はてなキーワード: 破綻とは
・ 学生のためのお薦め図書リスト | 筑波大学 比較文化学類公式ホームページについての感想です
・「まず読みたい100冊」の話しかしません(次に読みたい100冊は単に好きな本リストでしょうから)
最初にこの2つを持ってくる意味が分かりません。あらゆるリストにおいて最初の2つはこのリストがどういった順序になっているのかを示すものであるべきです。五十音順かと思いましたが、それなら次は『二千日回峰行 大阿闍梨酒井雄哉の世界』になるはずですから違いますね。大学生向けということですから対象年齢順ではないでしょうし、難易度順というはずもないでしょう。
もしもあえての順不同だとしても、最初のいくつかはコンセプトの紹介となるものを選ぶべきです。このリストを見た人がどういう思いを受け取ればいいのか迷わないように。
まさか、それで選んだのが「漱石が明治時代の大学生を描いた名作です。自分と比べて見るのも一興。」「何百もの小説を残した芥川。「羅生門」だけじゃ物足りない。」ですか?ならば多くの人がこのリストを見限るでしょうね。「若造ども、俺が超おすすめの古典文学ってのを教えてやるよ。無教養な君たちはまずはこの辺でも読みなさい」ですか?まあ確かに、そういうリストなのかも知れないですね。だからといってそれをいきなりぶつけてみせるのは初対面の相手に対しての礼を失している。礼を失しているようなものが作ったリストに載せられたあらゆる作品が不憫でなりません。
紹介としての体をなしていません。ただ名前を挙げるだけで仕事をした気になっていいのは山手線を暗記したことを自慢する幼稚園児の鉄道オタクぐらいのものです。なぜオススメするのかを書いてください。オススメされたものへの礼儀です。オススメする側が上で、された側が下だと考えるから礼を失するのです。
大学とは大人の通うものです。先日まで高校生だった人間であっても、言動に子供っぽさがあっても、大人として扱ってやることによって、彼らに自分たちはもう大人なのだという自覚を与えるのも大学の役割です。学生を大人として対等に扱ってあげてください。大人同士だと認識しているのに教える側が絶対的に偉いと思ってるなら、それはもうただの人格破綻です。
どう一般教養なのか、どう名著なのかを書いて下さい。最低限の表現力が欠如しています。先入観を持たれることを恐れて書かないというなら、そもそもが間違っています。入門的な書物の名前を出した時点で多くの学生は「お前らはまずこの程度のものから身につけなさい」という説教のような印象を受けるでしょう。実際にそう言いたいのですか?そうだとしても、それは効果的な態度ではありませんね。
なぜ学生がまだ最低限の教養を身につけていないのかを考え、そこから「バカだからだ」という結論にでも至ったのでしょうか?それなら、そんなバカな相手にただオススメするだけで意味はないですよね?それでなにかやった気になって「俺はやれっていったけどなー」とチャチいペシミズムにでも浸りますか?そうじゃないでしょう。なぜ、これをまず学ばなければいけないのかを、言語化してください。それが無理ならリストの作成に関わらないで身を引いて下さい。リストの作成者の人も、こういう人に身を引かせられるようにしてください。座組の段階の問題でもあるのですよ。
一番オススメの出版社のものはどれですか?いくつもの出版社の作品を読み比べて欲しいと言うならそう書いて下さい。もしもこれを読んでほしいという一番のオススメがあるならそれを書いて下さい。少しでも多くの情報を伝える努力をする姿勢を。
あっ、駄目だ。
そろそろイライラして変なこと書きそう。
もうここで俺は辞める。
誰か続きを書いてね。
まあ6割ぐらいは割と悪くないんですけどね。
参考文献が書いてあったり、オススメ理由が書いてあったり、とりあえず興味を持った順に読むって形に持っていきやすいし、自分がひとまず何から読むべきなのかの道筋もある程度示されていると思いますし。書店での入手可否やkindleでの有無なんかがあるのもいいと思います。結構いいと思いますよコレ。
そもそもリベラルが池沼キチガイハッタショの無党派層やネトウヨの数の暴力に晒されているのが日本なので、
事件・事故に需要があると事件・事故を起こす動機が生まれてしまう。
起きたことについての岡目八目は仕方がないというのはわかるが、タテマエとしてそれは良くないという「ことにする」という道徳がないと倫理観が破綻しちゃうんだよ。
円がビットコインよりタチの悪いインチキ通貨だと多くの人が気付いた時、$=200円くらいにはなるだろう。
政治が悪いとか、投票に行かない奴が悪いといって責任転嫁する向きもあるようだが、これは民主的な結果によるものだ。
多くの国民は赤字垂れ流しの国民皆保険制度を良いものだと思っているし、ねずみ講同然の年金制度にも肯定的だ。
正社員の解雇規制も撤廃できず、それでいて仕事に対するモチベーションはイタリア並み。
ガソリンに対する補助金に文句を言いながらも、結局は延長を重ねて未だに止められない。
コロナ補助金の総額は100兆円を超えたが、国民は少なすぎると騒いでいた。
政府の借金を国民が返済しなくても良いと思っているし、なんなら政府の借金は国民の資産だと思っている。
日本経済が破綻しても日銀は通貨を発行できるから破綻しない、だから日本は破綻しないという謎理論を頑なに信じている。
そもそもインフレの意味を理解していないから、10万円一律給付のようなバラマキを安易に支持する。
全ては自分たちが招いた結果だ。お前らのせいだ。
今のところは上手くいっている。お前らは何を信じる?
The Amazing Digital Circus のテーマ曲にここのところ胸を抉られ続けている
頭の中でしょっちゅう奏でられ、気がつけば口ずさんでいる
そして寂寥とした感情で胸をきゅーと締め付けられている、比喩ではなく本当の痛みを感じ続けている
もっともこの曲に胸を抉られているのか、もともと抉れていたところへこの曲が流れてきたのかはわからない
この曲は
どこにも辿り着かない、逃げることもできない
最悪すぎて笑うしかない
なんとか陽気で楽しげなステップで乗り越えようとするものの、何も変わらないし変えられない
出てくるのはあのポムニのひきつった笑顔だけ
自分にはこんな風に聴こえている
The Amazing Digital Circusを観ているとどんどん辛くなる
パイロットを何度観たか分からないけどいつも泣きそうになりながら観ている
この文章を書いてても思い出して泣きそうになってる
見なければいいのだろうけどポムニの行く末を見届けないわけにはいかない
この作品は表面的には現実世界と何の関わりもないファンタジーな世界が舞台だけど、表現されている本質は現実以上に現実そのものだ
ポムニの置かれている状況や体験は自分のそれと等しく置き換えられる
自分はこの虚無の人生をADCのテーマ曲を胸に打ちのめされながら生きていくがポムニには安息の未来が訪れて欲しい
そんな終わり方を願ってやまない
「AIで死者を“復活”」の件、死者に人権はないという趣旨のブコメが散見されるのだけども、だからといって死者の尊厳は破壊し放題かというとそうでもないので、若干のメモ。
刑法230条(名誉毀損)① 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。
まず刑法において、虚偽の事実を摘示した場合には死者についての名誉毀損罪が成立する。その保護法益は①遺族の名誉であるとする見解、②死者に対する遺族の敬愛の感情であるとする見解、③死者の名誉であるがその性質は公共の法益であるとする見解、④死者個人の名誉であるとする見解が対立しているが、多数説は④説に立つとされる(条解刑法 第4版補訂版(有斐閣,2023)230頁)。いずれにしても名誉毀損罪は親告罪なので(刑232①)、死者の親族(6親等内の血族、配偶者、3親等内の姻族(民725))または子孫の告訴(刑訴233①)が必要である。なお、侮辱罪(刑231)は死者については成立しない。
刑法はこの他に死体損壊等罪(刑190)等の"墳墓に関する罪"によって死者の身体を保護している。死体損壊等罪は、死者に対する社会的風俗としての宗教的感情を保護しようとするものであるが、近年では、死体等に関する死後にも残る死者の人格権を保護法益と解する見解もあるとされる(前掲条解刑法561頁)。なお、名誉毀損罪と異なり親告罪ではない。
ではこれら刑法犯以外の場合には死者はフリー素材なのかというと、民事の不法行為として、死者の冒涜が遺族の感情を害したとして損害賠償を認められたケースがある程度ある。
たとえば東京地裁平成23年6月15日判決・判例時報2123号47頁は、ロス疑惑に関し2008年に米国で逮捕された三浦和義がロス市警留置所内で死亡した後、産経新聞が掲載した記事(犯罪被害者遺族が三浦を犯人と断定して書いた手記をそのまま掲載したもの)が、遺族の故人に対する敬愛追慕の情を受任限度を超えて侵害したとして、産経新聞社およびYahoo!Japanに損害賠償を命じている。
また、最近話題になった岡口基一裁判官(当時)がレイプ殺人の裁判例を紹介した事案においても、被害者の尊厳がこれ以上傷つけられることのないよう願う遺族の心情が不法行為法上も保護に値する人格的利益であるとして、その侵害について損害賠償を命じた(東京高裁令和6年1月17日判決)。同判決は、この心情の要保護性を導くにあたって犯罪被害者等基本法を参照している点も注目に値する。上記のロス疑惑報道損害賠償事件があるので、故人が犯罪被害者であることが賠償を認める要件ではないが、犯罪被害者の冒涜についてはより賠償を導きやすいといえそうだ。
これらの民事裁判例はいずれも、死者の尊厳そのものを保護しているわけではない(死者に発生した損害賠償請求権を相続人が行使するものではない。権利侵害行為が死後に行われている以上、当該死者が損害賠償請求権を取得することはないからだ。)。
けれども、遺族の敬愛追慕の情を媒介にして、死者を侮辱する行為についても民事上の制裁の対象となりうるといえるだろう。
なお、敬愛追慕の情が法的保護に値すると言える範囲は必ずしも明らかではない。故人の配偶者であっても両親の敬愛追慕の情を害して良いということにはならないだろうし、故人の尊厳そのものではなく身近な者の心情が法益とされているとなると故人本人の同意も必ずしも免罪符とはならないが、不法行為法上の違法といえるのは受任限度を超えた場合に限られるので、冒涜行為の主体が(破綻していない)配偶者であるとか故人の同意があったといった事情があれば、両親その他の親族の受任限度が嵩上げされると考えて良かろう。
共産党の赤嶺政賢氏は「国民から要求がないのに政権側が改憲を押しつけるのは本末転倒だ。裏金事件で、長年国民を欺いてきた自民党に改憲を語る資格はない」と述べました。
答えはとっくに示されてるんだよなぁ。
絵を描かない連中が永遠に理解してくれないから、屋上屋を架すことになった。いい加減理解してくれ。
少しでもデジ絵を触ればわかるんだが、生成AIで出力しただけの画像は、見ればもうAI産だとわかる。なんもしてないんだなって。こいつ何も考えてないってわかるんだよ。手が3本生えてるとか、髪がめちゃくちゃとかじゃなくて。もうコンテキストがない。わかるかなぁ。
絵を描くときには基本的に目的があって筆をとってるわけ。そうすると、何処を描き込んで、どこを描き込まないかっていう、気圧の差っていうか、そういうのが産まれるわけ。
これは絵を描くことが楽しいバーサーカーでも同じ。そういうやつはだいたい、普通はそんなことまでやらんってことをしてくる。こいつやりおったって。そういう、画面の向かいのニンゲンの意思が伝わってくる。何を伝えたいのか、なんとなく伝わってくるわけ。これはなにも高尚なメッセージじゃなくても、「金髪のチャンネー最高!」とかでもいい。本当に何でもいいが、おれたちはそのメッセージと、メッセージの伝達方法の工夫を楽しみにネットの絵を見てるわけ。
でも、生成AIから「出しただけ」の絵はそうじゃない。そういうのはもう気圧がめちゃくちゃ。おまえこの絵のどこを見てほしいの?何を伝えたくて書いたの?何もわからない。その結果、おれたちはどうでもいい天井のシワを見つめて、お前たちが伝えたいのはこれなのか……?っておそるおそるプロフを見に行って、やっぱAIじゃねーか!ってなる。全く無駄な行為だったわけだ。そこに意図なんてなかった。誤解したおれが悪かった。そんなことを繰り返した結果、絵を見た瞬間に「それが生成AI産なのか」がわかるようになった。
最近はもう「その雰囲気」を感じ取っただけで見るのをやめてる。昔から知ってる神絵師だけをフォローして、新しいメッセージを、たまにしか降ってこない甘露を、延々と待つようになった。pixivをディグるのはもうやめた。イラストを凝視しても得られるリターンが担保されないので、虚しいからだ。
リターンがなければ、無視すればよろしい。それが黄金則だ。絵師と生成AI絵師は別世界に棲み分ければ良い。実際、生成AIにもメリットと独特の良さがある。それは認めるところである。
だがしかし、絵師には絵師なりの理由があって、今日まで生成AI許すまじと論争を続けている。ある問題があるからだ。
それは、生成AI丸出し、なんのコンテクストもない画像が、何故か一部民衆に受容されつつあるということだ。
他の、著作権がどうのという問題は、絵師が共通で抱えている嫌悪感のすり替えに過ぎない。無視したいが、なぜが周りの民衆が無視しないから、何かの理由を付けて批判せざるを得ないのだ。
冒頭で、審美眼がないと言った。それは一部の生成AI絵師もそうだが、何よりあれを「手書き並のクオリティ」と持て囃す消費者層を形容した言葉だ。
少しでも絵を触ったことがあれば、生成AIのファーストインパクトは「へーすごいね。でも仕事にはならないな。すげーおもちゃだ」だっただろう。それなのに一部の消費者層は、これを大変有り難いと言わんばかりに使い始めたわけだ。
おい待てと。これのどこがいいんだと。じゃあお前らはいままで俺たちが描いたもののどこを見てきたんだと。
当然、嫌悪感を抱く。だが、「だってそれ生成AIで出しただけじゃん!」と伝えても、彼奴等は首を傾げるばかり。
最近は、どうみても実写丸出しの自称「アニメ」がニュースに載った。何より驚いたのは、あれにゴーサインを出した報道陣である。絵に対する恐ろしいまでのリテラシーのなさだ。あれのどこが良いと思ったのか、まるで理解できない。仮にもアニメ制作会社と関係のある会社の振る舞いがこれかと、閉口したものだ。
どうせ伝えても伝わらない。そのうち、この嫌悪感を「そういう層」に伝わるような問題点にすり替えて問題を論ずるようになった。やれ著作権が、権利が、そういったものに。
だが、それらは理論上は手描きでも可能で、AI独自の問題じゃないということは、誰にだってわかる。だから平行線なのだ。
この感覚は、なかなか伝わらないらしい。だから、比較的広い層に伝わりそうな類例を持ってきた。
機械翻訳もまた著しい発展を迎えた界隈である。が、機械翻訳だけで全てが事足りるとは思っていないはずだ。
これはアカデミックに属したことがあればわかるが、英語の論文を機械翻訳して読む、という行為にはまったくの意味がない。著者が伝えたい事実を、機械翻訳は考慮しないからだ。そのうえ、業界の慣習を無視した翻訳がなされるので、その翻訳された文章に意味はない。なんとなく読んだ気になるだけだ。
小説もそうだ。ハリーポッターでもなんでもいい。あれらの「機械翻訳版」と「訳者監修の日訳版」どっちを手に取るか。当然後者だろう。
そうした現状にあるのに、海外製品の公式ドキュメントは多言語翻訳版を機械翻訳によって作成する。「機械学習により作成されたため、不正確な場合があります」と但し書きを付けながら。
これはビックテックであっても例外ではない。訳者を雇う金はありながら、正確な訳を提供しない。
なぜか?日本語話者なんてよく知らないし、どうでもいいからだ。
それでも有り難がる連中がいる。英語を読めない層だ。そんな不正確な日本語読んでる暇があったら英語勉強した方が早いよと伝えても耳を貸さない。それで満足している層に恐怖する。機械翻訳版を読んで何かした気になっているニンゲンの、その感性に恐怖している。それは天井のシミなんだって。そこに別の人間が伝えたかったメッセージは存在しないんだと、伝えても伝わらないことに恐怖している。
というわけだ。
現在抱えている嫌悪感のその本質は、「メッセージ性も何もない破綻した絵を持て囃す連中の審美眼が信じられない」ということになる。
さらに恐ろしいのは、彼らが生成AIの発達とともに、その審美眼と理性を失ったわけではないということだ。
彼らとて、三歳児の落書きと、絵の修練を積んだ人間の描いた絵の区別はついていた。だから、絵師たちは自分たちが絵に込めていたメッセージが市井に伝えられているのだと信じることができた。それを感じ取ってくれているからこそ、自分は市場に支持されているのだと信じることができた。
が、今は違う。
生成AIから出しただけの画像と手書きとの区別もつかない連中がいるのだと知ってしまったからだ。
だから、自分の支持者の中にそんな「肯定派」がいないか魔女狩りもしたくなる。それを肯定する気にはなれないが、その絶望は理解できる。
そうせざるを得ないのは、少しでも正気に戻ったら「生成AI丸出しの画像のクオリティでいいなら、おれたちこんなに心身削って絵を描く意味ないじゃん」と気付いてしまうのを避けているからだ。
高精細なイラストなんていらなかった。市場がそれを求めていなかった。顧客は、一分で生成された「なんかよさげな画像」に吸い寄せられていく。なんだよ。それでいいなら、おれたちこんなに描かなくて良かったじゃん。
そして、この価値観が行き着く先は、「誰も作品に込めたメッセージを理解してくれない」「誰も自らの磨いた技術を評価してくれない」という絶望の世界だ。
それが繰り返されれば、当然続ける意味もなくなる。そして現在の伝統的製法によるイラスト制作技術は失われ、生成AIによる模造品が市場に氾濫することになる。廃業なんて話じゃない。業界自体の喪失だ。絵にメッセージを込めるという行為時代が廃れるのだ。
受験勉強は時間のゴミ箱だよ。一切覚えてない、って誰に聞いてもそう返ってくるから。
大学受験のために必死で詰め込んだ内容は、今では全く覚えてません。
受験勉強って、入社試験が大学のネームバリューに頼りきりになってる現状の歪みをついたハックでしかない。SEO(検索エンジン最適化)みたいなもんよ。
能力を測るんじゃなく代わりに肩書きを競わせるゲームのようなこと繰り返してたら、いつか破綻するぜ。今の壊れた Google 検索みたいにさ。
こういう話すると怒る人もいるとおもうけどね、だけど考えてもみてくれよ。
テスト前に一時的に詰め込んで回避するって……、それじゃテストの意味がない。不正じゃん。
若い頃の豊かな感性を、不要な情報を詰め込む灰色のマシーンになってドブに捨てるより、感情をフルに使えて心から楽しいと思える遊びを全力でして、恋愛もして、青春を謳歌した方が、ずっといいさ。