまくっていた。8ミリ? ハンディカム? くわしいことはわからない。とにかくビデオカメラで何でも撮ってた。旅行、運動会、七五三etc
でもいつしかそれもやめてしまった。それからは車一筋。ドライヴだけが人生って感じだった。
私は父が心配だった。そんなんじゃボケちゃうよ。それにいくら車が好きだからって、もうなるべく運転は控えて欲しい。年なんだから。
父はひとりで暮らしている。母は私が2才の時に癌で亡くなった。それからずっと父娘で暮らしてきたが、私は3年前に26で結婚して家を出た。
私は父にノートパソコンをプレゼントした。父が車以外のことで時間を潰せるようになればいいなと思って。オンラインの将棋なんかを勧めてみた。それが半年前。
で、驚くべきことが起きた。父がパソコンで動画編集にはまってしまったのだ。
元映画青年の血が騒いだのだろうか。父は短期間に相当な知識と技術を身に付けていた。
『スポーツカー ベスト10』なんていう2分ぐらいの動画を作ったりしてる。ランキング形式で車の映像が流れるのだ。
その車の映像、どうやって手に入れた!? BGMもついてるし、解説のテロップも入ってる。文字がボヨーンと飛び出したりして。すげー。
いやー、よかった。これで老後の趣味ができたねー。
なんて、安心してたのも束の間。
なんと父は私の小さい頃の映像も編集し始めたのだ! ねえ、その古いテープ達、どうやってパソコンに取り込んだの?変換とかできちゃうもんなの?とんでもない機材とか買ってない?大丈夫?散財してない?
その手の知識が全くない私はとにかく心配で心配で。こんなことは簡単に出来ると父は言うのだけれど。本当だろうか?
そんな父から、先日、DVDを渡された。なんとそれ、私の思い出ムービーだっつうじゃないですか。いやあ、さすがに身構えた。
で、観たんですが、これがかなりぶっとんでまして。。よく言えば前衛的。はっきりいうと、めちゃくちゃ。
映像はいきなりビデオレター風に始まる。どこかの山の登山口にひとりで立つ父。カメラの前でぎこちなく笑いながら手を振ってる。テロップが出る。
なぜ高尾山!? どういう意図があるの?しかもこれ、三脚立てて一人で撮ったの!? 松居一代スタイル!?
父が私に呼びかける。
そうだっけ!? ごめん、覚えてない。。あ、でもなんか、すごく小さい頃、山の中でゴンドラに揺られたような記憶が、あるような無いような、、あれが高尾山?
そこでなぜかBGM。
永ちゃん!?なぜそのチョイス!?明るい山並みとぜんぜん合ってないよ。。完全に夜景向きの曲じゃん、、、
映像が変わり、実際に私が緑の中を歩いてる場面が流れる。すごくちっちゃい。たぶん幼稚園のころだ。何だかぐずっている。カメラの奥から父の腕がにゅっとのびて、私を抱き上げたところでフェードアウト。
これは良かった。なんと幼稚園から小学校5年までの私の徒競走の映像がちょっとずつ繋いであるのだ。(ちなみに6年の時は休んだ)
走りながら成長してゆく私。たまにスローになったりして。かっこいいじゃん!BGMが爆風スランプじゃ無ければさらに良かった。次から音楽担当は私にやらせて。
そっかー、父は毎年、私が走るところを必ず撮ってくれてたんだね。
そのあとも、七五三、海水浴、さくらんぼ狩り、学芸会、お誕生日会と、まあ懐かしい映像が次々と。知恵熱が出そう。
さて、問題はここからですよ。再びカメラの前に現在の父が登場。
なんと私が小2の時に書いた手紙をカメラの前で読み上げやがった!
完全に松居一代じゃん! 暴露ノート的なやつじゃん!もしかしてオマージュ!?影響受けたの!?
しかも手紙の文章をテロップに起こして、ピアノのBGMなんかつけちゃって、映画のエンドロールみたいにして晒すという、、、まさに鬼畜の所業。。
おたんじょうびおめでとう
パパのオムライスが好きです
たくさんケーキをたべてね
食べ物の話だけかい! しかもこれ、テロップにする意味ある!?
手紙、ずっと持ってたんだね。
気がつけば25歳になっていた。今まで小学校・中学校の義務教育を経て高校・大学へ進み、今は就職して働いている。
仕事をしている時や、ふと何気ない瞬間に中学・高校の頃を思い起こそうとするのだが、ポッカリと穴が開いてしまっているかのように記憶が無いことに気がついた。
正しくは、要所要所の嫌な記憶はあるのだが、楽しかったエピソードや自分がどういう人間だったのかという記憶が無い。
成人式の時「増田は雰囲気が変わったな。落ち着いた」と言われた。
「中学校の頃のこと覚えてる?ほら増田は○○してたじゃん?」と言われたが、全く思い出すことができなかった。
皆は、私の覚えていない思い出を共有していて、しかも本来であれば私もその記憶を共有しているはずなのだが、私にはそれができず、大変モヤモヤした。
高校の同級生と久々にご飯を食べたときも同じような経験があった。
皆は私のしらない私を知っていて、私はそれが本当かどうかもわからない。
そのくせ、保育園児・幼稚園児の頃の記憶は残っていて、私はそこから置いてけぼりを食らっている気持ちになる。
庭で押し車を押していた記憶、火遊びをして怒られた記憶、徒競走で女子に抜かれた記憶。
幼稚園の記憶は鮮明なのに、それよりも後の時系列である中学・高校の頃の記憶が不鮮明というのは、何なのだろうか。
原因を考えたが、別段目立った原因のようなものは無い。
実家の近くなので今度あそこにできるんだなと以前から知ってました。
それもかなり右よりだなと。
ちなみに豊中市の公立学校は北部はセレブですが、南部はDQNの集まりですw
ン十年前の話ですがとあるサイトを見る限りあまり変わってないのかw
http://www5.plala.or.jp/ysk/kimigayo-toyonaka.htm
http://mid.parfe.jp/kannyo/onbudtoyonaka/katu-hou/H14/H14-6-H13-sotu-tyou-seimei.htm
・音楽の教科書の最後のページはプリントを貼るように指示される
・小学校の修学旅行は広島でなぜか公園以外にあるとある慰霊碑の折り鶴まで作らされる
というかそっちがメイン(ry
・夏休みの登校日は大体8月6日。原爆関係の映画を見せて感想文を書かせる。
・道徳の名ばかりで授業がない。というか「にんげん」という怪しい本を使った授業になる
・高校受験は学力が高いかよほどの強い意志がない限り特定の学校の受験しかさせてもらえない
・成人式になると市民会館の前で日教組の旗を持って突っ立ってる
ご近所の選挙区で同胞の有名政治家が予算委員会サボってでもすっ飛んできますよw
自分の場合不幸中の幸いだったのが中学3年間のうち2年が退職した爺さん講師(今思えばバリバリの保守思想)に当たることが多かったので
・小中合同など、数校が合同で実施、それでも人数が少ない
・兄弟姉妹がいる家庭が非常に多く、観覧にくる世帯数も生徒数全体の半分程度
・全体的に時間稼ぎがひどい
・入場行進で運動場を3周、退場時も2周、合同開催でも校庭1周分に児童生徒全員がおさまってしまうが故のサービス周回
・開会/閉会時のPTA会長のあいさつの持ち時間が1人15分もあって各校の会長が頭を抱える、長いので子供は全員座らされる
・入場行進とは別に集団行動が出し物として存在していて、マイク越しの指示に従って右向け右とかをしばらくやらされる、通称北朝鮮ごっこ
・代わりに男女を分けずに全員参加できそうな盆踊り的なものや新種目が導入される
・ムカデ競争の1チームの人数が3人だったり、綱引きが5人1チームだったりと各競技が小規模
・走る前に1人ずつ名前とプロフィール、意気込みコメント付きの入場アナウンス、走った後は1組ごとに金銀メダルの授与とインタビューで細かく時間を稼ぐ
・学年によっては徒競走とは別に、違う名前のついた徒競走もある、BGMと開始前に世界観を説明するために小芝居があるのが相違点
俺25歳でゆとりど真ん中なんだけど、あれみんな勘違いしてると思うんだ。
徒競走で手を繋いで一斉にゴールというものを”競争をしない、好まない”ことの象徴とする人が多いけど、
本当は競争がなかったわけではなく競争が表面に出なくなって何をやっているのかわからなくなっていったんだと思う。
徒競走って全員参加じゃないのよ。各々どの種目に出るのか事前に決めておく。
運動会のなかで徒競走は目玉の一つであり、おのずと志望者と定員の倍率は高くなる。
体育の授業を使っての選考会や学級会で割り振りを決めるわけだけど、
当然でそこで強い権限をもつのは運動神経の良い者やクラスの中心人物である。
徒競走なんて皆に注目される場には綺麗なスター級しかでてこないの。徒競走に参加していることそのものが勝利だった。
そして旧世代では徒競走のビリになっていただろうタイプといえば、校庭の隅で走り幅跳びか砲丸投げを行っているんだよ。当然誰も見ていない。
配点にも競技で偏りがあって、走り幅跳びや砲丸投げなんて勝っても微々たるもので全く存在感なんてない。
めちゃめちゃ練習して体育でいい成績残したって、学級会で支持を得られなければ結局選ばれない。
運動会そのものが一つの競技で、それは他人に自分を認めさせるという頑張り所がよくわからない戦いなんだよ。
旧世代での敗者はそれでも注目はされた。マラソン大会のハイライトにビリの巨漢がくるように。
ゆとり世代の敗者は黙殺されてたんだよね。いじめなんかで騒がれることあるけど村八分になって不登校ってパターンがやはり多かったと思うよ。
なぜなら、自分は認められるべきに値しない人間であり、自分でない人全ては社会的に認められているからだ
だから、自分が言いたいことではなく、認められそうなことを言ってきたが、もう見破られていたらしい
カウンセラーには「『こう言えばいいんでしょ』という気持ちで言っている」と見抜かれた
「言えばいい」や「言えば評価される」ではなく、あえて「言えば『いいんでしょ』」という言葉を選んだのは、僕がその言葉を発すれば認められるとは本心では思っていなく、就活生という立場から、言わなければならないという僕の投げやりさを見抜いた上での言葉だったのだろう
何にしても成功すればまぐれ、失敗すれば自分のせいと自分を厳しく律してき(いじめ抜い)たツケが、根本的な自信の不足として回ってきた
同学年の姉と弟を見て、普通なら彼らのように友達を多く作り、徒競走で1~2位になる程度の運動ができ、算数ができ、家に帰ったら毎日友達の家に遊びに行く、ものを無くさない、それが全部できてない僕は普通ではないと
他のことに注力したって、ますます普通ではなくなるんだから、劣等感を埋めるはずはなく、後ろめたい気持ちが広がった
このようなスペックがふたりに劣る僕は、親の言うことに従うことしか生きる道はないと思っていたのだろう
習い事だって学校だって、行きたくなかったって行かなければならない
習い事に行きたくないと騒ぎながらも連れていかれる姉と弟の横で、僕は自分の意思なんて必要ないんだ、無駄なんだと思った
家で親に従わないと生殺与奪の権にかかわるので、そっちに全振りし人間関係を疎かにしたツケがまわってきている
本当なら一秒でも早く自室で横になりたいだけなのに、他人に認められようとすることが間違っている
なんか地区だかなんだかの運動会の練習みたいなのをやってるのを見かけたので。
子供の頃住んでいた田舎では小中9学年あわせて200人いくかいかないかぐらいだったからなのか、敷地が隣接してたからなのか、運動会が小中合同だった。
小学生の時から中学生の出し物を見ているので、自分も中学生になったらああいうことをやるんだろうと漠然と思っていたら、
自分が中学に上がった年から少子化の影響とやらで出し物が変わった。
中学男子が毎年やっていた騎馬戦が消えて、中学女子が毎年やっていたその土地に伝わる謎の盆踊りっぽいダンスも消えた。
自分は体が同学年男子の中で群を抜いて小さかったので、騎馬戦で担ぎ手にはならないであろうことが予想できていたのもあって、
珍しく目立てるぞ、と割と楽しみにしていただけに、プログラムが決まった時は結構凹んだ記憶がある。
他にも、全員参加の徒競走では、一組の人数を4人から2人に減らして露骨に時間を稼いだりしていた。
今思えば、半日ぐらいの時間をもたせるだけの出し物を考えるだけで教師陣も大変だったんだろうなー、とは思う。
でも、だからって、5つしかない強制参加の部活のユニフォームを着て練り歩く、部行進とかいう謎の出し物で
30分近くひたすら校庭をぐるぐる歩いたり並んだり止まったりし続けるのはどうかと思うけれど。
しかも「集団行動」という出し物も別であって、そっちもクラス別に先生の号令に従ってひたすら行進したり回れ右したりするっていう……いったい誰が得するんだこれ。
色々と引き伸ばし策を講じても、さすがに単純に出し物の数を減らすと間がもたなかったのか、
騎馬戦と盆踊りが消えた代わりに、全学年参加で踊るソーラン節と、チーム対抗の20人21脚的なやつが入ってきた。30人31脚にならないあたりが悲哀を誘う。
どうやって見つけてきたのかわからないが、隣の隣の町からやってきたソーラン節の講師というおじさんおばさんたちを招いて、毎日ソーラン節の振り付けを覚えさせられた。
まあ、グルグルと網を引き揚げる動きは楽しかったので今でも浴槽でバシャバシャいわせて遊ぶことがある。
本番の日、20人21脚では本番のテンションで疾走する周囲のペースについていけず、
両隣に肩で吊り下げられる形になってしまって足が地面に着かなくなって転倒、胸をノーガードで地面に強打して、呼吸困難になる経験をした。
寄ってきたやたらガタイのいい担任の女教師は、地面で息ができずにアワアワしている俺を見て、
「本番でコケるなんて気合いが足りない」「早く立って続き走って、みんなが迷惑してるから」と言い捨てた。絶対忘れてやらない。
昼食時には、我が家は祖父が昨年亡くなったばかりだったので、
母子家庭+一人っ子という家庭が小中見回しても自分だけで、家庭ごとにビニールシートを敷いて食べる食事場所がものすごく居心地が悪かった。
大体みんな5、6人ぐらいが1家族で、多いところは12人とかきてる。2人だけで食べてる人はどこにもいなかった。
小学生のクソ猿が何匹か寄ってきて「なんで二人だけで食べてるのー?ねえねえなんでー?さびしくなぁいー?」とか言ってきたので、傍目にも割と目立ってたんだと思う。
母もなんか申し訳なさそうにしていて、でも別に母親が悪いわけでもないしなあ、と思いながら適当なことを言って追い払ってた気がする。
ああ、なんか嫌な気持ちばかりよみがえってきた。あれー?運動会、なんか別にいい思い出ねぇなこれ。
ちなみに翌年、翌々年は二年連続で当日に高熱を出して、バファリンで無理やりおさえながら手慣れたソーラン節を踊る羽目になった。
背は大して伸びなかったけど、20人21脚は誘導役のサザエさんポジションになったおかげで二度とコケなかったし、まあいいか。
そろそろ運動会の季節なので書いておく
運動会で競争をするのはやめるべきという話があり、これに対する批判も多い
しかし、これは全く見当違いの話でもない
たとえば、男と女で競争しないのは性差による身体能力の差を考慮に入れているからだろう
これは明らかに体格による区別であって、この階級分けなしではもはやボクシングというスポーツ自体が成立しない
学年や性別で競技を分けることはあるが、体格を考慮に入れて競技することはほぼ無いだろう
また、学年別とは言っても年齢はおおよそ一年近い差のある子どもだっている
無論、同じ歳だから同じように成長する、というわけでもない
集団競技なら体格差が全てにおいて有利というわけでもないから、セオリーでは不利とされる体格の選手が活躍することもある
しかし、単純な個人競技(徒競走など)においてはかつ見込みなどみじんもない
つい数年前まで、おててつないで全員でゴールする徒競走、個性重視採用、ナンバーワンにならなくてもいい等の甘言が踊っていたような気がするが
社会の生産性の低下と景気悪化、コピーの横行と物量作戦によってオンリーワンは破綻した。
AKBはメンバーを揃えて各々の個性の幅を広げ、各メンバーが客をつかむことで人気と金を得る。と、思いがちだが、総選挙というイベントで全てのオンリーワンが否定される。
順位付けと金儲けをつなぎあわせたことでソーシャルでは格差が顕著化し、個性>順位の図式は覆ることはない。圧倒的に魅力的な個性は、順位の下位カテゴリに成り下がった。
説明する必要もないほどのコピーゲームの中で、イベントと称して順位付け+金儲けの定式が顔を出すことでキャラクターの個性は否定される。
順位=金が全てで、お前の大好きなキャラクターに見せかけた小さなデータは、ソーシャル上の話題で消費されるためにある。これを否定するにはソーシャルを否定しなければならない。
そうすれば、そのキャラクターは消滅するパラドクスを内包するため、プレイヤーには絶対に否定出来ない歪な存在だ。
・SNS
SNSとしての規模が大きくなればなるほど、ユーザーの個性は死ぬ。多数の同調圧力と罵詈雑言によって、個性は簡単に屈する。そんな炎上が今もどこかで起きている。
広がりつながることを目的としているSNSは、広げなくていいことを誰かに教える場として有用だ。
では使用しなければよいのではないか?しかし現実はそれを認めない。「同調しない者には死を」これはリアルに起こった複数の事件を的確に表している。
ソーシャル要素は人間ボーリング装置であり、地ならしだ。全世界を海抜ゼロメートル以下へコモディティ化しようとしている。堤防は各々のリテラシーと理性だが、ゆっくりと小さな穴が開き始めている。
ここから逃れるには、早々にコンテンツの価値基準を上げるか、金の価値を落とすしかない。
ソーシャルを賑わすだけに与えられる射幸心を捨て、己の中に確固たる判定基準を持て。その基準を培う経験と好奇心を求めろ。
オタクになれ。今のヘラヘラ笑ってコンテンツを食いつぶし、話題の奴隷である情けない人間ではない。論と経験と様々なコンテンツを受け止める度量を持つ人間になれ。
教養という言葉が死語になり、誰かの言葉が無いと自我を保てない人間が大勢いる。
それを良とせず、自分がオンリーワンであるという意識を、「アイデンティティ」を確立したいのであれば、1つ意識を変えて見るのも悪くないだろう
朝の二時間ほどでトラバが5も付いたが、メダル至上主義者に対する攻撃反応を引き出したという意味では爆釣なわけだが、しかし誰一人として「成績がよくもない、特定の選手のみを取り上げるおかしさ」については反論しないのかよ…。
というか、下手にメダル取った人より目立ってんじゃないのかまおちゃん。
メディアもちゃんと、メダル取った人をより大きく取り上げてあげないと。
みんなでお手手つないでゴールテープを切る徒競走なんて、「結果がすべてではない」なんて、ゆとり世代以降の幼稚園だけで十分だろ…。
言わんとしている事とてもよく分かります。
恐らく「相手の手のひらの上で料理されている感」が嫌なんだと思います。
相手から「ハードルを用意してやるから超えてみろよ」と上から言われているように感じて我慢ができないのでしょう。
さらにこのときの相手はそのハードルを超えるべき立場にはなく、あなたは「俺の苦労も知らずに簡単に好き勝手言いやがって」と捉えているはずです。
同じような感覚として、外野から「がんばって!」と言われることも嫌ではないでしょうか?
例えば、小学校の徒競走でビリになって必死にゴールを目指しているときに周囲から「がんばって!」と言われるのは、純粋に励まされていると感じるよりも見下されている感覚の方が大きいと思います。
あなたはプライドがとても高く、常に相手を同列または下に見る傾向があるのかと思います。
あるいは女性を下に見ているのかもしれません。
なぜここまで断言したかというと。自分もそういう部分があるからです。
相手が年上だろうがなんだろうが変なプライドを持ってしまい相手を怒らせることがままあります。
年間の1/3、1ヶ月間連続で貰える休暇中に船乗りがどんな生活をしているか記しておこうと思う。
その2はこちら
http://anond.hatelabo.jp/20130925032813
1ヶ月間もあるので家族サービスはし放題だ。
休暇直前になると家族持ちの船乗りはそわそわし始めて、おもちゃを買い漁る。
おもちゃをいっぱい買って帰るのが船乗りが理想とする父の姿であり、子供にあったらそのおもちゃでたくさん遊ぶのだ。
帰るとトタトタと走り寄ってくる我が子を見た瞬間疲れなんて吹き飛ぶものである。
当然、嫁へのサービスも忘れない。自分が居ない間家庭を支えてくれていたのだ。
船乗りが「日帰りにはなるが平日子供達が学校言ってる間に温泉でも行こうか」というと船乗りの嫁は流石だ。
「疲れてるでしょうから直ぐにじゃなくても良いよ」と言ってくれる。この一言で更に惚れる船乗りは多い。
疲れも吹っ飛んだのでその夜は家族を増やす営みを船乗りは頑張るのだ。
実家へ顔を出すのも忘れない。
船乗りは親の死に目に会えないと既に諦めている者が多い。そこで生きてる間は孝行しようとするのだ。
親父が好きそうな酒を入手して、お袋の手料理を肴に親父と一緒に呑むのだ。
「親父、今度の三連休にでも子供つれて皆で飯食いに行こうよ」とかそういう話をする。
たまたま休暇中に子供の参観日や運動会、文化祭が合致したら船乗りはテンション高くなるものだ。
自慢の一眼レフやビデオカメラを持ち出し1分1秒でも逃さまいと子供を撮影する。
父兄徒競走や綱引きにだって本気を出す。子供に格好悪い姿なんか見せない。
子供が幼稚園保育園くらいだとまだまだ記憶が曖昧のようで、帰るたびに船乗り父さんは忘れ去られている。
ひどい時には抱き上げるだけで泣き叫ばれ、一緒に風呂入ろうとか考えてたのにそれどころじゃなくなる。
わが子から「おじさん誰?」みたいな表情で見られるのは結構ヘコむので、船乗りの嫁は可能な限りお父さんの写真を見せたりお父さんの話をするべきである。
独身の場合は休暇中の大半は寝ているか色々なもので散財するのが基本である。
船乗りは基本的に乗船中はあまりお金を使えない。使わないのではなく物理的に使えないのだ。なのでいつの間にか通帳の金額は膨れ上がっている。
散財の仕方は様々なパターンがあるので箇条書きにしていこう。
飲み歩いたり女に貢ぐのは定番だ。何だかんだで金を持ってるとモテる。そうやって彼女を探す。
別に彼女は水商売の女じゃなくたって良い。船乗りは金のない若者も演じたりもたまにする。
様々な手法で女を試して良い女か見極める傾向があるので金だけに食いついてくると遊んでポイッである。
無駄に広いマンションに住むのも船乗りならではだ。住んだ後に「こんなに部屋必要ないな」と気付く。
しかし実家暮らしの独身船乗りも多いのでこのパターンは半々くらいだと思う。
時計はセイコー(グランドセイコー)、万年筆はセーラーというのが船乗り的にシブイしあこがれなので買う。
セイコーやセーラー買ったらロレックスとかプラチナとかも買う。
ギャンブルに突っ込む船乗りは多い。理由は世界各地どこでもギャンブルというものは存在するからだ。
日本国内であればパチンコ・パチスロになるだろう。休暇中暇なので打つ。
ただ筆者は特に理由はないけれど若い頃は競馬を勘で買うのを好んでいた。倍率が見えてるのが良かったのかの知れない。
車に金を使うのも定番だ。船乗りはスポーティーな車か、無駄にデカイ車を好む。これはバイクでも同じ。
社外パーツでシブくキメるのが定番で、いわゆるVIPカーとかそういう傾向のカスタムを好む人は少ない。
筆者はフェアレディZ33が出た時に速攻で電話して予約、現金で購入した。
大画面TVにトールボーイスピーカー、Blu-rayレコーダーと一気に揃えるのだ。
何でこういうことするかというと自分が休暇中でも地元の友達は仕事があり誰も遊んでくれないので映画とか観たりするためなのだ。
そして映画とか観ていると再生機器にこだわりが出始めて高級家電化してくる。
独身船乗りの旅行は唐突だ。フラッと繁華街へ出かける感覚で飛行機のチケットを買う。
船乗りにとって日本は(距離の感覚として)狭いので、例えば東京から沖縄は"近場"である。
実家住まいでも「ちょっと北海道行ってくるわ」と親に伝えると最初は驚いた顔をされるが親も直に慣れてくるのが面白い。
休暇が同時期にある船乗り仲間と場所を指定して集まり飲みに行くのも独特の文化といえば独特だ。
船乗りは全国に散在しており近くに住んでいる船乗り仲間が休暇とは限らない。
なので誰かが思いたち「今日の晩にでも皆で新宿行かね?」と同じく休暇の船乗り仲間へ昼くらいに電話するのだ。
船乗り仲間も距離の感覚が一般人と違うので「良いよ17時くらいに行けると思うわ」と快諾する。そして飛行機のチケットを直ぐにとり出掛ける。
ここまで遊んでいても年間を通すと月5万10万は貯金できているので意外かもしれない。
これは親が口うるさく「5万円くらいは貯金しておきなさい」と言うので定期預金とかで貯金しているためだ。
若い頃から定期で預金しているため信用が付いており家建てる時の融資もかなり通りやすかったりする。
船乗りという職業は明らかに特殊な業務である。そのため生命保険が少しだけ他の人より高い上に審査が厳しい。
何が厳しいかというと「どんな業務をしているのか?」とか書類不備で再審査が頻発することが稀にあるのだ。
これが非常に鬱陶しく、折角加入してやろうとしているのに加入する気が段々となくなってくるのだ。
同じ生命保険会社でも生保レディによって書類不備が頻発するかしないか、保険商材によって書類不備が頻発するかしないかが変わってくるので生命保険会社はもっと船乗りに優しくするべき。
社内規程とかあるのは察するが、5度6度と書類不備が起きるのは流石に堪えられなくなってくる。
船乗りが結婚相手に選ぶ基準は殆どの場合見た目は気にされない。
これは家庭を持ってもその船乗り自身が近くに居れないので、居ない間に家庭をしっかり守れる相手を選ぶからだ。
大金があるので浪費するという欲望に勝てる若い子は少ないから見た目とか気にしてられないのだ。
船乗りは若い頃に付けてしまった自分自身の浪費癖をよくわかっている。自分が家庭の財布を持つと家計が上手く行かなくなる可能性がある。
なので多くの船乗りは嫁に財布を持たせており、その嫁の金銭感覚を信じているのだ。なので見た目はどうでも良い(良ければ越したことはないけど)。
国を愛し、家族を愛し、恋人を愛し、友人を愛する。それは長い間遠くへ離れているからこそ持つ強い感情だ。
愛するからこそ船乗りは愛する者の前で格好を付けて、そんな自分自身を自慢して貰いたいと考える。
自慢の国民となり、自慢の家族となり、自慢の恋人となり、自慢の友人となりたいのだ。
だから船乗りは自身の面子を潰されたり、愛するものが傷つけられるのを非常に嫌う。
おそらくはネット上へここまで詳細に海運系船乗りのことを3ページにまとまっているものはないと思われる。筆者はもう書きたくない。
注意点としてはところどころ端折ってる部分は当然ながら存在するし、会社によって差異があるところも存在する。
可能な限り平均的な目線で書いたつもりだがおかしな点はあるだろうと思われる。それを見つけた船乗りは各自「うちの会社はこうだ」と主張していただければ幸いである。
ただ船舶が灰色だったり白くて青いラインが入ってる船舶を持ってる"会社"の船乗りたちは機密保持の兼ね合いもあるだろうから気をつけるように。言っちゃいけない部分は言ったらダメだよw
船舶という業界は非常に過酷な職場です。3Kと呼ばれる職業だし、その上に知能まで求められます。
セクハラ、パワハラなんて当たり前だし叱られて殴られることすらあります。そんな環境なのに逃げ場がありません。
しかし、だからこそ我々船乗りは高給取りであり多くの人々から尊敬され羨望の眼差しで見られます。
我々船乗りが得られる一般的な感覚からすると有利とも思われる権利は、それなりの義務を果たすことで得ているものです。
学ぶ気の無い者、本気になれない者、そして船乗りとして格好が付けられない者は業界として必要ありません。どうぞ別の業界へ行ってください。
学ぼうとし、本気になり、そして格好を付けようとする者、どうかお願いですからこちらの業界へ来てください。我々には貴君を金の卵として向かい入れる準備があります。
この記事を読み、少しでも海運へ興味を持っていただけたのなら嬉しく思います。
日本国は島国海洋国家であり海運へ強く依存せざる得ない立地条件です。
「日本国経済は海から」という言葉もあるくらい、良いにせよ悪いにせよ経済的変動の影響は海運へ先に現れると言われています。
逆に言えば日本国海運が世界海運の中で悪い立場となれば日本経済へ悪影響をもたらすとも言えます。
IT産業や宇宙産業など新たな市場は開拓されていっていますが、日本国と同じく2000年の歩みを進めた海運産業へもその視線を向けていただれば幸いです。
そして出来ることならば海洋の研究を支援するお声かけと、海運の大切さを伝える教育を実行していただければと思います。
化粧や染髪が「普通になる」って、あれだけバリエーションのある装飾行為が「普通」になったとしても均一化はまずしないから
「化粧してるから仲間、やってなきゃハブられる」というより、めっちゃやるグループと適度にやるグループとやらないグループとかにクラスタ化されるだけ
本来接点のないような別クラスタ同士を無理矢理べたべたくっつけたり「学校の生徒」という枠でくくって同質扱いするから問題が起こるんだよ
3DSもそう、持ってないと遊べないかつ買ってやれないレベルの貧乏あるいは教育方針としてゲーム禁止なら
それはもうクラスタ違いと割り切って他のコミュニティを見つけるべきなの
そこへ無理矢理「いいなー貸してー」とか「ほしいーちょうだいー」とか「○○君ばっかりずるいー」とかやらかしてねじ込んでくるからハブにされるんだし
それを「金銭的理由で配慮!全員禁止!」とか言うのは「運動会はみんな手をつないでゴール!徒競走禁止!」ってのと一緒じゃん