とでも書かないと心がぶれそうになるから書いておきたいな。
私は別に廃課金ユーザーとかそんな大それたものではないし、過去にハマったソシャゲにつぎ込んだ額も精々二万程度だったと思う。
二万をソシャゲに注ぐことに対してどう感じるかは、個々の判断によるところだとは思うけれど、少なくとも私は一度経験して「充分だった」と思った。
ソシャゲでガチャを引く事により手にすることが出来るのは大多数が「カード」であり、ものによってはカードの強化に必要な限定アイテムだったりするだろう。
ゲームとして他のプレイヤーより強くなる為に、勝負に勝つために、ランキングで上位に食い込むために(それによりランキング報酬のカードを取るために)など、カードを獲得するのには色んな理由がある。限定衣装に身を包んだ大好きなキャラクターのイラストだって集めたい。
特にキャラクター性重視のソシャゲに多いのが、カードを獲得することによって開放される限定ストーリーなどから「キャラクターの更なる情報」が得られるという点だ。
私の大好きなキャラクターは、季節の行事をこんなふうに楽しんでいる。他のキャラクターとこんな会話をしている。新たな一面が垣間見える。今までよりもっと、そのキャラクターを理解できる。
カードを獲得すればこんな風に楽しめる反面、カードを獲得出来なかった場合、他者との圧倒的な情報の格差が生まれる。
これが、漫画や買いきりのゲームの様に、お金を出せば確実に情報を得られるコンテンツと根本的に異なっている点だと思う。
私が限界を感じたのも正にこの点で、ギャンブル的な要素にお金を投じなければ、公式からの供給を得られないのだ。
「あのストーリー読んだ?」「私あのカード引けてないから読めてないや」
こういうことは当たり前の様に起きる。課金して、なおかつ1%以下に設定された排出率に勝利しなければストーリーすら共有出来ない。(カード引いた友達に読ませてもらえば?というお話ではない)
なんだそれ。ギャンブルしないとストーリーすらまともに楽しめないってか。
それなら漫画やアニメや買い切りゲームを買ってを楽しんで、期間限定の小話は雑誌に掲載されたSSを買って読んで、連載誌や円盤買って応援した方が100倍マシだ。
一定額のお金を出せば情報が受け取れる。これらのものが物凄い優良コンテンツに思える。よく考えなくてもこれらはごく普通の当たり前の情報コンテンツの楽しみ方で、そんな楽しみ方すら出来ない事がとんでもなく異常に思えた。
現実には、ギャンブル性そのものに対する楽しみや、自分は他人よりこれだけ課金したと言ってコンテンツへの愛情をアピールする競争意識や様々な感情を煽るからこそ現在のソシャゲの隆盛が実現してるんだろうけど、一度その輪を外れてみたら、私にとってそのお金の使い方は適していないと思うようになった。
まぁ推しガチャの為に溜めに溜めた1000近い無償の石も全て無駄に終わり、ただでさえこんなに出ないガチャに、これからもお金を掛け続けてコンプするのかと思ったら急に虚しくなった。それだけ。これで推しの限定ストーリーは読めなくなった。でももう疲れたし、これでいいんだと思う。
なんだそれ。ギャンブルしないとストーリーすらまともに楽しめないってか。 それなら漫画やアニメや買い切りゲームを買ってを楽しんで、期間限定の小話は雑誌に掲載されたSS...