自由と自律性を維持しながら、政府はどのように私たちの意思決定を支援することができるか?
自由な社会には選択の自由が不可欠である、という主張がある。しかし、政府が人々の選択を支援する行為はどの程度まで許容されるのか。政府は国民が世の中をうまく切り抜けるために必要な道具をすべて与えるべきなのか。同時に、国民が自分で選択し、失敗したときは責任の所在が証明できなければならない。
ナッジは、行動経済学を使って市民をより良い選択をするよう促す方法を詳述しているが、人々を操作することと同じではないのか?どのように自由が保たれているのか?おそらくナッジとは、選択肢を禁止したり経済的インセンティブを大きく変えたりすることなく、予測可能な方法で人々の行動を変える、選択設計のあらゆる側面を指すのだろう。ナッジとみなすには、介入を避けることが容易で安価でなければならない。ナッジは義務でも強制でも同調圧力でもない。
ナッジは「押し付けがましくない」という理念にもかかわらず、効果があることが示されているらしい。例えば健康関連のナッジが、より健康的な食事と栄養の選択を増加させるとか、オプトアウトシステムが決定についてストレスを感じなくなるとか、そういう話はある。選択設計で、より多くの人々が考えることを減らし、なおかつ社会や自分自身にとって良い選択をすることができるとされる。
では、政府が人々の行動に影響を与えるためにナッジ理論を用いることと、自由主義は両立するのか?政府が国民にとって何がベストかを知っていることを前提にしているのではないのか?
ナッジの要点は、選択の自由を維持することである。医者が「精神状態が悪すぎるので精神科に入院しなさい」といっても、患者は自由を保持し、その後押しを無視することができなければならない。多くのナッジは本来、情報の開示、警告、リマインダー、といった教育的なものである。
例えば消費者が十分な情報を得た上で選択できるように、燃費やエネルギー効率についての情報を開示することは、自由と矛盾するものではない。だが、明らかに行動経済学は、パンデミック時の政府の封鎖対策に影響を与えている。
この運動が行き場を失っていることを示唆するのは、行動科学は問題を単に個人の誤った選択の結果とみなす習慣に陥っていることだ。一方、ナッジ理論の肯定派は「政策の世界では行動科学者は構造的な問題にほとんどの時間を費やしてきた。タバコ税は構造的な問題に対処するもので、人々が将来の自分自身に課す害を削減しようとするものである。」などと主張している。
「ナッジ」といいつつ、特定の思想や行動へ誘導することで政治的な優位性を確保しようとする勢力が常に潜んでいることは注意すべきことだ。そのような意図がなくとも、誘導する必要のない方向へ一度舵を切れば、後戻りが難しくなることがあると考えたほうが良いだろう。
あんまりよくわからなかった