はてなキーワード: 論理的とは
ニュートンは運動の3法則を提唱したとき、慣性質量と重力質量を区別していましたか?
運動方程式の対象としている質量の単位も当時から、いわゆる「(量りではかったような)重さ」と同じ単位だったんでしょうか?そうだとしたら多分区別してないのかなと思ってしまうんですけどどうなんでししょう?
GMm/R^2のGM/R^2をgと置いたときの、そのgの次元は
概念が異なるなら、このmは、重力質量(重さ)とは異なる単位と仮定するべきですよね。
そうすると、運動方程式において加速度はa=F/mですが、このF/mと、重力場の引力の式を変形したGM/R^2=F/m(=g)というときのF/mは、次元が同じとは言えないわけですから、gは加速度であるとは言えなくなると思います。・・・1
ma=mgを変形したa=(m/m)gについては(m/m)が無次元量になるから、両辺の残りの次元について、aとgが同じ単位であり加速度だと言えるというよりは、mgの単位がNだから、それを慣性質量(重力質量と異なった単位と仮定されている)で割ったものが、運動方程式のa=F/mの右辺の値と次元が同形だから、(mg)/mという全体として、次元が加速度と同じになる、ということしか言えないと思うのです。・・・2
(つまり・・・1のgと・・・2の(m/m)gや(mg)/mは別物)
重さの単位と慣性質量の単位はどちらも一貫して同じだったのでしょうか?
少なくとも両者が異なる概念だと知っている現在は同じ単位を使っていますが、運動方程式を考えた瞬間からそれはいわゆる重さとは異なる概念だと自覚していたなら、これには違う単位を設定しよう、あるいは重さの方の単位を変えるべきだと呼びかけたりはしなかったのでしょうか?
dragonflyさん
2022/5/5 16:37
↑え?これって速度と力がかりに値が全く同じ世界だったら単位が同じでいいって言ってるかのような理屈になってね?そんなわけなくね?
つまりさ、偏差値70ぐらいの子じゃないとここにある能力は身に着けないままで高校を卒業して、そのまま大学生活はサークルや専門バカやって過ごして、結局身についてないまま社会に出るってことでしょ?
怖くない?
偏差値70未満の人≒日本人のほぼ全員がこれ身に付けないまま社会で暮らしてるらしいですよ。
怖いですねぇ……
引用開始
【国語】
【数学】
【理科】
【外国語】
1) 英語による受信力
2) 英語による発信力
引用終わり
引用元
蛇足:
たとえばですよ。
文系の多くの人が「自然現象の本質を見抜き、原理に基づいて論理的にかつ柔軟に思考する」ことが出来ないわけですよ。
なんか良く分からないけど学者先生が言ってるらしいからそうらしい……で理解を終えているってことでしょ?
逆に理系の人は「地歴公民についての総合的な知識、それらを関連付ける分析思考力、その結果を論理的に表現する能力」に欠けているってことでしょ?
まあ理系の人って「後半二つは出来ているもん!分析力が高くて論理的で表現力だもん!」って言いそうですけど、そもそもの総合的な知識がなかったらガベージインからのスタートで結果は推して知るべし。
いやいやそりゃ政治について頓珍漢なこと言う人があとを経たねえわけだよ……。
まあでも体感で言えば、文章を筋道立てて読み取る読解力の時点で既にダメそうな人も多いですからね。
いやー偏差値70の壁は高いなー。
より具体的に言うと、これぐらいのことは偏差値50かせめて55ぐらいの世の中になって欲しいけど、そこに行くまでに人類が乗り越えないといけない壁はまだまだ残りまクリスティー。
まあ俺も「じゃあ今すぐセンター試験で8割でいいから取れよ」って言われたら泣いちゃいますけど。
もう覚えてないからな―。
指導要領変わった部分とか初耳も多そうだしなー。
いやいや人の悪口言ってる場合じゃないだろって話じゃなくて―、アンキパンみたいな感じで全人類自動的にこのレベルに出来ないもんすかねーって話デスタムーア。
個人的に、芸術に意味もなく埋め込まれているロマンを取り去る作業をしている。
「美的センス」だのなんだのという言葉があるが、それは「細かい色使い」「線の置き方」「参照元の選別」だったりが、鑑賞者集団の何割に(各鑑賞者に与えられた被鑑賞物集団の中から)選考されるか、という意味合いの抽象的な、ただあるんじゃないかと仮定しただけの概念である。
そんな曖昧で、無数にいる鑑賞者が何の気無しに好き勝手に見てる被鑑賞物に左右されるようなものは「トレンド」の言い換えでしかない。「美的センス」なるものを「トレンド」の上に覆いかぶせ、気難しい芸術というジャンルをビジネスとして成立させようとしているのであれば、せせこましい姑息な努力に涙を禁じ得ないが、こっちとしてはそんな都合しったこっちゃない。
だから、それを、うすーい商売っ気を踏みつけながら成り立っている芸術ごと殺すために、制作過程をアルゴリズミックにするべきだ。しかしどうしよう。流行り物をコピーして機械的な変更を加え、配置する、それを複数回行って新しいモノを…。そんなものは、ただシンプルに行えばコラージュでしかない。少し複雑にしたらカオスだ。カオスラウンジだ。計算機を使った機械的な芸術の生産、できないことはないが、コラージュから出発してゴールまでの間にカオスラウンジという谷がある。
その谷に渡す橋が生成AIだ。私には虹色に見える。レインボーブリッジだ。
既存のものにごちゃごちゃ変更を加えたものを学習するという法や芸術の倫理をすり抜ける「機械的な変更」を備えている。機序からしてこれがゴールだといえる。
🔪
話はここで終わり。なぜこんなことをするのか?「意味」はあるのか?
お前は「言葉」に支配されている。「言葉」の指し示す先を見ず、ただその指を見つめている。「意味は何か?」は使うことのできない言葉だ。
「単語」や「慣用句」に使った場合は「私の代わりに辞書を引いてください」という21世紀なら発声が終わるまでの時間に自分でできることを他人に依頼する「無意味」な言葉になる。
「概念」や「行動」に使った場合「(多くの場合、言葉を発した者に対して)有益かどうか」ということを「世界共通のあらゆる物事にたいする公正な評価システムが存在し、それが高い指標を出してくれる、世界にとって有益な物事か」という質問であるかのように偽装して尋ねる言葉になる。これらはすべて「数億年後に太陽系ごと爆発して文明ごと霧散するが、それに意味はあるのか」という質問によって「無意味」なものにできるため結論はすべて同じになる。
そもそも質問者の利益になるかは、物事を観測して自分で判断すべきだし、被質問者の利益になるかは、かなり主観が入ってきて「北斗七星が十四星に見えるため、これは有益です」と理解しがたい主張をされて、納得するだろうか。
その「北斗七星が十四星に見える」のが何故良いかの仕組みを聞くことになり、それは終わらないエンドレスなぜなぜ分析であり、ハーグ条約に囚われない新機軸のJTCの拷問であり、衒学じみた古代の哲学であり、アトムを分解しようとして核爆発が起こり、「意味」ごと世界を壊し、つまりそれは禅の間違った横道であるからして、合法ドラッグなのであるから、言語道断なのである。
意味はない、役には立たない。私の言葉は間違っているか?もちろん間違っている。なぜなら「言葉」だから。芸術は「言葉」に頼らず原始的であるべきで、そうでないものは生成AIで破壊、代替、換骨奪胎できるのである。
つまり、私の破壊の後に残ったものこそが芸術なのである。そしてビジネスを1つ潰すだけのその行為に、意味はない。
一部の論理的な哲学には敬意を持っているが…他の哲学やってるやつらってマジで馬鹿なの?こんなガバガバの文章いくらでも論破できるだろ
反AIやってるのってクリエイター気取ってる雑魚ばかりなのなんで?
生成AIだとパターンに類似するものしか作れない仕組みだと、表現を切磋琢磨してるクリエイターと違って、それっぽい絵を出せれば満足なレベルの人だけ居場所を奪われるから?
トップクリエイターはより良い作品づくりのため論理的にものごとを考えて作品に反映できるのに、クリエイター気取りは論理的思考ができないから?
プロは先人を模倣してきたから模倣されるのは未来のクリエイターのため当然と捉えてたり二次創作されたりしてきたけれど、雑魚はそういう経験がないから?
実際、ナマポ受給者からナマポ受給者だって自分も含めてこんなもんよ。
家にこもりっぱなしもよくないから、支援団体通じてそう言う人の集まりにも行ってるけど、
医者をはんば脅迫して診断書書いて貰ったと公言する奴は多いし、そのノウハウも共有する。
大抵はヤニは吸う、酒は飲む、ギャンブルに行く、風俗に通うの四拍子。
女なら10代で妊娠した中卒アル中シンママとかそんなのばっかり。
それで月内に金が足りなくなったらフードバンクに泣きつく。
自分らのようなゴミクズを税金で生かしてる限り、日本の凋落は止まらないし、
AI分野を見てみても、完全に論理的な空想とも思える議論が国内外の学者によって行われている
AIのリスクやAGIは実現可能かという話をとってみても、一見すると非現実的とも思える論理開陳をする連中がたくさんいる
だから現代が特別「事実」を重視しているというわけではないことは幼児にもわかるはずだ
それどころか、現代は「社会構築主義」に突き動かされる連中が多い
社会が真と認めれば真、そういう発想の連中だ
ただでさえ寒くて過ごしづらいのに花粉症でくしゃみ鼻水目のかゆみでQOLが下がるし電車の中で風邪やインフルの疑いを向けられて肩身が狭い
暖かくなってきた時期に飛ぶ花粉もクソ
穏やかな陽気で一年でも最も心地良く過ごせる時期のはずなのに花粉症でQOLが下がる花見も楽しくないし外は良い天気なのに家に引きこもってせっかくの春が台無しになる
秋に飛ぶ花粉もクソ
安楽死を認めると安楽死を強制する圧力が生まれて「強制的な自己決定による自死が生まれる」という考え方は論理的か。間違っているか。詳細に検討し批評しろ。
あなたが提起した問題は、倫理学、社会学、法学などの観点から広く議論されている重要な問題です。安楽死を認めると、社会に「強制的な自己決定による自死」の圧力が生まれるという主張は、いくつかの論理的な前提と結論に基づいています。
前提1: 安楽死が法的に認められると、それは個々の自由と尊厳を尊重するという社会的な価値観を反映しています。
前提2: しかし、一部の人々は、安楽死が認められると、高齢者や重病者など、自己決定が困難な人々に対する圧力が生じる可能性があると主張します。これは、社会が生命を終えることを容認することで、生きることの価値が相対的に低下し、生きることへの支援が減少する可能性があるという懸念から来ています。
結論: したがって、安楽死を認めると「強制的な自己決定による自死」の圧力が生じる可能性があるという主張は、これらの前提に基づいて論理的に導かれます。
しかし、この主張が必ずしも正しいとは限りません。それは以下の理由からです。
反論1: 安楽死が法的に認められている国や地域では、厳格な規制と手続きが存在します。これは、不適切な圧力がかけられることを防ぐためのものです。したがって、法的な枠組みが適切に設計されていれば、「強制的な自己決定による自死」の圧力を防ぐことが可能です。
反論2: 安楽死を認めることが必ずしも生きることへの支援を減少させるとは限りません。社会は、生と死の両方を尊重するバランスを見つけることが重要です。
したがって、この問題は非常に複雑で、多角的な視点から考える必要があります。それぞれの社会や個々の価値観によって、答えは異なるかもしれません。重要なのは、公正で包括的な議論を通じて、最善の解決策を見つけることです。この問題についてのあなたの意見や考えを聞かせていただけますか?
まあそういうところもあるんだろうけど
本当に有効なのか、そうじゃないのか?が知りたいわけよ
罰を規定することで人間をコントロールするのが刑罰で、それが有効なら
この文章は、タイトル通りの内容を書いてあるので、プロセカ大好きキッズは回れ右して「見なかったことにしておく」のを強くお勧めする。
一部の箇所でプロセカなどをボロクソに書いてあるので、大人でも精神が不安定な人も同様。
また、俺が10年以上住んでいる初音ミク界隈に対して警鐘を鳴らす意図で書いてあるので、多少の偏見と過激な論述も含んていることを予め承知されたし。
初音ミクが発売された2007年から、だいたい2015年あたりまでは、初音ミク界隈はとてもとても立派なものだった。
「オタクへの偏見の目」というハンデを克服し、ボーカロイド文化という礎を築いたからである。
初音ミク公式は、某巨大広告代理店とドンパチやって辛勝したり、ピアプロ・キャラクター・ライセンス関連の規定を作って「初音ミクにまつわる同人活動の模範解答」を示したりしていた。
こうして理想的なヒーローとなった公式の下で、古くからのミクファン(ミク廃)どもは、作曲したり、絵を描いたり、DIVA(リズムゲー)したりなどして、比較的平和で自由に過ごしていた。
プロジェクトセカイというスマホゲーがある。初音ミク公式のオリジナルキャラクターは6人だが、このゲームでは、追加のキャラクターが24人ぐらいいる。
それだけ多くの別キャラクターがプロセカ初期からいる訳だから、「リズムゲー」なんてのは隠れ蓑に過ぎない。
リズムゲーだったら、そんなに多くのキャラクターは不要だからだ。
「ガチャが付いた紙芝居に初音ミクらがMCしたり友情出演したりしているタイプのソシャゲ」と言った方が本質を突いている。
この、あまりにもライトなソシャゲは、初音ミク界隈だけでなく、その他他界隈のオタクや子どもの注目を浴び、2020年以降、本格的に流行り出してきた。
この勢いを借りてプロセカ民を初音ミク界隈へ流入しようと初音ミク公式は奮闘している。
そして、この努力が実りつつあるのか、初音ミク界隈にプロセカ民が大量に移住してきた。
実際、初音ミク界隈のリアルのイベントには、「痛バ」を持ったファンが近年数多く目撃されている。
「痛バ」は、初音ミク界隈の発祥ではないので、彼(女)らはプロセカ民だろうという推測ができるのである。
プロセカの公式YouTubeライブをしているときをはじめ、何らかの公式発表がなされる度に、Xでは関連ワードがトレンド入りしている。
さて、同人文化の延長線だった初音ミク界隈に、ソシャゲ社会で暮らしてきた移民と共存できるのかまで、初音ミク公式は計算に入れているのだろうか?
プロセカ的価値観とは、一言で雑に言えば「利己主義」であるが、具体的に言えば次の3点である。
プロセカでは天井までガチャれば欲しい物がとれるから、その原資であるカネはなんぼあっても良いし、ガチャ回数は多いのが至高。
缶バッジのガチャを回しまくったり、メルカリで多少高くてもポチったりしてゲットした缶バッジで揃えた痛バは、努力の結晶。
プロセカ運営の意に沿わないアカウントはBANされるから運営には無抵抗でいなければならない。リークなんてもってのほか、プロセカ民主主義人民共和国総書記の慈悲と指導なくしては生きていけない。
同人グッズなんて作ったらダメだと思い込んでいるか、そもそも作る発想すらない。(前述のとおり、一定の基準を満たせば同人グッズは作ってもよい。)
不快に感じたら即Xでお気持ち表明。論理的に記載しているはずもなく、自分の気持ちをあてもなく書き連ねており、文字通りの怪文書である。自責なんてしない。
傷をなめてもらえらば、それで良い。フォロワーが増えたら万々歳。最初から「自衛しよう」という発想もなければメタ認知も無いため、怪文書を出した後のことは考えられていない。
ここまで読んでいている人の中には、おそらく居ないとは思うが、念のため書いておく。この日記に対するお気持ち表明文は、この項目に対する論拠になるかもよ。気を付けてね☆
初音ミク界隈は汚染されスラム化しつつある。かつての高尚な文化は過去のものになりそうだ。
プロセカ的価値観をもったプロセカ民が大量に流入したためなのか?それとも、プロセカ的価値観を持った一部のプロセカ民に、初音ミク界隈全体で公式諸共「まえならえ」をしたためなのか?
どちらがより真実に近いかは全く分からない。しかし、この価値観を持った人がXのインプレゾンビ並みに多くなったのは事実である。いや、Xのインプレゾンビの方がまだカワイイかもしれない。
公式の努力の甲斐もあり、ファンの数はうなぎ登りだろう。しかし、その大半は、初音ミクを「ナウでイケてるファッション」として消費しているだけである。そこに愛はあるんか?
公式だって、歌舞伎やオーケストラ、現代アートなどのコラボレーションを進めて、「高尚な文化」アピールを頑張っているが、アピールだけではそんな価値観から変貌するはずもない。
初音ミクらの公式イベントは、こういった傾向を可視化している。
参加者側でも枚挙にいとまがないが、公式(主催者)側もグダグダしている。たぶん来場者数と売り上げしか見ていない。本当の愛はあるんか?
公式のイベントでさえ、かのようなものである。況や「同人によるイベント」をや。
ファンによるイベントも黎明期から活発行われているが、近年多くやらかしている。
ある複数の団体は前述の規定を盛大に違反した開催資金集めをしたり、別の団体では著作権ガン無視のファンメイドライブを開催したりしている。
同人グッズも「金儲けの手段」になり果てたのか、公式がOK出せる「原価」程度の価格から大きく上振れた値段を付けて開き直る針金まで昨年出てきた。
ここまで、カオスな無法地帯と化してしまった初音ミク界隈に未来はやってくるのだろうか?少なくとも同人文化が華やいでいた頃の初音ミク界隈にはもう戻れないだろう。
著作権とは何か。
著作権の本質は情報の独占である。著作権者に著作物を独占する権利を与えるものである。一方、この独占は、表現の自由に反する。すべての人は著作物を使って表現を行う権利がある。
文化の発展に寄与することを目的として、著作権法では、表現の自由と著作権保護のバランスをとっている。
ここで、創作活動について考えたとき、先発の著作権者が強く著作物を独占することは、当然に、後発の表現の幅を狭め、文化の発展を妨げるものであると考えられる。
また、既に著作権者である先発側は、後発側の著作物利用に対し、一方的かつを優位な立場である。
よって、現在活動している創作者(先発の著作者)は、文化の発展に寄与することを目的とする著作権法の理念に則るならば、著作権者として他者に、著作物に対する権利を主張し、著作物の利用を制限するとき、それが行きすぎた権利行使でないか慎重になることが望ましい。
ここで、現代の著作権法やその解釈(昨年から更新を続ける文化庁のAIと著作権に関する考え方について(素案)などの資料から)から、「生成AI開発企業や個人による同意の無い著作物の利用」を著作権者として禁ずる行為は、著作権法の理念から利用による利益のほうが大きいと判断されている。
この辺、ブクマカの奴らがどこまで自覚的かあやしいから、一応、強調しておくわ。
もちろん、「自分にとって役に立っていない」という実感から出発して、(なんらかの理論的な接合点を提示して)「世の中の大半の人にとっても役に立っていない」という立論をすること自体が無理筋なわけではない。
しかし、三角関数をめぐる議論と同様、「社会システムの維持・運用・改善において、どのような役割を果たしているか」を充分に理解して初めて、それを主張する権利があるんじゃないのか、と思う。
言うまでもなく三角関数の社会的な実利の最たるものは、工学の分野における設計・計算・分析、さらにはその背景にある数学的思考法そのものへの貢献だよな?
じゃあ、漢文は?
これに対する答えが全く思いつかない奴は「能力不足により学習成果を碌に得られなかったせいで、勉強に意味がないと思っている馬鹿」だから、発言資格なしな。
【参考】
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/m-dojo.hatenadiary.com/entry/2024/03/01/033138
最近なんかブクマカの傾向が変わって、自分の頭で考えることが苦手で権威に弱い奴が増えているから、わかりやすいように、まず権威を引っ張ってきてやるな。
日本の文学は漢字に非ずや、日本の文学は漢文崩しに非ずや、漢字を用ゆるの法を解せずして、能く文を作ることを得んや、真に文に長ぜんとする者、多く漢文を読まざる可らず
まあ、僕が言いたいことは中江兆民が全部言ってくれているなって感じなんだけど、自論として敷衍すると、主に以下のことを主張したい。
(1)現代社会において(おそらく歴史的にも)、最重視されているのは言語コミュニケーションであり、非言語コミュニケーションは補助的役割しか果たしていない。
(2)よって、社会全体の「言語運用能力」の水準維持・向上は、優先順位が著しく高い。
(3)日本社会においては現代日本語の運用能力が重要であるが、現代日本語は突然変異的に現れたものではなく、漢文や古文といった歴史的蓄積を基盤として成り立っている。
(4)したがって、義務教育において漢文の語彙・修辞を学習することは、多くの人が現代日本語における表現技法に長じることに繋がり、より豊かな自己表現・他者理解の実現という形で、社会全体の福利に資するものである。
(1)と(2)は、まあ大体の人が同意してくれるかと思うけど、一応補足すると、たとえば、「勉強ができない小学生はまず国語ができていない」っていうのはよく指摘されているよな?
なんでって、そりゃ「学習は言語による伝達が前提とされているから」だよな。
これは歴史的に過去の蓄積の継承には言語が最も重要な手段だったからだよね。だって、対面なら非言語的な手法もある程度役に立つけど、時間的・距離的制約からして対面による伝達のみに頼るのは非効率すぎるよね。
今となっては、動画や音声を記録してそれを広く伝播させることも可能にはなったけれど、それだって結局かなりの部分を言語に依存しているよね。
世界中を探せば、たとえば言語ではなく音楽を用いたコミュニケーションを重視する民族が存在するかもしれないけど、そういった方法論は全くヘゲモニーを握っていないよね?
「画像」を共有するインスタ、「動画」を共有するTikTok、それぞれそれなりに流行ったけど、これらがSNSの最大勢力か?違うよね、ここでも「言語」を共有するコミュニケーションツールが最大勢力よね。
したがって、「言語」の問題は、他の「音楽」とか「美術」とかと同列に語ることはできない。
個々の認知・思考への影響もあるけれども、それ以上に社会全体の問題として、人類の発展を支えてきた知恵・知識の継承、認識の共有による社会形成といった点において、「言語」こそが最優先と言ってもいい。
で、どっちかっていうと、(3)や(4)の方が意見の分かれるところだよね。
この辺は実感がない人が一定数いても仕方がないかなとも思うので、いくつか具体例を挙げていく。
たとえば、語彙のレベルでは「五十歩百歩」とか「鼎の軽重を問う」とかになる訳だけど、もう少し広く文章表現にも関係している。
冒頭で書いた「教養なき輩に教養が何たるかを語ることができようか」は【反語】という表現技法で、これ漢文由来です。(もちろん英語にも反語的な表現はあるけど、日本語の文章表現の由来は漢文の方。)
「すべからく~だ」の誤用がちょくちょく話題になるけど、これ【返読文字】という漢文の読み下し技法を由来とする表現だね。(漢文的には「須らく~べし」)
あと、よくあるのは、【対句】かな。「Aはα、Bはβ」みたいなやつ。
杜甫の『春望』の「感時花濺涙 恨別鳥驚心」(時に感じて 花にも涙を濺ぎ 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす)が典型例。
項羽の『垓下の歌』の抜山蓋世、正確には「力抜山兮気蓋世」(力山を抜き 気世を覆う)も有名だけど、厳密には対句とはちょっと違うのかな。
それと、結構重要な影響を及ぼしているのが、「同じようなことを複数回表現したいときに、できる限り同じ言葉を使わない」というルール。
冒頭で僕が書いた「能力不足により学習成果を碌に得られなかったせいで、勉強に意味がないと思っている」っていう文章だけど、これ「勉強が苦手だったせいで、勉強による成果が得られなかったせいで、勉強に意味がないと思っている」という表現だったら、どう?
なんだか頭悪そうに見えるし、その点を置いておいても、同じ単語が出てくるせいで目が滑ってあんまり頭に入ってこなくない?
要するに、見栄えが悪いという美学の問題でもあるんだけど、読みやすさや読み手に浮かぶイメージの豊かさの観点から、できる限り、別の語彙で(=表現を吟味し、言葉を尽くして)語るのが良い文章ということだし、これは漢文から大いに技法を学べるところなの。
文化的影響の側面を言い出したら、たとえば井伏鱒二の「さよならだけが人生だ」とかかなり色々あるけど、実利の話としては脱線かもしれないし、そこはまあいいや。
とりあえず、ざっとした話としては、「漢文は現代日本語の語彙・表現・リズムに大きく貢献しているし、それは無意識のうちに現代日本語話者に多大な影響を及ぼしている」とだけ理解してくれればいい。
漢文を学ぶことは現代日本語を学ぶことであり、これ抜きに豊かな文章表現はできない。
できるっていうんなら、実例を持ってきやがれ、ってんだ。
(実際、本当にそういうものがあるのなら、日本語の新たな可能性だから、見てみたいと思う。)
優先度が低い
こっちは優先度が高いと思っていて、その理由を「言語の重要性」と「日本語における漢文の重要性」としてるので、「優先度が低い」とだけ主張しても平行線なのよ。
どちらかの点を否定する論拠がほしい。
現代数学だって当然に突然変異ではなく歴史的蓄積を基盤として成り立つものであるが、数学能力を育むためにユークリッドの原論から始めようという奴はおらぬ。
一理ある。
ただ、問題は、現代日本語の「修辞学」を学ぶ方法がほとんどなく、事実上、漢文がそれを補っている、っていうことなのよ。
断片的な読解テクニックは教えてもらえても、まともに「修辞学」を習えた覚えがない。それを言うなら漢文だって充分ではないけど、有用度は漢文の方がかなり高いと思う。
まあ、しょせん僕の経験でしかないので、ある程度多くの人の共通体験として、「現代文の授業のおかけでこれが身に着いたよね」というのが明確になれば、議論も落ち着くのかもしれない。
そうだっけか。
僕は中一で漢文、中三で三角関数を習ったけど、私立の中高一貫だったので、カリキュラムがいびつだったからなのかも。
もしかして、普通の公立の中学・高校の学校教育のことわかってないかもしらんね。
なるほど、2022年から「論理国語」という科目が増えたんだね。ものを知らずに思い込みで主張して申し訳ない。
https://www.taishukan.co.jp/kokugo/product/?type=textbook&id=63
カリキュラムを見ると、「定義」「具体的/抽象的」「立場・対比・対立・仮説」「統計・分析・分類」等に重点を置いているみたいで良さそうだね。
これを必修化してはどうか、というのはよくわかる。
三角関数はゲームプログラミングとか信号処理とかには必須だからな
スポーツの成績は精神によっても左右されるので、精神論は必要だけど、数値化して科学的論理的に思考するのが成績アップのコツ
そこは受験勉強とかと同じなんだよな
そういえば、ギタリストに学校の勉強はいるのか?三角関数はいるのか?みたいなのYouTubeで観たけど、
ギターのリペアに幾何学が必要なのもあるけど、エレキギターの回路とか、PAとしての最低限の知識、インピーダンスとかマッチングとか、
学校の勉強まったく必要ないって言ってる奴出てたけど、どう思ってるんだろうな
なんでケーブルがペアになってるか、とか、どうしてノイズが相殺されるのか、とか、
ギターアンプというより、単なるトランジスタの増幅器さえ組めないレベルだと話にならない気がするし、
Youtubeで外国人が「日本で財布を落としたらどうなるか」を検証していた。
想像通り、検証対象となった市民50人全員が落とし主の外国人に財布を返したのである。
これを見て「日本人は素晴らしいなぁ」と思ったわけだが、少し気になることがあった。
例えば「単に賃上げするだけでは名目値しか上がらず、実質賃金はむしろ低下するかもしれない」といった問題に対し「物価に追いつく賃上げを」などと無意味なことをやっているのは、「労働者に高い賃金を払うのが善だ」という単純な発想に基づいているからでは?
あるいはウクライナロシア問題で、「ウクライナに武器を供与して反転攻勢を!」などと言うのは、ロシアが悪でウクライナが善だから、善に勝って欲しいという単純な発想に基づいているからでは?
経済や政治、法律の問題は、残念ながら「共感」に基づくほど間違った判断を下しやすいと言われることがある。
誰かが殺人犯と言われた時、論理的に証拠を提出するべき時に「私は家族が殺されたのが憎い!だから被疑者は死ぬべきだ!」と言って、被疑者の冤罪の可能性を考慮に入れずに報道され、その結果、報道への共感によって取り返しのつかない冤罪に容易に繋がったとしたら?袴田事件だってそうだろう。
経済はもっと複雑だ。経済には事実判断と価値判断の区別が必要だが、ミクロ経済学が取り扱っているのは概ね事実判断と言われる。無差別曲線やゲーム理論は事実判断である。
それに対し価値判断とは「なにをすべきであるか」という問題のことだ。日本が国として何をすべきか、という話をしているときに、特定の集団だけを贔屓にするわけにはいかない。
例えばパレート最適性について考慮し、誰かが損をする場合は補償を与える方法を考えなければならない。
それを「私たちの税金を一体何に使っているんだ!」という感情論で補償原理を無に帰することは、典型的日本人がまさに陥りがちなことだろう。
補償は税金の正しい使い方であるから、自分の利益にならないという理由だけでは正しいことは言えない。
ひろゆき氏が「政治家にはサイコパスが必要なんですよ」と言っていたが、それは「共感能力ではなく、論理によって判断することのできる人間が必要である」という意味だと私は思う。
まあ、こいつもこいつで、補償のことを話さずに「ハンコ業界を滅ぼして効率化を!」などと言いそうな雰囲気だから感情論であることに違いはないが、論理には前提知識がある程度必要であるということでもある。
基礎知識のある人であれば、貨幣供給量が増えれば貨幣価値が低下すると考えるだろう。しかし知識のない感情派は、「お金が多いほどいい」「通貨発行権を駆使すればいい」と言い始め、貨幣価値が低下しないという前提のもとで国家経済を悪化させようとする。
経済の名目値ではなく、実質値を向上させるにはどうするか。その議論のためには確かな情報や知識が必要であるはずだが、短絡的な善悪を持ち出すことによって「物価高に追いつく賃上げを」などと、スタグフレーションがなんであるかも知らずに言い始めるわけである。
確かに、小学生でもわかるような善悪の問題において正しい行動をするのは日本人の良い点だと言える。外国では「見られていなければ悪事を行ってもいい」と言わんばかりの連中が巣食っているからだ。
しかし経済、政治、法律。そういった「高度な知識を伴わなければ善悪の判断を間違えるだろう」というシナリオで、日本人は落第点を取る可能性が高い。
経済であればミクロ経済学やマクロ経済学の教科書知識ぐらいは必要であるが、日本人は哲学にも疎く、相対主義が蔓延るので、「経済論はたくさんあるし、どれもが正しいことを言っているに違いない」と言う相対主義的な認識を持っている可能性が高い。
結局、短絡的な善悪観でミツバチの巣をつついたような行動しかしないのが、他の国の人にもバレているだろう。
たしかにそれはそれで社会秩序の維持にはなっているから、良いことかもしれない。
しかし経済や政治などにおいては別だ。正しい知識に基づいた善というのは、正しい内容を選んで勉強をする努力が必要なのである。どの論も平等だと相対主義的に考えている連中が、パヨク理論に陶酔し、発狂しているのを見たか。