はてなキーワード: 中年とは
アタシぃー、オンナだけど自虐を込めてそう感じるわ
占いとかにのめり込んで周囲に占い奨めてどん引きさせるのってたいてい女じゃん
「相性占い」「パワーストーン」「「厄年」とか女性雑誌に書いてあったら気にするし
TVで「トマトがいい」と紹介されればスーパーでトマト買ってきて押し付けるのよね
この根拠の無き受け売りからくる「善意の押し売り」ってやつ マジめーわく
いやそれ宣伝だからと言っても「TVが言ってるから」「雑誌に載ってたから」
これだよ
芸能人のこと可哀想と言えないほど、マスコミに洗脳されてるじゃん
まだ、アイドルの話された方がマシ
あれははまっている本人が金つぎ込むだけで周囲には布教しないから
この前「ホストに金払えないおばさんは安価なホストとしてアイドルに走るんだろうね」
という話をしてて「一口馬主」みたいだなと思った。
アイドルにはまる人ってたいてい微妙な容姿のおばさんが多いけど
アイドルの話をしてる時は目がハートマークになって生き生きしてるからな
同じ金を搾り取られるなら「不安」から金搾り取られるのと「ファン」の愛で金絞り取られるの
アイドルなら「誰かを好きになった」という甘い思い出が残る
ブサなおばさんでも誰かを愛したいし好きな人には大切な存在だと思われたい
愛に満たされない中年女は占いよりもアイドルに走った方が幸せになれると思う
女は愛に満たされていないと往々にして変な方向に走りがちだけど、どーせ走るなら
生きてて良かったと思える方に走っていけ
☆アーティストトーク「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」at 横浜美術館レクチャー・ホール, 2012.02.11(Sat), 15:00-16:00。
横浜美術館で松井冬子さんの講演を聴いた。彼女の個展「世界中の子と友達になれる」の関連イベント。
11時ころ会場前に行ってみたらスタッフの方(美人)がいたので話を聞くと、「どのくらいの方が集まるか何とも言えませんが、現時点ではどなたも並んでません」とのことで、とりあえず個展を鑑賞。同行した絵描き女子はたいへん楽しんだようだけど、私はよく分からんかった。むしろ常設展に感動。あ、でも松井さんの『ただちに穏やかになって眠りにおち』は印象に残った、私は宮沢賢治の『オツベルと象』が大好きだから。
13時ころ会場の様子を見に行ったらもう150人くらい並んでてびっくりした。慌てて最後尾に並ぶ。老若男女が並んでる。一人で来てる人も多い。並ぶときに、スタッフの方から「レジュメ」と称される紙が配られたのだけど、松井さんのプロフィールしか書いてなくて残念。
講演タイトルは「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」。この奇妙なタイトルは、松井さんが東京藝大で博士を取るときに提出した論文のタイトルだそうで、講演ではその論文について解説してくれるということだった。
とりあえずビジュアル的に面白い。つま先から太もも全体まで包む黒いエナメルのロングブーツ! テカテカしている。もともと脚がすごく長いのかヒールがすごく高いのか両方なのか知らないけど、やたら大きかった。
松井さんの話によると、彼女は博論を2006年に執筆して、2007年2月に教授陣の前で発表したのだけど、発表の際に高熱を出していて上手く出来なかったとのこと。今回はその時のリベンジをしたいという。
で、講演が始まったわけだが、うーん、日ごろ自分のプレゼン下手を痛感している私としては、非常に勇気づけられた。こんな下手な講演が世の中にあるのか! 私の前に座ってた中年女性が、講演中に隣の人と「おもしろくないね」と言っちゃうくらいである。
講演タイトルを見ても分かるけど、松井さんは基本的に、いわゆる「中二病」全開な文章を書く人だ。絵のタイトルも『陰刻された四肢の祭壇』とか『終極にある異体の散在』なんて感じだし、個展の絵にもそれぞれ解説文がついてて、それが全部同じような調子で長々と書かれている。まあ、幽霊とか臓物とかを描くくらいだから、「中二」なのは文章だけの問題じゃないと言われるかもしれないけど、それはともかく。
不必要に硬い語彙を好んで使い、しかもそれぞれの言葉の組み合わせ方が少しずつ適切な用法とズレていて、さらに主述関係や修飾-被修飾関係があやふやなので、全体として意味が不明瞭。そんな文章を、文字情報なしで口頭で早口で(つっかえながら)読み上げるのだから、分かりやすくなるわけがない。
と、つい悪口が長くなったけど、私の理解した範囲で要旨をまとめると、
~
他者との接触は私に痛みをもたらすよね。
でもそれを芸術作品に託すことで、目に見える形にして、人に伝達できるのでは。
そういう試みが視覚芸術のなかに確かに存在しているし、松井自身の制作も、その系譜に連なるんだよ。
~
こんな感じでした。
この系譜の探究として、河鍋暁斎とかダミアンハーストとかクリスチャンボルタンスキーとか色々な作品が挙げられ、分類され、その流れで自作解説も行われる。(ちなみにその分類の名前は「攻撃性自己顕示実践型/受動性自己犠牲変容型/局地的領域横断型」。一貫した中二感。)
余計なお世話だけど、「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」というタイトルでは全然内容を表せてない(うえにそもそも日本語としておかしい)ので、まともに修正するなら「痛覚の覚醒を企図する視覚芸術の系譜」ってところでしょうか。
私の記憶する限りでは、「不可避」の部分が講演のなかに出てこなかったので、もし質問コーナーがあったらお尋ねしたかったのだけど、むしろ講演の後半は時間が足りなくなって、松井さん自身の話さえだいぶ端折られてた。残念。
ちなみに私の同行者は、「全体としては難しくてよく分からなかったけど部分部分は面白かった」とのこと。例えば、ある作品に描いた孤独な幽霊が、少女コミックの主人公のようなものだという話。少女が運命の相手に出会うために奇跡を待つのは、逆に言えば奇跡なしには出会いが存在しないということであって、そこには極めて近代的な「ディスコミュニケーション」があらわれている、とか。
私は正直、講演の内容自体にはこれといった感想を持てなかったんだけど、にもかかわらず彼女に対する印象は大きく変わった。
松井さんの文章は、中二病的だ。見た目には間違いなく中二の文章だ。でも、彼女がそういう文章を書く理由は、いわゆる中二病とは大きく違うんじゃないか。講演を聴いてるうちにそう思えてきた。
全力でカッコつけて(実はカッコ悪い)文章を書き、しかもそのカッコつけた自分に酔っているのは、自意識過剰の中学生だ。
一方、松井さんは、無理やり日本語をねじまげて珍妙な言葉づかいをすることを、ある意味でむしろ強いられてるんじゃないか。そうでもしなければ、彼女が何を言っても「美女の言葉」として消費されてしまって、結局何ひとつ表現することができなくなってしまうんじゃないか。
彼女は、整った顔立ちの、いわゆる美人だ。私は、平たく言えば、「どこかで過剰に武装しないとなめられてしまって、男と対等に見てもらえない、それが嫌なのかもなあ」、と思った。感覚的な話だけど、堅苦しい言葉をたどたどしく話す彼女を見ながら、思ったのだ。
彼女は講演の中でも「メスしか描かない」と言っていたし(尾長鶏はオスだけどドラァグクイーンのイメージなので名誉女性と考えているとのこと)、ネット情報によるとフェミニストの上野千鶴子さんのファンらしいから、性に関する問題に強い意識を持っているのは確かだろう。
ただまあ、こんなふうに分析されるのは、たとえこの分析が実情を言い当てていたとしても(いやむしろ言い当ててていればこそ)、松井さんの立場からすれば不快以外の何物でもないだろう、とは思う。
残念ながら私には、松井さんの作品自体をフェミニズム絵画として論じるだけのモチベーションも能力も無いけれど、そういう見方もできるのかもしれないね。というかできるんだろうね、間違いなく。
長くなったついでに一つ。
私見では、松井さんは「言いたいことが山ほどあるけど上手く表現する技術がない人」だと思う。だからあんなに自作解説をしたがるのだ(いまネットで少し松井冬子評を探してみたら、彼女の自作解説にヘキエキするという人は一定数いるようだ)。 結果、彼女のファンは、「よくぞそれを言ってくれた!(技術はともかく)」というタイプの人と、「グロテスクな絵を描いて、博士号を持ってる、美人すぎる日本画家! おもしろい!」というタイプの人に分かれることになる。あとまあ、「幽霊大好き!グロ大好き!」という人もいるのかもしれない。サブカル?
私自身は、特に彼女に同調するわけでもなく、外見や肩書に魅力を感じるわけでもなく、幽霊が好きなわけでもない。そして彼女の文章を容認できる忍耐力もない。
就職活動で、クレジットカード業界(JCB・三井住友VISA・三菱UFJニコス)の説明会を受けて思った。
どの会社も、クレジットカードの利点は現金より「便利」だと言う。
でもクレジットカードって便利か?
店舗だと、クレカで払うたびにサインしなきゃいけないし、現金で買うほうがよっぽど便利だ。
正直、現金とクレカ両方で払えるなら現金で払うほうがよっぽどよい。
多分これが日本の貨幣の取引率のうち、クレカでの支払いが15%程度にとどまってる原因だと思う。
スーパーでの雑貨の購入や、ラーメン屋での飲食程度にクレカ使わない人が多い。
これからカード会社は、クレカでの支払い率をあげてゆくべきだと思う。
今までのように「便利」を押し出してもクレカでの支払い率は高くならないだろうし、別方法を考える必要がある。
例えば、クレカの支払いという価値観を「便利」でなく「当たり前」にしてしまってはどうだろう。
クレジットカードで支払うことが当たり前で、現金で支払うことは野蛮であるという価値観を蔓延させる。
ドラマのスポンサーになって、ドラマでの支払い方法はすべてクレカにする。(ついでに支払いシーンも無意味に入れまくる)
とにかく現金で支払うことはスマートじゃなく、クレカで支払うのはかっこいい、といったイメージをメディアを通して植えつける。
中年層は既に現金での支払いになれてしまってるし、一度得た価値観は代えづらい。
そして、若年層向けのクレカを作る。支払い限度5000円とかそんなおもちゃで十分だ。
彼ら若年層は、それをきどって使うだろう。
彼女とパスタを食べたときなんかに、ちょっと背伸びをしてカードで支払う。
なぜならクレカで支払うことはかっこいいからだ。サインを求められることはかっこいいからだ。
一度クレカでの支払いになれてしまえば、不慣れな現金の支払いに戻ることは考えにくい。
もちろんかっこいい価値観の普及に合わせてクレカでの決済機能も店舗に普及させる必要がある。
クレジットカード会社は、「クレカを持つこと」を当たり前にしたのだから、
某サイトに掲載されたコラムが発端となり、ブログ・SNSに飛び火し、基本的に若者は恵まれているというスタンスで進んでいる論調。
現在の社会はインフラが高度で合理化され、過去の自分たちが費やした苦労や時間とは比較にならない容易さで、クリック一回で実行できる社会。
そこで高い代償を支払わずに、ゆるい連携を持って生活する若者は恵まれている、しかし熱が感じられないので、過去の経験から「夢」と「積極性」を持つことをアドバイスする。
という点、過去は苦労したが未来は明るいという楽観的な先入観はもう通用しない時期に来ているのに、発展した未来のインフラや生活様式に気を取られ新たに発生した問題が見えていない。
見えていないというより「更に発展した未来で解決可能」又は「過去の苦労に比べればやさしい問題」と考えているのでしょうか。
社会基盤が発展すれば、価値観や生活水準が変わりますと言えば、誰もが同意するでしょうが、負の発展(規模の縮小)は誰も経験していないのです。
例えば90年代まで若者のアイテムとして誰もが持っていた車、車離れが叫ばれて久しいですが、都市に住んでいる若者における車の必要性が低下し、代わりに携帯電話とPCを持つようになっただけです。
しかし車の購入・維持に比べれば遙かに購入が容易な端末なのに、PCを持っていない人が大勢いる。00年代初頭における我が国のITインフラ整備率は世界一位ですが、現在は目も当てられない状況です。
PC購入するだけの収入がない若者は携帯で何をしたか、現在ではスマートフォンでかなり情報収集が便利になりましたが、ガラケーと呼ばれる国産端末におけるネット探索能力は前者と比べると劣悪で、利用者は検索エンジンで何かを調べるというより、遙かに狭い範囲でしか活動できなかった。新聞も購入していない、TVも見ない、社員として収入が確保できる30代以上は例え不慣れでもPC位なら即金で購入する事が出来るので、ある程度のリテラシーを培う事が出来ますが、その機会さえも与えられていない。結果情報を持つ人と持たない人の間の格差が広がる。所得が低くなっても相対的な幸福度は昔より高いという人は、かつての新聞とTVから情報を得ていた経験から言うのでしょうが、インターネットで必要な情報を素早く調べて理解するというのが基本となった世の中で、流動的な情報ニュースより固定化されている公的・私的な各制度のアクセスにおいて絶望的な差が生まれている。利益が1与えられるか99与えられるかの差でなく、0か100かの差で生きなくてはいけない。この問題に最初に晒されたのが現在の20代後半。
今の大学生はPCを所持することを半ば義務化されていますが、業務で使用できるレベルでOfficeを使えると認定される資格を持っている人は、2割居ないでしょう。ですが、職安に出されている求人のほとんどはOfficeを最低限使える人間を求めている、でも資格を取れるレベルで教えてくれる高校や大学はほとんどない。高卒は自力で学ばないとスタートラインにさえ立てない。しかし採用基準は厳しくなったのに、現在働いている社員になんら教育を施さない、Excelで文章作成する事の何が悪いかのかさえ分からない。
収入は、小泉改革以降合理化され、事務職は派遣で構成され収入は捨扶持レベルの15万円程度、それでも仕事があればマシと言えるかもしれませんが、今後は労務環境の国際化によって事務職そのものが国外に外注されるのは確実。そして発生する人口減による国内市場の縮小、70年代に隆盛を誇った着物業界の現状の様な事態が各分野で発生するでしょう。
中年が考える未来は必ず発展し、解決されうるものとして存在していますが、今後の日本が進む道はその真逆としか言いようがない。中流のホワイトワーカーは営業を除いて全滅し、高所得者は移民の導入を要求する、対して単純労働者は仕事を取られまいと反対に回る、すでに同じ事が発生している会社もあるでしょうが、これが社会全体で常識となるのに何十年もかからないでしょう。
更に合理化され、余計な費用を払わずに生活できる世の中、しかし収入は少ないのに、最低限のインフラをそろえないと就職さえままなならない世の中、企業では仕事を一から教えてくれないので、自費で各種の専門校に通い勉学する日々、収入のすべてをつぎ込んで遊びなんて全くできない20代、当然お金が足りないので脛を齧れる人は脛をかじり、齧れない人は何年もアルバイトをして費用を捻出して、職歴なしというハンデを背負い戦う。大人は新卒ですぐ就職することが全てでないと高説を垂れるが、そんな人間を雇う気は無い。
昔あった問題と今の問題、問題という意味では等価値で、その大きさは当人には判別できない。過去にとらわれているのはどちらだと。
戦前に生きていた人達は、次の世代に多くの機会を与えましたが、その世代は次の世代に機会を与えない。というのは言いすぎですかね。
みんなとっくに知ってるだろうけど、レコーディングダイエットって、ほんと効果的だな。
ちょっぴり体脂肪が多いぐらいでBMI 22.5前後の中年だけど、ジムで定期的に運動してるのに全然体重が落ちなくて運動に対するモチベーションがちょっと落ちてきてた。で、先月位から試しにレコーディングダイエットを試してみたら、簡単に体重が落ちて、しかもリバウンドしなくなった。
記録してはじめて気付いたけど平日は何となくお菓子を食べていることが結構多くて、だいたい毎日200〜500kcal分位食ってた。これだけで一月4000〜10000kcal位。運動はだいたい週に1000kcalもいけばいい方なので、差引一ヶ月で、良くてトントン。だいたいはオーバーしてるので、そりゃ体重も体脂肪も減らないよなー。定期的に体を動かしているから安心しちゃってたけど、毎日食べても問題ないほどは運動してないのに気付かされた。
レコーディングダイエットをはじめてからは、カロリーがよくわからないものは調べるのが面倒なので、結局今ではほとんど間食しないようになった。
大きく分けて理由は二つ
②話の信憑性を第一に疑うようになったこと
①について。
何年も前に流行ったネタが再度新たなものとして発表されるのを目にする機会が増えた。
スルーすればいいのだろうが、目について煩わしい。
②について。
「完全にネタです」「フィクションです」という話以外に対して、まずそれは本当に起こりうるだろうか?
そして「ここがおかしい」「納得できない」と思うと、こいつはアクセス数か注目を浴びたいがために嘘をついているな、と勝手に心の中で敵対心を持つようになってしまった。
また、ネタやフィクションに対しても、「整合性が取れてない」「矛盾している」というような粗を探すようになってしまった。
①、②に両方当てはまる例がこれ
電車のホームで萌えー!萌えー!と叫ぶ中年男性。 やばい奴だなぁ、だからオタク気持ち悪いって思われるんだよ。と、思っていたら階段からパパー!と言って駆け寄る小さな影。 全く自分の娘に向って萌だなんて、なんたる幼女好き!!自重してほしいものです
これは2chのコピペで、「店内で『萌え』と叫ぶおっさんはこの世から消えればいいのにとか思ってたら、その人は娘の名前を呼んでただけでした」というコピペがある。
何度も見たコピペの改変版。←①
で、Twitterでつぶやいたってことは、そう言うシチュエーションに実際にあったということなんだろうけど、それは普通ありえない。
発音が人名の「萌え」は尻下がりで、オタクの「萌え」は尻上がりとあきらかに違うだろうに。←②
自分にとって止めどきなのかもね。
「年を取ったらゴミ」という価値観と「子供産んだら女神」って価値観がセットにならないと、女は子供産まないと思う。
今は「年を取ったらゴミ」+「子供産んだら社会のお荷物」って価値観がセットになってて、その結果として、
女は「成熟しない」という戦略を取ってるんじゃないんだろうか。
職場で冷遇されても、実績挙げてりゃ首は切られないよ。
年を取った女がゴミだったら、そもそも旦那が嫁を養うモチベーションもわかない。
甲斐性ある男は若い女にもモテるわけだから、多少の慰謝料と養育費払っても若い女を取るでしょ。
そしたら子どもなんていても再就職の妨げにしかならないわけだし、リスク高すぎるわ。
婚活とかいってやたら高い条件あげてる人は、ほんとは結婚も出産もしたくないんだと思う。
日本男性の場合(略)共働き母なら当然の家事育児の2割程度やるだけでも、父親は絶賛されるのはなぜか。
ひとつの推測に「性別役割分担を超えて頑張っているから」というのがある。男性は本来、家の中のことはしないのに、やっているだけで偉い、と。
ズレている。
何故なら、専業主婦である私も「家事育児を頑張っていて偉いね」と時々褒められるからだ。
(但し褒めるのは中年~年配女性だけで、若い女性や男性から褒められる事は無い)
「家事育児=皆やりたくない、嫌なこと」「仕事=皆がやりたがること」であると言う認識があるから、
(勿論これは一般論であって、個々で見れば家事育児をやりたがる人も仕事をやりたがらない人も居るだろうけど)
「嫌なこと」をやっている人は褒められて、「皆がやりたがること」をやっている人は褒められない。ただそれだけだよ。
「性別役割分担を超えて」だの「母親は家にいるべき」だのは関係ない。
「嫌なことを我慢してやっている人は偉くて(それ本当に「偉い」のか?と言う突っ込みは置いておく)、
皆がやりたがることをやっている人は別に偉くない」だけだ。
私が中年~年配女性からだけ褒められるのも、中年~年配女性の多くは自分も嫌々家事育児をやっているから他人も同じだと思うんだろう。
若い女性の多くはろくに家事をやっていない&勿論育児もやっていないから、それが「嫌なこと」であると言う認識がまだ無いし、
男性は「女性は家事育児を嫌々やっている」と言う発想が無いんだろう。
働く母も、皆がやりたがらないような仕事をしている人であれば褒められるよ。
この人結構なキャリアウーマンだし、自分は勿論周りにもそういう仕事をしている女性が居ないんだろう。
皆がやりたがるような仕事をしている人が「偉い」と言われないのは当たり前だ。男性だって言われないわな。「凄い」はあっても。
通学路を横に広がって歩いていると、 近所の人から学校へ通報される。
虫が出ると授業一旦中止のお知らせ
持ち込み禁止のケータイが鳴った時のクラスの団結力は体育祭以上
バレンタインは何も起きない
若い女性教師は遊ばれ
おばあちゃん先生は可愛がられる
男子校出身者の笑い方全力手を叩く
夏場は上半身を曝け出す生活先生にみっともないからやめなさいと怒られる
中身はおっさん
座ってる男子の膝の上に座る座る方も座られる方もリアクションなし
かっこいいのに頭おかしい子が多い
ホモは絶対いる
同年代の女子から悪影響を受けずに「健全に育ってほしい」という親の願い から送り込まれるが、女子の目が無いのを良いことに色んな事を色々サボる。
結果、共学の男子よりもガサツで大胆になる
テスト内容を吐かせる
ちんこ揉まれる
先生の雀荘巡回が多い
暑い日は下敷きぱたぱた
先生より偉そう
後輩に惚れる
基本的に彼女ができない
共学に行ってみたかったな?って
言うけど心の中では結局男子校で良かったと思っている
授業うけたくなくて、先生の3分で終わる小話を50分引き延ばすクラスの団結力は異常
男子校出身です。って言ったら 「男の子じゃん」って必ず言われるが、 実は八割型オッサンしかいない
着替えるときは窓まで開けっぱ
変人率高め
チンコが透けても気にしない
更衣室?なにそれ
自分専用ティッシュ箱を持ってきて、授業中にしてオリジナリティーを出す
意外といじめがない
共学の男の子に「男子校ってこわい」 と言われるけど、正直共学の方がこわい
こんなところです。
男子校に夢を持っている人は諦めてください。
男子校に通ってる人は楽しく過ごしてください。
女は「女」の言葉自体に頭や体力のイメージがないからじゃないのでしょうか?
女性が「私は男よ!」と確認しながらテストした結果が気になるところ。
今の高齢既婚女性は家事をするのが当たり前の世代で、定年後働かない男性との生活はただだだ面倒だもの。
死別でも離婚でも子が無くても、金があって悠々自適なら良いよね。
でも子供も無く一人で死ぬのはやはり辛いんじゃないかな・・(そういう展望を女性はアラフォーくらいで一度考えるんではないだろうか?と思う)
年齢に限らず独身だと早死にする統計結果があったとしても、こちらの議論とはどうコミットするんだろうかと思うけど・・。
おばさんはそれほど「女」に固執していないし、男を必要としているわけではないと思うよ。
いや、してるよ。男性の言う「女」ではなく、体機能としての女性は実感として嫌でもある。
閉経ってその後の体調管理にもかかわってくるし、子供が産めなくなるって事はとても大きな人生の節目だよ。
オバサンがオバサンとして納得していく過程は曲がりなりにも必ずある。
そうでないと自分の事「おばちゃんねー」とは言えないよ。
また自分でおばちゃんと言ってても、誰かにおばちゃんと言われたら嫌なもの。そういう人は、絶対自分の中に「女」がいるはず。
悪いけれど人生に男は絶対必要ではないですよね。ただ男がいないと子供が出来ないのでそういう意味では必要。
最初に言っておくと、私は中学生でも高校生でもない。大学生だ。もひとつ言うと、ハタチもとっくに過ぎた大学院生だ。
なんだけど、将来を思って動けば動くほど、「大人になりたくない」という今更な幼稚な悩みがどんどん大きくなっていく一方だ。
楽しく人生を過ごしている自分が見えない、というのが唯一で最大の原因。仕事に追われてプライベートの時間がどんどん削られて、仕事から帰ってきたらてきとーにネットみて寝るだけ、休日もやりたいと思っていることは一杯あるけど寝て体力を回復するのを優先させてしまう。そんな姿が容易に思い浮かべられてしまい、このままでいたいと願ってしまう。
身の回りやTwitterなんかを見ていると、大人も大人なりに今を楽しんでいるように見える。楽しいことがひとっつもないなら、きっとみんな生きていけないはずなので、もちろん大人でも楽しいことはあるだろう。けれど、昔ではなく今が楽しいと言う人はおらず、あの頃がよかった、昔の方が楽しかった、と言う人ばかりのように思える。きっと自分もそう思ってしまうんだろう。
とすると、大人(社会人)になるより大学生の方が楽しいっていうんなら、やっぱり大人なんかになりたいと思えない。今のままでいたいし、今にしがみついていたい。
「楽しくなくてもいきていかなくちゃないんだ。みんなそうやって生きているんだ」と言うかもしれないけど、それを否定しているの。それが嫌だって言ってるの。そんな社会おかしいじゃん。そんな社会になんて出たくないよ。
でも、そんなことはできるはずもなくて。できたとしても、それは「社会不適合者」でしかなくて。
だから私は、まあ、大人になるしかないんだと思う。これは仕方ない。今は、大人か社会不適合者かのどちらかしかないんだから(違う道もあるにはあるが、それは才能か運に恵まれた人しかなれないものすごく狭い道でしかない)、私は大人になるんだと思う。とっても嫌だけど。
今の私たちには、楽しくない大人になるしかまっとうでいられる道は提示されてないんだから。
でも、できるなら。できるなら、私たちよりも後に大人になる人たちには、こんな「楽しくない大人なんて」って思って欲しくない。今の私たちではダメみたいだけど、これからの人達にもそういう思いはして欲しくない。こんな思いをする人なんて絶対少ない方がいい。
だから、私は、大人になるしかないんなら、「今が楽しい」って言ってあげられる大人になりたい。
一番だとは言えなくとも、「今が(今も)楽しいよ」「だから安心して大人になっていいよ」って言える大人になりたい。
狭い窓から社会を覗いてみているだけだから、これから実際にどうなるかわからないけれど、今の情勢やそこから推測される未来を考えると、きっとこれからの人たちは私たちよりもさらにつらい世の中を生きていかなくちゃなくなるんだろうと思う。
そんなつらい世の中で、さらに楽しさが少なくなる大人になりたいだなんて、だれが思えるだろう?
すくなくとも、私は無理。今でだって躊躇しちゃうもん。絶対無理。
希望持てない上にさらに辛くなるっていうんだから、そんなの逃げるしかないじゃん。最悪(究極的には)死ぬしかないじゃん。
だから私は、そういうこれからの人達のために「今が楽しいよ」「安心して大人になっていいよ」言わなくちゃないんだと思う。言えるような生活をしたいと思う。
ここで改めて言っておかなくちゃならないのは、私は未来に希望を持てないでいる、ということだ。失望と言っていいと思う。
世の中をよくするためには、世の中を悪くしないためには、これからの人たちのためにはどんなことができるんだろう、ということを考えた時に、失望に失望を重ねて、撤退線を繰り返した結果、私個人でもまわりの10人くらいの人達のためにすぐにでもできるだろうと思ったことが「今が楽しいと言うこと」だった。(これを読んでいて「どうしてそうなるの?どうしてそれしかないの?」と思われたところがあるかもしませんが、それはこれに起因することではないかと思われます)
どんな職につこうが、現在の世の中やこれからの世の中に対して自分ができることなんて、きっとたかがしれているんだと思う。
少なくとも、大規模な改変をするには数十年かからなきゃできないだろう。現在の生活水準にしがみつこうとしている中年以降の人々の抵抗もあるだろうし。
大人にならなくても多くの人が社会不適合者にならずにすむ道を作るのは、他の人に任せたい。
政治的、または社会的システムを改善させるのも、他の人に任せたい。
経済をうまく回していく仕組みを作るのも、他の人に任せたい。
技術的な面で世の中をより生きやすくするのも、他の人に任せたい。
歌や小説や漫画やアニメや映画やスポーツや、というような大くくりでの「エンターテイメント」でみんなの心をなぐさめたり希望を持たせたり楽しませたり癒したりするのも、他の人に任せたい。
こういうのは、結局(ちょっとタイムリーなアニメのことばをつかうと)「きっと何者にもなれない」自分には多分無理だから。そういう人になれるという夢は、もうない。
そんな矮小な自分でもできることが、多分「今が楽しい」って言ってあげることなんだと思う。
少なくとも、私がまわりの「何者にもなれなかった」大人たちにして欲しかったこと、言って欲しかったことがそうだったんだと思う。まわりの大人たちみんながそう言ってくれていれば、こんな風に社会に出ることにおびえなくてすんでたはず。
これからの世の中に対しては悲観的だけど、それでも楽観主義者でありたい。
「昔も楽しかったけど、今もちゃんと楽しいよ」「多分きっと、これからも楽しいよ」「だから、君たちも安心して大人になっていいと思うよ」って言ってあげられるようになりたい。
だからというかなんというか、その、感情が爆発しそうになって勢いで書き始めたから具体的な方法なんて考えて無くて、さらにどんな展開と締め方にするかもまったく考えていなかったので、論理性がない上にこんなオチになってしまうのは我ながら不服なんだけど、
おハロー。
聖おにいさんはオサレというのよりサブカル臭。それも悪いタイプの。
http://anond.hatelabo.jp/20081210172325
とても根が深いサブカルミーハー問題。『このマンガがすごい2010』を読んで。
http://anond.hatelabo.jp/20091216230059
「このマンガがすごい!」は罪深い延命装置。もう犠牲者を増やすな!!
http://anond.hatelabo.jp/20111224192828
を書いたぼくだよ。みなさん自意識丸出しでごちゃごちゃ言ってくるんで、胸焼けするぐらい非常に切ない気持ちになりました。なんというかもう……。
「かわいそうだね?」
って言葉しかでてきません(おっと、つい芥川賞受賞作家ネタが飛び出しちゃったよ。やべー、まさかここで芸術に携われる人間だったら絶対にチェックしておくべき、芸術を理解できないやつは興味ないふりして精神防衛していることでお馴染みの芥川賞のネタが飛び出すとは、俺のセンスパねえ)。
はてなブックマーク、およびツイッターの皆様がたは心のホメオスタシス機能をフル稼働させて自分の殻に閉じこもっちゃっていますね。みなさん図星を突かれたことを必死に隠そうとしていますけど、何で等身大の自分を直視できないのかねえ。
「格好をつけないことで、格好をつけている」
「「ホメればセンスいいと思われる記号」を批判すればセンスいいと見られると思ってる人の典型的批判」
やれやれ。春の熊に全員屠殺してもらいたいよ(センスある村上春樹ネタ)。
ぼくはきみたちの断末魔の叫びで心が汚れちゃったんで、ストラヴィンスキーを聞いて洗い流していました。グッドなアートはエバーグリーンな輝きでディ・モールト・ベネだね。
ということで、本題。反応を見ていると、ぼくが批判したい対象がイマイチ伝わっていないようなんで、ここでまとめて表明してみようと思う。
これ以上、この惨状を放置しているとホント取り返しのつかないことになるからね。砂漠に水を与えるようなものだけど、何もやらないよりはマシ、かな……。
きみらの軽い脳みそでも理解できるように4つに大別してあげているから熟読してほしい。2010年代はこういう奴らをいかにカルチャーシーンから排除するかにかかっているので、宇野常寛さん、荻上チキさん辺りは参考にしてほしいね。東浩紀さんは河原で石でも積んでてください。
では、いきますよー。
「ボンクラ」なんていう安っぽい価値観で連帯して、「中学生マインド」なんていう恥ずかしい心性を至上価値にしちゃっている一派。やっていることはひよこのオスメスの仕分けみたいなもん。ライムスターの宇多丸や町山智浩辺りが「いい」といったものを「味方」と見なして手放しで褒め称えて、けなしたものを一緒になって叩けば、「センスあるポジション」にいられると思っている。
「売れてる邦画はテキトーに叩いておけばおk」みたいな頭からっぽな行動も平気でしちゃう。そんで周りも見てもいないのに賛同しだすから目も当てられない。
中身をまともに分析しないで「大沢たかおが出演しているから、これはクソ映画だ」みたいな論理で動いていて、そんで「バカな大衆」と「審美眼のあるセンス抜群の俺」という謎の対比をしだすんだよね。「なぜこういう内容の邦画がいま売れるのか」なんていう深遠なトピックに触れることは一切ないし、考える頭もない。
自分の物の見方だとか価値観だとかが一切抜け落ちた、ゾンビみたいな奴ら。サブカル年長者の金魚のフンをやることに、羞恥心の欠片もない。「独自な物の見方をする人間」についていけば、「独自な物の見方をする個性的なわたし」が出来上がると思っている。
彼らの反応は非常にわかりやすい。ちょっと宇多丸のラジオを聞いただけで、習性がまるわかりで、「ああ、この映画はこいつら叩くだろうな」ってことがすぐに判別可能になる。その分かりやすさが蔓延の原因だといえよう。映画リテラシーがないのに、センスいいと思われたいやつらの格好の逃げ場になっている。
そんで、こういう奴って美意識がないから恥ずかしげもなく部屋に映画のポスターをべたべた貼って、ダサいバンドTシャツを着ていたりするんだよね。それでいて、オシャレに過剰なコンプレックスを抱いているから、「無理してオシャレしているやつは上辺だけの中身のない単なるカッコつけで、ちょっとダサいくらいの自分が本当は一番センスいいんだ病」にかかっていて非常に厄介。自分のダサさまで理論武装しなきゃ生きていけないなんて、ほんとに可哀想だ。
この病気を完治させるには映画について語りだすたびに「それ、ウィークエンドシャッフルで宇多丸が言っていたことだね」って言い続けるしかないと思う。「あ、その映画、町山智浩がキラキラで紹介してたやつか」、「昔、みうらじゅんがその映画をネタにしているのを見たことあるよ」でも可。
「人生で大切なことは、すべて伊集院光のラジオから教わった」とか真顔で言っちゃう恥ずかしいやつら。
映画秘宝系との違いは、映画を見たりする気力も何もなくて、横になってラジオを聞くぐらいの体力しか残されていないのに、自分が第一線にいることを疑わずに最新のカルチャーを必死に否定してくる。「最近のアニメって萌えばっかりで中身がないよね」って見もしないくせにしたり顔で口を挟んでくるのがこいつら。
自分が中年化し、ついていけないことを認めることができなくて、漫画やアニメは伊集院が褒めるものだけが絶対だと思っている。『わたしは真悟』だとか『アストロ球団』だとかね。
映画秘宝系はまだ自分の足で作品を鑑賞しようっていう根性があるけど、こういう奴らにはそれすらない。平気でCMカットのMP3音源を違法ダウンロードして、「やっぱり伊集院さんって聡明だよなあ」なんてアホ面下げてる。その続きはもちろん「本当に頭が良い人って伊集院さんのことを言うんだよな。やっぱり人は学歴や職業じゃなくて、物の見方で頭の良さが決まるんだよな~」なんて考えいて、「ダメな自分は本当は感性が鋭くて、周りのくだらない奴らよりもずっとずっと頭がいいんだ!」って泣きながら自己肯定をしている。
もうなんでもあり。
こういう奴らのためにはっきり言ってあげるけど、「感性」っていうのは行動で示さなきゃ形にならない。布団のなかで自分を慰めるための感性だなんて、ありゃしないよ。ゴミクズよ、もうよせ、こんな不毛な自己肯定は。
「センスがいい」というタグを貼られた商品を必死に買い集めて、なんにもない空っぽな自分を必死にデコレートしようと頑張っている。ビレバンに下駄を履かせてもらわなきゃ、外を歩くことすらできない可哀想な人。自分がビレバンから与えられる餌を食べているだけの家畜だってことに気づけない。
こういう奴がセンスいいと思われたい一心でカルチャーシーンを引っ掻き回して、むちゃくちゃにしていく。「このマンガがすごい!」で上位に入る漫画が悲惨な犠牲者なのは、前の記事に書いた通り。
なんにも作り出せない、作ろうともしないくせに、必死に消費物で「ぼくちゃん、クリエイティブなんだじょ!」とアッピールしたい厚かましい愚鈍なマリオネットたち。
こういう奴には「お前、ひょっとして浅野いにお漫画の登場人物を気取ってない?」って聞いてみよう。ズレてない眼鏡を何度も押し上げながら、「き、きみぃ、いにお漫画はね、単なるセンチメンタルじゃなくて実験的な手法にも取り組んでいて云々」って聞いてもいない作品論を震えながら語りだすぞ。
さらに「そのボブ、もしかしてつぶやきシローをリスペクトしているの?」って言ったら卒倒しちゃうので注意。
もし友人にこの手合いがいたら適度に自意識を潰してあげて、「やっぱビートルズが一番だよな」ぐらいのレベルに留めさせてあげるのが吉。弾けもしないのに部屋に置いてあるギターは、親切心で河原で燃やそう。
そう、お前らだよ。お・ま・え・ら☆
はてブやツイッターなどの安全圏からお手軽に一言批判して、「ふふ~ん、ぼくちゃん、こいつらよりも頭がいいもんね~。見てみて! ぼくこの人否定しているよ!! こいつより頭いいんだよ!! ほら、見ろよ、もっと! 見ろっ、見ろぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!!!!」と汚い欲望を身体中の穴から漏らしている。
文字数制限を盾にして根拠もなにも示さずに、自分の頭で否定できる一文をなんとか見つけ出して、「やれやれ。きみはなんにもわかってないね」とただ否定するだけ。熟議に何の貢献もしない、耳を汚すだけのノイズ。
大抵のバカなネットユーザーは脳の大部分が「最新情報の暴飲暴食」でスカスカになっているため(俗に言う「グルーポンおせち状態」)、比較検証なんていう基本的なこともできない(本人は「できない」とすら気づいていない。そこを突かれると「時間がないから」「忙しいから」と言い訳して、何も届いていないメールボックスをチェックしだす)。だから、「最後に勝利宣言をした人間」に説得力があると思っちゃう。
このような「つぶやき批評家(気取り)」と「情報ジャンキー」はまとめてネット中毒矯正院にぶち込むべきですね! そこで『アルプスの少女ハイジ』でも見せて、少ない情報をいかに咀嚼するかを学ばせたほうがいい。こいつら、醜く太っていることが勲章だと思っているからさ。
以上、今すぐカルチャーシーンから撤退すべき害毒な消費者4タイプでした。こういう奴らが蔓延っちゃったのは「個性が大事」という間違った教育と、「作品の解釈は受け手が決める」なんていう甘やかしの成果だと思う。
確かにある程度の解釈は読者に任されるだろうけど、それを理由に笑っても怒っても何しても構わないなんてことはない。それだとスタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』を見て、原子力礼賛だと思っちゃうようなことを許してしまう。
ぼくのような高い視座に立てているクリエイターって本当に少ない。名前を挙げるとしたら、映画監督の紀里谷和明か、小説家の岩崎夏海くらいか。
特に岩崎夏海の『「小説の読み方」の教科書』は上記であげた連帯のためだけや、センスいいと思われたいだけに消費する行為の解毒剤として最適なので、みんな読みなさい。早く読まないと、時代に取り残されちゃうよ。2010年代のクリエイターズ・バイブルだね、この本は。
みんなもうさ、中身のない自分を無理やり肯定するためにアートを利用するのはやめようよ。空っぽな自分を直視して、中身ある人間になるために努力するべきじゃない? ソクラテスもプラトンも、みんなそうやって大きくなっていったんだよ。