はてなキーワード: 冗談とは
いい年こいて、だっこされたい
一番ナイスなのは、こう、私が横向きに寝て、んで背中から優しく包んでもらう感じ そしてただそのまま、それだけが悠久に続く 良いな~
いつもそればかり考えている 自分がキモいと思いつつも、どうすることもできない
私は今大学生で、同学年にお付き合いしている男性がいる お互い就活中の身分である
その男性は地元への熱い使命感に燃えそちらで就職(そのために帰省中)、私は自らの上昇志向に振り回され東京での就職を検討している
表向きまずまずで、勉学はまあ、そこそこ、体育会系部活で主戦力張るなどしてクールにキめてきたつもりだ が、中身はだっこがないと死んでしまうウサギチャンであった
私の外面を支えていたのは、言うまでもなく、だっこだった (ま、パッとしない大学なんすけどね)
これからはもう、だっこしてくれる人がいないのである 困った 飼育放棄されたウサギチャンみたいになっちゃっている
今だって寂しさでトチ狂っちゃっているのにこれから就職すれば当然離れて暮らすんだよな、 直視できない、漠然とした絶望
毎日うわ~ん寂しいよう寂しいようとひとりで泣いている 最悪である やっぱりキモい
多分誰彼かまわずだっこしてくださいみたいなのを頼み込んでまわればしてもらえるんだろうな、でもそれは違うとわかる
こうみえても事情があって自分には夜職の経験があるので、人の持ち合わせる欲望というか、下心というか(しょうがないので責めるつもりはない)、そういったものに当てられて若干スレちゃっている節がある
根幹的な弱みを見せればつけあがられるという経験則も得た
そんなこんなで私は傲慢にも人を選ばさせていただく。強欲だな。でもみんなそんなもんだよね。
お付き合いしている男性は、紆余曲折を乗り越えた関係性、財産、言わば私が育てた専属だっこマイスターである ここは当然譲れない
困った…
だっこを強く熱望し、だっこ不足で精神を崩す機能不全の成人女性 完全にモンスターだ これって依存!?そんなの弱者のすること…!
そして最悪なことは重なるもので、それが就職活動をするのである
今は履歴書で、3月からは面接で、自分は有能ですよもらってくださいよと吹いて回る 嘘でしょ 冗談じゃないよ
こんなサイズだけでかくなった赤ちゃん、どこが拾ってくれるんだよ
社会のみなさんごめんなさい、甘ったれカス女です、みたいな気持ちを抱えたままプロの人事の面接を捌けるわけがない
だっこが足りないことへの不安、就活の不安がダブルパンチで襲う
自分の弱さダメさに耐えかねて、ああこれ私おかしいのかな、病気かな、そう思って " だっこされたい 大人" とか調べたりする
そうすると、家庭環境がツラい方とか、両親からの愛情がもらえなかったためにそういった状況に陥ってしまった方のエピソードをたくさん目にする マジで涙なしには見られない
凄絶すぎる オイオイ、みんな頑張りすぎだぜ
かくいう私は、全くそんなことはない
普通の一般家庭に育ち 父も母もいて、年の離れたかわいい妹がいて、習い事を受けさせてもらったり、私立の大学にまで行かせてもらったりして、まあ愛情たっぷりで育っている 無問題 というかパーフェクトに近いんじゃないの。余計に申し訳ないです 愛情をお返ししていく立場ですよ
そんなに愛情もらっておいてまだ甘えるんですか?ちょっと情けなくないですか?おこがましいです ズルいですね
検索結果にすら、遠回しに怒られている気がする
明日も(もう今日や)朝から就職活動です 今年は感染症のこともあって余計に厳しい つらいな
就職活動って今、自己分析みたいなのが流行りなんですよ 自らと修行僧がごとく毎日毎日向き合って、結果自分はクソだというところに毎回毎回行き着く。
だっこか。本当にだっこが原因なのかな。こんなに弱いならばどこかに欠陥があんじゃないの。だっこがあったって、いつかどこかでぶっ壊れるんじゃないの。いつか誰でも、どうでも良くなっちゃうんじゃないの。そういうことばかり考えて気が滅入る。
みんなはだっこなくても生きていけるんですよね、多分。なんか思考のコツとかあるんですか?もういっそ猫ちゃんになっちゃいたいな。撫でられて過ごす。
もうすぐ29歳になる童貞です。吐き出させてください。
お互いを深く知るためのコミュニケーションなのに、会話そのものが目標になってしまっていて、気を遣っているつもりでも、結局は自分が傷つかないように、当たり障りのない、面白みもない会話しかできない。年頃の男なら知っていて当然の知識も、できて当然の振る舞いもできない。料理の美味しいお店も休日の人気スポットも知らない。好きなものはあっても、他人と比べて低俗だと思われるのが怖くて、その良さを語るほどの知識も語彙力もない。
「自分は女性との付き合いが下手だから、こんな自分では相手を楽しませられない」と勝手に諦めて、結局失礼な態度を取っていることに気がつけない。
「自分に興味があるなら向こうから色々聞いてくるはずだ」と自意識過剰になりながら、自分からは決してそのようなアクションは起こせない。
悪い印象を与えたくなくて、相手を喜ばせる言動よりも自分が安堵するための言動しかできない。一歩踏み込んだ質問をすべきなのに、「相手が不快な気持ちにならないかな」などと無駄な心配をしているようで、そんな質問をする自分が気持ち悪がられないかと考えているにすぎない。
こんな拗らせ方をしていても、それを矯正しようとすらできない。
そのくせプライドだけはやたらと高くて、相手の些細なミスや性格の不一致に憤りを覚えたり、冗長なLINEのやりとりにウンザリしたとしても、それを指摘する勇気はない。
自分がまともな恋愛もできない欠陥人物だと評価されるのが怖くて、古くからの友人にも職場の同僚にも、自分が童貞であることを打ち明けられない。
セックスやエロには憧れを抱くくせに、嫌悪感と虚無感とプライドが邪魔をして風俗店に行くこともできない。
身だしなみに気を遣っているようで、トレンドの服を買うほどの自信も意欲もない。
そしてなによりも、「自分はそこまで悪くはないよなあ」などと根拠のない自信に自惚れ、自分の異常な欠陥を直視できていない。
さぞ日常生活もコミュニケーションが取れないのかと思うだろうが、消防士として勤めている都合上、職場内での会話も、一般市民の方々と会話をする機会も多い。
特に救急隊員として出動した際は傷病者の怪我や病気の状態を訪ねたり、病院に着くまでの間に世間話をしたりもする。
傷病者の不安を和らげようと、柔らかい言葉と表現を使い、時には冗談も織り交ぜる。
職場内では、人それぞれの性格や雰囲気を見て、冗談と真面目を使い分けて話すことができているつもりではある。
これらはあくまでも仕事をこなすために必要な所作で、深く踏み込むつもりがないからできる、一種の演技・役割のようなものだと思っている。
本来の自分はこんなに明るくないし、冗談も言わないし、理解力のある人間ではないと自覚している。
上辺だけでもいいからそのコミュニケーション能力を使えばいいだろう、と思うだろうが、それができないからこんな酷いことになってしまったのである。
更に言えば、消防士であることを鼻にかけて、自慢気に誇っているのも非常に良くない。
僕は自分がコミュニケーション能力のある人間のように振る舞うくせに、コミュニケーションが取れないと嘆く、ペラッペラで芯のない大根役者なのだ。
コミュニケーションを取るうえで多少の齟齬はあって当然だし、相手に不快感を与えないような言葉を選んだり、悪いところよりも良いところを探すのが当たり前であるのに、僕はその当たり前が、女性相手にはできない。
凝り固まった固定観念、一方では高くもう一方では低い極端な自己評価、周囲の人間を心の底から信頼できない疑心暗鬼。
恥を捨てて素直に話すだけでいいのに、それができない。
関わった人を傷つけ、不快な思いをさせるだけ。
いつかは一歩踏み出せると信じ、誰かが手を引いてくれるのを足踏みしながら待っているだけのクズ。
それでも、なんとか変わりたいとは思っている。
思っているだけ。
無理だろうけど。
事件当時ロマン・ポランスキー監督は不在で(映画でもその通り)、犯人たちに襲われていない。
現在も存命で去年も作品を出している。(少し昔の作品だが、戦場のピアニストはかなり話題になった作品)
しかも殺人犯とは何ら関わりがなく、以前に引っ越した住人と勘違いされて彼女らは殺された。監督らの素性は事件に関係がない。
この映画が救ってみせたのは監督ではなくその妻、シャロン・テートだ。
劇中でも説明される通り、当時売り出し中の女優で、監督との子供を妊娠中だった。
この映画ではシャロン・テートの魅力的な姿が何度も描かれ、しかし最終的にディカプリオが彼女の家に招かれる場面ではインターホン越しでのみ会話し、ディカプリオと同じフレームには映らない。
とても誠実な描写だと思う。
実行犯に殺害を指示したチャールズ・マンソンは額に鉤十字のタトゥーを入れているが、タランティーノは過去のイングロリアス・バスターズで憎きナチの額に鉤十字を刻んだ。(ちなみにこのナチ将校役の俳優がポランスキー監督の映画おとなのけんかで主演してる)
そしてイングロリアスバスターズでは「映画を使って」ナチどもを焼き殺したように、この映画でもマンソンの手下を「映画の小道具を使って」焼き殺す。
1969年は「ロックが死んだ年」ともいわれ、アメリカにとって大きな節目だったことには違いがない。
しかし監督のタランティーノは「ハリウッド監督」ではないし(アメリカ映画=ハリウッド映画ではないのがややこしい)、彼はハリウッドやアメリカなどメインストリーム以外の映画も浴びるほど見ていて、それこそ中国や香港や日本などアジアの映画に多大な影響を受けた人間である。
キルビルが急遽テイストの違う二本立てになったのも、チャイニーズ・オデッセイという香港映画の影響である。(チャイニーズ~は一作目がコメディで、二作目が恋愛もの)
(タラがオールタイムベスト一位に挙げている続・夕陽のガンマンもイタリア産のマカロニウェスタンでアメリカ映画ではない。ちなみに監督のセルジオ・レオーネが撮ったワンスアポンアタイムインアメリカも長いけど大変な名作。セルジオ・レオーネ監督の大ファンでもあるし、タイトルからもわかる通りタランティーノはかなり影響を受けている。~インアメリカについては、ラストのデニーロの微笑みの解説を見ると、また味わいが増す)
ブルース・リーの話が出てきたが、タラはキル・ビルでは死亡遊戯の衣装を真似し(何の説明もなく出てくる「カトーマスク」も、グリーンホーネットでブルース・リー演じるカトーがつけていたマスクのこと)、主人公ブライドの使う技はブルース・リーのワンインチパンチで、必殺技は(ブルース・リーに影響を受けた)北斗の拳の技のようだ。オーレン石井へ敬意を示す闘いは、ドラゴンへの道のチャック・ノリス戦を思い起こさせる。
キルビルで描かれる復讐や暴力の虚しさは、燃えよドラゴンでブルース・リーが奇妙な泣き顔で表現したのと同じものだ。
そして敵役のビルには、ブルース・リーのドラマ企画を奪った俳優デヴィッド・キャラダインを配している。
タランティーノは、そういう監督なのである。ちなみにブルース・リーの主演が叶わなかったドラマ企画が、ちょうどワンス~の時代の頃の出来事でもある。
ちなみに、キルビルが前後編になった元ネタのチャイニーズ・オデッセイの主演はチャウ・シンチー(少林サッカーが有名)であるが、彼もまたブルース・リーマニアだったりする。(ドラゴン怒りの鉄拳のパロディや、少林サッカーやカンフーハッスル等、ブルース・リーネタ多し)
少し脱線するが死亡遊戯という映画もまた、「ブルース・リーという俳優の死後に、彼が生きているかのように撮られた」特別な作品で、その点がワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドと共通している。
(すでに香港ではスターだったが)ブルース・リーもハリウッドでの売り出し中にこの世を去った人なのだ。(ワンス~劇中でシャロン・テートが自分の映画を見るシーンがあるが、ブルース・リーは燃えよドラゴンの公開やそのヒットを目にすることがなかった)
ちなみに作中で喧嘩していたブラピ本人もブルース・リーおたくである。楽しかっただろうなあ。(ファイトクラブでの物真似が彼のアイデアというのは有名)
あとワンス~作中のブルース・リーが調子こいてるのは、実際の彼がああいうキャラだったためでむしろファンとしては大喜びするポイント。(ブルース・リーの物真似をするときは、顎をしゃくって半目で相手を文字通り見下したように眺める。服のセンスも、実際にああいうチンピラのようなダサいファッション)
何より、タランティーノは「超」がつく映画狂で、大げさではなく映画から人生のすべてを学んだような人間だ。
あらゆる映画を吸収し、現実にはモテないスーパーボンクラだったくせに、(映画からの知識だけで)玄人好みの渋い「中年の恋愛映画」すら物にしてしまう監督である。
落ち目だった俳優を「自分が好きだから」という理由で起用し、劇的にカムバックさせたりと、フィクションの力で現実を変えたこともある。
(※ネタバレ注意:この俳優とはジョン・トラボルタのことだが、タランティーノの好きな某映画ではヒロインを救えず、せめて「映画の中だけで生かす」ことを選ぶ。言うまでもなく、ワンス~を思い起こす)
(というよりもともと映画そのものが、亡くなった俳優の生きている姿を見られるタイムマシンのような装置なのだろう。そういう評論はよく見る)
そして、前述のイングロリアスバスターズではユダヤ系の、ジャンゴではアフリカ系の観客の心を、荒唐無稽なフィクションで熱く揺さぶった。
ヘイトフル・エイトでは差別主義者と黒人の和解をそれこそ「フィクション」という小道具を介し、素晴らしい形で描いてみせた。
日本ではネタにされがちなキルビルも実に真面目な女性映画である。「五点掌爆心拳」などという冗談のような技で、男女の歪な恋愛関係を誠実に描いたのだ。この映画では男はみな弱くて使えず、女性は強く逞しい。
(タランティーノは「強い女性」を描く監督としても有名だ。殺人鬼の変態スタントマンが、女性スタントマンたちにボコボコにされる映画デス・プルーフも撮っている)
タランティーノはフィクションの虚しさも当然知っているだろうが、同時にフィクションの力を強く信じている人間でもあるのだ。
(ちなみにデス・プルーフの主演であるゾーイ・ベルはキルビルでユマ・サーマンの「スタント」をしていた女性で、ワンス~にも出演。例の「ブルース・リーとの喧嘩」で車を壊されたひと。死亡遊戯→キルビル→ワンス~と考えてみても面白い)
(ディカプリオについては、ある種かなり本人に近い役。若手時代から演技力が高かったのに、レヴェナントで受賞するまでアカデミー賞からは長年ずっと無視され、色んな人に揶揄されてきた。アカデミーに無視されてきたのはタランティーノも同じ)
もちろんワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドは、ハリウッドやその他の「アメリカ黄金時代」への郷愁が詰まったお伽噺ではある。
冗談じゃない。
田舎で好きでもない医学をシバいている女として、一言物申したい。
「Sai no Kawara」が全てだと思わないでほしい。
当人が嫌いというわけではないし、病理医を目指す志は本当に尊敬する。
このまま夢に向かって突き進んでほしい。
ただ、入試差別を受けた者の声を代弁しているような姿勢、そしてそれを称賛する薄っぺらい人たちが気に食わない。
そもそも論だが、私大医の入試を受けられる時点で、金銭的に相当恵まれている。
再受験を認めてくれる親も懐が広いなあと思う。
受験にかかる費用をどれだけ自分で稼いだのかは知らないが、多分全額自費ということはないと思う。
まともな社会人が独力で稼げるような金額ではない(もしそうなら本当に尊敬するが)。
つまり、私立医が視野に入る時点で、アッパークラスに属しているわけ。
でもカネがない。女子だと親の許しが出ない。家賃も仕送りも論外。
奨学金という手もあるけど、勤務地縛りや厳しい条件がつきもの。挫折したら全額返金。
医学部の女子差別とかいうけど、もっと根本的な問題が受験制度には存在すると思う。
けど、「地元に医学部あるんだから、そこに進学すること以外許さない。あと現役以外もありえない」みたいな感じで拒絶された。
残念なことに、こういう言葉をかけられたのは私だけじゃないんだよな。
田舎のそこそこ勉強できる女子は、ある種の洗脳を受けていると言ってもいい。
そりゃそうだよね。DV夫に引っかかったときすぐに離婚できるから。
そんなことないと思うんだが?
あと「女医」ってだけで人格攻撃受けがちなのマジで何とかならないかな。
プライド高いって、プライド高い男性医師の方が圧倒的に多いだろw
Sai no Kawaraを聞いて安直に感激する人たちは、田舎の狭っ苦しい社会にもっと根深い賽の河原があることに気付いてほしい。
大学教員が仲間内で人を紹介する時、○○先生はセンター試験XX点でとても優秀な先生ですよ、と冗談交じりに言うことが多い。
東大京大卒でまだ正規の教員には就いていないが、センター試験で高得点を取る「優秀な」人であるので、ポテンシャルは高いですよ、という意味だ。
東浩紀が千葉雅也と知り合った時も、もう30代後半以上なのに、ツイッターでセンター試験の点数について述べ合っていた。
大学教員の世界で、センター試験の点数は一生ついてまわり、その点数でどういう人間かを判断される。
高ければ優秀なエリート、低ければ野生児で才能のある人。
留学先で、あまり熱心に勉強せず良い成績が取れなくても、「僕はセンター試験XX点ですから」と言って、優秀さをアピールする。
ツイッターに書いてあった。
マルクス主義社会学者、橋本健二は著書『アンダークラス』で現代日本の貧困層の分析を行い、今の政党が彼らの代弁者たり得ないことを述べた。
貧困層は、政治的な右左はばらばらなものの、再配分には多くが肯定的である。
経済的な再配分を第一党是とし、その他の政策はイデオロギーにとらわれることなく、柔軟に対応する政党を作れば、貧困層の支持を得る可能性が高く、またそういう政党が存在しなければ、貧困層を救えない。
現在日本の「左派」政党においては、再配分は「定食に出てくるおかずのひとつ」に過ぎず、その他の左派的政策・主張の方に力点がある。
参議院議員だった山本太郎は2019年の4月1日に「れいわ新選組」を旗揚げする。
れいわの主張の根本は、再配分であり、貧困者の経済的充足である。
山本は自分を財務大臣にするなら自民党とも手を組む、と冗談交じりに言った。
それを批判したツイッターリベラルは多かったが、山本はおそらく橋本のこの本を読んでおり、貧困者への経済的利益を第一に代弁するならば、その他の政策は妥協しうる、下層民を代表する政党、という橋本の構想を取り入れたのだろう。
参議院選挙でも都知事選でも、積極財政による、貧困者への経済的充足を第一に訴えた。
参議院選挙が始まるころになると、リベラルにふだん批判的な池田信夫ですら、山本の「貧困層を取りに行く」政党について、大きな支持を得るだろうと予想した。
だが、それまでだった。
山本の訴えに共感するような人たちは、たとえ貧困層であっても、「意識が高い人」たちであり、「学はあってもお金がない」人だ。
でもそんな人の数は限られている。
圧倒的多数の、「学も金もない」アンダークラスには届かなかった。
日本にはアンダークラスを代弁する政党がない、そこを目指せば、ブルーオーシャンだ、そう思っていた人も、
じつは、それがレッドオーシャンだったことがあらためて分かった。
従来どおり、高学歴リベラルの価値観で組まれた政策「定食」のおかずのひとつに貧困対策を置いたほうが、票は取れるのだ。
このような失敗は、昔からあり、ロシア革命の時も、革命勢力は農民を説得して回ったが、結局、農民は体制を支持し、革命には参加しなかった。
人並みに友達はできる。仕事上の付き合いも人並みにはするし、SNSで知り合い、今では学生時代以上の友達になったといえる人も増えた。特段コミュ障というわけでもなく、陰キャだけど陽キャの人たちとも付き合えていたので、これまでは何も感じずに過ごせていた。
だけど、一人二人…と深い付き合い、親友のような関係の相手が増えるにつれて、『これ以上踏み込みたくない、踏み込んでほしくない。』という心のガードが極端に働くようになってしまった。
あるタイミングまでは普通に会話もしているし冗談も言い合えるんだけど、ひとたび相手から好意(友達…というより親友や恋人に向けるそれ)を向けられたり、友達→別の友達に向けられている好意を見ると自分にもそれが向き、深い仲になった頃に裏切られてしまうのではないか、あるいは喧嘩別れをしてつらい思いをすることになるのではないかと怯んで、竦んで、相手のことが怖くなってしまう。信じられなくなってしまう。
だけど、決して好意を向けられたくないと心の底から思っているわけではない。むしろ好意を向けてもらえることは嬉しいことだと思っている自分もいる。全くもって矛盾した考えだ、頭がおかしいと自分でも思う。
そんな失礼千万で傲慢な自分が嫌いで嫌いで、何度も治そうと努力した。いままで約束は受け身だったが、自分から遊びに誘うようにした。SNSでも予防線を張らずに積極的に話すようになった。自分から相手に親友だと思っている、これからも仲良くしたいという想いを積極的に伝えるようにしてみた。
だけど、やっぱりある時ふと電池が切れたように駄目になってしまった。親友たちのことを再び怖いと思ってしまった。毎日のようにしていたチャットをすっぽかした。そんな傲慢な私を「どうしたの?」「何かあったの?」と心配してくれていて、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。心配してくれることに有り難くも感じる。だけれどどうしてもその気持ちを信じられない。
森山直太朗氏の『生きてることが辛いなら』の中にこんな歌詞がある。「生きてることが辛いなら いっそ小さく●ねばいい 恋人と親は悲しむが 三日と経てば元通り」。なるほど、どんなに親しい人でも三日あれば忘れ去られてしまうのならば、いっそこの想いを抱えたまま、忘れてもらえるように友人たちの前からいなくなった方が良いのだろう、そんな風に考えてしまう。どうせ薄い繋がりだ。【アカウント削除】をワンクリックするだけで消えてしまう、そんな儚い友情だ。こんなことを思っているのに、その自分を処刑するボタンを押せない弱い自分がいる。
こんなことは増田にしか書けない。家族にも、医者にも、友人にも、永遠に理解されることはないとすら思っている。そんな風に他人を信じられない、傲慢な自分が嫌いだ。同情が欲しいのではない。こんな想いをこの世界の誰かが抱いている、そんなことが少しでも誰かの記憶に残れば、あるいはこの世界に私と同じ気持ちを抱いている人がいるんだと思って安心してくれる人がいれば嬉しいと思う。
といっても、まだ、冗談や嘘をいうんだろうな
冗談の大切さがわかるだけに、いらつく。こっちの手とかにかるく包丁を当てて流血をみせてやっても、まだ、コロナは嘘で冗談だとしかおもっていない
目の前で人が死んでも
すごい、ドッキリとかいいそう
信じないやつって、自分が死んでも信じないんだろうな
いつもは、
どこに行くにもだいたい愛車のデ・トマソ・パンテーラかでお出かけするんだけど、
もちろんの如く車でおでかけかと思ってたけど、
出先が雪どっさり積もってるみたいで、
新幹線に乗ったってわけなのよ。
久しぶりの新幹線は
いつものデ・トマソ・パンテーラでの道のりだと20時間ぐらいかかる本当に優雅な移動時間なんだけど、
気持ち的には3秒で到着する感じよ。
一応にしい向かっていて途中までは雪が全然降ってなかったので、
本気出したら車でもこれたんじゃね?って思ってたんだけど
ある県境のトンネルを抜けたら雪国だったっていうこすり使い倒された表現を地で行くような、
私流に言うなら、
まあ雪国まいたけだけでも覚えてもらいたいなぁって、やっとりますけど。
いきなり本当に雪が積もっていて、
積もっているという表現より、
雪の壁!
レミオロメンの粉雪の出だしがどこで入ったらいいのかわからないぐらいの調子で、
私もこれほんとうに県境を越えたら、
でも目の前の雪国まいたけは本当だし、
しっかり雪積もってるわ。
私はその新幹線駅からまた目的地までバスか何かで行こうと思ってたけど、
でも大丈夫、
滑り知らずってことは雪に対しては対して平気みたい。
だけどうかうかしている間に新幹線内のWi-Fiが30分以内で切れちゃうから
すみません!もう30分のWi-Fiチケットください!って購入しなければならないわ。
だから私はこの増田をもうあと30分以内で書き上げなければならない季節なの。
だから雪!雪!ってワンコロみたいにはしゃいでなんかいられない少女時代でもあるわ。
今はもう帰りだけど、
そのすっかり車内Wi-Fi券買うのを忘れていたんだけど、
お土産の雪国まいたけはしっかりと買って変えるから安心してね。
いやね!雪国まいたけって言っても本当に生雪国まいたけなわけないじゃない!
だからついついつも雪国まいたけって連呼しちゃうのはこのせいよ。
でもね、
雪もめちゃ積もっていたんだけど、
もうよく分からなくなってきたわ。
そんなこんなで、
やっぱりこの頃中野仲成、
移動する人の数は少ないみたいね。
いつもとは違う新幹線の車内のイキフンもこの際楽しんでおこうと私の中の心の写真機がそう写せってガイアが囁いているようでもあるし、
それはそれで面白いなって思わなくっちゃ!
でも私は少なくとも、
髪を染めてみたり、
それはあくまでも結果であり過程ではないことを歩みたいと思ったし、
そうやって見ている地方のちょっとやんちゃな成人式のニュースを傍から見てると
ちょっと絶滅危惧種を愛らしく自然保護の心を持って優しく保全活動をしたくなる、
そう胸がキュンとなる感じがしてたまらないわ。
サミットに行きながら考えたわけなのよ。
うふふ。
新幹線乗る前の適当な駅前喫茶店でのトーストモーニング茹で卵付きよ。
茹で卵をうまくいかに剥くかってところがここのモーニングの勝負どころよ。
私は手慣れた感じで、
おでこにカチンと茹で卵にヒビを入れさせしすせそさそ、
いい勢いでパチンとおでこにぶつけたら、
な!なんと生卵!
ここのモーニングのトーストモーニングの茹で卵と思っていた卵は生玉子だったっていうオチ。
納豆でもついていたらパーフェクトだったのに!ってやかましーわいって
もうおしぼりでおでこについた生卵の破片を拭き取った後の祭りね。
そういった感じの、
これで引っかかるの2回目よ!
やれやれだわ。
ボトルに入れておいてお水なりお湯なり入れておくと
いつの間にやらティーパックほうじ茶ウォーラーの出来上がりってわけ!
ほら!簡単でしょ?
簡単なのよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
「JFKは影武者で本物は俺だから」が口癖だったJFKおじさん。
最初はそういう冗談かと思って聞いていたら本人は割とマジだったらしく、茶化していたら「俺の家にJFKの鉛筆があるからそれを見せてやるよ。それで信じるよな?」と半ば強引にJFKおじさんの家に連れて行かれる事になった。
新宿御苑の裏にあるJFKおじさんの家は要塞のように外壁が高い大豪邸で、都心の一等地にしてはかなり広い敷地があり、外から見るとモダンな美術館のようだった。知らない人の家を勝手に自分のだと主張しているのだと思いビクビクしながら家に入るとJFKおじさんの娘(?)が滅茶苦茶デカい犬を連れて出迎えてくれた。
JFKおじさんの娘に応接間に案内され10分ほど待っていると、JFKおじさんが桐箱を持って来て部屋にやって来た。
「開けてみな?」と言われ開けて見ると、中には何も入ってなかった。曰く、本物のJFKの鉛筆はスミソニアン博物館に貸し出してるからここには無いらしい。「スミソニアンとは高校からの付き合いだから断れなくてね〜」と笑っていたが、決して目を合わせようとしなかった。
このご時世で共通テストをやるのは頭おかしいという意見をよく見る。わかる。でも「やっぱ都会が危機的な状況に陥ると社会が問題にしてくれるんだね~~~都会様都会様」となっちゃうんだよね。性格悪いので。
これは雪国出身で大学進学を機に関東地方に進出した人間のお気持ち表明である。論もめちゃくちゃだし何かしらの提案もするわけじゃない。言葉通りただのお気持ちである。
私がセンター試験を受ける年も記録的な大雪だった。その年の冬は電車の遅延・運休は当たり前、休校の日もちらほらあった。一番きつかったのはセンター試験前日に公共交通機関が一斉に止まったことだ。もう無理だろって思った。冗談抜きで家から一歩も出られないほどの吹雪だった。担任の先生に「センター試験は開始時間前に会場につかなきゃ始まらない」って言われたことがあって、その時は心の中で馬鹿にしたけど、その意味がはじめて分かった。試験当日にセンター試験会場にたどりつけない場合だって十分にあり得る(ちなみに公共交通機関の遅延で会場到着が遅れた場合は救済措置で追試受けられるけど本試より難易度が気持ち高め。自家用車で移動して遅れた救済措置はない)。それで人生狂わされたらたまったもんじゃない。その日の夜に、ニュースに映ってる都会の同学年の受験生が「いつも通りやればいい結果が出ると思うので頑張りたいです」って言ってるのを見て心底腹が立った。こっちは当日会場にいけるかどうかすらわからないんだぞ。自分のメンタルやら体調以前に、自分がコントロール不可能な要因で「いつも通り」ができないのはめちゃくちゃ悔しい(生理もそうだよね)。ちなみに当日は普段なら車で30分で行ける会場まで1時間半かけて送ってもらった。親には感謝している。
今年の冬も記録的な大雪だ。7日から9日にかけて大雪が降るから気をつけろと国土交通省が緊急発表を出した。でも考えてほしい。もしコロナ禍がなくて、緊急発表の日時が共通テストに被ってたとして、共通テスト実施に疑問を投げかけてくれた人はどれくらいいるんだろうか? 「国から緊急発表が出たからやるべきではない」と言ってくれる人はどれだけいるんだろう?
関東地方に進出して、ひしひしと感じていることがある。関東地方にいると、関東以外の地域の情報が全然入ってこない。そりゃNHKのローカルニュースも首都圏だけど、そういう話をしてるんじゃない。全国ニュースだってほとんどが関東(特に東京)で起きた情報だ。ぶっちゃけ東京でブルーインパルスが空を飛ぼうがスカイツリーが何色に光ろうが医療崩壊しようが感染者が2000人超えようが日本海側のド田舎に関係ないけど、全国ニュースでは延々と東京の感染者数やら医療逼迫やらがトップニュースに並ぶ。全国ニュースは東京ローカルニュースだ。
このご時世で大変じゃない人間なんてそうそういないだろう。特に日本全国の受験生は大変だろうなって思う。でもたまには自分が住んでいない地域の人に思いを馳せてもらいたい。都会に住んでる人とか特に。