2018-06-29

「娯楽や芸術に優劣はない」という考え方がわからない

まず前提として、「客観的」にどれが優れていてどれが劣っているかを「論理的」に「科学的」に論証することがほぼ不可能だということは認める。

問題はそういうことではなく、個人主観的評価の中で本当に優劣はないと言い張っていいのだろうかということ。

ゲームが好きなオタク自分の大好きなゲームが本当にペタンク現代芸術と同じ価値だと思っているんだろうか。

ゲームオタクは当然のようにペタンク現代芸術を下に見ているだろう。それが個人の中での優劣ってものだ。大好きなゲームペタンク現代芸術なんかと同じわけがない。同じなのであればゲームだけやってるのではなく、いろいろな趣味を探すだろう。あらゆるもの無意識のうちに順位をつけているかゲームを最優先する人生を送っているわけだ。

「娯楽や芸術に優劣はない」と言いながら、自分では明らかに順位をつけている。なぜこういう発言が出てくるのか。これは結局劣等感から来ているのではないだろうか。

たとえば世間で高尚とされる趣味を持っている人はいちいち「娯楽や芸術に優劣はない」などとは言わない。こういう発言をしているのは大体オタクだ。

オタクは「娯楽や芸術に優劣はない」と発言することによって、低俗と見られがちな自分趣味世間で高尚とみなされている趣味が同じ価値だと主張しているわけである。つまり相手価値毀損することによって相手自分と同じところまで引き摺り下ろすということをしている。

「どれも娯楽だろ」「娯楽に優劣なんかあるかよ」ともっともらしいことを言って、すべてを自分レベルに落として均質化しようとする。

オタク教養がないのでこういう理屈で満足なんだろう。それに芸術に親しんでいる人たちもいちいち世の中の娯楽を批判して敵を作るようなことは積極的にはしない。

芸術に親しんでいる人たちは理論勉強しているか芸術もわかり、かつもちろん娯楽もわかるが、一方でオタクは娯楽しかからない。オタクは娯楽しかからないのに、その価値観で芸術酷評して「優劣はない」などと言っている。

要するに自分たちの理解できないもの理解する気もなく批判している。

こういうオタク自分は賢いと思っているのを見るたびにとても滑稽だと思う。

「娯楽や芸術に優劣はない」などと言いながら多様性理論理解する気もない。主張の意図としては相手理解せずに理解する気もなく自分と同レベルと言い張るという自爆行為である自爆行為でありながらプライドだけは高く、むしろ自分趣味こそ至高だと信じている。

そういう謎の生命体がオタク

「娯楽や芸術に優劣はない」という言葉オタク他人と同等になれる魔法なのだ。「お前らも俺と同じだろ」というわけだ。

オタク競争のない世界が好きらしい。ネトウヨでありながらも、徒競走でみんなで一緒にゴールという価値観をあわせ持っている。自分に都合の悪いところは競争しない。

そんな世界にはもちろん創造性もないわけだが、オタク向けコンテンツを見ていると、それもそうかと思ったりもする。

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