はてなキーワード: えことは
○朝食:なし
○夕食:ご飯、納豆(一つ)、減塩野菜たっぷり味噌汁(フリーズドライ)+きしめん、ツナ缶
○調子
はややー。
今日は見直しとかリファクタとかテストコードの量増やしたりしてた。
かなり終わりが見えてきたんだけど、先週の金曜日の夜までに届くはずのファイルが届いておらず、若干面倒なことに。
っていうか、最初二月の中頃に届くはずだったのに、ずるずるここまで来てるの勘弁してほしい。
●DS
4Fに行くも敵が強すぎて3Fにすぐ戻った。
なかなか進まないなあ。
●3DS
もうちょいで終わるのが寂しくなってきたけど、さすがに吹き出しコンプの道のりは長そうだしなあ。
ログボのみ。
○ポケとる
・トルネロス(けしん)ほかく
・ゲノセクトほかく
・アギルダーほかく
・シュバルゴほかく
・ソーナンス(めす)ほかく
・メロエッタランキングステージは運がよかったのか上から三つめの位置
ランキングステージは別に真剣にやってないから、多分どんどん下がっていくんだろうけど、初日とはいえここまで高い順位を取れたの初めてなので嬉しい。
ログボのみ。
「俺がそこにいた!」
初期ナンバガの歌詞を振り返るとこういう文体が多い
『omoide in my head』の「17歳の俺がいた」もそうだ
これは一人称の文に見えるが、実は三人称だ
俺“は”ではなく俺“が”と書くためには
「俺」という登場人物を第三者視点から見る必要がある
つまり三人称視点で登場人物としての「俺」を描写していることになる
だが、この三人称の語り手は客観的ではない
いた、ではなくいた“!”と主観をむき出しにする
語り手もまた“俺”であることを忘れてはいない
まとめると語り手「俺」が登場人物「俺」を主観的に記述した三人称、となる
自分自身を物語内の登場人物として捉え直すのは、メタ的だ
向井は映画監督を目指していたそうだが、
カメラのファインダーという隔たり越しに登場人物を描写する手法もうなづける
だが、メタ視点から正確に写そうとすればするほど、対象からは離れてしまう
その対象が持っていた熱や存在感、当事者性はどんどん薄まるだろう
そのメタ的な隔たりによる当事者性の薄まりを向井は冷たいと感じた
そういった客観性の集合体こそが「冷凍都市」であり
それを攻撃するための当事者性の象徴こそが「性的衝動」となる
語り手の俺が登場人物としての俺や少女を描写する、という二重性
正確に描写しようとカメラの精度を上げるほど当事者性が薄れるジレンマ
こうした二重性を自覚した上で破る矛として性的衝動を用いたのが
初期ナンバーガールの詩の原理なのではないか
ではザゼンだとどうなのか
カメラの技術が進化すれば、もはや人の目で見ているのと変わらなくなる
そうした現在において「メタフィクション批判」はもう古い、リアリティもない
向井秀徳のカメラ技術もこなれてしまった
だが、世間の当事者性は弱まるばかり、性的衝動を用いて復権させなければいけない
(よみがえる性的衝動)
性的衝動は二重性を攻撃することでこそ、その強さを示せるのだ
だから語り手/登場人物という入れ子構造を使わずに二重性を作らなければいけない
そこで向井はリフレインに注目する
同じ場所で言葉を何度もダブらせることで、反復が差異を生む
フィルムの一コマ一コマを切り分けるのと同じだ
(繰り返される諸行無常)
こうして場所を移すことなく二重性を生み出すことに成功した
ナンバガ時代の二重性が
登場人物としての俺を乖離させることで生み出す客観的二重性だとすれば、
ザゼン以降の二重性は、単独で生み出せる主観的二重性といえるだろう
向井はカメラのシャッターを切らず、
ただ自分の目のまばたきでフィルムを切り分ける方法を見つけたのだ
とはいえこの主観的二重性は『omoide in my head』の時点で芽生えている
思うに、福岡時代は当事者性=性的衝動の強さを無根拠に信じていられたのではないか
カメラを手にしたばかりの少年にとってはどんな景色も自分のものに思えるように
だが東京に来て、描写の対象性という問題に直面して当事者性を鍛え直す必要が生じる
そうして鍛え上げた結果、福岡時代のような信頼を取り戻しつつあるのが
現在のザゼンボーイズでの素朴な描写に至るのではないか
ブログもツイッターもやってなくて書く場所も聞いてくれる相手もいないのでここに
誰かツッコミ入れてくれ
ええこと教えてもらった!さんきゅー
ネットでは愛国無罪的にこまけえことはいいだろなにが問題なんだケチつけるおまえらは日本人じゃねえな在日は国へ帰れ論がまかり通っているが、
愛国の教育を目指した理想的な森友学園が窮地に立たされて、ネトウヨの力がいったいどこにあるのか非常に疑問を感じる。
「五箇条のご誓文」や「教育勅語」などを暗唱する動画が削除されたようだ。
ネトウヨは現実の世界でもちゃんと声を出して、声をあげて、戦ってほしい。
ネトウヨが現実だという世界であれば森友学園はこんなに苦しい立場になることはなかったはずだ。
掲示板やツイッターで吠えるだけじゃなく実際に外に出て、必要であれば武器を手に取ってしっかりと現実と未来を勝ち取る戦いを繰り広げてほしい。
それが外野で生温かく見守る俺の願いだ。
一連の「海外移住のメリット・デメリット」の議論が盛り上がっているので、海外移住を考えている人に少しでも参考になればと思い、「私から見たシリコンバレー」をまとめてみた。
なるべく客観的な事実のみ書くことに努めたが、これがシリコンバレーのすべてだというつもりは毛頭ない(もちろんアメリカのすべてでもない)。「そういう体験をしている人もいる」程度に思ってほしい。
先に言っておくと、私は日本人の海外移住に肯定も否定もしない。シリコンバレーに来たい人は来ればいいし、人それぞれじゃね?と思っている。
日本の大学を卒業後、東京にある外資系ソフトウェア会社で日本向けのテクニカルサポートを担当。その後その会社のシリコンバレー本社に異動願いを出した。シリコンバレー在住5年。現在はアメリカ国内向けのテクニカルサポートでエスカレーションエンジニアをしている(ので、いわゆる「ソフトウェアエンジニア」ではないし駐在でもない)。
妻と1歳になる子供が一人いる。
http://anond.hatelabo.jp/20161223173329
この増田とほぼ同じ(1ドル=118円換算で月170万円くらい、以下すべて118円換算)。ボーナスとストックオプションがあるのも同じ。税額も大体同じだから、増田の数字は信憑性があると思っていい。ちなみに給料は月2回(15日と月末)振り込まれるので、1回の振込は一月あたりの半分の金額になる。
会社は四半期決算なので、ボーナスは年4回ある。四半期ごとに数値で目標を管理(私の場合は問い合わせのクローズ件数など)し、その達成度でボーナス額が決まる。といっても営業ではないので、上司・従業員双方納得できうる達成可能な数値を設定している。言い換えれば、ボーナスはほぼいつも設定額の100%もらっている。
月収税込み90万円弱ぐらい。本社に異動したときに物価を考慮した給料調整があって、異動後は1.5倍くらいになった。海外移住を考えるときに、日本の給料がそのまま移住後の給料になることを前提にしている人が多いが、それぞれの土地で相場というものがあるので、給料は増減するものと考えたほうがいい(まあ、シリコンバレーに移住するなら増えるケースの方が多いのかもしれないが)。
結論から言えば、日本でのエンジニアの労働環境に耐えられるのなら、シリコンバレーでもやっていける。というか標準的な日本人エンジニアなら「同僚よりも働き者」の評価をもらえる(それだけ日本のエンジニアは働きすぎなのだ)。期待されている仕事さえこなしていれば、何時に出社して何時に帰ろうが誰も文句を言わない(同僚に毎日3時に帰る人がいる)。「今日は子供の世話をする必要があるので自宅で仕事します」と何度連絡したことか。その代わり結果が出なければ、まれに夜中まで仕事することもある(が残業代はもちろん出ない)。
最近のIT系企業では「有給休暇なし」制度が流行っている(うちの会社もそうだ)。これは有休が取れないのではなく、仕事に支障がない限り、いつどれだけ有休をとってもいい制度だ。会社にとっても有休の買い取りをしなくていいという財務的なメリットがあるらしい。私も2ヶ月に1回くらいの頻度で金曜に有休を取り、3連休にしている。
うちの会社ではエンジニアがレイオフされた例はない。レイオフの心配をしていないと言えばウソになるが、上述の通り、標準的な日本人エンジニアなら業務成績が理由でレイオフの対象になることはないだろう。ただし、部署全体がレイオフの対象になる可能性はもちろんゼロではない。
外食が高いのは本当。先日行ってきたサンノゼのGo Fish(https://squareup.com/store/ordergofishSJ)の例を出すとポキ丼(日本で言う海鮮丼みたいなもの)が1357円、大盛りなら1711円(それぞれ税抜き。サンノゼではこれに9%の消費税がかかる)。ウェイターがいるようなレストランでは18%前後のチップも必要になる。
ただ、大抵の外食メニューは普通盛りでも量が多いので、標準的な日本人の2食分くらいある。私は外食した場合は半分だけ食べて、次の食事に残り半分食べる(もしくは妻と1食分をシェアする)。
オフィスでの昼食は上述のポキ丼くらいの値段がかかる(目安として1000-1500円くらい)。In-N-Out Burger(チーズバーガー、ポテトとドリンクで708円)やスーパーの惣菜なんかもあるので、安く上げようと思えばやれないこともない。同僚には弁当持参の人も少なくない。
食費や日用品の物価を乱暴に総合すれば、多分日本の1.2-1.5倍くらいになると思う。品物の質はピンからキリまであるので、人によって感じ方が違うのはもちろん否定しない。
参考になるかわからないが、シリコンバレーにはダイソーがあって、全品177円(税抜き)。
住宅費は非常に高い。今住んでるのが2LDKで35万円。これでもシリコンバレーの比較的安い地域の家賃だ。家を購入しようと思うと、最低でも1億円はかかる。これより低い金額の物件は物件そのものが怪しい(築年数が古すぎるなど)か、治安が悪い地域のものがほとんど。で、住宅ローンを借りようとすると利率は3-4%くらいになる。
はじめに断っておくと、アメリカの医療保険は会社と会社が提供しているプランによって千差万別だ。ブコメや増田で人によって言うことが違うのもそれが原因だ。以下も私の個人的な例なので、アメリカ全体に一般化できないことは注意してほしい。
医療保険には大きく分けてHDHP、HMO、PPOの3種類ありこの順に保険料が高くなる。それぞれの特色は
私は家族に持病があることもあり、PPOに加入している。毎月の保険料は73000円。
実際の医療費はというと、たとえば先日妻が乳がん検診を受けたのだが、最初の検診は予防検診とみなされ、100%保険扱いとなり、自己負担ゼロ。しかしその後要追加検査となり、追加検査費用として7万円、自己負担10%なので7000円かかった。
先日足の指を骨折した同僚は、完治まで83万円かかったと言っていた。彼はHDHPだったので60万円前後支払ったことになる(が、上述の通り25万円会社が補助してくれる)。
ちなみに我が家の出産は日本で行ったので、アメリカでの出産費用はわからない。
なお、アメリカの医療費には日本のような定価が存在しないので、これらの金額も病院によって大きく違うことがあることに注意してほしい。
私はエスカレーションエンジニアといって、他のサポートエンジニアが解決できない問題を調査・解析するポジションを担当している。通常のサポートエンジニアと違って直接顧客を相手にする機会が少なく、大体決まったメンバーとのやり取りが主なので、互いが相手の英語になれればネイティブレベルの英語でなくても十分仕事をこなせる。英語の使用は会話:チャット&メールが5:5くらい。
ビザの取得は正直言って難しい。私は当初H-1Bという専門職ビザで移住しようとしたが、H-1Bビザは年間の発行上限数が決まっており、その抽選に漏れてしまったのだ。そこで私の場合は日本支社から本社への異動ということでLビザを取得し、事なきを得た。
もちろんLビザはすべての人に使える方法ではない(Lは主に駐在者に発行されるビザだ)。一般的なエンジニアが移住しようとすればH-1Bビザを取得することになるが、上述の通り抽選に漏れてしまうと、一年後の再申請まで日本で待たなくてはならない。その間、転職先が一年待ってくれるのかというリスクもある。
一番現実的な方法はアメリカの大学を卒業し、OPTビザを使いながらH-1Bビザを取得することだろう。次に現実的なのが日本から直接転職すること(上述の通りビザ抽選に漏れるリスクはある)。その次がグリーンカード抽選による永住権取得だろうか。私の知り合いにグリーンカード抽選に当たり移住した人もいるので、あながち非現実的でもないのかもしれない。
シリコンバレーは地理的に日本(を含めたアジア)に近いので、価格はともかく日本のものはほぼなんでも手に入る。ついこの間も妻と「どうしてもシリコンバレーで手に入らない日本のもの」を挙げようとしたが、何も思いつかなかった。時期的に妻がおせち料理の準備をしているが、ミツワやマルカイといった日系スーパーにはおせちコーナーがあり、日本で作っていたものとまったく同じおせち料理が作れる。
あとシリコンバレーの気候は最高。日本の夏と冬の気候が厳しいので、夏と冬は日本に帰れなくなってしまった。
【前提】
就活でかなり追い詰められていた時に、彼は「別に専業主婦とかでもいいんだよ」と言ってくれた。
彼のことは非常に愛しているし、正直魅力的な提案だと思ってしまったけど、でも無事に就職先が決まった時、とてもホッとした。この事について、ただただ考えてみた。
これは個人的な愚痴の吐き出しであり、一般化を目的とするものではない。
(個人的には、ハウスキーパーなど家事技能必須の職業も存在していることだし、一人暮らししてると家事めっちゃめんどくさいし、尊敬の念を禁じ得ない。)
【外的?要因】
どうも配偶者や恋人などのパートナーがいると、個人の能力とか、主体的な部分が無視されることがある気がする。
私に恋人がいることを知っている知人から、「そのネックレスかわいいね、彼氏さんからのプレゼント?」とかなり確信に近い感じで言われたことがある。
私はそれほどバイトに熱心な方ではないと知られていたので思考としては当然の帰結なのかもしれないけど。
けどもし、珍しくバイトして汗水垂らして買いましたとか、そういう風に言ったらこの人どうするんだろう?と考えてしまった。
たかがアクセサリー、たかがこれくらいの言葉で、と自分でも思う。でも短期間で同じようなことが立て続けにあり、どうしても考えてしまった。
恋人がいる、というだけで個人の経済力とか、自己決定能力が無視されたように感じてしまった。更に言えば、自己肯定感の低い人間なので、私って彼氏がいる以外何もない人間なんだろうか、とちょっと落ち込んだ。私と彼とは個人同士で選びあって愛しあっているのに、第三者からするとどちらかがどちらかの付属物のように見られることがある、というのがなんとなく悲しかった。
私の場合はアクセサリーに対してのだったけど、もしかしてたまにあることだったりするんだろうか。例えば男の子がなんとなく作った料理とかお菓子の写真を上げて、「美味しそうだね!彼女さんが作ってくれたの?」っていうリプが付くとか?
勿論自意識過剰なのはわかっているし、社交辞令とか世間話ってそういうもんだと思う。
でも、もし例えば専業主婦になって、専業主婦に関してよくある言葉を軽口として言われ続けたらきっと耐えられないだろう。個人関係でさえこれなのだから、社会的責任をもって結ばれた関係でこうやって考え込んで勝手に落ち込んでたらやっていけない。
【内的要因】
本当は、前段を本題として、「もし世界に彼と私の二人きりなら、一も二もなく提案を受けるだろう」と締めくくるつもりだった。けどよくよく考えてみて、実際そうなったらいつか自殺したくなるんじゃないか、と思った。
理由は罪悪感である。相手に何かしてもらうばかりで、自分は何一つしてあげられないのではないか、と。
以前ストレートにこの旨を話した所、「具体的に何してくれるとかじゃなくて、君がいるだけで俺は頑張れる」的なことを言われた。カーッ!好き!でも実感ができないので納得できない。
そんな私にもわかりやすい指標の一つが、お金である。ちゃんと働いて相手に金銭的負担をかけないとか、そういうことが唯一私が彼にできることであり、拠り所というか希望になりつつあったのかもしれない。
多分主婦になっても、ちゃんとした家事ができる気がしない。かなりダメだと思う。それでも彼は何か見つけて労ったり褒めたりしてくれそうなんだ。
彼は優しくて私は卑屈だ。そういう人間にとって最後の砦が、「ちゃんとしているということを経済力によって示す」ことなのかもしれない。
正直社会人になるのも滅茶苦茶不安だ。働きたくない。やっていける気がしない。でも、相手に見合う人間になりたいとか、自立した一個人として見られたいとか、そういうことを考えれば頑張れるというか、もうそれしかない。
だろう、たぶん。
回転寿司でもいいやースーパーの寿司でもいいやーなんて人でもまともな寿司屋で旬のにぎりを出されたら違いに気づくはず。
偉そうにネタとシャリのなんだどうのこうの言っても、長い時間の中で研ぎ澄まされたものがあって、食べれば分かるその技術があるんだと思うんだ。
長い時間のなかで培われた技術とかもうはんぱねーのにみんな当たり前と思ってない?
先日、コンビニでバームクーヘンの切れ端みたいなのが売ってて、分厚めのが4切れあって100円くらい。安いし買っとこくらいの気持ちで買ったらむちゃくそふわふわしっとりやわやわウマウマだった。
え、切れ端では?なに?!と思ってラベルをよく見たらヤマザキだった。
なのに誰も気付かないんだよ。パンは安くて美味しくて当たり前。みたいな…。いやいや!!比べて!ほんっと回転寿司と寿司屋の寿司がおんなじだと思わないでしょうが!!
パン屋の老舗まじはんぱねー。
私の担当はこの8人の中の1人だ。最初こそ、8人でコンサートを、8人でグループを、8人で曲をと言っていた。でももう、それも過去形だ。諦めたとは言いたくないが、8人括りになってもうすぐ2年。それなのにこの状況ということはもう答えが出ているという風に捉えた。
私の担当はそれこそ、8人の中では干されだ。彼の担当で8人に対してこういう風に思っているファンは少ないだろう。そして彼はおそらく、8人の中で一番早くここから去るだろう。
8人の中で、8人を強調する人は自分の居場所がほしいからなのか、逆に8人に特に拘りを持たない人は自分だけの力でも這い上がろうという気持ちがあるのか。本人たちの言葉はどこまで本音なのかわからないから言えないけど。
8人でいることが足手まといになるなら、上に這い上がれない理由になるなら、ここに留まってしまうなら、8人でいなくていい。上に上がりたい人は勝手に大きくなってほしい。とりわけ真ん中にいる2人にはそう思う。
話は前後するが、京都マラソンに応援にいったとき、Funky8の文字をたくさん見た。正直恥ずかしかった。走っているのは2人なのに。あなたたちはいったい誰を、何を応援しに来たの?という気持ちだった。純粋に2人を応援したくて来た私には到底理解しがたい光景だった。
もっとガツガツしてほしい。仕事がほしいなら自ら掴んでほしい。こいつに仕事が来た俺には来ないのが悔しい、そう思ってほしい。春夏冬の松竹座、ジャニーズWESTのコンサート それだけで一年を終えないでほしい。お願いだから、自分を、未来を諦めないでほしい。諦めた人間を応援できるほどファンは強くない。8人でいることが100%正解ならそうすればいい。だけど1%でも、誰か1人でも違うと感じるなら、もっと考えてほしい。グループになること、括りであること、これからどうしたいのか。
散々言ったが、私は8人が、担当が大好きだ。特に担当には幸せになってほしい。たとえこの世界でなくても。そしてデビューしてスーパーアイドルになると語る別の彼には、絶対にデビューしてほしい。だから、ここでなくてもいい。自分が一番輝ける場所、方法でジャニーズとして幸せになってほしい。そしてその幸せを、たまにファンにください。
初めに言っておくと、劇場版はアニメ2期より後の話らしい。SAOはアニメ1期しか見ていなかったが、最初の数分のダイジェストは1期の内容だけだったし、前提知識は概ね問題なかった。しっかり楽しみたい人は2期まで予習しておくのが良いだろう。
さて、パット見の客層は、ほぼ(95%ぐらい)男で、年齢層は10台後半〜20台前半ぐらいだった。まぁ大体は時間のある学生時代に原作やアニメを見た人たちだろうし、SAO自体、言ってしまえば男子中学生の妄想みたいな作品だから女子率低いのも納得感ある。
以降は軽くネタバレあるので引き返すならここで。
まず、今回はARの話で、現実のここ数年でAR→VRに流行が一気に持っていかれたのに反して、VR→ARの流れで描かれている。
SAOはラノベ系俺TUEEEEの先駆けでありながら、近未来的設定が特徴的な作品であると理解しているが、その点については頑張っていたとは思う。ARアイドルとか、どこでも仮想ステージとか、日常からバトルへの遷移演出とか、出だしはなるほどという感じであった。
……が、次第に雲行きは怪しくなり。
例えばAR時の身体能力おかしくね?とか。最初の方で、ARだから殴って痛いみたいなシーンなんて無かったんや。
とまぁ設定は総じてお察し。やっぱリアル成分増えるとガバガバ感が強まっちゃうんだなというのが正直な所。こまけえことはいいんだよ。
それからとにかく東京ネタが多かったなと。大岡山の東工大キャンパスとか、結構な人が分からないんでね?君の名は......は監督の趣味にしても、地名レベルまでガッツリ作品に取り込むのは、まぁどうなのだろうね。よく知らなくてもウケるのかな。あまり気にならないのか。あと新国立競技場はワロタ。
時事はかなり反映しててここまでやっちゃうのかと1周回って感心。ただディープラーニング(笑)とか、あのコンテキストでこの言葉を使う意味は全く無いので、どう考えても言ってみたかっただけ。まともに突っ込む気も失せるレベルなので、多分我々の知っているDeep Learningではない別の何かなのだろう。
作画は平均的な劇場版アニメのクオリティ。現実世界はリアル風景写真をベースにした(?)静止画+動く何か(なぜか蝶々が多い)でごまかすシーンも多いが、まぁ許容範囲だろう。ただクライマックスの演出については、ポケモンショックを想起させる短間隔の激しいイフェクトと連続カットインで、直視できなかった。ちょっとやり過ぎだったのでは。
音楽は悪くなかったが一発で印象に残るほどのインパクトは無かったかな。
シナリオはSAOらしく可もなく不可もなく、まっこんなもんだろね感。
改めて考えてみると、総じて深海的要素を取り入れてたなと。よく研究したんじゃないかな、て思ってたら、監督の伊藤氏は何度か深海作品の助監督やってたみたい。知らなんでスマンな。
てことでまとめると、勢いで乗り切った部分は否めないが、SAO臭さを許容出来る人であれば、十分楽しめる作品にはなっているかと思う。
以上。
ラスト「俺を非難する君達が現実のテロの脅威に晒された時、どう態度を変えるのかな(うろ覚え」というセリフがザクッときた
結局今のトランプ批判って「争いの世界」という遠いところにある問題を肴に、政治的正しさでマウント取ってるだけじゃん。と
とはいえ作中のアメリカが「世界の警察」を担おうとしてる時点でやっぱり2007年の小説なんだなぁとも感じた
今アメリカがテロの脅威に晒されたら、攻撃に出るのかなぁ?守りに入るのかなぁ
とはいえこれ海外ウケしそうだけど、少年兵殺しまくってるし輸出は無理じゃなーい?
悲しいなぁ
1「常にレディファーストで行動する(逆の観点からすれば性差別的な)紳士に育てたい」
2「暴力はいけないことであり暴力で解決する問題はないということを教えたい」
3「自分でも説明できない『男の暴力』に対するもやもやを抱えこんだまま、自分の本音と向き合うことを避けて息子に謎ルールを押しつけたい」
…のどれなのか?
1を肯定するには自称リベラルすぎ、2を肯定するにしてはポリシーが不足しており……だろうと想像。そうなると、端から見てて3が有力にしか見えない。どうなのか。
子育てなんて自分に嘘をついたままではできない。自分の弱さを強くすることなんてできなくても、向き合うことを避けたままでは何も解決しない。正直、幼稚園に対してモンペであるかどうかが問題ではないと思う。「トラブルをただ排除する」ことでしか問題を解決できないという発想のまま子育てしていくなら、この先息子さんはどんどん「トラブルを自分の力では解決できない」子供になっていくだろう。そういうやり方に賛成できない。せめて増田でくらい、自分の本音をきちんと述べるべき。
とでも書かないと心がぶれそうになるから書いておきたいな。
私は別に廃課金ユーザーとかそんな大それたものではないし、過去にハマったソシャゲにつぎ込んだ額も精々二万程度だったと思う。
二万をソシャゲに注ぐことに対してどう感じるかは、個々の判断によるところだとは思うけれど、少なくとも私は一度経験して「充分だった」と思った。
ソシャゲでガチャを引く事により手にすることが出来るのは大多数が「カード」であり、ものによってはカードの強化に必要な限定アイテムだったりするだろう。
ゲームとして他のプレイヤーより強くなる為に、勝負に勝つために、ランキングで上位に食い込むために(それによりランキング報酬のカードを取るために)など、カードを獲得するのには色んな理由がある。限定衣装に身を包んだ大好きなキャラクターのイラストだって集めたい。
特にキャラクター性重視のソシャゲに多いのが、カードを獲得することによって開放される限定ストーリーなどから「キャラクターの更なる情報」が得られるという点だ。
私の大好きなキャラクターは、季節の行事をこんなふうに楽しんでいる。他のキャラクターとこんな会話をしている。新たな一面が垣間見える。今までよりもっと、そのキャラクターを理解できる。
カードを獲得すればこんな風に楽しめる反面、カードを獲得出来なかった場合、他者との圧倒的な情報の格差が生まれる。
これが、漫画や買いきりのゲームの様に、お金を出せば確実に情報を得られるコンテンツと根本的に異なっている点だと思う。
私が限界を感じたのも正にこの点で、ギャンブル的な要素にお金を投じなければ、公式からの供給を得られないのだ。
「あのストーリー読んだ?」「私あのカード引けてないから読めてないや」
こういうことは当たり前の様に起きる。課金して、なおかつ1%以下に設定された排出率に勝利しなければストーリーすら共有出来ない。(カード引いた友達に読ませてもらえば?というお話ではない)
なんだそれ。ギャンブルしないとストーリーすらまともに楽しめないってか。
それなら漫画やアニメや買い切りゲームを買ってを楽しんで、期間限定の小話は雑誌に掲載されたSSを買って読んで、連載誌や円盤買って応援した方が100倍マシだ。
一定額のお金を出せば情報が受け取れる。これらのものが物凄い優良コンテンツに思える。よく考えなくてもこれらはごく普通の当たり前の情報コンテンツの楽しみ方で、そんな楽しみ方すら出来ない事がとんでもなく異常に思えた。
現実には、ギャンブル性そのものに対する楽しみや、自分は他人よりこれだけ課金したと言ってコンテンツへの愛情をアピールする競争意識や様々な感情を煽るからこそ現在のソシャゲの隆盛が実現してるんだろうけど、一度その輪を外れてみたら、私にとってそのお金の使い方は適していないと思うようになった。
まぁ推しガチャの為に溜めに溜めた1000近い無償の石も全て無駄に終わり、ただでさえこんなに出ないガチャに、これからもお金を掛け続けてコンプするのかと思ったら急に虚しくなった。それだけ。これで推しの限定ストーリーは読めなくなった。でももう疲れたし、これでいいんだと思う。
基本的に、学校という組織にいる間は、勉強をするな、やめろと言われることはまずない。
当たり前だが、学校というのはそれが存在意義なので、やめるという選択肢は頭にないのだ。
しかし、勉強を続ければいいことがあるかというと、個人レベルでは必ずしもそうではない。
大学入試がそうであるように、一定のレベルに満たないものは排除されるプロセスだ。
大学院、博士課程と進んだとして、教授になれる人間が何人いるだろうか。
そこまでの成果を挙げられなかった時、その努力を誰が評価してくれるだろうか。
ただでさえこの日本では、単純に学んだ学問の量より、学校の名前の方が重視される。
もっと言えば、学校の名前よりも、若さと従順さの方が大事なのだ。
だからこそ、若さがあるうちに、どこで勉強に見切りをつけるかが大切だ。
これがスポーツならわかりやすい。中学高校と野球ばかりやって、プロになれれば万々歳だ。
大学で部活を引退して、一般企業に就職するのも悪い選択肢ではない。
しかし、独立リーグに行って薄給で夢を追う奴は、平たく言えば損切りのできないバカである。
せいぜい年に数人が育成契約に引っかかるぐらいで、決して分のいい賭けではないからだ。
勉強もまた同じである。ポスドクというのは、言わば学問の独立リーグなのだ。
どこまで勉強を続けることにメリットがあるかは、自分の才能や努力や興味や運との相談になる。
もし、それらに恵まれていれば、もしかしたら教授まで突っ走れるかもしれない。
しかし、とにかく誰もが勉強していいことがあるかというと、そうとは限らない。