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2017-04-27

死ね発達障害児

もうすぐ5歳になる発達障害児がいる。

毎日毎日、家でも外でも保育園でも、問題を起こさない日は無い。

排除したい。

我が子だからこそ、排除したい。

周りに迷惑をかけるだけの存在の我が子。

発達障害児人権なんて無い。

善悪理解できておらず、欲しか頭の中にはない生き物だから

自分中心にしか行動できない生き物だから

注意しても忘れるから

脳が恐ろしく機能していないんだよ。

我が子が死んだら、まず保育園担任が喜ぶだろうな。

次に、我が子のクラスメイト保護者が喜ぶ。

定型の子は、毎日園であった出来事自分から細かく報告できるから、「今日も◯ちゃんは嫌な事してたよ!」と両親に言ってるんだろうな。

我が子の被害にあってる子なんかは、「また◯ちゃんにやられた」って泣きながら言ってるんだろうな。

発達障害の我が子は、今日あった出来事なんて、こっちが聞かない限り言わない。

詳細も言えない。

綺麗事じゃない。

世間発達障害児の親のブログなんてさ、「発達障害だけど我が子が一番可愛い!」とか、そういう内容ばかりなんだよな。

私は、発達障害の我が子に消えてほしいよ。

2017-04-24

http://anond.hatelabo.jp/20170424172559

善悪でいったらどうかんがえて悪だと思うけど、善ってかんがえてる人いるの?

ていうかなんで帰らないの?主体性ないの?

時給が10,000円だったら200時間でも300時間でも喜んで残業するんでしょ?

  

正直にいいなよ、割に合わないから辛いって。

  

残業に使った時間自分のために投資したら、働かなくても稼げるようになるって思わないの?

ばかなの?

2017-04-16

日本の子供向けコンテンツ善悪区別しすぎ

アンパンマン戦隊ものライダープリキュアとかさ

結局、敵のバックボーン不明瞭のまま倒されちゃうよね?

彼らには悪に至る道程が示されず、絶対悪としての役割しか与えられてないか

そいつ気持ち良く袋叩きにすることが肯定化されてしまってる

アメコミでは大抵ヴィランに深い(正直、ヒーローよりも)歴史があり

彼らの方が人気が出てしまうほど愛されてるし

マンガみたいな子供向け媒体では狂言回し的な役割でも、

映画みたいなハイエンド大人向け媒体だと

社会的重要役割を持ってたりする(Xメンのマグニートージョーカーパニッシャーとか)

あと、カトゥーンネットワークでは「最後暴力解決!」みたいなアニメがそもそも少ない(笑)

日本の子供向けコンテンツヒーローさんサイドの良い一面しか伝える気が無い

から軽薄だし、世界であまり通用しないじゃないかな(パワーレンジャーローカライズしたもんだし)

2017-04-07

http://anond.hatelabo.jp/20170407101053

結城晴「あのなあ…そりゃいじめた奴は事実悪いのかもしれないけれど、子供がそのへん善悪理解してないっていうこと自体を分かっていってるのか?

ああ、言っておくけど『子供善悪理解していないかいじめ子供に罪はない』ってことを言ってるわけじゃないからな。

子供がほかの子供をいじめるってのは、誰かから偏見を貰ってきてその偏見正当性考慮できないままにいじめることが悪いことだと判断せずに実行に至ってしまうからなんだよ。

この『誰かからもらう偏見』ってのは、テレビなんかもあるけど大凡根元は親だよ?

いじめっ子の親が、増田まとめサイトみたいな露悪的な情報源から間違った情報を得て、知ってか知らずか正しいか正しくないか判断を保留しながらその露悪的な思想子供感染させてるからこそいじめが起こってるんだよ。

そういう意味でいえば増田が悪だし、いじめをなくす方法だってそんなに難しい話でもないんだぜ?」

2017-04-05

結局なんだかんだ言いつつも自分も周囲も完璧超人を求めてる

自分を売り込むことにおこがましさを感じる

http://anond.hatelabo.jp/20170404192727

こういうのにありがちな結論で、自己肯定感が低いとか、完璧主義から力を抜けとかいうところに落ち着くんだけど、本当に残酷だと思う。

仮に自己肯定感が強くて、自信に満ち溢れている人がなにか間違いを犯したとして、それを自己肯定感の強さゆえに認めなかったら、それはそれで叩かれる。

当たり前のことではあるが、必要とき必要なだけ自分への自信が求められて、必要とき必要なだけ自分省みることが求められる。

良くいえば、重要なのはバランス感覚ってことになるんだけど、悪くいえば、つまりそれはあらゆる状況に即した完璧中庸が常に求められるということでもある。

スピリチュアルな感じでいうならば、ありのままを見つめて、善悪判断せずに事実だけをそのまま受け取れ、ってことでしょ。

完璧主義っていうと、100点しかありえないみたいな極端思考のことを言うと思うんだけど、俺からしたら「要はバランス」的な答えこ完璧主義理想主義極致だと思う。

そんなこと誰だって分かってるだろうし、そうできるのが理想なことぐらい言われるまでもないが、本当にそんなことできてたらとっくに世の中全員仏陀だよ。

バランス中庸を、自分と周囲の内外二つから圧力によって求められるって、これほど息苦しいことはない。

2017-04-04

いじめから逃げるか逃げないかに迷ったら考えてほしいこと

はじめに断っておくことは、これはまぎれもない生存バイアスである

話の一つくらいで聞いてほしい。

自分いじめられた原因は、不良グループの一員のプライドを傷つけたことだった。

いじめと言えば見た目や行動が特徴的な人間が受けるものだと高をくくっていたので、まさか自分がこんな目に遭うだなんて想像すらしていなかった。

不良グループの前でそいつに「パンを買ってこい」と言われたことを「いやだね」と断ったのがきっかけだ。そいつはその場で他のメンバーからかなりバカにされたのだろう。

翌日そいつは二人組で自分のところに来て、再び「パンを買ってこい」と言った。

再びそれを断ると、二人は机の両脇に立ち突然脇腹を一発殴ってきた。全力ではないことは分かったが、鈍い痛みが走った。

その日以降同じようなことが毎日毎日、何回も何回も繰り返されるようになった。

その内理由もなく殴ってくるようになり、暴力も少しずつエスカレートしていった。

自分いじめに立ち向かう上で、勘違いしていることがあった。

それは、立ち向かうこと=反撃することだと思っていたということだ。

から一緒に戦ってくれる仲間や強い武器を探し続けた。

しかしそれを続けていく上で、そのことが間違っているかもしれないと考えるようになった。

なぜなら、それを続ければ続けるほど、自分も仲間も傷が増えていく一方だったからだ。

それに例え相手に傷を負わすことが出来ても、報復は何倍にもなって自分に返ってきた。

結局自分の行動は、相手報復正当性を与えてしまっていたのだ。

これではいじめがなくなるわけがない。むしろエスカレートして当然だったのだろう。

いじめに耐えられなくなり中高一貫校を高2で中退するまでの3年間、自分は多くの深い傷を負うことになった。

その後は友人とも音信不通になり、全く新しい環境で一からスタートすることになった。

両親が熱心にハマる宗教に頼らざるを得なかったが、今になってみればそれがなければとうに命を捨てていただろう。

それから20年が経ち、今では結婚もして子供を授かることが出来た。

守るべき家族ができて、ようやくあの頃の自分真正からかい合うことができてわかったことがある。

立ち向かうということは、しっかりと対話解決することだったのだ。

いじめ人間心理も、反撃する心理ももとを正せば相手を裁こうとする気持ちだ。

しかし、本来その場にいる誰にだって誰かを裁く権利はないはずなのだ。それは当然親にも先生にも与えられていない。日本ではそれこそ民事刑事しか持ち得ない権利だ。

それなのに誰かが誰かを裁こうとする。だからそこに善悪が生じてしまい、どちらかの暴力容認されてしまう。

教師いじめを後押ししてしま典型的パターンと言ってもいいし、実際に自分担任相談したとき善悪を問われるばかりで自分すら責められかねない勢いだった。

そうしてわかったことは、少なくともいじめに対して是非を裁こうとする人間の話には耳を傾けてはいけないということだ。

どちらかが良くてどちらかが悪いだなんて簡単結論付ける人間を、たとえ自分の味方になってくれたとしても信用してはいけない。

一緒に状況を考え、問題を紐解き解決を冷静に考えてくれる人間必要なのだ

お互いがお互いを裁くことが許されないのであれば、残された道は和解か決別以外にはない。

さらに、どちらかがどちらかに攻撃を加えることをどれだけ正当性があっても許してはいけない。

なぜなら、いじめが残すもっとも良くないものは、他でもない当事者に対する傷痕だからだ。

それは肉体面においても精神面においてもである

そうして付けられた傷痕は、小さなものなら完治できても、大きなものは一生をかけて付き合わなくてはならなくなる。

からいじめられる境遇にあったら、どれだけ傷を負わないようにできるかを一番に考えてほしい。逃げることが時に心の傷になることだってある。

その時その時の状況で、どれが一番傷を負わないで済むかを選択することが大切なのだ

ただ、勘違いしてほしくないことは、傷痕があることが必ずしも不幸とは限らないということだ。

その傷痕が原因で自分の臨むものが手に入らなくなってしまうかもしれない。でも、自分の臨むものが手に入ることと、自分幸福になることとは必ずしも一致するものでもないのだ。

自分はこの大きな傷痕のおかげで、得られた沢山の幸せを実感出来ている。

それを今掘り下げるつもりはないが、なにより、もうそこに傷痕がある以上なくすことはできないのだから、それを嘆いて生きるより受け入れて得られるものに目を向けたほうがよいのだ。

最後に一つ、あの時逃げ出したことは正解だと思っている。

なぜなら、いじめは少しずつ、でも確実に体力と精神力を奪うものからだ。時に周囲の対応だって大きく奪われることさえある。

もしこの二つが消耗している時にどれだけ時間をかけて悩んでも、それによってポジティブ結論が導かれることはないだろう。

疲れていたり無理をしていると感じるようなことがあれば、そのときは何よりも休息が必要だ。

戦い続ける必要はない。逃げ続ける必要もない。

傷を負わないように、負った傷を癒せるように選択をしていけばよいのだ。

あの時、恥を厭わず逃げてくれてありがとう

この想いが、あの時の彼になにもしてやれなかった自分に届いてくれることを願う。

2017-04-01

http://anond.hatelabo.jp/20170401200916

複雑な問題多角的に見れずに、自分の色眼鏡だけで決めた善悪を振りかざすやつなー。いるいる。

まぁ、そんなゴミのような人に振り回されずに、自分の正しいと思った人生を生きなさい。いちいちそういうのを気にしているうちは、軸がブレてる証拠から

2017-03-26

[]

今回は少年ジャンプ+

ファイアパンチ 45話

やる気のないコマ割は、まあ今に始まったことではないから置いといて。

今回の見所はやはり後半の展開。

まあ正直、今回の第一印象は「ウダウダやっといて最終的に“これ”って、どうなんだろう」って感じだけど。

アグニは頭では理解しているつもりだったが、復讐心は燻っているってことなんだろう。

43話の感想で、「何かしら演じている人物は間違いをしているってことを示している」みたいなことを私は考察したけれども、アグニ演者として脱却した結果の行動が今回のだとするならば、一概にそうでもなさそうだなあ。

アグニの心の中にいる妹が言うには、ドマは演技をしているってことらしいので、その演者断罪するという意味解釈することもできなくはないけれども。

はいっても、妹との対話シーンは実質アグニの自問自答みたいなものなので、これはアグニ自身がそう思っているってことだから、そこまで信頼性に足るものではないが。

やっぱり本作のテーマは「演技」が主体で、善悪は抜きにしても「演じ続ける」か「そこから脱却するか」といったことを中心に語っていくんだろうかね~。

僕のヒーローアカデミア すまっしゅ!! No.68!!

本編でやるとセキュリティがザルすぎるってなるので、スピンオフギャグマンガならではのシチュだよね。

黒霧のコスプレは相変わらず笑わせに来ているが、もうこの漫画での扱いの方向性が定まった感があるなあ。

死柄木がオールマイトやデクの言葉イライラしたり、逆に爆豪の言動に満面の笑みをしたりするのとかは、死柄木の特徴を上手くデフォルメしているなあと思った。

オニマダラ 25話

ありゃ、終わったか

最後主人公セリフ脱力感が凄まじい。

総括としては、最初から最後まで大味な漫画だったなあ。

まあ、何がダメかっていうと行き当たりばったりな展開、演出だと思う。

そして、それがほぼワンパターンなんだから読者は飽きるに決まっている。

「ここで、このキャラを無残に殺す」だとか「登場人物が突飛な言動をする」などといった展開はここぞという時にだけやるから意外性があるのであって、それを毎回やればウンザリするだけだよね。

俺を好きなのはお前だけかよ 3話

主人公役割がしっかり物語への理解を助けて、漫画面白さにも起因しているところは評価したいところ。

やり取りもところどころラブコメ典型踏襲しつつも、あくまでそれを茶化している漫画だということを思い知らせる主人公独白や、素っ頓狂なネタが合間に挟まれるのも本作の個性が出ていると思う。

それにしても今回でタイトル回収きたかあ。

友人とヒロイン二人の仲を取り持つコメディ寄りのラブコメというだけでもプロットとしては魅力的なのに、そこに更にエッセンスを加えて、話がどう展開するか分からなくなってきたなあ。

気持ちとしてはこの「どう展開するか分からない」というのはワクワク感の方が強いけど、話の運び方次第ではテーマが定まらないことにもなるし、現状そこらへんは個人的に警戒気味。

2017-03-25

http://anond.hatelabo.jp/20170324144539

幼児子供を作れないかロリコン生物としておかしい」とか言い出すと

同性愛者はもちろんダイエットする女性徹夜で騒ぐパリピもおかしいことになるので

生物本来性質(これもたいてい素人妄想だが)」と「社会的善悪好悪」は切り分けたほうが良いですよね。

2017-03-22

会社小学校と同じ

先週、会社の同じ部署人と飲みに行った。

私は部署の中で一番下っ端で、別のとこの部長主任、平で5人。

とてもいい飲み会だったのが、やはり会話は噂話になってくる。

そのうち、同じ部署Kさんの話になった。どうやらその人はこだわりが強くて嫌われているらしい。私に対してはとても丁寧に教えてくれていい人だったので、あけすけな話を聞いてやはり会社というのは大変な所だと思った。

そのKさんは話し方が変わっていて、少し変な話し方をする。どうやら主任などは、その話し方にイライラしているらしい。自然面白おかしく真似したり、馬鹿にしたりする方向になった。

私も少し感じていたのでその場で笑っていた。

そして今日主任が私のところにきてKさんがそばにいるのに、あの真似をしてみせたり、部長にその飲み会での話をしていた。部長もどうやらKさんのことが嫌いらしいので、部長にその話をしたら喜ぶらしい。

はいくらなんでも会社でするのは気が引けて苦笑いをしていた。

そうすると、部長が帰り側こちらにきて主任と、私にKさん子供の頃の事故でそうなったという話をしてきた。だからあんまりその話はするべきじゃないですね、、って話。一気に冷めた。

その話の時に、ああ、この記憶は私の中に一生残って消えることはないなって思った。

正直はじめから馬鹿にするようなこと言うのは嫌だったけど、確かに話し方も変で酒も飲んでいて笑ってしまった。付き合いで笑ったのか、本当に面白かったのかもうわからない。

小学生みたいな話だ。

小学生みたいなことして小学生みたいに注意されて。

もーだから会社なんて嫌だ!

どいつもこいつも、本人いなきゃなんでもかんでも言っていいと思って!!課長だって会社でたらただのおじさんだからな!!

?ん小学生の時に習っただろ、悪口はいけませんって!

なんで悪口言っちゃいけないか、人を傷つけるから、人を傷つけることは自分を傷付けること、つまり悪口は言った本人に返ってくる。

そういえば小学生の時もこんなことあったな、それで怒られたな。

会社に入って本当に歓迎してもらって、みんな尊敬できる人で自然と頑張ろうと思えてたし楽しかった。こんな小さなことで挫けてちゃいけない。でもこういうのが本当に疲弊する。どうしても過敏になってしまう。もっと鈍感にいきたい、でも人の気持ちが分かる人でいたい。これ全てを小学校の時の先生に話したいけど、連絡手段もないから、話したことにする。

そしたら、先生はそれはよくないことだな、でもお前はもう理解できたから次は気をつけられるだろ、次から気をつけようって言ってくれるかも。



追記

反応があるとは思わず、驚きました。

お叱りの言葉共感言葉ありがとうございます

注意されたのは、飲み会にいた部長とは別で私の部署部長です。

コメントトラバにもあるように、子供のようないじりや悪ふざけ、噂話、他人気持ちに鈍感なところそういったところが小学生と何も変わらずうんざりしてしまったのです。

また自分だけ清廉潔白だと思ってる、または100%善人はいないなどのコメントがあり、ハッとしました。

人は誰しも常に善人でいられるわけではないし、常に悪人でいるわけでもない。私もそうです。

ただ常に善人、人として善を積みたいのは単純な本能としてあります。情けは人のためならずという言葉にもあるように。

ただ善悪概念は人それぞれだ。

それならば善人として生きたい私はどうするのか。そもそも善人でいたいがために他人を利用するようで、自己都合のみ考えているのはいいのか。

生きているうちに人は鈍感になっていくのは当たり前で、未だに子供のように動揺している私が一番未熟な気もしてきた。

今日Kさんの顔が見れなかった。

2017-03-14

http://anond.hatelabo.jp/20170314020425

特撮アニメは、時代のずっと先をゆくものなんだよ。

20~30年前の特撮アニメは単純な勧善懲悪善悪二元論ばっかりだったろ?

ニュースを見て分かる現実は、ようやく、20~30年前の特撮アニメに追いついたばかりなんだ。

勧善懲悪ヒーローはもう流行らないなんて話があった

10年以上前特撮しろアニメしろ、単純な勧善懲悪善悪二元論で語る話は減っていたような気がする。共存可能性を探ってみたり、あるいは最初から己の正義を信じる者同士が殺し合ったりする話が持て囃された記憶がある。

そんで今。単純な勧善懲悪、というか善悪二元論めっちゃ流行っている。

ニュースを見れば政治家学校法人ボスが「こいつが悪の総大将だ!吊るせ!」と言わんばかりに攻撃されてる。

マスコミによって分かりやす対立軸が設定されて、善側に配置された人の欠点は見て見ぬフリをされる。

一方で悪側に配置された人は何をやっても叩かれる。もっともなことを言おうが、無駄。その内歩いただけであいつ歩いた!って叩かれるんじゃなかろうか。

誰だよ二元論限界だとか言ったやつ。ますます進んでんじゃねーか。

2017-03-13

「ただ金が欲しかったんだよ」って言って欲しい

DeNAキューレーション問題調査報告書読んで震えている。集団的サイコパスだと思う。本当に怖い。

書いてることが倫理とか善悪とかそういうレベルじゃない。法務事業部経営も全部おかしい。調査委員会はあまり惨劇善悪ラインがズレている。

まだ「ただ金が欲しかったんだよ」って開き直ってる方が共感できる。そう言って欲しい。

2017-03-02

えあー

「必ず発生するものからいいも悪いもないってさ、殺人は必ず発生するから社会が悪い(国が悪い、政治が悪い、教育が悪いetc)、と同じじゃね?」

倫理感情なしで損得ぬきで社会賛同できるわけでもない社会では社会の悪・・・すらも信じないのです・・・人の生きる次元・・・・は・・殺人と同じように日々探し疲れており・・・・偶然の必然善悪だけに留まら・・・社会が憎い。」

2017-02-28

「世のため人のため」はエゴイズム

「世のため」とは人間社会のため、「人のため」とは他人のためなのですから人間至上主義エゴイズムほとばしっていることにはかわりありません。さらにいえば、自分のためでは無いということによってあたかも「エゴイズムではありません」っていう大義名分を得るわけですから、むしろ危険です。

「世のため人のため」は人間中心の利己なのですから、どうやっても、地球のためとか宇宙のためとか動植物国土風土のためだとかい価値観には直結しえません。

道徳と称するものは、(儒教の)信仰ですから、「道徳エゴイズムだ」というのはタブーであり、嫌悪されます中国文化圏は儒教信仰で、日本というもの儒教国家です。そして、国家社会を維持するための方策として、儒教教化されてきました。信仰を「間違っていますよ」と指摘されると怒るわけです、己の誇りの無さを埋めるために依拠するところですから信仰とは、無批判善悪が決まっていて、自然法則は抜け落ちます日本儒教国家ですから儒教道徳批判することは国家社会の既成構造、既成状態批判することと同じ、すなわち社会の既成状態によって助かっている人々にとって、儒教批判タブーで、絶対ダメであるわけですね。

さて、例えば「一番じゃなきゃダメ」だというスパコンにせよ、その神戸スパコンケイってやつは確かに例えば気象シミュレーションに用いることで災害予測技術の向上にも活用されています災害予測をすることで、「かけがえのない人命」が助かると、ほぼ皆思うでしょう?

問題は、人間ってそんなに大事タマなんか?ってこと。

人類人間至上主義で、他の動植物地球宇宙のことが抜け落ちています。例えば、人命のためだとか、国家のためだとか、人類のためだとか、子孫繁栄のためだとか、そういう目的資源も浪費するし、地球破壊して、それでもなお増殖しようとしてきました。その異常性を省みることすら、ほぼ全ての人は、しません。

人命のためとか、産業のためとか、経済成長のためとか、国家のためだとか言っていれば、いくらでも資源を浪費してかまわないという理屈になるでしょう。そのためには、化石燃料を浪費するし、核燃料を遣ってでも電力をジャブジャブ消費可能にしなければならないということになる。防犯のためならば電灯点けっぱなしにもするし、宣伝のためならば看板の電灯も点けっぱなしにするし、自家用車は売りつけるし、誰もがモノを所有し放題で浪費していいという社会状態にした方が都合がいいわけです。

そもそもは例えば神道にせよ、原初神道、つまり神祇信仰、いわゆる自然崇拝という時点では、地球宇宙自然現象に対する畏敬がありました。天皇祭祀を行いますが、その祭祀目的天神地祇、つまり自然自然現象の御機嫌を読むことです。それは、天皇以前の卑弥呼などであっても同じです。そういう超能力ESP)であり、そういう職業です。

それに対して、神社神道へと変遷し信仰対象が人へと換わり、そして人間我欲を満たすことが主目的の祈願ばかりが行われるようになり、さらには国家主義のいわゆる右翼にせよ国家神道と称する儒教信仰しているわけですけれども、そうなるともう人間社会至上のエゴイズムです。

人間ってそんなに大したタマなんか? 「かけがえのない命」っていうけど、どうせそのうち死ぬんだろ? それが当然の自然法則であるわけですから、その現実直視してイヤイヤしないのが、本来神道原初神道)もそうですし、本来仏教人間釈尊が説いた仏教)もそうです。

儒教国家主義だけではなく、民主主義とか共産主義とかでも凡そ、人間中心主義から脱け出られません。人間至上のエゴイズムから脱出するには、そもそもの自分自身思想が、脳が、その域に達する必要がありますデモクラシーであろうがコミュニズムであろうが、当の人々ひとりひとりがその域に達した生物にならなければ、人間至上から抜け出した自己客観視の可能スーパーエゴのある社会にはなりえないのです。むしろ民主主義かいってその域に達しない人が政治参加をして自己批判もしないでいると、エゴイズムによる政治になります。つまり衆愚政治になります。けれど言うまでもなく、独裁体制階級政治身分による社会であっても、社会差配する者がエゴイストであれば、話になりません。

そうすると、今の、安倍日本にせよ、プーチンロシアにせよ、トランプアメリカにせよ、どうなのかって、いちいちここで言うまでもないと思います

2017-02-21

http://anond.hatelabo.jp/20170221044055

「ひとのわるぐちいうならじぶんがいわれてももんくいうなよ」

で済む話をどんどん広げていって善悪とか短所とか気持ち悪いエゴ押し付けまで行ってしまってるのが残念な増田

2017-02-20

アニメの出来が酷いとかどうとか

けものフレンズ第一話を、酷い作りだという人がいる。

実際は丁寧に作られているのに、本人が読み取れないがゆえに苦行だ修行だというのだ。

読み取れないことは仕方がない。ただ、それを表明する必要はない。

一話を好きだという人の心をあえて乱す必要はないはずなのだ

読み取れないことは知能の問題だが、それを表明しないことは知能に加えて倫理問題である

そのあとで、一話の再評価の機運が高まってくるにつれ、手のひらを返してきた人もいた。

意見を替えること自体問題ではない。人は変わるものからだ。

しかし、酷いと言っていたにもかかわらず、手のひらを返してから絶賛するのはあまり浅薄である。誠実でない。

正直この手の人々にうんざりしているけれど、それを止めることは困難だ。

そもそも異なる人間であり同じ見地に立っているわけではないのだから議論も成り立たない。それでも議論しようと突っかかっていく人もいるが、自分と別のやり方で楽しんでいる人々に突っかかっていくことが正しいやり方とは思えない。

善悪区別に乏しいファンでもない雑に言及する人間に見つかってしまうことは不幸だが、それは優れた作品が広まる過程では仕方のないことのようにも思う。

いろんな人がいてそれぞれ得意なことが異なる、までは良いが、そのために生じる摩擦や不幸ないさかいは減ってほしい。それも戦争ばかりの人類には難しいのかもしれんが。

2017-02-16

単なる世間知らずじゃないだろうか

善悪別にして、男が海外旅行先で現地の売春宿風俗店に行くのは割りと一般的なことだと思っていたんだけど。

海外じゃなくても温泉旅館スーパーコンパニオン呼んで宴会やったとか、連れ出しスナックに行ったとか言う話はちょいちょいあるだろう。

日本人はそんなことしない」と心底信じているなら、あまり世間を知らなすぎる。

ただ、あのまとめに一言キーセン観光の件が触れられていなかったのもどうかと思ったけど。

昔は男が韓国に行くと言ったらキーセン目当てとしか思われなかったくらいなのに。

2017-02-15

http://anond.hatelabo.jp/20170214193556

宗教について考えるとき歴史的なさまざまな経緯(虐殺迫害など)があったことは分かる。だからそれを狂信的に信じて、他人をどうこうしてきた経緯があるから善悪っていう基準が出てくるのも。

ただ、そういうもの原理主義的に考えても仕方ないんじゃないのかなあと思う。

例えば母親子供が無事に生まれてきますように、育ちますように、って祈るためにあったり、苦しいとき自分だけじゃなくて神様も一緒に苦しんでくれるとか、苦難にぶつかったときに神の試練なんじゃないか意味を見出そうとしたり、そういう「弱さ」(ここにはいろんなものが入る)に寄り添ったりしてくれるものなんじゃないのかな、と思う。

我々は別に神学者哲学者、あるいは原理主義的なテロリストじゃないんだから善悪っていう一面的な捉え方をする必要はないんじゃないかなと思う。

2017-02-11

米が散らかって付着した写真話題になってるけど、米を作った人に失礼だから全部食べるのが当たり前っていうけど、わざわざ全部食べるのは餓鬼(食べても腹が満たされないやつ)みたいで卑しいっていう考えもできる。

その判断個人の見識次第。ツイッターでとやかく善悪を論じるべきではない。

2017-02-06

映画沈黙 サイレンス」に便乗してキリスト教入門を語ってみる

映画沈黙サイレンス‐」がそこそこ流行っているみたいなので、便乗して「映画を見に行きたいけどキリスト教については何にも知らねーよ」という人に向けた「キリスト教とは」みたいな文章を書いてみたいと思う。

私自身は某プロテスタントの家庭に育った人間なので、どうしてもその宗派に寄った解釈というかバイアスは避けられないと思うけど、今回は可能な限りキリスト教最大公約数を目指して当たり障りのない範囲解説をしていきたい。

ちなみにタイトルは半ば釣り。「沈黙」はカトリックベースの話なので、どこまで私の話が参考になるかは分からない。

私自身、原作は読んだことがあるけれど、まだ映画館には足を運べていないので、その点は事前に了承しておいてもらいたい。

 

ポイント1 神様世界をすべて作った

キリスト教神様は全知全能。ミスも犯さないし、世界のすべてを知っているし、できないことも何もない。で、そんな神様が「光あれ!」と言って、世界ができた。「天地を創造された」ってことになってるけど、まあ、宇宙を作ったって解釈問題ないと思う。

 

ポイント2 神様人間自由意志を与えた

神様世界を作った後で、エデンの園って場所地球上のどこか)に最初人間を作った。アダムとイブ宗派によってエバ・エヴァとも)ってやつ。神様人間絶対服従のロボットみたいにすることもできたけど、あえて自由意志を与えた。自分意志神様を敬うようになって欲しかったって解釈でいいと思う。

で、「お前ら基本的に好きに生活していいけど、園の真ん中にある木の実(「善悪知識の実」とか、翻訳によって色々)だけは食べちゃダメよ」って人間約束した。

 

ポイント3 罪の支払う報酬は死

案の定アダムとイブ約束を破って木の実を食べちゃった。

元々、神様人間を「不老不死」で「罪」も犯さな存在として作っていたんだけど、この約束違反をキッカケに人間は罪を犯すようになってしまった。

「罪」の解釈は難しいテーマなのでサラリと流すけど、とりあえずキリスト教的には、人間ってのは普通に生きていれば呼吸をするようなレベルで罪を犯す存在。それくらい厳格な基準で罪と判別されることになっている。要するにキリスト教的には人類100%罪人ってこと。

そして「罪を犯した人間」はワンミスでも即「永遠の命」の権利を失う。理由については宗派によって解釈が違うかも知れないので触れない。ここでは、とにかくそういうルールだと思って貰えばいいと思う。

 

※余談だけど「神様は全知全能なんだからアダムとイブ約束を破るの初めから分かってたんじゃねーの」というツッコミは当然ある。長くなるし議論にもなるところなので端折るけど、この手の分かりやすツッコミどころ(いっぱいある)に関しては、基本、前人たちの手によって何かしらのエクスキューズっていうか言い訳が用意されているので、興味がある人はまずは調べてみるといいと思う。

 

ポイント4 イエス・キリスト人間の代わりに死んでくれた

人間は罪を犯す存在になり、そのために永遠の命を失ってしまったんだけど、神様人間を見捨てなかった。「罪の支払う報酬は死」っていうのがルールなら「罪を犯してないヤツ」が代わりに死ねば、罪を犯した人間の「死」はノーカンになるよね、って理屈で身代わりを送り込んでくれた。それがイエス・キリスト

このイエス・キリストっていうのは、神様本人でありながら神様の息子でもあるという複雑怪奇存在しかも、神様でありながら人間としてこの世に生まれてきた。もう訳が分からんと思うけど、この辺も宗派によって超議論になるところなので、今回はそういうもんだとしてスルーする

とにかくイエス・キリストは、人間として生まれ大人になったけれど、その間、一切罪を犯さなかった。そして、そのまま人間たちの手によって十字架にかけられて殺された。「罪を犯さなければ死ななくてもいい」っていうルールだったのにキリストはあえて死を選んだ、という解釈が正しいかどうかは怪しいけど、まあそう考えると理解やすいだろうか。

 

ポイント5 信じるものは救われる

そんなこんなで、人間の罪はキリストによって帳消しになった。ただし、神様あくまでも自由意志にこだわるので、これを受け入れるかどうかは依然として人間次第。だから人間が罪を帳消しにしてもらって「永遠の命」を取り戻すためには「サンキュー神様、身代わりありがとね」と神様宣言する必要がある。

何をもって宣言したとするかについては宗派によって色々だけど、まあ「洗礼バプテスマとも)」と呼ばれる儀式を受けるのが一般的。「心で受け入れればそれでOK」なんて解釈もある。逆に、あれこれ義務的な内容が追加される宗派もあるけれど、ベースに「身代わり理論」があることは変わらないはず。

 

ポイント6 「永遠の命」「死後」「最後の審判」の解釈は様々

人間個人の罪は身代わりによって帳消しになったけど、依然として人間が罪を犯す世の中は続いている。だから神様はどこかの段階でこの世界を一旦終わらせて、もう一度、罪のない世界を取り戻す(最後の審判)。そのとき、罪を帳消しにしてもらった人間は「永遠の命」が与えられる。とまあ、実のところ、この辺りまでが大体どの宗派でも共通しているだろうっていえるギリギリの線。

じゃあ具体的に「最後の審判のあとどうなるの?」とか「最後の審判の前に死んだ人間はどうなるの?」とか「『永遠の命』を貰えなかった人間はどうなるの?」とか、細かい話は本当に宗派によって色々なので、もうここでは一切触れない。

まあ、「永遠の命」を与えられた人間が、最終的には「天国(あるいは天国的なところ)」で幸せ暮らします、っていうのは多分共通だと考えてもらっていいと思う。あと「永遠の命」を貰えなかった人間は少なくとも幸せな結果を迎えられないってところも、多分共通

 

おわりに

とまあ、後半は特に曖昧表現が多くなったけど、キリスト教最大公約数的な説明をするなら、多分こんな感じになると思う。

本当は、これを踏まえて「一般的日本人クリスチャン意識や考え方が噛み合わない理由」みたいな話もしたかったけど、長文になったので、それはまた次の機会にしたいと思う。

ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち☆☆

ネタバレ注意

あれ?これバトル始まるのかよ。いやでもBFGもそんなもんだったか

昨今の悪者退治系は善悪の物議を醸したENDみたいのが多いから巨悪を倒してハッピーエンドみたいのはこういうので見とけ感はなくもないが。

そんなことよりバトル後半戦は双子無双しろよと思った。

もっと平和映画でよかったんだけどまあ面白かった

総評

パンツが見えなかったので星2つです。

透けパンが見えた気がしたけどきわどい判定ノーパン

舞台「孤島の鬼」2017版を観劇して

※私の答えが見つかったので、現在最終解答を書いています

ですが、この初見感想も非常に重要でしたので、是非お目通しいただいて推理の参考になさってください。

※表に出した最新考察と印象はこちら。初見感想の次にでもどうぞ

http://anond.hatelabo.jp/20170209222825

http://anond.hatelabo.jp/20170212024356

夜明けて昨日の話。

推しの握手会が思いの外さっくり終わり、通りすがりのご夫婦に推し布教も楽しくできて、気力と時間が余ったので当日券でレッドシアター行ってきた。

とても面白かったのだけど、なんかこうすごくもやっとする原因を掴みたくて、江戸川乱歩原作の方の感想を漁り、こちらのブログに辿り着いた。

http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636

こちらを拝読してめっちゃスッキリしたので、スッキリしたこと前提に感想を書く。

ネタバレしまくるし、恐らく原作既読でも舞台観劇の方は先に舞台観た方が絶対面白いだろうから観劇予定のある方は読まないでくださいね

まず私がもやっとしたのが、「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」ということ。

こーゆー考察甲斐のあるタイトルや、善悪、美醜、世間自分の解離みたいなモチーフが出てくる作品だと、どうしても「果たして鬼とはなんだったのか?」と邪推してしまう。

そこでまず強烈に思い浮かぶのが主人公であるはずの『私』。

『私』役・佐藤永典さんのお人形のような美貌と、書いて字のごとく鬼気迫るお芝居、そして聞き慣れない失われた昔の日本言葉は、あまりにも『我々観客と同じ存在である共感し難い。

そもそも、主人公目線で語られる物語は、主人公感情移入させて物語に没入させることが狙いのひとつだろうに、全然『私』=箕浦感情移入できない。

ネタバレにならないことを祈って例を挙げると、演劇で観たことがあるミステリーだと『罠』『スリル・ミー』などが思い出される。)

これは『私』が作品の『語り部』であるため、強制的に観客が『聞き手』の役割を担ってしまうからでもあるかもしれないけど……

それにしたって、締めの内容からしても物語の本題が「『私』と諸戸道雄」の関係に集中してしまってならず、

そうすると、田中涼星さん演じる諸戸の執着心のおぞましさに沿ぐわない清廉でどこか儚げな美しさが、彼の一途な愛を健気で尊いものに感じさせてきて、その愛情を受け入れない『私』が何か恐ろしいもののように思わざるをえなかった。

でも、それっておかしくね?って思って。

ホモフォビアを受けることへの同情というか、同性愛差別への嫌悪感も逆手に取られているような気がする。「理由はどうあれ女の子は泣かせちゃいけない」みたいな、ずるい構図が仕組まれているように感じる。

自分が恋をしてフラれた時のこと・恋されてフッた時のことを参照すると、

いくら思わせ振りだったとしても応えてくれない相手の方が悪者だなんて絶対に思えないし、

どんなに周りから薦められてもどうにも受け入れられない相手はマジほんと無理。

目線だって絶対許せない地雷カップリングというもの実在する。

から「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」であるとは、理性的には到底思えない。

でもじゃあどうして「『私』が鬼」だと感じるような作品に仕上げてしまったのか?

これが冒頭に書いた「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」というもやもやの詳細。

この感情原作に対して正当なのか? 舞台版という二次創作であるが故の解釈押し付けなのか?

という部分が気になって、ググって辿り着いたのが先ほどのブログ

http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636

Wikipediaに書いてあった、「陰獣」みたいな新作をとリクエストされて執筆されたのが「孤島の鬼」らしいというエピソードから勝手妄想して、

江戸川乱歩=諸戸目線で「創作された箕浦」が『私』なのではと解釈し、舞台版にめちゃくちゃスッキリできた。

諸戸道雄の死で物語が終わるのもさもありなん。

観客は真の主人公である江戸川乱歩(諸戸)に感情移入させられて、「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」だと錯覚してしまうのではと。

田中涼星さんの白木蓮みたいな美しく一切の嫌悪感を感じさせない諸戸は、きっと江戸川乱歩ブロマンス結晶として大正解

対する『私』がエゴイスティックに語れば語るほど、それは作者(江戸川乱歩であり諸戸)の恋の哀しみの深さ、恋情の深さを伝えてくる。

女性に執心する姿がなんか気持ち悪く見える・描かれるのも作者による悋気からだろうし、諸戸に対して残酷過ぎる描写は傷付いた作者本人が語らせてるからだろう。

『私』が歪であればあるほど、「箕浦にもどこか諸戸(作者)を愛する部分があってくれ」といった願いの叫びに聞こえる。

(観ていると「箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑が浮かんでならないのだけど、『白髪になってしまうほどの生理的な恐怖・嫌悪』という動かぬ証拠は、容疑を否定してならず、この辻褄の合わないミステリーももやもやの一つだった。)

メタ推理として「陰獣」を出したのも、江戸川乱歩自身による己の殺害物語カタルシスにあるように感じられたから。自身を不幸の中で殺すことで、遺された人間へ爪痕を残すという側面も含めてね。

(愛を願いフィクションを書き綴るのに成就させず永遠片想いとして殺す……って、個人的めっちゃ萌える。)

作者による「ぼくが考えた最高に美しく残酷箕浦永遠に愛してる)」ってやつ。考えたというか、「恋愛疑心暗鬼の中で見えていた箕浦」。

しかしそれが本当に『箕浦』のすべてだったのか?

舞台「孤島の鬼」(2017)では、語り部の『私』と『箕浦』を別の役者さんが演じている。

私は原作未読であるため、同一人物であるはずの二人を別々の人間が演じるということが奇策なのか妥当なのかわからない。

でも、配役を知ったとき

美少年役もまだまだできそうな童顔の佐藤永典さんが30代で老人のような白髪姿になった『私』で、

佐藤さんより身長も高く年上にだって見えかねない美青年石田隼さんが20代箕浦過去の『私』」を

演じることが疑問だった。

いくら『私』は外見が変わってしまったといえど、あまりにも二人の外見が似ていないこともあってね。

「もう一人の自分」みたいな表現が出てくる演劇はいくつか観たことがあるはずだけど、原作未読とはい観劇前に違和感を持ったことはなかったように思う。(まあ大体そういった存在物語の核心中の核心に触れるので、配役表から対の存在公表されてることは少なそうだけども。)

しかし『私』を『諸戸が想い描く箕浦』とすると配役がまあしっくりくるし、『本物の箕浦』と役者を分けたことが大発明のように感じられる。

舞台上には二人の箕浦が同時に立ち、シーンによって他者とのコミュニケーション表現担当者が変わるのだけど(どっちが台詞を言うか、みたいな)、

諸戸と出会い親交を深めた学生時代箕浦はずっと『私』(佐藤さん)が表現し、

諸戸と別離大人になり恋人の初代との出会いから箕浦石田さん)は登場する。

石田隼さん演じる箕浦は、佐藤さんの『私』と同一人物のはずなのに、鬼なんて印象もなく何故か善良な青年に感じられていたのだけど、『私』の方が諸戸(江戸川乱歩)の色眼鏡認識された箕浦なんだと思えばこの対比はすごくいい。

 

「『私』は諸戸目線で見えていた認知の歪んだ箕浦であるため、『私』の歪さから箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑を持ってしまうが、

事実として『箕浦』は諸戸に迫られることに身体変調するほどの生理的な恐怖・拒絶を示している。

(皆さんは自分の体が深層心理拒絶反応で意のままに動かせなくなったことがあるだろうか。私はある。手から全身が痙攣してゆき、これしきのことで動じるな止まれ意識しても震えがまったく止まらない。だから私は生理的な拒絶は動かぬ心の証拠だと考えている。)

箕浦』は諸戸の性愛を受け入れることはできなかった。

しか性的に愛されないことが、『愛されていない』ということなのだろうか?

必死に求めるあまり諸戸からは見えなくなっただけで、性愛ではないけれども某かの情が、性愛にも決して劣らない尊い愛が『箕浦』にもあったのではないか

そういった諸戸の盲点が、諸戸が『私』と会話し夢中になっている時の『本物の箕浦』(石田さん)にあったのではないかと、舞台演劇となり二人の箕浦が居ることで私は考え至った。

物語としての「孤島の鬼」の作者は諸戸(江戸川乱歩)だという解釈は私が勝手にしてるだけなので、舞台版が諸々の采配をこの解釈で行ったかはわからないけど、改めて『私』と『箕浦』の登場場面の違いを確認しながら観劇したら面白そうだなぁ!

より妥当なところの分裂理由として「箕浦二面性」はあるだろうし、じゃあそれぞれの境界線舞台版ではどこだと考えられているか読み解くのも面白い

作中に登場する双生児は境目が見えたけど、二人の役者に分けられた一人の人物のメスは何処に入ったのか。

うろ覚えだけど、諸戸の告白以降は『私』が箕浦として生きているから、舞台では箕浦と諸戸は一緒に天国に行けたのだ、な~んて解釈ハッピーだよね。

(どちらかというと、諸戸が悋気を持たなければ、欲を出さなければ、あるいは悪い男になれていたら、箕浦と一緒に天国に行けたかもしれないのに諸戸が鬼の箕浦を生み出してしまった…って自己破滅エンドの方が私は好きかな。まさに疑心暗鬼を生んだ、的なね。)

(報われず自分に追い込まれ破滅した美しい男性テーマ舞台大好物なんです。)

延々と箕浦組について語って夜が明けてしまったけれども、他の役者さんや演出表現もとても良かった。

諸戸の父親最期に対して、主人公である箕浦』の感情が語られず『諸戸道雄』の感想セリフとして発せられたのも、諸戸の父親を演じていたのがまだ30前半と『私』に近い年齢の美しい河合龍之介さんで妖しい男の色気を放っていたのも、「諸戸の主観こそが語り部の『私』」であったとするならよりしっくりくる。

父親の変貌は、絶対他人箕浦よりも諸戸の方がショックな出来事だ。

父親越えなんてテーマもよくあるほど、子供から見た方が親はより巨大さ恐ろしさを増すし、親が壊れる様というのは「自分にも起こり得る恐怖」と「自分があれほど巨大に感じていたものとは一体何だったのかという虚無」感がぱない。私も父親経験たからわかる。

河合さんの怪演は本当に感じるものが多くあった。

舞台というもの面白いもので、同じ現実を同じ密室複数の人々と同時に別々の目線位置角度(物理的な意味で)から観測するものから

書籍映像物語を鑑賞する以上に「他者が見ていない『自分視点』」が感想を述べる際にものすごく意識される。

たとえ自分複数人居たとしたって、観劇した感想は同じにならない。

演出による印象操作完璧に同一にはできない。(それをぶち超えるクソチート暗殺者が『音楽』だと私は考え重要視しているけど、それはまた別の話)

から舞台は観るだけでも楽しいし、感想を言うのも聞くのも他メディアの何倍も楽しい

そんな訳でこれらの感想はすべて《私》の主観しかなく、原作者スタッフキャストが込めた意図真相はわかんないんですけどね。

舞台「孤島の鬼―咲きにほふ花は炎のやうに―」、とてもよい観劇でした。

2017-02-05

http://anond.hatelabo.jp/20161102175212

周りにいる人たちは自分たち需要に応えてるだけであって善悪を決める立場ではないっていって思考停止してるな

俺がIT系エンジニアが嫌いな理由

2017-02-03

http://anond.hatelabo.jp/20170203160318

揚げ足取るようだけどさ

善悪人それぞれなら、悪だけが暴走しないって仮定おかしいんだよなぁ

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