はてなキーワード: 資金的とは
追いついていたら去年の段階で救護室が満杯になるような事態は起きません
追いついてるから満杯で済んでる。
金が潤沢で余り出し放題なオリンピックとは違うんだぞ?
オリンピックという害悪に潰されろ、と主張なさるわけですね。本音が出ましたね。
日程や会場を可能な限り調整したのが今回。させられたのが今回。
理由がどうであれAEDの設置場所のミスや誘導ミスを始めとする明確な安全配慮義務違反をやっているにもかかわらず批判するなというのはズレすぎ
オリンピック様のお陰で金銭的にもスケジュール的にも体力的にもギリギリの運営に、「ミス一つするな、できないならやめろ」って何様?
それにスタッフはともかく運営自体は有限会社なので自己を省みず尽力しているわけではないし仮に尽力していたとしても運営を擁護する材料にはなりません
へえ、会社ならどれだけ理不尽な条件下で死力を尽くしてても無関係な外野に好き放題言われないといけないのかー。
参加人数に比しての能力は追いついてただろ
追いついていたら去年の段階で救護室が満杯になるような事態は起きません
なら今年は?というと、オリンピックとかいう運動会が場所をたっぷり奪っていったお陰で、資金的にも場所的にも労力的にも辛い4日間日程を取らざるを得なくなったという変化があったわけだ。
資金的にも場所的にも労力的にも辛いなら開催しない、日程を分散させる等の代替案が挙げられたのでは?
理由がどうであれAEDの設置場所のミスや誘導ミスを始めとする明確な安全配慮義務違反をやっているにもかかわらず批判するなというのはズレすぎ
それにスタッフはともかく運営自体は有限会社なので自己を省みず尽力しているわけではないし仮に尽力していたとしても運営を擁護する材料にはなりません
アニメなんてなくても生きていける。
そう論じるのは簡単なことだ。
だが
人間はそもそも不完全なものであり、合理性のみで人生を全うすることは難しい。
それが出来る人間もいようがその数は決して多くない。
アニメに限らず、ゲーム、酒、タバコ、異性、ギャンブル、車、ゴルフ、音楽、アイドル、スポーツ観戦、特撮、映画、小説…
多くの人間は一見非生産なものにひと時その身を浸して癒やしを得、日々の暮らしにおける心の糧にしているものだ。
まずこういったものに批判をすること自体禁酒法時代のアメリカや天保の改革の風俗取締令のようなナンセンスさがある。
すでに多くの批判が寄せられているが、大阪芸術大学の純丘曜彰教授の例のコラムの改稿前のものを長くなるが引用し、思うところを述べていきたい。
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/夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。/
あまりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファンが豹変し、本人を襲撃。アイドルやアニメは、そのマーケットがクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。
もとはと言えば、1973年の手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映も労働争議で多くの人材を放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化していく。
そんな中で74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理と製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。しかし、サンリオ資本のキティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおのマンガ『翔んだカップル』を実写化し、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり中高生モノの手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。
このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーションの前身が稼働し始める。そして、その後のアニメ業界の大勢の方向を決定づけたのが、84年、この監督だった押井守の映画版オリジナルストーリー『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』。SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方ない宇宙人の女の子ラムの夢に世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。
アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、『サザエさん』や『ドラえもん』のようなファミリーテレビ番組はもちろん、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のような人気マンガを動かしたもの、『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSF、さらにはもっとタイトな大人向けのものもある。
にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。たとえば、07年の『らき☆すた』の最終回第24話は、『BD』と同じ学園祭の前日。エンディングでは、あえて『BD』のテーマ曲を下手くそに歌っている。つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の『涼宮ハルヒの憂鬱』2期第12話から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みのエピソードが繰り返され、『BD』に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。
もっと言ってしまえば、京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった。学園物、高校生のサークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。天性の善人とはいえ、社長の姿は、『BD』の「夢邪鬼」と重なる。そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。
なぜ学園物が当たったのか。なぜそれがアニメの主流となったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数の共通体験だからだ。入学式、修学旅行、学園祭、卒業式。教室、体育館、登下校。だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。それは、いい年をしたアイドルが、中高生マガイの制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタのアラサー、アラフォーのファンを誑かすのと似ている。
夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。グッズを買い集め、「聖地」を巡礼し、そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。
『恋はデジャブ』(93)という映画がある。これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公が精神的に成長するという物語。この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。つまり、主人公の成長を待ってくれる。だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。終わりの無い学園物のアニメにうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメの主人公は、のび太もカツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。しかし、現実の人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。こういう連中に残された最後の希望は、自分も永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。
起業する、選挙に立候補する、アイドルやタレント、芸人になる、小説やマンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見させられ過ぎた。だから、一発逆転も、また別の夢。かならず失敗する。そして、最後には逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ。
いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
まずはこの業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別する必要がある。もう学園祭は終わったのだ。休もう。番組も、映画も、穴を開けて休もう。あれだけの京アニの惨事を目の前にしながら、よりタイトな状況で黙々と規定の製作スケジュールをこなそうとしていることこそ、異常だ。こんなときくらい、京アニにかぎらず、業界の関連全社、いったん立ち止まって、仕事や待遇、業界のあり方、物語の方向性、ファンとの関係を見直し、あらためてしっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
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「京アニは学園ものだけ」という言説に対し、傷痍軍人の女性が戦後を生きる「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の存在意義が改めて燦然と光り輝いているという事実。劇場版も企画されており以降もシリーズ化されればそれはもう「学園ものだけ」という批判にはあたらない、はずだったのだが…。
また京アニオリジナルの源流をたどればMUNTOという異世界ファンタジーもあり、今後何が飛び出すか、その可能性は無限に満ちていた。
日本のオタク作品の大半が確かに学園ものなのは事実であるが、それは世界観の説明が容易であること、多くの視聴者が経験していて没入しやすいこと、といったアドバンテージがある、いわば「手堅い」ジャンルゆえ。
京アニは決して裕福な会社であったとは言い切れないし、またアニメ業界自体流行り廃りが激しく、そんな中で一定の収益を手堅くあげる選択をとっても批判されるいわれはあるまい。
エンドレスエイトがいまだに物議を醸す存在であるのは事実だが、話題性が1期よりは希薄になりがちな2期ハルヒを「語る」上で大きな要素になっているという点では意義のある存在ともいえるのかもしれない。
終わりなき学園祭としてひとつの象徴となった「ビューティフル・ドリーマー」、
うる星やつらが漫画版で約9年、アニメ版で約5年もの長きに渡り「途切れることなく」続いた学園ものであった記憶もあって、ことにアニメに対して古い感性の人間ほど「終わりなき青春」を延々続ける印象もあるが、
近年の製作ペースは1クール12話、月にならせば3ヶ月ほどのスパンが基準で、シリーズが続いても2クールか長くても4クールあたりが殆どで、1年を通して続くことはもはや一部の例のみで、1クールないし2クールベースの途切れ途切れの発表ペースになっている。しかもうる星が3年を超えて学生生活を描き続けたのに対し、妥当な時間経過とともに終わり即ち「卒業」があるのも近年の特徴。
しかもアニメファンは常にコンテンツの新陳代謝にさらされる中で、コンテンツの完結を一区切りとして、同じ制作会社だからといって次に提示される新コンテンツを必ず追い続けてくれるとは限らない。
1期で好評だったシリーズ物の2期ですら、1期以上に人気を得るのは実際難しい。
そしてこの御仁が憂うまでもなくアニメ自体卒業していく人間も確かに存在する。
そういった熾烈なレッドオーシャンで波間の泡のように浮いては消えていくのがアニメ制作会社の非情なる現実。
そんな熾烈な世界にあって健気に誠実に作品を作り続け、また大きな落ち込みもなく良質な作品を供給できる会社を存続させてきた、業界の良心の要石のような会社が京アニであって、それはこういう批判の俎上に上げるべき存在ではそもそもない。
事件前からかねがね用意されていたであろう「ぼくのかんがえた日本アニメ概論」をここぞとばかりに持ってきたのだろうが、世界的に見ても比類なきほど理不尽な、そして悲惨な事件に対して論じるにはあまりにも適さない代物であったと言わざるを得ない。
このケースは犯人の特性も含めて極めて異常であり、安易な因果応報的論説にははめ込めないほどの歪さ不条理さがあるのだ。いやしくも大学教授を名乗る立場にふさわしくない浅薄さであったと言わざるを得ない。
この御仁が禄を食んでいる大阪芸大は早くからサブカルチャーに特化した今やオタク御用達の大学であり、辺境にありながら高い人気を持ち続けているのはそれ故もあるのに、そこからオタク批判をすること自体、あたかも親の庇護を受けながらヤンキーやってるイキリ中学生のようであり甚だ滑稽でしかない。
まぁ一方で確かにアニメ作りすぎなのは事実であるが、それは業界全体レベルの話であり京アニを論って言う話ではない。それは数を作らないと食えないという業界構造にこそ問題があり、是正されるべきものであるのは論を俟たない。だが、かつて勇名を馳せた会社ですら粗製乱造なものも見受けられる中、ひとつひとつの作品を売れる売れないに関わらず本当に誠実に作ってきた会社を取り上げて言うことではない。まして「麻薬の売人以下」とまで蔑まれるいわれはない。
あとアニメうる星はその後綺羅星の如く多くの俊英を生み育てる土壌になり、アニメ産業及びアニメ文化の嚆矢ともなったという意味で意義深い作品であり、とりわけビューティフル・ドリーマーはアニメ制作班の若き野心とオリジナリティに溢れた傑作であったことも付け加えておく。だがそれに内包されている批判精神は今や一周回って定番になってしまい、それをもってアニメ批判オタク批判をするには「今更感」で一杯で陳腐化していることも。
最後に
人的物的、そして心理的にも大きなダメージを負い再起すらも危ぶまれる中、これからの再起を表明した八田社長と京アニには、深い敬意を表しつつ、事件前に比肩する制作体制を整えるのはおそらくまだ時間がかかるであろうとも、その行く末を見守っていきたいし、微力であれ力添えもしていきたいものである。
そして、亡くなられた方のご冥福と、負傷された方のご快癒をお祈りしつつ、件のコラムのような浅はかな批判論を払拭する新たな可能性に満ちた作品群を期待したい。それがいつになろうとも。
https://anond.hatelabo.jp/20190710013156
>なんで、インタビュー形式なの?AVとか「ロキノン」好き?あと、文章が妙に読みやすいけど、もしかしてライター目指してた?
文章をお褒めいただき、ありがとうございます。いわゆるFAQというかQ&A形式だと、自分は説明書とかでも理解し易い性格ですので、それを真似てみました。
たしかに20代の頃には、ライター業も就職候補として狙っていましたが、上京するタイミングを逸した頃と前後してバブルが崩壊し、そこからフリーター生活に突入したという、気持ちだけは若いおっさんというか中年なのです。なので、『30/35歳まで』の応募年齢制限に、涙を飲んだ日々…。あ、音楽雑誌はさほど熱心には読みませんし、AVも借りた事は無いです。
>同僚とか、学歴低そう…。あと、タバコ臭い職種なのが分かってたら、コネでも断れたのでは
あまり突っ込んで訊いた事はありませんでしたが、隊員のけっこうな数が高校や工業高校卒らしく、ただ数人は大卒でした(自分は大学中退)。とは言っても、年齢層としては50-70代が多くて、かつこの世代は喫煙者である事は珍しくないので、ちょっと休憩時間があればすぐタバコを吸いに行く人が半数ほどだった印象が。また、タバコの吸い殻のポイ捨てをする隊員は、残念ながら当たり前のように居たし、そういった『タバコのあと始末』がダメな隊員は、概して人当たりもダメでしたね。
>『片側交互通行』がこなせないんなら、警備の仕事を続けるのはさすがに無理だろ。もしくは、施設警備専業の所へ移ったら?
自分も「このザマじゃ、長続きはしないな…」、とは感じていました。『片交』(と略す)は、瞬時の反応ができるかできないかがカギなので、下手すればクルマに轢かれて死ぬよね、と。あと、自分の居た事務所は基本的に2号業務(交通誘導)業務がメインで、1号業務(施設・雑踏)はあくまでオマケ扱いでした(ALSOKやCSPや東洋テックなどの大手は、資金的にも余裕があるため設備投資が可能な1号業務が多い)。なお、自動車専用道での片交や車線規制での悩みは、食事休憩もだけど、トイレが近場に無い事。
>ドライバーの罵声はクソだが、いっぽうで近所の人は優しい印象がある
それはあります。工事現場でのダンプ運転手の3割近くや、車線規制の際の一般ドライバーの2-3%は気が荒い印象でした。また、自分は年齢よりやや若く見られる顔つきのせいか、施設警備のうち総合病院の玄関や駐車場では、特に中高年の女性からよく、気遣いの挨拶をされていました。
ただ、先述の社長も「うちらは、みんながスムーズに運ぶように『お願い』するしかない仕事」と述べていたように、警備員の行動には『法的な強制力』が無いため、あくまで『協力を求める』姿勢が大切。なので、本質的には『接客業』でもあります。(という事はつまり、『客からの理不尽な反応』を受けやすい職業でもある…)
>でもしょせんは、『旗振り』でしょ。あっても無くても大差ない、意味も無さそうな仕事では?
路面工事・道路設備の点検・車両が出入りする工事現場では、歩行者や車両へ注意を促すための『専従の誘導員』を置く事が、法律で義務付けられてますので。
あと、未経験者が警備員になる際に受講が義務づけられている『新任教育』の際には、混雑時の群衆誘導や予測を誤った事で死者が出た典型例として、『明石花火大会歩道橋事故』を学びます。1平方mあたり約3.5人を超えると、自分の意志では身動きができなくなり危険なので、そうなる前に入場規制を行うのは催事会場や周辺での基本。
・注目ののれん残高は4.1兆円。自己資本(5.1兆円)を超えてはこなかったが、その分、無形資産に振り替わった。
・無形資産残高は4.8兆円。製品開発プロジェクトコストのPurchase Price Allocation(取得原価配分)によるものだろう。
・それでものれんは自己資本の80%を占めている。無形資産は自己資本に比して94%。のれんと無形資産を合わせれば純資産をはるかに超えて、自己資本の175%相当となった。こういう会社は異常というしかないのだが、最近増えている。
・IFRSはのれんの定期償却を禁止しているが、超過収益力が見込めないとなったら減損損失処理が求められる。
・一方、無形資産は定期償却がなされる。武田の無形資産は3~20年で償却されている(前期の有価証券報告書によれば)。この償却費負担が利益の重しになる。ウェバーは償却費は無視してよいという姿勢のようだが。ご立派なものである。
・Shireの業績が当初計画を下回るというのが最悪のシナリオで(杞憂に終わればいいのだけれど)、これらのれんと無形資産の減損が求められれば武田が債務超過に陥ることもあり得る話。武田の株主はウェバーの手を通じてShireにfull betしている。
・'19年3月期の無形資産償却費はShire絡みが903億円。3か月分でこれだ。12ヵ月換算で3,612億円となる。これ以外も含めて無形資産償却費負担は年額4,390億円(毎年の償却費負担)。
・償却費は資金の流出を伴わない費用であるのはたしかにそうだ。しかしすでに支出されていて、これから費用処理されるというものだ。償却費は、過去に資金をたしかに流出させた、株主が負担する費用以外の何ものでもない。
・それを公然と無視し続ける経営者を雇い続けて、しかも年間12億円の報酬・賞与を支払って(前期の有価証券報告書によれば)いるのが武田の株主諸氏である。ウェバー氏が声高にいうコア・アーニングスとやらでは償却費が当然のように無視されている。
・翌期は統合費用1,540億円を見込む(何に使うつもりなのかよくわからないが)。
・短信の表現で「これらの一時的な費用及び非資金的な費用による影響を除きますと」翌期は営業利益+38.7%の増益見込みだそうだ。ちなみに無形資産償却費は一時的なものではない。
・表現がいちいち小賢しい。短信の文言のそこかしこから経営陣の不誠実さがぷんぷんにおってくる。悪臭を放つ決算書というものがあるとしたらこれである。
・コア・アーニングスの成長率は「力強く」「大きく伸張し」+38.7%だという。
・コア・アーニングスとはいったい何なのか。
→ 純利益から税金費用、持分法投資損益、金融損益、その他営業収益、その他営業費用、無形資産償却費、減損損失を控除して算出するという。償却費や支払利息はコアではないというのだ。
・では、それを負担するのは誰なのか。株主以外にいない。とんでもない借金を背負ってとんでもなく巨額の買収を行って、そのうえで利払いはノン・コアだという、その居直りっぷりは正常な人間のものとは思えない。しかしこういう経営者は少なくない。
・コア・アーニングスとは、ウェバー氏が手前勝手に計算した自画自賛するための利益概念である。都合の良い数字を持ち出して誇らしげにしているのが現在の武田の経営者である。よく恥ずかしげもなくこういうことができるものだと逆に感心する。
・さらに、コア・アーニングスには「その他、企業買収に係る会計処理の影響や買収関連費用など、本業に起因しない(ノン・コア)とマネジメントが判断した事象による影響を調整します」とある。そして、これをもってマネジメントによる業績評価に使用されているとある。事業部単位であればそういうやり方もあるだろう。ウェバー氏はじめ経営陣はどうか。これら「ノン・コア」を除外してわれわれの業績を評価するようなお手盛りとか、まさかしていないよなと不安になる。
・そんな手前勝手で都合の良い指標を持ち出されて、それを聞かされた株主が感心するとでも思っているのだろうか?読んでいてここまでばかばかしい気持ちにさせる決算短信は見たことがない。
・Shire買収のため、ウェバー氏は買収のための資金調達に大規模な新株発行を行い、発行済み株式数を2倍にしている(2019年1月)。その際の売り出し価格が短信から読めた。1株4,065円であった。資本金・資本剰余金の増加額を発行済み株式数の増加数で割れば出てくる。
・株価が安くなったタイミングで大量の新株発行をしようとしているなと苦々しく見ていたが、ずいぶんと安く会社を切り売りしてくれたものである。シャイアー買収が報じられる前は6,000円を超えていたのだ。
過去に武田は自社株買いを行っている(2008年)。当時の自社株の買い戻し価格は平均して5,238円。当時の経営トップは長谷川閑史(ちなみにウェバーを後任に据えた張本人であり、今も相談役に居すわっている)。そのときは株価が十分安いと判断したがゆえの自社株買いだったはずである。それから10年以上経った今、ウェバー氏はこれよりもかなり安く(▲22%)売り払ってくれている。無謀な買収提案で会社の評価を引き下げて後の大規模な新株発行。既存株主の価値を大規模に流出させ、希薄化させ、でかい面をしている。見事なまでの企業価値の破壊者っぷりである。ウェバー氏にしてみれば武田の価値などその程度なのだ。株主のことなど屁とも思っていない。ウェバーに同調した他の取締役も同じ穴のむじなである。
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No.1035
ウェバーはシャイアーの買収を通じて武田の既存株主からシャイアーの元オーナー達へ巨額の価値移転を行った。これがシャイアー買収の本質である。シャイアーの元オーナーたちはウェバーに借りを作ったことになる。
ウェバーはこの買収がうまくいけばそのまま武田に居座って巨額の報酬を貪っていれば良いし、うまくいかなければ(その可能性は高い)シャイアーの元オーナー筋のどこかの会社で役員に納まるといった筋書きを持っていたりしないだろうか。今のところただの陰謀論だがもしそうだったとしても私は驚かない。
共謀したとしたら投資銀行筋ではないか(巨額のアドバイザリーフィーを受け取ったJPモルガンあたりがあやしい)と当たりをつけてはいるのだが、シャイアーのアニュアル レポートを読んでも元オーナーの顔ぶれは見えてこない。
No.1034
コア アーニングスは会計基準と…
2019/07/04 00:06
コア アーニングスは会計基準とまるで関係なく計算した数字だと決算短信に書いてありますよ。会計基準は無視して作った数字ですよと。
そもそも決算短信は監査の対象外だし、仮に有報に載せたとしても、コア アーニングスは会計基準に則っていないこと(会計基準は無視して作った数字であること)が明記されているということで、付加的な情報として扱われるだけ。監査法人の監査証明はこの数字に責任は負わない、というつくり。
わかりにくいでしょう?こういう分かりにくいことをぬけぬけとやっているのがウェバーを初めとしたここの経営陣なのですよ。
コアアーニングスなんていうもの…
2019/07/03 22:41
コアアーニングスなんていうものはウェバーとその取り巻き経営陣が自分たちの業績(巨額の損失を出しておいてお笑い草ですが)を自画自賛するためのでたらめな数字ですよ。会計基準をまったく無視して都合のいい数字だけ積み上げて(都合の悪い数字を片っ端から取り除いて)作り上げた数字ですから。株主を愚弄しまくっているのが報酬17億をお手盛りで分捕っているウェバーという男なのですよ。
No.1027
No.960
シャイアーの業績が当初見込みを下回ればのれんだけでなく買収時に無形資産に振り返られた分も併せて減損となる可能性が高い。そうなれば一気に債務超過だ。そうなれば配当原資はなくなり配当できなくなる。やれば違法配当になる。
No.875
No.42
シャイアー買収が良い経営判断だったとは内心誰一人思っていないのでしょう取締役連中は。そしておそらくウェバーですら本音はうまくいくわけがないと思っているはずですよ。こ奴らは高額の役員報酬さえ貰えればそれでいいのであって、他人の(株主の)カネで大きな仕事をやったと思われさえすれば、次の転職先も安泰と考えているのでしょう。しかし私は武田の価値をずたずたにしてくれたウェバーと無能な取締役連中を絶対に許さんですよ。
No.11
Core earningsなどというものは経営者自身の高額報酬を正当化するための、自画自賛のためのものですよ。
これが最大の謎。シャイアー買収が既存株主の価値を大幅に毀損すると分かっていたはずなのに。
買収承認の前後でシャイアー買い・武田売りの裁定取引が大規模に行われていたようだが、顔の見えない大株主連中はそれに参加していたのだろうか...?
No.632
その通りと思う。
No.50
No.1071
・Shire買収のため、ウェバ…
・Shire買収のため、ウェバー氏は買収のための資金調達に大規模な新株発行を行い、発行済み株式数を2倍にしている(2019年1月)。その際の売り出し価格が短信から読めた。1株4,065円であった。資本金・資本剰余金の増加額を発行済み株式数の増加数で割れば出てくる。
・株価が安くなったタイミングで大量の新株発行をしようとしているなと苦々しく見ていたが、ずいぶんと安く会社を切り売りしてくれたものである。シャイアー買収が報じられる前は6,000円を超えていたのだ。
過去に武田は自社株買いを行っている(2008年)。当時の自社株の買い戻し価格は平均して5,238円。当時の経営トップは長谷川閑史(ちなみにウェバーを後任に据えた張本人であり、今も相談役に居すわっている)。そのときは株価が十分安いと判断したがゆえの自社株買いだったはずである。それから10年以上経った今、ウェバー氏はこれよりもかなり安く(▲22%)売り払ってくれている。無謀な買収提案で会社の評価を引き下げて後の大規模な新株発行。既存株主の価値を大規模に流出させ、希薄化させ、でかい面をしている。見事なまでの企業価値の破壊者っぷりである。ウェバー氏にしてみれば武田の価値などその程度なのだ。株主のことなど屁とも思っていない。ウェバーに同調した他の取締役も同じ穴のむじなである。
・コア・アーニングスの成長率は…
2019/05/14 21:57
・コア・アーニングスの成長率は「力強く」「大きく伸張し」+38.7%だという。
・コア・アーニングスとはいったい何なのか。
→ 純利益から税金費用、持分法投資損益、金融損益、その他営業収益、その他営業費用、無形資産償却費、減損損失を控除して算出するという。償却費や支払利息はコアではないというのだ。
・では、それを負担するのは誰なのか。株主以外にいない。とんでもない借金を背負ってとんでもなく巨額の買収を行って、そのうえで利払いはノン・コアだという、その居直りっぷりは正常な人間のものとは思えない。しかしこういう経営者は少なくない。
・コア・アーニングスとは、ウェバー氏が手前勝手に計算した自画自賛するための利益概念である。都合の良い数字を持ち出して誇らしげにしているのが現在の武田の経営者である。よく恥ずかしげもなくこういうことができるものだと逆に感心する。
・さらに、コア・アーニングスには「その他、企業買収に係る会計処理の影響や買収関連費用など、本業に起因しない(ノン・コア)とマネジメントが判断した事象による影響を調整します」とある。そして、これをもってマネジメントによる業績評価に使用されているとある。事業部単位であればそういうやり方もあるだろう。ウェバー氏はじめ経営陣はどうか。これら「ノン・コア」を除外してわれわれの業績を評価するようなお手盛りとか、まさかしていないよなと不安になる。
・そんな手前勝手で都合の良い指標を持ち出されて、それを聞かされた株主が感心するとでも思っているのだろうか?読んでいてここまでばかばかしい気持ちにさせる決算短信は見たことがない。
No.904
2019/05/14 21:38
・'19年3月期の無形資産償却費はShire絡みが903億円。3か月分でこれだ。12ヵ月換算で3,612億円となる。これ以外も含めて無形資産償却費負担は年額4,390億円(毎年の償却費負担)。
・償却費は資金の流出を伴わない費用であるのはたしかにそうだ。しかしすでに支出されていて、これから費用処理されるというものだ。償却費は、過去に資金をたしかに流出させた、株主が負担する費用以外の何ものでもない。
・それを公然と無視し続ける経営者を雇い続けて、しかも年間12億円の報酬・賞与を支払って(前期の有価証券報告書によれば)いるのが武田の株主諸氏である。ウェバー氏が声高にいうコア・アーニングスとやらでは償却費が当然のように無視されている。
・翌期は統合費用1,540億円を見込む(何に使うつもりなのかよくわからないが)。
・短信の表現で「これらの一時的な費用及び非資金的な費用による影響を除きますと」翌期は営業利益+38.7%の増益見込みだそうだ。ちなみに無形資産償却費は一時的なものではない。
・表現がいちいち小賢しい。短信の文言のそこかしこから経営陣の不誠実さがぷんぷんにおってくる。悪臭を放つ決算書というものがあるとしたらこれである。
No.900
ゴーンがかわいく見えるレベル。
2019/05/14 21:21
ゴーンがかわいく見えるレベル。
No.899
2019/05/14 21:19
・注目ののれん残高は4.1兆円。自己資本(5.1兆円)を超えてはこなかったが、その分、無形資産に振り替わった。
・無形資産残高は4.8兆円。製品開発プロジェクトコストのPurchase Price Allocation(取得原価配分)によるものだろう。
・それでものれんは自己資本の80%を占めている。無形資産は自己資本に比して94%。のれんと無形資産を合わせれば純資産をはるかに超えて、自己資本の175%相当となった。こういう会社は異常というしかないのだが、最近増えている。
・IFRSはのれんの定期償却を禁止しているが、超過収益力が見込めないとなったら減損損失処理が求められる。
・一方、無形資産は定期償却がなされる。武田の無形資産は3~20年で償却されている(前期の有価証券報告書によれば)。この償却費負担が利益の重しになる。ウェバーは償却費は無視してよいという姿勢のようだが。ご立派なものである。
・Shireの業績が当初計画を下回るというのが最悪のシナリオで(杞憂に終わればいいのだけれど)、これらのれんと無形資産の減損が求められれば武田が債務超過に陥ることも
おせっかいなんだろうけど。
一人一人持ちつ持たれつ助け助けられつつ生きれる社会が好き。
ネットで知り合った女の子がいて、小学生の頃からの引きこもり。高校もいかず、母もキャバで働いた後クビになってヤクザに金借りて取り立てられている最悪の状況だった。
ヤクザとの縁はなんとか切ってもらい(はずだけどなんかその後も一回は家にあげて飯囲んでたみたいちくしょう)、今は母の彼氏さんに養ってもらってるという状況で、でも頻繁に母は喧嘩していて母は時々自殺未遂している、家庭環境としてはかなり厳しい育ちの中の引きこもりの子だった。
娘はほぼ消極的ネグレクトといえるのか、適当にお金を与えられて飯を自分で買って食べさせる、夜中にいきなり起こして酒の卓を囲むという、まぁ学校行ける環境にはないなというところだった。
環境に流されるまま、動かないことで苦難が去るのを待つ、でも欲には流される我慢のできない臆病な子に育っていた。でも根は優しい。
福祉たるものを行政に任せっきりにするのはこういうケースを救い上げられないと思うので、知り合ったからには何かしら最低限の幸福に寄与する水準まで助けたいという思いから、この娘さんの将来を案じて、娘さんの訓練を考えた。
職業訓練とそれをしっかり受けられるように、最低限の生活環境を手に入れるための生活保護の申請を将来できるようになってほしいから、役所でのやりとりができるレベルになることを目標に、何かしらの目的に対して頑張ってもらえるような練習をしてもらおうとした。
ヤクザからの手切れのために資金的な援助をしたのをきっかけに、それをお金を貸したことにして(3万だけ)、それを返してもらおうというやりとりである。
お金を稼がなきゃいけないだとか、目的のために何ができるだろう何をしなきゃいけないだろう、相手がどんな思いをするだろうというのを考えるきっかけにしてもらいつつ、貸してる側の自分が多くのマネジメントして相手さんのプライドやら重圧やらを無くしつつ目的らしいものにしてもらおうとした。
結果としてはうまくいかなかった。
来月1万返すと言ったができなかった時、でもバイト探してみたんだと言ってたら、探そうとしてくれたのかありがとうすごい頑張ってるえらいと褒めまくって、なんとか1ステップ1ステップ計画立ててもらって実行しようとしてもらってまずできなくてなんでできないか考えてもらって計画変えてもらってというのを褒めながら付き合ってくれてることに感謝しながらなんとか進めてたんだけど。
ヤクザに追われなくなったら安心して別の男追いかけたりし始めたし、そんな中で自分のこと疎ましく思ったからかお金踏み倒そうとしたりなんだか人間のすごい醜いところを露出させてしまい、それに自分が耐えきれなかったのが1番だめだった。2年半かけながら相手の心の余裕や環境に注意しながら、適切なタイミングを探りながら進めていこうとしたけど、相手も自分も負担になりすぎて途中反故してお金返さなくて良いよという後味悪い終わりになった。
心を鬼にして、という言葉、相手に負担をかけるばかりは良くなくて、自分に負担をかけまくって相手が負担にならないように、でも成長したり良き方向に進展するように下支えするのが鬼で、鬼になりきれなかった。お金は将来絶対に返すよと返事してもらったまま縁が切れた。
親への介入は余計なお世話の一言で難しい面があったけど、娘さんの幸せのためとしての行動である程度説得力をもって言及できたが、まぁむずかった。
あの子の周りにはあの子を甘やかすだけ甘やかして自分の欲を満たすばかりの人がうようよしているように思えて、でもそれが現代社会の一般的な人付き合いなんだろうなぁと思いながら、彼女が将来悲しい目に合う時、合う段階ででしか手は差し伸べられないのかなぁ、後の祭りかなぁとか、でも今何しても余計なんだろうなと、今までの努力も全ては我が目的には達せず相手には負担や迷惑をかけただけに終わってしまいほんと申し訳なく、すごい悲しい感情と縁が切れても良い影響与えられなかった罪悪感ばかり覚えながら、苦しみながら生きている。
金の貸し借りのようなわかりやすく言い訳のしにくい強烈な手段は、貸し手の強い精神力とマネジメント能力が必要だった。嫌われたら最後、お互いの精神に苦しいものが残る。好かれてるうちはなんとか前向きに物事進められてた気はする。
貸し借りのようなものがなければ、口で提案する程度しかできず、おせっかいと呼ばれる程度の介入しかできないと思ったが、なんかやりようはあったようにも思う。やはり本人の意思努力を促せられるような環境構築が一番だ。相手を楽しませて、楽にさせて、やる気力を沸かせられるような方向で、環境構築を手伝ってあげられたらよかった。
見返りやら報われに対する期待は抱いてはいけないとはわかっていても、誰からも肯定されない中奉仕しているのはかなりの胆力を要求されるし、目的に対する道を間違えてないか絶えず確認しなきゃいけないし、まぁ、進むも地獄戻るも地獄ね。
友人をほっとけない性格に生まれて、そういう人に出会ってしまったからには、覚悟しなきゃだなぁ。
上の失敗例はあるけど、他に2人は支えられて転職支援できたから(今は2人とも疎遠になってるけど)、それは誇らしく生きててよかったと思えるので、助けたいと思う精神自体は否定せずに…。ブコメにあるように、背負う覚悟、背負う体力頑張ってつけていかなきゃね。
1文にまとめると勉強を頑張る為に同人活動を休止してツイッターを消すことにしました。
というだけの話です。
ただ自分にとっては同人活動もツイッターも、生半可な気持ちで断てるようなものではなかったのでここから語る事の経緯は自分の感情を整理するための自己満足です。
えらく長い上読んでもこれっぽっちも楽しいものではありませんが、それでもお付き合い頂ける方は読んでみてください。
勉強を今一度頑張ってみたいと思いました。
思ってみたもの、今まで散々頑張ってこなかったことなので正直既に全然自信がないんですけど。
本当に自信がないです。散々頑張らなかった人生なので。
ただ、自信無いなりに、まず頑張る為に今まで頑張れなかった原因たる要素を外的要因から潰していこうと思ったのです。
その1つが自分で学費を持った上で、勉強をする為に学校に入ることでした。
ざっくり勉強と申し上げましたが4月から資格を取得するために専門学校に通うことにしたのです。
同資格を取得するにあたって大学に行っていたのですが、親の金で通っていた当時は正直な話どこか甘えていた部分があったと思います。
実家から独立して社会に出て数年、時間もお金も有限なんだと本当に今更痛感しました。
勉強する為にお金を出して与えてもらった時間を使って勉強をろくにしてこなかった今まで、本当に勿体ないことをしてきたなと思いました。
大学当時、資格取得の試験に落ち、翌年仕事をしながら自主学習しても身が入らず結局試験は以来受けていませんでした。
フルタイム勤務に月20~40の残業が発生した状態で実際時間もなかったのですが、結局仕事をしているから、と勉強から逃げていたと思います。
今一度、腰を据えて勉強する為に学校へ行きたいのだと親に伝えたときも父親からは甘えていると言われました。
本当に、その通りだと思いました。
私が社会に出て数年働いても全く届かない数百万というお金を出してもらい4年間大学へ通い、試験には落ち、卒業しても得られたものは何もない状態で社会に出てのんべんだらりと数年を過ごした私には2、3年だとしても学校へ通う為の資金などはなく。
またどこか親に頼ろうという気概が自分の中にはあったように思うので。
実際、学費と学校へ通う間に生計を立てていく問題を本気で考えたのはその後でした。
まず、今年から資格取得の為に受けられる給付金制度が拡充したことを知りました。
次に、検討していくうち決めた4月から行くことになった専門というのが本来2年制の学部でしたが、大学で同資格取得の為の科目を専攻していた関係で前例もある特例として1年制として受け入れて頂けるということでした。
資金的にも現実的な額面になってきたこと(それでも情けない話ではありますが結局親に前借りする形になりましたし、口座の残高はパート勤務でもしないと工面できない程度にしか残せていませんが)、
特例の1年制というのは学費的にも大きかったですし何より親の金で無闇に過ごした時間が多かった大学での4年間が少しでも無意味にならないように思えたこと、
新年に引いたおみくじが末吉にしてかつて類を見ないレベルの手厳しさであった上で「学問:自己の甘えを捨て全力を尽くせ」と言われていたこと、
年齢も正直先日27になりまして、あと数年で三十路というところまで差し掛かっている身としてはあまりにも将来性のない日々を送っていたこともありました。
ともかくその他いろいろ踏まえても今踏み切らないともうどうにもならない気がしました。
フルタイム勤務はもう無理なので今の仕事は今月いっぱいで辞めます。
前述の通り隙間時間で入れるバイトを探して当面はやっていきます。
学費を振り込んだ今残った口座の残高数十万円は試験半年から数ヶ月前にはバイトも辞めて勉強だけ集中するためのお金なので来年の今頃には本当にほとんど一文無しの予定です。
口座に余裕がなくて本当に良かったです。
長い目で見ればリターンがあるからとか言って本でも作れば向こう数ヶ月はご飯が食べられなくなる寸法です。
資格が取れなければ本当に何も残らない状況で、これで頑張れなければ本当にただの屑だと思います。
要は、自主的に意欲を持って頑張れない自分が頑張る為にまずあらゆる退路を断つ必要があったのです。
もう後が無い環境を意図的にでも作って追い込まないと自分は間違いなく何かに甘えてしまう人間だったので。
そんな感じで経済的・将来的な逃げ道を絶つ環境を整えることを決めたからにはしておかなければいけないと思ったもう1つ。
この文面を此処まで読まれる方でしたら私が見事なまでの限界同人オタクなことはご存知のことと思います。
高1頃から同人活動を少しずつ始め、彼此10年以上同人誌を作ってきましたが、作成ペースは年々悪化の一途を辿り、前年では15冊発行してましたし、もうここ何年も年間10冊超ペースで発行している有様でした。
正直、学生時代勉強に身を入れきれなかった大元の原因が同人活動にあったと思います。
原稿をしている間は人間的な生活が送れない、みたいな限界同人オタクあるあるも私からしてみれば「人間的な生活を送らない理由にするため原稿をしている」ような節がありました。
自己解釈をアウトプットすることが人生で何よりの生き甲斐なのは間違いないのですが、それが同時に生活を怠る免罪符にもなっていました。
イベントに参加して自身の本を取ってもらう、気の合うオタクと喋る、時として感想を貰う。
同人イベントにサークル参加されたことのある方であれば分かる方もいると思うんですけどこの一連の流れって本当に癖になってしまうんですよね。
ただでさえ自己解釈のアウトプットが生き甲斐だった私に関してはもはや本を作ってイベントに出る行為は依存症みたいなものだったと思います。
原稿にかける時間が人生で何よりの優先事項で、次点が最低限の生活を成り立たせるための労働、あとは気が向いたときに行う基本やれなくても仕方のないこと。
自分の中では完全にそういう考え方ができていました。
自己の思考をアウトプットすることそのものが生き甲斐な自分にとってツイッターでのツイート行為もまたある種の依存行為だったと思います。
自分の交友関係は社会に出ている間に学生時代の関係がほぼ残らず、今やツイッターで形成されているものでほぼ占められていたのでツイッターを完全に消してしまうことは自分の人間関係の大半を喪失させてしまうことのように思っていて、それが余計に自分の中でこのツールを離しがたいものにしていたようにも思います。
というか消すまでしなくても程々に運用したらいいのではって話なんですが。
物事を切り替えていくのが本当にへたくそで、特に一つの思考に耽るのが楽しい性分だったことも助長してツイッターでひとたび1つの話題を見つけると数時間でも半日でも延々とそのことについて考えてはツイートをして時間を浪費する日々でした。
共通の話題で盛り上がる人が居ると余計に、自分以外の誰もその話題をしていなくても一人でもいつまでも。
やらなければいけないものできればやりたくないことが後に控えている程にその傾向が強かったように思います。
その手軽さが現実逃避すらも容易にさせてしまっていたと思います。
自身の思考に共感を得てくれる存在が数値として見えるこのツールでは欲している感情が簡単に満たされてしまって、少しでも苦しさを感じる現状に対する手軽な逃げ場になっていたと思います。
息抜きと現実逃避というのはニュアンスとして紙一重だと思うんですが私は息抜きのつもりで一度楽しいことを始めるとそのまま本来の楽しくない作業には戻れなず逃避になっているタイプでした。
人生において欲している感情を与えてくれる要素は現実から逃げる為の要素でもあると思います。
自身にとってツイッターと同人活動は人生において欲している感情を与えてくれる要素のほぼ全てでした。
だから、本当に本当にすべきことを前にツイッターを、同人活動を並行するという可能性を少しでも残せないと思ったのです。
今生の別れでも何でもない、本当に一時的な措置であって数年後の私が目標を達しているいないに関係なくきっと私はツイッターも同人活動も再開すると思うのです。
人生の中でみれば些細な制限に対してここまで長文の記事を作るなんて自分でも正直馬鹿げているなとも思うのです。
これは少しでも隙があればきっとまた今までのように現実にある目前のすべきことから逃げだしてしまう自分に対して仕方ない、仕方ないと言い聞かせる為の文章です。
ここまでしないと、ここまでしても尚駄目かもしれないどうしようもない自分をせめて戒める為にこの文章を作っています。
いくら生き甲斐だったとしても生き甲斐を続けるだけの人生に将来性なんて何もありません。
自分の生き甲斐はあくまで趣味であって、万に一つでも趣味を続けた先にそれが将来性のある何かに繋がるとは微塵にも思っていません。
自分の中で此処まで分かってるなら私は学生時代からもっと勉強をする習慣に慣れておくべきだったと今更のように思います。
結局、その場で満たされる感情やもしかするとなんて夢を見ることでこのままでは良くないと分かっていた現状から逃げ続けていただけだったんだと思います。
手遅れだと諦めるには何もしてこなかったですし半端な気持ちで居続けて「もう手遅れだろう」とか「どうにかすべきだった」なんて言う前に、私はまだどうにかなるものならどうにかしたいと思っています。
逃げ道をいくら塞いだところで1日寝て過ごせば日々は過ぎてしまうわけですから自分が本当に頑張らない限り、どうにかしたいと気持ちだけ口にしたところで結果には何も繋がりません。
ここまで包み隠さず全部言って、それで1年後試験に落ちたら何かもういよいよどのツラ下げてという感じなので正直、どう転ぶにしても後々くまなく喋りすぎたことを後悔すると思ってるんですけど、こうして状況を明記すること事体が退路を断つ一環でもあるので致し方なかったのでした。
最後に「頑張ろうと思います」なんて口だけ言っても仕方ないので自分では言わないでおきます。
(今見直したら冒頭1行で言ってましたけど)
なので此処まで読んでくださった方におかれましては「頑張ってください、応援してます」なんて軽はずみにでも本気でもどんな心づもりでも言えるその言葉を自分に向けては出来れば言わないで頂けたら助かります。
それでも結果を残して戻ってこれたときには軽はずみでも良いので「おめでとう、お疲れ様、おかえりなさい」などのお声を頂けたらとても嬉しいです。
最後の最後に、これからの1年、このブログやフォロー数0のアカウント、もしくは本垢そのものが浮上しても息抜きレベルだと思えるものでしたらどうか見逃してください。
最後まで現金な感情にお付き合い頂いてしまってすいません、ありがとうございました。
それでは。
美術手帖で連載中の「シリーズ:これからの美術館を考える」の第6回、横山由季子(金沢21世紀美術館学芸員)による「シリーズ:これからの美術館を考える(6) ブロックバスター展は善か、悪か|MAGAZINE | 美術手帖」。一読して何が言いたいのか理解し難かったが、それもそのはず、書いている本人が考えがまとまらないと言っているのだった。
まとまらない考え、逡巡をそのまま書いてしまいましたが、現状を共有することで、今後の共催展、ブロックバスター展について考えるきっかけになれば幸いです。
「考えまとめてから話せ、バカ」で済む話ではあるけど、一部好意的に受け止められている様子もあり、少しこだわってみたい。
まず、かなり気に食わないことの一つに、ブロックバスター展について「善か、悪か」と問うている点がある。「善悪」というのは倫理道徳的な価値判断であり、展覧会の評価をするにあたってはなじまない言葉である。「是非」でよかったはずだ。にもかかわらず、横山は敢えて「善悪」という強い言葉を用いた。その理由は推測することも可能だが、不要だから止めておく。ただ、私自身は「善か、悪か」という問いに答える気にはならないし、また応じて「ブロックバスター展は悪だ」と言っている人がいたら異様だと思う。些末な問題ではある。しかし、筆者の立ち位置や考え方が無意識に出ているように見受けられる所、注意を要する点である。
次。筆者はタイトルで「ブロックバスター展は」と議論の対象を提示する。そして文中で「ブロックバスター展」の定義を明確に行う。ここまではまったく素晴らしい。だが、なぜか横山は文中でブロックバスター展以外についても語り出してしまう。こんなわずか短い文章にもかかわらず、その対象を固定することすらできない。大丈夫なのか、この人?
実際に対象になっているのはブロックバスター展と共催展である。前者も後者の一部だが、このうち60~70万人ほどを動員したものを指すと定義している。もちろんそれ以上動員した場合も含まれるのだろう。また、共催展以外でこの規模の動員は不可能と考えられる。すなわち、60万人以上の動員を記録した展覧会はブロックバスター展だと言っていい。明確だ。
共催展のなかでも、とりわけ規模が大きく大量動員が見込まれるものは「ブロックバスター展」と呼ばれる。ブロックバスター展の基準について100万人以上の動員としている記述もあるが、近年ではさすがにそこまでの来場者を集めた例はないので、ここでは60〜70万人規模の展覧会ととらえることにしたい。広報会議でメディアの担当者と話していても、60万人あたりがひとつの分水嶺になっているような感覚がある。
共催展一般が共通するものであるならば、わざわざ分ける必要はない。だが、60万を越える規模になると、単に量の違いではなく、質の差が出るようだ。「60万人あたりがひとつの分水嶺になっているような感覚」というのはそういうことだろう。ならば、「ブロックバスター展」と呼び分けることに意味が出るわけだ。
しかし、結局筆者が俎上に乗せるのは共催展一般であって、ブロックバスター展特有の問題についての指摘はわずかしかない。筆者は読者にブロックバスター展のみに絞って考えて欲しいのか、それを含めた共催展一般について考えて欲しいのか不明である。というよりも、筆者自身の中で、その程度のことすら整理できていないのではないかと思われる。
そんな筆者横山が共催展やブロックバスター展の「現状」についてどのように認識しているか、批判的に捉えているか、文章を引用しつつ細かく見ていこう。
ブロックバスター展はその華やかな話題性によって、普段は美術館に足を運ばないような人が展覧会を訪れるきっかけをつくり、美術の裾野を広げているという側面もある。そのいっぽうで、やはり集客のために打ち出される広報の数々は「イベント」としての側面を強調するものであり、一過性の消費で終わってしまうのではないかという危惧がつきまとう。
一過性の消費の何が悪いのかさっぱり分からん。人生は短い割に、世界はあまりにも豊かだ。誰しもが、美術とがっぷり四つに組んでいる暇があるわけではない。すべてのことに入れ込むことはできないわけだ。学芸員と成るほど美術に真剣に取り組んでる横山も、例えば音楽とか、芝居とか、映画とか、ほかのジャンルに関しては一過性の消費で済ませていたりするわけでしょ? 美術に対してそういう態度をとる人たちを批判する権利なんかないわな。
ブロックバスター展やそれに準ずる共催展に足を運ぶ人の多くは、作品を見に来ているのね。有名作に心踊り、傑作に胸を打たれに来てる。学術性とか、正直無くても構わないとすら思っている。
最近ではメディア側も展覧会事業にこれまでになく採算性を求める傾向にあり、10万人を動員する小規模の企画を年に何本も実施するよりも、大量動員が見込めるブロックバスター展を1本開いたほうが、労力的にも資金的にも報われるという事情もあるだろう。
共催展の数を減らして、ブロックバスター展に集約していると読めるけど、事実なのか?
当たり前なのでは。
ここで、そこまでの費用をかけてまで、海外の作品を借りてくる必要があるのかという問いが生じるだろう。国内の美術館にも豊かなコレクションがあり、それだけでも十分に展覧会は成り立つ。実際に、近年では国内の所蔵品を中心に見ごたえのある展覧会が多く企画されている。
ブロックバスター展や美術館展など、学術性の低い展覧会を批判する人って、だいたい欧米によく行っていて、そこで十分に作品を見ている人なんだよね。だから、そういった展覧会が名作や有名作を持ってきているということ自体に意味を見いだせないわけだ。でも例えば、今後10年間、海外所蔵の作品を見ることを一切禁じるって言われたら、我慢できるの? できないでしょ。できないなら「国内の美術館にも豊かなコレクションがあり」とか言って欲しくないよね。子供や仕事で忙しい人、貧乏人、障害者、老人。誰しもが気軽に海外に行けるわけではない。そういうところにブロックバスター展の意味の一つがあると思うんだよな。弱者に優しいという点を鑑みれば、筆者の問いかけに「ブロックバスター展は善である」と答えることも可能かもしれない。
共催展の広報において差し迫った課題は、いかにして若者に展覧会に足を運んでもらうかということである。とりわけブロックバスター展を支えているのは、バブル期以降の大型展に足を運んできた50代以上の世代であり、メディア側も確実な集客を見込んで、この年齢層に的を絞った広報戦略を立てることが多い。しかしながら、このような目先の集客ばかりを求める広報が続くようであれば、美術館や展覧会の未来はそう長くはないであろう。
若者じゃないから分からないけど、どっちかというとやはりブロックバスター展の方が若者にリーチしていて、それより規模の小さい共催展に問題がある気がするけどなあ。今なら例えばフェルメール展とルーベンス展。
近代美術の延長線上に現代美術を位置づけ、両者を結びつける作業は、やはり美術館が担うべきものである。そして、村上隆や草間彌生などの知名度と人気を誇るごく一部の作家を除いて、メディアが現代美術展に出資することは考えにくい。美術館が主導して近代美術と現代美術をつなぐ展覧会を企画したり、現代美術を一般へと浸透させる持続的なプログラムを行うための体制づくりや予算が求められる。
これはブロックバスター展や共催展の問題じゃないよね。美術館や学芸員が怠けていたからこういう状況になったんじゃないの? 「国内の美術館にも豊かなコレクションがあり、それだけでも十分に展覧会は成り立つ」んでしょ。美術館主催で粛々とやってればいいのでは。
数十万人の来場者を想定したブロックバスター展の場合、あまり大胆な切り口を提示することは難しく、個展であれば年代や主題ごとに画業をたどるようなオーソドックスな構成となりがちだ。先行研究や調査をふまえた新たな視点を、カタログの論文や作品解説のなかで示すことはできても、展覧会の構成全体に反映するにはいくつものハードルがある。とりわけオルセー美術館やルーヴル美術館からまとめて作品を借りる場合は、これらの美術館の学芸員が監修を務めることが多く、そのことによって企画の自由度が低くなるという側面もあるだろう。
そういう学術性は不要なんだって。単にいい作品を持ってくればいいの。学術性を発揮したいのであれば美術館主催の展示でやればいい。それでは自分の能力が十分に生かされないと感じるなら本場の美術館に就職してください。あと、日本の学芸員よりオルセーやルーヴルの学芸員の方が信用できるから、その場合は口出さなくていいよ。
オルセー美術館には各所蔵作家の膨大な資料が集められており(ルノワールだけでざっと50箱以上はあり、フランス語だけでなく、英語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語、そして日本語や中国語、韓国語の資料も網羅されている)、それを日々リアルタイムで更新していくドキュメンタリストたちがいる。学芸員は彼らの協力を得て調査研究に勤しみ、その成果が展覧会に反映される。この蓄積こそが、オルセー美術館の、さらには今日における世界的なフランス近代美術の人気の礎なのである。これは一朝一夕に実現されるものではなく、長期的な視点に基づいた、たゆまぬ歴史化の作業の賜物といえよう。
日本がフランス絵画についてオルセーと張り合う必要なんかないよ。自国の美術の研究環境が貧弱なこと(いろいろ話を聞くに相応の事実だろう)については悲しむべきことだけど、西洋美術は基本的に横のものを縦にしてればいい。もちろん立派な研究をなしとげれば敬意を表するが、俺達のブロックバスター展を研究発表の場として利用してくれるな。
私はブロックバスター展やそれに準ずる規模の共催展を楽しんでいるのだ。それを学芸員風情の浅薄な考えや安っぽい使命感によってぶち壊さないで欲しい。日本に居ながらにして傑作や有名作を鑑賞することができる。これだけでブロックバスター展は素晴らしいものなんだ。ということを学芸員や玄人気取りに理解してもらいたいのだが、なかなか難しいのかもしれない。
日露戦争も日本海海戦で勝利はしたが、日本側も資金的に満身創痍。
で、安田善次郎が「これ以上資金調達はできません」と突っぱねて井上馨に「この非国民!」とののしられ、「安田の一語、日露戦争を止ましむ」とボロカスにいわれ、
賠償金は取れず、挙句の果てに日比谷暴動まで起きたが、日本は勝利という形で日露戦争を終えた。
日中戦争だって、蒋介石がトラウトマン和平交渉を受け取ったので、日本側が条件引き上げをしなかったらそのまま日中戦争は終わってて、アメリカ、イギリスの介入もなく、第二次世界大戦は欧州の局地戦争だった。
日本って、空気がイケイケだったらどんな悪事でもするってのはあるわ。
とにかく、キリがいいところでけりをつけるというのができない。
今のコミケをオリンピックに例えれば「すべての競技をメインスタジアムでやってる」状態だよね。
昔ならそれでも何とかなったのかもしれないけど、もう今となっては無理だと思う。
だから、オリンピックが競技ごとに会場を押さえるように、ジャンル毎なり開催日毎なり、細切れにして分散開催するべきだと思う。
切り分け方は上記のようには行かないかもしれないし、準備に必要な人的、物的、資金的なコストは会場の数に比例して増えるだろう。
けど、これからもコミケというイベントが成長を続けるとしたら、どうやったって一つの会場には収まりきらなくなる訳だし、むしろ今現在でもイベント規模の肥大化による弊害がいろいろあるわけだから、できる限り早く細切れに分割するべき。
お祭り感が感じづらくなることや、携帯電話のキャリアがテスターへの支払いゼロで負荷テスト出来る環境が失われることなど、反対意見も多数出るとは思うが、決断する時期に来ていると思う。
賃貸アパートから新築マンションに越した時、こんな未来になるとは思っていなかった。
最初からなぜか不満が募った。妊娠後、拍車がかかった。暇そうにしている夫が許せなかった。
西向きリビングの日差しと富士山が恨めしかった。空に流れる雲はすべて“地震雲”に思えた。
会社の仕事をさばくため、家で本格的に仕事をやりだしたところ、
引っ越せば嫌なことがすべてなくなると思い、
いろいろと調べた。毎回、夫が反論し、何度も方針転換し、あちこちに問い合わせた。
今の家が賃貸で借り手がつけば住み替えられる。過去の取引実績から
難しいことはないと考える。夫はそれが皮算用という。
賃貸で3か月募集し、借り手がつかなければ売却すれば済む話だ。
たぶん、付き合ったはじめの数か月だけだった。
それ以降は、単なる共働きで収入が増える、貴重なATMでしかなかった。
死にます。サマージャンボ宝くじの結果が出たら。
お金さえあれば、まだやり直せるという夢に賭ける。
どうせこんな妄言でしかない日記が注目される事もまずないだろう。
リーチサイト規制や情報の受け手側が犯罪になってしまうDL規制に静止画も含め更に拡大する等についても危惧する点は非常に多くあるが、
これ等を取り上げると範囲が更に広がってしまうためここでは取り上げないこととする。
また私個人の考えとしてブロッキングについては今回一番悪いのはまともな法的処理すら通さず、議事録すら非公開にした政府であると言う考えである事も理解して頂ければありがたい。
恐らくこれに関しては反対している人なども共通した考えであろう。
そしてブロッキングの何が問題なのかもここでは詳しくは取り上げない。
この手の問題点はもう多くのニュースサイトや私よりも詳しい人が多く取り上げており、それらのサイトを見て貰った方が早いからだ。
ようはブロッキングと言うもの自体、簡単に言えば中国の金盾の親戚みたいなものだと言う認識で良い。
付け加えるとすれば、今回児童ポルノから著作権まで範囲が広げられてしまうと政府や業界に都合の悪い情報は全て遮断してしまって良いと言う前例が出来てしまい、
今後拡大解釈され続ける危険性が非常に高くなってしまう点、更に今回法律を通さず、あくまで政府がISPにお願いするだけと言う形をとるため、
何か問題が起こった時には政府は一切問題を取らず、責任は全てISP側に来るなどの問題点も今回の事例には新たに追加されてしまっている。
ブロッキングの問題点については以上の記述位としておく事にする。
それと敢えてここで一部の創作物コンテンツに関連している方々を指す単語として意図してオタクと言う言葉を使わない様に意識する事にする。
オタクと言う単語自体そのものが余りにも広域な範囲の対象を指す言葉であり、ここで使うのは余りにも不適切な単語であるからだ。
(※オタクと言うのはあくまでそう言う趣味嗜好を持つ人々を指すだけの言葉であり、オタクと一言で言っても色々なジャンルはあるし、
そう呼ばれる人達も創作物コンテンツに関連しない仕事の人々や例えばそれこそ医師や弁護士や公務員等の様々な方々もいる。
そういう意味においても今回はオタクと言う単語自体使用する事は今事象においては余りにも的外れであると考えたからだ。)
また何よりもオタクと言う言葉自体非難や罵倒としての逃げの口実、或いは免罪符として機能しているからだ。
実際、自身の責任から逃れたい一心で責任転嫁するためだけにオタクと言う言葉を使っている例も多く見受けられる。
それに今回感情的に反対している人たちを罵倒等をしているのはツイッター等を見る限り、その人間の本質がオタクと言う広域の言葉で指す人々よりも
もっと狭い範囲である、同人、プロ問わず、その関連、または業界の無理解な一部の創作物コンテンツに関連した方々が多い様に見受けられたからだ。
だからこそあえて一部の創作物コンテンツに関連している方々と言う言葉を使わせて頂くのだ。
(※あくまでも一部の創作物コンテンツに関連している方々である。
何度でも言うが一部の創作物コンテンツに関連している方々である。
この言葉には何もここで指すのはアニメ、漫画や出版業界だけではない、別の何かも含まれると言う意味合いもある。
別の何かについてはブロッキングの件を少し調べたら判ると思うので、色々察してほしい。
それに元々作家さんでも表現の自由や言論の自由に詳しく、危惧して動いていた方も少なからずおられる。
なので、同人、プロ問わず、表現の自由の観点から懸念を持つ作家さんや関係者の方々が、決して少なくない数がいる事も付け加えておく。
例えば今回もちばてつやさん等はブロッキングに対して懸念した発言をされておられ、元々個人的にも尊敬している点も多かったりする。)
そしてこれから書く事はあくまで愚痴や恨み節の類であり、俗に言う俺は詳しいんだ、知っているんだ的なノリの頭の悪い稚拙な文章でしかないので、
運悪くこんな記事を見てしまった人は軽く聞き流して頂いて構わない。
私がこれから書くこの様な内容の文章も過去多数出ており、実際私自身も何度か見かけているが、それでも敢えて匿名の卑怯者としてこのような文章を書かせて頂く事を許して欲しい。
この様な文章は書く事はないと思っていたがどうやら私の番が回ってきてしまったようだ(苦笑)
ついでに私自体、もはや規制に対し、反対する気力もなく、その反対する人々を罵倒する一部の創作物コンテンツに関連した方々に対し、
何の期待もしておらず、説得する気も皆無である点も読む際に考慮して頂けると助かる。
まず件の著作権のブロッキング拡大報道について、一部の創作物コンテンツに関連している方々が今回の報道でブロッキングに対し危惧し、
その問題点を指摘している一般人には勿論の事、実際弁護士や法学者、また長年創作物関係での規制に危惧し動いている
本来一部の創作物コンテンツに関連している方々にとっても味方であるであろう青少年健全育成条例や児童ポルノ禁止法で反対していた方々や
反対活動で精力的に動いていた団体にすら石を投げているのを見かけ、ああこいつら進歩ないな、この先創作物コンテンツが、
滅亡してもこいつらは懲りないし、学習もしないだろうなと言う感想を抱いた。
何故このような感想を抱いたかと言うと過去青少年育成健全条例や児童ポルノ禁止法等でも同じような構図を見かけたからである。
今回に関しては個人的にはもはや怒りではなく、彼ら一部の創作物コンテンツに関連している方々に対して、失望や絶望と言う様な感情しか湧いてこない。
君等一部の創作物コンテンツに関連している人間が安易に感情論から匿名掲示板のノリで揚げ足取りや罵倒するのは構わない。
どうせ実際この記事をもし君等一部の創作物コンテンツに関連している人間が見つけた場合には必死に罵倒や揚げ足取りを行う事もあるのだろう。
君等一部の創作物コンテンツに関連している人間の行動は容易に予測できる。
きっとブーメランとかも言い出す事だろう。
だが、その都度味方は減り、敵は増え続けるのだ。
その一部の創作物コンテンツに関連している人間は創作分野以外の事柄には興味がなく視野が狭い癖に妙にプライドだけは高く、
人の話を全く聞かないくせに自身に対する非難をスルーする事が出来ない人間も非常に多いのだ。
更に図星をつかれると非常に怒り出す。
だからこそこの手の一部の創作物コンテンツに関連している方々は、ブロッキングの件に関連して指摘された件でまだ反論が容易であろう、
ブロッキングに懐疑的な他者から出版はブロッキングでなく、まず検索サイトに対しての行動や法務の方を動かせよとか
出版業界のそのもの不備の指摘や逆に何故今まで逆に現在違法サイトが行っているようなサービスを公式でしなかったのか?
そもそも著作権の規制を進めた所で過去の事例から見て売り上げが回復していないだろうとか
出版は新古書店や図書館の件も反論されて言い返せなかった件についてはどうなの?
と等言うような指摘に対しても何故か真向な論理でなく、何故か作家が食えなくなってもいいの?等と言う感情論で怒り狂い出していたのだ。
なので、ブロッキングに対してもまともな返答等出来るわけがない。
反対や慎重的意見としてブロッキングは効果や薄い事や通信の秘密だけでなく、表現の自由や言論の自由でひいては自身の首を絞める事にもなりかねないと
私が見た限り、ブロッキングに懐疑的で反対意思を持つ方々は見た限り、非常に論理的に指摘されているにもかかわらず、
それに対し、一部の創作物コンテンツに関連している方々はブロッキングは必要悪だとか論理のすり替え等的外れな発言ばかり行っていたのを見かけた。
これだけならまだ良い。
やはり挙句の果てにその反対している人間に対して人格的な罵倒等の俗に言われる叩き等の行為を行っていたのだ。
これを未だ一般人に対してだけならまだしも学者等のお偉いさんや実際表現規制に反対され動いている人に対しても行っていたのだから唯々呆れる他なかった。
だが、ただまず一部の創作物関係に関連する人間はこれだけは判っておいた方が良い。
青少年健全育成条例や青少年健全育成基本法案の時でも児童ポルノ禁止法の時でもTPPの時でもそうだが、
別段漫画やアニメ、音楽や映画等の創作物に対する表現の自由や言論の自由が損なわれるから反対している人たちばかりではないと言う事だ。
規制関係では創作物方面ではなく、通信、インターネットの情報関連の視点から強く問題視して反対している方や
その改正によって逆に児童の権利が奪われる点を強く問題視している方や他の法律の兼ね合い等から問題視されている方や
改正により一般人が逆に不当に逮捕される等の不具合が生れるから反対している方等本当に様々な視点から反対している人々がいる事を実際にみてきた。
それに著作権ブロッキングの話題に関しては何も今始まった話ではなく、過去音楽業界や映画業界等が様々な圧力をかけて行おうとしてきた。
また私自身今回に関してもあくまで矢面に立っているのが出版と言うだけで、この件でも音楽業界や映画業界もかなり圧力をかけていたのではないのか?と言う懸念を持っている。
それに対して一般人だけではなく、通信方面や法学者等から懸念する声も当時から多く、反対され続けてきた事実も認識すべきだ。
実際児童ポルノ関連でのブロッキングに対しても様々な懸念する声があがっていたほどだ。
だからこそ漫画アニメの利益が損なわれたから、過去反対してきた人達が今回はブロッキングに賛成に回ると言うバカな話はあり得ない事位は理解すべきだ。
ブロッキングの何が悪いのか判ってないのに君ら一部の創作物コンテンツに関連している人間は短絡的に感情論でそれら反対している方々に対し、
こんな事だから当時匿名掲示板等で肉屋を支持する豚だとか罵倒されたのだ。
しかし一部の創作物コンテンツに関連している方々の行動をみていると何故オタク(と世間では一括りにされてみられてしまう)が嫌われるのか良く判る。
なお、それでも思い込みや感情論からその方々に対して嫌味を言い罵倒するのならばそれも結構だ。
だが、そう言う行動を行う度に他分野の側面から反対していた方々は一部創作物コンテンツに関連している人間に対して、
そんな連中しかいないと思われその人達は呆れ、そしてこの先何か問題があった場合でもあいつらだから別に良いかと扱いが軽んじられる可能性があるのも十分に考慮すべきだ。
またこの手の規制に対し危惧し反対する活動は実入りは全くなく、寧ろマイナスであり、時間的にも資金的にも負担が大きい。
更に言えば初めはどう活動すれば良いかすら皆判らず、手探りで行っていた位である。
また反対している人同士でも考えの相違で、精神的肉体的にもかなり摩耗するし、それで最後には潰れてしまい活動を停止せざる得ない位、追い詰められる人も実際に見かけている。
過去に聞いた話では実生活すらまともに送れなくなってしまう人間もいる程だ。
なので、実際今でも長年活動している人々の精神的負担はかなりのものだろう。
更にここに合わさりいつも通り俗に言う味方から石を投げられる構図が加わるのだ。
正直たまったものではないし、これが実は一番心的ダメージが大きい。
(※また青健法の件で話はずれてしまうし、この記事自体事実かどうか判らないが、
少し前に
「マンガの人たち」の信用は地に堕ちている──青少年健全育成基本法案の本当の問題点
出版業界自体が一部のオタクが騒いでいるだけ、その時が過ぎればフェードアウトする等と言う
まるで過去どこかの政治家がしたと言う発言と全く同じ様な考えをもっていると言う記事をみて個人的には呆れ返った。
記者があの記者だし、誇張も非常に多いだろうが、これが事実だとしたら、余りに一般人やそれこそ少しでも活動した事があった読者に対しても喧嘩を売っているとしか思えない。
もし読者が出版社がこんな独善的な考えを持っていると知る事になれば、失望し、場合によっては以降漫画を買わなくなる様な事も十分に起こりえるだろう。
また私の記憶では当時出版はほぼ目立った活動をしておらず、実際に活動していたのはその手探りで行動を行っていたオタクやとある団体であった事を記憶している。
そしてそれで精神的肉体的に限界をきたし、潰れてしまった人も多かったのだ。
個人的には出版にそこまで嫌悪感は今まで抱いていなかったのだが、流石にこの記事と昨今のブロッキングの件で一気に出版に対する嫌悪感を持つに至った。
多分一部の創作物コンテンツに関連している方々もこう言った類の考えなのだろうと個人的には思ったくらいだ。
またこの件が事実ならばこんな事を言われては実際長年継続して今も行動をし続けているとある団体の彼らに対しても非常に失礼であると私は考える。)
君等一部の創作物コンテンツに関連している人間はせいぜい好きな様にブロッキングに反対している法学者や弁護士、
規制問題で実際に危惧、反対をし、ロビー活動をしてくれている方々に石を投げ続ければ良いだろう。
だがその度に彼らは君ら(全ての)創作物コンテンツに関係した人間に対して、法学者や弁護士等の有識者は呆れ果ててしまう事になるだろう。
またロビー活動してくれている好意的な人間の精神は摩耗し続け疲弊し、モチベーションを保てなくなり、
そして最後にはこんな奴らのためにと言う思いを抱き、挙句の果てには活動を停止せざるえない位にまで精神的肉体的に追い詰められ、
君等創作物コンテンツに関係した人間を見捨てる格好になるのだ。
その結果もし君等一部の創作物コンテンツに関連している方々が本当の意味で困った事態に陥った所で、その時は誰も救いの手を差し伸べてくれる事はなくなるだろう。
でもその時が来ても一部の創作物コンテンツに関連した君達の事だ。
今回の著作権ブロッキングでの件でもそうだったが、当時も青健法や児童ポルノ禁止法等の時にも反対し味方してくれたであろう人々に対して石を投げ続けた君達はいつもみたくこう言うのだろう?
「あの時は彼らが勝手に反対していただけ、誰もその時に助けてくれなんて言っていない。」
「オタクはその時だけしか騒がない。その時が過ぎれば何もしない薄情な連中」
と。
悩むよねぇ。でも悩んでるのもまた楽しかった。
資金的には年齢とか考えても5000までは余裕だと思う。
キャッシュフローが重要なのでとりあえずフルローンで借りるのをオススメ。
住宅ローン控除が10年使えるのでそれまでは繰り上げ返済はしないでおく。
(自分なら手元のキャッシュで堅めの投資するかな。増田も既にしてるかもしれないけど)
家に求める条件として治安とか教育環境とかは考慮したほうがいいかも。
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/jiken_jiko/hassei/map_annai.html
あとハザードマップも。
広い家でハンドメイドが好きなら上モノを壊してない土地を探して
フルリノベーションという手もある。
下手に中古住宅を探すよりずっと安くなる。
事業を畳んだことより何より、うすい関与しかしてなかった同期からの、花を添えてるように見える死体蹴りに心から疲れた。
会社の新規事業を、事業責任者として受け持った。そして一年でプロダクトとマーケットが一致しておらず、とある海外での事件の余波を受け、今後解決する見通しは資金的及び技術的にも難しいと判断したため、撤退。事業を畳んだ。
お客様、関係者にも損失を与えてしまった点、非常に申し訳なく思う。特に一番の取引先の社長からは厳しく自分の手落ちを叱責いただいた。業界について知識浅く踏み込んでしまったのだから当然である。
謝罪にまわり、取引先の社長からの叱責を受け止め、先週、ようやく、失敗経緯のレポートをまとめて社内へ公開した。幸い失敗知見については社内やグループ会社にも伝わり、役に立ったと人づてに話をきくことができた。せめて自分ができる償いのように思う。
会社は昔からある大企業だ。新規事業についても多産多死することは理解した上で投資をしてくれたのだから感謝をしている。数千万の赤字を出しても、生活はできる。
目をかけてくれた社長には足を向けて寝ることができない。
事業を畳んだことはもちろん悔しい。自分の力の無さに気付かされた。
「心配してたんだよ、増田のやり方。言っても無駄だと思って俺は言えなかったんだけどな。」
同期はこの事業に、最初自分と二人で始めた立場だ。とある分野の知見をかわれてのことだった。しかし、彼には必要な事業計画を立てる力も遂行する力もなく、私ばかりに業務が集中した。ほどなくして見るに見かねた私の先輩が助けに入ったが、その先輩に対しても「あなたはわかるんだろうけど、私はわからないんです!」と逆切れをしたり、「増田は○○事業部に長くいたから技術があるけど、俺は短いから技術はまだまだだ」と言いつつ自らは勉強もしてなかったり。挙げ句、とある取引先とも計画が纏められず一人だけ理解不足の論理を展開したため社内で問題となり「あいつに計画はまかせるな」となったため、同期がこの事業からはひいてもらう決定を自分が行った。少ない新規事業のマンパワーやメンタルを、彼への対応に使うことに疲れていた。
その俺の決定が傲慢だと言われればそれまでだ。しかし、では、少数のチームで仕事ができずに声だけは大きい人間をどうすればよかったのだろう。
「俺は計画は立てられないけど、人とのネットワークは作ることはできる。増田はそこが弱かったんじゃないかな」と言われたが、そのネットワークで君は事業の何に寄与した?確かにある筋からの助力が得られるほどの信頼関係がつくりきれなかったのは俺の落ち度だ。しかし繋がりは大事だと大事だと彼は言って事業への貢献はさしてしていない。空論にしか聞こえない。
もしかしたら、同期は心の底から心配してくれているのかもしれない。しかし、そう俺は受け止めきれなかった。疲れ切って、そういう精神状況になってしまっているのだろうか。
世界中のお師匠さんの着物をうちが一手に誂えてるわけでもなし、もちろん同業他社で生き残ってる会社は他にもあるよ。むしろ横のつながりちょう大事な業界。
真似してってことじゃなくて、舵取りの上手・下手ってことだと思う。
市場が細ってもまったくゼロになることは案外なかったりするでしょ、そういうもんだと思うんだけど、私は経営には関わってないから詳しくは知らないけど
祖父は、商売を畳もうとしてたなじみの仕立て屋さんの相談に親身に乗っていたみたいで、後継者候補の若い衆を紹介してくれて資金的援助をしてくれてと、仕立て屋さんのおじいちゃんが祖父の葬式で号泣しながら色々往時の話をしてくれたのが思い出に残ってる
そんな感じで助け合ったりするのも、舵取りのひとつなんじゃなかろうかと傍から見ると思うんだけど、真似してどうこうってことでもなかったりしないかな、こういうのは。
出版業及びその周辺業界ってそんなに大したもんじゃないぞ。正義を守る公務員じゃないし、ただの営利だし、業界全体を合わせても紅しょうが業界よりも規模小さいぞ? 日本人は出版業に対する幻想が大きすぎだよ。アホみたいに膨大な品目の書籍をアホみたいに安くそのうえ長期所有可能なほど品質良く発売日厳守で全国同時展開しなきゃゆるさんとか。「電子書籍版を読む権利」とか、正直ちょっと引くくらい要求が過大だ。
はてブのコメントつけてるのは全員モンスターユーザーなのかと思うんだが、割合日本の「読書家」とかいうのの大半がそうだったりする。
そんな要求すべてに応えられる体力は、もう、業界にはないんだよ。いま、年間に売れる書籍の数は、年間に図書館で貸し出される書籍の数よりも少ない。日本において、書籍はもはや買うものではなく借りるものになってしまった。
「俺はちゃんと買ってるよ」「出してくれれば買うのに」なんてコメントに全く意味はない。少量多品種商品の極北である書籍は、インフラ構築や維持費用を全体で分散しているから、いままで多様な商品を出せていたんだ。「俺はちゃんと買ってるよ」と呟く増田の求める本が千円であるのは、別段増田が(そして他の誰もが)千円でその本を買う権利を持っているからではなく、その本の価値が千円だからでもなく、ただ単にインフラ負担費用と生産量(=初期部数)の関係上その値段に落ち着いただけであって、そんなものは普遍を保証しない。
少量多品種生産品である書籍は生産数が増えれば増えるほど加速度的に利益率が良くなっていく商品だ。つまり出版社の利益の大部分は、ごく一部の大ベストセラーが稼ぎ出していて、その利益を利用して、少部数が予想される本や実験的な本の開発や生産をしている。そういった構造は、出版社目線で見れば利益部門の利益を用いて将来を担う開発へと投資しているわけだから、一般社会の企業運営視点でも何ら問題はない。
しかし、書籍は出版社だけで作っているわけではない。その大ベストセラー作家の視点で見れば、本来自分が得られた利益を契約によって出版社側が非常に有利に得ている構図になっている。特にすでに知名度もあって、巨大部数が想定できる作者であれば、出版社にみすみす売上の多くを渡す意味は薄くて、部数によってスライドする印税契約をするほうが経済合理性から見て当たり前だ。あるいはそれこそAmazonのような外資との間で特約を結び、出版社抜きで出版したほうがずっと儲かる。しかし知るかぎり、日本の出版業界の場合ベストセラー作家の人でさえ多くの場合そこまで自己利益を主張しない。出版業界の発展のため、今は売れていない無数の作者のために(かどうかは内心なので断言できないが)、変わらぬ印税率で執筆活動を続けている。
言葉は強いかもしれないが、日本の出版業界がいまのようにバラエティ豊かなこんなに多くの書籍を出せているのは、彼らの「形を変えた寄付」があるからだ。当然ユーザーもその恩恵に預かっている。
電子書籍も一緒だ。いま電子書籍の売上が上がっていると言っているけれど、日本の電子書籍の多くは物理書籍の電子版であって、それはつまり書籍内容の開発費用(作者からみれば執筆費用であり出版社からみれば管理費用)を物理書籍側にタダ乗りをしているから、その前提で成長しているという点は否定できない。
重ねていうけれど、いまこんなに様々な種類の本が安くて早くて良い品質で生まれているのは、そうやって寄付してくれる人やインフラ負担をしてくれる母体が有るからだ。「俺は書店で買うけどね」「おれは電子書籍派だから関係ないけど」とかいうひとであっても、安くそれに乗っかって利益を得ている側なのだ。
Amazonはたしかにすごい脅威で黒船だけれど、それだけではなく、今急速に「本を買う」っていう文化そのものが縮小しつつある。人口だって減っていく。国際言語とはとても言えない日本語話者は、日本の人口の影響をもろに被るからだ。そうなれば従来のインフラは支えきれないんだよ。
いまランチ1回分くらいの価格帯の本は、いずれ三割から二倍くらいまで値段が上がるだろう。少部数しか期待できない本は、そもそも出版されないか、受注生産じみた高額&個別配送の商品になるだろうし、安価な書籍(雑誌やコミックを含む)は実体書籍としての販売は見合わせになっていく可能性が高く、そもそも書籍として世に出るアイテム数はぐっと減ると思われる。そうなれば職業としての作家や漫画家は食えるものではなくなり、兼業がふえて、一部の産業化した制作スタジオ以外ではいずれ作品クオリティも落ちていくだろう。
でもそれは異常なことではなくて、日本語話者の数(発売ターゲットの母数集団)と世界の書籍事情をみれば、平均に近づいていくだけなんだ。世界の国々の多くは、すでにそういう状況下、もしくはもっと書籍事情的に貧困だ。
日本は幸運なことに書籍大国、読書大国だ。いまでもかろうじてそうだ。でもそれは、日本の読書家が天の神様から与えられた絶対不可侵の権利などではない。(もちろん文化振興などの努力はあったにせよ)いままではたまたま偶然そうだっただけなんだ。
Amazonの件も電子書籍絡みの件も、なんでかそういう当たり前のことを無視して、いまの恵まれた環境が未来永劫続くと思い込み、それが揺らぎそうだと業界の無能を責め立てるコメントが目について暗惨たる気分になる。
「出版社がなんの努力もしない無能だから」「取次が搾取をしてるから」そんなコメントが溢れているけれど、そんな無能と悪逆が支配する業界が、なんで世界有数(というかトップクラスの)商品バラエティーと低価格と高品質のアイテムをわんさか出せているの? その資金的労力的な原資はどこから振ってきてると思ってるの? 別に取次や出版社を弁護するつもりもないけれど、「業界を責めればいまより良くなる」なんてのは無邪気を通り越して花畑だと思うよ。
ヤマトの配送と一緒だ。コストで無理なもんは無理。いままでは恵まれてたけれど、これからは国際標準に近づいて貧相になります。以上。
国会ウォッチャーです。カテゴリ化してみました。別に一意にこの増田を同定していただこうとは思っていないので、どうぞ他の増田もこのカテゴリーを使って国会について書いてくださいね。
緒方林太郎議員質疑。緒方さんは間違いなく頭がいいし、論理で攻めてるときはいいんだけど、前半の金田大臣に、Hard cases makes bad lawsとか知ってるかとか聞いたり、テロというHard casesで法律を作るのはまずいんではないかみたいな一般論、いまさらいる?向こうはそんなんもう100も承知で、むしろそこが主目的になってんだから聞くだけ無駄でしょ。後半のとこだけでいいんだけど、もう金田さんと岸信夫外務副大臣が無能すぎて、質問するだけ無駄なかんじ。これで審議時間積んでるっていう既成事実化してるっていうのが残念。あと枝野さんが、立法ガイドについては、英語に詳しい仲間に任せますって言ってたからそれは緒方さんのことだろうと思ってたんだけど、この話が出てこなくて残念。国重さんが参考人質疑で取り上げてた、undocからの返信についての精査がすんでないのかな。対案主義っていうなら、アメリカだって、州内で完結する犯罪については、この条約の対象としない留保を置いてんだから、2003年の留保なし締結の批准の国会決議の取り直しを要請すべきだろ、常識で考えて。金田さんとか岸さんがこの条約の建てつけも法律の内容もわかってないのなんかもう周知なんだからいまさらそこ攻めてどうすんのって話でしょ。
テロ関連防止条約は、外務省が決めてる13の条約のこと。民主党は、テロ対策だというのなら、TOC条約ではなく、ほかの条約を先に締結して、世界に範を示すべきではないかといっているんですが、岸外務副大臣もTOC条約はテロ関連防止条約ではないと答弁してますね。まぁこんなのいまさら聞かなくてもいいんですけど。わざわざ、条約作成時に、この条約が対象とする組織的犯罪として、テロリズムを含めべきではないってわざわざ当時の日本政府もアメリカやカナダ、フランス、イギリスなどとともに主張して、現にTCO条約にテロリズムなんて文言は盛り込まれなかったんだから、ここは切り分けたんです。岸副大臣は「テロリズムは組織的犯罪集団の一部である」って答弁してたけどね。この話も何度もしたし、後半のとこだけでよかったんだよ。
緒方さんは、テロ関連条約を外務省時代に担当してたから、テロ関連条約で使われる単語は、intimidate(脅し)とかそういう他者の意思に影響するような言葉出てくるけど、TOC条約にはでてこない。これはテロ防止の条約じゃないからだ、と。それに対し、金田さんや岸さんは、「交渉過程でテロリズムを含むリスト化の動きもあった(日本を含む主要国の反対で否定されたことはあえて隠すスタイル)、また国連文書でも、この条約は、テロリズムの防止にも資する、としている、TOC条約はテロを含む組織的犯罪を防止することを目的としている」というのですが、緒方さんは、「それならば前文にでているはずだ」と「Links between terrorism and transnational organized crime」というように、国連文書では、テロリズムと国際的組織犯罪は別のものとして扱っているだろうと。もし岸さんがいうように、テロリズムが国際的組織犯罪に含まれるなら、リンクなんか生じないだろう、と。国際組織犯罪とテロリズムは別概念だということが示されているではないかと強く言ってましたが、これは当たり前だよね。岸さんが引いていた、国連事務総長報告でもそういってるもん(s/2015/366)。「テロ組織と国際組織犯罪集団とは関係性がある、理論上はこの二つは区別されるが、実際にはその区別は明確ではない」と都合のいいとこだけ引っ張ってきてたけどね。というかこの文書読んだけど、どこを読んでも国際組織的犯罪の取り締まりにconspiracyの取締りは要請してないでしょ。国際的組織犯罪も、テロリズム集団の取り締まりも、両方しっかりやれっていってるだけじゃんねぇ。文字制限の都合上原文は省略するけど、私の訳だから、お疑いの人は自分で原文を読んでね。
テロリストと国際組織犯罪は、「まったく別の」(distinct)事象であり、異なる働きと目的を持っている。また異なる国際法上のフレームワークによって対処されている。それらの違いにも関わらず、過去15年間の国連総会と安全保障理事会は、テロリストと国際組織犯罪グループの間の交流について憂慮してきた。なぜならば、それらの交流は国際的な平和と安全に、ますます影響を与えてきているからだ。
理論的には、テロリストと国際的組織犯罪集団は明確に異なる目的を持つ(ここ使ってんだろうけど、いみが全然ちげぇだろ)。テロリスト集団は、故意に国の当局に対して挑戦し、暴力的な手段をもって、イデオロギーを含むさまざまな理由のために、政治的な、変革を求める。性的暴力やマイノリティに対する暴力を含む、目を引くような攻撃や何かに集中した暴力は、国際的なメディアの注目を集めるために行われる(結合の基礎としての共通の目的にはなるんです?)。これらの行動を報道することは、結果的に、彼らの勧誘の一助になってしまっている。テロリストは、メディアなどによって、彼らの振る舞いが宣伝されることで、彼らの目的のために、より多くの隠れた同調者や公然とした支持者を得ることや活発な勧誘に資するようになることを望んでいる。金は彼らにとっては公権力に対抗する活動を遂行するための道具であって、ゴールではない。
国際的組織犯罪に参加するグループは、典型的には、公権力やメディアからの注目を避けるために、隠れて活動に従事する。犯罪的な組織化は、政治的な変革よりも、彼ら自身を富ませるために利用される。当局に対して彼らが行う阻害的行為は、彼らの活動にとって都合がいい条件を作り出し、拡大し、維持するために行われる。(メキシコの麻薬組織が、警察や行政を殺しまくる系のやつだろうね。これがTOC条約が取り締まろうとしてるもの)
実務的には、上で説明したような違いというのは必ずしも表面化していない。セクションBで示す例に見られるように、テロリスト集団の中には、国際的組織犯罪に関わったり、深く関与しているものもある。両方の集団(テロリスト集団と国際的組織犯罪集団)が、彼らの活動にとって望ましい状況といえる、永続的な不安定さを維持するために活動している。国際的組織犯罪集団は、資金、武器、その他のテロリストが持続するために必要な手段を提供することができる。
なんでこの文書が、TOC条約がテロリズムの防止に役立つもので、TOC条約が、テロリストの資金的活動にconspiracyが必要だって言ってる根拠になるのかわからんよ。ヤクザの親分が子分に暗に指示して、子分が鉄砲を所持した件については、親分を共謀共同正犯でしょっ引いてる判例があるんだし、ここは共謀で逮捕できるっていう例になってるでしょうよ。ほんとにクソみたいな理屈こねてきやがるな。明らかに、国連事務総長報告では、テロリズム集団と国際的組織犯罪集団を区別してます。理論的に区別できるけど、必ずしも明確ではないっていってるのはその目的。国連の見解では、テロリストと組織的犯罪集団は別。大事なことだから二回いったよ。クソ外務省。
「テロリズムの定義について、一般的な意味についてなんといっているかというと、えー”特定の主義主張に基づき、国家等にその受け入れ等を強要し、または社会に恐怖等を与える目的で行われる殺傷行為等をいうと承知している”と。これについて特定の主義主張とはなんですか、聞いたら”一般的な意味としてのテロリズムにかかる集団が行う殺傷行為等のよりどころとなる主義主張”ということです。で、”特定の主義主張”を、テロリズムの説明のところに、代入すると、テロリズムの説明のところにテロリズムという言葉出てくるんです。これ自家撞着を起こしていませんか、副大臣」
(暫くの沈黙の後、事務方から耳打ち、多分この後答弁に立つ人たちは林局長以外、自家撞着の意味を理解していないと思われる。)
岸
「今のご質問には同意できないと、同意できま、せん。同意できません」
(緒方んんんん?)
「再度お願いします」
岸
「いやわたし単に、論理学の話をしているのであって、テロリズムという言葉を説明するときに、全部いろんなものを代入していくと、その定義の中にテロリズムという言葉が入ってくるんです。これだとどんどんどんどん議論がループしていって、何がテロリズムなのかということがわからないじゃないですか。これまさに、自家撞着なんですよ。これが政府の答弁なんです。これがおかしいでしょと聞いてるんです。」
(?これ答弁しようがないんだよ。それこそ趣旨を明らかにしてからじゃないと全部を読めない状態でー)←私はアホですとの自己紹介はよしましょう。
(緒方だって配布資料に(ありますよ)配布資料見ていただければ。)
「速記をとめてください」
約一分鈴木
「岸外務副大臣」
岸
「あのぉー、テロリズム、の定義につきましては、先ほど主意書の前段にもございます。また先ほど大臣から答弁があったとおりでございます。あの質問主意書の中身の部分につきましては、通告をいただいておりませんので、この場で詳細にお答えすることは差し控えさせていただきます。」
「じゃあ今考えていただいて結構ですよ。でもこれ、政府答弁で、おそらく外務省も法務省も、これ協議にあずかって、どなたか後ろにいる方に話を聞いていただいても結構ですよ。しっかりと詰めて答弁書書いたはずですね。で、そのテロリズムの一般的な定義の中に、特定の主義主張とある。そして、その特定の主義主張を説明してくれといったらその中にテロリズムという言葉が入ってくる。これであれば、まさにこの法案のテロ等準備罪の、テロという言葉が入ってるにもかかわらず、そのテロ、の中身が自家撞着を起こしている状態であるということは、これは、国民からして、納得のいく中身になっていないでしょと聞いてるんです。それはまさに、見て思いましたよ。ほんとに変だと思いましたよ。でもこれが政府の答弁であるのならば、これ答弁の中で自家撞着をおこしていることをどう思いますか、と聞いてるんです。これ外務副大臣でも大臣でもどちらでも結構ですよ。」
岸
「ご通告をいただいていないので(略)・・・・」
「(略)自家撞着を起こしていることはお認めになるんですね」
岸
「繰り返しになりますが、ご通告をいただいておりませんので、また質問主意書、につきましては、そのー答弁のとおりであります。」
林
「あのー自家撞着という意味はわたくし、即座に理解できませんが、言われております、答弁書の中で、特定の主義主張とは一般的な意味としてのテロリズム集団が行う殺傷行為等のよりどころとなる主義主張。という部分についてお答えしているのは、これは、特定の主義主張というものが、この殺傷行為、テロリズム集団が行う殺傷行為等のよりどころとなる主義主張であるというこの関係性をご説明、あの答弁したものと私は理解しております。そういった意味において、質問に対して、また同じ言葉で答えるとか、そのあるいはお答えの中に質問の前提がすべて含まれているという意味での自家撞着そのものというような理解は私はしておりません」
「これ閣議決定した答弁書ですよ。単に私は特定の主義主張(意味的にはテロリズムとはかな)は何かというところで、次の答弁書できたものをパカっとはめたら、それは関係性を述べたものであって、それがすべてではないみたいな言い方されると閣議決定した答弁書なんか何にも信頼できないですよ。今私が言っているのは、ほんとに、単純に、テロの定義の中に特定の主義主張とあるから、それは何だと聞いたら、答弁があったから、これをそのままいれたら、議論がぐるぐる回って、成立しないでしょと。関係性とかおっしゃりましたけど、刑事局長のおっしゃること、まったく論理的じゃないですよ。もう一度答弁ください。」
林
「特定の主義主張の内容については言ってない、関係性をいっただけだから、自家撞着じゃないよ」(これは一応論理は通った。でもテロリズム集団の定義を聞いた答弁としてはだめだよ。)
このあと、定義があいまいで、わかりやすい事例とか言うなと切れる緒方議員。金田に聞いても無駄だって。
最後の緒方さんのまとめ主張は筋が通ってるしそのとおりだろうね。
その他の法律では、テロリズムを、政治的な主義主張としているが、なぜわざわざ特定のと変えているのはどうしてかという質問について
「今回の法律におけるテロリズムはあくまで例示でありまして、この法律において、テロリズムの定義を明確にする必要というのは、あーこの法律においては肝ではないと考えておりましたが、先ほど答弁したように、あくまでテロリズムというのは一般的な意味で使っているということであります。」
「すごい答弁ですよ、テロリズムという言葉を定義する、これは全然この法律において肝でもなんでもない、とすごい答弁でした。最後に一言だけ言わせていただきますが、なぜ、政治的その他の主義主張という言葉を使わないかというと、これにしてしまうと、今回の法律の中で、カバーできないものがあるんですよ。だから特定の主義主張と、範囲を広げているんですよ。でも範囲を広げた結果として、それは何ですかと聞かれてしまうと、それが自家撞着を起こすような説明にしかならないんですよ。だから問題だといってるんです。」
コンピュータの進化の速度でいえば、もう知ってるかもしれないが「ムーアの法則」というものがある。
自分はまだ20代だから話題の速さについていけるけど、進化の遅さを知ってる人にはおかしく見えるかもしれない。
それとこんな話題は初めて見たから純粋に面白いし興味を惹かれる。
で、今の人たちが未来について考えているのかというと……おそらく考えていない。
いや、考える暇がないというべきだろうか。ちなみに自分が考えている未来なんて貯蓄や仕事、それに家族の心配くらいだ。
数年で新しい商品がでるという常識があるし、昔より未来を見る暇がなくなったのかもしれない。資金的な意味でも、処理速度的な意味でも。
昔と比べて圧倒的に早く情報が入ってくるから、それに思考を回して、未来について考えてる暇がないのかもしれない。