はてなキーワード: わずとは
クレームに正しく対処するためには、そのクレームに対して「正しく恐れる」ことが大切になる。
恐れかたは、少なすぎても、多すぎても、トラブルを生む。正統なクレームに「毅然とした対処」を行うことはトラブルを生むけれど、ちょっとしたクレームに対して大きすぎる反応を返すこともまた、同じぐらいに間違っている。クレームを恐れることは大切だけれど、必要な大きさだけ正しく恐れて、恐れた大きさに見合った対処を行わなくてはいけない。
同じ不快の表明であっても、それが技術者の人格や、現場の対応に対する不快なのか、あるいは技術者の技量や開発方針に対する不快なのかで、対応は異なってくる。
技術者の人格や対応に対する不快が表明された場合には、まずはその不快に対して謝意を表明しないといけない。不快に対して最小限の妥協を遅滞なく行った後、「その状況を維持します」と表明するのが正しい対処になる。不快を突っぱねれば間違いなくトラブルになるし、こうした不快に対して大きく反応しすぎると、今度は開発ができなくなってしまう。
技術者の技量や、開発方針に対する不快が表明された場合には、一切の妥協してはいけない。開発者は常に「ベストを尽くしている」ことが前提であって、ここで妥協を表明することは、開発側が「ベストを尽くしていなかった」と受け止められてしまう。開発側は常にベストを尽くしており、それに対して不快や不安が表明されたのなら、その人と交渉を続けることは間違いなくトラブルに結びつく。開発に対する不快が表明された際には、速やかに他のソリューションを当たってもらうように誘導しなくてはいけない。
進捗の説明や、開発それ自体に関する説明は、丁寧に行わなくてはいけない。進捗自体に関する説明は、それがどれだけ面倒であっても必ず有限で、丁寧に対処すればいつか終わる。際限もなく終わらない可能性にいらだってしまうと、相手を不快にしてしまう。たとえばデスマプロジェクトを5つ受け持てば、炎上の話を5回繰り返すことになるけれど、これは我慢して同じ話を丁寧に繰り返さなくてはいけない。
何らかの譲歩を求めて、「とりあえず不快を表明する」タイプの人は難しい。不満が無くても瑕疵を探索するし、瑕疵を見つければ譲歩を求める。どこに突っ込まれるのか予測できない。譲歩を求める相手に対して心がけることは、一刻も早い「妥協の表明」になる。「特別扱いしろ」という相手に対して、「特別扱いをさせていただきます」と速やかに表明してみせなくてはいけない。ごくわずかだけ下がってみせることで、相手の瑕疵追求の意志が和らぐ。下がりながら応対して、その後また元の場所に戻る。下がり続けてはいけない。追い詰められてしまう。
自分の現場ではやっていない、あるいは不得意な開発について、客先担当さんやマネージャから「この開発手法はできないのですか?」と問われた場合には、「できません」と答えなくてはいけない。「それはよくない手法です」とか、「やってやれないことはありません」といった答えかたは危ない。
やっていないことに詳しい人は少ない。詳しくないことに対して、開発者が「専門家の言葉」としてあやふやな感想を述べてしまうと、言葉が一人歩きをはじめてしまう。もしも何かのトラブルに巻き込まれてしまうと、そうしたあやふやな感想が、「あの開発者はプロダクトを囲い込んで開発工数を奪った」といったトラブルの種になってしまう。
情報工学の範囲を超えた、精神論を強く希望するお客さんと話すときにも、注意すべきことは変わらない。自身がどれだけ情報工学に詳しくても、対峙する精神論がどれだけいい加減なものに見えても、知らないことに対して git push する人間があやふやな感想を述べてしまうと、将来的にトラブルを招く。「自分はそれに対してこう考える」を述べる際には、「これは個人としての感想ですが」のような前置きを入れて、技術者としての立場を明示的に遮断してから「こうだと思います」を表明しなくてはいけない。
相手を怖いと感覚した人間は、相手に「恐ろしさに見合った賢明さ」を期待してしまう。それがトラブルの種を生む。
原因がよく分からないトラブルに対応した担当者は、分からないその状況を、恐ろしいと感じる。「恐ろしいから」バグレポートを上げる決断をためらって、「この問題はマジやばくなったらだれかが見つけてくれるだろう」と、自分以外の人間にある種の賢明さを期待する。結果としてシステムは、「専門家である技術者」から端末を切断されて、書かれたコードを信じて、状態が悪くなるまで通常に稼動してしまう。
口うるさいお客さんのマネージャが視察したときなどは、「あの人と喋るのは、資料がちゃんと揃った後日にしよう」という思いが頭をよぎる。口うるさいマネージャは、同時にたぶん、もっとも大きな不安を抱えた人でもあって、不安に対する対処を怠った結果として、取り返しのつかないトラブルを招くことがある。
技術者が厄介な状況を感覚したそのときに、技術者の感覚はすでにいびつになっている。危ないと感覚したそのときには、だからむしろ危ない何かに近寄る態度で対処を行うと上手くいく。
なんで今回の判決「以前」を論じるんだよ、苦しい奴だなあ。
出所者は確かに減る。わずかだが確実に。
というのも、出所者が減ることを喜ぶ心理は、実は被害者のものではないのではないか、と考えられるから。
これは被害者の「出所という選択肢がないことで救われる」という心理とは端的に質を違えている。
これは「近所に刑期を終えた凶悪犯罪者が来るなんてイヤだ」という外野の心理である。
心理としては理解できないでもない。いち外野の同類としては。
しかしそれを元増田のように、「極めて当然の感情」とまで拡大するのは問題があると考える。
外野の感情は外野の感情だ。外野の数が大きいということは感情の妥当性普遍性は担保しない。
被害者とその関係者、加害者の関係者が完全に置き去りになっている。それでは「当然」とまではとても言えない。
現に外野は「出所者が減る」ということをイコール死刑囚が増えるという風に捉えすぎる。
出所者を減らす方法は少なくとももう一つあって、そもそも入所したり裁判にかけられたりするような事案の発生を防ぐという発想があってもいいし積極的に実行に移すべきなのだが、「近所に犯罪者が来なければ何でもいい」くらいの大部分の外野はそこまで心が回っていない。
「ウチの近所にはあのとんでもない元犯罪者は絶対来ない!ひゃっほう!」で止まってる。
身体障害者はコミュ力があって仕事が出来れば問題なく社会に参画できるし、
知的障害者も公的な支援を適切に受ける知識なりコミュ力なりを持っている保護者が居れば困窮することも無く暮らしていける。
北九州の餓死者は、餓死するほど困窮するより前に一度生活保護を申請しに行っているが、
そこで職員に渋られたことで二度と申請に行かなくなった。そして死んだ。度が過ぎた非コミュは心を折られるくらいだったら餓死を選ぶんだよ。
光市母子殺害事件の死刑確定判決に関連する加害者報道の備忘録 - 法華狼の日記
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20120221/1329772134
光市事件の判決についておもうこと補足 - 土曜の夜、牛と吼える。青瓢箪。
http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20120220/1329742220
日本弁護士連合会│Japan Federation of Bar Associations:犯行時少年に対する死刑判決に関する会長声明
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2012/120220.html
光市母子殺害事件:元少年の死刑確定は放射能汚染に不安を抱く母子に対するガス抜き - カナダde日本語
http://minnie111.blog40.fc2.com/blog-entry-3237.html
http://ruhiginoue.exblog.jp/17220328/
http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20120220/1329732758
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はてブを集めている記事で、死刑廃止派の記事の多くが、被害者遺族のことに僅かでも言及してるのが少なかったので、ちょいと恐ろしさを感じてみたり。死刑廃止派なら、だからこそ被害者遺族の立場に深く寄り添う必要があると思うのだが。
(曖昧な表現に終始して、明確に死刑反対を表明してないブログもあるけど、普通に読めば少なくとも死刑賛成では無いのは読み取れるかとは思う)
死刑云々を語るのは個人の自由だし、それ自体に文句はないのだけど、死刑反対を表明してるブログの多くが、被害者遺族の事を一顧だにしていない点が恐ろしい。個人的には死刑は廃止すべきと考えてるんだけど、こういうのがいる限り、死刑廃止が日本の世論で主流になることはないだろうな。
死刑廃止派(というより、政治的な活動をしてる人は多かれ少なかれ、左右問わずにそういう傾向はあるけど)は「自分は正義! 反対する奴は全部悪者」みたいに二元論でモノを見て、自分と、自分に好意を持つ意見しか見ない傾向が強いと思う。例え被害者遺族であっても、死刑廃止に協力的でない限り、敵と見なしているような気がする。だから言及してない。世論を巻き込んで盛り上げようと思ってない。少なくとも、そういう視点は欠けてる。まあ、あくまで印象であって、きちんと統計をとってみたら、「二元論」とは全く別の傾向が浮かび上がるのかもしれんけど。
出生までは知らないが、まぎれもなく日本社会が生んだ日本の犯罪者である
出生なんて関係ない、そう思っている
ただ、犯人が死刑になってヤッターっというのはどうかと思うが、死刑判決は妥当だと思う
一部で、「不幸な育ち方」をした少年が起こした事件であり、不可思議な点が残るという言及もある
大きな報道をされた事件で、冷静に判断することが難しくなっていることも否めない
不幸な育ち=犯罪者(あるいは予備軍)という扱いを受けているようなもの
それは辟易するものだし、同じにしてほしくないと思っているはずだ
超えては行けない一線を越えたのはこの事件の犯人であり
あなたにとっての虐待の定義とはなんだろうか、被害者が加害者の保護下であるという関係を除けばあらゆる虐待は存在するが、今回は主に成人と未成年の間、親と子の間に存在する虐待について論考していこうと思う、なぜなら家庭というのは非常に外部と隔たれた空間であるからだ、教育の場であったり労働環境での虐待と比較するとお互いの利害に関係のない第三者の目に触れる機会は一気に減る、その分陰湿であったり陰険になるなどの諸問題は生ずるが同じ様な虐待が発生した時に他との比較が容易で無いという点において、また未だ家庭内部の隠され閉ざされた空間で行われている虐待についての個々の認識を明らかにしていく事が、この世から虐待による悲痛、声にならない声を浮き彫りにしまた被害者自身がより客観的に自己の被害状況を分析し気持ちの整理をつける事でより良い明日へと繋がる事を祈り進めていきたいと思う。
虐待の種類
虐待にも様々なものがあるが、一つに基本的には相手の事を思っているか?という漠然とした表現にその発生源を求める事ができる。もう一つは、相手の事を思ってしているという認識の行為が結果的に同じ結果を生じさせているという虐待について、また意図的、偶発的を問わず“何か”をしなかったという事が虐待になる事もあるので、それらを比較しながら論拠していきたい。
一、【故意】例
二、【過失】例
例えば、子供が他人の所有物を不当に取得した時などに“叩く”などの痛みを与える事で子供の犯した不当な行為を是正させようというもの、これでは罪を犯してはならない理由が“叩かれる”からだとの理解を子に与えかねない。裏を返せば叩かれてもいいくらい欲しい物であれば不当に他人から奪っても良いという事になってしまう。人間なのだから例え時間をかけてでも、物には“持ち主”という所有の概念があり、他人の所有物を正当な理由なく勝手に奪ったり何かしてはいけないと教えるべきだ。こういうと小さな子供にそのような説明をしてもわからないという人がいるようだが、行為の是非は痛みが伴うかどうかだと理解させてしまう可能性を与える行為こそ余計に子供が所有の概念を理解する事を阻むだろう。
三、【認識ある過失】例
意図偶発問わず放置に至った時に、その放置によって苦痛が子供に生じるかもしれないと認識しながらも「もう我が子の年齢なら大丈夫だろう」と本人を介さない判断で放置した結果、実際は子供が精神的苦痛等を生じていた場合の虐待
※本人の事前の意思を汲んだ上での放置で、実際に子供に苦痛が生じても生じなくても、第三者から客観的には虐待と判断される場合も有る。
四、【未必の故意】例
意図偶発問わず放置に至った時に、その放置によって「子供に苦痛は生じる」と本人を介す介さない問わず判断し放置した結果、実際に子供に精神的苦痛が生じていてもいなくても構わないと思う虐待
他にも虐待時の心模様は分析できるが、虐待による不都合が生じるかどうかという点では、これらの行為が多岐に又、継続的に行われるかどうか、そして被虐待児の個体差に寄ってでしか判断できない事とより効果的な虐待ラインの線引きをする為に虐待の回数、頻度、継続性やその子供の人生に不都合が生じたかどうかは度外視し“その行為が虐待なのかどうか”に的を絞って進めていきたいと思う。
それでは、ここから思いつくままに、もっとイメージを換気しやすい実例を列挙していきたいと思う。
一、お父さんと息子がプロレスごっこをしていて上手く技が決まり泣き叫ぶ子供に対してもなかなか技を解かなかった。
一、食事を親の許容時間内で食べられずゆっくりと遅い食事スピードの子供に対して、精神的な怒りを顕わにし、その怒りを子供に伝えた。
一、兄弟喧嘩をした子供に対して、親の判断で判決を下し、制裁として一度の食事を与えなかった。
一、何時にお客様が来るからそれまでに部屋いっぱいに散らかった玩具を綺麗に片づけておいてねと子供に頼んだのに、その時間になっても部屋を片づけていなかった為、児童の頭部に真上から握りしめた拳の中指第二関節の先を尖らせた部分を振り落としそれなりの痛みを与えた。
一、子供が学校から持ち帰ったテストの結果を見ると20点と書かれてあった、問題内容や平均点などがどのような状況なのかは関知していないが主観的に悪い結果だと思ったので「なにこの点数は?」と冷めた表情で悲しみを子供に伝えた。
一、子供達数人を祖父母に預け遠方に行くことになった際に、お土産を買う事になった、その際個々の子の長男、長女、次男、二女などそれぞれにお土産を買う際に、自分の子に対する好きの程度が“ひいき”としてお土産の質にも反映された。
一、子供が食事に対して好き嫌いを顕わにした時に、栄養学的な事、勿体無い事、また添加物や農薬、化学調味料等による影響を考慮せず、また食べる事や残す事を“怒り”や“恐怖感”と共に子供に迫った。
一、子供に玩具を買い与える等の条件を設けてお手伝いさせたり、肩を叩かせる等した後に、その約束に対しての意識をおざなりにし約束をまだ守っていない。
一、子供に早く寝ないとお化けや怪物、悪魔に襲われるなどと自分の信じていない事実を信じこませ嘘の恐怖感で持って子供を自分の意図した時間帯に寝かせてしまおうとした。
一、家庭内でだれかの所有物が紛失した際に、証拠なく過去の行動等から子供のだれかが盗んだのではないかと疑いそれを子供に伝えた。
一、子供が嫌がったり、将来思いだした時に嫌だと感じる可能性がある行為を何らかの脅迫や脅し、また体格差による優位条件を利用して行った。セックス等
等々、枚挙に暇が無いが、突き詰めていくと、同意や相互の了解、約束の無い事で自分の保護下にある者に対して怒りの感情や、隠避の態度、また虚偽の同意や相互の了解、約束で保護下にある者の言動を操作したり、当初は嘘のつもりはなく結果的に不本意であったとしても謝罪無く保護者の立場を利用して子供の意思、期待を蔑ろにする行為を虐待と定義する事で、確かに、ほとんどは大した事のない軽度の虐待ばかりが散見するとは思うが、その浮き彫りにした小さな声の中から、継続的であったり深刻な状況に陥っている児童を露わにする事で虐待親からの保護活動がより進むのではないだろうか。
次に、虐待をされた側の福祉ではなく、虐待をしてしまった側の福祉を考えてみよう。確かに、認識の無い虐待の方が子供の悲痛は重いだろうが、罪悪感を認識しつつも己の言動を制御できず我が子に対してしてしまうという行為としての虐待の加害者も罪を理解しているという点においては周囲が手を差し伸べるべきではないだろうかと思う。何度も閉ざされた家庭内の出来事である事は強調するが、親自身が現在において健全であると因果関係の立証なくして自分の生育環境を我が子にも模倣するという事は大いにあり、その今現在健全である事はわが身が程度の差こそあれ受けた虐待が今のわが身の為になったと解釈しその虐待行為をまた我が子にしてしまうと言う物だ。
良かれと思いやっている事なのだがこの場合本人の気分もなぜか優れないという事が多いように思う。どうも本当はこんな事はしたくはないが、我が子の将来の為に体罰や強制、十分に説明のできない因果関係の不明な理由によって我が子の言動を統制するのは止むを得ないを自己を正当かするのだが、なぜか当の親自身は心のどこかに陰りを想わせる精神状態に陥ってしまう。
こんな時、もしも閉ざされた家庭でしかも虐待というナイーブな情報について共有でき、また素直な気持ちで自分の行為が虐待なのか虐待でないのか話しあえる場、意見交換できる場があったらどうだろう。
子を持つという事は責任が伴う。
ないものは仕方がない、生殖の自由を制限することもまた違うであろう
親になったからといって、社会は一律に保護者の責任を追及しても良いのだろうか?
そこに、責任という耐えがたい重圧感を与える事が、自らの育児教育能力を自己判断し自信が持てなかったり自己否定の念の押しつけられた時、弱者である子に対し“教える”という行為をしなければならなくなった時に怒りの感情が“怒る”という形で子に向けられてしまうのではないだろうか。
“怒る”について考えてみよう。
子供が何か良くない事をした時に「コラーッ」と怒った場面を創造してみて欲しい。
それは、子供がスーパーで売り物を食べ始めてしまった時かもしれないし、子供が自分で行きたいと言って行き始めた何かの教室を勝手に休んだ時かもしれない。
私や貴方はいったい何に怒っているのだろうか?
子供が確かに一度はしてはいけない事だと理解したのに、私欲のために再三した事が許せないという怒りだったかもしれないし、貴方がせっかく拠出した習いごとの月謝を無駄にされた事かもしれない。他にも様々な解釈はできるが“怒り”がなぜ生じるのかをよくよく考えてもらいたい。
そこに“悲しみ”はないだろうか?
人は悲しくないのに怒る事はあるだろうか?
元の感情として、自分が悲しくなる何かをされた事や身内が誰か他人を悲しませてしまう事が悲しくて、そんな思いはしたくないから“怒る”のではないだろうか?
子供には貴方や私が怒る理由を理解するのは難しい
まだ悲しい気持ちから怒りに転化したという実体験も希薄だろう。
これを読んでくれた貴方には
どうか
どうか素直な感情で我が子と接して欲しい
悲しい時には悲しい気持ちを我が子に伝えよう
あなたがそんな事したら、お父さん悲しいよ お母さん悲しいよ って
私や貴方がが無碍に他人を悲しませたいなんて思わないように
子供の純粋が気持ちとして、他人を悲しませるような事はしたくないという純粋が感情がある事を期待しよう
怒りは「快」「不快」という根本の感情よりも一段階上の複雑な感情だからだ
例え我が子にでも、悲しい思いをさせられたら「悲しい」気持ちを表してみよう。
きっと、わかってくれるはずだ
今からでも遅くない 例え貴方の子供が既に成人していたとしても
本当はどう思っていたのか? あの時は悲しかったんだよ だからあんな事をしてしまったんだと
また貴方の子がさらにまた子に対して同じ事を繰り返し、子が将来、あなたと同じ苦しみをする事を回避する為に
勇気を振り絞って、例え過去の事であっても当時の本音の素直な気持ちを話してみよう
きっと、貴方を許してくれるはずだ 貴方はもっと楽に生きるべき存在なのだから
@awaikumo
土台はまあ平均的じゃないのかな・・・
ただ表情だよね。やっぱ、仲いい友達と楽しい話してるときの表情とは違うだろうな、と勝手な解釈する。
どうせイケメンじゃねーからという気持ちがにじんでるように見えた。コメントのせいかもしれないけどな。
仲いい友達と遊んでるとき、馬鹿やってるときの自然な写真のほうがいいんじゃないか。
人生楽しんでる奴って顔がどうであれ、いい顔になるし、女も楽しい人生やってる人のほうがいいなと思うわけで。
なにやってももてねーと思わずに、「いくらかけてもこれだよ」とかあまり気負いすぎずに、おしゃれを楽しむとかめがねの斜めさwを楽しむとかやってみたらいいと思うよ
Eclipseはその豊富な機能を覚えるのもプラグインをインストールするのも非常に面倒(Subversionのプラグインさえ入れたのに使い方がわからなくて使ってない、調べたけど動かねーし)。あとアホみたいに重い。起動も重いし検索も遅いしでかいファイルを開くとカーソルの移動さえ重い、最新のPCなのに。あとバグが多いのはいわずもがな。しょっちゅう落ちるか、謎のエラー(無害ぽいが)が出る。
しかしそれでも、今時タダのレガシーエディタでコード書きたくないわ。設定次第で何でもできるようだが、俺はコードを書いて仕事を進めたいのであってエディタの設定に何時間も使うのは一度でも嫌だ。あとIDEはやっぱり必要。
そのときすうっと霧がはれかかりました。
どこかへ行く街道らしく小さな電燈の一列についた通りがありました。
それはしばらく線路に沿って進んでいました。
そして二人がそのあかしの前を通って行くときはその小さな豆いろの火はちょうど挨拶でもするように
ぽかっと消え二人が過ぎて行くときまた点くのでした。
ふりかえって見るとさっきの十字架はすっかり小さくなってしまい
ほんとうにもうそのまま胸にも吊されそうになり、
さっきの女の子や青年たちがその前の白い渚にまだひざまずいているのか
それともどこか方角もわからないその天上へ行ったのか
ぼんやりして見分けられませんでした。
ジョバンニはああと深く息しました。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。
僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば
僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」
ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」
「僕たちしっかりやろうねえ。」
ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。
「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」
カムパネルラが少しそっちを避けるようにしながら天の川のひととこを指さしました。
ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。
天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。
その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えず
ただ眼がしんしんと痛むのでした。
ジョバンニが云いました。
「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。
きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。
どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。
ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。
みんな集ってるねえ。
あすこがほんとうの天上なんだ。
あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」
カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。
ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむっているばかり
どうしてもカムパネルラが云ったように思われませんでした。
向うの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。
「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」
ジョバンニが斯う云いながらふりかえって見ましたら
そのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えず
ただ黒いびろうどばかりひかっていました。
ジョバンニはまるで鉄砲丸のように立ちあがりました。
そして誰にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して
力いっぱいはげしく胸をうって叫び
もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。
ジョバンニは眼をひらきました。
もとの丘の草の中につかれてねむっていたのでした。
ジョバンニはばねのようにはね起きました。
町はすっかりさっきの通りに下でたくさんの灯を綴ってはいましたが
その光はなんだかさっきよりは熱したという風でした。
やっぱりさっきの通りに白くぼんやりかかり
まっ黒な南の地平線の上では殊にけむったようになって
そらぜんたいの位置はそんなに変ってもいないようでした。
ジョバンニは一さんに丘を走って下りました。
まだ夕ごはんをたべないで待っているお母さんのことが胸いっぱいに思いだされたのです。
どんどん黒い松の林の中を通って
さっきの入口から暗い牛舎の前へまた来ました。
そこには誰かがいま帰ったらし
くさっきなかった一つの車が何かの樽を二つ乗っけて置いてありました。
「今晩は、」
ジョバンニは叫びました。
「はい。」
白い太いずぼんをはいた人がすぐ出て来て立ちました。
「何のご用ですか。」
「あ済みませんでした。」
その人はすぐ奥へ行って
一本の牛乳瓶をもって来て
ジョバンニに渡しながらまた云いました。
「ほんとうに、済みませんでした。
今日はひるすぎうっかりしてこうしの柵をあけて置いたもんですから
大将早速親牛のところへ行って半分ばかり呑んでしまいましてね……」
その人はわらいました。
「ええ、どうも済みませんでした。」
「いいえ。」
ジョバンニはまだ熱い乳の瓶を両方のてのひらで包むようにもって牧場の柵を出ました。
そしてしばらく木のある町を通って大通りへ出てまたしばらく行きますとみちは十文字になって
その右手の方、通りのはずれにさっきカムパネルラたちのあかりを流しに行った川へかかった
大きな橋のやぐらが夜のそらにぼんやり立っていました。
ところがその十字になった町かどや店の前に女たちが七八人ぐらいずつ集って橋の方を見ながら何かひそひそ談しているのです。
ジョバンニはなぜかさあっと胸が冷たくなったように思いました。
そしていきなり近くの人たちへ
「何かあったんですか。」
と叫ぶようにききました。
「こどもが水へ落ちたんですよ。」
一人が云いますとその人たちは一斉にジョバンニの方を見ました。
ジョバンニはまるで夢中で橋の方へ走りました。
橋の上は人でいっぱいで河が見えませんでした。
白い服を着た巡査も出ていました。
その河原の水際に沿ってたくさんのあかりがせわしくのぼったり下ったりしていました。
向う岸の暗いどてにも火が七つ八つうごいていました。
そのまん中をもう烏瓜のあかりもない川が、わずかに音をたてて灰いろにしずかに流れていたのでした。
河原のいちばん下流の方へ州のようになって出たところに人の集りがくっきりまっ黒に立っていました。
ジョバンニはどんどんそっちへ走りました。
するとジョバンニはいきなりさっきカムパネルラといっしょだったマルソに会いました。
マルソがジョバンニに走り寄ってきました。
「どうして、いつ。」
「ザネリがね、舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へ押してやろうとしたんだ。
するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。
そしてザネリを舟の方へ押してよこした。
ザネリはカトウにつかまった。
けれどもあとカムパネルラが見えないんだ。」
「みんな探してるんだろう。」
「ああすぐみんな来た。
カムパネルラのお父さんも来た。
ザネリはうちへ連れられてった。」
ジョバンニはみんなの居るそっちの方へ行きました。
そこに学生たち町の人たちに囲まれて青じろい尖ったあごをしたカムパネルラのお父さんが黒い服を着て
まっすぐに立って右手に持った時計をじっと見つめていたのです。
みんなもじっと河を見ていました。
誰も一言も物を云う人もありませんでした。
ジョバンニはわくわくわくわく足がふるえました。
魚をとるときのアセチレンランプがたくさんせわしく行ったり来たりして
黒い川の水はちらちら小さな波をたてて流れているのが見えるのでした。
下流の方は川はば一ぱい銀河が巨きく写って
まるで水のないそのままのそらのように見えました。
ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいない
というような気がしてしかたなかったのです。
けれどもみんなはまだ、どこかの波の間から、
「ぼくずいぶん泳いだぞ。」
と云いながらカムパネルラが出て来るか
或いはカムパネルラがどこかの人の知らない洲にでも着いて立っていて
誰かの来るのを待っているかというような気がして仕方ないらしいのでした。
けれども俄かにカムパネルラのお父さんがきっぱり云いました。
ぼくはカムパネルラといっしょに歩いていたのです
と云おうとしましたが
もうのどがつまって何とも云えませんでした。
しばらくしげしげジョバンニを見ていましたが
「あなたはジョバンニさんでしたね。どうも今晩はありがとう。」
と叮ねいに云いました。
ジョバンニは何も云えずにただおじぎをしました。
「いいえ。」ジョバンニはかすかに頭をふりました。
「どうしたのかなあ。ぼくには一昨日大へん元気な便りがあったんだが。
今日あたりもう着くころなんだが。船が遅れたんだな。
ジョバンニさん。あした放課後みなさんとうちへ遊びに来てくださいね。」
そう云いながら博士はまた
ジョバンニはもういろいろなことで胸がいっぱいでなんにも云えずに
お父さんの帰ることを知らせようと思うと
もう一目散に河原を街の方へ走りました。
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20120216/1329397597
これからは、「仕事を提供できる人が求められる時代」が来ると思う。
「仕事を提供できる人」とは、必ずしも人材派遣会社ということではなくて、雇用を創出できる人ということだ。
いうならば「ジョブメーカー」。これからはジョブメーカーの時代である。
これは間違いない。
多分、この記事のテーマであるウロボロスをイメージして書いてるんだと思う。
全部の文が同じ事を言っている。
前の文のおしりを後ろの文が食べて、またその文のおしりを後ろの文が食べて、グルグル回っている。
ジョブメーカーならぬ無限文章メーカーである。文章のウロボロスである。
何時まで経っても終わらないので、最後に「これは間違いない」で切るところもセンスが光っている。
彼はこの一見不毛なだけにしか見えない悪文の手本のような文章によって、IT業界の不毛さをわずか4行で示しているのだ。
「この文章にイラっとした人は、ウロボロスがいかに不毛なことかわかったはずだ。
そして、その不毛さを解消するためには、わたしがガツンとぶった切るしかない」と、解決策まで含めて表現している。
彼にとって重要なのは、文章としての美しさではなく、文章によってより深い真実を直感的に云々かんぬん
とにかくなんというセンス。これは間違いなく270万部作家のオーラ!
それはともかく、アフィリが無いことや、
彼が主張する「次世代に求められる能力」の内容が変わっていることから
ハックルさん的には次の本を出す予定なのだろうかな、などと期待が高まる。
お笑いスクールでの指導などを踏まえた、エンターテインメントやプロデュース部分について触れることということであれば、
いよいよ彼の本丸部分が解放されるということになるのだろうか
が、これを聞いた2ちゃんねらーが、「ミンス政権による預金略奪だ」と
低脳な反応が相次いでいる。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1696536.html
他方、国の策も「下策」と思う。
まず、事実関係を確認しよう
・ただ、実際には、銀行は顧客感情に配慮して、消滅時効の援用を
・銀行は10年経過時点で、預金者に連絡を取り、連絡が付かない預金については、
これに対して国は法人税を課税
(銀行としては、別に収益計上したくないのに、法人税を取りたい国の指示で収益計上させられている)
・しかし、将来預金者から解約申し出がなされる可能性があるので、
つまり、銀行が「収益を上げている」と言っても、それは形式だけであって、
法人税を取られるだけ、損、ともいえる。
口座にかかわる印紙税(200円)を考慮すると、ランニングコストで実質赤字
・年間に発生する休眠口座は800億円、うち300億円が後日払い戻しされるので、
差額500億円がネットの「利用可能額」。
この中から経費を除いた300億円程度を、基金化して活用の計画
・休眠口座が発生する理由は次の通り
・完全に失念しているケース(少額預金に多い)
・失念はしていないが、引き出し手続に時間が掛かる、銀行に行く交通費が掛かる、
という理由で、引き出しを見合すケース(これも少額預金に多い)
・預金者が死亡して、預金の存在自体を遺族が認識しないケース(中には多額預金も紛れている)
相続手続で係争して解決しないケース(中には多額預金も紛れている)
・預金者が死亡して、預金の存在は遺族は認識し、預金を相続する相続人も定めたが、
相続人が手続き面倒(手続きコストが掛かる)として引き出しを見合すケース
(戸籍謄本の用意だけでも下手すれば数千円かかる、となると数千円以内の口座を引き出す理由はない)
これは少額預金に多い
・国内の預金口座数は12億口座、休眠口座は年1,300万口座づつ増えている
恐らく、現状は「国も損、銀行も損、預金者は得なんだがそれに気付いていない」という状態だろう。
「数百円の手続きのために戸籍謄本取り寄せ数千円」の場合は「預金者も損」である。
これを「国も得、銀行も得、預金者はプラスマイナスゼロ」であれば、
この仕組みを導入する意義がある。
小生が「問題」だと思うのは、わざわざ「基金」を設けて、基金が口座の管理業務を行う点だ。
恐らく、「払い戻しを求める利用者がいたら、それに応じる」ことを前提にしているからそのような制度設計に
なっていると思うが、これだと「国はちょっと得、銀行は損」である。
つまり、銀行の口座維持管理業務を「基金」に移しただけであり、
(穿った見方をすれば、金融庁の天下りポストを作りたいのか?)
シンプルに、
「10年経過しても連絡が付かない預金は、一律に時効を援用し、その分を、国庫に帰属させる」のが正解である。
要は、現状「銀行が時効援用しないために救済されている預金者を、一切救済しない」のである。
子供も作らず、将来は人の作った子供の納めた税で世話してもらおうと思っているような寄生虫から、働ける間にガンガン取るべき。
それで、あなたは「今」誰が納めた税で世話されてるのかご存知?
「子持ちの親と子ども」は「子なし」の納めた税も使ってるよね。わかってる?
「子ども」が将来「子なし」を納税を通して世話するかどうかはまだ確定してないけど
(海外転出したり、ニートになったり、障害年金や生活保護受けたり、最悪亡くなる可能性もあるし)
「子なし」の納めた税を「子持ちの親と子ども」が使っているのは、現在進行形の事実。
…なんていうことを言い出すと、「うちには老人がいないのに老年向け補助に税金なんて」だの
「子どもいないのに乳幼児の医療費免除なんて」だの「私は○○には行けないのに税金使うのはやめろ」だの、
きりがないんだよね。自分が思ったとおりだけになんて税金つかわれないっちゅーの。
ツリーのすぐ上の人は「うちの子が払った掛け金が子なしの年金に!」とか言うだろうけど、
第3号被保険者制度なんて「第2号被保険者を配偶者にもつ無職あるいは年収が低い人」だけで、掛け金払わずまるもうけ。
こっちのほうが「人の払った掛け金で世話してもらおうと思っているような寄生虫」ですよねー。
将来の受給時の原資は子どもかもしれないけど、その権利の根拠は第1号第2号で払った期間という仕組み。
ま、もちろん上のを書いた人は当然第3号じゃないと思うけどさ♪
判り難いw
あの後「労働」と「出産」の比較に流れていたけど、本筋は「行政が書かれてるような思想を実現する」の方だったのね。
別増田に返事した横に、それは読めないわ。
随分と回りくどいことしてたね。
手段が、強制かばら撒きかは知らんけど、【政治が少子化問題を高く評価すべき】が議論の本筋であったと。
それを最初から言っていれば、大分議論の方向は違ったんじゃね?
これからでも遅くないと思うから、政治がどのように「出産」を増加方向にすべきか議論するか。
政治が方向付けを行えるのは、優遇(負担免除や、施設割引)とか、税制の変更(子供のいない成人に税負担を求める)とかだよね。
学費免除とか既に動いているけれど、そういうのも子供を産むことの負担を軽減する効果が、わずかばかりある。
ちなみに、優遇方向や、(市井の共通認識として)高い評価を与えると、労働よりも出産の方がバリューが高くなる可能性もあるけど、それは論じないよ。
またぞろ、ややこしくなるからね。
前提条件:親が裕福で生活に余裕があり、お金があるのになんで働かなくちゃいけないの?という高等遊民タイプのニート向けです。
年老いた両親が生活を切り詰めながら一生懸命パートで働いて生活を支えてるような家庭の場合は、つべこべ言わずに働いて両親を支えられるようになりましょう。
→遊んで食べて寝てるだけで、殺しも盗みもやってないよ?遊んで食べて寝てるだけで悪だと言うのなら休日の日曜日にゴロゴロしてるお父さんも悪になってしまいます。
→憲法解釈の問題になるので詳しくは割愛しますが、勤労の義務は国家が労働環境を提供する義務と捉えることが出来ます。
また、憲法には「全て国民は~」と記載されているので、定年退職したから、或いは主婦だから労働の義務は関係無いというわけではありません。
なので、これは会社勤めで働かなくては行けないと言う意味では無いのですが、若干の後ろめたさがある場合は家の家事でも手伝えば十分です。
→日本は累進課税の国なので所得に応じた納税をすれば義務を果たしていると言えます。所得が0円のニートの場合は当然課される税額も0円で問題無く納税の義務を果たしています。
→現在の普通選挙へ移行して来た流れを考えれば、低所得者・低額納税者だから政治的な意見を言う資格が無いということはありません。
これを否定することは昭和の時代に普通選挙の普及のために尽力した先人達を侮辱することになってしまいますね。
→親が子供の面倒を見ることの法的根拠は、教育の義務と扶養の義務が考えられますが、扶養の義務は未成年に限定などされていません。肉親である限り扶養の義務があります。
まぁ、一般的には年老いた親を成人した子供が支える義務ですけどね。
もちろん、親がもう義務を果たしたと考えてニートを放り出すのは自由ですが、それは他人が口を挟むことではありません。
=本来の目的から解放・放逐された結果、地道な努力をせずに自己目的的、自己完結的にその自由を享受する姿勢
原発推進派も、反原発推進派も、橋下派も反橋本派も、どちらも目くそ鼻くそになるのはこれが原因。
・島宇宙化
=若者の内向化のことと言われるが、実際は世間が崩壊した結果、寄る辺なく数名の仲間と共に漂流している状態と捉えるべき。
自分のことをアッパーミドルとか言っちゃいつつも不安を隠しきれない女子大生などが典型例。
=社会貢献したい若者の数は増加し続けているけど、まともな社会活動に参加する人は増えてない残念なニッポンの現状
=民衆が持つ独自の規範。これが破られるとリアルネット問わずにいきなり炎上する。
このことを知らないと非常に危険。日本のモラルは肯定より否定の形で表現されることが多い
・親密圏、公共圏
=内田樹が大好きな言葉。彼の脳内ではこれがあれば全ての社会問題解決するくらいの万能薬。
彼の語るこれは、なぜか年功序列的な概念とドッキングしており、ユートピア化している。
彼が批判しているのは常にこのユートピアの実現を脅かす何かである、と考えれば、彼のブログが非常に読みやすくなる
・承認欲求
=若者による、言っていることはわかるがお前の言い方が気に入らない、というふてくされた態度のこと。
逆に言えばほめてやれば簡単に動くのでコツをつかめばこういう若者ほどチョロい。
=友達がいなくても、ネットさえあれば、その気になれば友達は作れるという希望のこと
・近代化
=ムラの外側を創造することなく一生を終えていた村人たちを、
国民や個人という自立した存在として引き上げようとしたプロジェクトのこと。
AKB48が束になっても、ホイットニー・ヒューストン1人にかなわず
http://anond.hatelabo.jp/20120207115431
の続きです。
先週末の金曜夜7時頃、仕事を終えてから所轄の警察署に電話をして
「自殺予防担当の生活相談課の方はまだいらっしゃいますか?」と受付の方にたずねると
「たぶん帰ってます。平日8時半以降にまたいらしてください」とつれない返事をいただく。
しかし先週も先々週も事が起きたのは休日なので週明けまで待ってる余裕もあまりない。
なので家から一番近い最寄り駅の交番に飛び込んで1から事情を説明した。
すると「担当の者はたしかに帰ったが、生活安全課の児童防犯係の人がまだ署にいるらしいのでその人と相談してみてほしい」
といわれ、そのまま警察署へ徒歩移動。
すでに話は通してもらえていたので受付で名前だけ告げると、その児童防犯係の人がすぐに出てきてくれて書面製作開始。
警察「実は、私たちでは保護できません。自殺未遂の場合はまず保健所に通報して、
そこの医師の方が入院の必要アリと判断した場合は強制入院となります。」
増田「誰がその後の注意を払うんですか?」
警察「本来ならば保護者ですが、この場合は同居人である貴方が見る事になります」
警察「お気持ちはわかります、ですが犯罪がおきてない限り私たちは保護できません。
犯罪もおきていないのに保護してしまうと警察権力の暴走だと言われたりするんです・・・」
増田「それでは、自殺をしようとした際に私を突き飛ばしたりした、つまり暴力を振るったという理由で保護は無理ですか?」
警察「暴行罪で告訴をするという事ですか?それで処罰をする事はできますが、処罰を望んでいるわけじゃないんですよね?」
増田「ではどうしたらいいですか」
結局何も解決策を得る事ができないまま夜11時を過ぎて帰宅。そのまま寝る。
翌朝、すでにボロボロになった自分の精神面をケアしてもらうべく、
3ヶ月前に一度おせわになった某メンタルクリニックに行き、無意味だと知りつつも警察でのやりとりを説明。
すると・・・
医者「次もし同居人が自殺未遂に及んだら、110番ではなく119番に電話をしてください。
そもそも自殺未遂を繰り返す事がすでに異常なので、親の承諾を得られたらそのまま入院措置となるはずです」
増田「え?本当ですか?」
医者「はい。もし親と連絡がつかなかった場合は2人目の医者が判断します」
増田「その後は?」
医者「同居人の親が全ての責任を負う形になると思います。増田さんは同居人なので責任を負う必要は一切ありません」
もしまた同居人が自殺未遂に及んだ時は、迷わず119番します。
それがベストの解決策なのかどうかは、俺にはもうわかりません。
ただ、俺はそれで救われるようです。
俺以外の人が救われるのかどうかは、わかりません。