はてなキーワード: 内包とは
「子供笑うな来た道だ。老人笑うな行く道だ」という言葉があるが、これはつまる所「老人の立ち位置は子供と同じ。被保護者の立場であり、選択権に制限をかけるのがお互いのため」ということだ。
この言葉は老いて奇行をしてしまった老人がふと正気に残ったときに「やべ……俺完全に判断力落ちてるわ……もう子供の言う通りにしよ……」と考えたときに残したものとされている。
年金で暮らすような歳になったら、社会に保護される側になったという自覚を持って、赤子が己の行先を親に委ねるしかないのと同じような感覚で生きてほしいものである。
それを分からせるためにも、年金受給年齢になったら選挙権を取り上げるべきじゃないか?
18歳に選挙権があるのは「十分な判断力がある」からだなんだろ?
じゃあ十分な判断力がなくなったら選挙権を持たせちゃ駄目じゃないか。
もしも「全ての老人がそういう訳ではない」と詭弁を弄するつもりなら、小学生に選挙権を与えるのでさえ「全ての小学生が国政を理解してないわけではない」として議論するべきものになるよね?
今の社会において求められる選挙権を持つにたる最低限の知性は、「投票所に貼り付けてある候補者の名前を間違えずに鉛筆で書けること」さえも下回っているよ。
言ってることちらほら正しいこともあるけど、そもそもフェミの印象が悪すぎるからツイッターとかで意見主張しても伝わんないし。萌え絵がーエロがーって言っても絵だし。現実とは関係ないじゃん。AVとかグラビアだって本人がお金や売れたいがために自分の意思で出てることだし。フェミの実際の年齢と容姿とかは知らんけど、ブスババアと罵られて嫌じゃないのかな?まずは腰低くして主張を分かってもらえるように努力すればいいのに。
と、思ってたんだよね。マジで。特に16歳〜19歳頃はミソジニーがめっちゃ強かった。たぶんこういう考えの10代女子めっちゃいると思う。ババアという暴言もそうだし、特にブスって言葉って思春期10代女子にめっちゃ響くんだよね。自分の顔がブスかかわいいのか気になって、絶対ブス側に入りたくないし。だから、ミソジニーと10代女子って相性いいと思う。自分の体の変化とか嫌だし。ミソ側につけば姫のような状態になるし。特に私はオタクで、腐女子から男性向けジャンルに移行したタイミングが10代後半だったから、ミソジニーとの相性良すぎてミソジニーにズブズブだった。そもそもBLってオメガバーズとか結構女性のミソ的心と関係してるシチュ多いんだよね。レ⚪︎プ、無理やりみたいなのも普通にめっちゃ多い。男性向けのそれと違うところは事前にワンクッション入ることくらい。だから腐女子はミソを内包してる人も多いと思う。それに私は現実で家族仲も良くなくて、情緒不安定な母の姿も馬鹿みたいって思ったし。オタクあるあるなんだけど、絵が描けたり創作できるやつが1番すごい、1番えらいって思ってて、恋愛の話とかしてる女子たちのこと下に見てたし。自分がそういう、「情緒不安定で恋愛の話とか中身の無い話ばっかしてる女たち」の仲間にされる本当に嫌だったんだよね。男になりたい訳でもなかったけど、女っていう性別の自分が本当に嫌だった。だから心はおっさんとか言って、女友達にセクハラするなどして「私はそっち側じゃなくてこっち側」みたいな保ち方をしていた(本当に最悪)。そしてそれと同時に私は男のことが嫌い、苦手だった。不思議だよね。女子を馬鹿にしてるのに、女子といる方が居心地よく、男子は嫌いで関わりたくなかった。それは、私も彼らからすると「女」の1人でしかなくて、女としてジャッジされることを恐れていたし、そうされたくなかったから。容姿が良いか悪いか、エロいかどうかで見られたくなかったから近づきたくなかった。だって私はエロくて女らしい、そういう「女」じゃないんだもん。男みたいに、エロい女キャラのこと妄想しちゃうし、ロリエロだって見てるよ?私はジャッジされる側じゃなくて、そっち側なんだよ?って。心の中で一生懸命主張してた。男はミソジニーになってもそれがデフォルトみたいなとこあるから別に大した問題はないだろうけど、女がミソジニー極まると常に自傷行為してるのと一緒なんだよね。私はそっち側じゃないから、と自分の中では線引きしてても、体は女だし、心も女だし、社会的にも女だから。なんかつらかったね。でもやっぱりフェミニストっていつも馬鹿にされてるし、私はそうやって馬鹿にされたら嫌だから、フェミニズムも響かなかった。ミソジニーの中で私はそっち側じゃないんだよーと自分を守り続けることしかできなかった。若いって本当に視野が狭いね。でもその時は本当に顔も知らないあなたたちに、馬鹿にされたくなくて、ブスって思われたくなくて、「女」って思われたくなくて、必死だった。で、そんな私に人生絶望案件がひとつあった。10代後半当時、恋愛経験はゼロで彼氏欲しいという気持ちも大してなかったけど(男苦手だったから)、将来的な結婚願望は強かったのね。それは私が人間関係の構築が苦手で、バイトしてたんだけど普通に無能で、自分に労働能力がない、人と関わりたくない、だから働きたくなくて、専業主婦になるしか人生やっていけないよと思ってたわけ。専業主婦 or DIE 。10代後半でバイト経験もそこまで無いくせに諦めるの早すぎる。でもミソの皆さん、これ何が絶望なの?って思うじゃん?ま⚪︎こついてんだから、理解のある彼くんをゲットし、専業主婦になるなんて簡単だろ?むしろそういう選択をとれる女のお前が羨ましいよ、と。でも冷静に考えて。私は美人かブスかでいったらブス寄りかもだし、色気など女としての魅力はゼロに近い。つまり、絶対にいい男とは付き合えないということ。てか私のレベルで、養われ前提だったら、そもそもいい男じゃなかったとしても、同年代と付き合うのは無理なんじゃない?若さという唯一の武器を活かして、ひとまわり、いやふたまわり近く歳の離れたおっさんと何とか番うのが関の山なんじゃない?と思って軽く絶望してた。でもでもでも、西島秀俊とか全然かっこいいし、何なら草刈正雄もかっこいいし、おじさんでも大丈夫だよね…?などと自分を励ましていた。そしてミソに毒されてた19歳の私はネットの言説を間に受けて「女は25歳までって言われてるし、高校卒業したらババアみたいなことも言われてる…。若さという武器を活かせばって思ってたけど、もう私もババアなの?じゃあ急がないと専業主婦になれなくなる!」と焦り出した。当時学生だった私は未だに男嫌いで、たまに男と話すことはあったけど、なるべく避けていた。ま、同年代はそもそも相手にされるとは思ってないし。そんなわけでリアルでの男絡みは皆無に等しかった。でも若さを活かして専業主婦志望の私はそんな悠長にはしてられない。そんで、まずはとりあえずネットで知り合った30代前半のおじさんと食事に行く約束をしたのだった。それなりにおしゃれしておじさんを待つ。30代前半ってまだまだ若いよね?嵐とかもそんなくらいだし♪大丈夫大丈夫♪と、緊張しながらも気楽に考えていた。ちなみに異性と2人で食事はこれが初めてである。そこに「〇〇さんですか?」と颯爽と現れたおっさん。…もうね、全然嵐とかじゃなかった。もちろん西島秀俊でも草刈正雄でもなかった。もう普通におっさん。肌感とかおっさんすぎ。てかファッションダサすぎ(ズボンにチェーンとかつけて、パンク系だった)。おっさん大丈夫な子はここでおっさん依存に走れるのかもしれないが、私におっさんは無理だった。同年代や年下も無理なのに、おっさんはハードルが高すぎた。「生」のおじさんの質感に打ちのめされていた。とりあえず、お店まで来たが、もう帰りたい。チェーンのパスタ屋だった。もうなんでもいいから早く帰りたい。カルボナーラ頼んだ。おっさんが話しかけてくるが、おっさん感が強すぎておっさんの方を向けない。下を向いて「はぁ」とか「まぁ」とか答えるので精一杯だった。カルボナーラが来る。必死にそれを食べる。全然味がしない。でも急いで食べる。秒で食べ終わる。会計をする(もちろんおっさんが奢ったがなんでもよかった)。帰宅帰宅帰宅帰宅。駅までの帰り道、おっさんが「食事友達ってわけではないでしょ?そういうこと期待してたんでしょ?」とか言ってくる。「いえ」と即答。早く帰りたい。「手、繋いでいい?」とおっさん。「嫌です」と即答。さっさと帰る。駅についておっさんと別れる。おっさんと食事した事実が気持ち悪すぎて泣けてきた。ごめん、私にはおっさんを許容できる器がないみたい。ブスのくせにごめん。なんか、日常生活で見るおっさん(学校の先生とか)をあまりおっさんとして意識したことがなかったから気付かなかったけど、異性として対峙するとおっさんって本当におっさんすぎ。スタバ買って飲んで、まやかしでも浄化しようとした。こうして、「若さを活かしておっさんと結婚し、専業主婦になる」という私の夢は散ったのだった。でもだからと言って、私がちゃんと働くなんていう想像はできない。本当に働きたくない。どうするよ、これから…。と途方に暮れた、19歳の夏だった。
数学における自然数みたいなものの定義、が形成する概念を、たとえば数式の3という表記が指示する概念が、我々が日常見てる、3個のりんごやひもとその3倍のひもが並べられてる光景や、時計の長針と短針が三目盛り分ずれてるみたいなのから得られる共通の世間一般に3とよばれる性質と同じだと思うのは、すでに「解釈」なんだよな。
数学において3、「0の次の次の次の数」と自然言語では説明されるような概念はただの操作対象である記号列でしかない。
その記号列にどんな意味を持たせるかは、「物理現象の中に見いだされる3という性質」以外にもあるかもしれないし、ないかもしれない。
「直線と呼ばれるものの定義」についても、幾何的なイメージで解釈するのも、イデアル?だかで解釈するのも勝手。日常生活の個数や順番などとして見出される3の性質も、それと同程度に解釈でしかない。
トポロジーなんかが典型的だと思う。あれが示す証明が、幾何的なイメージとしての立法を内包する何かに対する性質を示してると考えるのは解釈でしかない。
そうすると自然言語で認識してる3や△というのは、たとえそのもっとも理想的なものを持ち出しても、数学の定義にとっては一段レイヤーの低いイデアということになるかもしれない。
数学の定義に対して、複数の3や三角形というイデアが解釈として結びつくなら、数学の定義はメタイデアか。
その前は、定義もまたイデアとするなら、3や三角形は物理的イデア、と物理的を冠して存在する領域を区別すればいいのかなとか思った。
ちなみに、反転は無理なんだよ
男の自己中心的な願望が成立する
一部の反転は出来る
ときに少女漫画のヒロインにすら向けられる性的役割という憎悪を想起させるような記号はない
あるんだが・・・女に不快感をトロフィーヒロインに相当するものは、それなりに男らしくある必要がある
女性にとって性的魅力のある男性像というのは、男性からも好ましいもので
男に不快感を与えるような男性像は、女からも不快な男になってしまう
そして、創作においても、女性自身が性的役割において「女性らしい女性」を描き、それを好ましいと表現する
反転が成立するには、女性自身が自分で性的役割を好ましいと内包しつつ、そこに確かにメリットが存在し
できちゃった婚だった。長女を授かったのがわかって妻の実家に挨拶に行った。
物静かな義父の反応がぎこちなかったのを覚えている。
皆年を取れば一部を除きそうなるのだ。
いつか自分も生きていればそうなる日が来る。
自分には両親がいない。増田が中学1年の夏頃に離婚して母に引き取られた。
その育ててくれた母も一昨年に亡くなった。
この年になってようやくわかる。
皆平等に老い、朽ち果てていくということを表面的にしか理解していなかったんじゃないかと
昔の3世帯同居というシステムは良く出来ていたんだなとつくづく思う。
義両親は介護の経験がない。特に義母はわがまま放題。自分が介護のつらさを体験していないからか、
身勝手な振る舞いが多い。自分の親の介護を経験している人は、自分がされる側に立った時そういった振る舞いをしない人が多いと聞いた。
3世帯同居は家人の老いと死を家族に見せて経験させ人の死を乗り越えさせるというシステムを内包していたんだな
義母は事あるごとに義父に対する恨み言を口にする
年老いた義母に「昔のことは忘れてこれから楽しめばいいじゃない」と勧めても、
先の短い体の不自由な人にとっては口先だけの慰めにしかならない
今を後悔しないように生きる
知り合いのSNSアカウントがここ10年ぐらいでだいぶ品行方正になった。
昔は嫌儲とかオチとか色々やっていたのに今じゃ淫夢語録さえ避けるように気を使っているのが傍目にも分かる。
昔はネットでしか使わなかった言い回し、とりわけ発達障害や特定人種を馬鹿にするような物言いを現実で使うようになっていった。
ネットとリアル、少しでも安全な方を選んで下手をすれば訴えられるような表現を振り回す。
そういうずる賢さが私の友にはあったようだ。
だが同じような傾向は私の職場でもあるような気がする。
現実社会にふさわしい言葉づかいをすることを辞めて、ギリギリのラインを必死に探るような言い方を繰り返す人間が増えてきた。
ハラスメントの限界ラインを攻めることでそこに線引を作り出そうと必死になっているような言動が食堂や自販機前に溢れている。
そのかわりにチームチャットやLINEのメッセージはビジネスマナーに沿った小綺麗なものが増えてきた。
言い逃れの出来ない文字情報では借りてきた猫のように振る舞い、録音でもされない限りは消えてしまう言語情報では少しでも粗暴さを発散させようとしていく。
現実とネットの倫理観の逆転、個人が内包する暴力性の総量は変わらないままに、それが発露する場所だけが入れ替わっていく。
これが令和という時代らしい。
“人種や国籍を理由に職務質問” 国などに賠償求め提訴へ 「レイシャルプロファイリング」は海外で問題に | NHK | 東京都
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実際差別だけど「運用優先」のジャップ司法が「差別である」と承認することは無いよ。
これまでジャップ司法=くそったれ裁判所は「警察の職務の内で逸脱した行為ではない」「運用上必要なことであった」「慣例に従っており、この時点では問題はない」といった形で常に「警察の行動=大正解大正義」ってやっている。
地裁とかでたまに「誤った判決」が出るけど、大体高裁で「職務に内包され、問題はない」に丸められる。
何故かジャップ司法、裁判官は、行政運用を優先する。不思議なことだ。明らかに憲法には「現状運用の優先性」を明示したところは無い。
まぁ、これは「自衛隊」の存在にも関わるからこそ「憲法解釈は、現場運用を優先」という忖度以外の何物でもないわけで。
昔、3年ほど付き合ってた人がそんな人だった。
上から目線とかじゃなく、美味しそうな料理が出てくるたびに「こういうのもあるんだ!また美味しそうな料理が出てきたぞ!」という気持ちを内包した「ふーん」だった。
居酒屋だと周りはガヤガヤしてるから、他のお客さんや店員さんには聞こえないほどの、口元を動かさずに発する「ふーん」。私はその一言を聞くたびに、こそばゆいような恥ずかしいような気持ちがした。聞こえてるのを指摘した方がいいのかスルーした方がいいのか。
その彼氏と別れてしばらくしたあと、別の人と出会って付き合った。
その人もなんと、タイトル通りの人だった。