はてなキーワード: 産業とは
文化の盗用ならぬ、活動家による手柄の横取りを礼賛する内容になっている。
「わきまえない人たちが敢えてコンフリクトを起こすことでマジョリティは不承不承マイノリティの要求に対応してきた。今日では皆がその積み重ねの恩恵に与っている」
それは本当か?
例えば男女同権を推し進めてきたのは何ものの力か。戦争や産業に従事する上での、腕力の重要度の低下。家事専従者が必須でなくなったこと。そして法改正。ハードウェアの進歩と制度的な裏書きが社会を動かしてきたのだ。
フェミニストによる道義的非難に耐えかねて、あるいはその啓蒙に感激して動くほどに社会はヤワでも腰軽くもない。イズムにイズムをぶつけても1ミリも動きはしないのである。
バリアフリーのためのインフラ整備だって同じだ。増田は利用者の視点のみから「先人の闘争のおかげ」としているがただの想像でしかない。商業上の要請や建築法規に基づき、あるいは単に業務の一環として、少しずつ尽力してきた無名の貢献者はいなかったものとされている。
繰り返すがマジョリティは非難に耐えかねたり説教に感激して動くほどナイーブではない(へりくだって情を乞えではなく、マジョリティの冷たさ薄情さをナメるなと言っている)。活動家のおかげ説はそのフィクションに立脚している。その結果として何が起きるか。
小さなコンフリクトを平熱で改善につなげるべきところ、常にこうして感情的な分断ネタとして消費される「型」が出来上がってしまうのだ。施設側が100%悪い!いや車椅子の側が100%悪い!と。
「日本社会はいまだこんなに遅れているから、こういう機会を捉えて燃やさないと変わらない」というのは因果が逆で、無駄に燃やしてばかりだから協働の文化の成熟がスポイルされているのだ。
誰かが白眼視を恐れずいきなりギャーって騒いでくれたら「正直助かるわけよ〜」って言ってるが普通に恥ずかしい発想だと思わないか?
そうやって物理的/道徳的に担当者を責めたてるという要望の仕方が本当に合理的だと思うか?社会は基本的に事なかれ主義で、ノイジークレーマーには「特別あつかい」でお茶を濁すのだ。
「クレーマーがほどほどに騒いでくれると有り難い」ってバカみたいな結論だぞ。
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共産党赤旗、コンビニで見かけた成人誌の密告フォームを作成「国連に持ち込んで問題にする」ヤングジャンプ、ヤングキング、ヤングアニマルなどが対象
こういうのも同工。
とっくにエロ本が完全撤退したあとでヤンジャンとか燃やそうとしてんの。
「ワシが育てたムーブ」にコロっと引っかかってんじゃねえよ
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法律の制定が権利主張なしに良心に満ちた人々によって行われるとでも信じているのだろうか。大したお花畑。激しくない権利主張は現実として黙殺されるだけ。差別者が被差別者の大人しい主張に傾聴すると思うかい?
法整備はエンジニアリングを後追いするという本質論を主張する上で全然重要でないから詳論してない所に、隙があると思いこんでこうしてバカが頭をねじ込んでくる。
まあいったん対立のパターンができてしまうことの弊害はこういうことなんだ。それぞれの陣営の正義の能無しが問題の周りを固めてしまい、手つかずにさせてしまう。
実際にコツコツ手を動かす人を遠ざけ、吊し上げが好きな奴ばかりが集まってくる。
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「穏当に地道に“活動”してる人もいる」
そらそうよ。みなまで言わなかったけど。
自由な市民としての矜持を持ち、選挙にいく以外でもあらゆるチャンネルを探って社会の運営/改善に参画しようとする、リベラルであるとはそういうことだ。そこには当然にして摩擦が生じることもある。
くだんの車椅子インフルエンサーのことも別に迷惑100%とは評価していない。施設側のモノの言いようにカチンと来たのも想像はできる。
そんなに難しいこと言ってないが、まあはてな界隈にもうなんも期待してないのはある
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毎たび最後に同じようなこと言ってるが、一言マウンティングじゃなくてトラバで字数気にせず堂々反論すれば?でもお前らは絶対に自分の発言に責任持たないんだよな。ピンポンダッシュに最適化したカス連中
県二位の人口22万人の中核市であり、太平洋に面する港町、臨海工業地帯、外航・内陸航路の工業港を有し、東北新幹線八戸駅、東北縦貫自動車道八戸線、三陸復興道路の北の終点がある。東北有数を都市を自負し商圏63万人を誇る。
しかし、八戸市にはイオンモールがなく、イトーヨーカドーは2024年の夏に閉店する。
八戸市の映画館はかつて7館あったが、現在は完全になくなった。
2000年代前半40,000平米級のイオンモール計画が立ち上がるも、中心市街地の地権者や有力者等で構成する市の商工会が大反対運動を展開。当時の市長はイオンモール反対を表明するも落選。対立候補の官僚出身の新市長が状況に応じ検討するとして当選したが、過剰な商業施設は不要として事実上のイオンモール立地規制条例を制定。売場面積7000平米級の中途半端なイオンリテールがオープンした。
八戸市民は隣町のイオンモール下田まで車で約15kmのみちのりを30,40分かけて行く羽目になる。
車がない高校生は1日に5便しかない直行バスに長い行列をつくり30,40分かけていく。
中心市街地は、イオン立地に反対したあとほどなくシャッター街になった。全く商店街をシャッター街にさせない!商店街を守るんだって話はなんだったのだろうか。
かつて市民のデパートとして親しまれたヨーカドーは市内に2店舗あった。1980年中心街の再開発ビル(地下1階、地上7階建、屋上遊園地)にイトーヨーカドー八戸店出店計画が出て、当時の市商工会議所は大反対をしたという。市民には大歓迎されて開店してから東京の有名なデパートとして八戸の目抜き通り入口の街の顔となった
しかし、2003年に閉店する際は商工会議所は引き止めだそうだ。実に身勝手である。2024年夏にもう一つの郊外型の地上2階建てのヨーカドーが閉店予定である。
私は学生時代、そのヨーカドーの両方でアルバイトした。八戸店では閉店まで2ヶ月間を鮮魚コーナーでアルバイトの先輩に殴られながら、ホタテやホヤの殻を剥き試食販売の売り込みをしたり、閉店後のポッポでたい焼きや今川焼きをもらったり、最終営業日の店長の涙を堪えた客への挨拶を聞きながら、八戸の中心街はこれで一時代が終ったのだとしみじみ感じだ。
話を戻そう。その後、現在まで約20年近くが経ち、八戸の中心市街地はどうなったのか。
中心市街地には地元百貨店は最近まで2店舗あったが、コロナが瀕死の経営状態にとどめを刺し2023年に1店舗閉店。
さくらの百貨店は若者向けではなく、郊外CSはラピア長崎屋と前述の小ぶりなイオンリテールと、スーパーセンターがいくつか。バブル期前につくられた街中のファッションビルはほぼ空きテナントだったと思う。
市は20年ぐらい前には既に中心市街地活性化対策に乗り出し、再開発計画が出ては地権者の反対で消えを繰り返し、最終的に新市長が市営の箱物をたくさん作ったものの、商業施設の立地はほぼ皆無のままである。
中心街は仙台に次ぐ飲み屋街として名高く、屋台村のみろく横丁周辺が酒豪の呑んべいたちで賑わう。新幹線開通後、新たなホテルやマンションはいくつか建設された。
市内は、北東北を中心に展開する売上高1300億円、58店舗を展開するスーパーのユニバースが本社を置き市中を治めつつ、他社も含め無数にスーパーとドラッグストアがある。イオン系列のホームセンターのサンデー、市内の何箇所かにスーパーセンターがある。ヤマダ、ケーズデンキ、ユニクロ、GU、しまむら、西松屋、ワークマンもある。日常の買い物には困らない。
しかし、娯楽性に欠ける。買い物を楽しんだりするには物足りず、映画館もない。ヨーカドーもなくなる。イオンはリテールとスーパーのみ。
明治時代に日本鉄道が東北本線を八戸町の中心部に伸ばすかどうかで議論になった。
当時は他の町と同じく蒸気機関車忌諱説があり、流行病の懸念や軍部の要望があり外国軍上陸の脅威を減らすべく、市街地から4kmも内陸の尻内(しりうち)という辺鄙な場所に駅をつくった。あとで町民たちは鉄道は便利だと知ることになり、数年後に本線から分岐して八戸線が開通し中心市街地の800m北寄りに旧八戸駅、現在の本八戸駅を開設する。
そのあと100年以上が経ち、尻内駅は八戸駅に駅名が変わり、やがて新幹線駅に昇格した。しかし、あまりに市街地から離れすぎた立地のため、郊外の地方空港の様相であるかのように、22万人都市の玄関口としてはお察しくださいの状態である。
大正末期に八戸大火が発生し中心商業地区が焦土と化したが、田舎町には後藤新平のような都市計画家はおらず、当時の八戸町議会は多額の予算は出せないとして狭い道は藩政時代のままとなった。
太平洋戦争では基幹産業の日東工場爆撃が海側の地域で爆撃を受けるも、中心市街地の空襲被害はほとんどなかった。
市の北側に位置する旧日本軍の飛行場と基地は米軍に接収され、3,200人の米兵により飛行場を拡張し基地の街と化す。その後、陸海自衛隊基地として運用される。
八戸の中心市街地は、戦後しばらくして、東映、東宝、テアトルなどの7つの映画館が開店し、地元百貨店が開店し、緑屋、ニチイ、丸光(さくら野)、長崎屋、そしてイトーヨーカドー、地元資本のファッションビルが開店し、中心市街地は岩手県北を含め商圏62万人ともいわれ栄華を極めた。私はその時代を生きていないのでよくわならない。
八戸は昭和30年代に新産業都市に指定され臨海都市建設工事が始まり、八戸鉱山の石灰石産出、三菱製紙工場、八戸火力発電所、非鉄金属の精錬所、鉄工所、造船所が建設された。
漁業は栄光を極め、八戸港の水揚げ量・金額が日本一を記録し、第一・第二・第三魚市場は全国の漁船が集まったという。浜の景気は大変良く、飲み屋街や風俗街も発展した。北海道室蘭・苫小牧港へのフェリー航路が開設され北への玄関口となった。中心市街地を迂回する国道45号バイパスが整備され、市道の4車線の環状道路が次々と開通し、田畑の区画整理が次々と進み新興戸建住宅地や住宅団地は郊外に市街地は拡大し、市営バスは路線網を拡大し小中高校は増設を続けた。
一方で、青森寄りの天間林村(現七戸町)の上北鉱山は銅が枯渇のため閉山。また、八戸から60キロ北の六ヶ所村では新全国総合開発計画による巨大石油化学コンビナートや製鉄所を中心とした、1万7000ha開発計画は発表されたが、二度のオイルショックで完全に頓挫した。石油備蓄基地のみがつくられ、のちの日本原燃による核燃料サイクル施設建設を待つことになる。
青森県議会は東北新幹線建設に際し、八戸経由か弘前経由か決められずに結局盛岡駅止まりのまま以後八戸延伸まで20年待ちとなる。あの頃、早く決めていればとおもうと悔やまれる。
1991年に長崎屋が郊外に移転。屋内遊園地つきのラピア長崎屋が開店
1993年 六ヶ所村で日本原燃の再処理工場の建設が着工する。原燃PRセンターに家族で行った帰りに、父からこの工場で事故が起きれば将来は八戸に住めなくなると聞かされ幼心にショックを受ける
1994年 年末に三陸はるか沖地震(震度6)が発生、旧市庁舎、旧市民病院に大きな被害、中心市街地のビルが倒壊し死者発生、道路の崩落、水道管破裂など多数被害
1995年 隣町にイオンモール下田が開店(現在は売場拡張し53,277平米)県南地域では最大の売り場面積を持ち当時は大観覧車があり田んぼと山がよく見えた。
1997年 中心市街地の市民病院が郊外に移転し、いよいよ中心市街地の危機が地元紙で叫ばれるようになる
1999年 八戸臨海部の神戸製鋼の敷地にイトーヨーカドーの郊外型CSが開店、ホームセンター、のちにヤマダ電機、スーパー銭湯開店
2002年 東北新幹線八戸駅開業。北の玄関口として栄華を極める
2003年イトーヨーカドー八戸店が閉店、跡地に地元出資チーノオープン。市民映画館が開店
2000年前半イオンモール八戸田向店40,000平米級の建設計画が持ち上がる
当時建設中の4車線の県道八戸環状線沿い一帯の田んぼを区画整理し、中心街から八戸市民病院が移転した付近に立地計画
市民の多くは歓喜に沸いたと思う。わざわざ隣町のイオン下田まで行く必要がなくなるからだ。
しかし、中心市街地の商業者を中心とした商工会が猛烈に反対し、当時の市長も大反対。
地元新聞の投書には、商店街関係者と思しき女性が「イオンが来たら中心街がシャッター商店街になってしまう。そんなところで祭り(八戸三社大祭という由緒ある山車の祭り)は見たくない!」などと書いていた記憶。
ほかに、市民病院の近くが週末渋滞して救急車が到着できなくなるから反対との投書もあった。
その後、市長は1期で落選し、新市長が当選し立地規制条例を制定
2012年 郊外にイオン田向ショッピングセンター開設(7000平米級)
新市長は、空洞化した市街地を再建すべく、市営の箱を次々と建設。
2011年 市営のポータルミュージアムはっちが開設、中心市街地にタリーズコーヒが初出店
2016年 ガーデンテラスが竣工し市営の八戸ブックセンターが開設、Yahoo八戸センターが同ビルに拠点開設
2019年 国際大会用の屋内スピードスケートリンクが開館(中心市街地から徒歩圏の運動公園に建設)
2020年 元長崎屋跡地にDEVELD八日町が竣工 13階建で2階以上はマンション
2023年 イトーヨーカドー八戸店跡地のはっちが閉店。解体されマンションになる予定
2023年 八戸港の水揚げ量が昭和19年レベルに激減(戦後最悪水準、金額ベースで最盛期の10%の漁獲高)
2025年 青森銀行とみちのく銀行が合併し青森みちのく銀行設立予定
東日本大震災のあと、約10年で三陸復興道路が完成し、県道の環状道路は大半が開通した。
ロードサイドにはセブンイレブンも、タリーズも、コメダ珈琲も、スタバもできた。新しいスーパーやホームセンターはあちこちにできた。
中心市街地は市営の箱物はたくさんできて大変モダンな空間になったが、観光施設や、広場施設であり、結局、車社会の一地方都市には、かつてのイトーヨーカドーのような民間の商業施設は20年経ってもできなかった。地元商工会議所は郊外巨大CS進出を阻止に成功したが、経済の低迷は続き中心街へ商業立地の開発誘導を果たせず、三春屋とチーノは閉店し、今やさくらの百貨店が残るのみである。かつての商業ビルはマンションへ建て替えが進む。
商業床がマンションになるのであれば、予定通り40,000平米のイオンモールを建設しても問題はなかったと思う。
郊外のイトーヨーカドー八戸沼館店は閉店後は、1991年開店の江陽のラピア長崎屋と、2012年開店のイオン田向(リテール)のみになる。
GMS衰退の潮流は止められず、地方の車社会は市民は無料駐車場のあるイオンモールを求めていた。
よく巨大郊外型モールが撤退したあと社会問題になるため開発抑制が必要だという。都市計画の教科書的には正しいことは理解している。
しかし、近隣県を含め広域自治体レベルで規制誘導しない限り、一自治体が規制をかけても無意味だった。
結局、一番割りを喰うのはアクセスの不便さ、往復30kmから40kmのガソリン代を消費する市民自身であり、隣町のモールに買い物客が流出して意味をなさなかった。中心市街地の地権者は新たに商業施設を建てるわけもなく、文化的施設の建設に補助金が投入された。
2050年までに、八戸市の人口は社会保障人口問題研究所の推定で14万人台になるとしている(最盛期より10万人減少する)
人口減少社会は、かつての拡大した市街化区域を減らし、都市軸の再形成、まちなか居住、コンパクトシティの形成、魅力ある歩いて暮らせるまちづくりをするなど、さまざまなメニューがあるものの、あまりにも中心市街地再興への道のりが長すぎる。その過渡期に過ごす市民は、これからもイオンモール下田に通うことにになる。
せめて20年前に市商工会議所は、利己的な理由からイオンモール立地に反対せず、県道沿いの環状バイパスに40,000平米級のイオンモール田向店を作っていれば、あの長い行列をつくりバスを待つ市内の高校生たちはおらず、自転車でイオンモールに遊びに行けただろうとつくづく思う。こうして毎年彼らは高校卒業後、八戸を離れてしまうのだろう。
賃金プッシュインフレとは、賃金の上昇によって生じる商品やサービスのコストの全体的な上昇。
雇用主は、従業員の給与を引き上げた後も企業利益を維持するために、商品やサービスの価格を引き上げなければならない。
企業はいくつかの理由で賃金を引き上げることができる。最も一般的なのは最低賃金の引き上げである。
こうした最低賃金の引き上げは、賃金プッシュインフレの主要な要因となっている。
企業は、人材を惹きつけるために賃金を上げたり、特定の業界が急速に成長した場合にビジネスの成長を助けるインセンティブとして従業員に高い報酬を提供したりする可能性がある。
このような要因はすべて、企業が提供する商品やサービスに賃金プッシュインフレ効果をもたらす。
賃金プッシュインフレには、賃金が上昇し、企業がより高い賃金を支払うために自社の製品やサービスに対してより多くの料金を請求する必要がある場合に発生するインフレスパイラル効果がある。
マネーサプライが増えても、消費者の購買力が高まるとは限らない。なぜなら購買力は実質賃金によって決定され、実質賃金の分母が物価であるからである。
市場の商品コストも上昇しているため、より高い賃金を支払っている企業やより広範な市場全体で商品やサービスのコストが上昇するため、賃金上昇は従業員にとってそれほど有益ではない。
ポイント: 企業はコストの増加を補うために市場での製品の価格を上げなければならない。しかし、商品やサービスの価格が高騰しているため、賃金引き上げでは消費者の購買力を高めるのに十分ではないと判断される。「この賃上げが十分ではないなら、さらに賃上げが必要だ」という単純なロジックを持った人々によって、賃金を再度引き上げる圧力がかかり、インフレスパイラルが引き起こされる。
政府は通常、インフレ目標を設定する。米国ではインフレ目標は年間約 2% 。インフレ目標により、企業や個人は将来の予算を立てることができる。
これは、企業が従業員にいくら支払うのか、また商品やサービスにいくら請求するのかに関する指標を提供する。
これは、個人に対して、賃金がどれくらい期待できるか、また商品やサービスにかかる費用がどれくらいかを示す。
価格が上昇するため、現在円の価値は将来の価値よりも低くなる。
将来的には、現在の同じ円で購入できる商品やサービスは少なくなる。
政府が労働者の賃金引き上げを命令すると、雇用主は対応を迫られる。
対策で移民解禁は言われるが、移民を入れるというのは、本来の目的から逸らして数値だけ辻褄合わせしようとしただけに思える。
結婚した後の出産率はあまり変わらないので、結婚する人数を増やす必要があるとなり、
日本の衰退についても、一時的な好景気・不景気の波を対策するのは政府が出来るが、
産業が衰退しているといったことに対しては、国はどうしようもないのではないか。
先行して軍事技術として国が獲得しているのを、民間転用するといったのは出来るだろうが、
あれこれ苦心して色々アプローチしてようやく付き合えた彼女が、
「顔がかっこよかったから」という理由で、あるアイドルを推してる
しかもこのアイドル、駆け出しだからイベントめっちゃあって、その結果彼女と会う頻度も下がってきちゃった
この産業ってさぁ、イケメンでない男性にとってはこの世の壁を直面させられるから辛いよ
アイドルに嫉妬なんてアホらしいし、自分に依存してもらいたいなんて思っちゃいないけど、
なぜロシアに経済制裁が効きにくいかというと、地面掘れば資源が湧いてくるので、それを売りまくれば外貨がどうにかなるから、というのがデカい。
なぜアメリカや中国があれほど強大かと言えば、もちろん産業もあるけど、やはりレアメタルやシェールや油が国土から出るからと言うのもかなりの割合を占めるはずや。
したら日本に対して俺は何が出来るのか、と考えた時に、①ソーラーで電気を作りまくる②外国株で外貨を稼ぎまくる、で微力ながら油田の代わりにならないかと思ったんだよ。これらの資産を数100年保有して成長させることで、日本も疑似的な資源国としてやっていくことができないか。
しかし脳内でシミュレーションしてみるとこれは俺が金持ちになるだけであまり日本の国益に寄与しなかった。油田や鉱山はそこで働くたくさんの人の職を生み出して、生活の安定に寄与するから凄いのであって、ソーラーと株にはそういう世の中への寄与がなかった。
大人の自由研究とまでは行かないが、調べ物をすることがたまにある
Wikipediaのリンクをたどっていって興味が尽きずいつのまにか時間が立っていたあれと似たようなものだ
最近は自炊を良くするので調味料の歴史や料理を科学的なアプローチで説明するものにつかまることが多い
今回は味噌についてであった
それほど頻度は高くないが談笑する場で自分の地元の話を各々話題にするという機会がある
その際になんとなくでしか理解していない断片的な話をするのだが、良く話題に出す話がある
地元の湖は日本の中でも汚れている湖(確か透明度)として有名で、調査するたびに毎年1、2位を争うほど汚いことが新聞の紙面をかざる
その理由として味噌工場が多いからその栄養が流れ出して藻が大量発生して汚い、というものだ
味噌の栄養で藻が増えるのかはおいといて、実際に地元で味噌系の店や工場の名残をが何となく見かけたが、近年では別の精密業がメインの産業であることや日本においてどの程度のシェアがあるか分からないこと、味噌といったら他(愛知)が有名だしなぁ、といった理由から眉唾だけど、として前置きをして話すことが多い
そんな話の根拠やデータなど確認しておきたいこともあり、地元の味噌生産について調べることとした
一般的に検索して出てくるデータから入り、地元の役所かどこかが出しているPR資料なども目を通した
まず味噌の構成要素は大豆と○麹と塩の3種類であり、○麹は米であったり大豆であったり麦であったりということだ
日本各地で多く作られているものが米麹による米味噌でうちの地元が作っているものも米味噌であるようだ
愛知の味噌はどうやら豆味噌で、日本の分布図から言うと珍しいように見えた
その特有さ、ユニークさを売りに出しているから有名なのかなという気がしている、他にも歴史があったりするのもしれないが
そうなると地元の米味噌には特段ユニークさや特徴という観点で目を引くものはなさそうだ
ただしよくよく調べてみると戦後、味噌作りが工業化されていない段階で地元の市が県内初の味噌研究所なるものを設立し研究し塩分濃度が12%以上である場合に仕込みがうまくいく、などの研究をしており当時は極秘情報であったようだ、ほんとかな
それを県内に広めることによって信州味噌自体が大きく広がりを見せたということのようである(それこそ手前味噌な情報で眉唾だ)
都道府県別の味噌の生産量では現在、約半数が長野県のもので、2位の群馬は約1割程度、というデータも見かけた
また、時代背景的には戦後のタイミング、東京方面にみそを出荷し定着したのが始まりで全国的に大きくシェアを握ったということで、その流れで日本全国でも生産量が1位であった瞬間があったようだ
で、それを祝うための味噌の広告塔として記念の鉄塔まで建てたということで画像が出てきた
信州味噌最大生産地、と書かれたその鉄塔は現在の画像では田舎によくある、特に整備されないまま放置されたさびた何かのひとつでしかなかった
地元のどこかで見たことがあるような気もするが、どこで見たかはっきり思い出せない、これが気になって仕方がなかった
追加で出てきた大まかな地区名、そして近くに流れる川の名前が分かる
自分の馴染みが深い川の名前を見たことでやはり見たことがある、と言う確信が深まりなんだかドキドキした
Googleマップの航空写真で大まかなあたりをつけようとするががあまりわからない
もう少し映像か何か出てこないかとYouTubeを調べると超ピンポイントにその鉄塔を見に行く動画が上がっていた、なんであるんだよ
超ローカルな動画があること、追加情報源を見つけたことにさらに興奮が高まる
その動画ではどこそこの敷地内に建てられたものであるとか、背景に偶然特急電車が通ったことを喜んでいたり、などの追加情報がどんどん出てくる
動画を流しながらその情報をもとに大まかな方向や位置に目星をつけ、ストリートビューで川沿いに歩く
動画で春は桜並木が名所である、と言っていた通りストリートビューでも桜がきれいに咲いている
普段通学など通るわけではないが、全国一汚い湖側に遊びに行くとき自転車を漕いで通っていたルートだった
特に何か特別なものとして意識して見たことはない、風景であり、よくある田舎によくある荒廃した何かでしかないが、確かに見たことがある鉄塔だった
そこに書かれた文字を読もうとしたこともないぐらい当たり前に存在していた鉄塔は、実家から徒歩数分の位置に立っていた
観光スポットというよりは地元の人も知らない珍スポットみたいですね、という動画の声の通り特に観光案内のようなものもなくただそのまま鉄塔が立っているだけだ
単純に知識を得るために調べていたことの横道に子供時代過ごした風景があって、当時何なのか分かっていなかった昭和に立てられた鉄塔の役目を令和の今知るという不思議な体験をして何とも言えない感覚だった
「地元愛」みたいなことを言うのはこっ恥ずかしいのだが、なんだかほっこりしたこの感覚はこれはこれで私の「地元愛」なのかなと思った
みそがある程度すごいのは分かったので今度は湖が汚い理由も調べてみようかな
一次産業の衰退って男が女でもできる程度のデスクワークに流れていったせい
田んぼの力と書いて男と読むんだぞ
弱者男性がなんで弱いかって体動かして自然と鍛えられる職についてないせい
指ぐらいしか動かしてなければ弱体化するの当たり前
私の故郷は、海抜六〇〇メートルの丘陵地に佇む半農半漁の村で、後方は形のよい峯が三つ並び、前方には大きな入江があって多島海に伸び、子供の頃は、その入江で魚つりに興じました。
竹の棒に糸を張った粗末な釣具で、餌もミミズでしたが、満潮の時などは入れたら釣れ、入れたら釣れで、一時間もすれば小鯛などバケツいっぱいになりました。
腹が立つのはフグで、五回に一度はかかり、フグに毒があることは子供にも分かることでしたから、腹立ちまぎれにフグの白い腹を石にこすりつけるとみるみる大きくなり、このガキッとばかりに思い切り石に叩きつけと、パーンという音がして腹が裂け、溜飲を下げました。
私は五人兄弟の次男として畑仕事や魚釣りに勤しんでいましたが、田舎の貧しい暮らしから豊かな生活を夢見て、一足先に日本へ行った八歳年上の兄祥雨を追いかけて◇◇へ来ました。
その時十七歳で、一九三九年でした。兄は布施(東◇◇市)でセルロイド工場を経営し、腕輪やクシを作っていました。
その兄の元へ身を寄せ、普通学校四年を卒業したものの、価値ある社会活動をしていくためにはさらに学が必要だと感じ、向学心に燃えて◇◇・東成区の夜間学校(◇◇商工実務学校)へ通うことにしました。
工場住込の私の仕事はまず、朝五時に起きて無煙炭をおこし、六時半に出勤する職人さんの仕事に間に合うように湯を湧かしておくことでした。
そして、仕事が終わるのは夕方の六時。急いで自転車を走らせ学校へ行き、帰りは一〇時で、それから夕食をとり、深夜の一時過ぎ、二時過ぎまで勉強して、寝るのが連日三、四時間でした。
その死にものぐるいの努力が効を奏して、成績はトップとなり、幸か不幸か、級長をやらされました。
戦時中でしたから、訓練ばかりで、「前へ進め」「全体とまれ」と号令をかけるのが級長の役目でした。
ところが、私は強度の「どもり」でしたから、その号令の文句がなかなか言えず、落ち込んでしまって、《死んでしまおう》と何度線路に寝込んだかわかりません。
星の光が目に入るたびに、《ちょっと待て、死ぬんだったら、もういっぺん努力してみよう》という気持になり、「どもり」の矯正学校を五つも修了して、死ぬほどの努力を重ね、矯正しました。
こうして、《ヤレバデキル、ダメナコトハナイ・・・》の信念を貫いて苦節の日々を克服したことが、大きな自信となりました。
終戦後の一九四八年のことですが、体を悪くして、マイシンの注射を打ったところ、耳に障害が発生し、聞こえなくなってしまいました。
これまた、苦節の日々で、断食をしたり、いろんなことをやってみましたが、完治するまでには至らず、補聴器の世話になる毎日となりました。
ところで、戦争は激しくなり、私も協和会の勤労報国隊に徴用されて、九州の炭坑で二ヶ月ほど働かされました。
石炭を掘って出てきたら顔は真っ黒で、目が辛うじて見え、つらい日々でした。
そうこうするうちに戦争が終わり、兄はそのまま日本に残りましたが、私は里心がついて故郷へ帰りました。
日本兵が釜山の港からどんどん引き揚げて行くさなか、私も小さな船で玄界灘の荒波を掻き分け、決死の覚悟で日本へ戻ってきました。
一九四八年に兄と、資本金二〇万円の◇◇グリップ化工株式会社を設立し、自転車のハンドルグリップをセルロイドで製造し、販売しました。
以来、資材をセルロイドからプラスチックに変え、◆◆◆グリップの普及に努力しました。
その途上、兄を交通事故で失い、私が会社を引き継ぐことになりましたが、中小企業信用保証協会や育成協会からの資金融資は韓国人業者としては第一号だと思います。
一九九〇年に◇◇グリップ化工から◆◆◆技研に社名を変え、現在では日本全国の占有率九〇パーセントを獲得し、一億人以上の人に◆◆◆グリップを握ってもらっています。
私は、金属、木材等で作られている従来の物をプラスチックに代えて作るという物づくりを企業の基本理念の一つにしてきましたから、事業の発展に伴い、グリップの他にも車輪、カゴ、チェインケース、泥除け等、タイヤ以外のものは全てプラスチック化し、その間の特許も数百にのぼって、◆◆◆製品は世界のブランドとなりました。《継続は力なり》の精神で、より精度の高い関連商品の開発に努めています。
一九六〇年頃、日本と韓国との間にはまだ国交はなく公式には往来できない時で、金融機関の祖国産業視察団の一員として、初めて祖国を訪問しました。
懐かしい山河の景色、幼なじみの顔、感激の涙に浸るばかりでした。
その感激もさめやらぬ時、町から一キロも離れていず、一六〇戸もあるわが懐かしい村には電気も水道設備もないことに気づき、昔と変わらぬ貧しい古い部落がそこにありました。
《故郷のために何かしてやりたい》という衝動にかられ、その後、回を重ねて訪問する毎に藁葺きの集会所を二階建の近代的な建物にして
事務所や老人らの憩いの場に使用できるようにし、また、電気架設の資金協力や子供たちの遊び場等も寄贈し、植木やスピーカー等も添えて故郷の人の心を癒やすことに努めました。
人間は誰しも食うがため、生活するがために働き、事業するものだと思いますが、私もご多分に漏れず世間並みの生活を夢見て渡日し、口では言えない苦労と努力を重ね、一応の目的は達したと、自分を顧みています。
これまで、通産大臣や府知事、税務署長などの表彰を受け、韓国政府からも国民勲章冬柏章を受章しましたが、私の企業活動に対� =キる評価だと喜んでいます。
現在、◆◆◆ー技研のグループ企業として◆◆◆販売と韓国◆◆◆があり、◆◆◆技研は私の長男に任せています。
◆◆◆販売は兄の息子が取りしきり、ヘルメットを中心としたオートバイ・スポーツ用品を製造販売し、韓国◆◆◆は弟の息子が社長を務め、スキー・水泳用品を主力としたスポーツ製品を製造・販売し、輸出による外貨を稼いで祖国の経済発展に寄与しています。最近は中国青島にも進出し、六〇〇人ほど雇用しています。
兄の処世訓は《まず、自分自身が立派になり、次に家族の支えなり、その次に身近な社会に貢献する》ということでした。
私は、兄の遺志も引き継いで、家族会を設け、年一回会合を開いて、十親等以内の全学徒に、成績に応じて奨学金を支給しています。
その家族会の会長は私ですが、弟の息子がすべて代行してやってくれています。
いわば、祖国故郷で私の夢を実現してくれる代理人のような存在です。後は、全家門の子孫たちが末永く仲良くしてくれればいいと願うばかりです。
振りかえってみれば、私の人生は苦しいことのみの連続で、喜びや楽しみというものがあっただろうかと思う時がありますが、◆◆◆販売の新社屋落成式(一九八四年)に、私が挨拶をし、息子夫婦、兄の子供夫婦、韓国の甥夫婦を紹介し、その三人を後継者として披露しました。
三人はそれぞれに立派に成長してくれ、私の夢を実現してくれる後継者になってくれたことが人生最大の喜びです。それに子孫たちが、私の喜寿(七十七歳)をニューオオタニホテルで祝ってくれたことも忘れられない喜びです。
外孫まで入れると四十五、六人になりますが、アメリカに行っている七、八人の子孫たちもその日(一九九八年九月一八日)にはみな帰っ� =トきて祝ってくれました。
私たち韓国人は、税金も人一倍納め、社会に貢献しているにもかかわらず、後ろ指をさされる傾向が強いのですが、人間というものは生存競争のなかにあってライバル意識を持ち、自分より事業を大きくやっていたり変わったことを大きくやっていたりすると、ねたみの心が出てきて、あらぬ中傷に走るのではないでしょうか。
私たち韓国人の側にも虐げられたひがみ根性というものが抜けきれないのではないかと思いますが、真面目に生き、社会に貢献していくことが肝心で、価値ある社会人になるためには自分自身が努力し、そのためには人の話を聞くことです。
何か疑問を感じたら、聞くのが一番の近道で、その疑問を解いてくれる人が見つかるまで聞きつづけたらいいのではないでしょうか。聞くことにお金はかかりませんし、それが私の処世訓の一つです。
人生の地獄はきっと誰にでもあるが、自分にとっては「健常な社会」こそが人生の地獄だった。
「健常な社会」に適応するくらいなら犯罪を犯すか自死した方がまだ自分の人生を手に入れられる。そう思う人間が生まれる必然は「健常な社会」を維持するシステムに組み込まれており、つまるところ何をしても堂々巡りな訳で、やっぱり世の中の未熟さと本能のどうしようもなさに揺さぶられながら、忘却を繰り返して日和見主義で他人に干渉しすぎず生きていくのが幸せなんだろうなという結論に達する。
健常な社会が設けた「児童養護施設」というシステムは、内部で虐待が横行しており、児童の中でもイジメがあり、「何のための施設なのだろう」と気を病んだ私に何度も「そんなんじゃ社会でやっていけないよ」と声をかける健常な社会人であるところの職員は、気を病んだ私から見てもキチガイであった。
養護施設では勉強時間が確保できないので勉強して逆転するような子は少ない。
施設の規則に従って規律正しい生活を送れば、自由時間などほとんどないに等しい。
自分の部屋でダラダラ夜更かししてゲームしたり、本を読んだり、そんな時間も個人の発達には必要であることも全く理解されていない。家畜や囚人以下の扱いである。一般家庭の人間の特権が羨ましくて仕方ない。
さて、こんなひねくれた性格であったせいか、基本子供嫌いな施設職員からも取り分け嫌われていた私は、さらに人に対する恨み辛みを募らせて、どんどん人格が歪んだ。
信頼できる人間に悩みや苦痛を打ち明けても、「辛かったね、大丈夫だよ」と声をかけられても救われない事は明白で、というかあの時の私にアドバイスをするなら「悩み相談をするなら優しい人間ではなく、態度が悪くても解決する能力を持った人間を見極めて選べ。それ以外は屑のようなもの」という事だろうか。こういう境遇の人間は頷くと思うが、「人に優しくしよう」なんて考える人間にロクな奴はいない。
自死を何度も考えた。正直、世に生きる価値があるとは全く思わなかったし、自分より恵まれた人間から受ける説教ほど価値のないものはなかった。恵まれた人間に、人を救済できるだけの知性があればこんなことにはならなかった、肥えただけだろうが。頼むから今後、人命に関わる組織の運営は全てAIとかにやらせて欲しい。その方がまだマシな社会になるだろう。
「普通の人間」にアレルギー反応が出てしまった私は、行政や福祉や一般就労のようなものからなるべく遠い所で生きて行きたいと思い、案の定水商売を始めた。
あらゆる業種を転々としたが、1番面白かったのは性産業で、取り分け「客もキャストもどんな職種の人間でも脱げば同じ」「美人でもブサイクでもどんな人間にも扉が開かれている」という世界が、私に人間性を取り戻させた。ここは誰に対しても優しく、最も平等で、寛容で、安心をくれる社会そのものだ。
私の在籍していた店は多様で、子供に当たり前の生活を渡すために稼ぐシングルマザー、奨学金を返すために働く高学歴の大学生、障害があるけど作業所で働きたくない女の子、銀行に頼らず起業資金を集めたい50代の女性、若いうちに好きに海外に行きたいアラサーの女性など、あらゆる年齢の人が自分の自由と自立のために働いていた。そんなキャストさん達と話す穏やかで豊かな時間が私は好きだ。
ネットでは風俗業の過激さに目が当てられがちな為、ふとこういう話もしてみたくなった。
「死ねば同じ、脱げば同じ」
この仕事で体得したそんな精神は、私の人生にとって大きな慰めであり、今は生きる意味にもなっている。
私の指名客は官僚からホームレスまで様々だ。普通の人間なんて、私の幻想だった。
幼い頃の痛みも恨みも悲しみも、きっと一生癒えることはないけれどしばらくここで頑張ってみようと思う。
田舎に引っ越して籠城するという話をしたが、 どんなに生活レベルを落としたとしても兵糧はせいぜい3年か4年ほどしかなく、 それが尽きた時には自殺するしかない。
このブログで一番見られているのは 自殺法に関する記事なのだが、 おれが考えるに、最強の自殺法は拳銃自殺だ。 拳銃自殺はもっともカジュアルで、もっとも安全で、もっともクリーンな自殺だと思う。
日本で合法な自殺方法としてもっとも有力なのは首吊りだが、 首吊りにも失敗リスクがあり、失敗した時には確実に障害者となる。 そのため、ある哲学者は自殺する際に、わざわざ頸動脈を切ってから首を吊っている。 確実に死ぬためだ。 途中で折れない良い枝を見つけるのも簡単ではない。 だって、実験が出来ないんだから。
おれは、痛いことはしたくないし、リスクも負いたくない。 もう投了しますと言ってるのに、どうして痛めつけられなければいけないんだ? 社会に散々痛めつけられたから自殺すると言ってるんだ。 楽に逝かせてほしい。
目を瞑って、自分の人生で最高だった時のことを思い出しながら、 ゆっくりトリガーを引いて、自分の特A脳を撃ち抜きたい。 おそらく痛みもなく、一瞬で意識がなくなるだろう。
で書いたが、積極的安楽死は合法にすべきであり、 そうすることで人間は、失敗を恐れずにチャレンジ出来るようになると思う。 「やらないで後悔するより、やって後悔した方がいい」などという言葉が生まれてしまうということは、 やらないで後悔している人が多いことの証左であり、 日本人は特にそうであろうと思われる。 戦いの中で散っていった武士の人気があるのも、 自分が出来ないことをやっていることへの憧れだろう。
チャレンジして失敗しても日本には生活保護があるという人がいるが、 それは受給出来るか不確実だし、人によっては生きるより辛いということにもなる。
勝負して、死んだら諦めてさくっと死ねばいい。 もしそう割り切れるならば、みなさんは何がしたいだろうか。
このように、死ぬことが簡単でないことがチャレンジを阻害し、 おれはそれが日本経済の低迷に繋がっていると考えている。
理工学系の優秀層が起業しないことが新しい産業を生み出すことに失敗している要因であることは間違いない。 もちろん、日本の風土として、失敗に対して寛容でないというのはあり、 それが影響していることも間違いないが、 最悪ケースでも拳銃を引いて死ねるのであれば、 もっとチャレンジする人間が現れるのではないかと思う。
実際、銃の所持が許可されているアメリカでの銃の用途はダントツで「自殺」なのだ。 自殺が容易に出来ることも、アメリカ人が人生に対して楽観的で、 チャレンジ精神が旺盛な理由の一つに間違いない。 ⇛ アメリカでの銃の用途、1位はダントツで「自殺」
最悪こいつを殴ればいいと思ったらクソ上司に腹が立たなくなったというのと同様に、 アメリカ人は自分の人生の終わりをいつでも決められるから人生を謳歌出来るのだ。
もちろんおれの籠城計画は全く無計画なものではなく、 かなりの確信と、大量のプランBも持った上で行う予定だ。 しかし、完全に運に見放された本当の最悪ケースになり、自殺するしかないとなったらどうしようか。
今現在、地球上におれのような健康な人間を安楽死してくれる国はない。 だから拳銃自殺するとすれば、海外に行って違法に銃を入手した上で自殺するか、 あるいは自作するかだろう。 おれの能力があれば、銃の自作もおそらく出来る。 今は3Dプリンタなどもあるから、頭を撃ち抜くための銃であれば きっとそこまで苦労せず作れるはずだ。
最近、日本で難民申請を認めるかどうかで色々揉めているようだ。
人口減少が叫ばれている中で、産業を維持するために移民を入れて人口規模を維持するべきだという人も多い。
しかし、私が思うにこうした人は移民を舐めているのではないだろうか。
おそらく、平均的な日本人と同じような人が移民・難民として簡単に集まり、安価に使い倒せるとでも思っているのだろう。
現実は異なる。移民として期待される海外の中間層の「質」ははっきり言ってかなり低い。
発展途上国では高校生で九九の勉強をしているし、大学生は割り算ができない。(現在移民として期待されている層である)
先進国といわれるアメリカでも、多少発展途上国よりマシなものの、ほぼ同じような状況である。学校では薬物が蔓延しており、銃の持ち込みを防ぐために校門に金属探知機があり、そもそも勉強どころではなく、全くできない人が大部分だ。
母国語も怪しい人に日本語を教え、完璧に話せるようになるまで教育する。日本人が小学校から勉強することを同じように何年もかけて教える。社会に適合できるように一生付きっ切りで面倒を見る。
当たり前だけど国政は大多数(orパワーを持つ層)にとって一番住みやすい国を目指す
アメリカでは資本家がパワーを持って労働者にとっては地獄の国になり果てた
ロシアはプーチンとかいう老害国粋主義者のせいで大多数にとって最悪の国になった
逆にドイツは製造業従業者がサプライチェーンの国内地方移転、国内製造業支援を進めて世界で最も先進的な製造産業を持つと言われてるし
北欧諸国では生産者(労働と人口)に重点を置いたおかげで幸福度、個人GDP、出生率が高く推移してる
日本は消費者(老人)に合わせた結果超デフレ、実質賃金低下、少子化が起こってる
過剰な福祉制度で疲弊して、消費者目線の超低コスト構造が生産者を苦しめる
岸田がやってる若者向け政策なんて老人が考えた若者が望んでそうなことをやってるだけ
例えば総活躍社会、過度な女性優遇で若者の間では性別分断が起きてる
入試、就活での極端な女尊男卑は老人目線でしか考えられてない、最前線の若者からは批判しかでてないのに意見をくみ取ろうとしない
例えば子育て支援、産ませることしか考えてないから長期的な財政支援なんてする気ない
保育園も増やさないし大学も無償化しないし税負担も減らす気がない