はてなキーワード: 偽装とは
筋トレとかストレッチとか朝早くにウォーキングとかまぁ色々時間の使いようはあるんじゃねえかな
少なくともセンズリで片腕だけ鍛えると身体のバランスが片方に寄ってしまうって誰かが言ってた
いつもは反ホロコースト否定論活動報告みたいな投稿してるけど、ちょっとだけ視点を変えてみようと思った。
地球平面説の広まりを知ったのは、Netflixにある「ビハインド・ザ・カーブ」を何年か前に見た時くらいからだと思う。いわゆる、トンデモ説を信じる人が昔から絶えないのは知っていたけど、まさか地球平面説を現代で信じる人がいると言うのは私にとっては衝撃的だった。科学万能の時代に生きていて、スマホには当たり前にGPSを使った地図アプリがあり、毎日の天気予報には観測衛星のデータが使われ、そんな人工衛星が宇宙ゴミになるほど衛星軌道上に存在してて、海外旅行では時差を合わせなきゃならないし、ネットを使って海外の人とリアルタイムでやりとりすればこちらは昼でもあちらさんは夜なんてよくある話――と地球が球体でないと考え始める理由が見つからないほど文明人全員が地球が球体だと知っていると思っていた。
そんなフラットアーサーたちが拒否する考え方である「地球が球体である事実」を何故、現代文明人のほとんどが受け入れているのかをアーサーたちに言わせれば、それは「NASAの陰謀」らしかった。アーサーたちは例外なく、たくさんの他の陰謀論を信じている。9.11は当然アメリカ政府の陰謀だし、人類は月へなど行ってないし、イルミナティだのロスチャイルドだのシオンの議定書だのと言ったよくある陰謀説をいくつも信じている。もちろん、ホロコーストだって連合国とユダヤ人による陰謀だ。アメリカン・アーサーのオキニの映画は『トゥールーマン・ショー』である。理屈的に言えば似たような発想である『マトリックス』にならないのは、正直、知性の問題だとしか思えないわけだが、アメリカン・アーサーの直感にピッタリなようである。(ほんの少しだがレベルが上がるとマトリックスの「白ウサギを追え」が合言葉になるQアノンになるけれど)。
どうも、それはないようである。アーサーにも色々な人がいて、積極的に「地球は平面か球体か?」を科学的に調べようとする人たちもいる。200万もする高精度ジャイロを使ったり、あるいは遠距離でレーザービームを飛ばしてカーブを調べようとしたりするのだけど、自分達で調べておいてその「球体である」と証明されたはずの実験結果を都合よく平面説の方に合わせてしまうのだからわけがわからない。私は、ネットを通じて何人かの人に聞いてみたのだけど、一様にその回答者全員が「信仰を変えさせるのは無理」との返事だった。都合の悪い様々なエビデンスは無視するか、何かが間違っているからだとか、都合よく解釈して平面説に無理やりに合わせてしまうので、どうしようもないらしい。
何故そうまでして平面説にこだわるのかを聞いてみると、直感に反するから、だけのようである。例えば、科学的に説明される「地球は赤道上で時速1700kmで回転しており、太陽の周りを時速10万8000km、太陽系自体も銀河系を時速85万kmで移動している――だなんてアンビリーバボー!」なんだそうだ。確かに、そんな速度で動いていたら人間はひとたまりもなく吹っ飛ぶ説を覆そうとすると、それらが相対速度であったりすることを「科学的に」説明しなければならなくなるので、アーサーの知性の方が早々に吹っ飛んでしまうだろう。
そんなアーサーは海外だからこそ見られる現象なのかなと思っていた。特にアメリカは、進化論を否定する人たちが大勢いることもよく知られているし、アメリカ人はアメリカこそ世界の中心だと思っている人も大勢いて、地球平面説が受け入れられやすい土壌があるから広まっているんだと普通に考えていた。しかし流石に日本は海に囲まれた島国だし、「日出る国」と呼ばれるからこその「日本」でもあるし、なんとなくイメージ的にフラットアーサーは皆無に近いと思っていたのだけど、そんなことはなかった。こんな本がとうとう日本にも。
地球平面説【フラットアース】の世界 単行本(ソフトカバー) – 2021/2/2
私が知らないだけで、昔にもあったのかもしれないが、レビュー欄を見て二度目にびっくり。一つだけ引用してみよう。
Eden Mediaというチャンネルで、CGIで宇宙を偽装している動画を見てから、フラットアースってありかもと思っていました。地球がとんでもないスピードで移動していることを、本を読むまで全く考えたことがなかったのですが、数字を見たらありえないスピードです。私はめまいがするメニエール病で苦しんだ経験があるので、考えただけでも気分が悪くなるような異常な速さの高速移動。こんなのあり得るの?と思いますが、実際に現実の地面は全然動いている気配がしません。あと重力とか引力とかが、単に仮説だったとは。とにかく自分が常識だと思っていることが、実は真実ではなかったという驚きの連続で、とても面白いです。
南極条約の不自然さがとてもよくわかりました。きっと南極条約で世界中がウソをつくことに契約したんだろうなと思います。騙されていたことに腹が立ちますが、新しい世界が見えてきたようで、なんだかすがすがしい気分。フラットアースはオカルトでもスピ系でもなくて、自然をちゃんと観察して出した結論だと思います。自分でも太陽や月を観察してみたいです。とにかく本当の世界が知りたいと思いました。
「南極条約で世界中がウソをつくことに契約した」だそうである。わたしゃ、南極条約というと、ファーストガンダムで「捕虜の扱いは南極条約に則ってくれるんだろうな?」のコズンのセリフしか思い浮かばなかったけど、そっか、南極の向こうは地球平面の縁だったもんな、アムンゼンの偉業は嘘だったんだね、――ともかく、結局そういう陰謀論で解決するんだと呆れた。
知性レベルが低いのは必要条件ではあっても、十分条件ではないとは思う。個人的に思ってるだけの話だけど、知性レベル(教育レベルであるとか元々の頭の回転の良さであるとか、特に定義があるわけではないが)が低くても、ほとんど大抵の人は自分が知らないことに対しては思考をシャットダウンする。例えば、私は歴史に非常に弱いのだけど、そうした知らない歴史の話が出てくると、普通に私は知らないだけなので話に加わることはほぼ出来ない。実際、誰もが知らないことがたくさんあるのが当たり前だし、そうした無知な世界に対しては、ほとんど大抵の人は考えること自体は無いはずである。極端な話をすれば、私の飼ってる猫のプリンが、地球が球体であるか平面であるかなど考えることがあるとは信じられない。
私たちは、そうした考える必要がなかったり、考えても知らないだけの事に対しては、普通は思考をシャットダウンするのではないのか。この話については、AIの領域の話で、「フレーム問題」ってのがあって、簡単に言うと「ありとあらゆることについて考えないと行動に移せないのであれば、そのロボットは永久に止まってしまう」というパラドクスである。私たち人間はどこかで思考をシャットダウンするからこそ行動が出来ているのである。例えば、道路交通法では自動車運転手は今から運転する自動車を最低限の点検しないことには運転してはならないはずだが、ほとんどの人が運転開始前の点検などしないはずだ。これを極端に考えて、自動車のありとあらゆる部分について点検しないと安全を保てない、などと考え出したら、一生かかってもその自動車を運転することは出来なくなるはずである。「ガソリンに異物が混入していないか」「バラして点検した後に組み付けた時に何かミスはしていないか」「何か部品に時間的な劣化はないか」等々。
一言で言えば「余計なことを考えるな!」だけの話ではあると思うのだけれど、その余計なことを考えるように仕向ける「自分の頭で考えてみろ」というアドバイスをする人がいるから困る。著名な哲学者ルードウィヒ・ヴィトゲンシュタインは「語りえざることについては沈黙すべし」と言ったが、私に言わせれば「考えても無駄なことは考えるな」と翻訳したいところである。
宇宙人であるA氏は地上に地球人が産まれる前に地球に降り立った。
彼の宇宙船はガスや二酸化炭素類が発生しないクリーンなエネルギーであり、菌類は旅立つ前に滅菌室で滅菌されていた。
A氏は着陸し次第船体を四次元のボックスに折りたたんで収納し、四畳半の居住区を地球の物質だけで形成した。
完全なエコ住居であり、彼はできるだけ地球環境に改変を加えないように現地の食物は食べず、タンパク質と炭水化物を合成して作り出す器具からペースト状の食物だけを摂取した。
遠く母星への通信は量子論をもとにした通信設備で、ラグなく通信することができた。
光学迷彩的な家には匂いの偽装が施されており、虫も寄り付かない設計であった。
彼は地球の生態を母星に送り続けると、全く平和なまま母星から持ち込んだお茶を飲んで、つつがなく数年を過ごした。
そうして報告をすべて終えると、彼は住居を風呂敷のように畳んで四次元ボックスに入れ、代わりに宇宙船を取り出すと去っていってしまった。
まるでたった一人の花見客が、酒瓶をすっかり片付けて姿を消すようにである。
立つ鳥跡を濁さず(意訳)という信念を持つ彼であったので、一粒たりとも地上の改変箇所は見当たらないままだった。エネルギーは小型の縮退回路で間に合わせ、便は小型ブラックホールの中で分解した。
北方謙三は、90年代以降は歴史小説家として地位を確立したが、まずは80年代半ばにハードボイルドの旗手として名を上げ、同じ頃から若者向け雑誌に於いて、読者から寄せられた人生相談や質問に答える『試みの地平線』という連載企画を開始した。
この連載は掲載誌において人気となり、その結果、北方には「二言目には『ソープに行け!』と(※太いゴシック文字で)相談者に説教する」「『バカヤロウ!』と(※太いゴシック文字で)相談者を怒鳴りつける」というステレオタイプなイメージが付き纏うことになる。今でも北方謙三に対して、そのような説教オヤジとしての印象を抱く人は存在することだろう。
これを書いている私も、若者だった当時、そういった北方謙三と読者のやり取りを、面白おかしく楽しんでいた一人である。
今でも私の記憶の片隅に残っている、相談の一つについて以下に記す。それは、二十歳そこそこの若い男性から寄せられた「何もかもイヤになった。生きる気力を失った。自殺を考えている」という、現在の言葉で表現すれば、メンタルヘルスに問題を抱えている人からの相談であった。
最初に相談のお便りを読んだ時点では、私を含めた多くの読者は「どうせまた『バカヤロウ!ソープにでも行ってクヨクヨ悩むのを止めろ!』とか言うのだろう」と思った。しかし、そのような我々の予想に反して、この相談に対して示した北方謙三の反応は意外なものであった。
正確な文言ではないが、以下のような感じであったと思う。
「お前の気持ちは分かった。どうしても、とお前が言うならば、俺にはお前を止められない。けれど、ほんの少しだけで良いから、それを実行に移すのを待ってくれないか?
お前が実際に死ぬ前に、何でも良いから、死ぬ前に本を百冊読んでから死ぬと、そう俺に約束してくれないか?
何も、俺の本じゃなくても良いんだ。図鑑だって、子供向けの絵本だって、何だって構わないから。何かの本を、お前が死ぬ前に百冊だけ読んでみてはくれないか?
俺には、死にたいと思っているお前を上手く助けるための、力や知恵が無いかもしれない。それでも、百冊の本を読むうちに、その中でお前は、お前自身を救ってくれる何かに出会えるかもしれない。
もし百冊の本を読んで、それでもまだ気持ちが変わらなかったならば、その時はまた俺に手紙を書いてくれないか?その時また俺は、お前の言葉に、お前の気持ちに目を通す。その時、俺とお前で話し合おう。
そのように、俺と約束してくれないか?俺は、お前の返事を待つ」
この北方謙三による回答が、メンタルヘルスに問題を抱えた状態の人間に向かって掛ける声として、正解であると現在の私は思わない。正直に言えば、メンタルヘルスに問題を抱えた人間が百冊の本を読むというのは、ある程度の治療を経て回復を示してからでなければ、かなり難しいことだろう。しかし、そのような審判を私が下せるのも、メンタルヘルス問題の重大性や対処方法について認識している現代人だからである。この相談が寄せられた当時、メンタルヘルスの問題に関する世間一般の意識や知識は、まだまだ貧しいものであった。したがって、当時の北方謙三やお便り採用係の雑誌編集者が、現代人の視点から見れば相談に対して頓珍漢な対処をしていたからといって、それを我々現代人が非難するのは些か酷であろう。
当時の一読者に過ぎなかった私の勝手な想像ではあるが、北方謙三は、本気でこの相談の手紙を送ってきた人物を助けたいと思ったのだろう。ただ、誰かを助けたいと思うことと、そう思った時に助ける力を実際に自分が持っているか否かは、別の話である。
だから、北方謙三は賭けたのであろう。かつて北方謙三自身が自ら経験したことに。すなわち、文字を書くという行為や、その行為によって生まれる本の持つ力によって、救われて生き延びたという経験に。相談者の彼もまた、救われて欲しいと祈りながら。
当然のことだが、昔も今も北方謙三は単なる作家であり、決してメンタルヘルス問題及びそれに対する対処方法の専門家ではない。しかし、それでも当時の北方は、この相談者に対して、その時の彼が思いつく限りの、出来うる限りの、誠実な回答をしたのだと、今でも私は思う。生きる為に文学の道、ものを書くことを選んだ作家という人種が、言葉や本に人間を生かす力が有ると信じることができないとしたら、その人はもはや作家と名乗れなくなるだろう。
あの後、相談者が百冊の本を読み終えたのか、自殺を踏み止まることが出来たのか、相談者を北方謙三が救うことが出来たのか、今に至るまで私は結果を知らない。
ただ、これを書いている私自身について言えば、この北方謙三の回答に手を引かれて、今まで生き延びたような気がしている。私の頭の中の、何処か片隅にこびりついた「せめて死ぬ前に百冊の本を」という言葉は、ずっと小さく残響し続けていた。もちろん数字の上では、とっくの昔に私は百冊の本を読み終えている。私という人間は、生きるのが辛くて死にたいと思いつつ、いざとなると死ぬ度胸が無い。結果として、みっともない姿で辛うじて生きている。その言い訳に「あとプラス百冊読むまで、死ぬのは待とう」と私自身に言い聞かせながら、人生の精算を少しだけ先延ばしして、逃げ続けているだけである。私の行為は、読書という行為を汚しているようで、北方謙三を始めとする物書きの人々や、本当の読書好きの人には誠に申し訳無く思う。
あの相談者は救われただろうか?救われていて欲しいと思う。彼が救われたのなら、自分も救われるような気がするから。
= = =
ここまで書いて我に返り、我ながら気持ち悪い文章だと思ったので、精進落し代わりに、個人的に面白かった『試みの地平線』の相談ベスト3を以下に書いて終わることにする。
第3位:ハードボイルド作家として苦労したことは?という質問に対して。北方謙三の馴染みのバーで、北方がいることに気づいた他の客が「やっぱりハードボイルド作家っぽい酒を飲むのかな?」とヒソヒソ噂話をしていたため、格好を付けるためにバーの店主に協力して貰い、バーボンに偽装したウーロン茶を出してもらってグッ!と飲み干して「じゃあな、マスター」と格好良く帰った。
第2位:北方先生はSMプレイの経験はありますか?という読者からの質問に対して。「有る」と回答。Mの女性から「縛って叩いて」とリクエストされたので、要望どおり北方謙三が女性の身体を鞭で叩いたら「痛い!」と言われたので、思わず「ゴメン」と言ったら、素に戻った女性から「そこで謝ったらダメ」と普通にダメ出しされた。
第1位:未経験で一日も早くエッチな初体験をしたくて悶々としている男子高校生からの「こんな僕は鳩の交尾を見ても勃起するのですが、一体どうしたらいいですか?」という質問。これに対して「馬鹿な質問を送ってくるな!」と一喝。超極太のゴシック文字で「まったく。俺はお前が羨ましいよ!」と回答。回答文が僅か2行に収まる。この極太文字による強調は、おそらく編集者から北方謙三への悪ふざけだったと思われる。
意識高い系のやつらが「パンティーが趣味」って言いがちな感じがあったよね。
「日々忙しい仕事もパンティーで整えばまた頑張れます」みたいな、なんか「俺忙しい」アピールのやつ。
ブルセラとかじゃなくて昔ながらの銭湯とかの併設サウナとか郊外のスーパー銭湯にわざわざ行って
「俺オシャレだけじゃなくてこういう文化も良いと思っちゃうタイプみたいです」みたいなアピールするやつ。
なんかパンティーでイキタイとかみたいな、気の使ったデザインが多少入ったスキャンティーだのTバックだの履いてきて
あと、なんかTwitter見てたら微インフルエンサー崩れみたいな、
普段は頼まれもしないのにビジネスの心得とか名言とか呟いてる系のビジネスマンが
「パンティーってなんでレースがついてるんですかね?心を鎮めたいのに騒がしいとかありえない」
みたいなこと呟いてお追従リプで「僕もそう思ってました!」とか「ほんとそれです」とかついててさ、、
俺はそこでキレたね。
はあ?ブルセラってのはなあ、元々人生黄昏れてるオッサンの憩いであって
そんな高尚なもんじゃないんだよ。
家庭に給料運ぶ以外特に生きてる価値のない無趣味なオッサンとか、
墓に入るの待ってるなんにもやることないジジイとかのつかの間の憩いなわけ。
金も文化資本も持たないし、運動する体力もない俺らもう終わってるオジサンの
誇ることのできない、きたない汁を出すだけの怠惰な趣味なわけよ。
ブルセラ好きすぎて睾丸に負担かかりまくって結局亡くなってしまった西城秀樹さんのようなさ、
それがさ、ヨッピーとかも悪いんだけどさ、
現代ビジネスマンのセックスワークとかそういう今っぽい感じとかとサウナをくっつけてさ、
なんか一見意識高くない風に「意識高い」文化に持ってこうとしてる感じがマジでむかつくわけ。
一見意識高くない、っていうのが最近のサブカルチャー界隈の小賢しい偽装なんだけどさ。
陰キャだけどインフルエンサーになりたいなら堂々とそう振るまえよ。(これはヨッピーに言っているわけではない)
そういう細かいくだらないこと言い出した大衆文化はみんな衰退してくのよ。敷居が高くなってくからさ。
「パンティーにレースはいらない」とかさ、そりゃおめーの勝手だけど、レースのないパンティー履けよ。
ブルセラってのは、そういう猥雑で、わざわざ趣味とか言い出すような日の当たるものじゃなくて、
パンティー見終わったらビール一気に飲んじゃったりして、健康かどうかすらわからないような、
価値観の判断から離れた、日常生活の隙間に入ってくる、一人のゆたかな時間であるべきなのよ。
マジでむかつくわ。
意識高い系のやつらが「サウナが趣味」って言いがちな感じがあったよね。
「日々忙しい仕事もサウナで整えばまた頑張れます」みたいな、なんか「俺忙しい」アピールのやつ。
テルマー湯とかじゃなくて昔ながらの銭湯とかの併設サウナとか郊外のスーパー銭湯にわざわざ行って
「俺オシャレだけじゃなくてこういう文化も良いと思っちゃうタイプみたいです」みたいなアピールするやつ。
なんかサウナイキタイとかみたいな、気の使ったデザインが多少入ったサイトだのTシャツだのできて
あと、なんかTwitter見てたら微インフルエンサー崩れみたいな、
普段は頼まれもしないのにビジネスの心得とか名言とか呟いてる系のビジネスマンが
「サウナってなんでTVがついてるんですかね?心を鎮めたいのに騒がしいとかありえない」
みたいなこと呟いてお追従リプで「僕もそう思ってました!」とか「ほんとそれです」とかついててさ、、
俺はそこでキレたね。
はあ?サウナってのはなあ、元々人生黄昏れてるオッサンの憩いであって
そんな高尚なもんじゃないんだよ。
家庭に給料運ぶ以外特に生きてる価値のない無趣味なオッサンとか、
墓に入るの待ってるなんにもやることないジジイとかのつかの間の憩いなわけ。
金も文化資本も持たないし、運動する体力もない俺らもう終わってるオジサンの
誇ることのできない、きたない汗を毛穴から出すだけの怠惰な趣味なわけよ。
サウナ好きすぎて血管に負担かかりまくって結局亡くなってしまった西城秀樹さんのようなさ、
それがさ、ヨッピーとかも悪いんだけどさ、
現代ビジネスマンのノマドワークとかそういう今っぽい感じとかとサウナをくっつけてさ、
なんか一見意識高くない風に「意識高い」文化に持ってこうとしてる感じがマジでむかつくわけ。
一見意識高くない、っていうのが最近のサブカルチャー界隈の小賢しい偽装なんだけどさ。
陰キャだけどインフルエンサーになりたいなら堂々とそう振るまえよ。(これはヨッピーに言っているわけではない)
交互浴の正しい手順、とかさ、温度が、、とかさ、
そういう細かいくだらないこと言い出した大衆文化はみんな衰退してくのよ。敷居が高くなってくからさ。
「サウナにTVはいらない」とかさ、そりゃおめーの勝手だけど、TVないサウナいけよ。
サウナってのは、そういう猥雑で、わざわざ趣味とか言い出すような日の当たるものじゃなくて、
サウナ終わったらビール一気に飲んじゃったりして、健康かどうかすらわからないような、
価値観の判断から離れた、日常生活の隙間に入ってくる、一人のゆたかな時間であるべきなのよ。
マジでむかつくわ。
フレームワークを狙う方法もある。DNS偽装を使うと、ほぼあらゆるフレームワークがインジェクション
DNSインジェクション こんなもの署名検証で一撃だけど 署名検証しないAutoUpdateがどんだけあると思ってんだと
セキュリティー担当だともっとうるさいが、そこが面白い話がある
なんだか湿気で髪の毛がはねるわ。
湿気嫌いだわーって思う反面
ある程度の湿気のことはそりゃ我慢もできるもんだけど、
こないだまで
もの凄く乾燥していたのにこのいきなりの梅雨入りの湿気のまた髪の毛がはねるとなると、
このなんか心に煮えたぎるなにかは
結構さ
本格的に蒸し器もあったら便利なんだろうけど、
セイロというか蒸し器は蒸すことが出来ないって正論に直面してしまうのよね。
だから鍋で簡単に大のせてスチームパンクを彷彿とさせるジェットスチームで蒸すことが出来たら
電子レンジよりふっくら
正に蒸かすことができると思うのよ。
茶碗蒸し専門店に行かなくても自分でできんじゃん!って思うのよね。
一度蒸し器にハマると一定の期間はハマるけど
飽きるのも早すぎるのよね。
しかもなんかさ2段重ねのセイロとかも
多段蒸しできて、
本当にヘルシーの塊かよ!って思うほどそれはヘルシーなんだけど、
それをプラマイゼロというかマイナスに持って行くほどまた大量のゴマドレかマヨネーズをぶっかけちゃうと
蒸しヘルシーが台無しって話もあるわね。
まああんまり私の冷蔵庫にそんな重量級の物は無いからあると言ったらせいぜい紫蘇ドレッシング「ドレミファソラ紫蘇」がお気に入り!
と書いているうちに、
これさ
電池切れ無いように
電源コート的なUSBの線で給電できるような無線マウスがあったら、
全く本末転倒な気がするけど、
電池が切れない分便利じゃない?
まあ
今日は湿気と蒸し器とマウスの電池の話題をうまく組み合わせた増田書けた!って思ったけど、
電池だけに!ってね。
なんか
それで私オチ理解できて笑ってるんだからね!って偽装笑いしてる人多いと思うのよ。
全くそれと一緒で、
やっぱり電池がなくなってきて、
フタを開けてくるくる回しても
赤いランプが点灯して
電池替えろといってくるので、
私の机の引き出しの中にあった電池の充電器持っていった人誰?って
いやこれは犯人捜しをしているんじゃなくて、
どこか誰かが持って行った充電器を今日は探す旅に出ることにするわ。
うふふ。
普通に置いてありました
だからこないだはきっと売り切れだったのよね!って
そう納得する着地地点に10点満点で着地したところ。
そのままウォーラーイン!
湿気もさることながら良い季節ねとも思うわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ナンバーディスプレイの番号見てハッと思って私でなかったんだけど、
下4桁が0110ってのは警察って言うので相場が決まってるじゃない。
私そんな心当たり無いんだけどなぁって。
心当たりあっても怖いんだけど。
でもさ、
これって発信番号って偽装できるのかしら?
もはや何を信じたらいいのか分からない状況。
でね、
なになに署って出てくるっしょ?
でも検索してもこの電話番号が一切どこにも出てこなかったので、
昨今何かしら検索してもページが出てくる世の中。
まったく逆に何も出てこないのも
怪しさをさらに増すような感じで、
でね、
再びかかってくるはずでしょ?
謎が深まるばかりなんだけど、
結局は偽装番号からかかってきたって納得のいくところなんだけど。
そう思うことにしたわ。
またかかってきたら出てみようかなって、
そんなことも無いと思うけど。
なんかちょっと怖いわ。
お届け物不在連絡と思っても私いつも事務所に届くようになってるんだけど、
予定していない荷物もそんなに届かないはずだし。
メールはスパミーなのは一目瞭然というか見るまでもない一刀両断で分別できて燃えるゴミの日に出しちゃえばいいんだけど、
一応慎重に中身を見ちゃうわよね。
あれがきっと危ない罠の橋を渡らせる渡良瀬川のあの歌を歌う人って今ど忘れしちゃったけど、
そんな感じで巧妙にクリックさせような感じで、
進んでいるのか後退しているのか全く分からないわよね。
ここだけは要用心したいところだけど
気を付けるとともに、
うふふ。
美味しいものに罪はないって美味しんぼの山岡さんも言ってる通りよ。
朝から楽しんでいるわ。
湯冷ましで一度少しお湯の温度を沸騰の温度より下げて入れると美味しいわよ。
あんまり緑茶って沸騰がんがんのお湯でしない方が美味しいのかも。
なんて。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
オリンピック開催中にアフリカ系アメリカ人の一人から変異体のウィルスが発見された。そのウイルスはまたたく間に東京を覆い、その中から意識を通じる能力を獲得する者達が現れる。その頃米国のCIAは中国が秘密裏に開発していたコロナウィルスの変種が存在することを突き止めた。CIA諜報員□□は日本に発生したPSY体質の者達に接触する。
封鎖が続く日本にて、新たな国中国が誕生する。その生誕はまるで集団的な意思を持っているかのように思えた。しかし、神性民主主義共和国を掲げたその集団は客観的に見ても生産手段を持たなかった。
一方中国では、日本の中に発生させたナノマシンが暴走したことを懸念していた。それはコロナウイルスに偽装された形で持ち込まれ、爆発的に自己増殖するようにプログラムされていた。しかし、そこから新たな能力を獲得する人類が誕生することは想定外であった。
共和国の者達は世界中の情報という情報を収集し始め、その情報を輸出産業として切り売りし始める。この姿勢に世論は共和国への避難を強めたが、国家のコントロールを考える各国元首たちの耳には届かない。やがて共和国の狙いが、ナノマシンを主体としたナノ・グリッド・コンピューティングを形成することである、と言う事実が□□によって判明した。彼らは『バベルの塔』と呼ばれる巨大建築物を作り出し、すべてはナノマシンに支配され、同調すべきであるという指針を打ち出すのだった。
辛くも日本から逃げ延びた□□は、この凶行を前にして軍事的作戦に乗り出すよう米国の指示を仰ぐ。しかし上層部の足並みは揃わず、ナノマシンによる侵食は世界の半分を覆い、世界は2つに分断される。
補足:作り方によっては二部構成も作れる。
ファミレス、コンビニ、ほとんどの冷凍食品(冷凍野菜などの食材除く)を「まずい」と感じる人間だけど、
まず
>たとえば0〜100の数値で美味しさを評価するとして
>「不味い」っていうのは、まあ30以下とかじゃん。
(略)
>そういうイメージだよな。
この時点で「あまりにも感覚が違う」としか言いようがなくて絶句してる。(念のため言っておくけど、優劣はつけていないぞ。)
美味しいってそういう階段状に一直線ではない、一つしかない感覚ではまったくない。
「うまさを偽装して美味いと感じさせる作りになっていると知覚するので不快である、
しかもその偽装したうまさも単調で自分の好みに合うほどの幅がなく、
さらにその偽装の具合にディストピア飯感を感じる惨めさもあいまって嫌気がさす」に近い。
美味しいの尺度に話を戻そう。
無理やり「数値で美味しさを評価する」に合わせると、レーダーチャートがもっとも適切ではないか。
そしてその輪郭が真円に近いほど美味しいと感じるような感覚だろうか。
そしてレーダーチャートの項目は料理によって違い、同じ項目でも料理によって適切な数字・幅が違い、
同じ要素でも項目が複数あるような感じ。
(たとえばワイン、渋みが適切だと美味しいと感じるはずだ。しかし、違うワインになれば違う渋みの量が適切になる。
そして渋みが最初に来るか後から来るか、徐々に盛り上がるかすとんと切れるか、残り方、など、でどのように他の要素と干渉するかが変わり、感じ方は変わる。)
さらにいえば人間はというより動物は美味しいはずのもの、美味しいと感じているものでも心が「美味しくない」と受け入れないこともある。
慣れていない味・組み合わせは美味しいと感じる要素をすべて満たしていても美味しいとは感じない。
生物としての本能だ。性別だと雄・男のほうが、また成人のほうが子どもよりも警戒心が強く、味覚が保守的だ。
(だから人間でも食の新規のブームはほとんど常に若い女から広まる。男から始まる場合、警戒心を上回る強い刺激が特徴のものになる。激辛とか。そしてマイノリティであり続ける。)
子どものころ、ダイアナ妃も好物だったというキュウリの生クリームスープを食べてそれを実感したことがある。
生クリームもキュウリも好物だったが、自分は冷製スープに慣れておらず、キュウリと生クリームの組み合わせも初めてだった。
美味で有名な高級フレンチレストランだったのもあり、そのスープは実に美味かった。
それはわかった。が、自分はどうしても舌が伝えてくる「これは美味い」を受け入れられなかった。美味いと感じつつ不味いと感じたわけだ。
たとえば、野生のニホンザルが普段食べているそのへんの木とか草だ。品種改良されている野菜ですら生では美味いとは感じないのに、そのへんの草が美味いわけがない。埼玉県民にはなれない。
数字で測るのなら、ほぼどれも0.これを食べなければ明日飢え死にするのでなければ口にするのはごめんだ~1.飢饉のときには食べられることを思い出すかもしれない、優先順位は下のほうだが~2.千年ぐらい品種改良をした後ちゃんと調理すれば食べる気が起きる、の間にある。まれに3.これは普段から食べたいかも…のものもある。
が、この不味さは不快な不味さではなかった。
渋み苦味が強すぎる、うま味がない、など美味いからは確かに程遠いのだが、ごまかしや偽装がない部分は旨くもありすらする。しかもそのまずさ95%の中にほんのり甘みを感じたりする。
ぜんざいにほんのり入れる塩が甘さを引き立たせるように、まずさ要素が主体の中に漂うあえかな滋養はよりクローズアップされるのかもしれないとなんとか思ったが自分はサルじゃなくてよかった。
味覚は0~100の一つの尺度だけで測れるような単純なものではない。
ほとんどすべてのファミレスやコンビニの食べ物を不味いと感じる理由は、不気味の谷に似ているとも思う。
味付けの組み合わせは非常に上手い。塩分やうまみ、調味料のバランスを真円に近づけて出せるのは大手企業ならではのさすがの部分だ。
が、実際に口にしてみると「まがいもの」と感じる不気味の谷に落ちている。
素材の質があまりよくないのを無理やり何か、普段自分が口にしないもので補って人間に見えるように皮をかぶせましたというような感覚に陥る。
それを一言で不味いと言っている。
anond:20210506234730を読んで、書いておこうと思った。
弱者女性を名乗る人々が精神障害持ち男を「でも理解のある彼女さんが」と、積極的に叩いて来たことは忘れないし、いくら弱者女性が辛そうにしていても「所詮弱者女性は自分の不幸を理由に人の不幸(精神障害)を軽んじ、嘲笑する人間性だからな」と思い続けるだろう。
そして今現在の心境としては、弱者女性がいくら辛そうにしていても絶対に手を差し伸べたくないと思っている。
思っている、というよりは
わたしは普段の生活において、「人に親切にしよう、人に気を配ろう、(いくらかの定型発達の人々が無自覚にするような)人を追い込むような真似はやめよう」と積極的に気をつけて生きているつもりだ。別に、不幸な人々を負け組と嘲笑し生きるような人柄ではない。しかし、弱者女性を名乗る人々の言動を見るうちに、「弱者女性は、こんな言動をしていたんじゃ差し伸べられる手も差し伸べられないだろうな」という感情が「誰が手を差し伸べるか」という気持ちに変化していた。
正直なところ、わたしは手を差し伸べられると、差し伸べるほどの余裕や能力があるとは言い切れない。だから、わたしがどう思おうと関係のない話かもしれない。
弱者女性には弱者女性なりの辛さがあるのだろう。それは、男性であるわたしには男性なりの辛さがあって、発達障害であるわたしには発達障害なりのつらさがあるのと同じだろう。わたしの辛さが弱者女性に完全に理解できるものだとは思わないし、わたしもまた弱者女性の辛さは理解できない。
弱者男性たるわたしと、弱者女性どちらが辛いかはわからない。測り、比べられるものだとも思えない。
しかし、弱者女性たるあなたがが辛いのだと主張すれば、辛いのだろうなと思うことぐらいはできる。「そうなんですね」程度の相槌は打てるだろう(それがわたしのコミュニケーショ能力の限界だ)。
これがわたしの線引きだ。これ以上はもう手を差し伸べたくない。
わたしが男だからか、は知らぬが「理解のある彼女さん」を作ろうと思えば作れるだけの性的価値とやらはあったかもしれない。
だがアセクシャル、アロマンテイックの自分にとって、理解のある彼女さんは不要だった。欲しいと思えなかった。
高校時代に鬱で心療内科にかかり、(ずっと怖くて診断を避けていた)発達障害の診断を受け、障害を受容し、社会で人並み程度に働けるようになるまでには多大な苦しみと努力があった。
わたしは普通には働けないのではないか、障害者雇用を選ぶべきではないか、そもそも、社会に出るべきではないのではないか、周囲が言うようにわたしは女性に養われるべきなのか、そのために好きになれない異性相手に理解し難い恋愛感情を偽装し結婚するべきなのだろうか……
人からすれば大したことのない悩みかもしれないが、わたしにとっては生涯を通して付き纏うだろう悩みだ。
「結婚という逃げの選択肢があるだけマシ」と言われるかもしれないが、その選択肢を負わねばならない人間にもそれなりの辛さがある。
結婚したくもないのに、結婚しなければ嘲笑される。養われたくもないのに、養われれば良い、養われるべきだ、養われないなんて、選べるのにこれを選ばないなんてバカだ、選べたのに選ばなかったなんて大バカだ、と謗られる。その風当たりは歳を取れば取るほどきつくなるのかもしれない。
辛いことだ。
弱者女性の「でも男は理解のある彼女さんが」は、大変不愉快で腹立たしく、そして不安な気持ちにさせるものだった。誰に対して言ったわけでもない、自嘲混じりの嘆きだったのかもしれないが、実在個人に当たる弾だったのだ。
わたしのようにアセクシャルでない障害者男性にとっても、失礼な言葉だと思う。
女性からの恋愛対象に該当するような男性になることは、フリをすることは努力が必要だ。金も、服装も、正しい話題選びも、普通の男性らしいふるまいをすることも、普通の男性らしいコミュニケーション能力を身につけることも、とても困難な男性達はいる。普通の男性に、普通に「価値がある」男性に、擬態する努力は何も異性から好かれるためではない。人並みに扱われるために不可欠な努力だ。「理解のある彼女さん」も「性的価値」も男ならば必ず初めから手に入るものではない。努力あってのものだ。
理解のある彼女さん、に好かれ、関係を維持している障害持ち男性は、自分の努力を語るにも周囲への感謝を欠かさない素晴らしい人だろう。
(正直な話、わたしだってアセクシャルとして、恋愛脳の異性愛者は結局「彼女さん」か、とうんざりしていたし、理解のある彼女さんに頼る甘えたバカ男のせいで自分の辛さが矮小化されるわけで恨みしかないわけだが、)理解のある彼女さん持ちの障害者男にとっても「お前らは理解のある彼女さんがいるからいいよな」は不快な言葉だったろう。
さまざまな精神障害が認知され、発達障害を持っていても療育によって働ける男性は増えていくだろう。異性に頼らずに生きる障害者だって、この世にいるのだ。
あなたがたは、ーーーあなたではないかもしれないが例えそうだとしても、弱者女性の名で、精神障害持ちの男性にたいして発してきた言動は、無かったことにはできない。
弱者女性の辛さを、弱い立場の男性を叩く正当化の材料にしたこと。自分の辛さを人への加害の理由にする、品位の無さ。
弱者女性は、弱者女性を名乗る幾人かの言う通り、ごく一部の自称・弱者女性がそうした言葉を発しているだけなのかもしれない。
弱者女性に寄り添う顔をして、(※フェミの反対の概念がない)叩き男叩きに興じる悪がいるだけなのかもしれない。
しかし弱者女性が、はっきりと、それを否定・批判しているは見たことがない。
例えたった1人でも、過去の(あなたもしくは弱者女性を名乗る他人の)発言を批判するならばわたしも考えを変える努力をしようと思う。
anond:20210509075626に追記を書きしました。
anond:20210506123407を読んで、書いておこうと思った。
弱者男性を名乗る人々が精神障害持ち女を「でも理解のある彼氏くんが」と、積極的に叩いて来たことは忘れないし、いくら弱者男性が辛そうにしていても「所詮弱者男性は自分の不幸を理由に人の不幸(精神障害)を軽んじ、嘲笑する人間性だからな」と思い続けるだろう。
そして今現在の心境としては、弱者男性がいくら辛そうにしていても絶対に手を差し伸べたくないと思っている。
思っている、というよりは
わたしは普段の生活において、「人に親切にしよう、人に気を配ろう、(いくらかの定型発達の人々が無自覚にするような)人を追い込むような真似はやめよう」と積極的に気をつけて生きているつもりだ。別に、不幸な人々を負け組と嘲笑し生きるような人柄ではない。しかし、弱者男性を名乗る人々の言動を見るうちに、「弱者男性は、こんな言動をしていたんじゃ差し伸べられる手も差し伸べられないだろうな」という感情が「誰が手を差し伸べるか」という気持ちに変化していた。
正直なところ、わたしは手を差し伸べられると、差し伸べるほどの余裕や能力があるとは言い切れない。だから、わたしがどう思おうと関係のない話かもしれない。
弱者男性には弱者男性なりの辛さがあるのだろう。それは、女性であるわたしには女性なりの辛さがあって、発達障害であるわたしには発達障害なりのつらさがあるのと同じだろう。わたしの辛さが弱者男性に完全に理解できるものだとは思わないし、わたしもまた弱者男性の辛さは理解できない。
弱者女性たるわたしと、弱者男性どちらが辛いかはわからない。測り、比べられるものだとも思えない。
しかし、弱者男性たるあなたがが辛いのだと主張すれば、辛いのだろうなと思うことぐらいはできる。「そうなんですね」程度の相槌は打てるだろう(それがわたしのコミュニケーショ能力の限界だ)。
これがわたしの線引きだ。これ以上はもう手を差し伸べたくない。
わたしが女だからか、は知らぬが「理解のある彼くん」を作ろうと思えば作れるだけの性的価値とやらはあったかもしれない。
だがアセクシャル、アロマンテイックの自分にとって、理解のある彼くんは不要だった。欲しいと思えなかった。
高校時代に鬱で心療内科にかかり、(ずっと怖くて診断を避けていた)発達障害の診断を受け、障害を受容し、社会で人並み程度に働けるようになるまでには多大な苦しみと努力があった。
わたしは普通には働けないのではないか、障害者雇用を選ぶべきではないか、そもそも、社会に出るべきではないのではないか、周囲が言うようにわたしは男性に養われるべきなのか、そのために好きになれない異性相手に理解し難い恋愛感情を偽装し結婚するべきなのだろうか……
人からすれば大したことのない悩みかもしれないが、わたしにとっては生涯を通して付き纏うだろう悩みだ。
「結婚という逃げの選択肢があるだけマシ」と言われるかもしれないが、その選択肢を負わねばならない人間にもそれなりの辛さがある。
結婚したくもないのに、結婚しなければ嘲笑される。養われたくもないのに、養われれば良い、養われるべきだ、養われないなんて、選べるのにこれを選ばないなんてバカだ、選べたのに選ばなかったなんて大バカだ、と謗られる。その風当たりは歳を取れば取るほどきつくなるのかもしれない。
辛いことだ。
弱者男性の「でも女は理解のある彼氏くんが」は、大変不愉快で腹立たしく、そして不安な気持ちにさせるものだった。誰に対して言ったわけでもない、自嘲混じりの嘆きだったのかもしれないが、実在個人に当たる弾だったのだ。
わたしのようにアセクシャルでない障害者女性にとっても、失礼な言葉だと思う。
男性からの恋愛対象に該当するような女性になることは、フリをすることは努力が必要だ。メイクも、服装も、正しい話題選びも、普通の女性らしいふるまいをすることも、普通の女性らしいコミュニケーション能力を身につけることも、とても困難な女性達はいる。普通の女性に、普通に「価値がある」女性に、擬態する努力は何も異性から好かれるためではない。人並みに扱われるために不可欠な努力だ。「理解のある彼くん」も「性的価値」も女ならば必ず初めから手に入るものではない。努力あってのものだ。
理解のある彼くん、に好かれ、関係を維持している障害持ち女性は、自分の努力を語るにも周囲への感謝を欠かさない素晴らしい人だろう。
(正直な話、わたしだってアセクシャルとして、恋愛脳の異性愛者は結局「彼くん」か、とうんざりしていたし、理解のある彼くんに頼る甘えたバカ女のせいで自分の辛さが矮小化されるわけで恨みしかないわけだが、)理解のある彼くん持ちの障害者女にとっても「お前らは理解のある彼くんがいるからいいよな」は不快な言葉だったろう。
さまざまな精神障害が認知され、発達障害を持っていても療育によって働ける女性は増えていくだろう。異性に頼らずに生きる障害者だって、この世にいるのだ。
あなたがたは、ーーーあなたではないかもしれないが例えそうだとしても、弱者男性の名で、精神障害持ちの女性にたいして発してきた言動は、無かったことにはできない。
弱者男性の辛さを、弱い立場の女性を叩く正当化の材料にしたこと。自分の辛さを人への加害の理由にする、品位の無さ。
弱者男性論を歪めてきたのは誰か、よく考えて欲しい。
弱者男性は、弱者男性を名乗る幾人かの言う通り、ごく一部の自称・弱者男性がそうした言葉を発しているだけなのかもしれない。
弱者男性に寄り添う顔をして、フェミ叩き女叩きに興じる悪がいるだけなのかもしれない。
しかし弱者男性が、はっきりと、それを否定・批判しているは見たことがない。
例えたった1人でも、過去の(あなたもしくは弱者男性を名乗る他人の)発言を批判するならばわたしも考えを変える努力をしようと思う。
弱者男性はマッチョイズムから抜け出してきた人たちだと定義できるだろう
弱者男性はマッチョイズムから抜け出しているにも関わらず幸福にはなっていない
フェミの主張である、女性に対する不当な扱いをやめることで、男性にも利益があるというロジックを組めなくなるからだ
弱者男性はその利益をすでに手にしていて、本当であれば幸せであるはずなのにそうなっていないという矛盾が起きる
フェミは思う、では弱者男性の幸せとはなんだろう?と、しかし聖人でもないのに人の欲望を聞くという行為は愚かだろう
弱者男性のグロテスクな欲望を聞き、フェミはどうしようもなくなる
フェミはこう思うことにした、弱者男性の幸せとは普通の生活を行い、普通に暮らすことだと
それであれば女性の幸せと釣り合っているし、ロジック的にも問題なくなる
思うにこれが一連の流れだと思う
問題点はあるが、フェミが対応を誤らなければ対処可能だと思われる。
問題点
捨てきれていないというのはフェミにとっては歓迎すべきことである
弱者男性と同列に扱うかは気を付けた方がいいだろう
基本的には弱者男性からマッチョイズムを見いだせればフェミの勝ちである。
男性性を放棄している状態でどのようにアプローチが有効かは女性自身の幸せにもつながる
そんな世界で女性が結婚したい相手を見つけることを一緒に考えるのは男女平等的な観点からも問題ないはずだ