はてなキーワード: エネルギーとは
「かつては財界が『人件費が高すぎて国際競争に勝てない』キャンペーンをしていた」という意見があり、一応その記憶は自分にもあるけど、そんな言説が本当に強かったのかどうか、あらためて確かめたくてTwitterを検索してみた。
結論から言うと、2010年前後ぐらいまでは割と普通・主流の意見で、一部のネット経済オタクがそれに反論している感じだった。しかし、アベノミクスの名の下にインフレと賃上げの好循環を掲げた第二次安倍政権以降は、明らかに少なくなっている。安倍政権は、なんだかんだまともではあったと思う。
製品の原価を考えた場合、原材料費+人件費+生産に必要なエネルギーなど となります。 原材料費はほぼ世界共通となりますので、人件費と付加価値部分の価格の問題となります。人件費は円で支払われますので、海外から見た場合、割高となり、これが企業の国内生産を苦しめます。(競争力低下)
ちょっと意見が違うな。国際競争力が外的要因で落ちているのに給与が上がり続けたわけで、人件費比率が下がったのは正常化に向かってるということでは。今、この場に具体的な数字を持っていないけど。企業に金を使えとも言ってません
グローバル化の名のもとに、ある意味国境なき価格競争が起きていますからね。海外の安い産品と人件費との競争にさらされ、平均化が進む。これまでは、自由主義が幅を効かせてきましたが、世界の先進国は障壁を設け始めている。
中国の生産拠点の移動には色々なご意見をいただきました。中には海外に求めず国内にとの意見もありましたが、国内では人件費が高く国際競争に負けてしまいますね、残念ですが・。
総務省タスクフォースで。ICT産業、主要16社での売上高販売管理費比率は日本企業は50%。その他地域は30%。人件費は欧州系の二倍、その他地域の六倍。国際競争力向上の壁は高い。
茂木議員「日本で企業再編が進まない」→平沼室長「産業再編の最大の問題点は余剰が発生する人材をどうするか。賃金が下がる。賃金消失を誰が補償するか?新日鉄は自分がやった。国際競争力回復で一番企業に負担が大きいのは余剰人員の賃金負担」
こないだJALの根本問題をBLOGにUPしましたが、 国際的に日本人の賃金が相対的に割高になって航空運賃のコストを圧迫し国際競争力が落ちてゆく構図は、当然にANAにも同じことが言える。
ガンマ線のことが知りたくてchatGPTに聞いてみた
AI プランク定数と同じ波長の電磁波は存在しません。プランク定数は最小の電磁波エネルギーを表す定数であり、電磁波の波長がこの定数と同じ場合、波長が無限小になり、エネルギーは無限大になります。
俺 プランク定数は非常に小さい値だけど無限小ではないよね、エネルギーが無限大になるというのは矛盾しているのではないか?
AI 申し訳ございます。プランク定数は非常に小さい定数であり、無限小ではありません。また、プランク定数と同じ波長の電磁波が存在しないということも矛盾することです。実際には、プランク定数は最小のエネルギーを持つ電磁波のエネルギーを示す定数であり、波長が無限小になるというよりも、エネルギーが無限大になることはありません。訂正いたします。
1秒に何万枚も絵が産まれて、大量の動画が飛び交っていて、漫画だってプロの作品無料で読める分が読み切れねえよ。
そりゃまあオーディオブックとかなら作業の合間に聞けなくもないけど、読む余裕はもうないだろ。
何かを読むのに使う時間とエネルギーはあっても、情報収集や雑談レベルが限界だろ。
創作の小話なんて見てる暇はないよ。
せめて漫画だろ。
こんな時代にただの文章を「誰かが読んでくれるだろ」で世に放流する奴は狂ってるとしか思えない。
文章がどれぐらい情報量が低いかっていうとさ、AIイラストソフトに絵を頼む時に狙ったの出すのに必要な情報量がおおよそ500文字ぐらいでさ、AIの描いた絵を見るのに人が使う時間がおよそ2秒なんだよ。
500文字2秒で読めるか?
無理だろ?
なんでか分かるか?
目ってのは記号を認識するためには出来てなくて、やっぱ本質的には形を認識するために出来てるからだよ。
それを他に表現方法がマトモにないから使ってた時代があるだけで、ソレ以外の方法に依る情報伝達が発展したら当然失われるものだった。
そして今その価値が失墜しきってる。
この状況でまだ「俺、電撃文庫に持ち込んでるんだよね。新人賞今回こそ取れるかな。もう35だから後が無いよ」みたいな事やってる奴がいたら狂人だから。
目を覚ませって。
財政出動で、再生可能エネルギーや原発再稼働や、蓄電池の増産の設備研究投資支援や、基礎応用研究投資は「財政出動」によるものだな。
新自由主義の財政均衡論に基づけば設備研究投資支援や、基礎応用研究投資はできないね。だって財政破綻するからw。
MMTで自国通貨建て国債と外貨借金を峻別したうえであれば、財政出動の無駄な足かせはなくなる。エネルギーを自国産にできて輸出を増やして輸入を減らせば、外貨借金が増えにくくなり、財政破綻から遠くなるね。
合理的であることは道徳的要請である。知能指数(IQ)と合理性指数(RQ)は別物である。IQはエンジンの馬力で、RQはエネルギー効率だと考えて良い。幸いにも、合理的になるように自分自身を訓練することができるかもしれない。ここにいくつかのアイデアがある。
1. スコアをつける
Brierスコアはもともと、気象予報士の天気予報に対するフィードバックを得るために開発されたものである。気象モデリング技術の向上と、より鋭いフィードバックにより、今日の気象学者は、1、2世代前よりもはるかに正確になっている。このスコアリングを応用できるだろう。
2. 同じ状況に陥った他人を探す
あなたが投資家で、ある会社の経営陣と面接し、その株を買おうと考えているとする。経営陣には楽観主義バイアスがかかっているはずなので、彼らの言うことは大目に見なければならない。しかし、他社に対する彼らの見方は、正確である可能性が高い。つまり、自分のことを聞くのではなく、他の人のことを聞くのである。皆、自分のことをユニークだと思いたいものだが、他の人が同じ状況に置かれたときにどうなったかを尋ねることは役に立つ。
3. クリティカルパスよりも余裕を持つ
あるタスクがどのぐらいかかるのか、と問われた時、「2時間」を「4日」と訳す。
現実の世界では、確率は常に変化している。合理的な思考をするための重要な課題の1つは、新しい情報が入ってきたときに、確率を正確に更新することである。最も優れた予測家はこれを非常にうまく行い、非常に細かい確率の刻みを使っている。(ただし、多くの人は確証バイアスに陥り、新しい情報を適切に評価に取り入れるよりも、無視したり、割り引いたりすることを好む。つまり、目的に対して間違った信念を補強し続け、コミュニケーションを無視し続けたり、間違った人とコミュニケーションをする。)
自民党全体が良い、悪いじゃなくて、自民党内部でも新自由主義とケインズ主義、緊縮財政と積極財政が割れている状態でしょう。
ケインズ主義も新自由主義もどちらも完全じゃない。ケインズ主義も、経常赤字からの外貨借金からの財政破綻含めて、何らかの供給破綻によるインフレの問題は抱えてる。
今回のエネルギー・食料不足に、政府が何もしない新自由主義が何らかの解を持てていたかといえば、解はなかっただろう?
海外インフレに対して、金利をあげよ、金融緩和をやめろと、確実にスタグフレーションに叩き落とす解を叫ぶのみ。
そして、合致する供給を確保し、作ることにより、海外インフレをチャンスとして、やっと回復の軌道に乗り始めたところだ。
MMTで、自国通貨建て国債と外貨借金を峻別しされてきている。そして、投機勢の売り浴びせに対して、経常赤字を垂れ流していたイギリスと、経常黒字を維持していた日本・中国で対比的な結果を出した。
対比的な結果によっても、政府にとって危険なのは経常赤字の足れ流しと外貨不足・外貨借金だと示された。
さらに、税制も今は消費税増税の話は一旦消えてる。貯め込まれてる法人所得は対処は必要だ。設備研究投資につながる金は減税、貯め込む金は増税と税制での誘導も必要だと思う。
シュレーディンガーはアインシュタインに宛てて、量子力学のコペンハーゲン解釈の重大な欠陥を明らかにするために、架空の実験装置を作った。この解釈では、量子系は外部の観測者と相互作用するまで、2つ以上の状態の重ね合わせに留まるとされる[1]。
この効果を、原子というミクロな世界の特殊性として片付けることはできるかもしれないが、その世界が、テーブルや椅子、猫といったマクロな日常世界に直接影響を及ぼすとしたらどうだろうか。シュレーディンガーの思考実験は、それを明らかにすることで、量子力学のコペンハーゲン解釈の不条理を明らかにしようとした。 粒子が重ね合わされた状態にあることは、一つの事実だ。しかし猫はどうだろう。猫はどちらか一方にしか属さないし、死んだり生きていたりもしない。
ガイガーカウンターの中に、ほんの少しの放射性物質が入っていて、1時間のうちに原子の1つが崩壊するかもしれないが、同じ確率で1つも崩壊しないかもしれない。このシステム全体を1時間放置しておくと、その間、原子が崩壊していなければ、猫はまだ生きていると言うだろう。システム全体のΨ関数(波動関数)は、その中に生きている猫と死んだ猫(表現は悪いが)が等しく混ざり合っていることで、このことを表現している。
この思考実験の意味合いについては、多くの現代的な解釈や読み方がある。あるものは、量子力学によって混乱した世界に秩序を取り戻そうとするものである。また、複数の宇宙で複数の猫が生まれると考えるものもあり、「重ね合わせられた猫」がむしろ平凡に見えてくるかもしれない。
通常の話では、波動関数は箱入りのネコを記述する。QBismでは、箱を開けたら何が起こるかについてのエージェントの信念を記述する。
例えば、Aさんがギャンブラーだとしよう。ネコの生死を賭けたいが、量子波動関数が最も正確な確率を与えてくれることを知っている。しかし、世の中には波動関数のラベルがない。自分で書き留めなければならない。自由に使えるのは、Aさん自身の過去の行動とその結果だけである。なので結果として得られる波動関数は、独立した現実を反映したものではない。世界がAさんにどう反応したかという個人的な歴史なのだ。
今、Aさんは箱を開けた。死んだ猫、あるいは生きている猫を体験する。いずれにせよ、Aさんは自分の信念を更新し、将来の出会いに期待するようになる。他の人が不思議な「波動関数の崩壊」と呼ぶものは、QBistにとっては、エージェントが自分の 賭けに手を加えることなのだ。
重ね合わせを形成するのはエージェントの信念であり、その信念の構造から猫について何かわかる。なぜなら、波動関数は、エージェントが箱に対して取り得るすべての行動(相互に排他的な行動も含む)に関する信念をコード化しており、Aさんの信念が互いに矛盾しない唯一の方法は、測定されていない猫に固有の状態が全く存在しない場合だからである。
QBistの話の教訓は,ジョン・ホイーラーの言葉を借りれば参加型宇宙であるということである。
2. ボーミアンについて
量子力学のコペンハーゲン解釈によれば、電子のような量子粒子は、人が見るまで、つまり適切な「測定」を行うまで、その位置を持たない。シュレーディンガーは、もしコペンハーゲン解釈が正しいとするならば、電子に当てはまることは、より大きな物体、特に猫にも当てはまることを示した:猫を見るまでは、猫は死んでいないし生きていない、という状況を作り出すことができる。
ここで、いくつかの疑問が生じる。なぜ、「見る」ことがそんなに重要なのか?
量子力学には、ボーム力学というシンプルでわかりやすい版があり、そこでは、量子粒子は常に位置を持っている。 猫や猫の状態についても同様だ。
なぜ物理学者たちは、シュレーディンガーの猫のような奇妙でありえないものにこだわったのだろうか?それは、物理学者たちが、波動関数による系の量子的な記述が、その系の完全な記述に違いないと思い込んでいたからである。このようなことは、最初からあり得ないことだと思われていた。粒子系の完全な記述には、粒子の位置も含まれるに違いないと考えたのである。 もし、そのように主張するならば、ボーミアン・メカニクスにすぐに到達する。
シュレーディンガーの猫の本当の意味は、実在論とは何の関係もないと思う人もいる。それは、知識の可能性と関係があるのだ。問題は、量子世界が非現実的であることではなく、量子系を知識の対象として安定化できないことである。
通常の知識の論理では、私たちの質問とは無関係に、知るべき対象がそこに存在することが前提になる。しかし、量子の場合、この前提が成り立たない。量子力学的なシステムに対して、測定という形で問いを投げかけると、得られる答えに干渉してしまう。
これらの本質的な特徴は「反実仮想」であり、何があるかないか(現実)ではなく、何が可能か不可能かについてである。実際、量子論の全体は反実仮想の上に成り立っている。反実仮想の性質は、量子論の運動法則よりも一般的であり、より深い構造を明らかにするものだからだ。
量子論の後継者は、運動法則は根本的に異なるかもしれないが、反実仮想の性質を示すことで、重ね合わせやエンタングルメント、さらには新しい現象が可能になるだろう。
シュレーディンガーは、仮想的な猫の実験で何を言いたかったのだろうか?現在では、シュレーディンガーは、量子論は、猫が死んでも生きてもいない浮遊状態にある物理的可能性を示唆していると主張したと一般に言われている。しかし、それは正反対である。シュレーディンガーは、そのようなことは明らかに不合理であり、そのような結果をもたらす量子論を理解しようとする試みは拒否されるべきであると考えたのである。
シュレーディンガーは、量子力学の波動関数は、個々のシステムの完全な物理的記述を提供することはできないと主張したアインシュタイン-ポドロスキー-ローゼンの論文に反発していたのである。EPRは、遠く離れた実験結果の相関関係や「spooky-a-distance(不気味な作用)」に着目して、その結論を導き出したのである。
シュレーディンガーは、2つの前提条件と距離効果とは無関係に、同じような結論に到達している。彼は、もし1)波動関数が完全な物理的記述を提供し、2)それが「測定」が行われるまで常に彼自身(シュレーディンガー)の方程式によって進化するなら、猫はそのような状態に陥る可能性があるが、それは明らかに不合理であることを示したのだ。したがって、ジョン・ベルの言葉を借りれば、「シュレーディンガー方程式によって与えられる波動関数がすべてではないか、あるいは、それが正しくないかのどちらか」なのである。
もし、その波動関数がすべてでないなら、いわゆる「隠れた変数」を仮定しなければならない(隠れていない方が良いのだが)。もし、それが正しくないのであれば、波動関数の「客観的崩壊」が存在することになる。以上が、Schrödingerが認識していた量子力学的形式を理解するための2つのアプローチである。いわゆる「多世界」解釈は、1も2も否定せずにやり過ごそうとして、結局はシュレーディンガーが馬鹿にしていた結論に直面することになる。
シュレーディンガーの例は、量子システムの不確定性をミクロの領域に閉じ込めることができないことを示した。ミクロな系の不確定性とマクロな系の不確定性を猫のように絡ませることが考えられるので、量子力学はミクロな系と同様にマクロな系にも不確定性を含意している。
問題は、この不確定性を形而上学的(世界における)に解釈するか、それとも単に認識論的(我々が知っていることにおける)に解釈するかということである。シュレーディンガーは、「手ぶれやピンボケの写真と、雲や霧のスナップショットとは違う」と指摘し、量子不確定性の解釈はどちらも問題であるとした。量子もつれは、このように二律背反の関係にある。
ベルが彼の定理を実験的に検証する前、量子力学の技術が発展し、もつれ状態の実在性を利用し、巨視的なもつれシステムを作り出す技術が開発される前、形而上学的な雲のオプションはテーブルから外されるのが妥当であった。しかし、もしもつれが実在するならば、それに対する形而上学的な解釈が必要である。
波動関数実在論とは、量子系を波動関数、つまり、死んだ猫に対応する領域と生きた猫に対応する領域で振幅を持つように進化しうる場と見なす解釈のアプローチである。シュレーディンガーが知っていたように、このアプローチを真面目に実行すると、これらの場が広がる背景空間は、量子波動関数の自由度を収容できる超高次元空間となる。
6. 超決定論について
不変集合論(IST)は、エネルギーの離散的性質に関するプランクの洞察を、今度は量子力学の状態空間に再適用することによって導き出された量子物理学のモデルである。ISTでは、量子力学の連続体ヒルベルト空間が、ある種の離散的な格子に置き換えられる。この格子には、実験者が量子系に対して測定を行ったかもしれないが、実際には行わなかったという反実仮想の世界が存在し、このような反実仮想の世界は格子の構造と矛盾している。このように、ISTは形式的には「超決定論」であり、実験者が行う測定は、測定する粒子から独立しているわけではない。
ISTでは、ISTの格子上にある状態は、世界のアンサンブルに対応し、各世界は状態空間の特別な部分集合上で進化する決定論的系である。非線形力学系理論に基づき、この部分集合は「不変集合」と呼ばれる。格子の隙間にある反実仮想世界は、不変集合上には存在しない。
アインシュタインは、量子波動関数は、不気味な距離作用や不確定性を持たない世界のアンサンブルを記述していると考えていたが、これは実現可能である。 特に、シュレーディンガーの猫は、死んでいるか生きているかのどちらかであり、両方ではないのだ。
シュレーディンガーの猫の寓話に混乱をもたらしたのは、物理システムが非関係的な性質を持つという形而上学的仮定である。 もし全ての性質が関係的であるならば、見かけ上のパラドックスは解消されるかもしれない。
猫に関しては、毒が出るか出ないか、猫自身が生きているか死んでいるかである。 しかし、この現象は箱の外にある物理系には関係ない。
箱の外の物理系に対しては、猫が起きていても眠っていても、猫との相互作用がなければその性質は実現されず、箱と外部系との将来の相互作用には、原理的に、猫がその系に対して確実に起きていたり確実に眠っていたりした場合には不可能だった干渉作用が含まれる可能性があるからだ。
つまり「波動関数の崩壊」は、猫が毒と相互作用することによって、ある性質が実現されることを表し、「ユニタリー進化」は、外部システムに対する性質の実現確率の進化を表すのである。 これが、量子論の関係論的解釈における「見かけのパラドックス」の解決策とされる。
8. 多世界
物理学者たちは古典物理学では観測された現象を説明できないことに気づき、量子論の現象論的法則が発見された。 しかし、量子力学が科学的理論として受け入れられるようになったのは、シュレーディンガーが方程式を考案してからである。
シュレーディンガーは、自分の方程式を放射性崩壊の検出などの量子測定の解析に適用すると、生きている猫と死んでいる猫の両方が存在するような、複数の結果が並列に存在することになることに気づいた。実はこの状況は、よく言われるように2匹の猫が並列に存在するのではなく、生きている1匹の猫と、異なる時期に死んだ多数の猫が並列に存在することに相当する。
このことは、シュレーディンガーにとって重大な問題であり、量子測定中に量子状態が崩壊することによって、量子系の進化を記述する方程式としての普遍的な有効性が失われることを、彼は不本意ながら受け入れた。崩壊は、そのランダム性と遠方での作用から、受け入れてはならないのだろうか。その代わりに、パラレルワールドの存在が示されれる。これこそが、非局所的な作用を回避し、自然界における決定論を守る一つの可能性である。
望まないセックスの苦しみは、ときに殴られるより辛いんですよ。
❶ 全体の苦しみを誤解している可能性を考えずに、大したことない、と断ずるのは頭の中幸せな世界の住人だからこそ。
❷ 疑いモードで聞いた果てにエネルギーを消費しちゃうことを、あなたを頼って被害を打ち明けてくれた人たちの責任にしてる。
あなたには自由意志がある。可哀想だと思うのも、打ち明け話を聞く選択をしたのも、過去の経験を当てはめて話を聞いたことも。厳しい言い方になるが——それはあなたが選んだあなたの選択だ。
「こいつ他人の可哀想を引き出すために俺利用した」そう思ったらその時点で拒絶すべきだったと思う。君には共感できない、と。意義も唱えずに関係性を継続してるのなら、彼らを利用しているのはあなたの方だろう。
これは自論なんだが、この機会に説明させてほしい…
グラデーションレイプを打ち明ける女性たちの責任を拡大解釈して、それ以外の人々、例えば男性たちの選択を左右させてると考えるのは、男性の自由意志の軽視だと思う。女性に必要以上に多くを背負わせる典型的なミソジニーであると同時に、実はミサンドリーでもあると思う。男性は女性に振り回されてケアの多寡を左右される受け身の対応者じゃない。女性はお母さんじゃないし、男性はいつまでも揺りかごの中にいるフリはできない。
とある社会人サークルに入っている。大学のサークルOBがベースになって7年前に立ち上げられた団体で、年に2回の公演を主な活動にしてきた。
コロナ禍を乗り越え、昨年後半から本格的に活動を再開した矢先にサークル立ち上げ時から運営にかかわっていたメンバーが相次いで離脱(地方転勤・子供の誕生等で)して団体の体制が変わることになった。
サークル内部で新しい運営メンバーの募集がかかり、あるオジサンがリーダーに立候補した。
もともと自分は立ち上げメンバーと同じ大学出身の古参メンバーなので、ある程度は団体運営の面倒見た方がいいかなと思いながらも、運営に回ると自分の練習時間が取れなくなるなとも思っていた。なのでその時は自分から立候補して運営を引き受けてくれる人が出てきてありがたいくらいにしか思っていなかった。
ところが、このオジサンがかなりヤバい感じの人だった。リーダーになるまで気づかなかったのが悔やまれる。団体の運営体制が変わって4か月程度だが、毎月のようにもめ事が起きて団体が活動休止の危機に陥りかけた。例えば、団体の公演ポスターのデザインが気に入らないとオジサンが却下して作ってくれたメンバーと喧嘩になったり、団体で使用しているレンタルサーバー代を払い忘れてホームページが止まったり、メンバー募集を見て団体の見学に来てくれた女子大生(就活中)の志望業界がオジサンの働いている業界と同じだったことを利用して個人的にLINEのやり取りをして気持ち悪がられたりと、団体の雰囲気が著しく悪化して辞めて行く人がぽろぽろ目につくようになった。危機感を覚えた自分を含む古参メンバー数名が団体の運営に参加して昨年末から事態の収拾にあたることになった。大学OBのつながりで始まった社会人サークルなので仲の良い人が多いし、その後に入ってくれた新規メンバーもいい人が多くて居心地の良いコミュニティだったのでこの環境を守りたいと思ったからだ。
だけど、ダメダメなリーダーを支えながら団体を運営するのって想像以上にエネルギーを使う。運営メンバー間の会議の議事進行がおかしな方に行かないように根回しやフォローで深夜まで利害関係者とやり取りしたり、一般メンバーからのトラブル相談(たいていリーダーのオジサン起因)に応じたりと、趣味でやるには労力がかかりすぎてボランティアで副業をしている気分になってくる。忙しくても運営そのものが楽しければいいのだけど、オジサンのフォローという全く面白くないことで時間を取られて、自分の練習時間が減ってと何一ついいことがない。リーダーのオジサンには不満しかないが、表立って追い出すのも難しいので悩みが尽きない。なんでオジサンが最初に立候補したときに止めなかったという話になるし、運営メンバー同士の内輪もめ感が出ると団体の雰囲気も悪くなるし。せいぜい自分と同じ大学OBの古参メンバー同士で愚痴を言い合って憂さ晴らしをする程度しかできない。なんか面倒くさくなってきたんで自分も団体運営をやめよっかなとおもいつつ、残った仲の良いメンバーに迷惑をかけたくないなという思いもあって、自分の身の振り方の結論がなかなか出せない。どうしたものだろうね。
いやまぁ、グラデーションレイプ自体の怖さって意味じゃなくて、「レイプという言葉」が軽々しく使われることに関しての怖さね。
レイプって本来、軽々しく使われる言葉じゃないと思うんだよね。性被害を受けた男性や女性が被害を訴えやすくなったメリットはあると思うけれど、深刻な性被害を受けた人が受けるべきケアを受けられなくなってる部分は確実にある。
ある時、「レイプ被害を受けました」っていう人に会ったことあるのよ。10年前とかの自分だったら、「うわぁ、なんてつらい経験をしたんだ」
って思ったと思うんだけど、その時の自分、「あ~、なんか思ったようにセックスできなかっただけね」って心の中で思ってしまったんだよね。
というより今まで聞いてきた「レイプ被害」の話が、宅飲みで押し強く迫られて拒否できなかったとか、家まで付いて行って半ば強引にされちゃった!とか
まぁもちろんその人なりに苦しみがあるんだろうけど、自分の中の価値基準では「道ばたで殴られた」以下の出来事になってたのよ、レイプという存在自体が。
で、その人の話をよく聞いてみると、昔考えていたイメージのレイプそのものだったわけ。
フェイクも交えて言えば、全く知らない(店とかで見たとかではない)ちょっと精神病の人に押し入れられて、ナイフで脅されて強姦された、みたいな。
でも聞いてる途中、俺は疑いモードで聞いちゃうわけよ。なんか一度関係持ってた人とか、実は付き合ってたんじゃなくて?とか。
それで最終的に「道ばたで殴られた」以上の出来事とわかった時に初めて「ヤバイ出来事にあったんだな」と。
誰かを可哀想とか思うまではいいんだけど、可哀想と思ってたものが実は可哀想じゃなかった時って結構エネルギー消費すんだわ。
あー、こいつ他人の可哀想を引き出すために俺利用したんだなって。だから初めに疑ってしまう。
今まで「グラデーションレイプ」みたいなのを「レイプ」って話すやつばっかだから、ガチのレイプでも疑いを持って聞いてしまう。
そりゃグラデーションレイプがレイプとして認められれば、世の中の頭の中幸せな大多数の人は幸せになると思うけどさ、
「不幸」な人はずーっと不幸、というより更に不幸に落とされるよね。
自由と自律性を維持しながら、政府はどのように私たちの意思決定を支援することができるか?
自由な社会には選択の自由が不可欠である、という主張がある。しかし、政府が人々の選択を支援する行為はどの程度まで許容されるのか。政府は国民が世の中をうまく切り抜けるために必要な道具をすべて与えるべきなのか。同時に、国民が自分で選択し、失敗したときは責任の所在が証明できなければならない。
ナッジは、行動経済学を使って市民をより良い選択をするよう促す方法を詳述しているが、人々を操作することと同じではないのか?どのように自由が保たれているのか?おそらくナッジとは、選択肢を禁止したり経済的インセンティブを大きく変えたりすることなく、予測可能な方法で人々の行動を変える、選択設計のあらゆる側面を指すのだろう。ナッジとみなすには、介入を避けることが容易で安価でなければならない。ナッジは義務でも強制でも同調圧力でもない。
ナッジは「押し付けがましくない」という理念にもかかわらず、効果があることが示されているらしい。例えば健康関連のナッジが、より健康的な食事と栄養の選択を増加させるとか、オプトアウトシステムが決定についてストレスを感じなくなるとか、そういう話はある。選択設計で、より多くの人々が考えることを減らし、なおかつ社会や自分自身にとって良い選択をすることができるとされる。
では、政府が人々の行動に影響を与えるためにナッジ理論を用いることと、自由主義は両立するのか?政府が国民にとって何がベストかを知っていることを前提にしているのではないのか?
ナッジの要点は、選択の自由を維持することである。医者が「精神状態が悪すぎるので精神科に入院しなさい」といっても、患者は自由を保持し、その後押しを無視することができなければならない。多くのナッジは本来、情報の開示、警告、リマインダー、といった教育的なものである。
例えば消費者が十分な情報を得た上で選択できるように、燃費やエネルギー効率についての情報を開示することは、自由と矛盾するものではない。だが、明らかに行動経済学は、パンデミック時の政府の封鎖対策に影響を与えている。
この運動が行き場を失っていることを示唆するのは、行動科学は問題を単に個人の誤った選択の結果とみなす習慣に陥っていることだ。一方、ナッジ理論の肯定派は「政策の世界では行動科学者は構造的な問題にほとんどの時間を費やしてきた。タバコ税は構造的な問題に対処するもので、人々が将来の自分自身に課す害を削減しようとするものである。」などと主張している。
「ナッジ」といいつつ、特定の思想や行動へ誘導することで政治的な優位性を確保しようとする勢力が常に潜んでいることは注意すべきことだ。そのような意図がなくとも、誘導する必要のない方向へ一度舵を切れば、後戻りが難しくなることがあると考えたほうが良いだろう。
バナナが程よくフルーティに感じられるようになってメッチャ美味しい。
なんだかんだで単なる栄養補給源扱いだったものが、バニラアイスが加わるだけで一転、第一級のスイーツになるんだわ。
正直、味的にはバナナの甘さが中途半端にクドい感じになって全然ダメだわ。
プチ減量をはじめたので実験してみた。
2/1 朝体重80.2kg 体脂肪率17.4% 三食炭水化物アリ
2/2 朝体重80.0kg 体脂肪率17.3% 昼飯以降炭水化物なし、総摂取カロリーは同じ
2/3 朝体重79.1kg 体脂肪率16.9% 夜にペロペロ寿司で寿司バカ食い
2/4 朝体重80.4kg 体脂肪率17.5% 昼飯以降炭水化物なし、前日食い過ぎた分カロリー控えめ
2/5 朝体重78.6kg 体脂肪率16.8% 昼飯以降炭水化物なし、総摂取カロリーは通常
夜に炭水化物を抜いた翌日、2/3と2/5の朝体重が顕著に落ちているのがわかる。
1週間という短い期間で尚且つたった2回連続しただけ、
また同じく炭水化物を抜いた翌日である2/6はほぼ変化がないので
結論を出すのは早計だと感じるかもしれない。
炭水化物の中の特に糖質は消化後、グリコーゲンという状態で筋肉に貯蔵される。
水分と結合することで元の重量の4倍程度にまで膨らむ。
グリコーゲンは筋活動を行う際に変換効率の良いエネルギーとして使用される。
朝起きた段階で体内のグリコーゲンをほぼ枯渇させることが出来る。
よって、体重は落ちる。
単に筋肉がしぼんで水が抜けただけだ。
なので、連続で炭水化物を抜いたところでどんどん体重が落ちるわけではない。
グリコーゲンが完全に枯渇したらそこで下げ止まる。
では夜に炭水化物を抜くことがダイエットにとって全く重要でないかというとそうでもない。
グリコーゲンが枯渇した状態で筋活動を行うと、身体はエネルギーとして脂肪と筋肉の分解を始める。
ただし分解効率が筋肉のほうが脂肪よりも良いため、激しい運動を行うと筋肉がより分解される。
有酸素運動(息が切れない程度の運動)であればどちらも緩やかに分解される。
夜に炭水化物を抜いて、朝起きたら水だけ飲んで軽く20分程度、町を徘徊することは
ただ夕食後にランニングしたりするよりも効率的に脂肪の分解を促進できる。
実際、減量末期のボディビルダーは朝起きてまず1時間くらいゆったりと自転車運動を行う人が多い。
ダイエットという観点で夜の炭水化物を抜くことだが、これには善し悪しがある。
まず良いところ。
ダイエット始めてすぐに結果が出るので「よし、やるぞ」という気持ちにブーストがかかる。
・夕食後は運動量が少ない場合が多いのでパワー切れを感じづらい
朝食、昼食で炭水化物を抜くと昼飯前、夕方にパワー不足を感じやすいが夜であれば後は寝るだけ。
・ちょっとずつ抜くよりは夕食だけ抜くという方がわかりやすい。
全食すべてのカロリー管理を行うのは非常に面倒。簡単でなければ続かない。
次に悪いところ。
・すぐに停滞する。
グリコーゲンが枯渇し水分が抜けきった時点で体重の減りは圧倒的に鈍化してテンションが下がる。
・夕食は味の濃いものが出てきがちなので白米が欲しくなる。
自炊している一人暮らしならよいが、家族とご飯を食べる場合はかなりキツい。
また仕事上の付き合いなどで外食する機会が多いという人も少なくないだろう。
・寝る直前にお腹が空いて眠れなくなる。
純粋に炭水化物を抜くとその分お腹が空いてしまうことはどうしたって発生する。
私は増減量を繰り返している(4か月で10%まで落とす→8か月で17%前後まで上げる)ので、
朝のんびり起きて温かい白湯いれて窓から空見ながらチビチビ飲みつつ図書館で借りてきた本読んで、昼間は散歩がてら地元のクソ安スーパーいって最低限度の食料を買ってマイバッグに詰め込んで、家帰って軽く軽食取って、昼寝して、起きたらストレッチして、借りてきた本の続き読んで、日が暮れたら晩飯の用意して、筋トレして、シャワーあびて、用意した晩飯食って、温かい白湯飲んで、布団に入って、本の続きを読んで、ウトウトしながら眠りにつく。そんな日々を繰り返す妄想に一歩でも近づきたくて、食事は1日2色にして、食費も月1万で抑えられるようになった。なんか生命エネルギーが日に日に衰えていく感覚があるが、そんな生活を迎えられるという妄想をするだけで心の安寧が保たれる。
最近は信号のない横断歩道で歩行者優先!ということがよく言われているような気がするのだが、俺は正直おかしいと思ってる。
なお、法律の話がしたいわけじゃない。法で定められてるから、とかそんなのはどうでもいい。
それに免許も持ってないので、ドライバー側の感覚はわからんのであしからず。あくまで一人の歩行者としての意見だ。
まず、普通に止まられると申し訳ない。俺としては車が途切れるまで待ってわたるつもりなのに、停車されると申し訳なく思う。会釈しながら小走りで渡るのは面倒くさい。
それに、反対車線が止まるとも限らないし、停車した奴のせいで無駄に後続の車が待たされるのは、正直馬鹿じゃねぇのと思ってる。もっと空気読めよ。
後はエネルギーな。止まるよりは止まらないほうがエネルギー効率がいいんじゃねぇの?車1台が止まるならまだしも、2車線で数台が止まるとエネルギーの無駄だとしか思えない。最近の車はブレーキのエネルギーを回収してるとか聞くけど、それだって限度あるだろ?低炭素社会とか言うなら、歩行者待たせたほうがいいんじゃね?車に乗らないのが一番だとは思うが……