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2016-12-06

医者さん増田助けて

ここに書くべきではないと思うのですが。


最近今日うんこしたっけ、って夕方ぐらいに思うんだけど思い出せない。

今日なんか、皿に乗ってたはずのおかずがない!って言ったら、今食べたじゃん、て言われて。

完全に無意識だったんですけど。



わたくし、抗精神病薬飲んでた身で、遅発性ジスキネジアが出て、2ヶ月ほど前に断薬したのです。

これはその影響でしょうか。

それとも精神疾患に見られる健忘というやつでしょうか。

それとも認知症でしょうか。



あと、

人間無意識でやったことってどの程度覚えてるものなんでしょうか。

子供ははじめての体験が多いか無意識って少ない気がするんですが、

だんだんルーチンワーク化して無意識領域が広がっていく気がするんですが、

認知症患者って、やったことを覚えていない(そして、やることがおかしくなるんですよね)

どういうことなんですか。

覚えていない、というのは無意識で行動してしまうのとどうちがうんですか。



うんこ漏らしたくないです。

2016-12-05

人間人間として扱わないかサークラ問題が起きるんだよ

読んだ。

ちょまど氏をめぐる異常事態 - アスペ日記

なにこれ?ちょまど氏界隈に対する憶測性格を変えろみたいな見当違いかお節介アドバイス?よくこんなもの書いて公開できたな。

ちょまど氏って人は全然知らんけど、要するに常にこういう扱いされてきた人なんだね。フロッピーのまとめも覚えてるわ。いわゆるオヤジ転がし的な能力を十分自覚してやってきた人でしょ。



このエントリ書いた人とかちょまど氏をチヤホヤして可愛いだの姫だの持ち上げてた人たちは、ちょまど氏を人間扱いしてないよね。

アイドル産業見れば分かるとおり、チヤホヤする側にこそ快楽があるんだよ。チヤホヤされる側だけが快楽なんじゃなくてね。

だけどそういう快楽追求は仕事勉強会では邪魔からTPOわきまえましょうねって話。たったそれだけ。

アイドルじゃなくて人間なんだから人間として扱えってことだよ。



今回炎上したのはちょまど氏の性格容姿職業のせいではなく、TPOわきまえずに手近なところでアイドルオタク活動をやりたがった貧乏性取り巻きたちが原因。あいつらが変わらない限り第二第三のちょまど氏が現れてその度に炎上する。

ちょまど氏のような人を避ける方法はない。だって氏には問題はないんだから男性恐怖だろうと容姿が優れてようと若かろうと女性だろうと、それらの条件でコミュニティ出入り禁止にできないことなんか誰でも分かるよね。

手近なところでお金かけずにアイドル探ししてチヤホヤして仲間と盛り上がりたいって奴らは、自分にとっての「異物」を探して同じ人間とは認めないことで相対的自分立ち位置確認したいだけ。

はいじめと同じ構図なんだよ。

いじめられっ子の中にも、いじめに染まりすぎてどんな集団にいても無意識に蔑まれるような位置自分を置いてしまう癖のある人がいる。ちょまど氏がやってるのはそういうこと。最初純粋技術が好きだったのかもしれないが、どこ行っても多かれ少なかれ姫的な立ち居振る舞いを期待されるのがわかってきたら、それを特技として生きていこうとしても不思議はない。じゃなきゃエヴァンジェリストかいうよく分からん職種に就こうとはならんしね。そう言えば、ばびろんまつこも広報として採用されてたんだっけ。

重要なのは、そういう立ち位置を自ら希望して就職しようが何だろうが、それ自体他人から咎められる謂れはないってこと。いじめられっ子が自らいじめられやすポジションについてしまうことは責められることではない。

いじめられやす位置につくいじめられっ子がいようと、チヤホヤされやすポジションに進んで収まる姫だろうと、周囲は決していじめチヤホヤもしてはならないってことだよ。

本当に技術が好きならチヤホヤされなくても業務を進めるだろうし、それで終わることでしょ。何が男性恐怖だよ。問題があるのはちょまど氏じゃなくてお前ら自身だよ。




余談にはなるが、鶉まどか氏も北条かや氏も他人との相対的位置関係しか自身を捉えられず、「そういう社会をあえて俯瞰してキャラとして売ってます」というポジションでやろうとしたが結局うまく行かなかった。斜に構えた姿勢だけで成功できるほど社会は甘くない。人間性を売り物にするなら最初から芸能界に行って「私を人間扱いしなくていいですよ」と宣言できるだけの胆力が必要なんだろう。

ツイッター創作実話で稼ぐ方法

shin5とか、てぃ先生みたいに、実話のように見せかけた作り話を投稿して人気を獲得、果ては金まで稼げるかもしれない時代がやって来た。

彼らのように創作実話で生きていきたい、そんな人々のためにアドバイスを書いておこうと思う。



ツイッターユーザーの8割はバカだと思う事

ツイッターユーザーの中で、きちんと情報の取捨選択が出来る人は圧倒的に少ない。

だいたいは自分に都合の良さそうな話や、善人になりたい欲を満たせそうな拡散希望などは平気で乗っかってくれる。

著作権的に問題のある画像でも面白ければ褒めてくれるし、パクツイだとしても気にしない。

これをバカと言わずして何というのか。

貴方の金ヅルになってくれる人々はバカの集まりである。チョロい商売だと思って気軽にやろう。


勝手に気に入ってくれれば、ずっと守ってくれる

例えば貴方創作実話が創作だと誰かに指摘された時、

「そっか、なんて酷いんだ!」と思う人は案外少ない。

特に一度その創作実話を信じ込んだ人は、「いや、私は事実だと思う」と信じてくれたり、

「いや、こうこうこういう事なら信ぴょう性はあるはず」と書いてもいない背景やら何やらを勝手想像してまでも守ろうとしてくれる。

彼らは創作実話が創作だったかどうかを気にしているのではない。

無意識のうちに、「自分創作をあっさり信じてしまバカであることを認めたがらないから、貴方を無理やり守るのだ。

そんな思惑の恩恵には、あずかっておくに限るだろう。


指摘は無視しよう

もちろん創作実話をする上で、創作だと看破してしまう人はある程度あるだろう。

しかし、騙されるバカの方が圧倒的に多いのが現代社会である

そして騙されるバカは、指摘する人々の主張に関心を持たないし、いちいち追うのを面倒に思う人達なのだ

創作パクリだと指摘する相手適当ブロックしておこう。

勿論、反論やら何やらは禁物である


設定に気をつけよう

筆者の設定は、出来る限りネット技術に疎そうな職種にしよう。

てぃ先生の「保育職」というのは、その最たる例である

逆に、間違っても「エンジニア」「プログラマ」「クリエイター」などを選んではいけない。

それらの職は世界が狭いので嘘が嘘だとあっという間に看破される。


固有名詞を出すのは出来るだけやめよう。

創作実話は嘘を書いてナンボなので、社名や個人名などを出して話すのは良くない。

下手をすると訴訟リスクにもなるからである

ただし、「マック女子高生」のような、当事者たちに関係ない部分で名前を出す分にはそこまで問題はないだろう。

勿論その場合は、出来るだけ全国区でごく自然に点在する店舗名などにすること。


これで君も創作実話クリエイターだ!

以上の項目を守り、センスある創作実話を発信すれば、貴方も人気者間違いなし!である

是非日常を嘘で彩り、人気を集め、雑誌なり何なりになってお金を稼いでみてほしい。

バカは誰も傷つかない。優しい嘘でバカが有難がって金づるになっていく世界体験し、

現代日本情報リテラシー感謝しながら美味いものを食べる日々を過ごしてみよう。

自分のことさえ大事にできない人は、他人大事にできない

自分なんてどうでもいい存在」「いてもいなくても同じ」とか思ってない?

自己不信と他者不信はつながっている。

自分に対して、敬意を持つ、尊重する、ってことができてないと他人にもそういう感情を持ちにくい。

気が付かず、うっかり無礼を働くという地雷を踏みがち。無意識他人不快にさせてたりする。


自分しか興味無いのかってわけでもない。わりと興味無い。

他人に興味無さすぎてやばい

http://anond.hatelabo.jp/20161205012418

http://anond.hatelabo.jp/20161205000807

まり日本人無意識に作っているだけで自動的ドメスティックになるのよ。

ちょうどいい感じのゲームだな→海外の人から見ると「なんて日本的ゲームなんだ」ってなる。


それを海外の人に合わせなければ、ってなると途端に狂った感じになる。

その辺の微妙機微理解せずに海外におもねって作る人が多すぎる。

任天堂典型だけど、俺達が面白いと思うゲームであれば受けるってインタビューとかでちょくちょく言ってるけどね。

「俺たち」ってのはつまり日本人なのよ。

日本には日本人しかいないか必然的日本人が多くなってしまう。

あれだけ世界展開してる任天堂ですらそう。


ペルソナは徐々に知名度が上がってきて4では70万本売れた(Vitaであるにも関わらず)

P5はもっと売れるだろうね。

こうやって徐々に徐々にユニーク文化のものを浸透させていく必要がある。


追憶の森は俺の言ってることの悪い例をそのままやったいい例じゃん。

アメリカ人監督日本舞台にした映画作るなんて、忍者物をアメリカ人が作る並に滑稽だよ。

沈黙みたいな、キリスト教信者が作った作品キリスト教徒が作るとかそういうことならともかく。

もちろん例外はどんなものにも存在するけど、成功率はかなり低いよ。

逆にアメリカン忍者文化イメージのもの海外に輸入するという考えなら受けるかもね。

2016-12-04

東京人が戯けごと言って、いいですか?

東京人の「私鉄野郎怖い」「満員電車フェチ怖い」の何が悪いんだ。列車に乗れば糞ガキみたいな野次馬オタク満員電車に乗り込み、普通利用者は怒らないどころか何も驚かない。

息をするように田舎者ぶり、政治必死な人を侮蔑して、鉄道混雑をなくそうといいながら、私鉄からいつまでも満員電車を解消できない。

それどころか、私鉄野郎自公政権背中無意識に押して、東京人にいらないものを落として、いるものを持って帰る。政治を抜きにしても、交通邪魔にならない程度のサイズの車やバイク持っていてかつ富裕層みたいな人間にも鉄道を使わせる。いらないお店があちこちに出来る。いらない観光列車があちこちで走る。そのくせホームドアだの鉄道セキュリティ強化だの一向に進まない。

本業にカネ払わず副業ばかりにこだわる鉄道など、嫌われて仕方ないな。

挙句の果てに都会人が都会の宝たる鉄道を嫌ってバスだの車だのバイクだのに流れる。「公共交通を返せ」もいいところで、もはや「死んだ公共交通などどうにでもなれ」なんだよ。

こんな東京は。めちゃくちゃだろ。

何度でも言って聞かせてやる。都会の人間が「満員電車崩壊しろ」と何度言おうが、何百万人が叫ぼうが、大都会人の大人は、満員電車をぶっ壊せない。しか私鉄野郎は都会人をぶっ壊すことが出来る。

この違いがわからんのなら、日本死ねだのリア充爆発しろだの言うな。

2016-12-03

「正しいことを幸せだと思っている」真面目さと、生きづらさの正体。

私はとても真面目だ。制服スカートを折ったことも無いし、メイクをして学校へ行ったことも無い。課題は確実に出していたし、授業中自分から話したり、先生に横暴な態度を取ることも無かった。

私は母子家庭で育ったが、祖母と兄と母と一緒に暮らしていて、親戚同士の仲も良好だったため、たくさんの人に愛されて育ってきたと自負している。小学生の頃いじめられ、中学校に入ってから全く学校に通えなくなった時も、母が私のためを思い「どうして学校に行かないんだ」と怒られたことがあるこそすれ、無理やり学校へ行けと怒られたこともなく、なんなら「中学三年間なんてこれから人生に比べれはちっぽけな時間なのだからゆっくり休めばいい。好きなことをしなさい」と言ってくれたおかげで、私は無事に高校へ進学した。

多少の家庭問題はあれど、それでも余るくらいに私は愛されてきた。ひきこもろうがどんなに反抗しようが、それでも常に私の心配をしてくれる人が周りにいて、私は本当に幸せ者だと思う。

だが、私は自己肯定感が低い。自分に自信なんて全くないし、取柄といえば真面目なところくらいだと思う。

こんなに愛されてきたのに、どうして私は自己肯定感が全くと言っていいほどないのだろうと、ずっと考えてきた。そして出た答えが、「真面目であること、そして正しいことを幸せだと思っている刷り込み式の考えにある」だった。

私たちは皆、努力すること、我慢すること、気を遣うことが美徳と学んできた。私も小さい頃からそう思って生きてきたし、うちはマナーにも非常に厳しい家庭だったため、それが当たり前だと思っていた。

確かにそれは素晴らしい考え方だし、共存必要なことであると思う。けれど我々は、その考え方にとても苦しめられているのではないだろうかと、今となっては思うのだ。

私は言いたいことを言わないと気が済まない性格で、物事をはっきりと言っている。喧嘩をするときもそうなのだが、いくら怒っても、いくら自分気持ち吐露しても、なんだかすっきりしないことに気が付いたのだ。

言いたいことは言っているし、きちんと相手にも伝わっている。「私はこれが嫌で、こうだからあなたがどうしてそういうことをしたのかがわからない」と、自分意思を伝え、相手も「そうか、わかったよ」と言ってくれているにも拘らず、気持ちが晴れない。伝えた直後はすっきりしていても、後々「あの時自分はこう伝えたけれど、本当に自分はそう思っているのだろうか」とまた思い直し、そうしてまた、相手改善してくれたことも、「やっぱりそれは違う」となり、それを延々と繰り返し、問題が全く解決しないのである

これについて私は、本当に長い間悩んでいた。「相手はちゃんと私が言ったことを受け止めてくれて、改善もしてくれたのに、どうして私は満足できないのか」と、常に自己嫌悪状態で、本当にこれだけで死にたくなるほど悩んだ。

悩んで悩んで、どうしたらいいのかと頭を抱えて悩んでいたある日、答えはふっと降りてきた。

いくら気持ちを伝えてもすっきりしないのは、本音を伝えていないからだ」と。

そりゃそうだろう、と思われるかもしれないが、そこで出てくるのが、「正しいことを幸せだと思っている」なのである

すぱっと言ってしまうと、私たちは常に正しさを基準に生きている。そしてそれこそが一番の問題なのだ

本音というのは、自分の本当の気持ちのことだ。喧嘩をし、自分気持ちを吐き出してもすっきりしないのは、「一般的な考えを踏まえたうえでの本音」だからなのだと思う。

私たちの中には、意識的しろ無意識的にしろ正しさが基準として根付いていて、「本当はこう思っているけれど、それを言うことは正しくない」と、どこかで自然セーブをかけているのだ。そのせいで、本音を言ってもすっきりしない、だって「本当はこう思っているけれど、それを言うことは正しくない。だからこう言ったほうがいいし、そのほうが幸せなのだから、という謎現象が起きてしまうのである

そしてそれが起こる原因は、「真面目さ」にある。真面目な人は、全てのことを正しいか正しくないか判断してしまう。それは、自分気持ちですらその天秤にかけてしてまうのだ。

それはとても恐ろしいことだ。どんなに嫌なことでも、ただ「正しくないから」「正しいから」と、そのふたつで判断されてしまう。この恐ろしさを、私たちは皆持っているのではなかろうか。

真面目な人が鬱になってしまうのは、これが大いに関係していると思う。仕事を辞めたくても、どんなに体調が悪くても仕事をし、学校に行き、頑張ってしまうのは、それが「絶対的に正しいこと」と思い込んでいるからだ。かくいう私もそうだったので気持ちはとてもわかる。自分では気付かないうちに、自殺という選択肢しか残らないところまで自分を追い詰めてしまうのだよね。

だらだらと書いてしまったので結論を書くと、「正しいことが幸せなのではない。正しくないことが不幸せなのではない」ということである

以前母と話したときに、私が「ホームレスを見ると悲しくなる」と言ったら、「案外あの人たちは幸せなのよ。縛られることもなく、気楽に生きていけるから」と言われ、そうかと思った。自分が思っているよりも、他人は不幸せなんかじゃない。本当に心の底から辛い人なんてそうそういないのだ。

「正しさを基準判断し、他人を不幸と決めつける人」に言いたい。

正しいことが、必ずしも幸せではないということ。正しくない人が全員不幸なんかじゃないということ。自分の「幸せである条件、または物差し」――たとえば死に物狂いで頑張ることとか――から外れている人が不幸だなんて、そんなことは絶対にない。

私たちは正しくなくていい。正しく幸せになろうとなんかしなくていい。

私たちには、「不真面目に幸せになる権利」があるのだから

2016-12-02

結局縛られてないと思っても縛られてた

ずっと縛られてないと思っていたけど、思考が持っていかれてる。

無意識に使命感を持っている自分がいる。


自分では縛られてないと思ってたけど、結果として縛られていた。

今そのことに気づいて、ちょっと休憩してる。

ただサボっているだけの気がしなくもないけど、たまにはいいよね?

2016-12-01

ざっくり「関西弁」と言われると「関西標準語」的なふわっとしたものを指す言葉として認識している。

恐らく大阪京都あたりの言葉ベースに、関西圏の人同士なら割とすんなり意味が通じる程度に方言マイルドにしたような何か。

実際に概念としてはそういったものはできつつあるらしい。 → https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%A5%BF%E5%85%B1%E9%80%9A%E8%AA%9E

私は実家兵庫住まい京都なのだが、確かに同じ近畿圏だけど、実家自然と話す播州弁と、

職場関西圏のいろんな地域から来た人たちとの間で自然と使っている、京都弁とも大阪弁もつかない言葉はだいぶ違う。

でも明らかに標準語とも違うから名前を付けるとするなら関西標準語とか関西共通語とか、まあそんな感じになるよね、みたいな言葉



自分も周囲も標準語を話そうとすると「キショい」「サブイボ出る」となって落ち着かなかったり(なんか歯茎や首筋や鼻毛がムズムズする)、

たまに関東から新人がくると、新人が口を開く度にツッコミを入れずにいられない人が社内にも社外にも何人もいたり、

イントネーションの違いを関西風に直しつつ意味確認しないと違和感が気になって会議で話が進まなかったりして、

実際にコミュニケーションの妨げになってしまうので、話し言葉として標準語を使うという選択肢最初から排除されている。

なんならビジネスの場面でうっかり標準語を使うと、発話者が標準語話者であるという前提を知らなかったり、うっかり頭から抜けていると、

受け手無意識のうちに「余所余所しく信頼関係ができていない」「バカにされている」「煽られている」「ケンカを売られた」といったネガティブな印象を持つことがあってマジで危険

関東からきた新人を連れて行ったり、丁寧に敬語で話そうとしすぎて標準語っぽくなった際に、

えらくぶっきらぼうなオッサンから急に「自分(出身は)関東?」と聞かれることがあるが、その辺のスイッチを切り替えるために必要確認だったりするのだと思う。

裏で「やっぱ関東出身アカンわ、しゃべり聞いとるだけでかゆーてしゃーない」などと言う事はあっても、大体表面上は態度をスイッチしてくれる。



そんな環境なので、関東から就職してきた新人も、数年もしない内に(必要に迫られて)自然関西標準語話者になるのだが、

そういった人たちは「関西標準語」は使えても関西のどこかの地域方言を使えるわけではなく、

かといって関東に戻ると「関西弁になってる」と指摘されたりするという妙に宙ぶらりんな感じになるようだ。

http://anond.hatelabo.jp/20161129234656

人によって話題にするポイントが違っていつつ、これまでの持論?をここぞとばかりに開陳する人が多くて、長引いている感じですね。

エバンジェリストって名乗るのなら技術的にすごいやつじゃないとだめだろ派

一般論としては一理あるんですが、日本マイクロソフト個別論としては、ちょまどはテクニカルエバンジェリストとしての責務を果たしているようなので、なんとも。

それから一般論として技術力はGitHubだけから判断されるべきかという論点もあるでしょう。個別論としては、ちょまどのGitHubリポジトリにはそんなにすごいコードが置いてあるわけでもないようです。

派生して

エバンジェリスト嫌い派

エバンジェリストという言葉だけで虫唾が走るさぶいぼ出るという人もいます

ちょまど「オタサーの姫」派

オタサーの姫話題になるときと同じで、下の2つのどちらかもしくは両方があります

とにかく「性だ」と言いたい人も見かけました。

なお「女性エンジニアは〇〇であるべき」「そんなべきなどありません、女性かどうかで区別する時点でおかしい」などさらジェンダーな方向に向かう話題も見ました。

ちょまど嫌い派

彼女のこれまでの(主にtwitterでの?)ふるまいを嫌っている人たちというのもいるようです。元彼がどうとか。法務エディションも追加?

技術コミュニティ内にヒエラルキーを作るべきではない派

ケーキとかサイン会とかおかしい」という意見の根っこにこれを置いてる人もいれば、ケーキサイン会コミュニティ内のヒエラルキーとは別でしょ?の人もいますね。

後者についてはMSコミュニティの悪習っていうか悪臭として、MS公式発表すごい、MS中の人すごい、MVPMS表彰されたコミュニティリーダー)の人すごい、みたいな雰囲気を感じ取り、そこを嫌う人もいるようです。

MVPの人がコミュニティアクティブ活動しているのをDisるのはどうなのかなーと思いますが、でもコミュニティリーダーならむしろMVPではない人のトークを盛り立てていくべきなのかもしれませんね。例のスライド出した本人もどうやらMVPとのことで……。

コミュニティ嫌い派

もっと殺伐としてるべきなんだよ。とか、ヒューッ!見ろよやつの筋肉を!とか。

君の名は。」に潜む仕掛け―「無常」と「自我」の「対決」の物語

すでにこの映画を見て2週間は経つ。鑑賞直後の雑感は箇条書きで記してはいたのだが、一応もう少しまとめようと思い立ったのでここに記す。

おそらくほとんど人の目には留まるまいが、ネタバレを含むので、ここから以下はぜひ本作をご視聴の上でお読みいただきたい。

また、私自身はこの作品を1度しか視聴しておらず、またこの映画に関する情報パンフレット以外ほとんど(ネット上の評論も含めて)目にしていない状態であるので、思い違いや抜け、または同様の結論に至った他の方の評論がある可能性があることを了承されたい。

また、本文の後半でいくつかの仏教用語使用している。が、恥ずかしながら私の仏教知識は全くの独学であり、また理解もかなり浅いものである。もし仏教用語または知識に間違いがあれば、ぜひとも私のツイッターアカウント(https://twitter.com/gachikibou)またはメールアドレス(gachikibou@gmail.com)あてにご叱正をいただきたくお願いする次第である


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君の名は。」は、大変すばらしい映画だった。

これまで、私は新海誠監督映像作品をいくつか観た(すべてテレビDVD)が、どれも見ていていたたまれない気分にさせられるのがいやだった。今回も「新海監作品」というだけで拒否感が強かったのだが、それを良い形で裏切ってくれる作品であった。

この映画の良い点については、映像作品素人の私でもいくつか挙げることができるが、この文章では、私が「この映画が多くの人の心に深く響いた理由である確信した、ある「仕掛け」について取り上げたい。

私がこの映画で見事な「仕掛け」であると考えるのは、「入れ替わっていた時の記憶は夢のように消えていく」という設定である

ご視聴いただいた方にはわかる通り、この設定は脚本構成必要不可欠であり、それ自体が新海氏の作品テーマの一つである「すれ違い」を生むポイントでもある。

しかし私は、この設定そのものが、多くの観客に非常に深い共感を覚えさせるための、きわめて重要な「仕掛け」であったと確信している。



さて、その「仕掛け」について考える前に、まずは一般的な、夢の「記憶」について少し考えたい。

 

夢の記憶は、実体験のそれよりはるかにもろい。

そもそも、人間が見るほとんどの夢は、目覚めた時には忘れられてしまっているし、たとえたまたま夢を覚えていたとしても、目覚めた後しばらくすると、その記憶が朝のルーチンな行事などによって急速に塗り重ねられていく経験を、多くの人はしているはずだ。

そしてそれは、非常にインパクトのある強烈な夢であっても、実は例外ではない。

 

例えば、前日見た怖い夢について友人に話す時、どうしてもその「怖さ」を伝えることができないというもどかしさを感じたことがある人は多いはずだ。

それにはいろいろな理由が考えられるだろうが、そもそもそうした場合に思い出している夢の「記憶」というのは、実際にはその時の夢に対するおぼろげな「あらすじ」と「『感動』を体験したという『記憶』」を元に、目覚めてしばらく経ってから再構築された、いわば「レプリカである

それは本来の「記憶」ではなく、自分自身によって作られた本来の「記憶」の「代替品」である。そのゆえに、自分自身でもその「記憶」を、生の体験として感じられないのだ。

 

では、なぜ人は、わざわざそのようにもろい夢の「記憶」を、再構築してまで取っておこうとするのだろうか。

それは、その人が、その夢の中で何らかの「感動」(それは「喜び」であっても、人によっては「恐れ」であってもよい)を体験たかである

 

ある夢について、人が「いつまでも覚えている(実際には再構築したレプリカを取っておいている)」のは、その人がその夢の中で、時には現実以上に「感動」させられたからだ。

(つまりは、面白かったテレビドラマアニメDVDなどで保管しておこうという行為と同じである

しかし、そのとっておきたい夢の「記憶」そのものは、前述のように実に「もろい」のだ。

「感動」は個人の心にとって極めて重要体験であり、その存在保証する「記憶」は、ある意味自分のもの」でもあるのに、夢の「記憶」は、いくら手放すまいと抱え込もうとしても、どうしようもなく風化し、変質し、最後には消えてしまう。

すると最後には「『感動』を経験したという『記憶』」という、ある意味抜け殻のようなものけが手元に残るのだ。

この感覚を、自覚している人は多いはずである

 

しかし、人間はそれでも夢の本来の「記憶」をあきらめきれない。

なぜなら、強く「感動」したという事実は、人にとって極めて重要からだ。

からこそ人は、無意識にでも夢の「記憶」を、抜け殻である「『感動』を経験したという『記憶』」を元に再構築して「レプリカ」を作り、それを代替品として残すのだ。

たとえ残しても、その「レプリカ」が、本来の生の「記憶」には及ばないにもかかわらず。

 

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さて、ここまで、夢の「記憶」が本来記憶からレプリカ」に置き換わっていく過程を見てきた。

ここまで考えれば、人はもう一つの事実に思い至る。

 

多くの人は無意識のうちに気が付いているのだ。

実は、夢の「記憶」に限らず、人間実体から得られたものを含むすべての「記憶」も、年月が経つと消えてしまう「もろい」ものである、ということに。

「よかったことの記憶は美化される」というが、実際には美化という「脚色」ではなく、後に再構築された「レプリカ」かもしれず、場合によっては「レプリカ」の「レプリカである可能性すらあるのだ。

 

記憶」は、同じ時代の別の「記憶」や、新しい「記憶」、またはその人自身の心境の変化などによって絶えず影響を受け、さらに年月とともに風化する。

そうして形の崩れた「記憶」を、人は心の棚から引き出して眺めるたびに、足りないところや影響を受けたところを成型しなおし、「ああ、あのころはそうだった」と納得して、引き出しに仕舞う。

仕舞った途端に、その「記憶」はまた変質を続け、風化していく。

そのようなものに、果たしてその「記憶」が生み出されたころの、生の部分が残っているだろうか。

 

そしてその「記憶」がもろく変質し、最初のものと変わってしまっているという事実は、最終的には自分のものの「はかなさ」にたどり着く。

自分があの時得た喜怒哀楽の「感動」を保証する大切な「記憶」が、年月を追うごとに変質し、「レプリカ」に置き換わっていく。

さらにその「レプリカ」すら、風化に耐えられずに「レプリカ」の「レプリカ」に置き換わってしまう。

それは人間記憶システム限界であり、そのような「はかない」もの立脚している人間存在限界であり、どうにも抗えない無情な運命である

この残酷な「はかなさ」を前に、人は多かれ少なかれ、悲しみと恐れを抱くのだ。

 

しかし、いくら「はかない」ものであっても、人はやはり「『感動した』という事実」を保証する「記憶」を手放せない。

それを手放すことは、過去の「感動」を手放すことであり、つまりは「自分自身」の一部を手放すことに等しいからだ。

自分自身」を手放したくないという強い思い。これは、人間という存在の持つ、根源的な欲求の一つといってよい。

 

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さて、ひるがえって「君の名は。である

この作品で、主人公たちは人格の入れ替わりという「夢の体験」に近いもの体験する。

入れ替わっている時の「記憶」は、(夢の「記憶」と同じく)極めてもろく、曖昧ものであることが劇中の様々な演出や、女性主人公祖母経験から示唆される。

また、主人公二人が入れ替わっている最中のことを把握しようと相互に残した記録すら、「世界修正力」とも呼ぶべき現象によって、問答無用に消されていくのだ。

この演出は、夢の中で強烈な「感動」をしながら、夢の「記憶」が消えていくのを経験した人々(たぶん非常に多いはずだ)に、夢の「記憶」の「はかなさ」、どうあがいても失われてしま焦燥感と苦しさを思い出させる。

 

しかさらにその後、この設定の巧妙さが控えている。

この映画において、入れ替わりの「記憶」は、夢の「記憶」と同列にできるものではない。

なぜなら、その「記憶」は(時間軸のずれはあるにせよ)現実世界での体験によるものからだ。

ここで視聴者は(特に視聴者層として想定される若い世代にとっては無意識のうちに)、自分の持つすべての「記憶」そのものも「はかない」ということに気づかされる。

そしてその「はかなさ」は、前述のようにこれまで確かだと思っていた「自分自身」、つまり自我」の「はかなさ」へと続いているのだ。

 

 

この作品が、単なる「恋愛のすれ違い」を描いた作品でない点は、ここにある。

この作品の入れ替わりの記憶に関する「設定」そのものが、人が「自我存在のはかなさ」に知らずのうちに触れる、という高度な「仕掛け」となっているのだ。

 

そしてさらさらに、この仕掛けにかかった視聴者は、「自我のはかなさ」を抱えながら、大災害から人を救いたいという強い想いの結実と、主人公二人の恋の結末を追っていくのである

自我のはかなさ」という「無常」を自覚しながら、それでも捨てきれない「感動」を最終的には得るのであり、これをあえてたとえるなら、大乗仏教における「色即是空」の一端を突き付けられながら、それと相反する「自我」を、恋の思いを主軸にした「感動」として体感させられているようなものである普通人間にとって、これが強烈な体験とならないはずがない。

 

この作品を、「何か『高尚な深み』がない」とか、「ヒットする要素が盛りだくさんで鼻につく」といって評価しない人がいるようだが、前述の「仕掛け」が意識されるならば、その評価は間違っている、と言えるだろう。

確かに、ストーリー上はこの作品恋愛物であり、その結末そのものに何らかの「高尚な思想」は存在しない。

最終的に二人は再会し、そして新しい「記憶」が生まれるだけである

しかし、上記の「仕掛け」による、実は仏教的ともいえる「無常」と、それと対立する「自我」を強烈に意識した構成は実に見事であるし、十分に評価に値すると、私は考える。

 

何より、「無常」と「自我」の対立、というよりは映画エピローグの流れてとしてはむしろ「対決」を、恋愛ドラマをもとにしながらも、とりわけ若い世代視聴者体感(おそらく初経験だ)させるなど、尋常映画ではない。

この点で、私はこの映画日本アニメ映画の中でも特筆すべき存在であると考える次第である

 

**************

 

この映画に関して、もちろん上記以外優れた点は数多くある。

今回記した部分はあくまでも私が特に注目した点であり、冒頭に述べた鑑賞直後の箇条書きの全体量で言えばせいぜい1-2割といったところである

海監督の特徴である映像意図的な美しさや、おそらく何度も検討を重ねて練り上げられた脚本など、評価するところはまだまだあると思う。

しかし、私自身まだ一度しか視聴していないこともあり、また映像脚本に関してはより以上に素人であるので、それ以外の評価は他の方にゆだねたいと思う。

 

そして、私はやはりこの映画は、10から20代の「無常」に関して初心(うぶ)な若い世代に鑑賞していただきたい。

この映画で抉り出されるものは、少なくとも2500年ほど前から人類が立ち向かっている、非常に大きく根源的な問題の欠片である

それに触れた経験というのは、おそらくそ若者にとってかけがえのないものになるだろう。

2016-11-30

理不尽について

凝り固まった基準点がない人は仮に自責ではない因果関係が滅茶苦茶な理不尽にあっても、仕方ないとしか思わない。

常識を疑い続ける人は多分理不尽のもの吟味する。



自分理不尽に感じる怒りや不満がなぜそうなのか、という整理。

普段から他責理不尽が発生した場合でも、このように極端な行動方針を取れる自信はなし。

2016-11-28

自分が今まで無事に生きてこれたという事実奇跡しか思えない

私の家にはテレビがないが、実家、友人や恋人の家、旅行先や出張先のホテルなどでテレビをつけると、

何らかの犯罪おかしたり、あるいは巻き込まれて死んだり怪我をした人についての報道がよくされている。



それを見るたび、私が今まで無事に生きてこれたという事実奇跡しか思えなくなる。

サーカスの綱渡りのように、恐ろしいほどギリギリバランスを保っているように感じて怖くなる。



私はとても不注意な人間だ。

病院に行ったことはないが、多分何らかの発達障害なのではないかと疑っている。

しか生活に支障はない(忘れ物は多い)。

今は、私は自分という人間特質をかなり把握していて、問題が起こらないように気をつけて生活できている、と思う。



子供の頃は本当にひどかった。

どういう訳なのか今の自分から想像がつかないのだが、とにかく自分の身を危険晒したがっているとしか考えられない行為をしていた。

例えば…



学校彫刻刀セットをもらったら、自分の膝で試し切りをして血だらけになる。

ごつごつの岩に高いところからダイブして全身血だらけになる。

あえて車のドアやエレベーターの扉に手をはさむ。

道路で、車が通りかかると走って近づいて、轢かれそうになるスリルを楽しむ。

風呂溺死一歩手前まで息を止める一人遊びをする。

少し高いところから飛び降りて、頭から着地する。



思い出しただけでもこんな感じだ。多分忘れていることもあるので、まだまだ余罪?はあるだろう。

頭は3ケタを超える回数ぶつけていると思う。ひどい場合には車に轢かれてふっとんで頭から着地して、救急車で運ばれたこともある。

私の親は教師で、すごく厳しかったが上記のことで心配はされても怒られたことはなかった。

馬鹿ではあったが、わざとやっていたわけではなかったからだと思う。

田舎で、学校は少し荒れていたしヤンキーみたいな子もいたけど、

親に迷惑をかけたらまずいという抑止力がはたらいて、自分は品行方正を心がけていた。



今は20代後半だが、今までずっと健康のものだし、犯罪おかしたり巻き込まれたりすることなくここまできた。



犯罪などの危機(したりされたり)を回避する能力というのはどのようにして養われるのだろうとよく考える。

私のような不注意な人間が、今までどうして無事でいられたんだろう。

それは、やっぱり環境だろうなと思う。

ここでいう環境というのは、家庭のことだ。

私は、前述したように子供の頃はかなりヤバめの奴で変な人オーラ全開だったと思うので、結構嫌がらせをされたりした。

でも、両親の仲が良くて、いつでも見守ってくれて励ましてくれたから、

無意識のうちに色々な場面で踏みとどまって危険から逃れることができたのだと思う。



こういった表現には反発をおぼえる人がいるかもしれないが、

今、私や君が立っている「こちら側」と、犯罪に関わってしまった人がいる「あちら側」の境目は

きっとすごく曖昧で、けれど確実に存在する。

私は、「あちら側」に行きたくないし、他の人にも絶対に行ってほしくない。

だけど、全員が恵まれた家庭に生まれることはできない。



私は結局親と同じように教師になった。

まだまだ未熟でできることも少ないが、自分の生徒たちが「あちら側」に行かないよういつも気を配っているつもりだ。

だけどニュース今日も「あちら側」に行ってしまった人のことを報道しているのだろう。

私はちっぽけな一人の人間に過ぎないので思い上がりも甚だしいのだが、そういうことを考えるとものすごい無力感に襲われる。

そして、自分が今にも「あちら側」に行ってしまいそうな気がして怖くて仕方なくなる。




私と同じように考えている人はいるのだろうか?

銀英伝作中でヤン・ウェンリーが言っていたことで唯一残ってる言葉。正確ではないけど。



自分の中の正義で動いている人は、他人ルール強制するのでそれが納得されるまで引き下がらない。

からその人物ルール意味がなくても納得させると引き下がる。

またそういう人は自分理想にこだわるのでこちらが手段を変えると現実追従できなくなる。



みたいな内容だった。これはほんとそうだなあと思う。

認識レベルから発生する対立問題殆ど理想へのこだわりにあるんじゃないかと。

結局自分の中の倫理はこうなんだし、世界がそうなんだからお前もそうに違いない、

という意識からなんでお前はそうなるんだ、という不満感が発生する。

とりもなおせば結局世界規定しているのは自分で、世界ありのままの姿を受け入れていない。

世界ありのままですよという哲学ではなく、自分の中に落とし込んでいるかというメンタリティ問題

俺がこうなんだからお前もそうしろ、という意識無意識的に各人にある、という話。

2016-11-27

こんな映画を撮れ『戦争感情症』

どうせ反戦映画である、といっても戦争肯定映画であると言ってもバッシングは飛んでくる。

戦争ってなんですか、わかりません、という顔をした戦争感情症の人たちが登場する実験映画を作ればいいんだ。

人が死んでも、あら。いまどうして死んだのかしら、とか言っちゃうとぼけた人が出てきたりする映画を。

戦争必要なことがわかってても、それが醜いことだったり悲しいことだという、感情が浮かばない戦争感情症の人たち。

彼らは日常では泣き悲しむが、その重大さが転倒していて、少しの悲しい出来事で涙を流せる代わりに一切の戦争が関わる事項が感得できない。

戦争にまつわる負の概念が抜け落ちているので、死に関してもゴミ捨てにゆ感覚で出征してしまう。

ところが生活は苦しくなるし、身内は減るしで、あれれ、という感じになってゆく。どうしてか無意識に涙が流れちゃったり。

そこで戦争やめませんか、楽だし、とか言い始めるとぼけ首相が現れ一旦戦争は辞めるんだけど、

やっぱ需要まれるし再開しますね、などと言いつつ再び戦争が再開されてしまう。

メッセージ性を避けるところにメッセージ性をもたせる作り。戦争は主軸じゃなく、「意味」ってなんですか、という意味のない問いかけ。

感情がなければ利己的になるのか、利己って感情ですよね、今作には感情がないので気まぐれです、というへそ曲がり感。

2016-11-26

#夢小説あるある

みんなの黒歴史

夢小説あるあるwww

夢の世界へようこそ……貴女は114514人目の……
夢小説
夢の世界
夢小説サイト
ようこそ
来てくれてありがとう
貴女は114514人目の……
アクセスカウンタ

これ雰囲気づくりだよ。夜景の綺麗なレストランデートの締めにすると見せかけて、よい雰囲気になったらホテルしけこむみたいな(実際そんなことするのか知らないけど)。今から夢小説に没入する人のための雰囲気づくり。わかるか。

「きみの名前を教えて」

名前変換を促すポップアップウィンドウやらのアレ。

これも雰囲気づくりだよ。自己紹介だよ。ここから夢小説を読む心の準備をさせてくれてるんだよ。大方の夢小説は(偏見に満ちているだろうけれども)二次創作で、既存の(原作の)キャラクターとの恋愛なんだろ? 好きなキャラクターから名前を聞かれてなにが悪い。歴代ポケットモンスターでも主人公博士から名前を聞かれるんだからな。あれで(あっ、わたしポケモントレーナーになるんだ)みたいな気持ちになるんだよ。促しているんだよ!わたしは今からこのキャラクター恋愛するんだよ!

「ほう……おもしろい」

夢小説の)主人公が、なにか(主人公のかけ算の)相手にとって「おもしろい」行動をとったときに言われるやつ。

主人公補正だよ! 「名探偵コナン」ではコナンくんが行く先々で(あるいはどこにも行かずして)事件に遭遇するだろ。あれはそういう物語なんだよ。事件に遭遇しなきゃコナンくんは「名探偵」にはなれないんだ。いくら名探偵といえど事件をかけらも知らなきゃ、解決のしようもないだろ。恋愛もの夢小説で、主人公相手と両想いになるためには、相手主人公を知らなきゃいけないんだよ。きっかけだよ。「ほう……おもしろい」はきっかけだよ! 主人公を知らずして、相手を知らずして、どう両想いになるんだよ!

主人公の外見や性格や強さのこと

美人すぎる強すぎる完ぺきすぎる胸が大きすぎる性格がよすぎる云々。

これも主人公補正だよ! 言わば(もしかしたら作者の)理想の姿(かもしれないもの)だよ!

コンプレックスないの? かわいくない弱い賢くないなにもできない胸が小さい性格が悪いって、実際にどうか知らないけど、なにがしかコンプレックスありませんか? わたしにはあるね。胸が小さいし小さなブラジャーがないし「お客さまのサイズに合うブラジャーのとり扱いはございません」って大人になっても言われるし。夢小説を書く(読む)ときくらいボン・キュ・ボン美人でもいいじゃないか! って思うね。

それでなくたってだな、キャラクターとの釣り合いのことを作者が考えたかもしれないんだぞ。完ぺきすぎるキャラクターに、あまり凡庸すぎるキャラクターは似合わないみたいな。ハリー・ポッターの宿敵の闇の魔法使いヴォルデモートなんか若いころは「ホグワーツ開校以来の秀才」で超絶美形で人心掌握もできて、つまりなんでもできるんだよ。(おそらく)唯一の欠点といったら「愛を知らなかった」ことだよ。そんなキャラクターに「おもしろい」と思われるには(愛を教える……なんて傲慢! でも教えたいし助けたい! あわよくば交際したい!)、よほど人間ができている(性格がよい)とか同じくらい頭がいいとか人心掌握最高とか美形とか、そういう特別な設定が必要だとは思わないか? 繰り返しになるが、わたしは思う。

主人公強いのにいざというときに力を発揮できなすぎ

そのまま。こういうとき主人公女性のことが多い(偏見だけど、もしかしなくても夢小説二次創作であったりその主人公女性であることが多いんだな)。

ヒロイン補正だよ! ヒロインつったけど別に男でもいいんだよ。でもヒロイン補正だよ。劇場版名探偵コナン」を見たことがあるか? 蘭ちゃん、空手強いよな。てかあの世界のメインキャラクター武術嗜みすぎよな。それはおいといて、都大会優勝レベルかいって、拳銃かなんかの弾を避ける程度には強いんだよ。実力者だよ。でも、いざというときには油断したりしてなかったりして、敵に捕まったりにとり残されたりしたんだよ。こういうの、物語の展開のためっていったらそのとおりだけど、そんなもんだし、やっぱりヒロイン補正なんだよ。いいじゃん、好きな相手に助けてもらえるんだよ。強すぎると助け甲斐がなさそうだけど、ギャップ萌えとかあるじゃん。たまに見せる弱い一面にドキっとさせられるんだよ。素直に受けとろうよ。

主人公弱いのにでしゃばりすぎ

戦力として数えられないほど弱いのに前線に立ちたがるみたいな。拒否されると、こっそり前線の近くまで行くみたいな。そんで、そのせいで(主人公の)味方の勢力が不利になったり主人公が捕まったりするんだな。

これもヒロイン補正だよ! 主人公補正でもあるよ! なにがどれがとか言えないけど、「できないからってあきらめるわけにはいかない」とか、なんかそういうことあるじゃん。やっぱり物語の展開には必要だったりして、これをきっかけに主人公が成長したりしなかったりするんだよ。失敗は成功の元って言うじゃん。見てるとイライラするけど、あとあと「おまえ成長したな」って思えるときがくるかもしれないんだよ。それに弱くてでしゃばることが、必ずしも悪いことになるとは限らないんだよ! 物語の展開にもよるけど。

主人公過去が壮絶すぎる

悲劇的な殺人事件の唯一の生き残りだとか、殺人犯の子どもだとか、ロミオとジュリエットだとか、あまりの美しさに嫉妬した継母に家を追い出されたとか。なんか壮絶な過去

これも主人公補正だよ! (夢小説の)物語の展開には必要になる(かもしれない)んだよ! ハリー・ポッター過去は壮絶だぞ。史上最悪の闇の魔法使いヴォルデモートに両親を殺されたばかりか、そのヴォルデモートを赤子の時分に撃退したんだぞ! 親は友だちに裏切られてるし、なにかあるたびに額の傷は痛むし。でも、そんな過去がなかったら『ハリー・ポッター』の主人公にはなれなかったんだぞ。その過去が壮絶な(夢小説の)主人公だって、もしかしたらその壮絶な過去がなかったら、その夢小説主人公じゃなかったかもしれない!

主人公独り暮らししすぎ

小学生中学生や、それなのに、両親が海外で働いていたり亡くなってたりしてて、たくましく一人で暮らしてて、生活力がすごい。ことがある。みたいな。

知るかよ! たぶん主人公補正だよ! 少年マンガとかで、親が出てこないことあるだろ? 子ども物語を描きたいときに、(言っちゃ悪いけど)両親という小道具邪魔になることもあるんだよ。都合がいいんだよ! 作者に!

主人公キャラクターと仲よすぎ

二次創作で、既存キャラクターと……ってことが多い。過保護なまでに友愛を注がれていたりいなかったりする。

主人公補正だよ! 主人公はなにの主人公かって、夢小説主人公だよ! 実在しない(悲しい!)キャラクターと、せめて夢小説のなかでくらい仲がよくたっていいじゃん! こんな友だちいたらいいなーとか、思わないの?

世界トリップものとかで主人公未来を変えすぎ

二次創作で。「未来を知っているわたし未来を変えるわけにはいかないの」と悩んでいることもある。

あなたなにを読んでるの? 夢小説だよ? 異世界トリップもの! ほかのなにより明白に「その世界存在しないもの」が紛れこむんだよ。てか異世界トリップものじゃなくてもだね、夢小説主人公って、そういうものじゃないの? なにかしら変えちまうんだよ。こういうものなんだよ。だって原作に、あなたいないでしょ? でも夢小説主人公っていうのは、たいていあなたで、原作にいなかったキャラクターなんだよ。いいじゃん、未来を変えたって。わたしハリー・ポッターに倒されるヴォルデモートの未来を変えたいというか過去から変えたいというか、そもそもヴォルデモートになってしまうこと自体を変えたいというか、そういう気持ち、あるよ。

神さまノリ軽すぎ

「ごめんね☆ ぼくのミスでうっかりきみをあれこれしちゃったから、お詫びに異世界へ連れていってあげる」とか。

あなた「神さま」を笑うの? 笑えるの? ノリ軽すぎとか突っこんでよいお立場ですか? 創造物ヒトだよ。脆くも儚い、神の創造物だよ。どんな態度で主人公に接したっていいだろ。これは神さまの、いわば気遣いだよ。創造物ヒトが怖がらないように発狂しないように、精神の安寧をすら気遣って、それでいろいろしてくれるんだよ。

宗教とか勧誘とか、そういう怪しい意図は、ここには一切ございませんし、わたくしそういうのの一員ではない。

黒歴史っていつのこと?

夢小説あるあるwww じゃねーよ。

夢小説あるある」はネタなんだけど、使うひとにとっては、おおむね三種類それぞれの意味合いがあると思う。

そして、それを見たひとの楽しみ方は、おおむね二種類だとも思う。

夢小説あるある」というネタである。使うとき、「こういうことがあった」「こんなんなんだろうな」「これあるある」という感情がある。それを、懐古や侮辱共感を狙って、Twitterなどで発信する。

わたしネタにする。ここであげたものは、わたしが通ってきた道で、歩いている道だ。現役の身としては、「こんなことがあったよね」という懐かしさを抱く。そして、これがすべてではない。

ところで、夢小説を好きだったことのないだれかは、どうやってこんな「夢小説あるある」を知るんだろう。まあ偶然にも夢小説サイト出会った、なんてことはあるかもしれない。あるだろう。WWWは広く開かれているから。でも、だ。わたしは「夢小説あるあるネタで「夢小説あるある」を知ったひとも、いると思う(それが「#夢小説あるある」の形をとっていたかは知らないけど)。そして、それをそのまま、偏見とともに受け入れ、侮辱意味で(無意識かどうかを問わず)使ったり使わなかったりする。

使われ方には三通りあると言った。黒歴史偏見、そして現在だ。この道を、まだ歩んでいるひとがいる。わたしもその一人だ。一例を挙げたけれど、あんもの、ありふれているんだ。黒歴史と感じて恥じ入ることはあるかもしれない。かつての自分の作文を、目の前で読みあげられたら、あるいは自ら読み返したら、恥ずかしくもなるだろう。こと年を経るにつれ(幼稚園やら小学校で書いた作文は、大人になってみたら、支離滅裂だったり言葉が滅茶苦茶だったりするだろう)。そんなものだと思う。夢小説だけじゃなくて、文章だけじゃなくて。あんな下手な料理を人に振る舞っていたのかとか、あん掃除でやり遂げた気になっていたのかとか、あんボールの蹴り方をしていたのかとか。この日記だってわたしの恥ずかしい思い出の一つになるかもしれない。

夢小説あるある」が黒歴史意味を持っているあなたに聞きたい。その黒歴史、いつのお話ですか? その黒歴史を歩いていたときあなたはおいくつでしたか? あなたは今おいくつですか? 黒歴史黒歴史って言うけど、作文だって下手な作文をめいっぱい書いてうまくなるんだよ。幼稚園児に、「きみはいつか大学研究論文を発表するんだよ」って言ってごらんよ。わたしは信じられないよ。わたしはその黒歴史(下手だったり恥ずかしかったりするやつ)を積み重ねて、今はかつての面影もないようなウェブサイトをつくった。今ネタにされているホームページの面影なんかないからな(いにしえのホームページが悪いわけではない。ただわたしの好みの問題です)。「ほう……おもしろい」は、古今東西、あらゆるところで使われているんだ。なにも夢小説だけじゃない。プリキュアでも仮面ライダーでも、ちょっと自分にたてつくやつには「ほう……おもしろい」で余裕の笑みを浮かべるんだよ。わたしは今も使っているけど、昔よりはうまくなったと思うよ。

あなた黒歴史は、あなた過去だ。いろいろな人に黒歴史はあるかもしれない。けれど、それは今じゃない。スマートフォンOSメジャーアップデートの頻度をみてみろ。VRが家庭にやってきた。HTMLCSSバージョンを重ねたし、ウェブサイト文字コード指定の主流はUTF-8になった。というか、ガラパゴスケータイじゃないんだよ、今は。スマートフォンだよ。かつて(もしかしたらそうかもしれない黒歴史をつくっていた人たちが、今まで(夢小説を)つくるのを続けてきて、どうして変わらないと思う? 実際、JavaScript仕様変更にともなって、元祖(おそらく)ドリーム小説用変換ツールDreamMaker」は、あまり推奨されなくなったよ。でも、同じJavaScriptでありながら現代基準aliceもあるし、PHPを使うdream.phpというツールもでてきた。名前変換機能のついた投稿サイトpictMalFemBLGLに特化した姉妹サイトあり)もある。初めがどうだったかなんて知らないけど、夢小説は「キャラクター♂×自分♀」だけじゃない。今はいろいろな楽しみ方がある。二次創作けが恋愛けが自分♀だけが夢小説じゃない。

笑わないでほしい。侮辱しないでほしい。夢小説に、こんなあんまり偏見を向けないでほしい。たとえ今つたなくとも、続ければうまくなる。再三になるが、人は進歩する。成長する。成長しうるんだ。続ければ。はじめたばかりのひとが、いきなり職人レベルのものをつくれるなんてことは滅多にない(あれば、それはそれでおめでたいことだと思うけど)。たいていは、つくり続けて、こつこつと上達していくんだ。けれど、笑われたり侮辱されたり、偏見を向けられたりして、「夢小説を好きでいること自体が、書くことが、読むことが、恥ずかしい」と思うひとがいる。わたしは「夢小説あるある」をあげたけど、雰囲気づくりだし、お化け屋敷におどろおどろしいキャッチコピーがつくようなものだし、あるいはありふれた要素だったりするんだよ。ちっとも恥ずかしいことではない。でも、恥ずかしいと思って、やめてしまったら、それ以上うまくなることはないし、それ以上楽しむことも、夢小説自体を楽しむひとたちと楽しみあうこともできなくなる。

夢小説について偏った知識しか持たないひとには、侮辱するのではなく、今の夢小説のことを知ってほしいし、できれば読んでほしいとも思う。夢小説が気になっているひとも、恥ずかしがらずに、まず読んでみてほしい(書くことから始めるのでもいいけれど)。

夢小説は、侮辱されるべき創作ではない。恥ずかしいものでもない。

バラエティ番組を見ると、職場にいる気持ちになる

最近バラエティ番組を見ると、モヤっとした気分になるのだが、職場雰囲気に似てるからだと思った。

番組を見ていると無意識のうちに、「空気を読まなくちゃいけない」「雰囲気を乱さないように行動しなければならない」」「気の利く発言をして盛り上げなければならない」「目上の人を立たなければならない」…といった気持ちになり、まるで職場にいるような気持ちになる。

なぜかテレビ出演者自分を重ね合わせてしまい、落ち着いてテレビを楽しめない。

なので最近ラジオばかり聴いている。

ラジオ基本的に少しの出演者番組を回しているので、安心して聴いていられる。

2016-11-25

日本人の脱ノンポリ化、左翼志向がまったく新しいサブカル(サブカルチャー)の萌芽になるかもしれない

https://www.amazon.co.jp/七二-仮-高山直人-ebook/dp/B01DDAUVMA

貴方は読んでいるかどうかも怪しいかもしれないが、かつて、私は七二(仮)という電子書籍文化カーストXというもの提唱した。

詳細は実際に書籍を読んでほしいので省くが、早い話が、エリートヤンキーオタクのいずれにも属さな文化階級で、わかりやすく云えば、理性と精神価値を重んじる階層で、エリートとは正反対性質で、精神価値を重んじるお宅と、理性を大事にするヤンキーを足して2で割ったものだ。

今回はそれについて現代視点で少し考えてみよう。

大企業が仕掛けたり、ましてや政治行政実施するわけではないのに、ネットと連動する形で自然と大きく盛り上がった文化現象と言う風に考えれば2000年2010年代の「オタク」も今の「デモ」も類似している。そしてどちらも、世の中の支配的な構造に圧迫された人たちが参画しまくったのだった。

OOAだけでなく、高齢ネット原住民ファッション関連の騒動活躍したこと、東海道新幹線から和製自爆テロリスト」が生まれことなどを考えると、日本の主流もノンポリ優勢の構造ではなくなりつつあり、むしろ今の左翼パルチザン化の流れに合流するような兆しを私は感じている。

いずれも社会の日陰者扱いされた鉄道オタク文化バイクオタク文化大衆文化にぶち上げた「流れ」の当事者たちがもしも左翼に合流するとどうなるだろう。すでに日本でも韓国10分の1の規模のデモは頻発している。「自分がでネット原住民流行煩い大人から無意識バイクお宅にはまっていた人」がこれに加わるとどうなるだろうか。

日本社会の抱える相次ぐ問題である汚職裏社会スパルタ労働(ブラックなんて可愛い言葉はもうやめよう)に続いて、鉄道業界にも政治イデオロギーがらみの黒い噂が立ち込めているという。所謂ネット原住民空間はともかくとして純粋鉄道オタクさえ右翼バッシングが多いのは、単に右翼憎しという日本人としての公憤や鉄道の印象を悪くされたオタクとしての義憤だけでなく文化への干渉があるからだと思う。裏社会沙汰で自身が影響を被ったり、私鉄解体されるために遊び場所鉄道からなくなることもあると思う。

既にJR北海道とか認知症右派団体がらみの大炎上があるわけで、今後もこれに匹敵したり凌駕する騒動汚職が続くことは必至なんじゃないかと思われる。そういう繰り返しがあれば、不満によって私鉄否定論支配的になり、ネオリベに怒りの矛先が向かうようなこともありえなくないだろう。

ポストファミコン世代とかリア充世代とか、30代以上のオタクからすれば「自身弟子左派かぶれ」な人間がすでに左翼の側にある。同じく強烈な文化発信地であって同じように1980年代2010年代時期にトップダウン的な潮流のもとで大衆文化化が進んだ「デモ文化オタク文化左翼(リベラル含み、ネオリベ除く)が手を結ぶ」可能性もありえなくはない。

そういうものを「公のお墨付き」と位置付けて、往年の西側諸国のように大衆文化国民コントロールを円滑する道具にしつつ、対外PRのための政策芸術として用いようとしていた日本の政治からすると、サブカル大衆文化という大きな文化軸に矛を向けられることだけは避けたいと思われる。

2000年代福知山線事故以降、日本エスブリシュメント層は鉄道オタク的な文化嫌悪するようになり、それまで叩く側にあった車・バイクサブカルチャー文化を急に持ち上げだした。そしたら2000年代後半にエスブリシュメント層によるノンポリ道路文化迎合政策鉄道文化政治思想家潰しが激化し、1990年代には等しくのいかがわしいとされた両者は全く別の道をたどった。

一方は冷遇されたためにプロテスト積極的集団となり、一方は厚遇されたために御用化したが、この二極構造が、今まさに変わっているさなかにあると思う。それがどうなるのか気になっているため、最近社会運動テロシーンの動向にはずっと注目しているのだ。

セックスしたい」が口癖になってしまった

家、会社路上、1人でいると大体無意識に口をついて出てくる

そりゃあセックスはしたいけど実際セックスしたい連呼するほど高ぶってるわけでもないんだ

人前で言っちゃう前に治したいがどうしたらいいのか

なんか別の言葉で上書きすれば良いのかな?

http://anond.hatelabo.jp/20161124183227

そうか?

使用する年間日数で割ってみれば携帯代や定期代よりもはるかコスパいいし

自分の使う時間の大半を占めるものコストを掛けるのは贅沢とは思わないけど

無意識ストレスって問題化しづらいだけあって同時に解消された際はかなりのリターンが返ってくる

本人は気づかない蓄積毒を普通に行動してるだけで喰らい続けるようなものから

権太はなぜ二度死んだのか?~この世界の片隅に狸を見出す

先日「この世界の片隅に」の感想を書いたけど、その際引き合いに出した「平成狸合戦ぽんぽこ」について、

せっかくだから何となぁーく感じてたことをだらだら記してみるよ。



「この世界の片隅に」を観て、眠れる狸が目を覚ました



自分の書いたもので恐縮だけど、自分は「ぽんぽこ」のテーマは「(それでも)生きていく」だと思っている。

自分たちを取り巻く世界環境価値観社会文化)の変化の中で、人はどう生きていくのか、

またどう生きてきたのかを、狸に託して描いているのがあの映画だと考えてるよ。

学生運動とかの風刺ってのはその通りだと思うけど、少なくとも自分もっと普遍的ものを描いていると思う。)



自分たちを取り巻く世界の変化(この映画では迫りくるニュータウンの開発だけど)に対して、

狸たちはいろんな立場をとるんだけど、この映画場合はそれぞれ分かりやすく、



権太=世界の変化に抵抗する者。原理主義強硬派

化けられない狸=世界の変化についていけない、取り残される弱者

正吉(主人公)=世界の変化に(望む望まざるを問わず適応する、適応せざるを得ない者。



てな感じで描かれていると思う。

別にどれが良くてどれが悪いとかじゃなくて、それぞれが世界の変化に対して「(それでも)生きて」

いこうとした形の現れ方の違いなんだろう。(人間もそうじゃないすか?)



で、本題に戻るけど、映画で権太率いる強硬派機動隊ガチンコでやりあうわけ。

そしてそのやりあう場面の視点が変わり銃声がした後、画面が切り替わって、機動隊が狸の死骸を

山積みにする場面がくる。これ、映画の見せ方としては明らかに「死」を意味するもの

権太たちは確かにここで死んだはずなんだが・・・



しかし、狸の死骸はその後むくむくと動き出し、権太たちは復活して、最後に大きな首(釣瓶落とし)と

なって工事現場で再び暴れるのである。そして迫ってきたトラックの前に立ちふさがり、キッと睨みつけるのだが、

無惨やなそのまま轢き殺されるのだ。これで本当に死んじゃったわけ。



正直なんでわざわざ復活させてまた殺すのかよく分からなかった。

狸寝入り」の伏線を回収するためなのか、「特攻」のメタファーなのか…。



ただ、この映画を「自分たちを取り巻く世界の変化に対する云々」という視点で見れば、

きっとこんなじゃないかなぁ~と思うんだけど、つまりあれはもう互いに相容れない世界同士のぶつかり合い、

原理主義同士の争いってなわけ。そういうものはどっちかが滅ぶまで戦い続けます



それまでの狸vs人間の戦いは、狸が化かして人間が驚くって構図だったんだけど、

狸と人間対立していても、狸も人間も化け物は「怖いもの、驚くもの」という価値観を共有してたわけ。

対立はしてるけど共有もしている、ある意味矛盾を抱えながらバランスとってた関係

機動隊との戦いはまだその段階だったってこと。



でも、最後トラックは、あれは価値観の共有ができない完全に対立した存在

から、化け物をみても怖いという反応がない。今までだったらトラック側が「うわぁーー」とか言って

ハンドルを切っちゃうんだけど、こいつはそのまま突っ込んじゃう。

そして権太はこの相容れない存在同士の文字通りの死闘に破れ、本当の死を向かえることになる。



って考えてます。もちろんこじつけもいいとこなんだけど。



でも、これは映画の話だけど、同じような構図は、グローバル化だとか移民だとか領土争いだとか格差社会だとか、

まさに今の世の中のいろんなものに当てはまるんじゃないかなぁ~。

凄まじい勢いで身の回り世界が変化していって、いたるところで侵食や衝突が起きている。

そんな中で自分たちはどう生きていくかってことを、実は無意識にみんな不安に思ってるんじゃない?



そして、かつて戦争という、それこそ圧倒的に自分たち支配し大きな変化を強いてきた存在があった。

そんな時代に「(それでも)生きて」いた人たちがいた。

この世界の片隅に」を観て、なんかよく分からないけど心にグッと来るものがあるのは、そんな無意識に訴えかける何かがあるからじゃないか

から、「この世界の片隅に」をたくさんの人が求めているんじゃないか

2016-11-24

英語圏の人が話す英語を全く聞き取れない件

シンガポール語学留学に来て4日目。

早起きもできるようになったし、ようやく授業のテンポにも体が追い付くようになった。

先生英語もちゃんと聞き取れるようになったし、少しずつ話せる友達もできている。

(なんで英語勉強シンガポールを選んだかは突っ込まないで下さい…)



だがしかし


どうしても


生徒の言っていることが全く理解できない。


話している内容が理解できないのではなく、そもそも何について話しているのか

全く聞き取れない。

特に韓国中国などアジア系フランス系の人のなまりキツイ。全く理解できない。

それが思いのほかストレスだった。

思い起こせば日本に生まれ日本で育った私は

学校英語を習っていたが、今日今日までずっと本場アメリカ(きっと時にはイギリス)のネイティブ発音しかいたことなかった。

しかしたら

英語」=アメリカ人が話す言葉

という方程式無意識のうちに組み立てていたのかもしれない。

そういえば、センター試験でも、発音アクセントなど当時は「無意味」だと思っていた試験もあったな、と思い出した。

ふと

きっと日本英語教育は、「育ちの良さ」をアピールしたいがための教育方針なのか?と思った。

なぜそう思ったか

マイフェア・レディ(http://movies.yahoo.co.jp/movie/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%87%E3%82%A3/21943/)

を知っていたからなのかな…。

このご時世、階級存在する国なんてほぼわずかだけれども。

だとしても、恐らく我々日本人には

欧米に「追いつけ・追い越せ」の精神って自分たちの中に無意識的に植え付けられていて

イエローモンキー」なんて言わせねえよ!っていう気持ち

標準的英語発音を教え込ませているのかもしれない…。

なんて

思ったり。


英語がなまっているか軽蔑しているとかそういうことは全くなくて

ただ、今は

本当に彼らの訛りも含めて気持ちをしっかり汲みとれるようなレベルに到達できるように努力しようと思う。

http://anond.hatelabo.jp/20161124163658

有益発言をしている人間がいるという期待が一定水準以下になると

無意識スルーできるようになってなんか逆に快適になるんだよね

まともなことを言ってる人が目立つようになって勝手に焦点がいくようになるというか

2016-11-23

若者はなぜ我慢が足りないのか?

たぶん若者(ざっくり言うとバブル景気終焉後の世代から)は、

死だったり絶望だったりを意識してしまってるからじゃないかなー。

もう無意識的に悲観的な見方がしみついちゃってる世代なんだと思った。

から仕事も3年未満で辞めちゃう

それどころか3年も我慢してる場合じゃない、その間に事態もっと悪くなる可能性を想像ちゃうから

         新卒入社後、たった一年間で転職予定のとあるゆとり世代より。

2016-11-22

年賀状

年賀状毎年書く。今年はイモ判作って年賀状こさえようとおもって。イモ判ていうのはイモを彫刻して判子にすることです。それで公民館にイモ判の講師が来てイモ判をおしえてくれるっていうから行ってきた今夜。まあ案内状にはイモを一個持ってきてくださいねってあったんだけど何かなんとなくいちおう2個イモをもってった。それで机の上に2個ならべておいたらイモ判の講師

「え何やってんですかやめてくださいよ。あなたみたいな素人の分際で2個のイモを用意してくるとか何考えているんですか。そうやって2個のイモを持ってくるとね2個目のイモをあてにして1個目のイモなんて失敗してもいいやって気持ちが生まれるでしょう。イモ削るたび失敗するかも成功するかもとか思ってどうするんですか。たった一個のイモでちゃんとつくろうと思いなさいよケナガマンモス。」って言われた。

イモはたったの2個だけなのに、そのうち1個をわざわざ講師の前で故意に失敗作にしようと思うなんてありえる? 普通はそんなこと思わない。でも結果的に2個イモ用意したってのはつまるところ、無意識適当にやってもいいやっていう気持ちが働いていたんだろうなあ。そこをイモ判の講師は見抜いたのだろうなあ。

こういうことっていろんなことにあてはまる。一瞬一瞬を大事にするっていうのは難しいものだなあ。