はてなキーワード: ほぼイコールとは
ホロスターズ見ててつくづく思った話。
そもそもVTuberのファンを男女別で見た場合、明らかに男性ファンが多数派。
その時点で、VTuberとして人気配信者になりたかったら、男性ファンにもバズるのは大前提なわけ。
にじさんじの葛葉だって、他の男性ライバーに比べたら女性ファン多いだろうけど、それ以上に男性ファンも非常に多いと。
だからVとして女性向けに特化するなんて、自ら負けに行くようなもの。
女性アイドルの女性ファンは昔から細々と存在するのに対し、男性アイドルの男性ファンは今も昔も皆無という歴史を踏まえると(TOKIOなんて例外中の例外)、
ホロスタがアイドル売りする限り、今後も男性ファンが増える可能性は極めて低い。
というか実際のところ、男性VTuberを好きになりそうな女性という、いわゆる潜在顧客の殆どは今やすとぷりに夢中でしょ。
女性向けに特化したVを売るというのは、事実上この牙城を崩す戦略とほぼイコールだと思うんだけど、運営はそこまで考えているんかな。
フリーランスのエンジニアで単価が70万とか80万の人に対して、売上と所得は違うって言うサラリーマンって頭悪いなって思う
確かに売上と所得は違うけど仕入がない商売なんだからそれはほぼイコールになるよね
確かにアパレルみたいに仕入があって例えば原価が30%で店舗も借りてたら売上が高くてもどれだけ儲かってるかはわからない
でも現場に常駐してパソコンも貸与してもらってるフリーランスエンジニアは何の経費もかからないからそれがそのまま利益になる
あと保険とか年金を自分で払わなきゃいけないとか言ってる人もいるけどそれはサラリーマンも同じだよね
君たちは自動で引かれてるけど、フリーランスは普通に郵送で振り込み用紙来るからコンビニで払うだけだよ?
「女性が働きやすい」「女性が活躍中」「女性比率○%以上」「育休取得○%」「女性管理職比率○%」
求人サイトを開くといかに女性社員が多いかの表記がズラッと並んでることが多いけど、過剰にそこをアピールしてる企業は絶対に応募しない。
まず女性の働きやすさ・育休の取りやすさははほぼイコールで独身の犠牲率なので、独身女性の私は近寄りたくない。そしてそういう企業が求人を募集しているときは大抵穴埋め要員が足りない時。女性が活躍する優しい企業はママや妊婦には優しいけど、独身や子無しには全く優しくない。
そしていつか自分がお世話になる側になってもぶっちゃけ男性社員=抜けにくい穴埋め要員が多い企業の方が取りやすい。
あと女性の上司とは正直やりにくい。真っ当な人もいるんだけど年数が長い女だからって理由だけで選ばれた地雷の潜伏率が男性の上司より高くて、異常に厳しかったりえこひいきが激しかったりであまりいい思い出がない。
女性社員が多いも同じで、男性が多い企業より空気読みや派閥争いが激しい場合が多くて非常に疲れる。
ぶっちゃけ現代の日本においては、有能で気立てがよくメンタルが安定した賢い女性ほど男に頼るという一番便利な手段をさっさと取るし、男もそういう女性を結婚相手として手放さない。
その結果有能な女性社員ほど結婚退職したりマミトラに乗って暮らしてたりするので、正直、バリバリ労働して生き残る女性は割と癖のある人が多いなぁと感じる。それが何人もいる職場は会社の雰囲気やレベル感も含めて正直お察し…
そう、会社もそれで、女性の活躍を売りにする企業は業務内容や商材にこれといったセールスポイントがなく、社員に女性が多いことしか誇れない場合が結構ある。
まあ大抵の会社は特にセールスポイントもないし厄介な男性社員もいるしで、受かったとこで働くかって感じなんだけど、それにしたってコッソリ女性比率を見ているよ、多分想定とは逆の使い方で。というボヤキでした
とはいえ今時女性の社会進出やってませんなんて書けないからしばらくは騙し合いやってるんだろうな〜と思う。みんな労働頑張ろうね。
【追記】
たくさん読まれててびっくりした。
「アットホームな職場です」と同じで本当に雰囲気がいい会社はわざわざ書かないよねって指摘がまさにそれだなと思った。
以前勤めてた会社がまさにママだけ優遇でフォロー残業が多くてちょっと滅入ってたんだよね。なのに扱いは「ママなのに活躍!」で独身の犠牲は一切注目されないし。
それをネットで愚痴ったら「文句は会社に言え」「そんなところでしか働けないのが悪い」って言われて、その通りだと思ったから働きやすい会社に転職しただけ。
確かに今年は御伽原絵良やら桐生ココ、鈴原るるの卒業やアイドル部の解散など大手VTuberの卒業が目立ったが、
それでも一般的な芸能界の退所・卒業・引退に比べると比率としては少ないのではないかと思う
キャラクターを事務所から借りて活動している身という都合上、前職の人気や実績を丸々引き継ぐのは難しい
有識者によって前世バレし、暗黙の了解としてファンが移動するケースは往々にしてあるが、
キャラクターIPを事務所から引き取って別の事務所に転向したり個人勢として活動するケースは事務所自体が消滅する以外だと難しいようである
他の業界に転向しようとしてもVTuber時代の活動経歴は表向きにはアピールポイントとして使うことができないため、
結果的に卒業が活動実績を捨てることとほぼイコールになってしまうのではないかと思う
件の共同声明について、女性フェミニストに対して是非を問うたり、踏み絵のように利用する事には抵抗が有る、
何故ならやはり女性は現在進行形で強く抑圧を受けている被害者であり(無論、そうした「男性」対「女性」の様な単純な二元論は当の声明で批判されていることは重々承知であるものの)
しかし、男性の場合はその様な遠慮は当然働かない。あの声明に対してどう考えるのか、フェミニストとして応答責任があるとさえ思う。
まず件の声明は「フェミニズムではなくヒューマニズム」との批判も受けているが、男性がフェミニストになる場合は女性と異なり、ヒューマニズムを経由する場合が殆どである。
理由は単純で、そもそも男性フェミニストは女性ではない以上、「何故ほかのどれでもなく、女性(差別)なのか?」という問いに応え得ない。
つまり女性ではない男性が女性差別を問題視する動機は、「そもそも差別は駄目だ」というヒューマニズムを経由せずにはほとんど成立しえないのだ。
だとすれば男性フェミニストは件の声明がヒューマニズムであったとしても、それ故にこそ声明の語る内容を拒否しえない。
ヒューマニズムを根拠に自己と異なる属性の人々(女性やLGBT、障碍者、貧困者、セックスワーカー等)へ共感を寄せ、それらの人々が受ける差別や苦難に反対する事は間違いなく正当だ。
しかしだとすればそれらの人々の間に優劣を付ける事は欺瞞ないしグロテスクな加害にさえなり得る、
例えば女性差別に反対する事は間違いなく正当だが、「女性を優先していない」事を理由に件の声明を拒否するなら、それはLGBTやセックスワーカー等をヒューマニズムの対象に含めないという極端にグロテスクな差別主義という事になる。
この事情故に、男性フェミニストにとってのあの声明は、女性フェミニストにとってのそれと取るべき対応がかなり異なる。
「女性を優先する」タイプのフェミニストを自任する場合、女性=弱者・被害者、男性=強者・加害者という構図を採用する事が多いだろうが、そのような単純な二元論を棄却しないならば同時にLGBTやセックスワーカーに対しても強者・加害者とならざるを得ない自己の責任を果たさねばならないし、だとすれば声明を拒否しえないのだ。
「あの声明の内容に問題は無いが、フェミニストの名を冠するのは不当だ」という批判もあるが、これも適当ではないと私は思う。
件の声明が「再確認を呼びかける」ものである事に着目すべきだろう。文脈上、ほぼ確実にあの声明はそもそも「フェミニスト・フェミニズムの名の下にLGBTやセックスワーカーへの差別や偏見が蔓延している」現状を前提とし、
そうした現状を憂慮するが故に「再確認を呼びかけ」ている。そうである以上、あの声明は「フェミニスト・フェミニズム」に対して呼びかけなければ意味がないし、その必然性がある。
また声明の構成は「➊人権の普遍性、差別をなくすこと、そして暴力からの解放」「❷身体的自主性、尊厳、作動性、アイデンティティの権利」等のタイトルで区分けされ、その前に「フェミニストの原則の再確認:」と書かれている。
これは声明に書かれたすべてが「原則」なのではなく、「➊人権の普遍性、差別をなくすこと、そして暴力からの解放」「❷身体的自主性、尊厳、作動性、アイデンティティの権利」「❸拷問、非人間的な扱い、医学的虐待からの解放」といったタイトルが「原則」であり、そのあとに付される文章はその原則の「応用」「実事例への適用」と読むべきだろう。
LGBTやセックスワーカー等への言及はこの「応用」「実事例への適用」に当たり、原則そのものにはLGBTやセックスワーカー等への言及は含まれていない。
つまり「LGBTやセックスワーカー等への言及ばかりだからこれはフェミニズムではない」というのは声明の構成に対する誤読だと私は解釈する。
あくまでそれらは「原則」から導いた応用に過ぎないのだ。そして各タイトルはフェミニズムの原則として違和感のあるものではない。
また、それらが「あまりに一般的すぎる」事は、論理的に考えてフェミニズムという思想に対する強い信頼の反映だと考える。
つまり「あまりに一般的な」普遍的な人権に関する原則とフェミニズムはほぼイコールなのであり、普遍的な原則からフェミニズムは自明に導けるのだ、という強い主張である。
例えばフェミニズムが「女権拡大」の為のもので、女性を優先した原則を掲げなければフェミニズムではないと考えた場合、そのような思想は「女権を拡大すべき」「女性を優先すべき」という命題に同意する人にとってしか重要ではないし、従う理由もない。
けれども普遍的な人権に関する命題からフェミニズムが導けるならば、普遍的な人権に同意するあらゆる人はフェミニズムに同意しなければ矛盾を抱えていることになる。
つまり原則が「あまりに一般的すぎる」事はフェミニズムの普遍性を支持しているのであってその逆ではない。逆にフェミニズムを普遍的な人権と切り離してしまう人は、フェミニズムを自ら小さい、意味の無いものにしてしまっている(こうした論理的な関係は気付きにくいものなので、そこに気付かないことに特別過失が有るとは思わないが・・・)
こうした事について男性フェミニストや男性リベラルは真面目に考えることが出来ているのか、声明に応答できるのか、という事は注視すべきことであろう。(勿論私自身を含めて)
太田光のマスク会食をバカにしていたことを反省していたって記事、あれはなんだかブコメでは好意的に受け止められていた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/cef26de56983491d69670b563c4297cdca867925
一方で、政治家の会食は何が何でも駄目って感じになっている。もしかしたらマスク会食していたかもしれないのに。
まあマスク会食ではないと思うけど。
なんでもかんでも会食というだけで形態に関わらず批判するのは、外食を批判することとほぼイコールになっていて、外食産業ではないけど自粛で割りを食っている自分としては正直嫌な気分になる。
立憲民主党あたりはマスク会食してみた動画とか上げてみたらどうかと思う。立憲民主党でなくて維新がやったらはてなでは批判一辺倒になりそうだから立憲にやってほしい。
マスク会食だって出来るんだってことを示す人がいてもいいと思うし、冒頭の太田光のインタビュー記事を好意的に受け入れるのであればマスク会食出来るんだって見せることは意義があると思う。
男は自殺率が女より高いという話から「男はコミュ障の強がりでストレスを溜め込むからね。でもワタクシはママじゃないし男のストレスは男で解消してね♡」というクソみてえな主張が最近目立って来たので書く。
男性の自殺率が有意に高いのはコミュニケーションが下手とかそんな話ではなく(だいたい下手なんじゃなくてプロトコルが違うだけだろ)、受けているストレスの量が多い≒背負っている責任が重いせいだ。男性自殺の原因トップは経済的な困窮であり、それは友達と話をしたところでそいつが連帯保証人のサインをしてくれない限りストレッサーから逃れる術はない。
日本社会は未だにジェンダーの縛りが非常に重い。扶養控除なんて制度もそうだし、親権が母親に無条件に寄るのもそうだし、医学部の女子に対する入試差別、職場での男女雇用の不均等…あらゆる場所で昔からある「男は仕事、女は家庭」が幅を効かせている。
社会の主役は男性であり、女性は家庭や私的空間を守るためのもの、というのは建前としては消滅したが、未だにあちこちに実在している。
この点については男性も女性も概ね合意が取れると思う。男女差別が存在しないなどと思っている奴はほとんど居るまい。
さて、そうした男性特権の向こう側には特権に比例した責任が発生する。中世の貴族であれば権威を継承する者として、共産主義国ではブルジョアを打倒する模範的同志として、そして資本主義国としては経済の主体としての責務を自動的に背負う。資本主義国で生まれた男子は、程度の差こそあれ「自分が今日の糧を食いつなぐ」という理由と並行して「国家構成員の責務」として金を稼ぐことを求められる。女子は、差別によってこの社会の責任から排除されているのでこれを背負うことはない(多少解消されつつある現代的に言えば「少しは背負っている」が)。
ここで「男ってバカね、意地なんて張らずにそんなの捨てちゃえばいいのに」なんて思った人間も居るかも知れないが、国家がそのイデオロギーを維持しているのはどこかのハンコついた文書に書いてあるからではなく、常に社会の構成員の大多数がそのイデオロギーを実践しているからであり、それが維持されない、誰もが気軽に社会的責任をポイしちゃう国家はその国体が維持できない(ナウルみたいになっちゃうぞ)。気軽に捨てちゃえばいいなどと言ってのけるのは、それこそ責任を持たない者の発言である。
つまり資本主義イデオロギーからの圧があり、男子は絶えずその圧に晒されている。そしてイデオロギーそのものを否定することは不可能(本当は可能ではあるが…今の所資本主義よりうまく行ったイデオロギーがない)で、プレッシャーから逃れる術はない。立身出世しなければならない。大人になったのに親に食わせてもらうことは恥だ。子供部屋おじさん。勝ち組、負け組…そんな言葉が未だに現代に漂うのはこうした圧力が実在することの証左である。
翻って女子の方は、差別によって権限を剥奪されているので社会的な責任が薄い。出世しなくても馬鹿にされないし(させないのだから当然である)、本人が無職を望んでも多方面からごちゃごちゃ言われない(ごちゃごちゃ言われるのは逆のバリキャリとして生きるときだ)。親に扶養されてて情けないと言われることもないし子供部屋おばさんなんて言葉もない。逆に家庭に対しては男子より多くの責任を負わされ、子供の面倒(母乳信仰など最たるものだろう)や地域コミュニティの行事など多くを強制させられるのだが。
この権限と責任の差によって男子は敗北が許されず、弱音を吐くことが認められにくい。責任を果たすために特権を得たのだから負けてはならないし、負けたら資本主義イデオロギーの実践者としてはもう後がない。実際には福祉がありそこに落ち着くが、資本主義イデオロギーの強いアメリカが福祉をアカ扱いする性質があるように、福祉の世話になることはほぼイコール資本主義社会の責任から降りる事を指すので、圧を受け続けた人間ほどここで死を選んでしまう可能性がグンと上がるのは想像に難くない。こうして経済的困窮による自殺が男性に寄る。
フェミニズムの運動とはこうした性差別を排除し、社会へ進出し、女性に強制させらた役割にNoを突きつけ、男性だけが得られた特権を女性にも等しく分配させるための闘争である。
よって、男性から回収した権利には当然責任が伴う。男と同じく、資本主義の無限の競争へと身を置く責務である。社会進出とはつまりはこういうことであるし、少なくとも初期のフェミニズム、ウーマン・リブ運動においては責任ごと請け負う気で女性たちは動いていたと思われる。
少し前に「フェミニストだけど彼氏に養ってもらいたい」といった大学生の記事が出ていたが、とんでもないことである。それは「5000兆円欲しい!!」とかと同義で、お前今まで大学で何勉強しとったんや、教授もうんうん言ってる場合じゃねーぞ、と思ったものだ。
遡って表題の話をするが、こうした権限移譲によって男が抱えて離さないもの…そして背負わされているものを女も手にするということは、奪われたものを取り返す事であると同時に、一つのものを両者で分け合って背負うということでもある。つまり男性の自殺率が高いという話に対してフェミニズム的にすべき話は「こっちも働いてやるから権限をよこせ」であり「男性のことはアテクシは知りませんわよ」などという態度を取るということは、結局のところ未だに自分は社会の中央でなく、主たる責任はどこかの誰かの男性がやってくれるという態度そのものであり、フェミニズムから最も遠いあり方である。
余談であるが、自殺数の男女差でなくそもそも絶対数が他国より多く、過労死がそのまま英語になっている不名誉な現状については上記のジェンダー論ではなく労働問題のレイヤーである。ジェンダーは受ける責任というベクトルを決定付けるもので、その方向に従って加圧されるパワーは純粋な労働量に依存する。そもそも我が国の働きすぎ問題がマシになっていれば、比率はともかく絶対数として死んでいる人間の数は減っていたであろうことは自明である。個人的には、女性が男と同じく過労死するほど働くよりは、男女がそれぞれほどほどに働く未来を夢見たい。