はてなキーワード: 時間的とは
それまで当たり前と思われていなかった権利を得るためには多少強引でも具体的な手段に出て問題化する必要がある。
その結果様々な権利が勝ち取られてきたのであって、決して事なかれ主義の、多数派に阿った穏健なフリーライダーによってではない。
・・・・と言う様な事を考えると、車椅子以外でも、表現の自由関連でも同じ事が言えるのでは?と思えてきた。
車椅子やその他差別関連の話題では過激な行動や時に誰かに迷惑や負担をかける行動、チキンレースともとれる「現在の限界にチャレンジし、限界を拡張しようとする」ような行動が称揚される一方、
何故かオタク関連、表現の自由関連(だけ?)ではその真逆、「チキンレースするな」「なるべく目立たないようにしろ」と言ったことが叫ばれる。
よくよく考えてみると不思議な事では?
いや、不思議ではないのかもしれない。
車椅子の件でも「チキンレースするな」「なるべく目立たないようにしろ」という人は当の車椅子利用者の中からも出てきている。
そうした人々は一般に「保守的」だと言われるわけだけど、オタク達もまた特に最近は保守化していると言われる。
つまり、「チキンレースしないようにしよう」「なるべく目立たないようにしよう」というこれまでのオタク達の方針は、オタクの保守的な傾向の反映だったのでは?どちらも保守が言っているのだとすれば説明が付く。
もしそうだとするならば、そうした保守的な考えが間違っているとするなら「チキンレースするな」「なるべく目立たないようにしろ」といった考えは保守的な誤りであり、
行動に出た車椅子利用者やその他の被差別者に対し、「チキンレースするな」「なるべく目立たないようにしろ」と言っていた保守主義者と根本が同じだという事になるのでは?
オタク内部にもそういう人は居たのだけど、それも車椅子利用者の中にもそういう穏健派が居た事を考えるとぴったり一致する。
権利を得るためには、多少現場に負担を与える行為や、他者(往々にして差別の加担者)にストレスをかける行為、美術品等に致命的ではない行為を仕掛けてパフォーマンスする行為等色々な事が現代では許容される。
だと、するなら、オタクが権利や表現の自由を得る為にも様々な行為が許容されるし、むしろそういった行為こそが必要だという事になる。
そしてそのような行動に出るオタク版ローザ・パークスに「チキンレースするな」「なるべく目立たないようにしろ」と批判する人々は、差別的な保守主義者という事になるのではなかろうか。
ブコメを見ていたら非常にいろいろな示唆に富んだ面白いブコメがトップに上がっていたのでサンプルとして取り上げてみたい。
どちらかというと「喫煙権」とかいう架空の人権に近いんじゃないかな。「喫煙権」は、公共の場所でタバコを吸うというチキンレースを繰り返した結果、多くの市民をガチギレさせて今この有様です笑
まず「「喫煙権」とかいう架空の人権」というのが面白い。架空の人権、人権に架空と実在(?)があるのかというのがまず面白くて、全ての人権は架空と言う気もしなくもないけど、それ以上に
今回話題に挙げたようなローザ・パークスやその他車椅子等におけるアクションというのは「それまで認められていなかった人権」つまり「それまで架空だった人権」を架空でなくしたアクションだとも言える訳で、
その話題で「架空の人権」に対し冷笑的なコメントが支持を集めるという現象そのものが非常に面白い。
更に興味深いのは、このコメントが件の車椅子の件やその他差別に対するアクションに対して行われたと仮に考えてみた時、多少の改変を加えれば実は実に「ありそう」なコメントになってしまう点。
いかにもな保守主義者が車椅子その他の権利を拡張するためのアクションに対し「「喫煙権」とかいう架空の人権に近い」「公共の場所でタバコを吸うというチキンレースを繰り返した結果、多くの市民をガチギレさせて今この有様です笑」とコメントしている様を思い浮かべてみて欲しい。
この点で図らずも「オタク版ローザ・パークスに「チキンレースするな」と批判する人と、本物ローザ・パークスや車椅子利用者に「チキンレースするな」と批判する人がぴったり重なる」という本増田の主旨を見事に体現しているとも言える。非常に興味深い。
更には「多くの市民をガチギレさせて今この有様です笑」と、多くの市民=マジョリティがこうした人権の正否を握っていると臆面もなく主張していながら、ここまでスターを集めている点も評価したい。
この増田で取り扱った人権や権利のためのアクションは、それまで存在しなかった権利を生成する、という時間的で動的な権利生成のプロセスである。
しかしながら多くの(往々にして保守的な)人々の頭のなかでは権利とは「既に今あるもので十分」であり、これ以上の変化を想定しない静的な構造である。
従ってそこでは「架空」と「実在」がいとも容易く区別され、だからこそ「「喫煙権」とかいう架空の人権」という言葉遣いが可能になる。彼らの脳内にはそれまでなかったような権利が生成するようなプロセス、つまりローザ・パークスが成し遂げたような事や、車椅子利用者たちが今まさに成し遂げようとしているような事ははなから存在しない、という訳だ。
悲しいかなこれはひとつの現実であり、このコメントが支持を集めたのはその現実をまさに見せつけている。その意味でこのコメントは非常に示唆的であり、ある意味で意義深い。
人々の頭の中に有るのは単に「どちらの味方か」「どちらの敵か」という至って単純な二項対立であり、
その点だと、俺の「自分が親に求めているものを、自分が持っていないから子供を作らない。(子供から見て)コスパの悪い人生を子供が送ることになるから」はスゲーまともな理由だと感じるぜ。
俺が親に求めるのは4つ!
・不動の精神力
・時間的な余裕
・十分な経済力
俺はこのどれもを持っていないからなぁ……。
まず遺伝的に発達障害の傾向があり、生まれつきのレベルで精神力はカス。
時給1500円レベルの薄給なのに残業は月平均60時間で有給消化率は40%程度、これでは子供と遊ぶ時間なんてないし、子供を私立に通わせるのも難しいだろうな。
ガキの頃オヤジの帰りを待ってから夕飯を食べるっていうルールがあったんだが、電車で2時間通勤してるオヤジが2時間残業したら飯の時間は夜の9時とかでさ、それが習慣づいて今でも完全に夜型だから参ってるよ。
ガチャってのはまずは確率10%程度の小当たりを引くのが最低ラインでそこにさえ届かない水増し部分は最初からハズレなの。
実際、俺は俺が可愛そうでならねえよ。
もしも生まれつきイケメンで、身長も高く、せめて情緒さえ安定していれば楽しく学生時代も過ごせただろうなあ。
毎日死にたいと思いながら人生最初の20年を暮らさなきゃいけなかったのも、今クソみたいな仕事をやってるのも、全部親ガチャがハズレだったからだよ。
馬鹿だなぁ
時間的資源を活かすためにもアメリカうんぬんすら考えなくていいからまずは一旦オルカンでやらせればいいんだよ
結論から言うと20代と40代で取れる時間リスクは違うはずなのに、積立NISAでオルカンしか話に出ないの何か変だなって話だよ。
わー分かってるよ、
複利効果を活かす意味で手数料が低い投資信託のほうがいいんでしょ。統計的には個人運用よりインデックス投信のほうが成績良いんでしょ。積立NISAはクレカ積立で月10万、idecoは満額ぶちこんで、明治安田のじぶん積立で保険枠の節税しといて、ふるさと納税で食料品仕入れて結果的に節約しておくのがベストでしょ。知ってるよ!!!!!その話じゃない!!!
積立NISAでオルカンか次いでsp500が人気なのは、手数料が低い投資信託で、過去数十年で暴落はあれど持ち直している実績があって、アメリカ他主要国の経済成長が続く限りはノンゼロサムゲームでみんなの資産が増えるよ、引き出すタイミングで多少の誤差はあるけど、積立期間が長ければマイナスにはなりづらいよ、みたいなワケだったと思ってる。
でもこれさ、出口戦略をすぐとらなきゃいけない40代-50代のおっさん向けじゃないの?何回かの暴落を経験してもその後まで様子見れる20代-30代なら、リスク高めのNASDAQ100とかFANG+あたりでも問題無いと思うのよね。なのにオルカンやっとけばOK!オルカンなら安心!オルカン最高!ってうるさすぎ。
おじさん達は安心してもらってもいいけど、20代の若い子に居酒屋でオルカンの良さをくどくどとご教示するのはやめてほしいね。20代で投資始めた子がそれ信じて時間的資源を活かせないままオルカン積むのが良いって、思わないんだよなー。暴落見ても積み続けられる時間と余裕があるなら、リスク高めでリターン大きいほうが良いでしょ。明らかに。あのさ、おじさん達よりこの先積み立てる時間長いんだよ!
13年らしい。当時小4だった俺もいつの間にか会社員になってしまった
自分は東海地方に住んでいたのでこれといって何かあったわけでもないが、忘れないうちに当時どうしてたか、忘れられないことを雑に書き留めておこうと思う。
3月11日といえば当然年度末も年度末であって、通常授業は終わっていた。
当時は確かもう5限授業になっていたはずで、普段の教室のワックスがけをやる日だった。授業は半分自習で、普段使わない教室がある旧校舎で行っていた。
今ではすっかりデブ陰キャだが自分は当時まだまだ体力があったので、5限目の間ワックスがけを手伝うメンバーに加わっていた。
で、地震が来たのはワックスがけも終わり道具を片付けに歩いている間だったはず。遠かったのもあって揺れはわからなかった(近くにいた上級生が机の下に飛び込んでいたのはよく覚えている)
「デカい地震が関東東北地方でありました(要旨)」という校内放送が数分後にあった気がする。自習は普通に続行だった。
自分は揺れが分からなかったので「まだ揺れてたりしないだろうか」と教室の壁にかかっていた防犯ブザーを眺めていて、自習は全く進まなかった覚え。(時間的に10分も授業残り時間がなかったんじゃないかな)
当時集団下校ではなかったはずなので、帰路は一人で帰ったはず?帰宅は逆算する限りちょうど15時20分ぐらいだと思う
帰宅するや否や祖母に「凄いことになってるよ」と言われTVの前に座らされて、漁港に津波が届く様子を食いつくように眺めていた。あの映像は一生忘れないと思う
(余談だけどこの映像、毎年のように探しているが未だに見つかっていない。漁港から生中継だったはずで、地上に津波が登り始めてから海岸ぐらいに止めている車が流れだすまで。流される大量の青いカゴと複数台の軽バンが真横のアングルから映っていたはず)
その日そのあと何をしたかはもう覚えていない。もっと早く書き留めておけば思い出したかもしれん
ポポポポーンよりこだまでしょうかの方が怖くて印象深かった思い出。
以上。雑書き終わり
完全にダメー❌
マジでアホすぎる。
お前が本気で「公務員に腰掛け」をしたいなら、2年以内に辞めろ。
2年だ。
2年までなら大丈夫。
「入ってすぐに違和感を感じて、1年間様子見して転職活動をすることを決めました」のストーリーで2年目に本格的に動き出して、周りからどう言われようが「うるせー!こっちは人生かかってんだよ!」で逆ギレしながら意地でも転職先を見つけろ。
「危機感があった。違和感を覚えた」って言葉を使いこなせば、公務員の大幅マイナスなイメージを逆に利用してちょいプラスぐらいまで持ってけることさえある。
PCがオンボロでマクロもまともに使えない事務員とか、アホみたいな所内規則に雁字搦めでハンコリレーばっかとか、先輩の仕事を手伝わされて書類にひたすらペン書き作業とか、朝早く来て事務所の雑巾がけとか、ゴミみたいな仕事ばっかさせられたって経歴さえも1年目ならまだ許される。
第2新卒までなら公務員というイメージのおかげで「最低限のマナーは身についてるだろ」と思ってもらえることがプラスに働くけど、そんなの社会人3年ぐらいになったら持ってて当たり前すぎて価値が0まで落ちる。
一つ言っておくが、筆記試験で点が取れることの価値は公務員以外の世界では「筆記試験で点が取れる」以上でも以下でもないから。
公務員の世界で筆記試験が重視されているのは、公務員試験が誰にでも門戸を開くって前提の元にやっている中で、本当に口先だけで知能ゼロのアホを叩き落とすための手段がそれぐらいしかないから。
公務員なんぞにまともな面接能力はないのは公務員自体も分かっているので、全ての面接官がポンコツだった時の保険として筆記試験の比重をやたら高くしてるってだけだ。
無能な面接官だらけ、無能な奴を学歴フィルターで弾くことも出来ない、この2つの要素を解決するための銀の弾丸として筆記重視の風潮があるが、他の会社はそんな異常な状況じゃない。
なぜなら学歴フィルターによって馬鹿は最初から弾けるし、面接担当者も何人かそっち方面のプロが混じっていてアホは落とすようになってるから。(注:中小企業は知らん。まあアッチは「ウチの事務所に馴染めるか」だけで決定していいような狭い世界だからもうそれで採用決めちゃっていいんだよな)
最後に、一つだけ言っておく。
公務員の筆記試験で点が取れるなんてのは、ニッコマレベルの大学出てる奴でさえ皆クリア出来る条件だ。
あんなセンター試験にちょっとしたIQテストを足しただけの代物、ニッコマに受かる程度の連中がガチれば皆普通に点が取れるようになるよ。
あんなので点が取れたことを根拠に「勉強できるんスよね―」とかかましてくるアホ、社会じゃ相手にされん。
皆が頑張って面接と自己分析と卒業論文に時間を使っている間、資格試験の勉強もせずに訳分からん参考書に必死にマーカー引いてたってこと自体がアホの証明みたいなもんなんだよ。
汚点と考えろ。
書かせてほしい。
みんなうっすらわかっていることだと思うのだが、ここ最近のホッテントリの流れも踏まえて、言語化してみようと思う次第です。
まず、目についたのはこの記事。
「なぜ女性は昇進できない」を解明した川崎市職員にたっぷり聞いた 「軽視される仕事」と「形状記憶合金」:東京新聞 TOKYO Web
この記事の方が言いたいことにはおおむね共感しているのだが、もう少し踏み込んで、「罰ゲーム」と化している点について、愚痴を言わせてほしい。
上記の記事では、女性管理職が、社内(庁舎内)で軽視されがちな職場に配置されることについて書かれているのだが、そのような職場に配置されるのは、なにも女性管理職だけではなく、「配慮が必要な人」も配置されるのだ。
・単にコミュニケーションが下手な人
などである。
で、女性管理職にはそれらの人に対する「配慮」が期待される。ここが女性管理職特有の罰ゲーム。
子供が熱を出して急に休んでもOKで、残業しなくてもよく、お客様に対峙しないので失礼なことをするような機会がないような職場に配置されるのが、最近の女性管理職の配置パター
ンであり、そこまで踏み込んで書かれていないのは、これが流石に新聞記事で、敵を増やしたくはないと思われているからではないかと、勝手に邪推している。
そして、ここからが私の実体験に基づく愚痴なのだが、時短ママについては、急に休まれた分の仕事は管理者が実施しているのが実態ではある。ただ、そこは罰ゲームというほどの精神的負担ではない。管理者が時間外をして処理することで解決するので。
それよりも、メンタルとかコミュニケーションに問題がある人の方が問題で、ちょっと何かあるとすぐに「ハラスメントだ」とお上に訴えるのである。言葉を選ばなければ、「モンスター社員」というやつ。
こちらとしては、配慮はしているが、ハラスメントに及んだ覚えはない。
実際のところ、周囲の人の証言によって、ハラスメントの訴えは却下されるか、流されて終わることがほとんどである。
そもそも訴えられた時点で精神的に負担であるばかりでなく、一番困るのが、次の対処策がないことである。
本人はハラスメントを受けたと認識しているので、当然、その後の上司とのコミュニケーションに支障が生じる。
指示は聞かないし(届かないし)、仕事への意欲はさらに減退している。
じゃあ異動させればいいじゃないの、となると思うのだが、そういう人たちは、すでに何度も異動を繰り返していて異動先がないか、女性管理者のいる職場を巡回するかなので、問題のある社員を抱える女性管理者は増えはするけど、減りはしない、というところだ。
さらに、この状態を上位の管理者から見たとき、「女性管理職だからうまく配慮してくれると思ったんだけどねぇ」となれば、まだいい方で、一番言われがちなのは、「あの女性管理職はキツイ性格だと思っていたんだ(何しろ女性で管理職になったんだからな)」というやつである。独身女性ならば、まず言われるのは後者になる。
日本に「女性のリーダー」が生まれない深刻理由 「女性に意欲がない」というのは本当なのか | 「コミュ力」は鍛えられる! | 東洋経済オンライン
『記事「『怒りながら叫ぶ女』はどうして嫌われるのか」でも詳述したが、女性リーダーのコミュニケーションは極めてハードルが高い。
リーダーシップには、competence(有能さ)と、warmth/likeability(温かみ/好感度)の2つの座標軸があり、この2つが高い人が優れたリーダーということになるが、男性の場合、「有能」であれば、「温かみや好感度」についてはさほどなくても許されてしまうところがある。多少、冷たい印象で、好感度は低くても、それは冷静さや決断力と解釈され、さほどのマイナス要因にはならないのだ。
一方で、女性リーダーにとって「温かみや好感度」の欠落は致命的だ。「冷たい」印象の女は「怒っている」と捉えられやすく、批判を浴びやすい。トランプ大統領がどんなに人をバカにしたような横柄なコミュニケーションをしようが問題にならないが、ヒラリー・クリントンが声を上げて叫べば、「ヒステリックだ」とバッシングにあう。
男性のように強く出ようとすると、女性は制裁を受ける。イエール大学の研究では、自己主張をよくする男性CEOは、しないCEOより「仕事ができる」と評価される率が10%高かったが、よく自己主張をする女性CEOは、しない女性CEOより14%評価が低かったのだそうだ。 』
元の東京新聞の記事の内容に戻ると、「長時間勤務ができて、拒否しない女性」が管理者になるというのは至極納得で、普通に考えれば、主張しないと管理者になれないというロジックになりそうなものだが、実際のところは、女性管理者に求められているのは、あくまで「怒ったりせず包容力があり、24時間365日配慮が必要な社員のために働くママ」なのだ。
無理です。
子どもがいる人なら時間的な制約がまずあって無理だし、子無しや独身にそんな豊かな母性を期待されるのもおかしい。
滅私奉公できる人が昇進する、というのは、長時間労働と昇進の相関関係において男女で違いがないことから、男性でも同じ要件になってくるのだろうが、
女性はさらにそこに、罰ゲーム職場に配置され、「細やかな配慮」とやらを求められ、配慮しているのに部下にたびたび訴えられ、さらに主張すれば嫌われるときているのだから、昇進しても中間管理職止まりになるのは当たり前で、管理職になることを希望する女性が増えるわけがないだろう、というのが、女性管理職歴約15年の感想である。
この本は読んでないけど、もし続編を書くことがあったら、女性管理職特有の罰ゲームについても統計的なアプローチで切り込んでいただければ嬉しい。そしたら買います。
それで、実はこれは退職エントリであり、特に昇進欲なんて無かったけど、もうこれ以上、何に配慮したらいいのかわからないような配慮を求められるのはウンザリなので、辞めることにしました。
趣味もなく(時間もなく)、NISAなどが始まる前からコツコツ積み立てもしており、ここ最近の株高で、さらに退職金を入れれば、金融資産が大台に乗ったのもあって。
もともと贅沢しない生活だから、年金もらうまでのあと10年15年はきっと大丈夫でしょう。
現代は、独身女性が、女性管理職に特有の罰ゲームに15年耐え抜けば、一人で慎ましく暮らしていけるという自由を与えてくれました。
この辺、ブクマカの奴らがどこまで自覚的かあやしいから、一応、強調しておくわ。
もちろん、「自分にとって役に立っていない」という実感から出発して、(なんらかの理論的な接合点を提示して)「世の中の大半の人にとっても役に立っていない」という立論をすること自体が無理筋なわけではない。
しかし、三角関数をめぐる議論と同様、「社会システムの維持・運用・改善において、どのような役割を果たしているか」を充分に理解して初めて、それを主張する権利があるんじゃないのか、と思う。
言うまでもなく三角関数の社会的な実利の最たるものは、工学の分野における設計・計算・分析、さらにはその背景にある数学的思考法そのものへの貢献だよな?
じゃあ、漢文は?
これに対する答えが全く思いつかない奴は「能力不足により学習成果を碌に得られなかったせいで、勉強に意味がないと思っている馬鹿」だから、発言資格なしな。
【参考】
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/m-dojo.hatenadiary.com/entry/2024/03/01/033138
最近なんかブクマカの傾向が変わって、自分の頭で考えることが苦手で権威に弱い奴が増えているから、わかりやすいように、まず権威を引っ張ってきてやるな。
日本の文学は漢字に非ずや、日本の文学は漢文崩しに非ずや、漢字を用ゆるの法を解せずして、能く文を作ることを得んや、真に文に長ぜんとする者、多く漢文を読まざる可らず
まあ、僕が言いたいことは中江兆民が全部言ってくれているなって感じなんだけど、自論として敷衍すると、主に以下のことを主張したい。
(1)現代社会において(おそらく歴史的にも)、最重視されているのは言語コミュニケーションであり、非言語コミュニケーションは補助的役割しか果たしていない。
(2)よって、社会全体の「言語運用能力」の水準維持・向上は、優先順位が著しく高い。
(3)日本社会においては現代日本語の運用能力が重要であるが、現代日本語は突然変異的に現れたものではなく、漢文や古文といった歴史的蓄積を基盤として成り立っている。
(4)したがって、義務教育において漢文の語彙・修辞を学習することは、多くの人が現代日本語における表現技法に長じることに繋がり、より豊かな自己表現・他者理解の実現という形で、社会全体の福利に資するものである。
(1)と(2)は、まあ大体の人が同意してくれるかと思うけど、一応補足すると、たとえば、「勉強ができない小学生はまず国語ができていない」っていうのはよく指摘されているよな?
なんでって、そりゃ「学習は言語による伝達が前提とされているから」だよな。
これは歴史的に過去の蓄積の継承には言語が最も重要な手段だったからだよね。だって、対面なら非言語的な手法もある程度役に立つけど、時間的・距離的制約からして対面による伝達のみに頼るのは非効率すぎるよね。
今となっては、動画や音声を記録してそれを広く伝播させることも可能にはなったけれど、それだって結局かなりの部分を言語に依存しているよね。
世界中を探せば、たとえば言語ではなく音楽を用いたコミュニケーションを重視する民族が存在するかもしれないけど、そういった方法論は全くヘゲモニーを握っていないよね?
「画像」を共有するインスタ、「動画」を共有するTikTok、それぞれそれなりに流行ったけど、これらがSNSの最大勢力か?違うよね、ここでも「言語」を共有するコミュニケーションツールが最大勢力よね。
したがって、「言語」の問題は、他の「音楽」とか「美術」とかと同列に語ることはできない。
個々の認知・思考への影響もあるけれども、それ以上に社会全体の問題として、人類の発展を支えてきた知恵・知識の継承、認識の共有による社会形成といった点において、「言語」こそが最優先と言ってもいい。
で、どっちかっていうと、(3)や(4)の方が意見の分かれるところだよね。
この辺は実感がない人が一定数いても仕方がないかなとも思うので、いくつか具体例を挙げていく。
たとえば、語彙のレベルでは「五十歩百歩」とか「鼎の軽重を問う」とかになる訳だけど、もう少し広く文章表現にも関係している。
冒頭で書いた「教養なき輩に教養が何たるかを語ることができようか」は【反語】という表現技法で、これ漢文由来です。(もちろん英語にも反語的な表現はあるけど、日本語の文章表現の由来は漢文の方。)
「すべからく~だ」の誤用がちょくちょく話題になるけど、これ【返読文字】という漢文の読み下し技法を由来とする表現だね。(漢文的には「須らく~べし」)
あと、よくあるのは、【対句】かな。「Aはα、Bはβ」みたいなやつ。
杜甫の『春望』の「感時花濺涙 恨別鳥驚心」(時に感じて 花にも涙を濺ぎ 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす)が典型例。
項羽の『垓下の歌』の抜山蓋世、正確には「力抜山兮気蓋世」(力山を抜き 気世を覆う)も有名だけど、厳密には対句とはちょっと違うのかな。
それと、結構重要な影響を及ぼしているのが、「同じようなことを複数回表現したいときに、できる限り同じ言葉を使わない」というルール。
冒頭で僕が書いた「能力不足により学習成果を碌に得られなかったせいで、勉強に意味がないと思っている」っていう文章だけど、これ「勉強が苦手だったせいで、勉強による成果が得られなかったせいで、勉強に意味がないと思っている」という表現だったら、どう?
なんだか頭悪そうに見えるし、その点を置いておいても、同じ単語が出てくるせいで目が滑ってあんまり頭に入ってこなくない?
要するに、見栄えが悪いという美学の問題でもあるんだけど、読みやすさや読み手に浮かぶイメージの豊かさの観点から、できる限り、別の語彙で(=表現を吟味し、言葉を尽くして)語るのが良い文章ということだし、これは漢文から大いに技法を学べるところなの。
文化的影響の側面を言い出したら、たとえば井伏鱒二の「さよならだけが人生だ」とかかなり色々あるけど、実利の話としては脱線かもしれないし、そこはまあいいや。
とりあえず、ざっとした話としては、「漢文は現代日本語の語彙・表現・リズムに大きく貢献しているし、それは無意識のうちに現代日本語話者に多大な影響を及ぼしている」とだけ理解してくれればいい。
漢文を学ぶことは現代日本語を学ぶことであり、これ抜きに豊かな文章表現はできない。
できるっていうんなら、実例を持ってきやがれ、ってんだ。
(実際、本当にそういうものがあるのなら、日本語の新たな可能性だから、見てみたいと思う。)
優先度が低い
こっちは優先度が高いと思っていて、その理由を「言語の重要性」と「日本語における漢文の重要性」としてるので、「優先度が低い」とだけ主張しても平行線なのよ。
どちらかの点を否定する論拠がほしい。
現代数学だって当然に突然変異ではなく歴史的蓄積を基盤として成り立つものであるが、数学能力を育むためにユークリッドの原論から始めようという奴はおらぬ。
一理ある。
ただ、問題は、現代日本語の「修辞学」を学ぶ方法がほとんどなく、事実上、漢文がそれを補っている、っていうことなのよ。
断片的な読解テクニックは教えてもらえても、まともに「修辞学」を習えた覚えがない。それを言うなら漢文だって充分ではないけど、有用度は漢文の方がかなり高いと思う。
まあ、しょせん僕の経験でしかないので、ある程度多くの人の共通体験として、「現代文の授業のおかけでこれが身に着いたよね」というのが明確になれば、議論も落ち着くのかもしれない。
そうだっけか。
僕は中一で漢文、中三で三角関数を習ったけど、私立の中高一貫だったので、カリキュラムがいびつだったからなのかも。
もしかして、普通の公立の中学・高校の学校教育のことわかってないかもしらんね。
なるほど、2022年から「論理国語」という科目が増えたんだね。ものを知らずに思い込みで主張して申し訳ない。
https://www.taishukan.co.jp/kokugo/product/?type=textbook&id=63
カリキュラムを見ると、「定義」「具体的/抽象的」「立場・対比・対立・仮説」「統計・分析・分類」等に重点を置いているみたいで良さそうだね。
これを必修化してはどうか、というのはよくわかる。
「not for me」とは思いつつも自分の好きな作品が共有できる可能性が少しでもあるなら、って気持ちは分かりますがね。
このケースにおける「not for me」の構造を考えると、「〇〇巻から面白くなるから」って言ったって効果的じゃありません。
ひとつめの理由として「その人にとって、そこまで読み進めるための導線が足りない」。
この「導線」には作品の内容そのものか、作家への信頼感いずれかが必要です。
例えば『ワンピース』とかグランドラインまでは我慢して読んでください~なんて文言がありますがね。
じゃあ、そこまでは面白くないのか、先を読み進めたいと思える要素がないのかっていうと、そんなことないでしょ。
瞬間最大風速が“そこ”ではないってだけで、序盤から“風”は吹いているわけです。
その“風”を感じる人が多かったからこそ、かのジャンプで打ち切られることもなく看板作品となったのでしょう。
しかし“風”を感じられなかった人に対して「風は吹く」と言ったところで仕方ありません。
ましてや天気予報士でもない人間がそんなこと言っても信用されないでしょう。
つまり、その人にとって「1巻:面白くない、2巻:面白くない、3巻:面白くない……」となってる時点でダメなんです。
では、ここでいう天気予報への信頼感とは、なんでしょうか。
それは作家への信頼感です。
前作の実績によってファンが多い状態だったりすれば、読み進められる可能性は上がります。
「あの漫画の作者なんだから、ここから面白くなってくるはず」という信頼感です。
でも、そういう人は「〇〇巻から面白くなるから」と他人に言われるまでなく購読していますよね。
もう一つの可能性としては、雑誌などで連載をまとめて読まれる場合があります。
「目当ての作品は他にあるが雑誌ごと買ったんだし、せっかくだから読み続けよう」って人の割合は増えるでしょうね。
フルコース料理で一品や二品イマイチなのがあっても、最後のデザートまで食べ進めるように。
でも単品料理に都度決済するならば、一口めが美味しいと感じないのに「二口めは美味しいかもしれない」と思ったりはしません、次の料理を注文する気も失せるでしょう。
ふたつめの理由は「実際に〇〇巻から面白くなる保証がないのに、読むための+αが必要」なことです。
つまり時間的なコスト、金銭的なコスト、読むためのエネルギーもろもろが必要になるわけです。
その人にとっては“これから面白くなるかもしれない”という段階のものに対して、です。
つまり賭けなんですよ、とても分の悪い。
賭けても負ける可能性が高い、勝っても元をとれるか怪しい。
そもそも「勝つか負けるか」とか「元をとれるかどうか」で見ないといけない時点で、その人にとっては不健全な賭け事です。
そんな博打をするくらいなら一巻から面白い、無料試し読みの時点で面白いと思った漫画を優先して読んだ方が健全ですよね。
あと「〇〇巻から面白くなるから」というのは、逆にいえば「〇〇巻までは面白くない」って言ってるようなもんです。
一巻から面白い作品があるんだから、それは無視できない欠点でしょう。
それをオススメする側が暗に認めつつ、忍耐を要求されても困りますよ。
本当に面白いと思ってオススメしたいなら、あるいはその作品を擁護したいのなら、
1から10まで面白くなるように思える導線作り、それを可視化できるような視点アプローチ。
おっちゃんな、35年パソコン弄ってて、30年パソコンで飯食ってんだが
定期的に「世界が変わる画期的IT新製品」って奴が陳列されるのを見てきたの
インターネットもそう
iPhoneもそうだね
なにが変わった?なんも変わってねぇよ
人の営みの基本は変わらんの、メシ食って射精して寝る
「アレクサ、照明を明るくして」。。。
紐垂らして引っ張ったほうが早いっちゅうねん
ChatGPTやらも技術キャッチアップで使いましたよ、てか使ってるが
これで何が変わるのか?
多少効率化するかもしれんが業務全体の効率化への寄与は誤差程度でしかない。
もちろんこの誤差程度が積み重なって社会は少しずつ変わっていく、便利にはなっているが。
例えば、ちょっとした経費伝票の処理、昔は完全アナログだったが
事務職の女の子に、「あんじょうよろしく」と領収書を渡しておけば秒で終わった
怪しげな領収書も優秀な事務職さんが華麗な魔法で処理してくれていた
ところが電子化された今はゴチャゴチャゴチャゴチャと自力で入力して電子承認手続きして、
不正防止とやらで新幹線は乗車号数まで書かなきゃならない、時間的に矛盾する報告書出したらチェックされて返ってくるの、暇だねぇ
んでいずれAIで経費の不正検出できます、みたいなソリューションが出てくるのだろう、無駄の上乗せ屋上屋
利益だしとんねんからごちゃごちゃうっせぇわと言いたいが言うても無駄なので時代に迎合
さっき冷え性の事務職さんに「こんなの通りません」って伝票突っ返されたので愚痴でこれを書いてる
わいインターネットはまだ国内プロバイダーが個人商用サービスを始める前、WindowsがTCPソケットを実装する前、Asahi-NETがパソコン通信からテキストベースでインターネットゲートウェイしてた時代から使ってるからね
がっつりネットつかって、きっちりITで飯食ってる、一応プロのプログラマーっすよ
大友克洋のAKIRAは金字塔として評価されているが、その直後に作られたほぼ無評価の「老人Z」って作品がある。思い出しちゃった、わいこっちのほうが好きなんよね
随分と便利になった、そりゃ否定せんよ、でも変わってないよ
メシ食って射精して寝る、なにが変わったよ
今はみんなAIに熱狂してる、世界が変わると、なーんも変わらんよ
でも思ってるほど世界は変わらんと警告してやってんの、よろぴく
草津のリコール署名を見ていたわかったことだけどこのサイト日本国籍を持たない人も普通に署名出来る
可能性があるということ…?
が本当に多い。
野党か
増税だって言ったり無実の人を有罪にしようとしたりとにかく嘘をついて署名しようとする
こんなのばっかり
ちなみにchange.org的には貧乏な人の声を届けたいとかなんとか
価格は以下の通り
☆表示回数が二倍になる特典
す。ですから、Change.orgが「市民の皆様からのご支援のみで運営されている」ということを、どこかでご覧になっているかもしれません。
では、実際に私たちの活動を財政的に支えてくださる方々は、平均月1,500円でご支援くださっていることはご存知でしたか?
Change.org日本版の利用者数は2023年末で430万人を超え、450万人、いえ、500万人の背中がいよいよ近づいてきました。しかし、そのうち月額会員となってChange.orgを財政的に支援してくださる方は、まだまだ1%にも及んでいないのが現状です。
わずか6名のチームで、何百万人もの方々が安全に利用できるサイトを維持しつつ、次々に立ち上がる署名活動をひとつでも多く成功に導いていくためには、正直、時間的にも経済的にも決して余裕があるとは言えません。
しかし「誰もが、何に対しても、安心して声を上げられる場所をつくり続けていく」という私たちのミッションを守るため、今後も、政府からの助成金や企業からの広告費を受けとることは一切しないと決めています。
経済力で声の大きさに差が生まれてしまっては、市民の市民による市民のためのプラットフォームであり続けることができなくなってしまうからです。
新しい年が明けてひと月が経ちました。激動の1ヶ月間でしたが、私たちの思いに共感してくださる会員の皆様のおかげで運営を続けることができ、感謝しています。
1,500円で、とまでは言いません。もし、田所さんをはじめ、このメールを受け取っている方から毎月500円のご支援をいただければ、私たちはこれからも、その独立性を保ちながら、誰もが無料で利用できるサイトであり続けることができます。
今日この日、私たちの活動を支えてくださるChange.orgの心臓部になっていただけないでしょうか。月々のご支援が、みんなが声をあげるための場の支えとなります。
月額500円でChange.orgを支援する
武村 若葉
こんなメールが今年だけで3件以上…
だってそんな金ないし
署名に金が投げられるシステムがありながら、その金の使い道はいっつも曖昧。発起者を支える励みになりますとかそんな曖昧なものじゃなくて
私は集まった金で上級国民がステーキを食べてないかが知りたいんだけど
いつも曖昧
しかも失敗しても集まった金は返ってこないよ
届かない声を届けるとは…
これ面白くて、未来が自分の後ろ側にあった時代には矛盾がなかったんですよ
我々現代人は普通「未来が前、過去が後ろ」なのが当たり前だと思ってますが、昔は過去が前、未来が後ろにあったんです
全く日本独自のことではなく、古代ギリシャやソマリ語など世界の地域/言語であった/あることらしいですが https://t.co/3iG9Uaqgae pic.twitter.com/hkoAEAJjB0— 重藤小藤太 (@Kotouta_Sige1) February 18, 2024
この言説は正しいのだろうか。この場合、過去に書かれた文学などにおいてどのような用法があったかを確認すればいいだろう。というわけで『源氏物語』から「先」が未来をあらわしている箇所を引用する。
わが御世もいと定めなきを、ただ人にて朝廷の御後見をするなむ行く先も頼もしげなめることと思し定めて、いよいよ道々の才を習はさせ給ふ。
「私の治世もいつまで続くかわからないのだから、(光源氏が)臣下として朝廷の後見をすれば、この先も頼もしいだろうと考えて、さまざまな学問を習わせた」といったところだろうか。この「行く先」は未来を指している。
中に十ばかりにやあらむと見えて、白き衣、山吹などのなえたる着て走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひ先見えてうつくしげなる容貌なり。
「その中で、十歳くらいに見えて、白い衣に山吹襲の着慣れた上着で走ってくる女の子は、その他の多くの子供とは違って、将来が楽しみな可愛らしい容姿をしている」といったところだろうか。この「生ひ先」も未来を指している。
我が心ながら、かかる筋に、おほけなくあるまじき心の報いに、かく、来し方行く先の例となりぬべきことはあるなめり
「自分のことながら、このような身の程知らずのあってはならない恋の報いとして、このように後にも先にも例になりそうなことが起きたのだろう」といったところだろうか。「来し方」は過去、「行く先」は未来、という時間の感覚がよく分かる。
一方で、もちろん「先」と書いて過去を指している箇所もある。
あこは知らじな。その伊予の翁よりは、先に見し人ぞ。されど、頼もしげなく頚細しとて、ふつつかなる後見まうけて、かく侮りたまふなめり。さりとも、あこはわが子にてをあれよ。この頼もし人は、行く先短かりなむ
「おまえは知らないのだろう。(姉君と私は)その伊予の老人よりも先に会っていたのだ。けれど、(姉君は私のことを)頼りなく弱々しいと思って、あのどっしりとした男を夫として、このように(私を)馬鹿にしているらしい。とはいえ、おまえは私の子でいてくれよ。あの頼もしい人は老い先短いだろうから」といったところだろうか。この箇所には二つの「先」があるが、「先に見し」は過去、「行く先」は未来を指しているのが面白い。
このあたりを見るかぎり、単に「先」といえば「過去」あるいは順序的な「前」を指しているが、「行く先」のような言い方だと「未来」になるようだ。これは現代的な感覚としてもわかるのではないだろうか。「先に〜〜する」と「この先、〜〜する」の違いだ。
ではさらに遡って中国では「先」という漢字はどのように使われてきたのだろうか。
先(拼音:xiān)是汉语一级通用规范汉字(常用字) 。此字初文始见于商代甲骨文及商代金文,古字形从止(指脚)从人,人举足则前进,表示在前面的意思。 先的基本义是走在前面,引申为时间或空间的次序在先。引申用作名词,特指祖先,又指过世的,多指长辈。
先(拼音:xiān)は、中国語の一級通用規範漢字(常用字)です。この字は商代の甲骨文と商代の金文で初めて見られ、古い字形は「止」(足を指す)と「人」から成り立っています。人が足を上げると前進することから、先は前にあることを示しています。先の基本的な意味は先頭を歩くことであり、時間や空間の順序が先にあることを意味します。名詞としても使われ、特に祖先を指し、また亡くなった人々、特に長老を指すことが多いです。
意味などを調べてみたかぎり、どうも中国語では「先」が「未来」を表すことはなさそうだ。空間的な順序では「前方」側、時間的な順序では「過去」側、で統一されているらしい。このあたりは中国語に詳しい人の解説を求む。
原義が「先頭を歩く人」で、時間的には「過去」を表すというのは、どう考えればいいだろう。イメージとしては、人々が一列に並んでいて、自分はその真ん中あたりにいる。空間的には、列の先頭の人は、自分の前方にいる。しかし、時間的には、先頭の人が先に動き、自分はその後に付いていくことになる。先祖代々が一列に並んでいるところを想像すると、その「先頭」はいちばん古い人だと考えるのが自然だろう……ということではないか。
精選版 日本国語大辞典
先・前(読み)さき
日本語の「先」には「目的地」という意味がある。たとえば「出掛け先」だとか「勤務先」のような言い方である。そして先ほどの「行く先」はまさにこの用法だろう。つまり「先」という漢字から、まず「目的地」用法が生まれ、それから「目的の地点」を「時点」にするイメージで「未来」用法が生まれた、と考えるべきかもしれない。
まとめ。
1. 日本語では「先」が「過去」を意味したり「未来」を意味したりする
3. 中国語では今でも「先」といえば「過去」だけを意味するらしい
残りの課題。
気概があってチャレンジ精神溢れる奴はすでにみんな炎上プロジェクトに巻き込まれて灰になってるから。
チャレンジ精神で取り組んだ結果、プロジェクト炎上してもコストや期間増やして時間的にも精神的にも健康的に働けるようにしてくれるなら多少は協力しようとは思うよ。
あとチャレンジすることは多くても業務の二割程度に抑えておかないとリスクが大きくなりすぎて自分が潰れるので、本当に必要なところでのみチャレンジしてもらうようにしてもらうといい。
現実世界で活動するリアルのアイドルとかアーティストはさ、ちょいちょいライブやら何やらリアルイベトをするわけで、田舎者には金銭的にも時間的にもキツイんだよね。
人口比的には数時間or数千円かければ23区内余裕な都会人〜自称田舎者がほとんどで、日本国内なのに片道一日&5万円なんてレベルはごく一握りで、その者たちの苦悩など見えてこないし商売的にも無価値だから仕方ないと諦めていたわけ。
vtuberはこの苦悩から解放してくれる存在だった。ちょっと前まではね。コロナとかでバーチャルイベントとか良い取り組みだと思ったんだよ。
でも結局今になっては、ちょっと人が集まってきたらリアルイベントとか、実店舗とのコラボイベントとかやるんだよ。
そのたびに寂しさが増して、新しいvtuberを探しに行く。
彼氏がいるとか、オフパコしてるとか、人格が破綻してるとか、実はおじさんだとか、それはどうでもいいんだよ。
ここが田舎だと思い出させないでくれ。