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2016-07-27

相談

先輩社員(35歳、女性独身上司の前以外では俺女)が、何か気に入ることがあると

グッジョブ!」

と親指を突き立ててウィンクをしてくる。こういうときはどういう反応をすればよいのだろう。

いつも場が微妙空気に包まれる。

ほかの先輩社員に聞いてみたけど、

「まぁ、いつものことだから。反応すると大喜びでもっと絡んでくるだろうし。スルーいいんじゃない?」

先輩に対する反応、または、それとなく「イタいからやめてくれ」と伝える方法を教えてほしい。

知的障害ボーダーラインってIQ75だけど110くらいにした方がいい

110以下は殺処分日本人もっと優れた人種になれる

アベシンゾーは確実に殺処分側だな

http://anond.hatelabo.jp/20160727194931

健常者のハードルは今の世の中ではもっと上がるべきだと思う

発達障害とか知的障害とかの親って俺私は普通なのに子供はなんで、、って言ってそうだけど

お前の遺伝子管理能力以外何があるんだとしか

父親知能指数高いみたいだけど母親が低いみたいだから私の血が劣化した

もっと遺伝子は選ばなきゃね

優生学で言うと、遺伝子検査もっと正確にして悪い遺伝子がある人は去勢って事になるかも

タネなしのアベさんも劣等遺伝子かも

知的障害者って聞くと思い出す何年か前に深夜に放送してたドキュメンタリー

四国のどこかの県だったと思うけど、2人体制介護してもらいながら知的障害者男性一人暮らししてる話。

両親は別で暮らしてて、国やら県からすごい金額が既に出てるんだけど、もっと助けてくれって主張してた。

今もあの感じで生活してるのかな。。

記憶タイムスタンプ

俺は、昨日のことと数週間前のことを混同したり、先週のことと2年前のことを混同したりすることがよくある。

この間書いた増田どこだっけ、と探してたら一年上前だったとか。

周りの人としゃべってると、みんなは記憶タイムスタンプもっと厳密で正確っぽい。

「二年前に○○の時~」とか言えるのすごいと思うし、内容聞くまで全然ピンとこなかったりする。

それとも、たまたま俺の周りの人がみんな優れた記憶力を持った人ばかりなんだろうか?



「二年前」とか言われても自分が何してた時期かすら年齢計算したり、就職後なら現在から順番に遡らないとなかなかわからない。

俺は、過去の話をするときに、昨日、最近、こないだ、前、昔、みたいなザックリした区分しか言えないし、

特に印象的なことは自動的に「最近」枠ぐらいまで上がってきてる感じがする。

ついこの間のつもりで話してる途中に、記憶の中の友人が学生服着てるから10年以上前だこれ!ってわかったりとか。

話してると、俺だけ記憶タイムスタンプがさっぱり機能してないような感じがするんだよなあ。なんでなんだろう?

今更兄が親の愛情とかうるさい

やれ親孝行は生きているうちにしかできないだとか、両親にみんなでプレゼントをしようなどという話を突然押し付けてくるようになった。

挙句の果てにどこから拾ってきたかもわからない”母を亡くして初めてわかること”みたいなメッセージを送りつけてきた。

そこにはおせっかい愛情だと気づく内容や、喪失感母親が死んでしま現実直視できないといった内容が並んでいる。

だけど一つ言いたい。

あなたはさっさと親をわたし押し付けて一人家を出て遠くで暮らしていたではないか



そこで家庭を作って一生懸命生活していたことは知っている。それなりに沢山の苦労もしたことだろう。

だけどそのせいでわたしは未だに親元をつかず離れずでずっと親の面倒を見続けてきたのだ。

あなたがいなくなってから少なくと10年以上親と暮らしていたのはあなたがろくに連絡もよこさなくなったからだ。

「親の面倒を見るのは子供仕事」そう言い聞かせては、仕事でどれだけ疲れようとも親との生活に耐え続けたんだ。

たまの休みも親の相手をしてろくに外出もせず、恋愛なんてする暇もなく仕事と親とに挟まれ生活し続けてきたのだ。

それが子供の正しい姿だと信じて。

それなのに、その間あなたは何をしていたのだ。

そんな生活に耐えかねて、わたしが家を出ようとした時にもっともらしいことを言って反対していたことをわたし絶対に忘れない。

わたしだってそのことに罪悪感がなかったわけではないんだ。欲しかったのは後押しの一言だったのに。

だけどある日、母親から電話わたし決断した。あの時、わたしの中ではもう母親は死んだのだ。



今のままの生活では自分ばかりが犠牲になってよくない。

そう思って、激務と両親の世話との中で少しでも体を休めることにしか使っていなかった休日に、できるだけ友人と外出するようにした。

わたしわたし人生の中でわたしの楽しみや幸せを探さなくてはいけないと思ったからだ。

わたしが留守なのを知ってか、携帯には母親からメール留守電が頻繁に入ってきた。

どれもが些細な内容なのだが、必ず母親は「困っている」「助けて欲しい」という言葉を入れてきた。

後になって分かったことだが、それは親が子供コントロールするための呪詛だったのだ。

なぜなら、困っている人を蔑ろにすればそれは悪い行いになる。わたしがそれを断れば、母親は叱ることと許すことの権利を得られるのだ。

母親はそうして、断っても受け入れても自分が優位に立てる方法経験から学んでいたのだ。

その都度友達を待たせては対応していたが、いい加減嫌気がさしたわたしちょっとしたことならすぐに返答することをやめて、家に帰ってからまとめて対応するようにした。

しかし、母親にしてみればその内容自体目的ではなく、わたしの行動をコントロールすることが目的なのだ

わたしが何とか時間をつくって外出をすれば、その度に母親から送られてくる内容は段々とエスカレートしていった。

そしてある時、わたしの中で何かが壊れた。それは、母親から留守電きっかけだった。



その時期は本当に仕事が忙しく、文字通り1ヶ月ぶりの休みだった。

直前まで取れるかわからない休みだったにも関わらず、友人はわたしとのティータイムに快く応じてくれた。

そんな友人の無償の愛に感謝しながら足取り軽く一人で買い物をしていたときのことだ。

待ち合わせの時間確認しようと携帯を見ると母親からの不在着信と留守電が入っていた。

聞くのを一瞬ためらったが、面倒なことでなければ先に済ませてお茶を楽しむことに専念したかったのだ。

しかし、そこに入れられていた留守電は、わたし絶望の淵に突き落とすものだった。

ただ一言、とても弱り切ったような声で「わたし破産ちゃう」とだけ入っていた。

今になってみれば他愛のない幼稚な脅し文句だったと思うかもしれない。

だけど、その瞬間にわたしのなかで今まで耐えてきたものが全て、まさに音を立てんばかりの勢いで壊れてしまった。

使うあてのない給料から生活費は十分なほどに入れている。

お金だけではなく、一緒に外出したり頼まれごとも全て引き受けてきた。

何より、自分時間犠牲にしてもいつも心配して面倒を見続けてきたではないか

おかげで30を過ぎても結婚もできず、職場と家庭でばかり頼りにされる存在になってしまった。

それなのに、それなのにそんな言葉をなぜわたしに投げかけてくるのか。

まるでわたしが原因であなた破産させてしまうかのような言葉ではないか

わたしはこみ上げてくる感情をこらえながら急いでトイレに駆け込み、一人泣き崩れてしまった。

もう友人に会える顔ではない。メールキャンセル謝罪を送ると、途端に虚しさが怒りに変わっていくのが分かった。



怒りに身を委ねたまま家の玄関を開けると、兄の靴があった。

一瞬躊躇したがここで止まる訳にはいかない。

居間のドアから母親と兄の談笑が聞こえてきていた。

わたしは勢い良くドアを開けると無言で財布からありったけのお札をテーブルに叩きつけた。

何事かと目を丸くする二人を前に、できるだけ冷めた声で「後いくら足りない」と母親に向かって言った。

母親が唇を一文字に噛みしめて下を向いたと同時に、真っ赤な顔をした兄が怒鳴った。

「何してんだお前!!」

わたしも負けずに怒鳴り返す。

わたしにどうしろというんだ!!」

そう叫んでから、全身から何かが吹き出していくような感覚に襲われ、わたしは床を激しく転げた。

叫びながら、床を叩き、蹴飛ばし制御の聞かなくなったおもちゃのようにその場をぐるぐると回って、そしてまた泣いた。

兄はどうすることもできずに立ち尽くし、母親の嗚咽が聞こえてきた。



それからまもなくわたし実家から駅に数百メートル近いところに引っ越しをした。

その後、知人の紹介を経て結婚をして、今では二人の子供がいる。

あの時、わたしはもう母親の望む子でいることをやめたのだ。

それまでは母親の願いを聞き続けることが親孝行だと思っていた。

でもそれは間違いだった。

母親にしてみれば、自分幸せ子供から愛情を受け取ることだったのだろう。

ずっと一緒に暮らしていたのだから母親はそれしか幸せを知らなかったのだ。

ならば手放したくないのは当然だ。

でも、それよりも子供がもたらすことができる幸せもっと沢山ある。

親の幸せのために犠牲になっていく子供を見せるより、独り立ちして沢山の幸せを得ていく姿を見せるほうが、本当は親も幸せなはずなのだ

それを教えることができるのは、ほかならぬ子供本人なのだ

本当に幸せそうに孫を抱いている母の顔を見ると、それが間違いではないことを確信できた。



あの留守電が入っていた日、わたしの中で母親の望むわたしが死んだ。

同時に、わたしの中でわたし愛情幸せになる母親も死んだのだ。



それから母は、幾つかの習い事を始めた。自分の中で自分幸せになる方法を探し始めたのだろう。

そう考えると、母もまた、子供愛情をもって接しなくてはいけないという呪いにかかっていたのかもしれない。

ある一定の年齢において、親と子とが離れて暮らすことはそれだけで大切なことなのだろう。

しかし、まもなく50になろうとする兄を見ていると、一概にそれが正解だとは思えないところもある。

距離的な自立があっても、精神的な自立が成り立つかどうかは別なのかもしれない。

だけどこればかりはわたしいくら兄に話しをしたところで無駄なことだろう。

自分で気づいて自分で自立しなくては意味が無いからだ。

そんなこともわからずに今更親の愛などと送りつけられれば、うるさいと思うのは当然だ。



母が死んだら当然悲しむだろう。

でも、そこにわたしがどれだけ愛されていたかを探すことはないし、きっと後悔もしない。

私の幸せに親から愛情はもう含まれていないし、本当の親孝行は、わたしわたし家族が正しく幸せなっていく姿を見せ続けることなのだから

からいつまでも長生きして欲しいと思う。

でもそれは、子供が悲しむからじゃない。いつまでも幸せでいてほしいと願うからだ。

シルキーカットセルフ支払い増田素舞等は市古瀬特価ー気るし(回文

暑さでバテ気味よ!

ここは牛の赤肉を求めて、

近くのジャスコに行ったの!

生肉買ってこれから調理したり焼いたりするのが面倒だったので、

ごちソングDJCMしてる

ローストビーフ買ってみることにしたの。

超薄切りのシルキーカットを謳い文句にしているやつよ!

私としては、

ギブミー厚い牛の赤肉!だったので、

物足りない感じなんだけどね。

薄切りで、必要用尺が少なくて済むから

ちょっと材料で、たくさん販売できる販売側の都合を

シルキーカットという

付加価値を付けて売るジャスコさすがだわ。

美味しいんだけど、

その厚さじゃ、私のハートには熱く伝わらないわ!

もっとやっぱりギブミー厚い牛の赤肉なのよね!

地方スナックママがよそ見した瞬間に

自分勝手に濃いめで作るウイスキー水割りのように!!!

がっつり夏は赤肉食べたいわ。

で、お会計するレジで、

セルフ支払いレジってのがあって

初めて使ってみたの。

何かしら背降る支払いレジって。

要は、

レジのお姉さんが、ピッてやってくれるけど、

支払いは、それぞれの支払い端末に移動して

レジのお姉さんと介さず、各自自分で払ってねってやつ。

おそらくよ、

ジャスコ見解としては、

レジで一番もたつくのはお客さんのお金支払う時ってことがFAだったのね。

そこがボトルネックだったらしいわ!!!

レジ混むの悪かったのは私たちだったのね。

ごめんなさいジャスコーン!

まあ、

そんなこんなで、

ギブミー牛の赤肉だったので

すっかりミカンを買うのを忘れてたわ!




今日朝ご飯はご機嫌タマサンドに彩り野菜サンドイッチ

元気いっぱいよ!

牛乳も飲んだわ!

大人になるとあんまり牛乳飲まなくなるしね!

たまには牛乳もいいわ。

なんか私大人になってから

冷たい牛乳飲んでも下さななっちゃったみたい。

最近気づいたわ。

デトックスウォーターは、

麦茶ウォーラーよ、

煮沸かしたやつがなくなったので、

今度は水出し麦茶を仕込んできたわ。




すいすいすいようび!

今日も頑張りましょう!

むこうの国は、キリスト世界があるから

http://anond.hatelabo.jp/20160727014324

(変な意味で言っているのではないのだけど)人間の形をしてさえいれば、動物よりもみんな偉いし(youtube動画からすると牛肉の牛の殺し方とか情け無用)、すべての事象は神の采配であり、その神に逆らうことは地獄行きを意味し、聖書経典に倣えば自分は死後天国に行けるわけで、という理解は合っているかな。。

一方、日本国では「和をもって尊しとしなさい、自分たちでどうにか仲良くしなさい」だから、和の概念がない奴や仲良くする・うまく一緒にできる能力がなさそうな奴は落伍者になるんだな。

もっとも、最近は和(立場が違う人とも理解・協力しあおうとする)と、同(同一になれ(経済効果だの効率化だの)、異論は許さん)とを混同している風潮がある感じがするなぁ、私は。

言葉や習慣が違うというだけで、和するのにコストがかかるから低能者扱いされる。経歴立派な外国人に、日本語がカタコトなゆえ赤ちゃん言葉で応対する人も少し前は割と見かけたな。

実際に大量殺人なんかが起こると一斉にみんな聖者になってしまうのはどういうことなんだ?

気持ち悪いぞ。

まあみろ!的な意見だっていっぱいあっていいと思う。

ポケモンだってそうだ、リリース直後はつまらないと言わせない圧力が強かった。

周りの意見を見て自分意見を出すとかマジ気持ち悪い。

もっと自分を持って生きろよな。

なんというかそれを言ったらある意味、誰しも生まれてきちゃった運命を背負わされてるからなぁ、、

変なパソナ横流しとかバラマキするより税金使って福祉もっと充実させるくらいはしてはいいのかもしれない

http://anond.hatelabo.jp/20160727005833

げーむのわるくちかかないし聖人君子くらすだとおもってたのでふつうにぐちかいてくれてうれしいです

もっとはきだせよこのこえだめによお

http://anond.hatelabo.jp/20160727031227

ネトウヨではありませんが?

健康で文化的な最低限度の生活保障されている健全で善良な日本国民です^^

この国を憂う人たちがキチガイ殺処分大義名分のもと決起する分には好きにすればいいと思いますよ^^ひとりだけでは足りません。もっと立ち上がるべきです。

真の愛国者ならば、模倣犯に甘んじるとしてもその産まれた責を果たすべきですね。

http://anond.hatelabo.jp/20160727031600

区別差別ではない、これが言い訳に聞こえるとはどういう教育を受けているのでしょうか?

そんなにキチガイ大事なら皆さんで引き取って育てればいいのでは?

ファンのあれこれ

最近、あるメンバーファンTwitterでの呟きが少し引っかかる。

メンバー最近○○くんに(だけ)冷たい」

メンバーが○○くんが喋ってても遮る」

メンバーもっと○○くんのことを理解して頑張りを広めて上げるべきだ、頑張れメンバー。」

「○○くんを除いて仲良しみたいに見える」

「どうしてもっと〜…」

「どうして○○くんが□□って言われてるときに笑うの?理解できない」

「☆☆くんや◇◇くんが居た時は○○くんの頑張りを評価してくれた」

挙げるとキリがない。

メンバーメンバーメンバー

貴方が好きになった人はそんなに代わりに誰かを下げた評価をしないと輝けない人ですか?

ファンの目の前で、評価して貰えないとダメな人なんですか?

彼は確かに「承認欲求」が高い人だとは思うけどファンがいるところ、ファンが分かるところで「おれのこと評価して」「もっとファンの前でおれのことほめて」って言ってたら精神年齢かなり低くないですか?

他のメンバーに「しゃがれ」とか散々言っているのを見る度に私は内心ヒヤヒヤして少し、傷ついてたし、言われた彼がちょっと悲しそうに笑う姿を何度も見たけどそれは覚えてないのかな。

私は関西人から好きな人オチとして扱われていたら「オイシイ!」って思う。

(関西人で違う意見をお持ちの方がいたらすみません)

「やめてよ、○○くんが可哀想

っていう意見も分からなくはないけど、今ここでオチとして扱われることで次のお仕事に繋がることもあるんじゃないかなと思います

そりゃたまには見てるこっちが心配になるときもあるかもしれないけど、本人が「僕傷付きました」とは言ってないならそれは「頑張れ」、いま頑張ってるんだろうね、でもいま私はこれ以外にきみを励ます言葉を知らないよ、って。「頑張れ」って応援します。

話してるのに遮られてたら

「あっ、今の話面白くないやつなのかな?」「スベる前にカットインしてくれてありがとうメンバー

って思う。「いやそれ面白くないからでしょ。仕方なくない?」って思っちゃう…私だったら。

テレビ番組とかってファンじゃなくても楽しめるものにしないといけないからできるだけ面白いトークをしないといけないと思うんです。「○○くんの話が聞きたい!」その気持ちも分かります。でもファンならその番組以外でも聞ける、ラジオ等。

「裏方として頑張ってる○○くんのこともっとメンバー評価するべき!」

って意見。そうだね、評価してあげるのも大事、でもそれって評価したらメンバーかなり上から目線に見えませんか?

あと、私は裏方として頑張ってくれてる○○くんの事、『‘‘自ら”裏方のお仕事も率先してやってくれている』という認識なので「おれ、裏方やるから!頑張るからほめて!」ってそういう意識でやってるとは思ってません。彼はプロなんだから

褒めてほしくてやってないでしょう?

きっと。


○○くんを除いて仲良しに見える?

アイドルメンバーとずーーーーーっと仲良しこよしして横一列に並んで歩んでいかなければならない?

「ほら、俺らちょっと先に行ってるからお前も後追いかけて来いよ!」って切磋琢磨しながら進むアイドルダメなのかな。

あと、「○○くんは純粋アイドルなのにこんなことさせないで!そんなキャラじゃない!」って何?誰の中のイメージ

キャラクターを掴もうとして頑張っている彼に、自分の中だけのイメージをぶつけて「違う!」ってちょっとひどいなって思ったりもします。

今はアイドルという肩書きだけじゃやっていけなくなっている。アイドルということ以外に何か個性や魅力がある方が仕事に繋りやすい。

今、活躍しているメンバーは、

アイドルであること以外の武器を身につけていて、彼もそれを感じ取っていて、新しいキャラクターを見つけようと必死に、前を行くメンバーに追いつくように頑張っている。のにファンからは「違う」と言われる。

他のメンバーと比べられて「他のメンバー中途半端アイドル以外の仕事をするな、本職の人に失礼だろう。○○くんを見習え。」って、自分ファンが書いてる。

私がアイドルなら、○○くんならこんなことを自分ファンが書いてるって知ったら恥ずかしいし、メンバーのことを悪く言われてたりしたら悲しい。

もうアラサーで、10年以上一緒にいるメンバーと「仲良くしろ」って、もうすこしアイドルの仲良し文化自由があってもいいんじゃないかと思います

メンバーが○○くんのことを尊敬してないと思いますか?尊敬できないってグループを抜けた人もいたね。でも今ある4人は尊敬できるから残ったんじゃないの?尊敬できないならその時に抜けてるんじゃないかな。

「抜けたメンバーグループにいたときは○○くんのこと評価してくれた。」って。

そう思うなら文章そっくりそのまま手紙に書いてファンレターでも書いて送ればいいんじゃないかな。

今、頑張ってる彼の頑張りを潰すのが彼本人のファンだなんて本末転倒じゃないのかなぁと。


羽ばたきたいって思ってる鳥が、かわいいかわいいって鳥カゴの中で可愛がられてるだけじゃ羽ばたけない。

羽ばたいている鳥に 鳥カゴのなかで頑張って羽ばたこうともがいてる鳥のこと褒めてあげなよ!そしたら羽ばたけるでしょ!って、違うと思う。

相模原事件人権意識


朝、相模原事件ニュースを見て目を疑った。

酷いニュースなのはもちろんだが、それよりもっとおかしいのはマスコミ報道姿勢



一通り事件について報道した後、オリンピック都知事選話題に何のためらいもなく移っている。


19人も亡くなるという戦後最悪の殺人事件であれば、即特番が組まれるべきで、他にもバラエティ番組を延期するなど何かしらの自粛ムードが起きても不思議じゃない。

政府対応も同じで、首相役員会で簡単声明を発表するのでなく、きちんと映像付きで被害者と遺族の方へのご冥福と、事件真相究明について語って欲しい。



その一方で、なぜアメリカケリー国務長官プーチン大統領映像付きで今回の事件に対し迅速に声明を発表しているのか、なぜ日本より海外メディアの方が大々的に報道しているのか。



ひとつ仮説を立ててみた。

海外では障害者の方も「当然」人権を持っているという意識根底にあり、健常者だろうが障害者だろうが19人の人命が失われた事実フォーカスし、同じように報道し、哀悼の意を表するのに対して日本人はもしかするとその意識が欠けているがためにこんなに軽いマスコミ政府対応になっているのではないだろうか?



プロテニスプレイヤーフェデラー言葉を思い出した。

http://grapee.jp/14951(より引用

日本記者ロジャー・フェデラーインタビューしたときに「なぜ日本テニス界には世界的な選手が出てこないのか」と聞いたらしいんです。

するとフェデラー

『何を言っているんだ君は? 日本には国枝慎吾がいるじゃないか!』

と言った」



という内容。

これだけで全てを判断することはできないが、日本人障害者を軽く見ているというひとつの例ではないかと思う。少なくとも欧米よりは。



障害者だけでなく、社会的弱者全体への意識が低くなっていないだろうか?風当たりが強くなっていないだろうか?

マスコミ民意の鏡である」という言葉があるが、まさにこのマスコミ報道姿勢自分たち障害者社会的弱者に対する意識を現しているものだと思うがどうだろうか?

[]7月26日

○朝食:なし

○昼食:鯖ご飯(滅茶苦茶美味しかった。セブンイレブンの鯖ご飯です。ちょっとまりにも美味しくて、今から夜食に同じのを買いに行くか悩んでるぐらい美味しかったです)

○夕食:まだ食べてない



調子

仕事メチャクチャ大変だった。

いや、普通の人にとっては普通なのかもしれないけど、

朝の九時から定時までズーーーット喋りっぱなしなのは、ツラかった。

別にがなったり怒鳴ったりするわけじゃないのに、ノドが痛くなってきた。



今のお仕事は、大きく分けて三チームに別れてて、

僕はAチーム所属してるんだけど、

Aチームの偉い人二人が出張でいないから一番の古株が僕の状態な上に、四月入社の人が三人(まだ半年も立ってないのに早くも彼らの中での序列が生まれてるの社会の縮図感があって恐ろしい)も加入して、

かつ、Bチームの人が1人長い長い有給をとることになって、その穴埋めで僕はBチームの仕事もしてて、

その上、AチームとBチームのことを両方のことをしってる希少な人という立場のせいで、

Cチームの人から色々質問がきて、(本来ならAチームの人とBチームの人2人呼ばないとわかんないことが、たまたま僕がこうなったから僕1人呼べば良いやって感じで、凄い気軽にしょうもないことでも呼ばれるようになってる気もする)

という、あっちいったりこっちいったりで、元々それなりに忙しかったんだけど、

遂に、僕の手で全部やるのが無理なんじゃないの? って感じになってきてる。



っていうか、なんかもう嫌になってきた。

何が嫌って、なんかこう偉い人が適当に決めたスケジュールに振り回されるのが、嫌になってきた。

うーん、なんか違うな。

もっとちゃんと文章にすると、

偉い人が決めたスケジュールに、ちゃんとした理屈を持って反論しない「ちょい偉い人」のことが嫌いになってきた。



あー、なんか、ちゃんと文章にすると、ますますイライラするだけで、なんの得もないな。

ようするに「ちょい偉い人」が、上から振られたスケジュールをただ、下に回すだけで、

このスケジュールでやると、結局出戻りがあるとか、今このタイミングでしても意味がないとかを、ちゃんと僕以外の人も含めて皆が言ってるのに

「やれって言われたから……」っていう消極的な態度で、やろうとするのが気に食わないんだ。

「やれって言われたかアリバイ作り的にやる」なら、そうと言ってくれれば、こっちも力を抜いて適当にして、後から帳尻を会わせるとかするのに、

闇雲に全部を全力でやらせようとするから無茶苦茶になってくるんだよなあ。



で、ますますムカつく原因として、一番大本の「偉い人」は、ちゃんと話すとわかってくれるタイプの人なんだよなあ。

しろ、これを話さずに無理矢理終わらせてクオリティが低い事や、このタイミングですることの意味の無さを相談しないことを凄く嫌がるタイプで、

たびたび「なんでもっと早く言わないんだよ!」って怒ってるわけなんですよ。



じゃあ、僕が頭越しにそれを忠言するのは、間違いなく違うから、僕としては我慢するしかないんだけど、

「ちょい偉い人」の自己防衛としても、ちゃんと一回会話した方が良いと思うんだけどなあ、

なんかこの人、会話を凄くいやがるんだよなあ。

こう、全員に言わないといけないことなのに、一部の人しか言ってなくて面倒なことになったりとかさあ。

しょうがないんだけど、

しょうがないんだけど、




疲れた!!!!!!




とにかく、疲れた!!!!!!





はあ……

疲れた……

明日いきたくないなあ……




っていうか、お腹空いた。

http://anond.hatelabo.jp/20160725201635

向き合ってないだけだろね。

昔は「死」がもっと身近だったけど、

現代は遠ざけられて隠されているからね。

余命宣告の段階的受容なんか有名だけど、

自分の身になるまで誰も真剣に考えないってこったね。

興味本位で少し考えてみたところで所詮想像レベルで終わるだろうね。 

これが、死後の世界とかあの世とか来世とかっていう

世界存在がなんとなく続くもんだと考えてたら恐くないんだよね。

でも宗教も遠ざけられた現代にとって「死」は完全な隔離であり、

記憶だとか世界だとか意識なんかが全て無、虚へと切り替わる。 

もしこの後自殺しようと、100歳の老衰死ぬとしても

死の前では「生」の間の一切は消失する。

全てがなかったことになるし、これから何も始まらない。

言葉だとあんまりピンと来ないけど、

こういうことを実感を伴って想像してしまった時の

絶対的隔離感、孤独感のようなものは異質な恐さがあるね。

そういうことを踏まえた上で「死を思って生きる」ことこそ

人間としてのスタートだなんて哲学者は言ってるし、

死の受容こそ悟りの一歩だって仏教者は言うだろうね。

そういう考えまでいくと恐さより知的好奇心が勝ってくるよね。

今すぐ心臓発作で死んでもし、いつか死ぬとしても生死について

もう少し知りたいな。 ってくらいで生きてるよ。

再生医療とか電脳化で生死がなくなることの方が恐い気もするけどね。

2016-07-26

なんで凶悪犯が現れると同情的な意見が飛び交うんかね

相模原障害者施設殺人事件に関するの見てるとさ、


職場環境がああだのこうだの。


日々つらいことがあってもガマンしてるうちらがそれを賞賛されることはないのに、実際に殺した奴が出てきたら「もっとよい環境を」だの何だの言われるのは、おかしいというか、理不尽ではないかい?


皆、職場だの、家庭だの、地域社会だの、憎い相手が山程いるけどガマンしてるだろ?


なんでガマンできない奴が出てくると途端に同情的になるんだよ


お前ら、普段、追いつめられて自殺した人が出ても何も思わねーだろ


真っ先に心配すべきなのは自殺大国日本の現状だろうがよ


だいたい相模原事件なんて犯人はでっかい刺青入れたDQNじゃねえかよ


被害者は、犯人にとっては憎たらしい奴も多かっただろうけど、大して接点無かったのもいるだろうし、ヘタしたらまったくの入れ違いもいたかもしれないだろうよ


こういう時ばっかり社会を憂う立派なお人になってんじゃねえよ


まったくやってらんね

なぜ書いていたのか

以前、3日に一回程のペースでブログを書いていた時期があった。

当時は慣れない土地一人暮らしを始めた時期で、その時に書いていたのは自分のなかのドロドロしたものや、自分の中で処理しきれない葛藤を書いていた。

ドロドロしたもの葛藤と書いたが、要は自分の置かれた境遇に対して一方的被害者面をしながらひたすら周囲への恨みつらみを書いていた。

今思い返すとその時の自分は、自分の身の周りを取り囲む環境や、さらにその周りを取り囲んでいる社会というものを、何か得体の知れない怪物のようなものだ、というイメージで捉えていた。

そしてブログ文章を書くことで、その怪物とどうにか闘っていくのだ、と当時の自分は考えていた。





その後所属する組織が変わることで、社会から隔離されたような不安定身分から、それなりに安定した社会的身分を得ることが出来て、プライベート人間関係でも新たな要素が加わったりするなど、公私ともに安定した生活を得ることが出来たが。その一方で、ブログを書くという習慣はその頃から無くなった。

特に大きかったのは、プライベートできちんと話を聴いてくれる人が出来たことで、それ以来ブログを書きたいと思うことはほとんど無くなった。

自分が何かを悩み始めれば、電話なりLINEでいつでも聴いてくれる人が出来たので、1人で悶々としたものを内に抱え続ける必要が無くなった。




ただそれだけの話なのだが、当時の自分、血を滲ませるようにブログ文章をつづっていた当時の自分はそれを聞いて納得するだろうか。

社会対峙するつもりでブログ文章を習慣的につづり続けるという行為は、公私の生活が安定し始めた途端に消滅してしまったのだと当時の自分が聞いたらきっと、じゃあ自分自分なりに誠実に書いていたそれらのものは一体何の価値があったのだ、と感じて悲しくなったり、社会的身分が安定して私生活が充実したからといって、ひとりで世界対峙する思考を捨ててしまったお前は腰抜けだなどと今の自分のことを責めるだろう。

当時の自分は、周囲への怒りを原動力にして自分を取り巻く環境社会糾弾し続けることが状況を前進させるのだと思っていたし、それが社会にとっても有意義なことだとさえ思っていた。




あのときブログ文章をつづることがいずれ、この境遇から少しでも自分を進ませることにつながる、と考えていた。

あるいはブログ文章をつづることは、このクソ現実を変えるための有意義行為であるかのようにすら感じていた。

それは有意義もなにも、自分が辛いのはこの世界を作ったお前らのせいだ、と自分が苦しいのを自分を取り巻く環境のせいにすることでしかなかったのに。




当時の自分は、自分が辛い状況に置かれることになった大本の原因は自分を取り巻く環境社会にあるのだ、と決めつけていた。

そしてそういう思考の枠組みが、単なる思い込みであることに気がついていなかった。




今振り返ると、当時の自分は、自分を取り巻く世界自分自身とを対立させてしか物事を考えることが出来てない。

社会vs自分、という構図でいつも物事を考えていたし、その二項対立に固執していたのだと思う。



そしてその二項対立から導き出される「社会」というものは、現実自分身の回りを取り囲む、顔の見える範囲での人との関わり方というものから乖離した、自分の頭の中だけで作り出されたものだった。

現実自分の周りにいる、顔の見える人たちとの関わり方に対して責任を果たそう、という考えを持つことは無かった。

そして現実に実際の人々と関わりを持つことを避けてきたために、自分の頭の中で「社会」というものは、ひたすら暴力的衝動に突き動かされて自分のことを搾取する理解不能怪物のようなものだ、という考えばかりが占めるようになった。



そもそも当時置かれていた環境は、今思い返すと、そんなに思い悩んで苦しむようなものだったのかすら怪しい。

一人で勝手に苦しんで、一人で勝手に状況を悪化させていただけだったように今は思える。




当時の自分はどうしてそこまで頑なに自分世界から切り離して物事を考え続けていたのだろうか。

どうしてそのような二項対立は公私の生活が安定することでいとも簡単に消し去ったのか。




けっきょく私は、自分の周りの世界に対して、どうして自分の欲求を満たしてくれないのだと怒っていただけなのだと思う。

どうして自分の欲求に沿った環境を用意してくれないのだ。どうして皆もっと私に構ってくれないのか。そう思っていた。





いくつかの偶然と幸福が重なって、私のその欲求のいくつかは叶えられた。欲求が満たされない頃は赤ん坊のように泣き喚いて不満を表明していたが、腹が満たされオムツを替えられると、また母の胸の中ですやすやと眠り始めた。




から、あぁそうだ、自分たまたま幸運が重なって、母乳で腹を満たされ湿ったオムツも変えてもらえたから、それで泣き喚くのを止めただけなんだ。





たまたま欲求が満たされたから、母に対するギャン泣きを止めただけで、決して自分の足で歩き始めたわけではない。




いま腹いっぱいのうちに、母がいなくても大丈夫なようにひとり立ち出来るようにすることが、今の自分がするべきことだ。

我々はあの日と違ったカタストロフへの恐怖の中で生きているのだ。

もっと曖昧で、もっと複雑で、もっと緩慢としたそれが絶えず我々にうそぶく。人はもう終わりなのだと。

30年。終わりなど来ない。しかし終わりはその幻をチラチラと我々に見せつける。煙のようなそれを振り払おうとそれは再び現れる。より不確かな姿となって。

幻は幻故に消し去ることは出来ない。我々は幻を抱いたまま坂を転がり続ける。

劇的な終わりへのカウントダウンなどありはしない。ただ漫然と転がり続けた先に突然現れた崖の下へと、我々は落ちていくのである

明らかにカタギの仕事刺青入れてる人間を雇いたいと思うだろうか、、、

介護職なんかは前科者まで受け入れてしまうらしいじゃないか(不本意な罪状なら仕方ないとして

もっと普通の人と普通じゃないワルな価値観の人には明確な線を引いたほうがいいと思う

どっちもなんて欲張りすぎじゃない?

http://anond.hatelabo.jp/20160726195409

確かにそんな感じはするけど、もっとワルい事も選択肢にあると思うんだけど

カタギな事しかしてないのが気になる