はてなキーワード: 生計とは
裕福ではないが、食うのにはあまり困っていない。自分で言うのもなんだが、俺はなかなかの「インターネット絵師様」なのだろう。フォロワー5桁だし。
オリジナルも描くが、二次創作もたくさん描く。その中には当然、版権元から許可が出ていないものも沢山混ざっている。
そして、そんな自分のことが嫌いであり、二次創作の収益化など今すぐやめたいと思っている。
分かっている。俺の言っていることは既に支離滅裂で、こんなことをインターネットで口にしようものなら炎上して総叩きに遭うだろう。
だが、まずは知って欲しい。こんな人間がどうして生まれてしまったのかを。
そもそも、そんな奴がなぜ二次創作での稼ぎなどしているのだろう。
話が逸れるのであまり細かくは書かないが、数年前の俺はとにかく生活に困っていた。社会に適合できず、頼れる親もおらず、このままでは生活保護か死しかないなあと思っていた時期がある。
まあ言ってしまうと、「金に困って版権エロに手を出した」ということになるだろうか。
もともと絵だけはそこそこ得意だったので、ためしにエロ絵を描いてみた。そしたら、子供の小遣い程度だが、金になった。
とても嬉しく、「もしかしたら俺はこの道で食っていけるかもしれない」と思った。この頃はまだオリジナルばかり描いていたはずだ。お題箱にはたくさん版権のリクエストが来ていたので、応える形で二次創作も描いていたと思う。
すると二次創作のリクエストが来た。俺に断る選択肢はなかった。生まれて初めて、「お金を払うからあなたに絵を描いて欲しい」という人が現れたのだ。当時の俺の喜びようたるや、凄まじいものだったろう。そのときは、エロ二次創作への罪悪感なんて一切感じていなかった。
なぜなら、周りの絵師が全員やっているからだ。クライアントも当然のように二次創作のリクエストを送ってくるからだ。なんなら、有名な版権の公式イラストを手がけているような人間もどしどしfanboxに二次創作を上げている。世の中は狂っている。
そうして俺は、二次創作で稼ぐインターネットエロ絵師になった。skebで描いた作品の差分をfanboxで限定公開した。さすがにこれはいくらか抵抗があったが、周りが全員やっていたので、そうした。また金になった。
「今の俺、かつての俺がめちゃくちゃ嫌いだったタイプの絵師様じゃないか?」
skebもfanboxも二次創作まみれ。ポ〇モンとか、かなりモラル的に怪しい作品もある。
生活に余裕のないときは、「余裕が出てから一次創作に以降すればいいや」と思っていた。だがskebの過去作品は消えない。fanboxの今までの記事も、今更非公開にするわけにはいかない。そこまで余裕はない。金に執着するあさましい自分が醜い。
一次創作だけで食っていく自信は全然ある。でもそれは、「周りの人間が全員ズルして二次創作で食ってても俺だけは一次創作で食っていく自信」じゃない。生活が苦しくても守れるような誇りじゃない。
いっそ二次創作なんて全部禁止になってしまえばいい。そうしたら俺は一次創作だけで他の奴らと渡り合える。
俺の言ってることは滅茶苦茶か?
滅茶苦茶だろうな。
もう二次創作で稼ぎたくない。
共通の友人に根掘り葉掘り聞いて、結婚式の写真も見せてもらった。新婦の両親は品の良さそうな家族。お互いの実家を行き来してて両家仲良さそうと聞いて大泣きしている。とても悲しい。人は同じもしくは近いカーストの人としか結ばれないのか?
付き合いは本当に順調で、私は彼の実家にもよく顔を出していた。注文住宅の一軒家、ペットの犬、何より優しく働きものの彼の両親と兄弟が大好きだった。
結婚を意識し始めた25歳の春。彼が四国の私の実家に来たいと言った。私の実家は貧しいこと、フル奨学金で進学した事は事前に伝えていた。再度「うちの実家本当に貧乏だから、驚かないでね」と伝えた。彼は「大丈夫だよ」と笑っていた。
私の実家は古びたトタン貼りの長屋タイプの貧乏平屋で、申し訳程度に片した物が散乱している部屋にアルコール中毒気味の痩せこけたパチンコ狂の父親とプリン頭のだらしなく太ったパチンコ狂の母親と祖母と分不相応な吠えまくるチワワがいる。生計は祖母の年金と両親のたまの労働と借金と私の仕送りで立てている事は内緒だ。
挨拶のために、事前に家を片付け、身なりを整えてもらい、食事は地元の料亭を予約した。彼らの自己紹介も事前に台詞を準備し、練習してもらった。彼はそつなく私とお付き合いしているという挨拶をこなしてくれた。家族は事前に準備した服を着用し、台詞をこなしてくれたが、彼の仕事と彼の実家の事をそれとなく聞きお金の匂いに目を光らせていたので、少し憎く思ってしまった。
それからしばらくは今まで通りのお付き合いが続いたが彼の実家の定期イベントのバーベキューに呼ばれる事はなく、なんとなく疎遠になっていき、私の実家に彼が来た3ヶ月後に、彼の浮気の自白と強引な別れ話で交際は終わった。
納得できなかった私は彼の実家に訪問した、彼は不在だったが彼の母親が出てきた。あんなに仲良くしてくれたはずの彼女は家に招き入れてくれず、近所の喫茶店に私を連れ出してくれた。私は別れに納得がいっていない事を泣きながら伝えた。彼女は冷ややかな目で私を見て「ごめんね。私にはどうする事もできない。」と言った。
当時も今も浮気の件は嘘で、私の実家にドン引きしたから別れたのだと思ってる。ハリボテの家族ぐるみの演技も見破られたのだ。親にあんな嘘をつかせてまで、私は幸せになりたかったのに、結局なにも手に入れられなかった。
そういえば、友人が結婚する事になった際、相手の身元調査するって言ってたな。
当たり前なのかな。どんな項目でNGが出るのかな。
ふとした疑問です。世の中には色々な方法でお金を稼いでいる人がいますが、パチプロは自分以外の誰も幸せになる要素がない、そのうえ他の人を不幸にして生きているので、他者にとってその人が生きている価値があるのだろうかと思い、この記事を書きます。
そもそもパチプロについて知らない人のために軽く定義を書きます。
この記事においてパチプロとはパチンコ・スロットで生計を立てている人のことを指します。パチンコ・スロット以外に真っ当に仕事をしていない人のことを指します。
台選びや技術介入をうまくやれば、毎日朝から夜まで打ち続けて年間数百万から多くて一千万円くらいは稼げるのではないかと思います。
まあ原理的にはパチンコ・スロットで生計を立てるのは可能だと思ってください。運に左右されて年間百万単位で収入は変わってくると思いますが。
ここからはなぜパチプロが生きている意味がないと思われるのかを書いていきます。
正確にいうと所得税を納めていない、というのが正しいですね。消費税、タバコ税などは否が応でも納めているでしょう。
ちゃんと正しく税金を納めてさえいれば、その税金が巡り巡って国民の元に還元されていくわけです。
パチプロのせいであなたに還元されるはずだったものが無くなっているのです。
この時点でパチプロは他の人間に迷惑をかけて生きているわけです。
パチンコ屋は別に雇っているわけでもない人に勝手に店のお金を持って行かれているわけです。
パチプロによりダイレクトに不幸を受けているのがパチンコ店なのです。
パチンコ屋もトータルで利益を出さなければ経営できるわけがありません。
となるとその利益はどこから出てくるのでしょうか。そうです、他のお客さん(=非パチプロ)なのです。
日中誰かのために必死に働いて得たお給料を持って、ご褒美にパチンコ屋に来たお客さんが負けるのです。
パチプロが存在しなければ、お客さんのお金が減るペースがもっとゆっくりになり、今よりも良い体験をお客さんが受けられ、また仕事頑張ろうってなる予定だったのです。
誰かのために働いているお客さん、そしてそのお客さんを楽しませたいパチンコ屋(店員)が損をし、誰のためにもなっていないパチプロだけが得をしている。
終わってますね。
パパ活女子の方が生きている意味はないのでは?という声が聞こえてきそうです。
パパ活女子も税金を納めていないという意味ではクソなのですが、パチプロよりはマシです。マシなだけですよ。
まずパパ活女子は一応誰かを幸せにしています。ここでいう誰かとは「パパ」のことですね。
パパ活女子に会うために、パパは必死に仕事をします。そしてその仕事がまた他の誰かを幸せにします。
だからパパ活女子の方がまだマシです。何度も言いますけどパチプロよりはマシってだけですよ。
ちゃんと税金納めて、性病さえ流行らせなければだいぶマシになると思います。まあそういうのを考えられる頭を持ってる人はやらないでしょうけど。
富を持ったパパから、貧乏なパパ活女子に富が再分配されています。
これは本来国がやることで褒められたことではないのですが、高いところから低いところにお金が流れる物理法則のような感じがオツですね。
何度も擦られたようなネタを、さもオリジナルであるかのように雄弁に語る情報商材屋は当然クソではあるのですが、プラシーボ効果というか、そんなクソみたいな商材でも誰か一人がポジティブに真に受けて良い行動を起こすかもしれないじゃないですか。
期待値はもちろんマイナスですよ。でもプラスになる可能性はあるわけです。
パチプロがいるから真っ当に仕事している人が頑張れるっていうシナリオが全く思いつきません
唯一パチプロが他の誰かを幸せにできる方法はとにかく金を使うことです。経済を回すこと
そしてできれば国内の会社のものが良いですね。boseのヘッドホンなんて使うなパチプロごときが。
宵越しの金を持つな。ただでさえ他人に迷惑をかけているんだからズル賢く生きるな。
パチンコ屋は勝つところじゃないんだよ。負けるためにあるんだよ。
パチンコは1日中椅子に座って画面を眺めているだけなので、当然ながら社会に通用するスキルは全く身につきません。
近年ではYouTubeなどでのパチンコ攻略法が広がって非パチプロのお客さんでも負けが少なくなってきました。
となると苦しいのはパチンコ業界です。誰も負けてくれなければ潰れていくしかありません。
パチプロが唯一頼りにしているパチンコ店が潰れたら自分の生活も危ういわけです。
頼れるパチンコ店がなくなった場合、そこにはなんのスキルもない右腕の筋肉が少しだけ発達した中肉中背が世に放たれるだけです。
そうなる前にさっさと普通に税金を納めるような仕事を始めた方が良いと思います。
父(扶養者)
子がアルバイトで年間103万円を越えた場合、(1~12月で判定)
父の扶養から外れるため、父の給与の扶養控除が無くなる。扶養控除は38万円。父の所得税率が20%だった場合、父の負担は+7.6万円。
いきなり父の扶養控除がゼロになるため、子が105万円稼いだとしても父子合算でみると子102万円の時より損になる。
ちなみに配偶者の場合は配偶者控除が無くなるが配偶者特別控除という控除になるので、壁ではなく坂のイメージ。
103万円という数字の出所は、給与所得控除55万円+基礎控除が48万円。
2020年までは65万+38万だったが基礎控除に10万スライドした。
だからあくまで給与所得者のための用語であり、個人事業主の場合は103万円という数字は関係ない。
父の扶養控除に入れるかどうか、なので個人事業の所得が48万円(基礎控除分)を越えるかどうかで判定する。
なお上記はあくまで所得税の話であり住民税はまた別であるし、父側の会社の給与制度も問題となる。
会社によっては扶養者が居る場合、扶養手当として1人当たり+○万円という給与体系にしているところもあり、
その扶養の認定は会社によってちがう。税法上の扶養者なのか、社会保険上の扶養者(130万の壁)なのか、
同居していれば良いのか、別居でも生計が一緒(仕送り等)であれば良いのか、これは会社に確認するしかない。
(追記)
2024年6月の定額減税について、今年に限り1人当たり3万円の減税が入る。
6月の給料でマイナスしきれない場合は翌月以降分でマイナスする。(賞与含む)
仮に毎月の所得税が1万円だった場合、6,7,8月の3ヶ月で3万円を減税する。
また、この1人当たり3万円というのは扶養が居る場合はその人数分であるので、
子2人居れば本人含め3名分=9万円の減税となる。
共通の友人に根掘り葉掘り聞いて、結婚式の写真も見せてもらった。新婦の両親は品の良さそうな家族。お互いの実家を行き来してて両家仲良さそうと聞いて大泣きしている。とても悲しい。人は同じもしくは近いカーストの人としか結ばれないのか?
この気持ちと経緯をどこに吐き出したらいいかわからないから、ここに書かせて欲しい。
私は地方出身で進学で京都に来ており、彼は京都出身の男だった。
付き合いは本当に順調で、私は彼の実家にもよく顔を出していた。注文住宅の一軒家、ペットの犬、何より優しく働きものの彼の両親と妹が大好きだった。
結婚を意識し始めた25歳の春。彼が四国の私の実家に来たいと言った。私の実家は貧しいこと、フル奨学金で進学した事は事前に伝えていた。再度「うちの実家本当に貧乏だから、驚かないでね」と伝えた。彼は「大丈夫だよ」と笑っていた。
到着した実家は古びたトタン貼りの長屋タイプの貧乏平屋で、申し訳程度に片した物が散乱している部屋にアルコール中毒気味の痩せこけたパチンコ狂の父親とプリン頭のだらしなく太ったパチンコ狂の母親と祖母と分不相応な吠えまくるチワワがいた。生計は祖母の年金と両親のたまの労働と借金と私の仕送りで立てている事は内緒だ。彼はそつなく私とお付き合いしているという挨拶をこなしてくれた。彼の仕事と彼の実家の事をそれとなく聞きお金の匂いに目を光らせる両親が憎かった。
それからしばらくは今まで通りのお付き合いが続いたが彼の実家の定期イベントのバーベキューに呼ばれる事はなく、なんとなく疎遠になっていき、私の実家に彼が来た3ヶ月後に、彼の浮気の自白&強引な別れ話で交際は終わった。
当時も今も浮気の件は嘘で、私の実家にドン引きしたから別れたのだと思ってる。逆の立場でもそう思う。彼と私とで貧乏の解像度が違うのだ。
関西に来てから、友人達の実家に行くことが何度かあった。みんな「貧乏育ちだよ〜」と言っているが全然違う。経済観念が近いから仲良く出来ていたが、向こうはしっかりと躾けられたお嬢さんでガチの貧困は私のみ。
友人Aの実家は、確かに郊外だが、木造造りの立派な御屋敷だった。蔵もあるし。
(本人曰く田舎の古くてボロい家)
(本人曰く、駅から遠く古くて狭い家)
友人Cの実家は、漁港にある一軒家、家族で漁業をやっておりイキイキしてて眩しかった
友人A、B、Cのような出自であったら今頃彼と結婚しもう子供もいただろうな。
彼にも友人にも私の貧困は見えていないのだ。実際見たとしても彼のように何も言わず、私に何も言わせず去っていく。
めちゃくちゃ勉強を頑張って就活を頑張って、仕事も頑張って、稼いだお金は奨学金の返済と仕送りに消えていく。
そういや、同じように仕送りの愚痴を言ってた友人。当時は同じ悩みを持つ仲間がいて嬉しかった。お互い支え合って仕送りしてたよね。彼女は結婚した時に、そのお金がそのまま毎月貯められてた通帳をもらってたなあ(結婚式のスピーチで言ってた。みんな号泣してた)普通にお祝いももらった上で。羨ましい。羨ましすぎて吐きそう。私の苦しみまで、彼女の喜びの養分になっているようだ。
これ以上の恨み辛みとやるせなさはあるが、ダークサイドに落ちそうなのでこの辺で吐き出しやめよう。
家の周りに畑があった。生計の足しになってんだか、税金対策や趣味のレベルなのか、微妙に分からんレベルの規模のやつが。
繁華街にほど近い都心部で生まれ育った連中からは田舎と言われそうな、トーキョーといえば全部大都会だと思ってるような田舎者からは全然文明のある方だろと言われそうな東京西部の郊外だ。
道路を挟んでウチのマンションの目の前にその畑の直売所があった。ガキの頃よくお遣いで行かされて、毎度オマケを持たされた。おれが通い始めた時はウコンとかよう分からんものを貰ってきて、姉におまけの豪華さでマウントを取られ大変不快な思いをした。曰く、自分が行けばトマトとかもらえるのにお前はウコンなんぞもろてきてどう食うねんと。
それでも通っていくうちにインゲンとか枝豆とか、トマトさえも貰えるようになってきた。ある日目当てのものがなくて手ぶらで帰ろうとしたところ、タダで数種の野菜を袋に詰めて持たされたのを割とよく覚えている。
そんな光景も中学になれば無くなってきた。直売所が閉じたからか、おれが自我を持ち反抗期を迎えたからかは忘れた。
今やその手の地域のヌクモリティ的なものも煩わしいなと思う。事あるごとに「昔は素直で優しかったのにねえ」と言う母にイラッとして、人間は変わるもんなんです〜〜〜変化を否定すれば成長をも拒んでしまうんです〜〜〜いつまでも自我がなくて可愛かった子供の記憶に縋りついててウザいです〜〜〜と反抗期のおれは心の中でそう思っていた。今でも全然思う。それでもやっぱり他人の親切に素直にあやかっていた時期もあったんだよなとも思う。
お遣いには行かなくなっても畑は以前在る訳で、家の周りの光景として、原風景の一つとして心に刻まれてる。好きから嫌いかはともかく。
中学高校の頃、さっさと家を出たいという気持ちが常に頭の半分以上を支配していた時によく夢を見た。家の庭のフェンスによじ登って、夢特有のフワフワとした跳躍で畑を超えて行く夢だ。
逃げた先に何があったかは覚えてない。何もなかったかもしれない。少なくとも天国ではなかった。でも逃げる事に意味があった。
夢なんて大体理不尽で不条理で謎の存在に謎に追っかけ回されるばっかりだし、脳のウンコでしかない。示唆的なものがあるとかユングの類は全部まやかしだと思ってる。それでも家の裏の畑ばっかりは固有のモチーフとして何度も何度も出てきた。ウンコでも健康状態を知るのには役に立つのかもしれない。予知夢とかは全部嘘か偶然か思い込みだと思う。
夢に限らず、100mほどの畑沿いの道を歩くのは好きだった。夜中にひっそりと家を抜け出して、音楽聴きながら畑越しに見える団地や電波塔、送電塔みたいなデカ建造物をボーッと見てるとナイトホークスでも鑑賞してるような気持ちになれた。都会のダイナーには行けないけれど、郊外には郊外なりのものがある。
住宅街には住宅街の良さがあるとか言う人いるけど、おれは人の生活の息づきとかには何の魅力も感じない。人様の生活に勝手に思いを馳せて勝手に感動するステーションバーめいた行為をおれは下品とすら思う。だから住宅街の静かな畑の特に静まり返った夜中が好きだった。公園も悪くないけど、浮浪者とかおれの同類みたいな陰気ティーンや騒いでる学生風の集団がいたりしておちおち黄昏ぶってられない。
そんな畑もおれが高校卒業する手前辺りで、なんぼかを残しつつ潰されて家の建設が始まった。噂じゃ畑の持ち主はマンションを持ってて不動産収入があるらしい。やっぱり畑は本格的な仕事ではなかったんだろうか。
大学入って暫く経ってから一人暮らしを始めて、都心へよく行くようになった。今までは交通費も覚束なくて両手で数えられる程度しか行けなかった都心に。バイト先もわざわざ遠くの都心を選んだ。人の金で行けるのだから美味しい話だ。駅から駅の間を歩いても途切れる事なく繁華街が続く光景には心踊るものがある。夜中でなくとも歩いてて楽しい。夜中だと尚更楽しい。
それでも人のいない静かな場所で過ごすのは変わらず好きだった。聖蹟のゆうひの丘までよく1時間かけて歩いて行った。カップルが多かったりしてちょっと落ち着かないけれど、高台から見下ろす夜景は畑越しに見える景色と通ずるものがあった。終電で行く冬の鵠沼海岸も夏の芋洗い状態が嘘みたいに人がいなくて趣深かった。多摩川もいい。場所さえ選べば人がいなくて、トランペット担いで行って一応ミュートつけて練習してみたりたした。「河原でトランペットを吹く青年」を自分がやっている状況に興奮を覚えた。夜釣りと称して魚がいるかも分からん場所で竿を振り回したりもした。ボウズのまま迎えた朝陽はマジで綺麗だったし、なんか何かを急かされてるような気もした。この頃にはもう家の裏の畑を飛ぶ夢は見なくなっていた。
大学で色々あって最近また実家に戻ってきた。近所の景色もマイナーチェンジはありつつ、まあたかだか数年の事なのですぐ目に馴染んだ。
畑の跡地の住宅地は、おれが出ていく前はほとんど更地だったのが割と家の形になっていた。家の骨格越しに電波塔が点滅する景色はなんだかディストピアめいた味があって、これはこれでちょっと好きだった。
施工は日々進んでいって、人気のない家の殻が出来上がって来る頃にはもう遠くの景色は遮られて見えなくなってくる。新しい住宅地の中には公園と称した小さなスペースも出来ていた。空き家に囲まれたそこで夜にタバコ吸いに行くのがなんとなくルーティンになっていた。
カーテンも張られていないガラス戸からは工事用?の照明が付けっぱなしなのか、ほんのりと照らされるもぬけの空の部屋が見える。それを見ているとガラスをブチ割って土足で座り込んでタバコでも吸ってトレインスポッティングを気取ってみたい気分になってくる。廃墟どころか新居だし、そもそもそんな度胸はないので妄想止まりだけれど。
つい最近からその住宅街にも一挙に人が棲み着き始めて、夜中に歩いていても家々から放たれる息づきからなんだか圧迫感のようなものを感じる。
件の公園も日中はすっかりガキの遊び場になっているのを目にする内、なんとなく足が遠のいた。自分だけの場所が地域の(幼い子供を持つ家庭の)共有物となってしまったような気分だ。元々おれの場所などではないのだけど。
それでも時々ベンチにストロング系のロング缶が置いてあったりして、なんとなく捨て主にエンパシーを感じたりする。
平成狸合戦ぽんぽこで描かれたような再開発へのメッセージとはまるで別種だろうし、開発といってもごくごく小規模なものだけど、おれはおれなりのイヤさを感じているのかもしれない。
おれは地域のヌクモリティがさァ!文化資本がさァ!とかそういう話がマジで嫌いだ。ネットでその手の話題が露悪的に語られがちなのもあるけれど、土地がどうあろうが各々の生き方次第だろって思うから。おれは構造主義より実存主義が好きだ。
ステマかな?(スキマバイトアプリ業者の手の者によるステマかな?)
さもなくばビギナーズラックだと思うよ(元増田が就けたような愉快なスキマバイトは数が少ない。元増田の投稿がステマでないなら、スキマバイトで楽しい経験ができたのは運が良かっただけだ。)
そのうちブロックばかりになる(業者に一つでも悪評価をつけられると不採用になりつづける。)
ベテラン()が跋扈する仕事しか出てこない(○○経験者募集のような経験者対象の仕事か、スキマバイトで生計を立てているベテランたちが集う大量募集のスキマバイトしか採用されなくなる。)
たまに出る新規に行ってみれば社員に逃げられて人間不信になってるデブに出会って3秒で恐喝される仕事しかない(地方の場合、あるいはスキマバイトアプリによっては仕事の数そのものが相当に少なく、新たな仕事が出ることは稀。その新たな仕事というのも人格が破綻した社員に雑に指示される仕事ばかり。)
ということかと思いましたわね。
古くからその土地に住み、大きな家と田地を持ち、しかし戦後の農地改革でほとんどの財産を失い、裕福だった証拠はやたらと広い一族の墓地くらいのもの。田舎にはこういう家が溢れている。僕の家はそんな所だった。戦国時代から続いていて僕で 17 代目だとか?それを証明する家系図はもう火事で焼けてしまったみたいだが。
少し古い映画だが、「サマーウォーズ」で主人公が訪問する田舎の一族、イメージとしてはアレに近い。正月は一族で集まり、当主から順にズラリと並び、その当主がくれるお屠蘇を漆塗りの器におしいただいて、一族の健康と繁栄を願うのだ。僕は当主からすると直系の最初の孫に当たり、父に続いてお屠蘇をいただくのを誇らしく思ったものだ。
しかし当時から不思議に思っていたのだが、父を含む僕の家族はこの家に住んでいなかった。父は長男、つまり次期当主だったのにも関わらずだ。家業は稲作なのに農作業を手伝うことは無く、そもそも他県に住み教師をして生計を立てていた。自然と僕もこの大きな家を他人行儀に感じ、普段は公営住宅の狭い家に住んでいることから、この家のことを盆と正月にだけ滞在する言葉の通じない外国の別荘のように考えていた。「外国」と言うのは、県も違うので僕の方言が通じなかったのだ。
父が家を出た理由は本人からは結局聞けず仕舞いだったが、叔父などから断片的に聞く限りではかなり複雑な家庭環境だったようだ。確かに、僕の知るお婆ちゃんは本当の祖母では無いとか、床の間に知らない男性の遺影が飾ってあるとか、そんなミステリアスな所も「外国の別荘」のような連想を助長していた。これらについては、故人の尊厳のためにも深く穿鑿すべきではないと、当時も今も考えている。
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そんな父は、人の親としてはかなり優秀だった。それまでの経緯から実家の支援は受けられなかっただろうに、独り立ちできるよう手に職を付け、教師としては結構な金を稼ぎ、できるだけ教育に投資して僕を大学に入れたと思ったら、力尽きたようにポックリ逝ってしまった。それでいてそんなに禁欲的だった訳ではなく、夏休みには家族旅行もし、仕事の研修で何度か海外に行き、長期の休みを取っては毎年一人でスキーや釣りを楽しんでいた。
僕自身が興味を持ったことは何でもやらせてくれる父で、書道とピアノは幼児の頃から大学に入るまで続けさせてくれた。サッカーがやりたいと言えばボールを買い、野球に興味を持てばユニフォームを揃え、夜に星空を見たいと言えば立派な天体望遠鏡を買ってくれた。これらはほとんどモノになることはなく、ただ一つ、当時流行り始めていた 8bit マイコンを買ってくれたことが、僕が今でも IT エンジニアとして生きて行くきっかけとなった。
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そんな父にも欠点はあった。とにかく迷信深く、いくつもの新興宗教にハマったのだ。父自身、また僕が病弱だったことや、ひょっとすると実家の事情も影響していたのかも知れない。今でも覚えているのは、自宅に仏壇とは別に祭壇を用意し、そこにお供え物を上げて妙な文章を読み上げる儀式を、僕が担当して毎日夕方にやっていたことだ。
他にも気功か何かで癌が治ると言う宗教に熱心で、こちらは父自身が信者同士の合宿に何度も出掛けていた。教義をまとめたノートを作り、会合で発表する様が写真にも残っている。
世紀末で世の中にはこういうインチキ宗教が沢山罷り通っていた。父の信仰心はその病状を好転させることは無く、父が死んだ後、これらの宗教団体は解散して費した金は全て無駄になってしまったようだ。
これらにどの位散財したのだろうか?僕にはもう分からない。それでいて子供二人を中高一貫校に進学させ、上に書いたように習い事もさせながら、東京の大学に入るまで面倒を見てくれたのだ。教師としての稼ぎだけでできる気がしないのだが、実家の助けがあったとも思えない。専業主婦だった母も死んでしまったので、この辺の事情を聞ける人はもう居なくなってしまった。
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十年振りに、「外国の別荘」、つまり父の実家の大きな家を訪問した。昔僕にお屠蘇を注いでくれた祖父はとうの昔に他界し、今ではそこに僕とは違う方言を話す叔母が住んでいる。彼女の息子が将来は家を継ぐという話を聞いた。
子供の頃、父が作ってくれた滑り台で遊んだ庭は潰されてアパートが立っていた。耕す者の居ない農地は全て売却したそうだ。父の遺骨はもう一族の墓地には入っていない。
趣味垢で子育ての話をしている人をよく見る。そこで感じた苛立ちをここで吐き出したい。私個人の意見というより愚痴だから、反論されても「そう思う人もいるんだな」って思うだけです。
私のいる界隈は趣味で漫画や小説を書いてる人が、pixivとかエブリスタとかに作品をあげている。
中には即売会に出ている人もいる。
子育てをしながら同人誌を作ったり、即売会に出ることについては何の問題も無いと思う。
子供がいることを隠せとも言わない。
でも、旦那との行為を赤裸々に呟いたり、子供の写真を載せたり、子供とよそのお子さんでカップリングを作って妄想してる人は気持ち悪い。
あと、「締切前なのにチビたんが寝てくれない!」やら「習い事したいって言われたけど原稿時間が無くなるからなぁ」やら「町内会のバス旅行に行きたがってるけど、参加費2万なんて無理!」やら、子供より自分を優先している人が目につく。
そのくせ自分たちは装丁に凝ったり、無料配布したり、即売会の安くはない参加費をポンと出し、アフターで焼き肉食べてご満悦なのは呆れる。
R18の同人誌を山積みにした汚部屋写真を晒して、子供は慣れてるから大丈夫って呟いてみたり、子供の写真付きで「家族サービスだるい~早く帰って原稿したい」などと呟いたり、それに対して周りの人たちも「分かる~!」
って同調するのが信じられない。
締切って何?
それで生計立ててる訳じゃないし、見たところ、商業デビューしてる人はそんな呟きしていない。
創作活動の邪魔をしてくるなら、相手すべきは子供だろう。あなたが夢中で創作してる姿は、子供にとっては「スマホ見てて自分を見ない親」と同等だ。だから、気を引く行動をとるのではないだろうか?
あなたの本が子供を裕福にさせる莫大な利益を生んで無い限り、どんなに作家を気取ってみても「趣味」なんだよ。
産んだんだから、できる範囲でやりたい事をやらせるのは当たり前だと私は思う。
知人は商業をやりながら、子供を育て(Xでは呟いてなかった)、即売会にも出てたけど、「やりたいことはだいぶできたし、私の性格だと執筆に集中しちゃうと子供を蔑ろにしそうだから」って言ってプツリと活動を休止した。印税は少しずつ入ってくるらしい。
今は目が回るほど忙しいけど、定時のある仕事をしながら、子供がやりたいことを応援するのが趣味なんだと言っていた。
そうしろとは思わないし、趣味を楽しむのはいいと思うけど、産んだんだから覚悟を決めて、出費の優先順位を考えなよ。
ネグレクトだよ。
親の資格無いって。
多くの日本人にとって宗教は「必要のないもの」という感覚が共有されているように思う。
しかし、本当にそうだろうか。
あるいは、「宗教は必要のないもの」という認識が宗教問題について冷笑的な態度を生み出し、本当にその問題について考えることを無意識的に避けてしまうのではないだろうか。
もともと、この語源となるラテン語における「Religio」は、「(精神的な)深い絆や繋がり」を指す言葉であり、もしくは今日においても「Religious」が指すように「信仰深い態度」そのものを指す言葉として使われていた。今日における「○○教」といったような言葉は、単に「○○の弟子たち」あるいは「○○の後を追う者」といったような言われ方がされてきたし、日本においても「茶道」「武道」などの言葉に残るように「仏道」など「○○道」という言葉があてがわれていた。近代に入るまで「信じる」ということが、より実践的な行為と不可分なものとして扱われていたことがうかがえる。
私なりに「宗教」という問題が何を指すのかを考えてみるところ、それはおそらく「生き方(a way of life)」そのものなのだ。
このように言うと、「ならやっぱり必要ないじゃないか。現に私たちは宗教に頼らずとも、自分たちの生き方に不満がないのだから」と言いたくなるかもしれない。それもひとつの「生き方」だ。
しかし、もう少し俯瞰してみると、これには以下のような構造が見て取れる。つまり、日常生活においては必要のないものもいるかもしれない。しかし、自身の生きる目的や指針などが根底から揺らいだ時にも果たしてそうだろうか。宗教的契機は必要なときに必ずや立ち現れるものなのかもしれない。
少したとえ話をしよう。
人類史における長い間、「地球は平だ」とする見方が優勢だった時期があった。しかし、当時に生きる人々はそもそも、大半が一生を自分の村で過ごす農民だ。たとえ貴族であっても交流の範囲は限られていた。シルクロードを通じて、遠くから物品が運ばれてくるとしても、それは「遠くから運ばれてきたもの」であり、具体的にどのような道を通ったのか、その間に地平線を意識することもなければ、時差について説明する必要もあまりなかったはずだ。つまり、「丸いと考える必要がなかった」のだ。
しかし、時代は移り変わり大航海時代。領域国家なども生まれ、人々の交流範囲がどんどんと全地球規模に発展していった。その過程で、例えば「他国より手短にインドに行ける方法」を知らなければいけなくなったし、「離れた地域の人と連絡を取る方法」を考えなければいけなくなったし、「大規模な航海を行う必要」にかられた。その過程で、新たな発見を迫られ、徐々に「地球は丸い」という考え方が受け入れられてきた。
これは、地動説VS天動説にしろ、アリストテレス目的論VSニュートン力学にしろ、ニュートン力学VSアインシュタイン量子力学にしろ、パラダイムシフトというのは、往々にしてこのように「新たな問題に気付き、これを解決する過程で、認識全体が変容する」ことによって起こってきた。
宗教においてもおなじことがいえる。
つまり、「宗教」というものも、そのようにより深い、目の前の生計や、人間関係、さらには政治や技術、そういった問題を超えた「自分自身は何のために生まれて、何のために生きているのだろう」「この世界は何のためにあるんだろう」といったような問題に対処するための、プラグマティックな実践論といえる。
そして、「自身の生き方に行き詰ったとき」「自身の生き方を見直さなければならない時」に、必ずこうした宗教的問題に取り組む契機が訪れるのだ。
これは、「既存の伝統宗教や新興宗教は信じるに値するか」といったような問題とは異なる、より根本的な「宗教的契機の構造」の話をしている。その上で、「どんな信仰体系がその個人にとって意味があるのか」は、その個人のマインドセットや、置かれている社会的・文化的環境によって異なってくるだろう。もちろん、その人が置かれている社会的・文化的環境によっては、特定の信仰体系が反社会的であるとされることも容易に想定できる。それこそ、人々が宗教的契機に恵まれる、「自身の生き方の根底が揺さぶられるショック」を受けた状態に、巧みな言葉を投げかけ、献身的な信者を作ろうとする商業主義的宗教は、必ず唾棄されなければならないと考えているし、宗教のもつ「強固な集団形成力」が誤った方向に向けられ多くの不幸を生み出した事例は人類史を見ても枚挙にいとまがない。伝統宗教に価値を見出すとすれば、それは「長年生き残ってきた風習」であることに意味を見出す保守主義的観点からだと言えるかもしれない。いずれにしても、それが「生き方」の問題である以上、ひとりひとり、さらに状況によっても異なって当たり前だし、多様な実践が見られて当然だろう。
「宗教は我々の生き方(a way of life)を根底から見直すときに必ず立ち現れる根本的な認識論であり実践論である」
新しいNISAが始まってから、果たして自分はどのくらい投資するのがよいか、どのくらいの損失であれば後悔しないのかを考えている。1800万円の枠をフルに埋めたとして、もし1/3や1/2が吹き飛ぶ暴落に直面したら、自分の心が耐えられるとは思えない。自分が許容できる最大損失額を見きわめる方法をいろいろ考えてみている。
自分の資産として「絶対にこのくらい持っておきたい」という防衛ラインを設けて、ラインを上回る金額を最大損失額とする。
例えばいま2500万円持っていて、老後2000万円問題というし2000万円は確保したいな、と思った人は残り500万円が許容できる最大損失額となる。
❌ 防衛ラインの見きわめが結局難しい。防衛ラインがいまの資産額よりも高い場合、その人は投資することができない。
ほったらかし投資術で推奨されている考え方。
例えばいま1800万円の資産持っている人は、老後の65~95歳の30年間=360ヶ月で毎月年金に加えて5万円を余分に生活費に使うことができる。これがもし1万円少なくなって「年金+4万円」になっても問題ないのならば、360万円×1が許容できる最大損失額となる。
✅ 毎月の生活費という親しみやすい金額で考えることができる。
❌ 老後まで遠い若年層のうちは現実感がない。インフレもあるし。
余分なお金で早期退職したい、と考えている人はこっちの方がいいかもしれない。
例えば年間生活費(含む税金)が360万円の人は、360万円の損失で1年早期退職が遅れることになる。N年遅れるくらいならいいかな、という人は、360万円×Nが許容できる損失となる。
✅ 仕事がつらかったり、老後を強く楽しみにしている人には向いているかもしれない。
❌ やはり老後まで遠い若年層のうちは向いていない。
若い人で想像力に自信がある人は、頭の中で想像してみるだけでいいのかもしれない。
✅ 簡単。
❌ 想像力は自分の精神状況に左右されそう。また家族と生計とともにしている人は、自分は良くても家族がショックを受けるかもしれない。
毎年収入と支出差し引きでどのくらい貯蓄できているかを基準に考えるといいかもしれない。
たとえばこの1年で200万円の貯蓄を見込む人は、もし200万円の損失を食らうと1年分の貯蓄がチャラになってしまうがそれは耐えられるのか、耐えられるとしたら何年分まで耐えられるか、で考える。
✅ 働きはじめの若年層は貯蓄が生活に与えるインパクトが大きいためオススメ。
❌ 資産が収入に比べて十分に大きい人は、この考え方だと物足りないかも。
もし自分や家族が、お金を理由になにかを我慢しているものがある場合、その金額を基準に考えるといいかもしれない。
などは取り返せないので、その金額分の損失が出てしまうと家族との関係にしこりがでるだろう。
❌ お金に不自由していない幸せ者にはあまりリアリティがない。
すでにある程度投資でリターンが出ている場合、それを「あぶく銭」だと考え、その分の損失は許容するという考え方。
✅ かなり保守的な考えで、生活が不安定だったり心が弱っているときにはいいかもしれない。
❌ 累積リターンがプラスのうちはいいが、もし累積リターンがマイナスになったら投資を引退することになるので合理的とはいえない。
30代の自分は 4. 5. 7. あたりの考え方を採用している。
他にもアイデアがあれば随時教えてほしい。
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思ったよりいろんな反応がもらえて面白い。
おおまかに
でパターン分けできそうだ。
自分は「疑って・向き合う」タイプなのであーだこーだ考えてしまうのだが、反応を見てると「信じて・距離を置く」タイプの人が多そう。