はてなキーワード: 最近とは
夕方のニュースを見ていたら、義務教育での留年について視聴者からの様々な意見が送られてきていた。
“小学校での留年なんて劣等感を生むだけ”、“まだ小学校なら巻き返せる”、など義務教育の留年に否定的な意見が目立つ。
更に、“現在の教室は子どもたちが集中できる環境ではない”、“経済的余裕がない家庭の子は塾に行けず学力がつかない”などの意見が付け加えられていた。
正直、まわりの環境や、経済的理由を言い訳にしてしまうのは、甘いと思うのだ。
(もちろん、極度に荒れた学校や、極度に厳しい経済状況の家庭には、子どもたちが学校での教育をしっかり受けられるように改善や支援は必要だが…。)
しかし一方では、自分の子供を評判の良い塾へ行かせ、少しでもまわりに差をつけようとしている家庭も多いのが現状である。
では、本当に塾に行けば、静かな環境で授業を受ければ、勉強が好きになるのだろうか?子どもたちの学力は伸びるのだろうか?
経済的に恵まれていなくて塾に行かずとも東大や京大といった国立大に受かった子もいるし、逆にお金があって親が塾に一生懸命に通わせてもその重荷で子どもがかえって勉強嫌いになってしまった例を知っている。
もちろん、学校は子どもたちのためにきちんとしたできるだけよい環境を整えるべきだし、子どもにとって塾が必要で子どももそれを望むのなら、塾の利用も悪くないとは思う。
けれど、良い塾を選ぶことよりも、まずは子どもが学ぶことを楽しいと思えるように学校や家庭がサポートすることが1番大事なんじゃないだろうか。。
勉強が楽しいと思える子は、たとえちょっとくらい教室がうるさくったってちゃんと集中するし、学校で学ぶことを完璧にマスターすれば十分基本的な学力はつくと思うのだ。
学生時代、塾の宿題を遅くまでやっていたからと言って学校の授業中は机に突っ伏して寝ている子や、塾を優先して学校の授業を疎かにしている子を多く見た。
そのたびに、もったいないなぁと思っていた。
学校も塾も両方ばっちりこなして、更に学力を伸ばしていける子は塾へ行くのも良いと思う。
けれど最近は、子どもがそのようなスケジュールをこなせるかを考えずに、“とりあえず塾へ”という傾向が強まっていると思うのだ。
「学校の授業をきちんとこなしさえすれば、東大だって京大だって行けますよ」。
学校から帰ったら塾に行かせるのが当たり前、ではなくて、何がわが子に合っている勉強方法なのか、わが子がどうすれば勉強を好きになってくれるか、そちらが大切だと思う。これは決して塾批判ではない。疑問である。
必要なら通わせればよいが、“塾に行っている=勉強ができるようになる”とは必ずしも言えない。
http://anond.hatelabo.jp/20120223004052
最近の彼の主張は、自己責任論が過ぎ、ついには小学校で留年を認めるべき、なんておバカなことを言い始めた。
そのトラウマは、小学校の知識を習得することよりも、もっと深刻な悪影響を与えるだろうと、彼は考えないのだろうか。
彼には、弱者……特に、いくら努力をしても結果を出せないような、真の弱者をいたわる根本的な感性が、欠けているのじゃないか。
過労死を従業員に強いた渡邉美樹を、大阪市の特別顧問を迎えたのは象徴的ではないか。
低所得層からのし上がり、努力家で、基礎能力やコミュニケーション能力が大変高いという点で、共通している。
そして、努力への過度の信仰と、無能者への強烈な侮蔑感も共有している。
学力差の無い集団に入っていたほうが、劣等感を刺激されずに済むじゃない。
>いくら努力をしても結果を出せない
>強者へなれる素質があるのに、社会的な要因で弱者であることを強いられてしまった者たち。
この書き方では、この二者は同等でしょ? 「社会」が「勉強が出来ること」を「強者の条件」として設定しているから、「いくら努力しても結果を出せない」人間が出てくる。
「社会」が、一人一人の能力の評価を正しく認識できないから、自分の能力をきちんとアピールできない人たちは「結果が出せない」んでしょ。
だいたい、人間は、どんどん変化していくんだから「過去の付き合い」なんか持ち出しても、現在信用できない理由にはならない。
で、今はどうなの? 懇意にしているの?
おらの地方では、冬に雪が降るんだ。まぁあれだ、日本海側、裏日本地方ってやつだ。裏日本を放送できない言葉というならば、西海岸地方と呼べば、太陽サンサンって、暖かそうでいいと思うんだけど。
冬になると雪かきをするんだ。でも、あらかじめある程度は降ることが想定されているので、早く起きたり、夜中にこっそりと、除雪をするんだ。
近所のおばあさんの家の前とか手伝ってあげたり、除雪車が除けた雪の壁をちょっと崩してあげたりとか、若い分だけ、余計に働く。
そういうもんだし、わざわざ人にいうほどのこともなく、やって当たり前のことをもくもくとやっているだけだ。
雪で大変って書くのもアホくさいので、黙って除雪をこなすだけだ。変な同情は求めない。
変に自己主張する人がくるくらいなら、雪国減税とか日照時間減税とか気候が過酷な分だけ、税制でバランスをとってくれるだけでいいと思う。
最近、わざわざ除雪ボランティアとか、自己主張する人たちがあらわれた。手伝ってくれるのはありがたいんだけど、facebookやtwitterでボランティア雪かきしてます的な発言をわざわざする人ってなんなんだろう。
みんなの役に立つことをするのはいいと思うんだけど、やって当たり前のことを点数稼ぎみたいにいうのも、微妙に引っかかるものがあるんだな。
目の前にいる人が喜んでくれれば、いいわけで、世界中に向かって、「雪かきボランティアする私ってすごい。人事の人見てる」的見え透いた感が、途方もなくいらいらするんだ。
橋下大阪市長が府知事時代におこなった、自由主義的な行政改革を応援はしていたものの、
島田紳助の盟友だった、という事実のせいで、今ひとつ、彼を信用出来なかった。
なぜ、左翼連中に叩かれながらも懸命に働いている彼を信用出来ないのか、自分を責めたことすらある。
島田紳助は昨年、暴力団との親密な交際が発覚したという理由で引退したけれども、
本当に責められるべきはそこではなく、吉本の女性社員を、人気のない部屋に引きずり込んで、
壁に顔面を4、5発以上もたたきつけ、ツバをはきかける……という、度の越した暴力事件を起こしたことだ。
立場の弱い者に対して、数々の暴言や暴力をふるいつづけていたことが、ときおり報道されていた紳助。
彼の嗜虐性、異常性、卑怯性、利己主義ぶりなどは明らかだろう。
そして橋下は、紳助の暴力行為が発覚した後も、紳助の番組で長い間、人気弁護士として活躍を続けていた。
確かに弁護士は、人格が最低な人間の人権を守るために、活動しなくてはならない場合だってあるだろう。
だが、紳助の番組に出演する主な理由は、弁護士の矜持とは別物だ。
もしも橋下が倫理を重んじるタイプならば、紳助の暴力行為が明らかになった時点で、潔く番組を辞めるべきだった。
しかし、橋下はそうしなかった。
義理もあるだろう。
紳助がよっぽどうまく立ち回り、橋下ら「先生」には、自分も含めた芸能界の汚い部分を見せようとしなかった……
そんな可能性だってある。
それに、もしも橋下が番組を降板していたとしたら。
自分が裏切られたと感じた紳助が、橋下を許しはしなかったに違いない。
当時、芸能界に大きな支配力を発揮していた紳助によって、芸能界から干されてしまった可能性だって、ある。
そのことだけで、橋下という男の人間性を判断してはいけない……と自制していた。
ところが、である。
最近の彼の主張は、自己責任論が過ぎ、ついには小学校で留年を認めるべき、なんておバカなことを言い始めた。
そのトラウマは、小学校の知識を習得することよりも、もっと深刻な悪影響を与えるだろうと、彼は考えないのだろうか。
彼には、弱者……特に、いくら努力をしても結果を出せないような、真の弱者をいたわる根本的な感性が、欠けているのじゃないか。
過労死を従業員に強いた渡邉美樹を、大阪市の特別顧問を迎えたのは象徴的ではないか。
低所得層からのし上がり、努力家で、基礎能力やコミュニケーション能力が大変高いという点で、共通している。
そして、努力への過度の信仰と、無能者への強烈な侮蔑感も共有している。
彼らにとっていたわるべき弱者は、強者へなれる素質があるのに、社会的な要因で弱者であることを強いられてしまった者たち。
真の弱者、無能者や低能者に共感する能力が、完全に欠けているんじゃないのか。
それが彼らに共通する価値観なのではないのか。
努力をしても結果を出せない、という事実に思いを馳せる想像力、共感力が彼らにはない。
怠惰な連中を排除するのにはおおいに賛成だ。
だが、弱者が人並みの努力をして、人並みの結果を出せないことは責められるべきことなのか?
橋下らは、弱者が他人の数倍の努力をおこなうことは当然だというのだろう。
だが、他人の数倍の努力ができるのは、それだけの体力を持ち合わせた者に許された特権。
それが彼らには理解出来ず、共感も同情もできないのだ。
橋下の目には、帰国子女という恵まれた立場でありながら吉本のマネージャーをしている女性などは、努力を怠った無能者に見えたのかもしれぬ。
「無能者へ暴力を振るう人間」を許容できたから、橋下は紳助と盟友であり続けたのではないのか?
怠惰を改めない左翼でもなく、弱者を侮蔑する右翼でもなく、真実は真ん中にあるのじゃなかろうか。
怠惰を改め、無能者の努力を評価する。努力をおこなった強者は果実を得るが、その分、低能者の失敗もカバーする。
そして、お互いが尊敬し合う……それが私の目指す社会であり、橋下を応援出来なかったのは、彼と目指すべき理想が異なっていたからなのだ。
最近の若者の前の世代と言えば、学生運動でがち犯罪しまくった団塊世代、気が狂ったバブル世代。
最近の若者はマナーが酷い云々も、どちらかと言うと団塊世代のマナー違反が目立つように思う。
女がどんどん酷くなっていく、最近の女は!と言っている人も不思議だ。
ああ、派手な浪費家ビッチが好きなのに、最近の女は地味だと言いたいのかなと思って見ていたらどうも違うみたいだし。
過去も知らない若い男が言っているなら大笑いっすな。
「天国からのラブレター」、どんな内容なのかと検索したらかなりアレな内容らしいね。
マスコミがあれの内容を殆ど取り上げていない訳が分かった。本村夫妻を散々美化して来たのがぶち壊しだもの。
普通重大事件被害者が出した手記と言ったらもう実物読まんでいいだろという位に内容取り上げるのに。
(いや実物読んだ訳じゃないけれど、ネットの評判を見る限りではマスコミにおける美化された彼らの姿とはかけ離れた内容のようだ)
例えごく無難な内容だとしても、他人の手紙を勝手に公開してしまう時点でドン引きだけど
他人に見せてはいけないような内容まで平気で公開してしまうってのは…
最近の「ノマドな人々」を見ていると、昔の自分や未来の自分を見るようで、いろいろ身に覚えがありすぎて、正直こっちが恐縮してしまう。そんな自分から彼らの特徴を描出してみる。
彼らは、大体中の上か上の下くらいの知性の持ち主で、普通にやらせると、一通りの仕事ができるスキルはある。そもそも、ソーシャルメディアを活用して自分をアピールすることが出来る時点で、普通の人よりよっぽどアドバンテージがある。ただ、特定の領域で飛び抜けた能力を持っている訳ではない(ここがウイークポイント)。
にも関わらず、彼らがなんでバッシングされるような挑発的な言動をしてしまうのか。彼らは、自分のポジションがわからないのである。どうしたら、一番自分が成果を出せるのか、そのポジションはどうやったら見つかるか、それがわからないのである。なので、彼は共通して「実績が少ない」。だけど、自分に人よりかは能力がある事はわかっているので、そのいらだちからどうしても叫んでしまう。
別に卑屈になれと言っているのではなくて、本当に「人に世話になる感覚」がわからない。だから、「よろしくお願いします」「お世話になりました」のやり取りが出来ない。そのおかげで、せっかくの人脈もダメにしてしまう。
結局彼らは、「甘え下手」「愛され下手」なのである。人と適度な距離をとったり、相手を信頼したり、されたりするタイミングというのがよくわからない。だから、無駄に反発したり、自己主張が強く出てしまったりして、一部の人から反感を買ってしまう。
彼らは「自分を認めてほしい」のである。「こんなにいろいろな可能性を秘めた自分」「こんなにいろいろな事を知っている自分」を買ってほしいのだ。でも、残酷な事に、投資の事業はたくさんあれど、人に投資をする事は無い。投資家によっては「人に投資する」というかも知れないが、それもモノがあっての投資である。そうでなければ、稼ぐ奥さんの元で主夫でもするしかない。
はっきり言えば、「何か作れ」である。なんだかんだで関わりを持ってみようと思う人もまだいるので、今はまだチャンスがある。だから、事業の計画書でも書いたり、実際にソフトを作ったりして、「これが俺だ」というのを作るしかないのだ。そうすれば、まだ事態は良い方向に進む可能性がある。そうでなければ、子供扱いされて、今後とも肩身が狭い思いをするだけになってしまう。
「最近の若いやつは"シュールな笑い"が理解出来ない」というのも是非付け加えてもらいたいレベル。
理解出来ないけど、何故か面白い
↓
↓
↓
「お前らも面白さを共有できただろ?」
解説した時点で"シュールさ"は一気に薄まるわけだけど、それすら理解出来ない
昨今のバラエティ番組の悪影響が出ているような気もするね
http://anond.hatelabo.jp/20110824130137
を読んだ。中々オモシロく読んだけれど、このヒトはちょっと「起業家」ってモノを勘違いしているフシがある。
僕は起業家で、インポーターである。海外から売れそうなものを日本に持ってきて、何らかの付加価値をつけて卸す。
また、自分自身でも最終消費者に売りつけるルートも持っている。そういう仕事をしている。
二十代後半の割りには良い収入を得ているし、それを得るためには徹底的に自分を売り物にしてきた。
考えても見て欲しい。輸入をやるには「カネ」が要る。どうしようもなく初期資金がなければ話にならない。
他に何が要る?ルートがいる。煩雑な貿易実務をやるためのスタッフも要る。無論、語学も要る、専門知識が要る。
そして何より、人脈が必要だ。ちなみに、これで必要なものの半分である。ここまでが「輸入するため」のもの、
この後に同じだけ、あるいはそれ以上の「売るため」の要素が必要になる。
最も、アイティーって世界はこういう泥臭い要素の全く無いすばらしくステッキーなところなのかもしれない。
いいコンテンツは羽根が生えたように消費者の下へ飛んで行き、製作者には莫大なカネが転がり込む、
そんな夢の国なのかもしれない。その夢の国では営業も要らず、また広告も価値を失い、ただ商品の本質だけが評価されるのだろう。
また、初期資金も要らずアイデアと技術は現金とほとんど等価であるようだ。すごい、素晴らし過ぎる。
泥臭い田舎モノの商人であるところの僕には全くわからないことだ。
しかし、僕が思うに元増田は起業家の未来を憂う前に、自分のオツムの具合をなんとかした方がいい。
そして、彼の意見に賛同した人たちは、とりあえずクスリを抜くことを進める。ラリってるよ、あんたたち。
起業家なんてものは「自分を偽装して売り込む才能」が全体の99%で、あと1%は誤差だ。
すばらしいコンテンツがあれば、それに越したことはない。しかし、「微妙なコンテンツ」でも売り込むのが、商人だろう。
そもそも、「すばらしいコンテンツ」なんてこの世には無いのだ。「すばらしいと多くの人が思うコンテンツ」があるだけだ。
商人がすべきことは「すばらしいコンテンツを世間に広める」ことではない。
「手持ちのコンテンツを世間に素晴らしいと思わせる」こと、そして儲けること。目的はこれ以外に無い。
逆に言えば、そのためなら何だってする。自分は天才で、これから先莫大な儲けをもたらす。
協力者や出資者、あるいはスタッフにそう思わせなければ、社長業なんてやれない。出来て当たり前なのだ。
「カンファレンスとかに呼ばれて、”僕は起業家だ。”というどうでもいいプレゼンをする」
ことこそ、起業家の最大のお仕事なのだ。それが資金を引っ張り人脈を形作る。
逆に言えば、どれだけいい商材を持っていようと、これが出来なきゃハナシにも何にもならない。
更にいえば、「自分でコンテンツを作る」なんてのはスマートじゃない。他人が作った、あるいは発見したコンテンツを
横合いからカスメとって収益ベースに乗せてこそ「起業家」だろう。
最近の起業家はなんかきもちわるい。「イノベーション」だのなんだの、ワケのわからない横文字やら人名を駆使する一方、
「どうやって初期資金を引っ張る?」だとか「税金どーする?」だとか「スタッフをなるべくカネかけず確保する」とか
その辺を全く見かけない。コンテンツそのものなんてこれをクリアしてからでお釣りが来るだろう。
起業家にとって一番大事なものはコンテンツでも能力でも技術でもない。出資者と協力者だ。
「自分を売り込んで偽装する」ことこそが起業家の本質だ。だから、起業家を目指す人たちは
どんどんブログで自分を売り込め、twitterで信者を量産しろ、出資者をふん捕まえろ。
それが出来ない奴がどんな良いコンテンツを開発したり発見したりしても、そんなもの絶対売れない。
起業家ってのは「売る人」だ。「作る人」じゃない。別に作ったっていいが、売ることが最終目的だ。
儲けを出す起業家だけがいい起業家だ。それ以外はゴミだ。素晴らしい技術や発想を持っていたところで、
そーいうゴミがいるおかげで、僕が儲かるんですけどね☆
出生までは知らないが、まぎれもなく日本社会が生んだ日本の犯罪者である
出生なんて関係ない、そう思っている
ただ、犯人が死刑になってヤッターっというのはどうかと思うが、死刑判決は妥当だと思う
一部で、「不幸な育ち方」をした少年が起こした事件であり、不可思議な点が残るという言及もある
大きな報道をされた事件で、冷静に判断することが難しくなっていることも否めない
不幸な育ち=犯罪者(あるいは予備軍)という扱いを受けているようなもの
それは辟易するものだし、同じにしてほしくないと思っているはずだ
超えては行けない一線を越えたのはこの事件の犯人であり
http://anond.hatelabo.jp/20120220193315
嫌いな人とは距離を置く。
賛成です。おおいにやってもらいたいし、自分でも実践しています。
今困っているのはHさんとの付き合いです。
私はHさんが「好き」です。物事に真剣だし、行動力があるし、見習いたいと思います。
ですが、Hさんは私のことが嫌いです。私が誘ったお店のことを「マズイ」と批判するし、うちに訪ねてくるときはいつも小型犬を連れていて、猫を飼っている我が家には上がっていただくことが出来ません。(犬を外につないでおけないし、犬と猫がケンカします)私に無断で新聞の講読契約をしていたことがあり、とがめると「お金は私が払うから、ノルマなんで入れさせてちょうだい」と言いました。ほかにも(嫌われてるなあ)と思える出来事がいくつかあります。
ところが、Hさんは、私に「家に遊びに来ないか」とか「一緒にDVDを見ないか」とか誘ってきます。
私はHさんが好きなので、ついつい、ほいほい付いて行き、結局のところ、(嫌われてるなあ)と確認して帰ってくるのが、最近の付き合いのパターンです。
実はHさん、ある会の会員で、会員を増やすよう、上の人からせっつかれているようなんです。それで、嫌いだけど、言いなりに付き合ってくる私に声をかけているという次第です。
私はHさんが好きです。Hさんが私のことを好きで誘ってくれるのなら、その会に入ることもあるかも知れません。でも、Hさんは私のことが嫌いなんです。
Hさんに自分の気持ちに素直になってもらうには、どうすればいいんでしょう。
ホント、嫌いな相手には近寄らないでもらいたいです。
本当につまらなかったのでポップコーンに意識を集中させてもぐもぐ
ネットで調べたら、私の他にもその推理小説家の作品がつまらないと感じる人はいっぱいいてほっとした
ふと思ったことをメモ。理論なり参考にして演繹的に書くわけじゃないので、まあ反論なりいただければ是非読ませていただきます。
さて、結論から言うと以下の考えのコアは「嫌いな人といかにして距離をおくか」ということ。嫌いな人、までいかなくても苦手な人、ウマが合わない人くらいでもいいです。
自分の人間関係における考えとして、人生を楽しく生きるには嫌いな人なり苦手な人とは極力付き合わないこと、というのがあります。人によっては周りの感情に気を使いながら~とかとかあるけどそんなの気にしながらじゃなくて気の合う連中と好きなこと言ってる方がよっぽど人生の充実度高いっすよ。経験則的なところなんですけどね、自分自身も努めて友人の数を増やそうと、八方美人外交てきな態度をとってた時期がありまして。よくわからない価値観に頷いてみたり、おもしろくもない話に全力作り笑いしてみたり、やりたくもない呑み会の幹事やらされたりなどなどなど。
で、今はと言うと自分の価値観全面に出してすきなように生きてます。友達って呼べるのなんて片手ぐらいだったりするかもでその他表面的な付き合いだったりするけど今のがよっぽどいい。気を使わなくていいからラク。
どうなんですかね、多分そこらへん男女だったりで違ったりするのでなんとも言えないけど。ちなみに自分は男。
・一つ大事かなと思うのは、割りとどの人を好んで、どの人がそうでないかを公言してしまうことかなと。(※もちろんさすがに本人には聞こえないレベルで)共通の友人なんかにもこいつとこいつはあまり合わないというのを把握しておいて貰えれば、会合も上手く調整されてその場の変な緊張も緩和されて実に有意義な会合になります。
・もう一つメモにしておきたいところは相手がこっちが嫌ってると知ってても近づいてくる場合。婉曲的なアプローチだけでなく、直接拒絶した態度をとっても気づかれなかったり一方的な好意を示してくる人種もいます(本当に)こういった人の場合はもう共通の知人を通してそれとなく自分がその人のことを嫌ってること(ないし良くは思ってないこと)、そして場合によってはその共通の知人を通してその自分が嫌っている人に距離をとってもらうように言ってもらうこともありなのかなと。ここまで言っても態度が変わらない人っていうのは少しオトナの対応がとれない、あまり人間的には成熟度の低い人なのかなと思うところなので、周りに相談を持ちかけるような形で軽い村八分的な雰囲気に持っていくのが有効かなと思います。ここまですれば相手も態度を選ばざるをえないので。
以上、あくまでメモなのでご参考に。最近はSNSなんかも出てきて人間関係がほんとうに面倒になってきたなあと思います。で、前提にあるのは方針として嫌いな人とは付き合わない。(もちろん自営業の人で仕事上要面的な付き合いを切らないほうがよいこともあるし、割りと神経が図太くて些細なことが気にならないタイプの人はむしろ広く友達を募ればいいと思います。)ここ、はてなとかネットが好きな人って割りと価値観がリベラルだったり干渉嫌いだったり一人の時間が好きだったりする人が多そうですよね、そんな人とか、またさらに知性的だったりプライドが高いタイプの人なんかだと絶対人に合わせてる生活ってのに無意識に疲れてるはずなので、人間関係の取捨選択は思いの外有効ですよ。
※ここで注意が必要なのは「人と距離をおく」ことが必ずしも悪いことではない、ということですね。自分もらくになるし、そういう場合往々にして相手も気を使っている場合が多いです。また既に書いたように周りもその緊張関係を読み取っていることがしばしば。なので後ろめたい気がしても実際にこういう態度を採用してみるとラクになることがあるので、自分のケースだとどういうふうに取り入れられそうか考えてみてはいかがでしょうか。(もちろん、嫌いな人を安易に前切りしてはいけません、必要な人間関係もあるので。)
結果に関してさすがに責任は負いかねますが自身で考えてよりよい人間関係を築きたいものです。他にも気をつけていることなんかあれば是非一筆ください。
http://anond.hatelabo.jp/20120220143438
最近は個人情報周りでもかなり問題になりつつあるね。アドテク関連。
http://anond.hatelabo.jp/20120220143004
まぁ得てして実態はそんなもんだったりするね。
これが本当にhttp://anond.hatelabo.jp/20100925065954みたいな意見が出たりもするのが怖いところ
そんな古いエントリ持ち出してくる程度にはソーシャルゲーに長く関心を寄せているんだろうけど
それでも事実誤認したままなのか…
漫画雑誌も、ゲームもCDも、全部他人の借りて楽しんで、違法DL上等なスタンスで居るんだが、
貯金がどんだけ溜まったか、その投資配当でなにを無料で楽しめてるか、周りに自慢しやがる。
この間、職場の仲間でそいつに娯楽を与えるの止めようって話をして、実行に移したら、「減らねぇし、ケチんなよ」とか言い出してる。
いやいや、ケチってるのはおまえだろと。
そもそも、なくても困らない娯楽だったんだろ、続きが気になるなら、金払えよ。
「友達だろ」とか使い始めたから、「貸すのが友達の条件?」って聞いたら「うぜぇ」とか言って離れてった。
これ書いてて思ったけど、普通利益考えたら、貧乏な振りするよな。
反感かわないしさ。
http://www.higuchi.com/item/663
その「デマであろうと、いい話だからシェアする。おまえらも感動しろ」派のみなさんにぜひお勧めしたいのが、今月号の文藝春秋に載っている「日本の自殺」という論文です。
この論文、1975年に文藝春秋に掲載されたものの再掲。最初に掲載された当時も相当話題になって、土光敏夫さんが抜き刷りを作って財界人に配って読ませたりしたらしいのですが、当時は福岡の幼い中学生だったので知らない。
ところが、これが最近、文藝春秋の宿敵である朝日新聞の主筆のコラムでも取り上げられたりして、あちこちで注目されているので、異例の再掲になったらしいです。
「日本の自殺」というタイトルから、「国内の自殺率が増えてるとか、そんな話かな」と思ったら大間違い。
豊かな時代を過ごしているうちに、国民の思考力や判断力が衰弱して衆愚化し(「パンとサーカス」ね)、最後には文明が滅びてしまった過去の多くの例から、日本という文明も自ら滅びる道を進んでいるということを警告した論文なんですが、この中で「予言」されている内容が、まさに今の日本の状況そのものに見えるのがポイント。読んでいて、かなりぞくぞくします。
この論文の中で、人々が衆愚になっていく大きな原因の一つとして指摘されているのが「情報の洪水」あるいは「情報汚染」。
マス・メディアを通じて膨大な情報が垂れ流されることで、直接経験によらない間接経験の情報の比率が増え、情報に対する判断や批判が行われなくなり、浅薄な好奇心をあおりやすい一時性の情報ばかりを簡単に消費するようになり、やがて情報を無批判に受け容れるようになる、というプロセス。
”情報をシェアする”とか断片的に何か”共感”ってのは、ある種、汚染されてきてる証拠なんだろう。
気軽に何かをしている、能動的に考えているような気分になるが、実は何も考えていないという現実。
キーボードに打ち込む数が減り、クリックするだけでパブリッシュ(リツイート、コピペ)できてしまうという現実、実はすごい罠に陥っているのかもしれない。