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はてなキーワード: 言語とは

2016-10-01

人文院卒、就職をする。

アカデミックの道に挫折し、非常にやる気のない就活をした17卒の記録。反面教師にするもよし、馬鹿なやつだなあと一笑に付すもよし。巡り巡って誰かの役に立つことに一縷の望みを託します。

方針

労働者に向いていない自覚はある。経済活動に利する人材パフォーマンスをする。

●専門

歴史学一般的にわかやすい&経済関連ネタにしたほうが、反応が良かった。そのため、第二次大戦後経済復興ネタ研究していることにした。

●志望業界

商社コンサル金融サービスよりは修正資本主義のほうがまだ理解できる。「日本世界の人々の生活の発展に貢献したい」と語った。社会進歩を信じましょう。

学歴

某旧帝→同大学院

ES面接

書類提出:25社。(大手10

書類通過:11社。この時点で中小ほぼ全滅。

1次通過:3社。

内定:1社。




学生時代に頑張ったこと

序盤(中小書類面接)は「学生時代に頑張ったこと」という文面を真に受け、勉学・研究ネタに書く。自律性とゼミ活動企画してましたアピール。当然と言われそうだが全くウケなかった。院卒なら専門で培った能力アピールしろという話は聞いたものの、ほぼ落ちる。フィールドワークなりインタビューなりのある専門であれば別だったのかもしれん。

大手のころには、学部1年目にの経験していた大学祭委員活動文芸サークルネタに切り替え、書類も通るようになる(何年目でやったか最後まで聞かれなかった)。どちらを書くかは「求める人材像」と照らし合わせて選択学生団体同士の熱血折衝やトラブル解決ネタがウケそうなら学祭。他業種との関わりや根気アピールなら、市や大学事務やらとの関わりのあったサークルネタ。あとコンサル系なら英語プレゼン経験とそこから名刺交換交流2回目にこぎつけましたネタ

大学祭という字面のほうが活発な印象を与えられると思い、悩んだとき学祭ネタを使った。




就活動機

本音金銭不安覚悟が甘かった)+経済状況の悪化→おくすりのお世話になる。悪化し続けていたが、試しに就活を試みた結果、劇的に改善してしまった。・・・・・・就活しよ。」

建前「歴史を明らかにするだけではだめ。今生きている人の役に立ちたい。研究よりも経済活動のほうが幅広い人に影響を与えられる。」

これを熱っぽく語ったところでは面接に通った。とかく役に立たないと揶揄されることの多い歴史が専門なので、「説得力」とやらはあったのかもしれない。




教師

学部卒のときには、ある程度以上には惹かれていた。しかしまあ、30連勤で死にそうになってる友人を複数名見ているうちに、それでもやりたい、とは思えなくなった。




●その他

まだ意識高い系学生だったころ、有名企業幹部らによる某帝大限定エリート育成講演会(仮)に行ったことがある。言語決定論を実しやかに語り、優生学ギリギリ社会進化論を手放しで褒めそやし、「人の役に立つ」の「人」を疑いもしない姿勢を眺めてきた。そういうひとたちから、陰に陽に、役に立たないものはやめて、もっと経済とかを勉強しなよと言われた。リクルーター面談座談会OB訪問座談会等で、「大企業に入ったスゴい先輩」にとっても、それが世間常識というやつなのだと感じた。

社会希望を抱いていたかった。尊敬できるセンパイというやつに出会ってみたかった。所属したいと思える環境を見つけてみたかった。

2016-09-27

http://anond.hatelabo.jp/20160927114850

なに書いてあるのか全然読めないけどありがとう!やっぱ言語って文化のものから、こういう単語一つとっても複雑すぎる難しすぎる(発狂

ありがとう

2016-09-26

自分より若いやつだけ開発に入れて、俺の好きな言語で、俺が作ったフレームワークで、全員のコードを俺がレビューしてからマージしてたプロジェクトは最高に楽しかったなー

2016-09-25

両親は高学歴だったけど今思うと言語能力はとても低かった気がする

問題説明してくれないのにネガティブ感情だけをぶつけられることばかりだった

うまく言語化できない葛藤イライラがどうにもできなくてきつい

2016-09-23

君の名は。」では猛虎弁使ってたのに聲の形は全員標準語なのは何故だ

両方岐阜県民設定なんやろ? 高山大垣でそんなに言語体系違うんやろか。

もっと言うなら高山って関西ってか富山寄りやで。

なんで高山人間猛虎弁つかっとるんや。あの世界の若者にはなんJ流行っておるんか?

http://anond.hatelabo.jp/20160922143700

何故全ての問題自分の頭で考える必要があるのか?お前こそちゃんとそれを考えてるのか?人間は一人で生きてるのではない上、言語というツールもあるのだから困った事は教え合えば良いんだよ。お前が言ってる事は米も野菜も肉も全部自分で作る人間を育みたい、ということだ。なんでそんな無駄な事をする必要があるのか?ナメクジ並の頭脳しか持たないのはお前だ。

2016-09-21

SEスキルは運

なのではと時々思う


もちろん向上心があり自宅学習して趣味コード書いてセミナー行きまくってGitHub更新しまくってるような人だってたくさんいるわけで


人のせいにするなと言われればそれまでなのだけど


今の客先にいても変な独自仕様とか旧態依然コメントとか昔のブラウザへの対応とかエクセル文字色の使い分けとか


かといってそんなことばかりやってきて他所へ行くスキルもなく(言語がどうとか以前にSVNGitも使ったことないとかそういう感じ)


自社にも多分持て余されていて 妙に業務知識がついてしまったので抜いてもくれない


なんだかなあ

2016-09-20

http://anond.hatelabo.jp/20160919221323

昨日、これを書いた元増田です

とりとめなく思ったことを書いただけなのですが、ここまで反響が多くてびっくりしました

やはり、みなさん、国語の授業には色々思うところがあったのですね

自分も色々参考になりました。ありがとうございます

元増田トラバには、もう個別に返信したので、

はてブコメントで気になったものピックアップして、この話題は終わりにしま

ボトムアップでは細部に拘泥して大意を読み取れない

端的に言ってすみません、これは、パーツを「繋ぐ」工程問題があるパターンです

そして、上手く「繋げ」られないのは我々国語教員の教え方の問題でしょう

ただ、思うに、大意が読み取れないのは、細部に拘泥しきれていないのではないでしょうかね?

要するに、ある「細部」を読み取ったは良いが、また別の「細部」を正しく読み切れていないから生じるのだと思います

どっちも使え

はい。その通りです。現にセンター試験は4つの大問を80分で解かなければなりません

評論古文20分では無理なので、漢文小説は15分で解けと生徒に言っています

この場合トップダウンの読み方をするしかありませんが、元増田で書いた通り、

トップダウンの読み方と言うのは、ボトムアップの読み方が出来て初めて習得できるものだと思います

例えを出すなら、

知識のある人が頭が良いわけじゃなくて、頭の良い人は総じて知識を持っている、という必要十分の問題と似た感覚です

それを無視して、トップダウンの読み方だけを授業に持ち込むことには疑義を示したい、というのが元増田趣旨でした

世の中まともな文章だけじゃない

はい。その通りです。自分が書いているようなクソみたいな文章もあります

ただ、「読みやすさ」のクソさと「内容」のクソさの峻別が出来るようになってほしいと、国語に関わる者として強く願っています

ですから、「読みにくい」文章でもなんとか読めるように、内容を吟味したうえで「クソ」と言えるようになってほしいと思っています

時々、「読みにくい」を「内容がクソ」とイコールで繋げたがる人がいますが、自分はそうは思いません

しろ、読みやすくて内容にも優れている文章が見つかる方がレアではないでしょうか?

「読みやすさ」を守るために、「内容を理解すること」を拒絶してほしくないというのが自分の考えです

もう一度言います、「読みやすさ」を守るために、「内容を理解すること」を拒絶してしまうのは悪です

小学校中学高校じゃ授業のやり方が噛み合うわけない

おっしゃる通りです

小学校先生方というのは、非常にまじめな人が多く、丹念に、一生懸命にやっていると思います

ですが、小学校高校にもなると、言葉遣いから表情、距離の取り方まで、もういろんなことが違うのです

それ以前に、この業界は「他人仕事には口を出さない」という空気が強いですけどね

これはトラバですが消されていたのでここで

読解偏重をやめろ。話す聞く書くの練習をさせろ

はいすみません。「書く」訓練に関しては、本当に足りないと思っています、返す言葉がありません

他方で、「話す」「聞く」は、音声言語の発信と受信に対応していますが、

現実問題として「話す」「聞く」を言語だけで行うことは稀で、非言語コミュニケーションが伴う場合ほとんどです

一般的コミュニケーションにおいて、非言語的なものはその7割を占めると言われています

国語教育がそこまで立ち入れるかはなはだ疑問ですし、立ち入る必要もないと思います

しろ、純然たる「言葉(言語)」のみでどこまでコミュニケートできるかの限界線を知ることの方が大切だと思います

---

この業界は、どこまで行っても、場数を踏んで、手探りでやってくしかないのです

正直、わからないことばかりです

しかし、国語に限らず、教育現場は今、変わろうとしています

良い結果になるか悪い結果になるかは、蓋を開けてしばらくしないとわからないでしょう

また、純然たる「教育」が、どの程度社会に対して影響を持つかを正確に測定するのは無理です

それでも、「少しでもマシな」社会を作るために、自分にできることをやらなければなりません

日頃「つまらない」授業をしているバチが当たったせいかお茶が気管に入って噎せ込んで噴き出してしまいました

終わりにしま

http://anond.hatelabo.jp/20160920173520

元増田です

http://anond.hatelabo.jp/20160920182918

ほぼこの方の理解と同じです、自分理解

言語」の領域でも、「文化」の領域でも、国語漢文の影響を大きく受けています

http://anond.hatelabo.jp/20160920132810

「かつて酷い目に遭った原因を何故か相手人種に求める」のと「コミュニケーションが取れないので対応言語に制約を課す」の区別がつかないアホ

http://anond.hatelabo.jp/20160919201052

単純に自分言語仕様勘違いしておりました。

論理積優先順位意識してれば、自分文章のようにはならなかったですね。

指摘ありがとうございます

あと、自分の伝え方が悪いのがいけないんですが、

言語的な仕様の話ではなくて、増田の条件式に対しての日本語化おかしく見えるという話です。

「かつ」とか「または」とかって、1,2,3,4と処理の順序を書いていても、

言葉にしているときには、かかる範囲あいまいに見えたから、

結果的に分かりづらくなっているということを指摘したかったのですが、

すみません反省します。

http://anond.hatelabo.jp/20160920011201

元増田(国語教員)です

まず

国語」の授業は単純に「日本語」の授業だけではないことは明らか

はい、そうです

重なる部分はありますが、

日本語」というのは、言語学上の1言語に過ぎませんが、

国語」になると話が変わってきます大学教職科目を取っていたときは、

「「国語」はある種のイデオロギー的なもの」と教わりましたが、僕はそこまでは思いません

ただ、「国語」、母国語であるわけで、使う私たちはいわばネイティブです

日本語」と言う場合、多くの場合ネイティブを想定していませんよね

自由七学芸のうちの修辞学、論理学文法を輸入して、まとめて1つの科目にしたんじゃないなかと思う

考えてみたことなかったですが、言われてみれば領域的にはそうですね、言葉に絡む一切のものを詰め込んでる感はあります

古典小説評論と詩と、ぶっちゃけ授業の目的とする方向性はまったく別だよね?

教材として日本語文章を使うところは共通してても、別のカリキュラムだと思う。

これは自分の一個人としての意見ですが、

根っこは同じだと思います

言葉に対する意識感覚能力を向上させる」ことを念頭に置いて、自分はやってます

ですが、現実問題古文の授業と評論の授業を、全く同じマインドでやるのは不可能です

詩の読み方と評論の読み方はトーリーイコールではないですしね

2016-09-19

http://anond.hatelabo.jp/20160919201052

自分の知っている言語では論理積論理和評価優先順位は同じ物ばかり

横だけど、大多数の言語論理積の方が優先順位高くて、例外的言語でのみ論理和の方が高いことがあると思ってた。

http://anond.hatelabo.jp/20160919184519

自分が知っている言語だと、「param == 0」は前提にならないと思うのですが、想定している言語を教えて頂いても構わないでしょうか?

自分の知っている言語では論理積論理和評価優先順位は同じ物ばかりで、上げられている条件分に関しては

if ((param==0 && 判定(param2)) || !param3) {~}

等価になると思われます

そのため、仮にparamが0以外だったとしても、!param3がtrue評価されるような値の場合は条件を満たすと思われるのですが。(実際node.jsのv5.11.0で試した所そのようになりました。)

http://anond.hatelabo.jp/20160919121645

追記:論理積論理和優先順位で間違いがあったため修正しました。

まず最初の条件をif分を一回終わらせて入れ子にするか、falseならreturn させるといい。

入れ子になってもとにかく自分が分かるようにするといいです。

一行で書くのはそのあとではどうだろう

if(param == 0 && test(param2)) {
   if(!param3) {
     something todo
   }
 }

また

if(!(param == 0 && test(param2))){
  return false;
}
if(test(param2) || !param3) {
  実行分
}

あと、一つの条件式で書きたいなら、括弧を使ったり、改行したりして、式の流れを細かくすると分かりやすくなる。

2:paramが0

3:かつ

4:判定関数でparam2の条件を返して、true

5:またはparam3がfalseのときtrueから

 

なのに param==0 && 判定(param2) || !param3 だと

param==0 && 判定(param2)

!param3

で別れるはず(言語によって違う可能性もありますが)

だけど、日本語言葉にすると「paramが0かつ判定関数でparam2の条件を返して、trueまたはparam3がfalseのときtrueから

となって、かかる範囲が分かりづらくなるから

から論理演算子が複数になるときは、日本語でかつ、または使うと逆に混乱するから

trueになる一つ目の条件の時は「○○」またはといったように書くと、

冗長的ですが、言葉にしても分かりやすいかと思います

それ以外には既に上げていた色んな増田の方のやり方もそうだし、

変数名で分かりやすくするというのもあるぞ。


is_children = age < 20
has_game    = check_game(param2)
if(is_children && has_game) {
  print ゲームをもったこども
}

条件式は思考ブレーキがかかるからこうやって、

変数名に置き換えること、文章として読めるからブレーキがかかりにくくなる。

と、無理にワンライナーで書かない方法を導入すると理解やすくなると思います

自己表現力への考察

自分のことを、自分言葉で話せる人間が好きだ。

これができるためには、自分のことを熟知していなければだめだ。

長所短所、好きなものや嫌いなものはもちろん、

自分対話して、自分感受性に耳を澄ませて、自分のそれが生み出すものを救い上げていかなければいけない。

一朝一夕でできることではない。自分自分が思うほどかっこよくはない。自分が見たくない自分も含めて、観察を続ける努力の上に、

自己表現力は成立する。

立派な言葉知識をふんだんに使い話す人間がいるが、そこにその人個人感受性からまれた何かが入っていなければ、それは借り物の張りぼてのことばで、

その人自身を語ってはいない。

そのような人と話すとき、まるで味気ない文書でも読んでいる気分になって、内心興ざめしてしまう。

そんなものは本を読めば知ることができるからあなた言葉を聞かせてほしい。

私が知りたいのはあなたの心の中身であって、頭の中身ではないのです。

(追記)

読み直すと自分はてな文章投稿している身だし、この文章だけだと上から目線だなと思ったので。

自分自身が上記で挙げたことが完璧にできているわけではない。ただ、言語表現するうえで自分の指針、理想は持っていたいと思う。

また、ただ味気ない人の知識のひけらかしに興ざめするのではない。知識を得られることは私も楽しい

でも、その人との会話において、知識「だけ」の会話になってしまうことが悲しい。

私はその人がどんなものに反応する人で、どんな人生を生きてきたかに興味があってコミュニケーションしたいのに、その人のパフォーマンスを見せられるだけになるのがむなしい。

2016-09-18

[]

今回は少年ジャンプ+

ファイアパンチ 20

うん、やっとエンジンかかってきた。

ここにきてやたらとアグニ本音や心情を言語化しすぎなキライがあるのと、きっかけとなる出来事や展開が弱いという部分もあるが、まあ理屈としてはそれなりにしてて悪くないと思う。

自分自身本音を誤魔化すために、どこかで嘘をつく(演技をしないといけない)という、トガタに演技指導させられた際のセリフで持っていたミーニングが、ここで実はまた違う意味を持っていたというのは、まあ悪く言えば強引ではあるが、私はフィクション範疇として許せるかな。

ただ、正直な所やりたいことは分かるんだけれども、伏線回収というよりは偏屈なことを描き続けた結果の帳尻合わせ、尻拭いという印象があるんだよね。

そこまで考えて練られた構成だと前向きに解釈するには、これまでがあまりに捻すぎなので。

1話話題になって、私や何割かの読者が期待していた色々なことを随分と遠回りさせたものだと思うが、何はともあれここからヒーロー(主人公)としてのワクワクする活躍、展開を期待したいところだ。



i・ショウジョ+ Ver48.01

こういうハッちゃけたキャラはみてて面白くはあるが、そいつに焦点あててくるとは……。

狂喜ともいえる表情の描写とかは、これまでにない人格であることがパっと見で分かるほどで、そこそこ長くやってきた中で随分と思い切ったキャラクターを放りこんできたな。

さて、ここからどう展開するかだな。

実は本当にいた他のストーカーアプリ使って捕まえるのか、これを通じて自分客観視するのか、或いは明確に語られていないダイヤの心情が語られるのか。




悪魔のメムメムちゃん 6話

セックスシンボルみたいな、待望の先輩悪魔登場に小日向思考が重なったが、お前は魂奪われる瀬戸際なんだから、随分と悠長だな。

言動も力も余裕があって、コメディ的には面白みのあるキャラクターではないが、まあそれは他の人に任せればいいってことなのだろうか。

結局、メムメムが先輩悪魔監査のもとやることになったが、今回は互いに追い詰められているし、どう落とし所つけるのだろうか。

あと、柱のコメね。

ああ、やっぱりそういう目的で描いたのか、それとも編集が単にチャラいだけなのか(少年ジャンプ+の編集精神がチャラい傾向というイメージがあるんだよね、私の中で)。



フードファイターベル 42話

メタ的にみても、作中の扱いからみても「どっちが勝ってもどうでもいい」バトルであることを承知の上での展開が笑えてくる。

優柔不断な対戦相手を狙って、自分の得意分野に誘い込もうとする狡すっからいこともしたが、あっさりかわされるあたりに哀愁漂う。

それでもカッコイイこといって、うまいことハッタリかまして関心もたせるあたりウマイとは思う。

ただ、今までのアエルの扱いとか作風とかを考えると、次回で雑なあらすじでアエルの見せ場がカットされても何ら不思議ではないんだよなあ(笑)

映画聲の形」"私(達)の時代の話をしているんだ"

2016年9月17日今日公開の映画聲の形」を観てきた。

写実的実存感に溢れる流麗な映像と共にかかるThe WHOのMy Generationに、山田尚子監督京都アニメーションの円熟と"私(達)の時代の話をしているんだ"という監督の高らかな宣言を感じた。

単行本7巻分の原作を2時間シェイプアップされた映像は、大胆な再構成説明要素の排除で進行される。

この映画は将也の物語だ。

原作で描かれた硝子の主観ほぼほぼ排除されている。硝子は聴覚障害があり、手話不明瞭な言葉しかコミュニケーションを取ることが出来ない。

それは劇中でもありのまま描かれ、我々健聴者は彼女が何を言っているのか正確に理解できない。

将也や、その他の登場人物の反応で保管できる部分はあるが、原作のように硝子の視点も用意されておらず、想像範疇を出ない。(なんとモノローグすらない)

まり観客は彼女同化することを構造上許されていないのだ。(これは字幕上映を観ることで考えが変わるかもしれない)

物言えぬ硝子を介して、将也はコミュニケーションを、人の間で生きていくことを学ぶ。

しか原作で大きく扱われていた周辺登場人物との関係欺瞞に満ちた映画作り〜かつて失くしたコミュニケーションの復活・その崩壊・硝子による再構築)も排除されている。

将也の成長物語のみに徹底的にフォーカスした結果、将也の成長を促す硝子を含むすべての周辺登場人物へのフォーカスを切り捨てたのだ。

それでは山田尚子監督及び京都アニメーションスタッフ陣はどのような物語演出方法を取ったのか?

それは徹底的なリアリズムと情感を託された映像密度と、そこにあるもの以外語らない、という選択だったのだと思う。

ノイジーでインダストリアル劇伴と静かに喋る将也と物言えぬ硝子。大きなカタルシスを用意するでもなく(物語上には存在するが、ここで挙げるのは演出上のカタルシス)、ただただ丁寧に心の機微は描く。

その役割言語化されたコミュニケーション大前提劇映画では異常なほど、人物(言語)ではなく映像に委ねられている。

象徴的に繰り返し映し出される様々な花のモチーフにも、それぞれ意味があり、雄弁に語る。しかしそこに言語はない。

とても静かな映画だった。

それは聴覚障害コミュニケーション少年の成長、という大きな主題映像化する上でベター選択だったし、原作モノを再解釈して色を付ける、しかあくま原作範疇から出ることはせず、映像化にあたっての最良の選択だった。

けいおん!」で見せた山田尚子監督バケモノ級の構成力がいままさに円熟しているのを感じずには居られなかった。

もちろんその演出選択できる体力としての京都アニメーションスタッフ技量があってのこの映画だったと思う。

響け!ユーフォニアム」で到達点を見せたと思われた、写実的被写体キャメラ存在を追求した京都アニメーションレイアウト撮影までの画作りの更なる進化があってこそ、将也の心情に寄り添った雄弁な映像は生まれたのだ。

先週観た「君の名は。」で新海誠が描いていた、印象だけで構成された陳腐空虚しかないセンスの欠片もない映像と退屈で死にそうなほど単純なボーイミーツガールポストエヴァ世代の終わりなき呪縛を今作は問題外と言わんばかりに完璧凌駕していた。比較対象雑魚すぎるきらいもあるが、あらゆる意味次元が違った。

新海誠代表されるセカイ系次世代として2000年代後半に登場した、近景に特化した所謂空気系旗手として君臨した「けいおん!」は物語歴史の中でノスタルジックかつアブストラクトエポック作品だったが、その監督である山田尚子京都アニメーションさらなる次世代を紡ぐ、体制側・システムとしての完成をみたのが今作だったと思う。

オルタナティブとしての物語自分ストーリーとして受け取る現世代のための物語装置を創りだすシステムとしての京都アニメーション

圧倒的なクオリティと確実なチョイスで、先陣を切りそれを体現していく山田尚子恐ろしいことに今回は萌え武器にもしていないのだ。

派手な爆発も、世界を救う大いなる力も、悩める個人と直結したセカイも、今作の持つ超弩級の冷静さの前では旧態依然とした使い古されたアイデアしか無かった。

それでも丁寧に丁寧に人の手で作られたアニメーションは、絵が動き、実写以上の実存感を持って我々の心に寄り添い訴えてくる。

時代に生きられることに感謝し、最大級の賛美を持って新時代の幕開けを向かい入れたいと思った。

必見。

2016-09-15

http://anond.hatelabo.jp/20160915003721

疲れてるね。

まー、ほどほどに休むとか必要なのかも。

疲れを引き起こしてるホントの原因はたぶんまだ言語化できてないとこにあると思うので、そういう根本が見えちゃえば少し楽になるのだけれど

セカイ系ロキノン系

君の名は。」の評論いろいろ見てるうち、「セカイ系」「ロキノン系」という2つの言葉が頭の中をぐるぐるするようになった。

どっちも気軽に語ったら猛攻撃を喰らいかねない定義のはっきりしない言葉なんだけど、00年代青春を過ごしてきた自分にとってこの2つというのは、なんとなく親和性があるような、というかひとつのもののような、そんな感じがしている。一言でいえば00年代空気?というのかな。

なんとなく感じてることを書き連ねていくので、誰か詳しい人が上手く補完してくんないかな。



セカイ系」……一般的には「主人公とそのごく近くの人間だけで世界の行く末が決まってしまう」ようなお話のことを指す?ラノベ美少女ゲームとの関係など諸説いろいろアリ。

ロキノン系」……雑誌「ROCKIN'ON JAPAN」でよく取り上げられるバンド総称して言う。90年代後半から00年代以降のティーンエイジャーに人気のある邦楽若手バンドを指すことが多い。



セカイ系」の論議で頻出する作品新世紀エヴァンゲリオン」……「セカイ系」に最も影響を与えたとされる作品ひとつらしい。

ロキノン系」とされる中で絶大な人気のあるバンドBUMP OF CHICKEN

バンプの初期の楽曲アルエ』は「新世紀エヴァンゲリオン」に登場する人物綾波レイイメージしているらしい。バンプ歌詞になんとなく「セカイ系」的なものがある?というかセカイ系文脈で語る人がちょくちょくいる。

FLASH動画とか作られちゃうくらいなのだから、それだけ若者を魅了する物語性があったってことなんだろうけど。

バンプFLASHに夢中になる人たちと、美少女ゲームとかの沼にハマっていく人たち、どちらもどこか似たところがある気がする。

天体観測』とかさ、エロゲにも天体観測趣味主人公とかよくあるじゃんね。



バンプときたら次はアジカンと来るわけで。

アジカンの1stアルバム君繋ファイブエム

ファイブエムとはつまり5mで「君を繋ぐ・君と繋がる5メートル」みたいな意味らしい。

んで、アジカンも「セカイ系」的なものとして語られたことがあったらしい。ボーカル後藤正文日記にこの辺に関する面白いものが書かれていたので読んでみるといいかも。

あと、村上春樹とかもときどきセカイ系談義に登場するけど、後藤村上春樹の影響を受けているっぽい。

この「半径5メートル」というキーワードが誤解されて、同時に「君」とか「僕」とかい二人称が当時のサブカルチャーブームにひっくるめられて、「セカイ系」みたいな誤読をされて当時は心底気持ちが悪かった。

「半径5メートルVo.ゴッチ日記

http://6109.jp/akg_gotch/?blog=386898



半径5メートルという言葉はどこが発端かよくわからないが今でもよく耳にする。「セカイ系」語りでもよく用いられる。

この辺の感覚ってアジカンバンプを通ってきた今の若手世代にもなんとなく受け継がれている感じがある。

米津玄師だったり、カゲプロのじんだったり、そういうボカロ世代にはバンプの「ユグドラシル」だったりアジカンの「ファンクラブ」のエッセンスが少し混じっている気がする。



もっと前の、中村一義とかの感じもなんとなく「セカイ系」の枠と似たものがあるように感じる。

なんていうか、もはや「青春鬱屈とした感じ、焦燥感、閉塞感」とかの「なんとなく」レベル

こういう空気ってエロゲとかにもあるよね?退廃的な感じとか。

言語化できないのになんとなく似た何かがあるように思えてならないのはなんなんだ。



「違うわい!」と叫んでくれてもいいんだけど(というか自分自身もどの作品テーマは全く違うものだと思っている。)、

でもなぜか「セカイ系」「ロキノン系」は同じようなものを指しているのではないか、って感じがしている。

それはつまり明確に共通したテーマ定義があるとかじゃなくて、「時代性」的なものというか、「この時代若者に響く何か」というか、そういうもの曖昧に指しているだけなのではないかという感覚なんだけど。

というか「自分が好きなモノ」の主語を広げて「俺らの好きなモノ」にしているというか。(評論家にとっては「彼らが好きなモノ」になるのだろう)

自分が好きなものはつい共通点を探したくなるよね。それに、若者が夢中になるものに何か共通点見出したがるのが評論家だよね。



うーん、まとまんない。



誰か上手く言い表してくれー!!

長嶋有「愛のようだ」感想

長嶋有の「愛のようだ」を読んだ。

感想を言う相手も書く場所もないので、ここに書くことにする。



作中で言及されている通り、登場人物が"ちゃんと疲れる"ロードムービーだった。

その手口は「水曜どうでしょう」に似ている。

どこで読んだか忘れたが「水曜どうでしょう」の面白さを分析した文章で、

「あれは出演者の"疲れて何をやっても面白い状態"に視聴者を巻き込むことで成立している」

的なものを読んだことがあるが、それを思い出した。


水曜どうでしょう」ばりの徒労と混乱とハイテンションを経て、"疲れているか面白い"、ではなく、"疲れているから感じ入る"。

作中一番の盛り上がり。第四話のラスト、「愛のようだ」という詩的(俳句的)でストレートで派手なタイトル言葉を、

語り手の友人がそのまま呟くという凄い場面。

ここは語り手も読者も、道中で疲れているからこそ、「愛のようだ」と、感じ入るのだ。



ところで、この作品の帯には

"大切なものを失う悲しみを、まっすぐに描いた感動作。"

"最初最後の「泣ける」恋愛小説"

という、なかなか凄いコピーが載っていたが、なるほど作者の「感動的な恋愛小説をちゃんと書こう」という気概を感じる作品だった。


まり主人公(=語り手)に好きな人がいるけれど死んでしまって悲しい話なのだ

世界の中心で愛を叫ぶ」であり「ノルウェイの森なのだ

こうやって書くと何だか馬鹿にしているような感じになってしまうが、

何と言うか、本当に「主人公好きな人がいるけれど死んでしまって悲しい話」をちゃんと書いているのだ。


作家が「主人公好きな人がいるけれど死んでしまって悲しい話」を書くことが

どれほど恥ずかしい(照れ臭いことなのかわからないが、

その恥ずかしさから逃げることなく、と同時に読者が引いてしまわないよう配慮して、

手続きを踏んで、抑制の効いた方法で、その「悲しさ」がきちんと書かれていた。

とてもかっこいいと思う。


前述の友人が「愛のようだ」と呟く場面は、とても感動的でポジティブで素敵な場面だった。

が、そこで語り手はあくま第三者で、言ってみれば読者と似たような立ち位置だった。

友人が愛のようであることに気付く場面に(第三者的に)立ち会ったその余韻が残るエピローグで、

死んでしまった好きな人から最後メッセージを受け取る。

それは、映画の「ニュー・シネマ・パラダイス」を彷彿とさせるような、チャーミングで切ないメッセージなのだが、

そこで語り手に訪れる悲しさは、とことん「当事者になれなかった悲しさ」なんだと思う。



それと、この小説を語る上で外せないのが、全編通して大量に登場する固有名詞だ。

漫画アニメテレビCM映画、J-POP(歌謡曲? その辺の区分けがよくわからない)といった

サブカルチャーポップカルチャー(この辺の適切な総称もよくわからない)から引用べらぼうに多い。

作者は、以前からエッセイ小説内の固有名詞の使い方について論じたりしているし、

というか、そんな前情報がなくても一目見て明らかなくらい大量の固有名詞意図的意識的に使っている。


これが、例えばキン肉マンを知っている人に「ほら、キン肉マンだよ」とサービスするための符牒じゃないことは明らかで、

じゃあ何のための引用なのかと言ったら、キン肉マン自体を書きたいわけではなくて、

「会話の中ですぐに"そういうの"を引用する人(達)」を書きたかったんだと思う。(当たり前か)


世の中やら自分やらを見て把握して語るときに、ごく自然漫画登場人物ポップス歌詞

重ね合わせがちな人が(特にある世代以下には)たくさんいる。

それは、ふざけているわけでも遊んでいるわけでもなくて、その方が断然実感があるからだ。


フィーバー状態伊勢神宮に願掛けに行く、っていうふざけたような言い方なんかも、

切実な思いを実感のこもった正直な言葉で表した美しい祈りの言葉なのだ

長嶋有が描くそういう言語感覚は、読んでいて楽しいし、時にとてもぐっとくる。



最後に、この小説長嶋有にしては珍しくとてもマッチョ小説だったと思う。

「この人のこと女だと思ってたわ」作家で上位にくる長嶋有だが、

「愛のようだ」に関しては、知らない人が読んでも男の人が書いた小説だと思うんじゃなかろうか。

2016-09-12

バイオミラクル ぼくってウパ』ってタイトル考えた奴スゴくね?

これ本当に同じ人間が到達したのかと疑ってしまうほどの言語感覚。紛れもない天才だよな絶対に。

世界松本人志古参になれなかったアラサーたち

1986年に生まれた人は今年30歳になる。

1989年芸人ビートたけしは初の監督作品であるその男、凶暴につき」を撮った。

1994年、「ソナチネ」は世界賞賛され、その芸人世界のKITANOになった。

その時僕らは8歳だから、その誕生には立ち会っていない。

現在アラフォーの人は、高校生の時あたりに、たけしが世界のKITANOへ生まれ変わるのを見届けている。

あなたたちのたけちゃんがKITANOになった。あなたたちは、北野武古参だ。



それが羨ましいのだ。



僕たちの小学生お笑いヒーローごっつええ感じ(1991~1997年)のまっちゃんだった。

それ以前は知らないから、すでにテレビで見た北野武は超大御所伝説の人、ずいぶんおじいちゃんにも見えた。

僕たちの共通言語松本人志のみなのだウッチャン面白かったけどよりインパクトのある「笑う犬」が始まるのはもう少し後だ。



2007年松本人志初の監督作品、「大日本人」が公開された。

僕たちは20歳あたりだ。ある程度大人になり、それなりの価値観審美眼を持つようになり、じゅうぶんに彼の作品評価できる年齢だ。

僕らのまっちゃん世界のHITOSHI MATSUMOTO に再誕することを誇りに思い満足できるはずだった。



それから2年おきに取られた映画現在計4作。

世界どころか尼崎でも評価されていないのは周知の通り。



最近でもアウトレイジを当てている北野武

例えば、現在47歳のライムスター宇多丸氏は「その男、凶暴につき」が公開された時に20歳だ。

氏の「アウトレイジ批評などを聞くと必ずこれら過去作について触れられる。

リアルタイムに殿が世界へ飛び出した歴史を知る人たちが本当に羨ましい。



あなたたちのビートたけし映画を撮ると知った時のあなたたちが

どれほど驚き興奮したのか、楽しみに公開を待ったのか、想像できない。



だが僕たちは確かに、まっちゃん映画を撮ると知った時は異様に興奮した。

僕たちは「まっちゃんと、世界のMATSUMOTOを知っている」と言える日が来るのだろうか。